2020/05/04

「ある不倫」司馬遼太郎短篇全集三

明子は、中年にさしかかり、私の人生はこのままでいいのかと悩んでいた時、松田秀夫という一風変わった公務員と不倫をする。駆け落ちをして、すぐに金がつき、それまであった舞台の主人公のような気持ちも失せ、家に帰る。旦那は明子を責めることも殴ることもしない。
んーどうでしょうか。これは駄作でしょう。戦後の夫婦関係を描こうとしているのだけれど、いまいちね。冷めきった夫婦がラストで明子をおさえながら狂おしいセックスで終了する。
戦後も遠くになって、新しい生活が流行りだした時期、まさにミッチー・ブームの時代。大衆社会の幕開け的な時代。
そこには、思い描いた理想とは違う現実があって、でも結局は日常に埋没せざるを得ない弱さをもつ大衆。
まあ、司馬さんにとっては一番嫌いな種類の人間像でしょう。
司馬さん、あんまりこういった「純文学的」なものはお得意ではないかな。「白い歓喜天」も夫婦がテーマだったが、これもどうもよくない。


2020/05/03

「最後の伊賀者」司馬遼太郎短篇全集三

ヒダリは服部半蔵の息子、服部正就を伊賀の棟梁として認めたくはなくて、一揆をおこす。その責で正就は無役になる。伊賀衆はちりぢりになり、一揆の時は怒り、猛々しかったのにもかかわらず、終わってみると幕府の従士とかわらなくなってしまった。ヒダリは一揆の首謀者として死罪になるが、逃亡する。
正就は大坂夏の陣で挽回するべく出陣するが、行方不明になる。
んーまあまあおもしおいっちゃおもしろいけど、ぼくの趣味ではないなあ。
司馬さんの忍者ものは暗い。その暗さが魅力なのかどうかわからないけど、司馬さんの小説の魅力というのは、ユーモアをばかばかしいぐらい丁寧に書くことにあると思っている僕は、忍者ものはいただけない。

2020/05/02

「けろりの道頓」司馬遼太郎短篇全集三

道頓は秀吉に自らに伽をさせているお藻を譲る。
「関白に声をかけられたぐらいで、あるじはよろこびすぎる。天下人と地下人のちがいは、大慾があるかないかということにすぎぬわい。あるじは、自分の値うちを知らなすぎる」と道卜は思う。
道頓、東横堀川と木津川を結ぶ東西に堀をつくるように命じられるが、秀吉は死んでしまう。そこで道頓は自ら金を集めて堀をつくることにする。
その際中、お藻が労咳で死んだことをしり、そして秀吉に一度しか愛されなかったことを知る。
「そんな所へお藻をやったわしがわるい。わしの屋敷におれば人の世が楽しめたものを、ほんまにお藻にむごいことをしたなあ」と泣きながら咆えた。
道頓は大阪の陣に、秀吉に恩があるといって、参加しそこで死ぬ。

道頓という人となりの描き方はさることながら、冒頭秀吉が「善い、善い」町をあるく描写がまたいい。
大阪という町が、まさに秀吉を体現しているかのような活気と、秀吉という欲張りさが大阪を表象している。そしてその中で欲のない道頓、ということだ。
にしても道頓堀の由来が人物からというのは知りませんでした。
ちょっと愚痴をいえば、現代ではいつのまにか金を稼ぐ人が「えらい人」になっちゃった。なかなか下品な世の中です。

2020/05/01

「 黒格子の嫁」司馬遼太郎短篇全集

叔父の仇をうつべく大阪にきた佐七は、流れ流れて口寄せの黒格子の嫁の男衆になる。そこでかたき玄妙を見つける。玄妙は佐七をつかまえて、自ら佐七の叔父を殺したかもしれないことを白状する。玄妙は佐七に首をくれてやってもいいが、仇をうてばきっと掛川家の扶持が戻るのか確認してくれ、そして確認がとれた首くれてやると約束する。
菊は、玄妙が気儘人で法螺ばなしをよくしていることを伝える。「あいつ、おれを茶にしやがった」
佐七と菊は関係を持つが、あるとき黒格子の嫁にばれる。逃げる際中、玄妙に会い
「ようやったなあ。黒格子の嫁はちょっと可哀そうやったが、まあ戯作でもかならず悪役とええ役との二つは要るもんや。楽屋へはいってからわいがようなぐさめとく。ほんまにようやった。自分の二本の脚でしっかり立ってる気持はええもんやろ。」
そのまま二人は玄妙の世話になる。

この小説、佐七は江戸の武士ということもあり、「江戸」の言葉で話しているが最後、玄妙が官軍が大阪を攻めると政治の空白ができるから、浪速隊という自警組織をつくる。その武装姿をみて
「祝儀、ぎょうさん貰うとるさかいなあ」
と大阪の言葉でつぶやくあたりが、ねらいすぎでしょうよ。
「すでに土地馴れした佐七の目からすれば、かれらの武装姿のほうが、はるかに人情臭くて立派なような気がした。」
ここでも、薩長にちょっぴり辛口です。
黒格子の嫁っていうけど、そもそもどこから「黒格子」ってどこからとっているのだろうか。

2020/04/30

『主体の解釈学 コレージュ・ド・フランス講義1981-82 ミシェル・フーコー講義集成11』を読む ②

ここで展開される『アルキビアデス』のフーコーの解釈は感動的ですらある。テクストを読解するとはこういうことなんだと。
『アルキビアデス』の副題は「人間の本性について」となっていてる。前に『アルキビアデス』を読んだとき、この人間の本性が国家と結びつくところにかなり違和感があったのはたしかで、ここのつながりがいまいちよく理解できなかった。上に立つもの心を清く、正しく、強くあらねばならない、といたって普通のことを述べているとしか思えなかったもので。
フーコーの解釈は、ぼくはそこまで突拍子もないものではなくて、いたって『アルキビアデス』を「自己への配慮」にフォーカスして読解している。ただフーコーが語ると、身体性が前面に出てくるのが不思議です。まあぼくがフーコーの他の著作も読んでるから、そのように読み込んじゃうんだけだと思うけど。それに「自己の技術」は、仏教思想にもみられるし別段めずらしい考えではないのだけれど。仏教では、かなり身体的な制御と精神の制御はリンクしている。
『アルキビアデス』の最後がおもしろくって、アルキビアデスがソクラテスをストーカーすることを誓う。対話だけで相手を落しちゃうんなんて、いい世界だな。ソクラテスって中年なのに。

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下記まとめ

自己の技術
まず退却の技術
プラトンのはるか昔から、自己の技術(テクネ―)を実践することは、広く現れていた。神に近づくことや神託を聞いたすることは、まず自己を浄めなければならない。浄化の実践は古典期ギリシア、ヘレニズム期、ローマ世界にも確認されている。
魂を外部から守ることが重要になる、そのとき退却の技術を必要とする。
アナコーレーシスanakhoresisは、人が世界から自らを切り離し、自らを引き上げる一定のやり方を意味する。外界から接触を断ち、感覚を感ずることをやめ、出来事にふりまわされない、目の前のものを見ないこと、可視的な不在の技術。
この退却の技術によって、苦痛に耐え、誘惑に抵抗することができる。忍耐の技術。
そして試練の技術。
自ら試練ある状況をつくりだして、それに耐えること。

自己とは何か
「heautonとは何か、……君は自己に配慮しなければならない。配慮するのは君だが、君は君と同じもの、配慮する主体〔と同じもの〕である何かへ配慮する。それは対象として君自身なのだ」(64)
heautonとは魂(psukhe)である。
「よき統治とは何か、都市の親愛とは何に存するのか、義しい統治とは何かを知ろうとして、魂の何たるかを問い、個々の魂のなかに、都市の類似物を、モデルを求めようとする……結局のところ魂の階層や機能が、統治の術についてたてられた問いにかんして私たちに解き明かしてくれいるのかもしれない、というわけです」(65)

khresthai/khresisについて
これらの概念は世界や身体を道具として見るのではなく、自分の取り巻く他者や自分自身を超越的な立場でみつこと。
hippo khresthai(馬を使う)は馬をふさわしい仕方で使うことであり、theois khresthai(神を使う)は神をふさわしいかたちで関係を結ぶ意味、礼拝し神を敬うことを意味する。
つまる魂を使うというのは、魂を実体として扱っているのではなく、魂は主体になっている。

医者、家長、愛人
医者が自分の身体を配慮すること、家長が家の財産を管理することは、自己の配慮ではない。
愛人の場合は、少し論調が異なる。アルキビアデスを追っていた者たちは、アルキビアデスの身体に関心があった。ソクラテスはアルキビアデスの青春が過ぎてから彼に声をかけた。それはソクラテスがアルキビアデスの魂、主体に配慮していることを示す。もっといえば、「ソクラテスはアルキビアデスが自分自身を配慮することになる、そのやり方をこそ配慮している」(70)
師の存在が、弟子(愛人)を自己への配慮へと導く。師の少年への無私の愛が配慮の原理になっている。

スパルタ、ペルシャにおけるケース
スパルタ人は自己へ専心しなければならないため、農作業などは農奴にゆだねている。ただし、スパルタの人々にとっては主知主義や哲学には関心がなかった。つまり。スパルタにとって「自己への配慮」というのは「生き方」になっている。
ペルシャの王子がうける教育は、知恵(sophia)、正義(dikaiosune)、節制(sophrosune)、勇気(andreia)、各教師がおり、帝王学があった。
ソクラテスは、この点アテネは劣っている、教育がなされていないことを憂いている。

自己を見る「眼」と「鏡」
他者の瞳に映る自己。それは本来の同一性のことであり、これこそ個人が自分が何であるかを知ることができるための条件となる。
そして眼がこのように他者の眼の中に自らを知覚するとき、自分の視覚の行為は他者の視覚の行為の中で実現する。
そして、魂の本性である思考と知をなす原理そのものへその視線を向けることではじめて自らを見る。
この思考と知の要素とは何か。それは神的な要素で、神lこそが私たちの魂の最良の、純粋で明るいもの。
神は最良の鏡である。
「自己を再認するためには、神的なものを認識しなければならばい」(84)

正義の誓い
アルキビアデスは最後にソクラテスの約束をする。自己に配慮するこではなく、「正義」に配慮することを約束する。
神的な要素と同時に知恵の本質を見たとき、その中に自らを認識し、再認する。なぜか神的なものは私が何であるかを写すからだ。
「したがって自己へ配慮することと、正義へ配慮することは同じことである。」(86)
よき統治者になるために自己を配慮する、それは正義に配慮することであるとなる。

『アルキビアデス』の成立とその射程
『アルキビアデス』の真贋はずっと議論されてきており、フーコーは疑いなくプラトン作としてる。実際はいまだに議論があるよう。
フーコーはこの書物が、プラトンの初期から後期の要素をもっており(例えばペルシャへの関心や鏡の比喩などは後期の特徴)、そしてプラトン哲学の主題や形式がはっきちろ提示されている。さらに捏造されたテクストも含まれており、しかしそのテクストも決して全体を損なうようなものではない。
プラトン的、ないし新プラトン主義的な伝統は、まず自己への配慮が自己認識のなかに至上の形式とあり、また自己認識が真理へのすすむ道を開き、真理への到達が神的なものを自己の内に認めること。
これらの要素はエピクロス派、ストア派、ピュタゴラス派などには見いだせない。
プラトン主義において、真理への到達は神的なものにかかわる一方で、「合理性」を育んでいく。霊性と合理性は対立するかのようだが、、、どうなるのでしょうか。

2020/04/29

「庄兵衛稲荷」司馬遼太郎短篇全集三

気儘人、猿霞堂庄兵衛は川同心だったが、早々に辞めて隠居する。かつては北辰一刀流の剣客で緒方塾で蘭学も学んでいたという。
「由来、気儘人というのは、能力があってしかも世を捨てて市井で怠けているという者への尊称」である。
庄兵衛はお稲という大和高取藩の家老の妻女だが、すでにご寮人で、新太郎という一人息子がいた。庄兵衛はお稲との恋を成就させるために天誅組討伐を手助けすることにする。

こちらも未完かな。尻切れトンボになっちゃてる。突然、紙数がきたからまた次回、とか書いて終わっている。
ブリーキトースを家康から保管するように命じられた高取藩が後生大事にしていという牧歌的なところなんか、幕末の騒乱とは別世界な感じがでてます。
しかしですね、司馬さんが恋の指南を書くというのがうける。恋の過程も楽しめないと本当の数寄ではないみたいな。それで司馬さんが描く女像というのが、なんともかんとも男が描く単純さよ。
「厭や」
「かんにんやでえ」
「厭や」
「かんにんしてや」
「厭や。ここでは、いや――あの、あの藪のなかへ、わたくしを抱いていって」「
「ご寮人さん」
「ここでは、いや」
「――じつは」
「ああ首が動かん。手エも足もや。かんじんのわいが動かれへんねや」

おもしろいやりとりだけど、絶対にこんなベタベタな状況は存在しない。司馬さんが描く女性はフェミニズム的には批判分析対象だけれど、まあ読者はほぼ男性だしいいでしょ。

2020/04/28

『主体の解釈学 1981-82 ミシェル・フーコー講義集成11』を読む ①

久しぶりに読むと、そんな内容だったのかと再発見ができます。最初に読んだのは出版されてすぐだから2004年!!
フーコーが何を問題にしているのか、講義録ということもあり非常に明確になっている。
ぼくなんかフーコーを読む前までは、真理というのは、認識問題としか考えていなかった。
やはり権力との関係で真理を解き明かそうとしているところが、フーコーらしいところです。アルキビアデスが政治家になる、そこでソクラテスは「自己への配慮」を助言する。「他者の統治」と「自己への配慮」が関係しているところがみそ。

中国哲学では権力とつねにかかわっているし、君主たるものなんたるかが問われる。だから東洋思想は自己修養の方法が前面にでてくる。ギリシア哲学、スコラ哲学なども中国哲学と同様に自己修養が論じられていて、やかり権力との関係が重視されている。
こう見てくると、仏教思想は特異な立場にある。仏教思想は究極の自己中心的な思想であり、そもそもブッダはしぶしぶ解脱について弟子に教えているところがある。しかも出家というのは俗世間とは隔離された状況であり、そこには政治権力がからむことはない。
インド思想では、仏教がどのような立ち位置にあったのかが断片的にしか知らず、インド思想において権力の問題が語られることはあったのかどうか。ウパニシャッド哲学なんかも認識問題のみを扱っているようだが、インドでは政治権力と思想との関係はいかがなものだったのだろう。かなり内的な思索が主流だったようだ。

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以下まとめ

epimeleia heautou(エピメレイア・へアウトゥー)を扱う。自分自身への配慮、自分自身を世話する、自分自身を気にかける
「自己に配慮しなくてはならないというこの原則が、一般に道徳的合理性に実際に従おうとするあらゆる活動的な生活における合理的な振る舞いの原理」ととなっている。(13)
ソクラテスからキリスト教禁欲主義の時代まで、「自己への配慮」という考えは歴史がある。

「自己への配慮」の概念
一般に「自己への配慮」というと、自己を称揚し、自己に引きこもり、個人主義的・自己中心的な響きをもつが、古代の思想では肯定的な意味をもち、そして意味合いが異なっている。
第一に、一般的な態度、物事を見る見方、人々の間での振舞いやさまざまな行動をおこない、他社と関係を取り結ぶ、そのやり方。自己や他人、世界に対する態度。
第二に、「自己への配慮」はまた、注意の、視線の一定の形式。視線の方向を外部、他社、世界から「自己」へ向けかえる必要。
第三に、自己を世話をし、自己を浄化し、変形し、変容させる行動をさす。

哲学と霊性
主体が真理にいたることができるようにするものを問う思考の形式、主体の真理への到達の条件と限界を定めようとする思考の形式を哲学と呼ぶとする。(19)
主体は真理に到達するために必要な変形を自身に加えるような探求。実践、経験を「霊性」と呼ぶとする。それは主体にとって、主体の存在そのものにとって、真理への道を開くために支払うべき代価となる。
「霊性が原理として立てるのは、主体にはその聖そうな権利として審理が与えられているわけではない、ということです。そのものとしての主体は真理に到達する権利も能力も持たない、真理は主体が主体であり、これこれの主体の構造をもつがゆえに基礎づけられて、正当化されるようなたんなる認識行為によっては主体に与えられない。真理に到達するための権利を得ようとするなら、主体は自らを修正し、自らに変形を加え、場所を変え、ある意味で、そしてある程度、自分自身とは別のものにならなくてはならない。霊性はこう主張するのです。」(19)

近代の真理と認識
要するに、近代(ここでは便宜上デカルト的契機)では認識のみが問題となっているが、哲学の歴史ではこの認識行為が真理をえる手段としているのは例外である。
これは霊性にかかわるものではない。客観的条件、方法の形式的規則などは、認識の内部から主体の真理への到達が定義されている。狂ってはいけない、道徳的であれ、利害とかかわるなといったものは主そのものの構造にはかかわりがない。

プラトン『アルキビアデス』について
ソクラテスは「自己への配慮」を伝統から出発している。スパルタでは哲学とは関係なく「自己への配慮」が生活するうえでの姿勢となっている(だから奴隷は正当化される)。
アルキビアデスは、ある境界年齢に達したことで、かつてのエロスからポリス、つまり他者の統治へと転じる。愛の対象にならなくなってしまっていた。アルキビアデスは、自らの特権的な地位を使い、政治的行動、他者の統治へ。
そしてソクラテスはアルキビアデスに声をかけよという霊感を得る。
この瞬間に「自己への配慮」の問題が生じる。

『アルキビアデス』における「自己への配慮」
アルキビアデスは富も教育も欠如している。それを挽回できる技法(テクネ―)もない。そこでソクラテスは彼に都市のよい統治とは何かを問いかける。
アルキビアデスは、市民のあいだで親愛(コンコルド)が成立していることと答える。
では親愛とは何か、ソクラテスは問うがアルキビアデスは答えられないことに恥ずかしさを感じ、自棄になる。
ソクラテスは、五十歳にもなってからでは遅いが、君の歳なら無知を覚り、「自己への配慮」を学べるという。
1 自己への配慮の必要性は権力の行使と結びついている。「自己に専心する」ことは他者に対して政治的権力を行使したいということが含意されている。
2 この概念はアルキビアデスの教育の不十分さと結びついている。ここには二つの側面がある。アルキビアデスが行使しなかったエロスと奴隷から教育を受けたこと。
3 五十歳は自己への配慮するような年齢ではない、というのは問題が含まれている。ソクラテスは『弁明』では老いも若きも市民もそうでない者も、あらゆる生存にとって「自己への配慮」は一般的な機能として論じている。しかし、『アルキビアデス』では、師と弟子、師と愛人といった関係におけるものとしいる。
4 アルキビアデスが無知に気づくとき、ソクラテスは「自己への配慮」を持ちだしてくる。

自己とはなにか。
自己への配慮というが、自己(auto to auto)とは何か。それに配慮するとはいったいどういうことなのか。
問題になっているのは、人間の本性にかかることでははなく、主体が問題になっている。
「個人から発して自己にめぐり来たる、この反照=反省的(レフレクシヴ)な活動、この反照=熟慮(レフレシ)された活動が向かう、この点とはいったい何だろうか。この自己とは何だろうか」(47-48)
そして自己への配慮は、はたして他者を統治する技術(テクネ―)へ導くのだろうか。



2020/04/27

『新記号論 脳とメディアが出会うとき』 石田英敬 東浩紀 ゲンロン

かなり抽象的な議論をしていて、一度読んだだけでは理解が追いついていかなかった。というか、いまもって理解できていないところもある。情報量もかなり多いので、まとめることもなかなかしんどい。
石田さんの問題意識は最後に書かれていて、現代21世紀の消費文化を分析するために、かつてのアナログメディアを分析していた記号論ではなく、まったく新しい記号論が必要だという。
とても刺激的な内容だった。とは言いつつも、脳科学の知見がどう石田理論に繋がっているのかがよくわからなかった。『ひとの目、驚異の進化』『数覚とは何か』
『プルーストとイカ』とか参考文献として論じられるが、「新記号論」の理論にどう組みも込まれているのか。
脳科学は科学の分野だけあり唯物論的、解剖学的、神経学的だが、茂木健一郎さんなんかが言う「クオリア」というのは、かなり抽象度が高いだけでなく「心理学的」要素が強い。
この科学的な面と心の装置というメタファーをどうつなげていくのか、その心の装置が解き明かす現代消費社会における美学(記号論)を作り上げていこうという試み。

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下記はメモ。

第一講義 記号論と脳科学
現代記号論はアナログメディアのなかで培われたもの。デジタルメディアを分析する新しい記号論が必要となる。アナログメディアのメッセージは自己完結している。
ソシュール派記号学の限界は言語中心主義からくる。すべての記号を「言語のようなもの」として、言語モデルを基本に考えていた。
まずアナログ革命が大衆社会と現代記号論を生みだし、そのアナログ革命が再帰的なったものが、1950年代以降の消費社会としてる。そしてこの再帰的アナログ革命とデジタル革命が融合したところに知識社会が生まれる。
20世紀になり、写真、映画、電話、レコード、ラジオが普及する。これは音や光などが「文字」として記録されているメディア。
レコードは、そこに存在しないものの音を再現し、写真は人間の目では捕えられない瞬間を切り取り、映画は写真を連続させて、あたかも動いているかのように見させる。メディアの技術的無意識。

フッサール『内的時間意識の現象学』
ばらばらの連続した音をつなげてメロディーになっているが、どこからメロディーと知覚されるのか。意識と時間の問題。フッサールは速記ができ、その速記のスピードで意識を考えていたかもしれない。
やはりフッサールが一つの鍵なのか。旋律が心地よいとか、「音楽を奏でている」という認識って、不思議です。音の羅列が旋律になるのって、単純に不思議。

宮沢賢治の『春と修羅』の解釈。
テレビの原理で書かれている詩ではないか。「わたしといふ現象」が「明滅する」「幽霊」。デリダ的。「メディアがテクノロジーの文字で書くようになると亡霊化する。だから、事物および事実が、まさに現象学が言うよう「現象」になる」P63
これはすごい説得力のある話。ブラタモリで『銀河鉄道の夜』の鉄道とはどんなものだったのか、というので僕らのイメージでは蒸気機関車なんだが、じつは電車だったというやつ。

『ひとの目、驚異の進化』(マーク・チャンギージー、インターシフト)
ヒトはみな同じ文字を書いている。ひとは物の辺や縁、角の輪郭の部分要素の位相的パターンを手がかりに、物の位置関係を読みとる。そのパターンは有限で、これらが文字の基本要素となっている。その証拠として、現在流布している画像データを解析すると、世界の文字のなかで現れるかたちの要素の出現頻度と一致する。世界の文字は自然界のなかで見つかる。
ニューロンリサイクル仮説。ヒトは空間の配置を本能的に見分ける能力があり、その空間識別をする脳の領域で文字を識別することにも転用している、という仮説。これは言語とは違い、文字を識別すること、つまり識字は後天的であることを意味している。
文章を読んでいる時、文、文節などを認識しながら読み進めていく。これらが脳科学からみたらどうなっているのか。

第二講義 フロイトへの回帰
ラカン「無意識は言語のように構造化されている。」
石田「無意識はシネマトグラフィーのように構造化している。」「無意識は、グラマーとロジック・テクノロジックなものである。」
21世紀のメディア環境は、かつてとは異なりSNSやネットに常につながっている状態。第一講義での「読むヒト」がこの21世紀のメディア環境で、どんな影響を受け、どのように読み書きをするのか。

フロイトの「不思議メモ帳についての覚書」
コンピューターのインターフェイスには、映画のスクリーンとは全く異なり風景がない。視覚の比喩ではとらえられないデーターベースで、しかもiPadには接触も加わる。接触の痕跡が保存させ、データベースが呼び起こされることでまた痕跡が蘇る。
セルロイド板の下にパラフィン紙があり、そこに入力された文字や絵が表象化される「知覚ー意識」の層。さらにその下にワックスでできた蝋板が「記憶」として貯蔵される「無意識」の層。つぎつぎと書き込まれていく痕跡の記憶が無意識をつくりだす。
フロイトは不思議メモ帳を心の装置のアナロジーとして用いている。
不思議メモ帳は、書き込んでいくものは呼び戻すことができないが、心は記憶を再生できる。不思議メモ帳の比喩の限界。しかし現代ではiPadはそれができる。
「われわれは外部世界からの刺激情報をメディア端末を通して受け取り、意識にとどめて氷床を生み出しては、記憶の層へつぎつぎに送り込んでいる。現代人の「知覚ー意識」に現れる現象は、心の装置の蝋板へと送り込まれると同時に、コンピューターやサーバーのメモリーに送り込まれて蓄積され、それぞれの記憶の層から呼び出されたり消去されたりしつづけている……いまわれわれが使っているインターフェイスなのです。」P105

フロイトの心的装置
初期のフロイトは唯物論的。解剖学的な局在説である「言語装置」を批判し、複数の皮質野の広がりと重なりという「言語連合」で考えていた。そして言語活動は語表象と対象表象の結合によって行われる。語表象とは、視覚、聴覚、筋運動に由来する。対象表象は対象物から受け取る感覚印象の複合。
外部から受けっとた刺激的な物理的エネルギーがニューロンを通して、というように心的装置を考えいてる。そしてニューロン間は離れていて、それを「接触障壁」とよび、シナプスのあいだを「通道」とう言葉で説明している。これによって、記憶を説明できるようにしている。
フロイトは心的装置を流体力学モデルで考えていて、現代のように「ビット」「情報処理」としては捉えていない。

フロイトの夢
フロイトは『夢解釈』でニューロンなどの神経学的な説明をすべて放棄し、心理学的な観点から考察している。精神分析の成立へ。
フロイトは心の装置を光学装置のメタファーで捉える。
感覚・知覚のエネルギーが無意識を通る過程で、接触障壁と通道が組み合わされていく。そのエネルギーが前意識の壁の段階で検閲されて、検閲を通過したものが意識へと登る。それ以外は再帰的にまた同じプロセスをへる。
語表象は前意識の段階で対象表象(物表象)と結びつく。物表象は視覚的、聴覚的、触覚的、筋運動感覚的、それ以外のあらゆる表象の連合複合といて開かれた連合。
それはソシュールのシニフィエが絵を用いているように、イメージで形成されている。つまり無意識は映像である。
フロイトのいう夢とは、感覚器官からの入力がなくなり、身体内部のエネルギーが強くなり、前意識の検閲機能が低下し、エネルギーが退行する。そしてそのエネルギーは感覚末端へいき、知覚にまで達する。つまり「夢」「幻覚」は現実の知覚ではなくて、欲望や欲動が知覚末端・感覚末端が投影装置となる。

エスと超自我
意識が繰り返されることで自我が形成される。
エスとは内部的な興奮をもたらす心的な力の審級のこと。
超自我とは聴覚帽が内在化したもの。「超自我では、外界の事柄を聴覚帽で聞き取り、無意識のレベルでエネルギーを供給しているエスとが結びついて内在化している。
内在化した超自我は語表象とつながっている。超自我の源流には聴覚という知覚がある。
超自我を自然、文化のと対立させずに連続的に捉え直す必要がある。
無意識は物表象でつくられ、意識は語表象でつくられる。超自我も語表象でつくられる。超自我は意識と同じ材料でつくられながら、エネルギーだけは無意識=エスから借りてきている。
語表象の無意識化。

精神分析の方法論とコミュニケーション
つぎつぎと相互のコミュニケーションの輪が広がり、共通の集団的な言語脳ができる。これがソシュールの「ラング」。このコミュニケーションは「聞こえることしか聞こえない」というもの。犬、come here、かめや。ビジン・クレオール。記号内在主義。
これにフロイトの「抑圧」「欲望」を持ち込むと、裏命題がでる。「聞きたくないことこそ聞こえる」。ヒトはデフォルトで抑圧されている存在と考えている。そうすると、ハーバーマスのような理想的な公共的コミュニケーションのモデルではなく、バイアスのコミュニケーションとなる。
そこでフロイトは「黙って聞く」精神分析的聴取を発明する。「聞きたいこと」「聞きたくないこと」を決定している「主体の真理」の歴史を読み解く、「聴く技法」の発明。
患者の自由連想に無意識の痕跡をたどり、無意識を復元する。
「それは、コミュニケーション文明の加速によってどんどんエスのコミュニケーションのほうへ流れていこうとする人々の無意識を、いちど沈黙の壁の前に建てせることで、歴史と記憶をつくり直させ、したがって超自我の声をも聞き取らせることで、真理の主体へと回復させようという文明的な治療の企て」P181-182

デジタル時代の夢と権力。
夢の解読が可能となると、そこに責任が生じる。夢への政治の介入がおこる。しかし夢は明証性がない。いまここの経験がなく、実証可能でもない。夢のデコーディングが可能になれば、実証可能でないにもかかわらず「エビデンス」を突きつけられる。
夢は忘却したり思い出したりして、幾通りにも解釈してきた。夢は究極的に私的な領域で、実存の重要な領域である。それが脅かされるかもしれない。

第三講義 書き込みの体制2000
フロイトとスピノザ。「エス」の問題。フロイトのスピノザ化。エスのあったところに自我が来なければならない。
「無意識は集団的で情動的でメディア的なものだ」という定式へ。そうすることで情動の記号論、症候や感染のメディア論を浮かび上がらさせる。
アントニオ・ダマシオ『スピノザを探して(邦題:『感じる脳』)
「ホメオタシス機構」
情動と感情に切れ目がない、身体と心を区別している。欲動は情動と表象の二つの領域で表現される。欲動は身体を流れるエネルギーであり、かつ記号や表象を生み出す。
スピノザ、フロイト、ダマシオの心身並行説。心も身体もホメオタシスのシステムで並行して動く。
「ダマシオの樹もフロイトの心の装置も、現在のIT化したコミュニケーション状況では、メディア装置を通してネットワークに接続さて集団に結びついて成立している」231
さらに、インターフェイスの問題。身体的になってきている。たとえばタッチパネルやVR。
デジタルメディアはインタラクティブ。

すべての人がネットワーク化して結びついている
「情動/感情」の境目は「記号の正逆ピラミッド」のふたつの三角形の境界=インターフェイスにある。
メディアたんなる表象を媒介するものではなく、感情と情動が活性させる。
人びとの情動と感情の次元が、人間側では記号生成のボトム、そして、テクノロジー側では情報処理のボトムとなる。
東さんの解説がわかりやすい。
「ダマシオの樹とフロイトの図が、さきほどの「記号のピラミッド」ふたつの三角形の片方に重なるというのではないんですね。むしろ、両方に重なっている。あるいはより正確には、このふたつの三角形の底辺が交わった面、「記号の三角形のボトム」に対して、横から、つまり三次元的にダマシオの樹とフロイトの図がくっついているかんじでしょうか。情動(物表象)が記号化し、分節化して感情(語表象)に変化する、それが一方では個人単位で身体内で起きており、他方では集団単位で社会のなかでおきていると考えている。」(240)

スピノザの「コナトゥス」
観念と物が同時に現れるという一元論。
心身並行論を持ち出す理由。それは心は身体の表象である、または表象するという考えを封じるため。
「感情」は身体と身体のあいだの「感応」として考える。それは情動が記号化されて感情になるだけでなく、その感情は人間と人間をつなぐ=感応するメディアにもなる。
ダマシオのソマティック・マーカー仮説が取り上げられる。外部からの信号はまず脳が情動として身体のループで処理し、そして次のループで感情、判断が生まれる。

パースの記号論
「類像(アイコン)」「指標(インデックス)」「象徴(シンボル)」
まず指標が成立する。
メディア・コミュニケーションとは、メディアを通した述定である。(268)
パースには「現在」がある。「現在」は知覚するものではなく、事後的に生成するものでもある。それは責任として現れる。データベースの本質は「いまここ」で決定できず、未来が決定する。
「いまここ」のの経験が記号として存在する。ピュアアイコン。そしてそのあと二次的にヒュポアイコンが生じる。

フッサールの現象学とデリダ
フッサールはパースの述定(これは〇〇である)にては一定の時間があると考える。知覚世界での述定以前を問題にする。
痕跡が痕跡化する差延。
エクリチュールはシンボルとイメージのあいだにあるもの。

メディア論
スピノザは共同体を考えるとき「模倣」を原理としている。人は他人の感情を模倣する。SNSなんかはその例。そしてスピノザの問題は表象ではなく表出の問題であるとする。
マーケティングでは「感染」をさせることが重要で、権力側も反政府側も「感染」だけを扱っている。
二十世紀資本主義の4つの柱があり、テイラーの「科学的管理法』、フォーディズム、ハリウッド、マーケティング。
マーケティングの立役者エドワード・バーネイズは驚くことにフロイトの甥で、まさにマーケティングとは「心の中の隠された市場」に働きかけるノウハウだという。
消費を分析しなければ、つまりどのように情動は支配され、動員させられているのか。消費者は単なる消費者ではなく、知らないうちにSNSに「いいね」などをしながら労働をしている。生産者かつ消費者であるとは、現代においてどういうことなのか。

「これからの時代においては、人間の心(mind)は身体(body)のレベルで、機会(machine)が行う情報処理のプロセスと接する生活を営むようになる。つまり、人間の知覚が世界を読み取り、心の意識や意味を生み出しているあいだにも、機械のほうでは、人間の感覚経験や行動パターンや思考を解析して情報処理を」している。「人間が記号過程しているあいだに、マシンは情報処理している」。これが石田記号論であるという。(270)

2020/04/26

「軒猿」司馬遼太郎短篇全集三

軒猿の与惣次を殺すことを命じられた寺男のちょうさいは、なぜ与惣次を殺さなければならないのかと疑問に思う。さよがちょうさいに与惣次を殺さないようなのみ、ちょうさいは気づく。さよと与惣次はできていると。
さよは院主竜妙の伽をしてた。竜妙は与惣次とさよが関係をもっていること知ってしまったという。
ちょうさいはばかばかしく思い、村を離れる決意をする。

未完ということで、不完全燃焼。なかなか面白いなあと思っていただけに残念です。
故郷をもたないちょうさいと、故郷があるにもかかわらず邪魔者あるかされる与惣次。中島みゆき的。ちょうさい、与惣次、さよ、だれもが劣等感の塊で、かなしい。

2020/04/25

『利己的なサル、他人を思いやるサル――モラルはなぜ生まれたのか』フランス・ドゥ・ヴァール 西村利貞・藤井留美訳 草思社

ずい分前にドゥ・ヴァールの『道徳性の起源』(紀伊國屋書店)を読んだが、今回の『利己的なサル、他人を思いやるサル』も、だいたい同じ内容かと思われる。『道徳性の起源』は、細かいところを覚えてないし、すでに売却してしまったが。

「人間の本性は野蛮なのか、気高いのかという二者択一ではなく、人間はその両方を兼ね備えているのだ――そんな人間像は複雑ではあるけれど、はるかに真に迫っているにちがいない。」(10)

ウィルソンの『社会生物学』
社会生物学者がなげかける意味論のわな。
エリオット・ソーバーは「利己的」には二つの意味があるという。「俗称的エゴイズム」と「進化的エゴイズム」。「俗称的エゴイズム」は日常的に使う意味で、遺伝子の自己発展を意味する場合は「進化的エゴイズム」と使い分けるべきとする。
たとえば、チンパンジーや人間は俗称的な意味で利他的行動が、生存や生殖にかかわる場合、進化的な意味での自己中心的となる。
ただし、通常では人間は道徳を語る際、その意図をみる。意図や意志のない行動から生まれた他者への利益は、利他的行動とは判断されない。たとえ結果が同じでも。
しかし社会生物学では、行動の結果に重点が置かれているため意図の有無は問題にならない。それはつまり生物、ひいては人間の道徳性の解明を放棄していることになる。

道徳性は自然に含めれないものなのか。
ドーキンスは道徳性は自然には埋めれないから意識して身につけるべきとし、自然と道徳性を切り離す。利己的な遺伝子の味方からすると、愛や憎しみもホルモンや脳波に還元しないにせよ、遺伝子に帰結させてしまっている。
これまでの社会生物学などの場合、動物の行動を人間界の基準と比較してきた。

クロポトキンの『相互扶助論』
生存競争に直面する動物は、互いに助け合う必要がある。このような見解はドゥヴォールはクロポトキンのシベリア探検からきていると指摘する。そこでは季節の移り変わりが極端であり、生物がまばらな大地。北アジアでは種の敵は自然だった。生存競争というのは、個体がその種を相手に戦うのではなく、個体の集団が困難な環境に対して行うものだからである。(47)
相互扶助の考え方は社会生物学の基本的な材料となる。

ロバート・トリバースの「互酬的利他現象の進化」
情動や心理プロセスといった中間プロセスに注目した。
ただちに見返りをえたれる協力関係は互酬的利他現象とはいえない。
三つの特徴
1 やりとりされる行為が受け手には利益になるが、実行者には犠牲を伴う。
2 代償と見返りのあいだにタイムラグがある。
3 見返りを条件に犠牲を払う。
これは当事者がギヴ・アンド・テイクで動くわけではない。

リチャード・アレクザンダーの『道徳システムの生物学』
人間の集団対集団、国対国で繰り返してきた暴力行為こそ、我々が共通の利益や倫理的行為に重きを置いてきた究極の理由。
そして、グループ内の葛藤である。個体の利益と集団の利益が矛盾するとき、とくにそれが集団どうしがきそいあっておりときに生じた場合、道徳システムが生まれる。
そしてこの関係は、基本的に類似性の原則で成り立っている。人間の場合、宗教、学歴、身体的特徴など。
道徳原理といものはもっぱら自分が所属するグループに向けられるもので外界には適用されてにくい。

ドゥ・ヴァ―ルの「コミュニティの利害」
「協力的で統率のとれたグループは、所属する構成員すべてに利益を与える。それゆえグループに生きる者は社会に気を配り、・・・・・・社会を改善し、強化する努力をしなければならない。・・・・・・紛争解決は当事者のみならず、コミュニティ全体の問題になってくるのだ。動物がコミュニティのために犠牲を払うと言っているわけではない。むしろ社会環境は個体の生存を左右するため、すべての個体がその質に関与しているのだ。」(61)
さらにモラル社会では、自分の行為が他者からどう見られるか、思われるかが重要な要素となる、アダムスミスの「公正な傍観者」とは、まさに社会的な事象を共感をもって理解する者のこと。

ドゥ・ヴァ―ルは道徳性進化の条件
1 集団の価値――集団に属しているおかげで食物を手に入れ、敵・捕食者から身を守ることができる。
2 相互援助――集団内で協力や互酬的な交換が見られる。
3 内部衝突――集団を構成する個体が、それぞれ異なる利害を持つ。
衝突は一対一もあれば、高度なレベルもある。
1 一対一――直接の相互扶助や、喧嘩後の和解など、個体どうしが一対一で解決する。
2 高いレベル――コミュニティが個体どうしの関係に配慮する。和解のあっせん、平和的な紛争解決の仲裁、利他的行動の集団全体での評価(間接的な相互関係)、社会環境の質の向上のための貢献奨励といった形で現れる

ドゥ・ヴァ―ルは、そして道徳性というのは、言語と同様に、生まれた社会の規範を吸収していき、並べていきながら学ぶものであるという。ここは生成文法と同じように、道徳は多様で、ある社会では不道徳なことでも別の社会ではそうではないことはふつうにある。性教育、私刑、殺人、これらは普遍的な道徳規範でのべることができず、遺伝子もあらかじめプログラミングしてうrわけではない。ただし、その枠組みはある。

「同情」、または「感情移入」について
本書ではチンパンジーなどがみせる、「思いやり」や「共感」「同情」の例を多く載せている。
ドゥ・ヴァ―ルは、行動主義や社会生物学の考え方に対し、重要な批判をしている。
「私たちがいま取り上げているのは、動機であり意図なのだ。実際にどういう行動で現れるかは関係なく、他人を思いやる者は他者の状況を敏感に察知し、助けたいという衝動に駆られ、その状況で最適の行動は何かを決定しているにちがいない」(105)

社会の形成
カントの道徳論は、行動のフォーマットがなんであるのかを考えたものでもある。つまり、親切心で行うのではなく、「そうせねばならない」という命令というのは、行動規範であると同時に人間のフォーマットだということ。
そこに「記述規則」が加わる。それは見返りと懲罰によって積極的に支えられているもので、典型行動のこと。人間が家畜やペットに課すルールもそのひとつ。
そして社会が醸成されていく。
フォーマットの上に記述規則がつくられていく。

人間と動物の連続性(感想)
動物には、感情がある。そして社会がある。チンパンジーなどは他者へ共感する認識能力もある。他者が何を考えて行動しているのかを推測する能力もある。
だからといって人間のようなモラルがあるわけではない。
しかし、互酬的関係もあれば、排他的な関係もある。諍いをやめさせる和解のやり方もあり、上下関係や公正さもみられる。
人間は、「動物的」であることをやめようとしたりする。例えば婚姻制度を廃止しようとしたり、職場の人間関係を否定したりする。
しかし、婚姻制度はおそらく人類の誕生と同じくらい長い歴史をもち、いまだかつて完全な撤廃を実現できていない。職場の人間関係にしろ、どんなに飲みニケーションを否定しようが存続しつづける。
ぼくらは、婚姻制度などを古い悪習であったりと罵ることがある。まあ婚姻制度の否定なんかずいぶん昔からあるから、別段現代的な考えでもないけど、そのなかを生き延びてきた制度だ。
それには、人間の動物としての何かがあると思われる。

動物がもつ社会は、人間とは異なるにせよ、そこにはただルールがあるのではない。
道徳というのは、たんに善悪を論ずることではなく、社会の規範をつくり上げているもので、重要なのが道徳は理性とは別物であること。
ドゥ・ヴァールはここでかなり重要なことを本書で述べている。哲学の世界では道徳は理性で語られ、高尚なものとして扱われるが、そもそもチンパンジーでも、人間と共通する道徳的ふるまいはあり、それらは集合となし社会が築かれていっているということだ。
善悪の彼岸がここにあり。


2020/04/24

「みょうが斎の武術」司馬遼太郎短篇全集三

大阪鰻谷で犬猫を理想に剣術を磨くみょうが斎の話。
「犬猫になるのに、師匠も弟子も要るか。お前の家にも土間ぐらいあるやろ。そこで寝てたらええ。」
「酔生夢死するこっちゃ。理想というもんを持ちたがるさかい、人間世界が住み辛うなる。」
お歌はみょうが斎に剣術を習いたいという。藤兵衛はそのなかを嫌々ながらとりもつ。天満試合の当日、乳繰りあっているところを藤兵衛に見られながら、試合にむかう。

いい話です。最後の天満試合なんか、薩摩の野暮ったさがでている。司馬さんは、けっこう長州や薩摩だとかに辛口なところがあって、田舎者と思っているふしがある。じっさい、幕末のころなんかそんな輩のような連中が大阪、京を我が物顔で闊歩してたら腹も立つ。

2020/04/23

「外法仏」司馬遼太郎短篇全集三

藤原良房は娘の明子が産んだ文徳帝の第四皇子を皇太子にするため十番の競べ馬をすることになる。恵亮は加持を行うことになる。恵亮は青女と関係をもち、女犯をおかしてしまう。そこで恵亮は青女に何かをあげることを約束してしまう。それは自らの外法頭となった頭だった。青女の外法仏が功を奏し、斃れた白馬は立ち上がり勝ち続ける。その結果皇太子となった皇子は後の清和天皇だという。

導入はすばらしかった。青女のあやしさが十分あり、三白の眼が目に浮かぶ。
ただし、ちょっとできはどうか。司馬さんの幻想小説としては、ちょっと物足りない。恵亮の旧知黒緒の存在が弱い。中途半端なところがあって、青女の邸にいっても、とくに何もせず、恵亮の加持に何も影響もなく、真実を知っているのは黒緒だけ、みたいな終わりになっていて消化不良。
恵亮が独鈷で自らの頭をかち割って、脳漿をまき散らすなど、おどろおどろしさもないわけではないけど。

2020/04/22

「丹波屋の嬢さん」司馬遼太郎短篇全集三

丹波屋の嬢さん

大阪同心の善七は正月明けに喧嘩をすることになるが、相手は大人数。佐吉にその話をしていると、善吉が思いを寄せているお実以が立ち聞きしていた。お実以は善吉に喧嘩屋太蔵を会いに行くように勧める。
司馬さんのすごいのは、ここでの主な登場人物は4人、それぞれの個性が短い短篇で際立っていることで、不思議なところです。凝縮された文章、ちょっとしたセリフがよく効いている。
太蔵の描写なんかも、思わず笑っちゃう。
佐吉に対して下座で平つくばって、鰻谷の口入屋、人呼んで喧嘩屋である口上があり、この太蔵のふてぶてしさと、そのおかしみがにじみでている。
佐吉だけでなく太蔵もお実以に惚れていたが、お実以は彼らをあざむく。
「女にだまされた男が三人、ここで六法をふんだところで物笑いの種や。それに、こっちはに得物もない。……ここにいる神木善七というお人は、大阪同心ながら、これでも幕臣や。幕臣がうぬらにだまされて、幕府の不利になることを働いた。というが、これは真赤なウソや。だまされはしたが、そんな天下国家のことやない。たかが女にだまされた。しかと言うが、これは色恋の沙汰や……色恋事の勝負は、他愛もない浮世の茶漬話でな、眼の色かえることもない。じゃによって、こちらは笑うて退散してこます。こっちもそっちも、刃物を引けい!」

大した話でもないのにいい話。ちょっといじれば落語になるよ。

2020/04/21

『スピノザ『神学政治論』を読む』 上野修 ちくま学芸文庫

非常にためになった。時代背景がわかり、『神学政治論』の意図がよくわかる。

大前提
神学者とデカルト主義者との、「神学と哲学の分離」についての論争があったいう。
デカルト主義者は「真理は真理に矛盾しない」のだから「自然の真理」が「聖書の真理」損なうことはない、という折衷案がでたが、これに問題がおこる。聖書の不可解な記述、例えば悪魔や復活など。聖書を哲学の真理に矛盾しないように読むことができない、となる。
『神学政治論』で呼びかける「哲学的読者諸君」とは、動揺するデカルト主義者のこと。
保守派が主張する、なんでも自由でいいのかという問に対して、スピノザは答えとして『神学政治論』を書いているという。
考える自由、そして敬虔も平和も損ねない、それを証明する。聖書に根拠に証明していく。

二つの聖書解釈
聖書の記述には不可解なところが多いが、それに対し神学者はスピノザからすれば狂気に似た解釈をしている。矛盾している箇所をアクロバティックに解釈したり、不思議であれば不思議なほど真理だとか思いたがる。
または、理性では解釈不可能な事柄に対してはメタファーとして扱う。もしくは理性で判断できない場合、筆写ミスであるから修正すべきとなる。しかしこれだと神学者は許さない。

スピノザの聖書解釈
スピノザはどちらの立場もとらない。
スピノザは、聖書は実証的に、考古学的に、歴史的に解釈されなければならないという。解釈は秘儀ではない。聖書に真理を読み取ろうとしてはいけない。
聖書には不可解な記述があっても、それを超自然的な光で解釈してはならない。また哲学的真理も述べているわけではない。そもそも預言者は知識人だとかに啓示を与えたのではないのだから。
スピノザ場合、預言を言語行為として解釈している。上野さんはここで、「普遍的信仰の教義」を万人が知っている「文法」にたとえている。隣人を愛せ、とは聖書から抽出される教えであるが、それは聖書を隅から隅まで知らなくても、読めなくても、すべての人が納得することである。信仰においては、神学の問題は無用となる。各人が神をどう思い描いていも、正義と愛を実行している人は、論理的に教義を信じていることになる。信仰には服従と敬虔以外いらないとなる。
「預言者の得た確実性は「言われていること」の真理にではなく、かく「言うこと」の倫理的かつ文法的な正しさのみ存する。だから真理を教えることは聖書の目的ではない」(58)
上野さんが言う「文法」というのは、ニュアンスとしては「方便」みたいなものか。でも、方便とも違う。

自由は平和を毀損しない
愛や正義といった「敬虔の文法」は自然状態の人間には期待できない。だから第三者である最高権力が必要となる。
ヘブライ国家にとって啓示は法であたが、ヘブライ国家が消滅した後、法的効力はなくなり人びとの権利は国家に移譲されている。だから何が正義や何が敬虔かも決定する権限は共和国の最高権力が有する。
人は服従することで臣民になる。そして臣民はつねに最高権力に恐れを抱いている状態で、としても最高権力は人心を離れさせるようなことはしなし。恐れから怒りに変わると国の危機となる。
自由を抑圧すれば、ヒーローが生まれる。人びとは国に服従しなくなる。思想言論の自由はゆえに平和を損なうことはない。

『神学政治論』への批判
『神学政治論』を批判したのは、哲学の自由をうたうデカルト主義者であった。その一人、ランベルト・ファン・フェルトホイゼンは『神学政治論』を偽装した無神論ととった。これはおおいにわかる。『神学政治論』でスピノザは神を否定していないが結論は、宗教はしょせん無知な人間を方便で導いてやるといったものになっているふしがある。
「啓示宗教は真理を教えない。
信仰は無知であってかまわない。
よって、真理を知る者は宗教と信仰を肯定する。」(88)
この論理は、やはり理解しづらいところでしょう。上野さんはスピノザの上記の論理をこう説明する。モーセを含めヘブライ人はなぜ神政国家がうまくいているのか無知であった。啓示は真理ではなく命令や訓戒として理解されたのであり、神の律法として命じられた。神政国家は欺瞞や策略ではなく無知によって成立っている。無知でも普遍的な真理である正義と愛は守られればよい。

やはりスピノザの聖書解釈は方便でしょう
下宿のおかみさんの逸話。ある日おかみさんから、いまの自分の宗教で救われるかと問われた際、
「あなたの宗教は立派です。あなたは静かに信心深い生活に専念なさりさえすれば、救われるために何もほかの宗教を求めるには及びません。(100)(リュカス/コレルス『スピノザの障害と精神』)
んー、上野さんはフェルトホイゼンのような立場をとりたくないようだけど、やはりスピノザのどこか高みの見物的な姿勢は拭えないでしょう。じっさい、無知な人間には宗教が大事で、無神論はおすすめしませんっていう知識人特有の選民思想です。非常に共感はしますけどね。

2020/04/20

第二十章 自由な国家体制では、誰にでも、考えたいことを考え、考えていることを口にすることが許される、ということが示される――スピノザ『神学 政治論』

自由に考え、判断をくだすのは、自然権であり、他人に譲るものではないし、できない。権力者もその自由を奪えない。
国の究極の目的は、人を恐れから解放し、安全に暮らせるようにし、自然の権利を自分自身た他人に危害を加えないかぎり最大限確保できるようにすることである。
人はそれぞれ考えが異なる。だから平和に暮らすために人は自然の権利を勝手きままに使うことを放棄しなければならない。
だからといって理性を働かせう権利や自分で判断する権利を放棄するわけではない。
ただし人は至高の権力者の取り決めに従う必要がある。よかろうと思っても行動をとらないことは仕方がない。

自由を認めても国の平和や道徳心や至高の権力者の権利は損なわれない。むしをこれらを損ないたくなければ、この自由を認めなければならない。奪おうとすれば必然的に社会が壊れていく。

***************
自由はどこまで許されるのか。ふわっとしている。まああくまで抽象論だからね。いいでしょう。
書いてある内容は、現代からみればまとも。なぜこれが発禁あつかいになるのか。神=自然とか聖書は道徳の教科書的な発言が冒瀆に値すると。
なるへそですね。

オランダの政治と宗教
17世紀のオランダには連邦制で州の独立性が高かった。しかし、独立戦争の英雄オラニエ公ウィレムが半元首の存在として影響力をもち、この中央集権的色合いが強いのが「総督派」と呼ばれる。対し、連邦内の分権性を確保するのが「議会派」となる。
カルヴァン派の流れの新教各が乱立している状況で、主流派と非主流派に分けれていく。主流派は総督派と結びつきが強かった。議会はは一方の派閥に肩入れすることに慎重だった。というのも彼らの支持基盤が商人であったから。
ただし実際はスピノザの時代、改革派教会主流派はすでに17世紀半ばには国教のような地位にあった。そのためリベラルな議会派が政権を担っていても、教会主流派の考えを無視できなかった。だからスピノザが総督派か議会派かは本質的に問題ではなくなる。
「不寛容な宗教勢力が既に多かれ少なかれ政治権力の中枢部に食い入ってしまっている場合に、思想の自由をどうしたら守り抜けるか」(364、解説)

スピノザは『神学・政治論』を哲学的読者に向けて書いた。それ以外の人は倒錯した解釈をつけて勝手に不愉快がる、というのはなんとも、今も昔も変わらないようで。
解説に書かれているが、議会派率いていたデ・ウィットは失脚して群衆に虐殺されている。
時系列を眺めていると、世相は急転していくのがわかる。自由な雰囲気がいっきに不自由な社会へとなっていく。
世の中、非常にあやういものなんですねー。
だからこそ、自由はつねに大事にしなければならないわけですね。
自由を捨てるぐらいなら死を選ぶ、的な感じのことがこのコロナ狂騒のときにでてこないものかねー。

2020/04/19

第十九章 宗教上の事柄にまつわる権利は、すべて至高の権力の持ち主たちの管理上にあることが示される。正しいかたちに神に奉仕したいなら、宗教上の礼拝活動は国の平和と両立するようなに行われなければならないのであるスピノザ『神学 政治論』

宗教上の礼拝や道徳心に基づく活動は国の平和や利益と両立するものでなければならない。
だから至高の権力の持ち主によって取り決められる必要がある。ということは宗教の解釈は至高の権力者に委ねられる。
ただし個人が神を敬うのは侵害されないし、道徳心を他人に譲れというわけでもない。

神は正義や隣人愛をといていて、これらが法として効力をもつ国こそ神の国である。

自然状態では、理性のある者もない者も自然の法則に従って生きることになり、正義も隣人愛もきちんとおさまるところがない。
正義、隣人愛といった理性の教えを全うするためには、権利を譲渡し、はじめて正義、不正義、公平、不公平が成立する。つまりこれらは国の定めた権利関係によって定められる。
ゆえに宗教の教える正義や隣人愛は権利関係のなかにあり、神の王国もそこにある。
したがって宗教は自然の光によって示されようと預言の光によろうが、権力者が法令としてしないかぎ、力を持たない。

至高の権力の持ち主は神の定めた権利関係を解釈する人でもある。

祖国のための道徳心こそ、人の発揮できる最高の道徳心に違いない。なぜなら国がなくなれば自然状態に戻るからだ。
国民の福祉とは、国を保つことであり、たとえ道徳的にみえても行為が国を損なうならば、道徳的な行いではなく、その逆もしかりだ。
国民の福祉をきめるのは至高の権力者であり、隣人の愛し方、神への仕え方も至高の権力者だけが決めることができる。だから至高の権力者は宗教も解釈者である。

***************
このあたり解釈次第では、現代からみると単なるナショナリスト的なものになりかねないけど、実際スピノザはそれに近いものを考えていたのかもしれないなー。どうなんでしょう。国が乱れることを体験している場合、インターナショナルとはいかないしね。


2020/04/18

第十八章 ヘブライ人たちの国家体制と歴史物語から、いくつかの政治的教訓が引き出される――スピノザ『神学 政治論』

至高の命令権をの持ち主としての国家元首を置くことは、神の王国[=神権制]と矛盾しない。現にヘブライ人は権利を神に預けて至高の命令権をモーセに委ねている。
第一王国の時代までは、大祭司は命令をすることはなかった、慣例を遵守することだけだった。
第二王国では祭祀権に加えて、国事を取り扱う権力など宗教以外の事柄も、自らのことばが神聖で権威あるものとするようになった。
これにより迷信ができる。律法を勝手に解釈したり、論争がはじまる。それによって分派ができる。
そして、私人にすぎない預言者が自分の裁量で警告を発しても、人は従わなかった。王に従うことを選んでいる。王が正しければ預言者は邪魔な存在だった。
民衆が支配権を持っていた間は、内乱が一度しか起こっていない。
そして民衆が死骸していた時期のほうが、律法は歪められず、きちんと守られていた。王が現れる前は預言者の数はきわめて少ないが、王が現れてからはきわめて多く、同時現れていた。

つまり、宗教者に政治を任せるのは有害で、神の権利を持ち出して法律を作ったりするのは危険だということ。さらにするべきこととそうでないこを区別する権利は、至高の権力者に委ねなければならない。最後に民衆が王に慣れていないなら、君主制は有害だ。とはいっても君主を取り除くのも危険だ。王の権威に慣れているなら、王の権威のみが頼りだからだ。
その例としてイングランドの清教徒革命とクロムウェル独裁を例に引いている。

2020/04/16

Bach, Concerto pour violin BWV1041/1042/1043, Jean-François Paillard, ERATO, ERX-2406/バッハ ヴァイオリン協奏曲 ジャン-フランソワ・パイヤール



Bach
Concerto pour violin BWV1041/1042/1043
Gérard Jarry
Pierre Amoyal
Jean-François Paillard
Orchestre de chambre Jean-François Paillard
ERATO, ERX-2406

パイヤール指揮、ジェラール・ジャリ、ピエール・アモイヤルがヴァイオリン。
パイヤールらしく明るい演奏です。オーソドックスというか、安心して聴ける演奏となっていますね。
奇を衒うこともなく、流暢に音楽が奏でられるので、パイヤールの演奏はよく聴く。クイケンだとかもいいんだけど、どこか聴く側に緊張を強いるところが疲れる。

2020/04/15

Prokofiev Piano Concertos No. 2 in G minor Piano Concertos No. 3 in C Piano: Dmitri Alexeev Yuri Temirkanov Royal Philharmonic Oechestra EMI, ASD3871/プロコフィエフ、ピアノ協奏曲2番、3番、ドミトリ・アレクセーエフ、ユーリ・テミルカーノフ



Prokofiev
Piano Concertos No. 2 in G minor
Piano Concertos No. 3 in C
Piano: Dmitri Alexeev
Yuri Temirkanov
Royal Philharmonic Oechestra
EMI, ASD3871

ドミトリ・アレクセーエフがピアノ、ユーリ・テミルカーノフ指揮のプロコフィエフ。
第三番は、やはりロシア系ということもあって、かなりクセのある演奏なんだけれど、それがプロコフィエフによくあっているでしょう。
しかし、このピアノ協奏曲第三番というのは、やっぱりいい曲ですね。
メカニックな要素がある。ロマン主義のような流れるような音楽とは一線を画している。
それはやはり産業革命が本格化していったことが背景にあるかと思う。
この曲は1921年ごろにアメリカで作曲されているけれど、プロコフィエフにとって当時のアメリカはありえないほどの発展をしていた最先端の国だったはず。プロコフィエフなんて、ウクライナの田舎者だし、当時のキエフにしろモスクワにしろロシアは産業革命しているといっても、まだ農業中心だし、日本と同じように産業革命後進国だったわけです。
そんななかフォーディズムまっしぐらなアメリカは、まさに機械じかけの国なわけでして。
この曲は、第三楽章のクライマックスで、それまであった機械チックなリズムをすて、情緒を持ち出してくるが、すぐにモダニズム的リズムが支配する。
おそらくではあるが、第一楽章からのテンポだとかリズムというのは、やはり当時のアメリカの社会の雰囲気でもあると思う。自動車が走り、バスが走り、鉄道であったり、地下鉄であったり。
そんな目まぐるしさや活気、そしてそこに潜む情緒を垣間見せている。モーツァルトの時代の感性ではこういう曲はできないでしょう。

2020/04/14

Beethoven, Hammerklavier Sonata in B flat Op. 106, Vladimir Ashkenazy, DECCA, SXL6335/ベートーヴェン ピアノ・ソナタ 29番「ハンマークラヴィーア」 ウラジミール・アシュケナージ


Beethoven
Hammerklavier
Sonata in B flat Op. 106
Vladimir Ashkenazy
DECCA, SXL6335

アシュケナージののハンマーグラヴィーア。これは60年代の旧録音。
んーすばらしいですねー。この曲の構造がはっきりと理解できる演奏だよね。
第三楽章を聴いてみると、あれーこんな曲でしたっけと発見がありますね。ベートーヴェンってやはり中二病のロマンチストだったようだと、それぐらい甘い演奏。悪い意味ではなく、かなりいい意味で甘美。
第四楽章のフーガだって、こんなに明確に明暗を描きだしている演奏って少ないでしょう。
やはり名演であるのは間違いない。

2020/04/12

Beethoven, Sonatas for Paino No. 14 in C sharp minor, Op. 27/2, No. 27 in E minor, Op. 90, No. 32 in C minor, Op. 111, Mihály Bächer, Qualiton, LPX.11 414/ベートーヴェン ピアノ・ソナタ 14番、27番、32番 ミハリー・ベッヒャー


Beethove
Sonatas for Paino
No. 14 in C sharp minor, Op. 27/2
No. 27 in E minor, Op. 90
No. 32 in C minor, Op. 111
Mihály Bächer
Qualiton, LPX.11 414

どう発音するのか、ミハリー・ベッヒャーとかか。ハンガリーのWikipediaでもあんまり情報がない。
けどですね、この32番はいいです。
第二楽章のテンポがは早めで、力強いです。この曲に似つかわしくないほど。この曲って瞑想的でしょ、第二楽章は。でもこのベッヒャーという人は、その瞑想を覚まさせてしまうような感じです。
とてもいいですね。
14番はまあ、好きなソナタではないけれど、とりあえず聴いてみますと、まあまあまあまあ。
27番は、ぼくもけっこう弾きこなせる曲であるので、よく弾いているから親しみ深いですね。やっぱりプロはうまいな。
第一楽章ではの和音を連打なんか、ぼくこんなふうに弾けないし。連打がグラデーションをなしているけど、ぼくのは単一の色だよね。アルペジオ部もすげー繊細ですよ。むかつく。

2020/04/11

『人類が消えた世界』アラン・ワイズマン 鬼澤忍訳 早川書房

基本的に望んでいた内容とは異なっていた。
人類が世界から消えて、その過程を描いているのかと思いきや、プラスティックや肥料なんかの環境問題、原子力の問題なんかが中心で、その腐敗や腐食、浄化などの話を期待していたんだけどなー。
ないわけではないけど、ちょろっとしかないし。
結論から言えば、あらゆるものは分解されていちゃうという。プラスティックはちょっと時間がかかる。ほかにも土の中に埋もれてる場合酸素に触れずにすむから腐食に耐えられるだとか、けっこう新聞紙だとか紙類も酸素に触れられずにまとまって地中なんかにあると何千年とのこるという。
だからなんだってんだ。
んなことはわかってんだよー。
読みたかったのはSFチックなこの世の崩壊劇だったわけで、それを材料学、生物学などの面から考察していって、ナウシカのような世界を描いてくれることだった。がっかりだ。
最初の方では、若干金属素材について書いてあったりして、いい具合だったんだけどね。
世界崩壊後の世界を描いた作品として、貴志祐介の『新世界より』だとか思い出す。これなんか超能力をもった人類の社会がいかなるものになるか、という実験的な考察をしていて、そこにはボノボ的な性愛の文化が育まれていたりと、なかなかおもしろかった。
このワイズマンの本では、自然界のエントロピー増大的な話を期待していただけあって、残念でした。

トリビア的な情報があって、例えばニューヨークの地下鉄では絶え間なく地下水がでていて、一分間に2500リットルだという。それを電動ポンプで汲みあげているというのだから驚く。大雨やら干潮やらとつねに闘っているらしい。へーー。

2020/04/08

『他人の顔』 安部公房 新潮文庫

連続して安部公房を読みなおしているけど、この『他人の顔』って、こんなに退屈だったけ。大学生のときに、のめり込んで読んだ記憶がある。とはいってもほとんど内容は忘れてしまったけど。
で、再読、はじめの4分の1ぐらいまで、そうですね、仮面を作るところぐらいまでは、まあいい。
しかし、そこからが正直つらい。読んでいて、主人公の自分語りが、もう冗長で、だらだらとどうでもいいことを語るわけ。我慢して読んだけど、ほとんど頭に入ってこず、ただ字面を追うだけのこともしばしば。顔は人間同士の通路だという。そこから人間は外見なのか中身なのかといった話になるんだけど退屈だ。自己批判と自己肯定が繰り返される、その葛藤が読みどころなのだろうか。
ストーリー自体、ケロイドの顔を隠すために仮面をつくって、自分の妻を誘惑して、云々、とまあいい感じです。
実際のところ、K高分子科学研究所や古生物学者の話、仮面を作る材料や段取り、ブラン某の顔の形態論なんかさもありなんと思わせる説得性があって、安部公房らしさというのがあるんだけども、顔についての考察の段になると、観念論が披歴されていく。
ロマンティック学生の心の傷を癒してくれるだろうけど、すでにそんなものを卒業し現実を受け入れた諦念の塊であるぼくには世迷いごとにしか読めなかった。
観念論をやめていれば、プロットはおもしろいと思う。ラスト、カミさんが失踪しちゃうけど、そのカミさんの手紙も悪くないわけで。そして、主人公が見た映画のあらすじなんかも、けっこういい内容なわけです。妹が海に消えていくところなんか美しいと思うよ。
なんかもったいない感じ。

2020/04/05

第十七章 至高の権力にすべてを引き渡すことは誰にもできないし、その必要もないことが示される。ヘブライ人達の国家体制はモーセの存命中、その死後、王たちを選ぶ前はそれぞれどうなっていたのかについて。この国家体制の優れていた点について。そして最後に、この神による国家体制が滅びた原因や、存続している間もさまざまな反逆にさらされずにはいられなかった原因について――スピノザ『神学 政治論』

すべての権利を至高の権力をわたすことはない。なぜなら暴力的に臣民を支配することもよしとしてしまうことにもなる。
では国の権利や権力はどこまで及ぶのか。
国は人びとを恐怖で動かすことで成立っているのでない。
人の行動は、恐怖心、愛国心、利己心などからであろうと自分独自の考えに基いて行動を決めている。
支配者は人を心理面で支配しているとしても、逆に独裁者への最大の支持者は臣民である。つまり権力者は無制限に力をもつことはない。支持を得られないからだ。

国を保つためには、臣民がどれだけ忠実で有能かにかかっている。
人は欲望にかられる生き物だ。だから感情に走らないように、みなの権利を優先するように整えることが重要となる。国の敵と同じくらい自国民のせいで危険にさらされる。

エジプトから開放されたヘブライ
人は、自然状態におかれた。モーセの助言と啓示によって、ヘブライ人は自分たちの権利を神に譲渡した。その後、神に代わってモーセが至高の裁き手となった。
民衆は、神権政治であろうが君主制国家であろうが、同じくらい非自立的であり無知である。君主のみが頼りだった。
スピノザの見立てでは、モーセの後継者たちは国の管理者でしかなく、支配者ではなかった。彼らは神にお伺いする権利はなかったし、与えられもしなかった。法を制定することや戦争を決定するのはモーセだけであった。
ここでスピノザは、宗教道徳が及んでいた範囲は、同国民に限られていたことを強調している。普遍的なものではなかったということ。

これまでの章のおさらい的な感じ。

2020/04/04

『燃えつきた地図』 安倍公房 新潮文庫

無機質な文章で、解説のドナルド・キーンさんが言うように、あまりに散文的すぎるのですが、そこからあふれでる詩情がたまらなくいい。都市、街といった郷愁とは無縁の空間が無機質な豊かさをもって迫ってくる。

この小説の奇妙さは、まず主人公が最後に記憶を失ってしまうことにあって、にもかかわらず小説それ自体は自分語りの一人称形式になっていること。記憶がないのに語っているんです。だから小説の中では現在進行形で語るしかなくなる。主人公の語りは、つねに現在が支点になっていて未来が語られない。というか安倍公房の小説は一人称が多いかな。
根室波瑠の弟とはいったなんなのか。住所不定でやくざまがいの仕事をして、殺されてしまう。弟も根室洋を追っているようなのだが、主人公を追っているようにもみえる。田代はなぜ自殺したのか。
この一連の不可解さはけっして解決されず、謎のまま残る。そしてこの謎であることがこの小説の輪郭を決めていく。すべては未解決であり続ける。
事実も、なにが事実であるのかもよくわからない。
「まったく、事実ってやつは、貝みたいなものでね、いじれば、いじるほふぉ、ぴったり口を閉ざして、とりつくしまもない・・・・・・無理に、こじ開けようとすると、死んでしまって、元も子もなくなるし・・・・・・向こうから、口を開けてくれるまで、待つしかないんですよ・・・・・・おおむね、ありそうな所には、何もないというのが、事実の事実たるゆえんでしてね・・・・・・」(166)
田代は根室の撮影したポルノを明かしながらも、それが嘘だといったり。でも、「ぼく」からしたらその真偽はわからないわけで。

田代が街で根室を見かけたときに声をかけなかった。その理由に、
「だって、果たしてぼくに、そんな四角があるものかどうか・・・・・・」(318)
という。なんとも孤立した存在として、都市でいきる個人をとらえている。
「本人の意志にさからってまで、他人の居場所に干渉する権利が、誰にあるのか・・・・・・」(319)
この小説の寂しさは都市に生きる人間に共通のもので、「ぼく」が暴行を受け、女の部屋で起きたとき、女は窓の外をみていて、「ぼく」は何を見ていたのかと問う。
「だから、窓よ・・・・・・沢山の窓・・・・・・だんだん灯が消えていくの・・・・・・そうすると、その瞬間だけ、はっきり分かるのよ、そこに人がいるのが・・・・・・」(357)

カーブの向こうの台地の町が、記憶からなくなり、存在が共同体から、会社、元妻から切り離されいく。
「誰だって、今のぼくと同じように、狭い既知の世界に閉じ込められていることに変わりはないのだ。坂のカーブの手前、地下鉄の駅、コーヒー店、その三角形はなるほど狭い。狭すぎる。しかし、この三角形が、あと十倍にひろがったところで、それがどうしたというのだ。三角形が、十角形になったところで、何処がどう違うというのだ。」(390)
「過去への通路を探すのは、もうよそう。手書きのメモをたよりに、電話をかけたりするのは、もう沢山だ。車の流れに、妙によどみがあり、見ると轢きつぶされて紙のように薄くなった猫の死骸を、大型トラックまでがよけて通ろうとしているのだった。無意識のうちに、ぼくはその薄っぺらな猫のために、名前をつけてやろうとし、すると、久しぶりに、贅沢な微笑が頬を融かし、顔をほころばせる。」(393)

小説は団地の描写からはじまる。どこにでもある平凡な団地には過去も未来もない。
そしてラスト、冒頭の状況描写が反復される。主人公と根室洋が重なっていく。
自分が誰であるのか忘れてしまう。アイデンティティの喪失。故郷の喪失。だから都市で生きることは失踪していることと同義なのかもしれない。

「都会――閉ざされた無限。けっして迷うことのない迷路。すべての区画に、そっくり同じ番地がふられてた、君だけの地図。
だから君は、道を見失っても、迷うことは出来ないのだ。」
冒頭の言葉を読み返せば、失踪、蒸発といったことがポジティブなことであることがわかる。都市で生きるための思想、言葉がある。

2020/03/31

『方舟さくら丸』 安部公房 新潮文庫

やはり安部公房の小説は、なんだかんだいって演劇だな。
描写もなかなかおもしろい。
「ペダルを漕いでみるふりをして、女に接近し、ぼくも負けずに手を出した。尻叩きというより、尻撫でだ。……女は…前かがみになってくすくす笑った。反対側では昆虫やが掌をひらいて待ち受けている。女の尻を使ったハンド・ボールだ」
ひどい描写だよ。


いろいろと疑問が残ります。
便器の隠喩はなんなのかな。船長は片足をつっこんじゃうけど。

半永久的に生きるユープケッチャって一体なに。足はなく、自分の糞を食べて生きていくって。

オリンピック阻止同盟ってなんの隠喩なのか。シンボルマークは、まん丸で緑色の豚。デブとその仲間が中心で
筋肉礼讃反対!
ビタミン剤反対!
国旗掲揚反対!
を叫ぶ。 強健な肉体のために国旗が掲げられ国家が歌われる。それは一部の人への差別ではないか。ぬおーーー。そうだよなー!

サクラが突然起き抜けに、奇声を発し、
「『アッカン、プッカ、アッカン、プッカ』
したい事をするのと、したくない事を拒むのとは、似ているようでまったく別のことなのだ」(227−228)
こりゃ、なんだ。サクラの性格はなかなか見えにくいのだけれど、いきなりこんな奇声を発するような感じじゃない。

サバイバルゲームについて。痛風病みの老人が最後発作で死んでしまう。老人に従っていたプレイヤーも保留となる。なんのこっちゃ。

ほうき隊をとりしきる副官も、なんだか頭は切れるようなんだけれど、狂気と理性の狭間にいる感じです。
「猪突先生の指導のもとに自主独立の老人王国の建設を夢みてまいりましたいや、私ども老人王国という言葉は用いません。[ほうき隊]では老人という言葉は差別用語に指定しております。……私どもは棄民t読んでおります。……年齢とは無関係な概念なのであります。……正式には《代表棄民王国》なのであります。さいわ実現の日が近づいてまいりました。ほどなく空からウラニウムやプルトニウムの業火が降りそそぎ、そこに居られる千石さんの申されるところの御破算の時が迫っているのです。」(317)
なんだか、出口なおみたいな感じになっている。
そして、モグラこと船長の「生きのびるための切符」のように副官は電話帳で、適当に選別していく。どちらにせよ、裁判なしでの死刑宣告なのだ。

なぜサクラと女は方舟に残ることにしたのか。
なんてたって女は船長に
「わたし、空が見えないと駄目なんだ……私にも口に出して言ってみる呪いがあるんだ。いつだったか、空を眺めていたら、空気が生き物に見えてきたのね。樹の枝は欠陥にそっくりでしょう。形だけでなく、炭酸ガスを酸素に変えたり、窒素を九州したり、しゃんと新陳代謝しているわけだし、……風や気圧の変化は空気の筋肉の運動で、草や樹の根っこは指や手足ね。棲みついている動物は、血球やウィールすや大腸菌で……」(275)

最後、それまであったグロテスクさから解放された感じがありますね。
「合同市庁舎の黒いガラス張りの壁に向かって、カメラを構えてみる。二十四ミリの広角レンズをつけて絞り込み、自分を入れて街の記念撮影をしようと思ったのだ。それにしても透明すぎた。日差しだけでなく、人間までが透けて見える。透けた人間の向こうは、やはり透明な街だ。ぼくもあんなふうに透明なのだろうか。顔のまえに手をひろげてみた。手を透して街が見えた。振り返って見ても、やはり街は透き通っていた。街ぜんたいが生き生きと死んでいた。誰が生きのびられるのか、誰が生きのびるのか、ぼくはもう考えるのを止めることにした。」(374)

最初から最後まで疑問だらけですが、これらは明確で論理的な回答もないと思われ。
と、まあいろいろと安部公房的な要素がたんまりで「豚の死体無料贈呈、腸詰め製造業者殿」とかも、安部臭がすごいわけです。ただ、ちょっとやりすぎたところもないわけではない。
全体的に安部公房の小説では、荒唐無稽な内容にみえて、読みやすい。

2020/03/29

第十六章 国家体制の基礎について。個人のもつ自然な権利と、市民としての権利について。そして至高の権力の持ち主の権利についてスピノザ『神学 政治論』

「哲学する自由とは、つまり自分で判断する自由であり、自分が判断したことを言う自由である。こうした自由は、最善の国家ではどこまで認められることになるのだろうか」
個人のもつ自然な権利。それは個物それぞれに備わった自然の規則のこと。そして自然の権利は自然の力が及ぶところまで及ぶ。つまり個物は自然に決まったかたちで存在し活動するという至高の権利をもつ。
これは、理性をもつ人、無知の人関係なくもっているものでもある。衝動にかられていてもそれは至高の権利をもつ。
それは、自然の権利とは理性ではなく欲望と力によって決まる。そして自然の権利は、能力上できないこと以外、何も禁止していない。
しかし、人間が生きる上ですべてが許された状態では、安全かつ最善の生活ができない。だから集合的に自然の権利をもつことが要請される。他人の権利を自分の権利同様に尊重するような契約が必要となる。
人間は利己的な生き物で、いいことよりもよりいいことを選び、大きい悪いことよりも小さな悪いことを選ぶ。
とすると、自分の権利を譲渡する人はいないことになる。さらに言えば、よりよいこと手に入れたり、より悪いことを回避することがなければ、人は約束を守らない。つまり契約をするうえでは利益と繋がらなければならない。でなければ破棄されてしまう。
理性にしたがって国家から有益性や必要性を導きだし、誰も国家を支えていくはずだが、実際は誰もが理性をもって生きているわけではない。人は欲望にひきづられていく。
自然の権利は人それぞれがもつ力できまる。ということは、人びとが自分の権利を他人に渡せば渡すだけ、連鎖的に人は自分の権利を譲渡していく。そして至高の権力ができあがる。
あらゆる人が自らの権利を社会に引き渡せば、社会は至高の権利を独占できる。そして誰もが従うようになる。これを民主政と呼ばれる。
そして、たとえ理不尽なことを命令してきても、理性はそのような命令に従うことを命じる。わたしたちはこの二つの「悪いこと」のうち、より小さい方をえらばなければならないから。
民主政ではこの至高の権利をもつのは期限があり、権力を失えば権利も失われる。だから、権力者は理不尽なことを命じることはまれだ。

曰く、自分の権利を譲渡することは奴隷になることではない。むしろ自分の欲望に引きずられて、よりよいことをできないでいるものは奴隷のきわみであり、一心に理性の導きに基いて生きる人だけが自由なのである。
たしかに服従すれば自由は失われる。しかしそれは奴隷を意味するのではない。奴隷かどうかは行動で決まる。行動の利益が命令者に帰属する場合、それは奴隷となる。しかし、共同体、国家、民衆全般の福祉こそが至高の法よなる。だからこそ至高の権力に従う人はは、臣民と呼ばれるべきである。
つまり、理性に基づいた法を制定しているならば、その国は自由のきわみにある国といえる。

権利の侵害とはなにか。
それは私人のあいだで起こることであり、至高の権力は何をやってもいいのだから、侵害もへったくれもない。
正義とは誰にでもその人に市民としての権利上認めてられていることを保障しようという、ゆるぎない心構えのことである。
不正義とは、認められる権利を誰かから取り上げることである。

盟友とは。
違う国の人同士が、戦争に踏み切って危機に陥らないために、あるいは何か他の利益のために、お互いに害し合わず、逆に必要に迫られた時には助け合い、しかもそれぞれが自国を維持し続ける[=一つの国として融合しない]という契約を交わした場合、彼らは盟友となる。
自国の利益が見通せるまで契約を信用することはない。自国の利益を保持することが至高の法なのだから、相手を完全に信用できない。
また道徳心や宗教からみても、自国の損失につながると思われる約束を律儀に守るなら、臣民から信頼をなくし、神を汚すことにもなる。

敵とは。
国から外れて、盟友としても臣民としても国の命令に一切耳を貸さずに生きている人は、みな敵である。そもそも国家の敵は憎しみではなく権利関係で決まる。そして国の命令をどのようなかたちの契約によっても認めない人に対しては、国は[その国に]損害をもたらす人に対するのと同じ権利をもっている。

主権侵害の罪
この罪は臣民または市民の中でしか起こりえない。自らの権利を国家に譲渡しているが、もし彼らが至高の権力から権利を奪い取るか、他に移そうとすれば主権侵害となる。

神は隣人を愛せよと義務づけている。しかし自然の状態では衝動の原理にしたがっている。
そこで衝動にしたがって行動したことは、他人に損害をもたらすことにもなり、どうしても権利の侵害になるはずだ。しかし自然状態は本来的にも時間にも宗教に先立っている。
人は自然状態では、神の啓示も法も知らない状態だったが、啓示により神が定めた権利関係に従うことを約束し、自らの権利を自由に譲渡し、自由の権利を神に引き渡した。ここから市民の状態となる。
権利関係に従うかどうかは、当人にとって責任を受け入れるかどうかとなる。人は他人の決めたことに従う義務はない。そして神や至高の権力に従わなくてもいい。その危険を自分が引き受けるだけだ。

もし至高の権力が宗教に反するならどうなるのか。
そして人はその時、神に従うべきか、至高の権力に従うべきか。
宗教に従うならば、そのとき最高権力に従わないことで、バラバラな判断や感情に左右されてしまう。人は迷信に陥ることがよくあるのだし、それを口実になんでもできるようになってしまう。
だから宗教も至高の権力に属しているということである。

******************
ここにきてようやく政治論がからんできた。
おもしろいのが、スピノザはバビロン捕囚の際、ネブカドネザル二世にほぼすべてのユダヤ人が服従したことを例にとって、当時の多くのユダヤ人は神の取り決めで、王は至高の権力を手にしていると考えていただろうと書いていること。
あんまり悲劇的に取り扱っていない。

2020/03/27

『第四間氷期』 安部公房 新潮文庫

改めて読むとすごい作品です。1959年に単行本が刊行されているというのだから、いまから半世紀も前なのだ。
安部公房の小説は不気味さがいいわけですね。水棲人間というと、まあふつう人魚みたいのを連想したりするけど、安部公房の場合は鰓をもっていて、しかもこの水棲人間を人間が開発したものにしていることで、グロテスクさが増している。しかも開発しているのが、なんかDr. Strangelove的な感じですし。

堕胎について書いているところで、
「人間が未来的な存在であり、殺人が悪であるのは、その未来を奪いとるためだというのは確かだとしても、未来はあくまでも現在の時間的投影なのである。その現在さえもっていないものの未来に、誰が責任などもちえよう。それではまるで、責任に名をかりて、現実から逃れようとするようなものではないか。」(124)
人間が未来的な存在というのはなかなかで、ハイデガーでありますね。そしてこの責任についてもハイデガーでありますね。本来性を獲得している者は現実を引き受け、責任を負う。しかし、そもそも未来がないのだから責任もへったくれもない。だから堕胎するにあたり、道徳的判断を持ち込むのは想像過剰となる。うへー。

未来とは何か。それは現在の投影なのか、それとも未知なる現在から切り離され、独立した意志なのか。
ソ連の預言機モスクワ2号は、近い将来、32年後の1984年に資本主義社会は没落し、共産主義社会が実現すると預言した。おお、こんなところにジョージ・オーウェル。
そして日本の預言機では共産主義を〈政治・預言・∞〉と理解しているようで、これは「あらゆる予言を知りつくしたうえで現れる、政治の無限次予言、すなわち最大予言値」を意味している。むむ、これはいったいどういうことなのか。あらゆる可能性をさぐっていき、その極にあるものってことか。

未来を考えるとき、人間は純粋に「未来」を考えない。未来は想像の範疇に通常はある。想像を超えたところに本来はあるものだが。人間が言語的な生き物であることがわかる。言語の範囲で想像し語る。
「予言機械をもつことで、世界をますます連続的に、ちょうど鉱物の結晶のように静かで透明なものになると思い込んでいたのに、それはどうやら私の愚かさであったらしい。知るという言葉の正しい意味は、秩序や法則をみることなどではなしに、むしろ混沌を見ることだったのだろうか・・・・・・?」(167)
「耐えなけりゃなりませんよ。その断絶に耐えることが、未来の立場に立つことです・・・・・・」
先生は断絶した未来に耐えられないと判断されて殺さる運命にある。
「プログラミングとは、要するに。質的な現実を、量的な現実に還元してやる操作のことである。」(127)
先生は結局、未来を質的に考えることができなかったのだ。予言機械の論理的帰結は観念でしかない。しかし、それは海底植民地、水棲生物という質的なものに返還されることで、グロテスクとなる。先生はその未来を拒絶し、現在を温存する方へと思考してしまう。
ウイリアム・ジェームズをかりて、「人間は悲しいから泣くのではない、泣くから悲しいのだ」。涙腺がなければ悲しいという感情を知らないのかもしれない。それにたいして先生は、残酷だと思ってしまう。
しかしそれは違う。ここでも先生は未来を現在の自己の投影としてしか見れていない。
ここはちょっと還元論的でいろいろ考えさせるところ。
安部公房が人間を非常にちっぽけなものとして見ているのがうかがえる。所詮は物理的な反射で生きているにすぎないみたい感じでしょうかね。
この小説で貫かれている一種のアンチ・ヒューマニズムで、予言機械の存在自体が人間の思考を越えたものであるし、それが予言した未来なんかすでに人間の世界ではなくなっている。
そして社会システムは、いかにつくられるかの話を飛躍させることもできる。
外部の刺激が人間の心を形成するというのであれば、社会の構造やシステムが人間の行動を形作るわけで、水棲人の社会はモスクワ2号が予言したとおり共産主義なのかも。水に帰ることでしか共産主義を実現できないとなると。

将来、水棲人間がかつての人間にうらみをもつのではないか。
「豚に、豚みたいだと言っても、おこったりしませんよ・・・・・・」
ときたもんだ。
「人間はただ、存在すというるだけで義務をおわされるべきものなのか? ・・・・・・つくったものがつくりだされた者に裁かれるというのが、現実の法則なのであろう・・・・・・」(268)
「未来は、日常的連続感へ、有罪の宣告をする。」(あとがき)
日常の平凡な秩序にこそ大きな罪があり、はっきり自覚しなければならない。未来は本来的に残酷だという。
先生は日常の中で死ぬ。
水棲人間の子供は風の音楽を聴くために陸に立ち上がろうとするが重力で押しつぶされて、地上病で涙をながしながら死ぬ。
未来を生きている者は逆に過去には生きられない。最後の涙は過去への感傷なのか。

蛇足
解説は磯田光一が書いているが、まあ書いている内容よりも、そこに安部はソ連の遺伝学者ルイセンコに依拠しているのではないか、と書いている。
んーどうでしょうね。ルイセンコは、環境が遺伝に影響を及ぼすという主張で、これはアメリカの突然変異が進化を決めるという考えの対極をなしていて、ルイセンコはバーナリゼーションの提唱者でもあり、ソ連の飢饉の元凶をつくった科学者としても有名で、まだこの当時はルイセンコ論争が盛り上がっていなかったのかどうか。
磯田さんは、ルイセンコ説は後天的に環境が遺伝に影響するというふうに書いているが、ちょっとこれはあまりにルイセンコの主張を簡単にしすぎている。この主張だけならルイセンコは疑似科学だと否定されたりはしない。
安部公房は、たしかにルイセンコの説を知っていたと思うが、水棲人間を作り出したのは環境ではなく人間ということもあって、あんまりルイセンコとは関係ないと思われる。

2020/03/26

第十五章 神学が理性に奉仕するのでも、理性が神学に奉仕するのでもないことについて。そしてわたしたちが聖書の権威を認める理由について――スピノザ『神学 政治論』

理性は聖書に従うものではないし、そして聖書が理性に従うものでもない、という主張はどちらも間違っている。
聖書の意味を理解するには理性がが必要である。理性によって理解できないことに盲目的に従うのは愚かである。
では理性で理解できない記述はどうするのか。
まず、聖書はいろいろな人によって記述が歪められたりしている可能性を考慮する必要がある。
理性に反する記述があっても愛に差し支えはない。つまり理性は聖書に従う必要はないし、合わせる必要もない。
だから啓示なのだ。
数学的な論証でもって聖書を読み解くことは間違っている。聖書の教えは数学的な論証がなくても受け入れられるものであるし、理性に秀でていない人にとっても大きな慰めとなる。
哲学と神学は相反する営みなのである。

2020/03/25

第十四章 信仰とは何か。信仰のある人とはどのような人か。信仰の基礎になることが決められ、最終的に信仰が哲学から切り離される――スピノザ『神学 政治論』

信仰について自分が考えたいように考える自由は一体どこまで及ぶのか。
考えが違ってもまともな信仰を持っている人を尊重するなら、どのような人たちなのか。
そして信仰と哲学を切り離す。
信仰とは、神について何かを思うことであり、その思いの内容はそれを知らないと神に従う気持ちが失われてしまうこと、神に従う気持ちがあるとすれ必ず想定すべきことでなければならない。
そこから次が帰結される。
信仰はそれ自体有益なのではなく、神への服従をもたらす限りで有益である。
そして服従に勤しんている人は、必ず本物の健全信仰を持っていることになる。
さらにまともな信仰が持っているかどうかは、信仰の持ち主の行いによってしか決まらない。
それは次のことを帰結する。
信仰に求められるのは真理にかなった信仰箇条というよりも、むしろ道徳にかなった信仰箇条であるというと。つまりは、真理が少しも反映されていなくても一向にかまわない。
信仰箇条は行いだけに基づいて評価されるべきであり、知っておかないと神に従う事自体が不可能となるような項目に限られる。
ここから決められる信仰箇条は以下となる。
1 神が存在すること。最高の存在であり憐れみ深い存在であること。
2 神はただ一つであること。他よりも優れているなどがあってはならない。
3 神はどこにでも存在すること。
4 神は至高の権利をもって万物を支配しており、何ごとも権利上強制されることなく、ただ無条件の最良や特別な恩恵に基いて行っていること。
5 神への服従とはもっぱら正義と愛、つまり隣人愛を内容としている。
6 服従する人、神に従って生きる人は、みな救われる。
7 人が悔い改めるなら、神はその人の罪を許してくれること。だからこそ人は希望をもてる。
これらの信仰箇条は一人ひとりが自分の理解力にあわせて解釈しなければならない。そして神に全面的に同意して従うようになる。

そして哲学と神学(信仰)の間には全く異なるもので、両者の目的も基礎も違う。
哲学は真理の探求であり、信仰は服従と道徳心となる。
信仰はそれぞれの人に哲学する最高の自由を認めている。

2020/03/24

第十三章 聖書は単純きわまりない教えしか説いていないこと、ひとびとを服従させることだけが聖書の狙いであること、そして聖書は神が本来どういうものであるかについては、ひとびとがそれを見習っていきかをの指針にできるようなことしか説いていないことが示される――スピノザ『神学 政治論』

聖書で推奨されている知は、神に従う=隣人を敬うこと。誰でも必要とするような知に限られている。
つまり、それを知らずにいると頑固な不服従か、少なくとも規律を欠いた服従に陥ってしまうような知。
これとは逆にこの点にかかわらない他の知は、神に向かう知であれ自然の物事に向かう知であれ、聖書で問題にはされない。
神を理知的に知ることは服従とは違い信仰と引き換えに誰にでもできることではない。そもそも神は人間に神の属性を知ることを求めてはいない。
神学者たちが神のあり方を比喩的に解釈したりすることを求めるのであれば、聖書は素朴な民衆が理解することは到底できない。
つまり神の正義と愛だけが預言者を通じて求められていることである。
「したがって、考えを行為と無関係に単独で取り上げて、それを道徳的だとか不道徳だとか決めるけることは決して許されない。当人がそお考えによって神への服従[=愛や正義にかなう行為]を促されたり、逆にその考えをお墨付きにして犯罪や反逆を犯したりした場合に限って、そのような考えを道徳的とか不道徳とか言うことができるものだ。ということは、もし信じることで頑なになったら、たとえ進行内容が真実であってもその人の信仰は実は不道徳であり、信じることで逆に従順になったら、たとえ信仰内容が誤っていてもその人の信仰は道徳的なのである。というのも既に示した通り、神を本当に知ることは[誰にでも課せられた]命令ではなく[限られた人にしか与えられない]恩恵だからだ。神がひとびとに求めているのは、ただ神の正義と愛を知ることだけであり、そしてそのような知は学問のためではなく、もっぱら服従のために必要なのである。」

2020/03/23

第十二章 神の法が記された本当の契約書について。聖書はなぜ聖なる書物と呼ばれ、なぜ神の言葉と呼ばれるのかについて。そして最後に、聖書は神の言葉を含む限りにおいて、損なわれることなくわたしたちまで伝えられた、ということが示される。――スピノザ『神学 政治論』

本当の宗教は、人間の精神に神によって書き込まれており、そして神がこれを封印するのに用いた印章こそ神の観念である。神の観念とは、いわば紙の性質を映し出す像なのだ。
旧約聖書と新約聖書が別れているのは、教えの内容が異なっているからではない。それは知らなかったから、「新しい」だけである。
だから聖書の部分が失われたとしても問題はない。
聖書は各時代の状況にあわせて書かれたものであり、
旧約聖書も新約聖書も会議の議決によって正典として承認をうけた。つまりは、正典からもれたものがある。それを決めたのは者たちは神の言葉について見識があったはず、
使徒たちは預言者としてではなく教師として教えを説いていた。
つまり、使徒たちは自分なりの福音の言葉を説き、書きとめていった。
四福音書で相互で異なる記述があることが、神がそうしたのではなく、単に福音記者が自分なりの言葉で書いたから異なっている。
相互に参照することで理解がふくまるとしても、それは偶然でしかなく、たとえ矛盾した箇所を理解できなくても幸福は薄れない。
よって聖書は誰にでもあてはなまる神の法で、神の言葉と呼ばれる。
それは、書き誤りや筆が走ってしまっている箇所が見られても、根本にある万民の法は変わらない。問題なのは、矛盾や理解が難しい箇所などを思弁的に神の権威をかりて、自説を補強することである。

2020/03/22

『レッド』山本直樹 講談社

立花隆『中核VS革マル』を読んだので、ついでに久しぶりに読んだが、やっぱりおもしろい。
「総括しろー」と言われ、何を総括したらいいのかよくわからない。
みんながみんな自己批判をしまくる異常さ。
リンチが原因で死んだにもかかわらず「敗北死」とはいったいどんな理屈なのか。
スターリン批判しているにも関わらず毛沢東主義をとりいれるとは、これいかに。

この漫画のいいところは、凄惨なリンチを描きながら、連合赤軍のメンバーが、なんだか日常をふつーに生きているのを描いているところかな。
山岳ベースでの生活は日常ではないけど、ひとりひとり青春を過ごし、インターナショナルを歌い、恋愛をし、酒をのむ。そのなかでリンチが行われていく。

読みながら、笑っちゃうんですね。「がんばれ」の掛け声とともに、みんな泣きながら殴り、蹴る。
総括することで真の革命戦士になるっていうんだけど、彼らの理屈を理解しようにもぶっとんでてね。
共産主義化とはなんなんでしょうかね。
彼らを単に馬鹿だねーと批判するだけでは意味がないと理解はしてるんだけど、でてくる言葉は馬鹿だねーしかない。

とはいっても、もう少し違った視点もある。
このリンチ事件は単なる極端なイデオロギーが引き起こしたものというだけでなく、永田一派と森一派との間の主導権争いでもあった。
このあたりは『レッド』ではそれほど書かれていないけど、山岳ベース事件というのは、遠山美枝子のリンチに見られるように、実は赤軍派の権力争いの一つでもあったし、永田側の赤軍派へのあてこすりの面もあったわけで。

でも、内部の人間を粛清するのはまだ理解できけれど、そもそも参加人数が少ないのに、十人以上も殺すことが、どんだけ痛手なのか考えないのかな。
まあこんな批判自体は、この手の人たちには明後日の方向なんだろうが。

2020/03/21

『中核VS革マル』上下 立花隆 講談社

んー、かなり読むのがしんどかった。どうでもいい内ゲバの話が延々とつづく。出版当時は、タイムリーな内容であったから、ノンフィクションとしては最高におもしろかったのではないかと思うが、現在ではもう正直どうでもいい話になりさがっている。
とはいうものの、なぜ内ゲバや組織内でリンチが起きるのかなんてのは、興味深いテーマではある。
本書は基本的には中核派と革マル派の内ゲバ事件を中心に書いていて、思想の差異についてはそこまで突っ込んではいない。
まあ、そこまでやってもね、というのはある。
黒田寛一、太田竜、西京司らによって革命的共産主義者同盟(革共同)が設立されて、分裂に次ぐ分裂で黒田寛一率いる革マル派が分離し、中核派も必然と出来上がっていく。

内ゲバの論理と左翼の論理
立花さんも言うように、「市民の論理」では内ゲバの論理は理解できない。
ぼくも左翼なので耳が痛い話だ。
組織というのは、ある程度ゆるいつながりでなければ大きくならない。
左翼の場合、組織の理論に従うことが重要なんだけど、これはどんな組織でも同じように思えて、左翼の場合はおもむきが違う。
自民党ではさまざまな考えを内包する組織となっている。よくいわれるように右も左も真ん中もいる。自民党としてのアイデンティティはなんなんだと言いたくなるが、それは大きな枠組みで「保守」とよんでもいい。だから、ちょっと左の保守でもなんでも保守として自民党支持を名乗れる。
民間の会社であれば、金儲けが目的であるので、最終的に設ければ思想がどんなでもぶっちゃけどうでもいい。金儲けという枠組みはけっこう大きい範囲になる。
しかし左翼政党の場合は違う。
イデオロギーが違う。その理論が違う。革命へといたる道が違う。
だから、同じ組織で違う論理を主張すれば、日和見主義だとか裏切り者だとかいわれて自己批判をせまられたりする。
そもそもの組織のあり方、自民党や一般の会社とは違うだ。
だからちょっと理屈が違うだけでも、だめなのだ。お互いを反革命的だとののしっているが、同じ共産主義なのに一緒に運動ができないのだ。
これは本当につらい。
ぼくなんかも、選挙の時、日本共産党に票をいれるぐらいなら、自民党にくれてやると思っちゃっているし。
なんてったって、現代の日本共産党は民族主義路線だし、天皇制打倒をいわないし、もう日和見主義なわけで、そんなの共産主義の名折れだと、ぼくは考え、絶対に票をいれてこなかった。
これは根深い。
たとえ革命理論が異なっていても、共産主義の名の下、集まることができればいいんだが、そうなっていない。
それは理論が先にあって、それで組織をつくるから、理論に反することは、組織に反することになってしまう。

革マル派の暴力論
彼らの暴力論では、暴力そのものは否定されない。これはあたりまえ。暴力の質が重要で、誰が誰に対して、何の目的で、どんな条件で暴力を行使するのか、真のマルクス・レーニン主義に貫かれているかぎり暴力は肯定される。
これは革マル派だけでなく、暴力を肯定するうえであたりまえの理屈なんだけど、ただし「マルクス・レーニン主義」というところがネックで、それ以外は正しくないとなっちゃう。
でも、革命ってそういうもんだし。

革マル派の組織論
立花死は、黒田寛一『日本の反スターリン主義運動』の
「他党派の戦術やイデオロギーを批判し(理論上ののりこえ)、他党派を革命的に解体するための組織活動を展開する(組織上ののりこえ)ことを通じて、〈運動上ののりこえ〉を実現する」
というところが肝だという。
つまり、通常では運動で多くのシンパをつくり、そして組織で他党派を圧倒する、という順序だが、革マル派の場合、他党派を圧倒してから運動を広げるという理屈になっている。

内ゲバのエスカレーション
内ゲバとは、傍観者からすれば同じ共産主義者で、なおかつ革マルと中核は同根だから内ゲバになるが、当事者からすれば、敵は反革命になる。なんとまあばかばかしい。
はては、革命的殺人というのがでてくる。たしかに革命するためには殺人がさけてとおれないけど、中核派、革マル派にとっての致命的なミスは、彼らがそれほど力をもっていなかったということで、幕末のときもテロが横行していたが、もちろん薩摩と長州のある種の内ゲバもあったが、薩摩も長州も力をもっていた。
革マル派も中核派も残念ながら、バックにだれもいないのが致命的だった。
中核派は鉄パイプからさらにエスカレートしてバールを使いはじめる。鉄パイプでもかなりヤバイがバールへいきつく。鉄パイプは中が空洞だから、それどほの重さがないので、殺傷能力はバールに比べれば低い。
そしてそれに対する革マル派の反中核派キャンペーンもおもしろくて、自分たちを非難した知識人にたいして、ナーバス作戦なることをおこなう。ニワトリの首、牛の目玉、はては人糞を送りつける。
さらに中核派のいる学校にイラスト付きのビラを送りつける。
「学校ではやさしい先生ですが(教室でのやさしい先生)→ところが……ギロッ、目つきも変わり(子供たちと分かれると吸血鬼のような顔になる)→ジャーン、学校が終わると殺し屋に返信(中核のヘルメットをかぶり、バールをもっている)→死ね! 死ね! ドスッ、グシャ、うぎゃあ〜〜あ(バールをふるって革マルの脳ミソを叩き割っている)→これが君の先生のほんとうのすがたなのだ。(こわいよーと泣いている子供たち)」
なかなかセンスがある。

ついに告訴、そして陰謀論へ
革マル派は中核派を告訴する。それにたいして中核派は権力への密告として革マル派を非難する。
革マル派も中核派も、お互いを権力の犬を批判している。これはどちらも確証がなく、憶測で非難していて、中核派のK=K理論も革マル派の謀略論も、なんというか、立花さんがいうように不毛だよ。
警察権力は戦前の方が力をもっているかのように思っているが、実は現代のほうが大きい権力をもっている。戦前は内務省が管轄していたが、戦後解体される。いま日本版FBIだとかをつくろうとか話題になっていて日本にはそんな機関がないと勘違いしているが、実際はある。公安警察は、たしかにいろいろと制約はあるだろうが、日本にある反政府組織のみならず、政治家の用心たちの情報も握っている。

感想
新左翼の凋落は公安側の計画通りなのか、それとも新左翼側の自滅なのかはわからない。いずれにせよ、新左翼は人心を味方につけることはできなかった。
このことは左翼のひとたちは真剣に考えたほうがいい。
自分たちが正義だと考え、四方八方に敵を作りすぎる。
左翼は理論を重要視しすぎ、神学論争のていをなしていく。
大きな枠組みで、左翼をとりこめる政党があればいいのだが、残念ながらいまのところない。
社民党を見ていると自民党のほうがまだましに見えてしまうし、日本共産党も立憲民主党なども同じ。
だから、れいわ新撰組は多くのあぶれた左翼たちをとりこめる可能性があるのはたしか。山本太郎の立ち回りは、ときにはどうかと思うこともあるが、なかなかいい線いっていると思う。
前回の参院選では、障害を持つ方を比例で当選させたのは快挙で、これは弱者味方である社民党も共産党もやってこなかった。当事者を国会に送り込むことをしなかった。
ポピュリズムと批判されていても、この件についてはよくやったと思う。

2020/03/16

『楡家の人びと 上下』 北杜夫 新潮文庫

読もう読もうと思い続けて、十数年、ようやく読みはじめる。
第一部は読みすすめながらニヤけてしまう。全体的にユーモアをもって描かれていく。桃子やビリケンさんの存在があまりにもおかしくていいですね。
『さいぜん、ドクトル・メジチーネと聖子のことを礼讃した職人は、夢中で毬と奮闘している桃子を見やりながら、思わずこう呟いた。
「どうもあの下の娘は、あんまりできがよさそうでねえなあ」』
桃子の立ち位置がよくわかるじゃありませんか。
さらに文房部やで消しゴムごときを10個をつけで買ったぐらいで、
「あたしゃ、アナーキストなんだからね」
だとか
「へ、さようでございますか。それはあなた方は学習院出のお姉さまでございましょうからね、へ、てめえら、いってえなにほざいてやがんだ?」
だとか
「へ、なにがたふさぎでございますかよ」
とかいちいちおもしろい。
聖子の哀しさはけっこうさらっと書かれているのだけれど、それが痛いですね。多くの人が聖子と身近の人を重ね合わせたりするんじゃないでしょうかね。

第二部は関東大震災からの復興からはじまり、藍子や徹吉のドイツ留学が描かれていく。楡病院は基一郎の時代を超えるほどの隆盛。
下田の婆やの老いと死。

第三部、太平洋戦争がおこる。楡家の人びとは戦争をなんとなく支持しているし、徹吉は当時のインテリにあるような、欧米への憧れ以上に憎しみをもっている。正義がどうのではなくて、現代の日本人
徹吉の孤独と米国や欧州の世間への諦念。藍子の変わりよう。最後に藍子の変わりよう。
いつのまにか戦争の状況が作り出されていき、一人ひとりが戦争が巻き込まれていく。

市民の物語とは何かといえうと、例えば『北の国から』や『男はつらいよ』などもあるが、これらは、清貧の思想が根底にはあり、なおかつ庶民を醜く描きながら、反面そこに美しい生活を描き、どこか高みの見物を決めこんでいるところがある。なんつーか、『北の国から』も『男はつらいよ』も好きであるんだけど、なんかひっかかるんですね。
まあいいや。
とにかく『楡家の人びと』は一線を画している。
解説を辻邦生が書いていて、ここに書かれていることがすべてかと思う。『楡家の人びと』は「市民的な作品」と位置づけている。つまり、あるべき自己や、自身への嫌悪、モラルを問う作品ではない。
「われわれは、言わば火の燃えさかる暖炉の前にゆっくり坐って、この現実の生をあるがままにこころゆくまで愛好し、たのしむことをしなかった。人間の愚かしさ、騒々しさ、軽薄さ、図々しさを人間らしい弱点として愛することをしなかった。人間が生き、迷い、喋り、ぺてんにかけ、見栄をはり、笑い、失望し、死ぬ姿を、そのままで「よし」として腕に抱きしめることができなかった。つまり俗人性や凡庸性を愛したり、それに魅了されたりすることがなかった。」

また十年後ぐらいにでも読んでみようかな。

2020/03/15

「ゲンロン」10, 2019, September ゲンロン

下記はメモ

「投資から寄付へ、そして祈りへ SOLIOの挑戦と哲学」家入一真+桂大介 聞き手=東浩紀
日本では寄付の文化があまり育っていないので、ポートフォリオ寄付というものがでてきているようで。桂さんの「寄付は墓参りのようなもの」というのは、おもしいなあと。

「悪の愚かさについて、あるいは収容所と団地の問題」東浩紀
七三一部隊の跡地、プワシュフ収容所跡地、バビ・ヤールの共通点として、住宅街に囲まれた日常の中にある。

笠井潔の探偵小説についての考察
第一次世界大戦での「大量死」の経験への抵抗から探偵小説というジャンルができた。
ミステリーでの死者は二重の光輪に飾られる。犯人による緻密な犯行計画という光輪、それを解明する探偵の推理という光輪。
「大量死」という匿名の死への抵抗。
笠井は現代日本のミステリーを見る際に、「大量死」から「大量生」の転換をみる。人はゴミのように生かされている。
ミステリーは、加害の悪の愚かさを、意味に還元することなく、記号とパズルによって語ることができると語っているようだ。

七三一部隊跡地の「罪証陳列館は、数の暴力に対して意味の回復で抵抗する施設だった。悪は意味で記憶される」
この博物館では、実証的な検証だけを目的にしているのではない。マルタと呼ばれ匿名のまま死んでいった死者たちの記憶を再現していき、固有性を回復させていく。
罪証陳列館の展示は日本政府が薦めた巨大な生物戦構想があったという歴史館でつくられている。
が、じっさい七三一部隊はそこまでの巨大な構想があったというわけでもない。しかし、そのような歴史館が必要になる。なぜなら、日本政府、関東軍が大いなる陰謀とよ構想によって犠牲者は殺されていなければならないからだ。つまり日本政府、関東軍への評価が過大になっている。
「だから、ぼくたちもまた、罪証陳列館の「過大評価」を静かに受け入れるべきなのだろう。そこでもし「たしかいに罪は罪だが、たいして深い意味なんてなかった」と言い放つことができるとすれば、その大胆さこそが、加害の証であり、日本人の特権なのだと、そのように考えるべきなのだろう。」
「でも、ほんとうにそれでよいのだろうか?」
「加害者はそもそも害を記憶しないし、したがらないということである。加害者は害を記憶しない。他方で被害者は害を記憶するが、かわりに意味を与える。ではそのとき、加害の無意味さの記憶は、いいかえれば悪の愚かさの記憶は、いったいどこにいってしまうのだろうか。」

ハイデガーから考える
「ガス室や絶滅収容所における死体の製造」は「機械化された食料産業」と「同じもの」で、犠牲者は人間としては死んでおらず、「死体製造のために徴用された物資の総量を構成する断片」になっただけ、と語った。(『ブレーメン講演とフライブルク講演』(ハイデッガー全集第79巻)*これはかなりきつい言葉だよ。まだ戦争の記憶が生々しいときに。
これは、すべての者が何かの目的のための素材でしかなく、「代替可能」な断片でしかない、という現代人の世界観を言っている。そこには「存在」の意味が忘却されている。
ただ、このハイデガーの理論は、射程が大きく、収容所と団地の区別をしない。それは収容所には加害があるが、団地にはない。

村上春樹から考える
村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』は「加害側が過去の悪へと遡るのがいかにむずかしいか、そのむずかしさのなかで文学になにができるのか」、それを主題にしている。
村上春樹の文学の特徴として、固有名が避けられていること。柄谷行人からの批判。
それに対する応答か? 「彼にとって、歴史と現実に直面するとはけっして名前と意味を回復することではなく、井戸にもぐることなのだ」

「対談 歴史は家である」高橋源一郎+東浩紀
終戦記念日とお盆が重なっているのは偶然ではあるが、それが日本の夏休みが慰霊の季節となって日本人の想像力をつくりあげる。

明治、大正、昭和前期までの文壇を「家」のイメージで表現する。当時の作家はよく葬式にでていて、親戚同士のような感じだった。それが文壇が「家」になった。
現代の文壇は、作品と作家が切り離されている。
家族的共同体であったからこそ、内部の違和感を排除せずに保つことができた。
しかしいまの日本の小説は孤独なのだという。かつては詩や小説は批評とペアだったが、俗語革命が終わり、文芸批評が思想の役割りをしていた時代は終わった。

現在、批評家は文学的言辞を使うことができない、もしくは使うことが許されない。
正しい態度、平板な政治的表明で、どっち側につくかを表現している。
高橋「現代詩はまさに多様性・多義性の言葉です。なにをいっているのかわからない作品も多いのですが、読者がそこから意味を拾い上げ、多様な解釈の世界をつくることが許されていもいた。かつては、言葉の意味とは一義的に存在するものではなく、読者が主体的につくり上げないと存在しないものだという合意が、広く共有されていたように思います」

「対談 国体、ジェンダー、令和以後」原武史+東浩紀
「令和」が万葉集からとられたが、元ネタは張衡や王羲之の漢籍という。なんと。
「令和」には、明治以降にあった政治理念や倫理的な意味合いがなく、感性的なものになっている。
元号とって天皇の名前には深い関係があったが、今回の改元でそれがなくなった。!! それってなんだ。「仁」も政治的な理念を表していて、君主は民に愛情を注ぐべしというものらしい。

皇后の役割り。
1961年、美智子皇后は長野県の養護老人ホームで、ひざまずき老人に話しかける。カトリックの影響か。これが平成のスタイルとなっていく。
「にほんを守る国民会議」による1981年の提灯奉迎の復活。そして1979年の元号法制化。
皇太子夫婦による平成流と保守派による戦前回帰。
天皇明仁は象徴天皇の役割りを「祈り」と「旅」に見いだしているという。だからこそ宮中祭祀ができなくなれば、退位するしかないと考えていたよう。
昭憲皇太后、貞明皇后は熱心な日蓮宗の信者だった。貞明皇后は神道思想家の筧克彦と出会ってからは「神ながらの道」にのめり込んでいく。
美智子妃はカトリックだったが、裕仁は皇太子時代にローマ法王からカトリックの売り込みがあり、なんらかの影響があったかも。
昭和天皇は母親の信仰に引きづられながら、戦後その反省からカトリックに接近したのではないか。そしてGHQ支配を避けるためにカトリックへと接近。
明仁の宮中祭祀へのこだわりは美智子妃の影響が大きく、そしてそれは昭和的な国体への抵抗ではなく、先代の企ての継承となる。
明仁と美智子は乳母を廃止し、マイホームをつくり上げていく。なんと家族旅行もはじめていたという。
雅子妃は美智子妃とは違い、宮中祭祀に熱心ではない。
とここで徳仁がかつて雅子をかばった発言があった。2006年2月23日、「宮中で行われている祭祀については、私達は大切なものと考えていますが、雅子が携わるのは、通常の公務が行えるようになってからということになると思います。」天皇明仁への反論として。
原さんは雅子妃が思い切った改革をするのではないかと考えているという。
そもそも宮中祭祀は明治につくられたもので、明治天皇はそれをよく知っていてほとんど代拝で、大正天皇はそう。明仁はそのにせものを本物にしようとした天皇。
そこで徳仁はどうでるか、それは雅子妃にかかっているのはないかと。

2020/03/14

『日本共産党の研究』1〜3 立花隆 講談社

かれこれ十数年前に読んで、もう一度読んでみたのだけれど、ほとんど忘れてましたね。

愚民思想について
立花さんは、共産党の体質を民主集中制にあるとしている。これはもっともでしょう。僕はよく共産系が家父長制を批判的に取り上げると違和感を感じていたけど、それはまさに共産党自体が家父長的なんだよね。
そもそも本書でも言及されているが、マルクス・レーニン主義は選民思想に近い。ユダヤ教の選民思想はユダヤ民族に適用されてるものだけれど、マルクス・レーニン主義の場合は民族が党員に置き換わる。マルクス・レーニン主義においては、共産党が労働者を指導していくとなる。
ただし、だからといって共産主義に傾倒する人たちが、隠れたユダヤ思想に影響を受けているわけでない。根本的にはインテリは人を見下している。けれどそれは表にあまり出さないけど。
その建前と本音のなかで、愚民どもを導く共産党という感じでしょう。
でも、僕はこれ自体それほど批判的ではない。やはり国民の7割ぐらいは本当に愚民だと僕も思っているから。
そして左派思想に入れ込む人たちは自分がブルーカラーでないこと、もしくは貧乏でないころにコンプレックスをもっている。なんてったて社会主義、とくに共産主義は労働者階級こそが担い手であることを謳っている訳なのに、自分たちは労働者でないんだものね。

検察当局のやり方
まあそれはいいとして、戦前の当局は初期の頃、共産党を物理的に潰そうとしていたが、潰しても潰しても組織が再びできあがってくる。そこで内部から壊し、人心を共産主義から話す作戦へと変わっていく。
そもそも共産主義を含む社会主義は、多くの人にとって救いでもある。とくに戦前は現代ほどフラットな時代ではないし、貧富の差の貧困の質も現代とはわけが違う。
だから多くの人が社会主義に肩入れすることは、別段当然といってもいい。だから共産党自体の評判を落としていけばいい。
それで思うのは、現代の日本のリベラリズムの評判の悪さも、ひょっとしたらと思っています。
僕は安倍政権が大っ嫌いなんだけど、福島みずほや辻元清美、枝野幸男、またはジャーナリストや評論家や知識人の発言を聞くと、安部がまともに見えてしまうのが不思議なわけ。
だから常々思うのが、こいつら右派の工作員で、左派やリベラリズムを内から腐らせ、人心が離れさせようとしているのではないか、と。

まあいい。
日本人のメンタリティで、自白をを自ら進んでしてしまうらしい。共産党員が機密を喋りすぎていただけでなく、第二次世界大戦の際には捕虜になった日本兵はアメリカ人が不思議に思うほどぺらぺらとしゃべっていたという。なるほどね。立花さんは、負けた際には負けを認める潔さ、という倫理観があるという。たしかにね。なんとなくわかるよ。

共産党が他の政党とは違うことがある。それは中央委員会が党を支配していて、それは国会議員である必要がないということ。それが共産党の特異さで、宮本顕治は当初、議員でもないのに党を牛耳っており、共産党の議員を支配していた。それはおかしいでしょという。

共産主義がなぜ日本では限定的だったのか、そして民族主義路線、
立花さんが、なぜ日本で共産党がそれほど大きい勢力にならず、保守的な地盤となっていったのかを考察している。
戦前、日本はいまだ農民社会であり、工場労働者は農民にくらべて三分の一程度だったという。そんな社会では共産党イデオロギーが農民の心をつかめない。日本では天皇は土着宗教の農耕神の祭祀であり、それゆえに日本人の意識に「民族の母斑」のように貼り付いているという。
ただ、これはちょっとどうなのかと思う。天皇という存在自体、明治に復興したようなものだし、農耕民に連綿と「民族の母斑」として受け継がれていったとはどうしても思えない。
この問題は明確な答えを得られるものではないけれど、右翼イデオロギーのほうがどうも人の心を捉えることができることは確かだろう。
毛沢東もマルクス・レーニン主義の科学的社会主義をすてて、農民中心へと向かう。もしかするとこれも一種のコンプレックスかもしれないね。
民族主義というイデオロギーはけっこう人間にとってわかりやすいというか、すんなりと受け入れやすいもので、国際主義だとかって想像の域を越えていて、生活のなかでは国際主義だとかは抽象的すぎるのかもしれない。
ソ連も1943年にはコミンテルンを解体している。それは戦争を遂行するうえではどうしても民族主義の発想が必要だからなのだろう。
多様性を叫ぶのはいいが、民族主義がなぜかくも人を簡単に魅了できるのかを考えていけば、やはり人間の多くは愚民だからとなるのだろう。

スパイMについて
本書で異彩を放っているのはやはりスパイM・松村昇こと飯塚盈延。
共産党を牛耳り、内部から崩壊させていく。組織の規模を大きくしていき、スパイでないのに尹基協を暗殺し、全協の松原殺そうとする。しかも彼らの汚名はいまだに挽回されていないという。いまはどうなんでしょう。
松村は組織を動かす天才でもあり、実際に共産党が大きくなったのも松村のおかげだという。松村は組織を拡大させていき、いっきに潰せるように仕向けていく。上記の暗殺事件も全協を共産党に従がわせるためだといえる。
立花たちの努力で松原を見つけ出し、松原がスパイではなかったことを証明する。
松村は共産に対し幻滅していた模様で、それはよくわかる。僕は共産党支持者であったことはないが、いまでも左翼を公言しているし、メンタリティは左翼なんだが、かつていくつかの運動に参加していた経験からすると松村の共産党への嫌気もわかる。
スパイ活動は、弱みを握られて仕方なくやっても成功しない。やはり自発的にスパイ活動をやる人間ではないとダメ。
松村は後年、スパイ活動をしていたことを後悔していたかという質問にまったく後悔していないと答えている。世が世ならぼくもスパイに率先してなっていると思う。
松村は熱海事件後、姿をくらませる。満州へ行き、そして北海道へ。一本の映画が作れる。
共産党は晩年の松村を悲惨な末路を送ったふうにしているようだが、こういうことをやっているから共産党はバカなのだ。
共産党だけではないが、左翼系の運動体にはある種の潔癖症を患っていて、運動に参加している人間の過去や運動と一体であることを要求している。議論の多様性など標榜していても、内実は多様性もなにもあったもんじゃない。

戦前共産党の資金集めについて
戦前の共産党の活動でおもしろいのが、美人局や詐欺、持ち逃げ、猥褻な絵や映画で金を稼いだり、ナイトクラブやダンスホールの経営なんかもやっていたという。
「東京朝日」の昭和8年の記事が引用されていて、
「大塚有章は更にエロ班を組織、エロの仲介による大口資金の獲得を企て帝大生デブちゃんこと古川精一にエロ味たつぷりの女党員の物色を命じた。」
なんじゃこりゃ。なかなか下品な文章だこと。

全協と、現場を知らない中央
講座派の野呂栄太郎が小泉信三の薫陶を受けていたなんて知りませんでした。
まあいい。
全協委員長の高江州重正の言葉で、天皇制打倒を行動綱領に入れることに反対だった、というのも労働運動にはメリットがないばかりか、デメリットしかないからだという。全協に結集される人間の幅が狭まるし、共産党と一緒のスローガンでは全協の存在理由がなくなる。
それに労働者にたいして納得できる内容かどうかも問題。
しかも治安維持法のもとでは、天皇制打倒をいうことは、それで運動の障害になる。しかし、共産党からすれば、だからなんだ、過激であればそれは革命的な行動の証となる。
このあたりも今も昔もかわらない。天皇制打倒自体はいい。ただ、それを下部団体だとかに求めてはいけないし、この場合労働運動がテーマなのだから、その問題にたいして問題意識を持っている人たちが結集することが大事。
いまでも左派系の団体では、思想が異なるだけでリンチにあう。昔から変わらないやつらだ。

共産党にとっての反戦平和
共産党は戦後、自らを反戦、平和主義を一貫して主張していたと自慢するが、じつはこの反戦平和の意味が戦後民主主義で使われる反戦平和の意味とは違う。
共産党にとって反戦というのは、資本主義が行う戦争にたいしての反戦であって、内乱内戦、資本主義国家への戦争、帝国主義への民族革命戦争は肯定される。
いざというときは、時刻ブルジョア政府を倒すために、革命成就のために自国政府と闘うことを要請される。ソビエトこそがプロレタリアートの祖国だから。
んん、まあそうだね。現代の日本共産党は戦前の反戦のあり方を否定すると思うけど、戦前のこの反戦テーゼは、理屈としていいんでないか。問題なのは現代の日本共産党自体が日和見主義に陥っていることだろう。

転向問題
転向問題というのは、なかなか興味深い。日本では本書が出版された当時のほとんどの共産党員が汚点をもっている。
なぜ日本の党員の多くが転向していったのか。
立花さんは、日本人は力の論理を覇道として否定的にみる。政治的対決において論理的な対決を好まず、抱き込みあいの論理という妥協という色が強い。国会でのやり取りではなく場外での政治的折衝を重視する。なるほど。
共産主義運動は明確な力の論理(階級闘争論、革命論)の上にたっているが、日本人の性格では敵味方という発想自体が弱い。だから支配者側は共産主義の論理にのってこないし、だから思想犯を処罰するのではなく、教化改善に重きを置く。
ここで驚くべきことなんだけど、司法当局内部では、判事も検事も治安維持法は死刑を想定しているが、運用する場合、死刑はださないことで一致していたという。
そうなのか、人と思想は一致するというのは非常に西洋的な考え方、いや日本では人と思想が切り離すことができるものと考えるのだな。
宮本顕治は非転向の代表的人物だが、吉本隆明は宮本も転向していると批判する。戦後の共産党のあり方は戦前とは違うのだし。
転向問題では、やはり原理原則と実際の運動との乖離が大きいということがあったという。吉本隆明は理論を中心にやっている者からすれば、理論家に現実社会を必要としない、だからはじめから転向する必要がない、自己完結した彼らが非転向だとはいえない、日本の情況、構造を把握していない彼らははじめから転向しているというわけだ。

日本共産党スパイ査問事件
下巻になると、本書のクライマックス、宮本顕治のリンチ事件が中心になる。
小畑、大泉へのリンチの背景には、共産党と全協との関係悪化があるという。全協は共産党の32年テーゼの天皇制打倒では労働運動ができないというが、ミヤケンたちはそんなことを言う全協はスパイが入り込んでいるからとある。それは共産党が否定しようとするが、労働者とインテリの闘いだった。
なんとも、連合赤軍の山岳ベース事件と同じ感じがする。
ミヤケンたちは、小畑、大泉意外にもスパイと疑いがあれば査問(リンチ)をしていった。しかも殺すところまでいかずとも、拷問ののち硫酸で額にバツ印をつけていたのだと。なんとまあ。波多然、大沢武男などなど。ただ波多は査問を受け、死を覚悟しても、その死は革命のための犠牲と捕えていたようで、革命家のロマンをもっていたようだ。
こんなことをすれば組織内は疑心暗鬼になる。そしてこのリンチ事件と同時に大量の転向者がでていた。
そんなこんなで宮本顕治も逮捕され、リンチ殺人が明るみになり、人心が離れる。そして残った袴田はほそぼそと「赤旗」をだしつづけるが、1935年3月4日に袴田も逮捕されて共産党は消滅する。

共産党の論理、ファシズムに負けた共産党
立花さんの戦前の共産党の失敗にたいしてはけっこう手厳しい。まずウェーバーを引きなあがら、心情倫理と責任倫理を分け、政治のプロは責任倫理の世界であるべきで、共産党はいつまでたっても心情倫理を貫いているという。自己の失敗に対して他者に責任を求める。特高や世論や民衆などだ。自らの心情が絶対的に正しいとする共産主義者は、どうもこの心情倫理は本能的なものなのかもしれない。
丸山真男は、ファシズムと闘い共産党は負けたなら、その一切の責任は共産党にあり、たとえ最後まで抵抗、踏みとどまろうが敗軍の将だと、それが苛酷な要求ならば、はじめから前衛党など名乗るべきではないとまで言っている。ここは丸山真男のまさに倫理観がでているね。
そしてこの心情倫理者は心情を共有しないものにとっては独善者のことで、それは独裁へと繋がっていく。

最後に、宮本顕治の判決文が載っている。きちんと読んでいないけど、治安維持法のもとで権力側は好き勝手に裁判だとかやって有罪にしていたと想像してしまうけど、判決文をけっこう論理的で飛躍もない。治安維持法は悪法だけど、それにそって運用されていたことがわかる。そして、当時の日本はすでに官僚国家であり、文書国家であることもわかる。まあ当然か。

2020/03/08

第十一章 使徒たちはその「手紙」を使徒や預言者として書いたのか、それとも教師として書いたのか、ということが考察される。さらに、使徒たちの役割りとはどういうものだったか明らかにされる。――スピノザ『神学 政治論』

第十一章 使徒たちはその「手紙」を使徒や預言者として書いたのか、それとも教師として書いたのか、ということが考察される。さらに、使徒たちの役割りとはどういうものだったか明らかにされる。

新約聖書の使徒たちは旧約聖書の預言者のように、たとえばパウロは神から啓示がきて手紙を書いたのか。
スピノザは言う、彼の書きぶりは預言者たちてゃ異なり、パウロ自身の見解に従って書かれている。さらに彼が神の指示などをかたるときは、キリストが山上で語った教えのことであるという。
そして使徒たちは、予言を伝えるというよりも議論をけしかけているところがある。預言は神の言葉なのだから従うのに理由はない。しかしパウロの場合は、各人に判断をゆだねている。
旧約聖書の預言者の場合、ユダヤ人に向けての預言だが、新約聖書の使徒たちは分け隔てなく教えを説いていた。
そして使徒たちの「手紙」は、自然の光によって書かれたもので、キリストの教えは、主に道徳的な教訓から成立っている。それは誰もが知性で理解できるもので、超自然の光にたよる必要もない。
しかし、使徒たちはそれぞれのやり方で、教えを説いていった。それは分裂や半目をうみだす。
キリスト教が哲学者の思弁から解放されさえすれば、キリストの教えは基本的なことでもあり、幸福な時代といえる。

ここでもスピノザはキリスト教にたいしてけっこう好意的。ユダヤ教にたいしては手厳しいし、スピノザは無神論者という見方からするとけっこう意外。

2020/03/07

第十章 残りの旧約聖書各巻が、既に取り上げられた各巻と同じ仕方で検証される――スピノザ『神学 政治論』

第十章 残りの旧約聖書各巻が、既に取り上げられた各巻と同じ仕方で検証される

「聖書の書き手を崇拝するあまり、聖書にどのような[不可解な]ことが書かれていてもこれを容認しようとする。しかしその彼らでも、もし[ただの]物語作者の誰かがそうした書き方をそっくり真似て物語をつくろうとしたら、間違いなくその誰かをさまざまな仕方で笑いものにするだろう。また彼らは、聖書のどこかに書き誤りがあるなどと言うものは、みな神を冒瀆する者だと考えている。しかしそれなら逆に聞きたいのだが、聖書各巻に手当たり次第に好き勝手な空想を付け加える人たちを、わたしは何と呼べばいいのだろうか。聖書の作者たちを辱めて、まとめて話せない、支離滅裂の話しかできない人物のように思わせる人たちを、何と呼べばいいのだろうか。また聖書の中の明瞭きわまりない[章句の]意味さえ否定する人たちを、何と呼べばいいのだろうか。」(33−34)

ここでもラビたちのいい加減さを批判している。
聖書だけでなく、権威的なものに人間は弱くて、権威付けられれると大したことないものもすごいものになっちゃう。でもこれってしょうがないよね。

2020/02/25

『アニメーション、折にふれて』高畑勲 岩波書店

高畑さんのつくる映画で一番気になるのが、登場人物の表情。『おもひでぽろぽろ』のシワも、子供のころ、映画館でみたけれど、とってへんな感じがした。
なんとなく気持ち悪い絵だな、と。
年を重ねるごとにその感じもなくなってきて、アニメにおける特殊な表現であることに気づいた。
『おもひでぽろぽろ』では、他のアニメでは見られない口の動きも忘れがたい。きちんとあいうえおを発音しているように見えた。
本書を読んで、高畑さんが日本語の発話について考えて作品を生み出していたの知った。
しかもプレアコということで、先にセリフを録音しているんだと。なるほど、だから地井武男さんが亡くなっても公開には問題なかったのね。

ディズニーの『ピノキオ』が徹頭徹尾客観的に描かれている、という指摘はなるほどと思った。日本のアニメでは、非常に主観的なカットが多い。

本書に『かぐや姫の物語』の企画書の一部が載っていて、それが一番読みたかった。
なぜ高畑さんが『竹取物語』を選んだのか、知りたかったから。
『竹取物語』をここまで真剣に考えていた人がいたのか、と思うくらい。
いつかぐや姫は自分がこの世界の人間ではないと気づいたのか。
なぜかぐや姫は地球に来たのか。
なぜかぐや姫は月に帰らなければならなかったのか。
なぜ最後の最後まで御門の求婚を拒んだのか。
かぐや姫は五人の公達に無理難題をしたのはどうしか。姫は冷淡だったからか。
かぐや姫は月にもこの世界にもどこにも居場所がない。
『竹取物語』自体、ハッピーエンドではない。ハッピーエンドならば、御門の夫人になって云々となる。でも、最後衣を着て、無感覚になり、月に帰ってしまう。
これら「もやもや」を解消するのではなく、そのままに残すこと、それが「物語の出で来はじめの祖」の所以。
高畑さんの『かぐや姫の物語』も、公開当初、これらのなぞや姫の罪と罰が明らかに、とかいう宣伝とかあったが、見てみれば、それらはなぞのまま。
でも、そこに能動的にアニメ作品を鑑賞する機会があって、それが高畑さんの意図でもあるわけで。

2020/02/22

『日本のピアノ100年 ピアノづくりに賭けた人々』前間孝則・岩野裕一 草思社

また、本屋に行ったら文庫落ちしてた。いつ買ったのかは覚えてないが、10年はたつ。たしか前間さんの他の本を読んで、面白かったし、たまたま古本屋で見つけて買ったと思う。

ピアノの生産について
ピアノというのは木材だけでなく金属材料も使われる。それはまさに近代工業の発展が、そのままピアノの発展でもあり、その国の産業の衰退とも重なっている。
スタンウェイが隆盛を極めていた時代、まさにアメリカの黄金期であったし、かわってイギリス、フランスの衰退はピアノメーカーの衰退も意味していた。
ピアノは木工や塗装などの手仕上げを必要とする面と、弦やフレームなどの近代工業で生産しなければならない金属部品もふくまれている。感覚に頼る組み立てや調律、調性は職人芸であり、大量生産をしなければコストを削減できず、近代的経営体制において事業の継続も難しい。
フォードシステムは近代産業に転換をせまるもので、考えてみればマクドナルドなんかもフォード・システムで、アメリカという国はこのシステムをけっこう伝統として育んでいるのかもしれない。だからこそファーストフードの先進国でもあるわけだ。
日本楽器二代目社長川上嘉市は工学部出身らしく、量産方式や品質管理を導入していく。さらに非常に主観的な要素である音の良し悪しを、航空機研究で使われていたオシオグラフで表わし、客観的な判断をできるようにしていく。
川上が行ったことは、産業合理化運動であり、科学的管理法そのものだった。驚くべきはこの方針が1920年代から30年代にかけて行われていたことで、すごいじゃないですか。
この工学的な話が詳しく書かれているのが、おそらく前間さんによると思う。
ピアノ製造というものが大量生産、ライン作業をともなう近代工業であるという視点は、ふつう音楽に携わる人にとってはかかわりたくないところだと思う。ピアノってもっとロマンあるものと思いがちだし。
ヤマハ、カワイは、単なる楽器メーカー以上の会社で、半導体や金属素材なども手がけている(た)。知らなかったが、自分で鋳造しちゃうらしい。

戦前のこと
労働争議で、河合小市や山葉直吉は会社を離れ、ドイツ人技術者のシュレーゲルがヤマハを改革していく。それによってそれまでスタインウェイ路線からドイツ、ベヒシュタインの方向へ舵がきられたという。河合は退職後、河合楽器製作所を設立させる。
戦前、ヤマハ以外でもさまざまな中小メーカーが独自にピアノを製造していたというのは知らなんだ。数はなんと30種近かったという。ただヤマハ、カワイのシェアは圧倒的だったが。

戦中のこと
知らなかったけどヤマハは木製プロペラを戦中、製造していたというのだ。
やはり第二次世界大戦というのは最悪なものだったんだな。戦中、ピアノが作れなくなる。しかも政府や軍閥はピアノ製造を禁止にしようとするため、「音楽は軍需品なり」「楽器も併記なり」「音感教育が飛行機の爆音の聞き分けや機種の判別に役立つ」と説明し、技術を温存させようと日本楽器東京支店の木村健次さんはしていたという。
なんと。ばかばかしい時代だこと。この戦争には一片の正義もねえ。
ただ先の「爆音の聞き分け」については実際に実験が行われていて、ピアニスト園田高弘さんは実際やっていたらしく、しかも正答率が95%という。すげえな。

戦後のこと
日本楽器の戦後は川上源一新社長から動きはじめる。
TWI(Training Within Industry for Supervisor)という監督社向け職場訓練を、生産工場のために組み入れていく。これにより工場管理手法がそれまでどうしてもピアノ製造では家内制手工業的なところがあったが、さらに現代的な工場へと転換していく。一つ一つの生産ラインの「改善」、社内のモラルの向上と意識改革など、アメリカで生まれ進化していった工場経営手法が導入されていく。
ここで、川上源一はアメリカを視察した際に、アメリカの効率的な生産ラインや従業員のモラルに驚く。後者のモラルというのが、なかなかおもしろい。1950年代のアメリカはまさに最後の黄金時代だ。ふつうアメリカの工場従業員がモラルがあるなんて表現はしないもので、僕も正直アメリカの工場従業員がモラルが高いというふうには考えたことがない。仕事柄、アメリカの工場視察をするが、モラルがいいなんて思ったこともない。

ミケランジェリとタローネと村上輝久
1965年にミケランジェリが初来日して、その演奏とピアノが衝撃だったという。そして調律師として一緒にきていたのがイタリアの調律師でもありピアノ設計者でもあるタローネで、これを機にヤマハはタローネはヤマハに招き、ピアノの製作をしたという。そしてそのピアノはこれまで制作してきたヤマハの音とは全く違う音だという。木の乾燥は時間がなくてあまりできなかったようだが、弦の張り方、材質だけではんくあゆるパーツが異なっていたが、構造が違うだけでやはり音は全く違うようで。
村上さんはリヒテルの調律師として有名だが、彼の調律がヴィルヘルム・ケンプやシフラなんかからも賞賛されていたんですね。

ヤマハの成功
戦後、人件費や物価の高騰でアメリカ製の製品の品質が下がっていく。ピアノも例外ではなく、そこにヤマハが食い込む。安くて品質の良いピアノをアメリカに輸出しまくる。しかもヤマハ音楽教室という日本型のお稽古もアメリカに輸入してたとは。いまどうなっているのか。アメリカではヤマハ音楽教室って有名なのか。
日本には伝統がない、だからこそ本当に良いものができる。ヨーロッパは伝統がありすぎる、だからあたらしいものに変えられない。
ヤマハのピアノがコンクールで使われるようになったのは80年代からというので、思えばつい最近のこと。

本書は前間さんが絡んでいることもあり工学の視点からも書かれていて、単なる日本のピアノの隆盛で終わっていないところがいい。
岩野さんの本は読んでいないけど、満州のオーケストラについて書いているというので、今度読んでみよう。

2020/02/09

Gabriel Urbain Fauré, L'intégrale des nocturnes, Germaine Thyssens Valentin, TRIO RECORDS(CHARLIN), PA-1129-30/ フォーレ、夜想曲全集 /ジェルメーヌ・ティッサン=ヴァランタン



Gabriel Urbain Fauré
L'intégrale des nocturnes
Germaine Thyssens Valentin
TRIO RECORDS(CHARLIN), PA-1129-30

フォーレの夜想曲がすばらしいのは言うまでもなく、演奏もいい。
ティッサン=ヴァランタンというピアニストは知らなかった。
ぼくはフォーレの夜想曲はハイドシェックのものしか知らなかった。ハイドシェックの演奏はぼくのフォーレ像とは違うのか、あまり聞いてこなかった。彼の場合はやはり明るい。
音楽は演奏家で様相が異なるもので。
ティッサン=ヴァランタンのを聴いてみて、フォーレってこれだと思う演奏で、どこか物憂げ。
6番なんて、美しいの一言でありまして、光と影が交錯しているわけです。でもそれは色がない感じですかね。明暗だけの世界。明滅する世界。ここにあるのは情景描写でも心情描写でもない。心の変遷というか。
でもさらに素晴らしいのは13番でして、これが言葉で表しえないものでして。

そういえばジェンケレヴィッチの『音楽から沈黙へ――フォーレ―言葉では言い表し得ないもの…』、そしてネクトゥー『評伝フォーレ――明暗の響き』を売ってしまったのを、いまさらながら後悔している。
もう一度買い直すか、それとも図書館で借りるか、どうしようか。

2020/02/04

『日本の路地を旅する』 上原善広 文藝春秋

被差別部落を訪ねるルポ。記録としての要素よりも、かなり文学的な仕上がりになっている。どっちがいいとか悪いとかではない。ただノンフィクションではなくて、随想といったほうがいい。

「失われた路地を歩くほど、自分が愚か者になっていくような気がした。なぜならそこは遺跡でも何でもなく、ただある人びとがかつて生活していた、というだけの話だからだ。」(344)
現在でも、ぞくぞく新しいマンション、アパートはできて、新しい住人が入り、かつての記憶も少しずつ薄れてくるのかとは思う。
しかし、著者が言うように、なんかの拍子にその記憶が呼び起こされることはある。なにか事件がおこったりすればなおさらで、土地というのは、そういう意味でも、人々の意識を縛り付けるものなのだと思う。
唯物論にいえば、大地は大地でしかない。しかし、人間というのは、「本質」を見出そうとする生き物だ。「本質」というのはやっかいな言葉だと思う。「本質」を実在するものとみることが、人が人を差別する原因で、かといってこの「本質」を見ようとする心の動きは、人間の想像力の源泉かもしれない。

現代では、過疎地でない場合は、被差別部落との境界線はあいまいになってきていると思う。差別自体も都会になればなるほど薄れている。
そのため著者の旅は、住井すゑ『橋のない川』などの文学作品のようなそこはかとない暗さはない。
というよりも、著者の旅は、かつて存在した被差別部落を訪ね、その痕跡を見つけるものと言っていい。たしかに、まだ色濃くのこる地域にも訪問しているが、現代における被差別部落を知らせてくている。しかし、いまだに結婚では差別がのこっっているというのは、ちょっと驚き。
区画が整理されたり、新しい住人が増えていたり、とまあ、まだまだ残るとはいっても、やはりその記憶は薄れてきていて、それがこの本の物足りなさを表している。
この本は、正直物足りない。『橋のない川』だとかの残酷な描写はないし、その他部落問題をあつかったノンフィクションにはある差別問題への強いコミットメントと使命感がない。
著者がダメとかいうのではぜんぜんなくて、むしろこれが著者の良さだと思う。
現代では、正直多くの人には、特に都会に住む人々にはピンとこないし、かといって壮絶な差別の歴史にはリアリティも感じられない。だから著者のこの姿勢や部落を故郷と呼ぶその温かさは、この部落問題への新しいアプローチとなっている。
この本は、ノンフィクションとなっているが、実際、現地にいって目的を果たせずに帰ってしまったりもしている。それは、隠されていると同時に失われつつあるものであることを証明している。

蛇足で、日本人は牛を食べてこなかったといわれるが、著者が言うように被差別部落ではずと食べられてきた。とくに煮込料理として食べられていたという。
隆慶一郎の小説にも煮込料理の描写があったのを思い出す。
そして、知らないことは多かった。牛肉関係の会社なんかも元は路地出身者であったり、あの猿回しなんかも一度は廃れた路地の芸だったとは。

文庫本の解説を西村賢太さんが書いているが、そこで上原さんが兄の性的指向について書いていることに、驚きを示しているが、これは本当にそのとおりで、身内の恥というのは、たとえ文学の題材になってもあまり書けるものではない。
それを「いとも簡単に」書いてしまっている。しかも「告白調」ではないところがすごくて、ふつうできませんよ。

2020/02/03

Brahms,Concerto No.2 In B-Flat Major forPiano and Orchestra, Op.83, Annerose Schmidt/Piano, Karl-Heinz Schroter/Violoncello-solo, Herbert Kegel, Dresden Philharmonic Orchestra. DENON, OX-7204-ND/ブラームス ピアノ協奏曲第2番 アンネローゼ・シュミット、ヘルベルト・ケーゲル



Brahms
Concerto No.2 In B-Flat Major for Piano and Orchestra, Op.83
Annerose Schmidt/Piano
Karl-Heinz Schroter/Violoncello-solo
Herbert Kegel
Dresden Philharmonic Orchestra
DENON, OX-7204-ND, 1979

ブラームスのピアノ協奏曲第2番。ピアノはアンネローゼ・シュミットで指揮はヘルベルト・ケーゲル。
PCM録音ということで、確かに音はクリアだし、ずれもない感じ。ただ、やはりここまでくるとレコード特有のダイナミクスが薄れてしまっている。
モノラル録音で特有の、楽器とマイクの距離感、臨場感、ごてごて感が、もはやない。
音質はいいのは認めるのだけれど、これじゃあレコードで聞く意味があまりないかな。とはいっても、レコードの持つ温かみはある。

演奏は、とてもいい。華やかで、音色が多彩で、テンポの緩急が細やかにいきわたっていて、魅力的な演奏になっている。
アンネローゼ・シュミットですかー、知りませんでした。東ドイツ出身ということですが、なぜか知りませんが旧ソ連圏には、ほんとうにいいピアニストがわんさかいるイメージなのですが、どうなのでしょうか。


2020/02/01

『テーマパーク化する地球』東浩紀 ゲンロン

久しぶりに東さんの文章を読む。『観光客の哲学』以来。まあ、やっぱりうおもしろい。哲学や批評というのは、日常で言葉にならないものを言葉にしてくれる、そんな営みのひとつかなと思う。

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「大連の歴史はテーマパークの歴史でしかない。そこには最初から「風情」しかない」(17)
ぼくは、仕事で、プライベートで海外んい行くことが比較的多いほうだけど、観光地に興味がもてず、とりあえず行った先の世界遺産やら、歴史的建造物をめぐるが、感慨にふけることも感動することもない。
すべての観光地は「風情」でできていて、そこに「風情」とは無縁の、日々を暮らす人々が存在する。
そこで日常を活きている人々が、この「嘘」を暴いていてい、ぼくはこの嘘の「風情」を楽しめない。
ハルビンと長春に行ったときは、逆にこの「風情」があからさまでおもしろかったけれど。
でも、たとえばドイツのミュンヘンやドレスデンにいって、あのいかにも綺麗に仕上げました感、しかもセンスよく、街がつくられていると幻滅する。
でもハルビンや長春は、嘘の「風情」であることを隠していないような感じがする。アジア的センスだと思う。
アジアの街は全部ハリボテ感と嘘っぱちでできていて、だからエキゾチックなのだな。
欧米はきれいにまとめすぎている。だからヨーロッパの街はおしなべて退屈。
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東さんが、クルーズにのってそこにフラット化した世界を見出している。「嘘」が織りなす公共性。「嘘」の観光がそこにはあうが、公共性が生み出されているという。金持ちではない人でも、カップルも、障害者も、子持ちの夫婦も、この「嘘」によって楽しむことができている。
―――――――――――――――――――――――――――――――
日本のオタク文化について。日本のサブカルチャーは「脱社会化」していて、ジェンダー、エスニシティ、階級、所得、居住地にむすびついていない。しかし研究者は現実と何とか対応させようと滑稽な分析になっていく。
「つまり虚構と現実のあいだに、あるはずのない対応関係を見出そうとしてしまう」(49)
そうなんだよね。こういうふうに考えている人はけっこういると思うのだけれど、テレビでは安易な関連付けが行われていく。醜悪なんだけれど、いつもでたっても同じことが続けられていく。不思議な現象だよ。ぼくは多くの人が健全なバランス感覚をもってい生活をしていると考えているのだが、メディアが流すものは、その正反対だ。なんなんだこれは。
―――――――――――――――――――――――――――――――
東さんが原発の制御台をまえにして、祭壇とみて、そして人智を超えた崇高なものを感じている。(「ソ連と崇高」)
「ソ連の魅力は「無理すること」にあった。」(86)そう、現代は「無理をしない」時代。ぼくらは無邪気に無理をしていた時代を嘲笑している。
やはり、さすがは東さん。ぼくが抱いていた感覚を言葉にしてくれた。
ぼくは仕事柄、製鉄所や工場とかに行かざるを得ない。そのとき、とくに製鉄所なんかは、まさに「鉄は国家なり」と心から思わせる偉大さがある。
複雑に張りめぐらされたパイプ、オレンジ色に輝くビレット、すさまじい騒音が鳴り響く。安全対策のため、人が直接ものを持ち上げたりは、現在ではほとんどしない。クレーンを使う。人間の腕力では扱えないでかさだったりする。
畏怖を覚える。巨大な坩堝のなかに溢れる溶解された鉄。真空炉で溶解された
何千度にもなる金属たち。
人間はほんとうにこれらをコントロールしているのかと不思議に思うもの。
崇高かあ、いいですね、まさに製鉄所や巨大プラントは崇高です。
―――――――――――――――――――――――――――――――
石牟礼道子『苦海浄土』は幻想的詩人の創作であることは、いまではよく知られていると思う。というか、ぼくも初めて読んだとき、ノンフィクションなのかと疑ったことを覚えている。
しかし現代で石牟礼道子と同じような方法で本を書けば、非難される。
「いまはみな当事者の声を「代弁」することしか考えていない。現代の日本ではそぐらいしか正義の根拠がない。……彼ら(政治家、文学者、ジャーナリスト』が行っているのは、当事者の代弁のようでいて、じつは「当事者がいえること」の「当事者がいうべきであること」の、そして「相手が自分にいってほしいと察して当事者がいっていること」の反復でしかないのではない。」(137)
この問題は切実。被害者の代弁をしようものなら、袋叩きにあうから、現在のノンフィクション、ルポなんかは、かなり中立な視点を保とうとしている。Aさんはこう言っている、Bさんはこう言っている、と併記されている感じかな。
『苦海浄土』だけでなく、吉田司の同じ水俣を題材にした『下々戦記』なんか現在の視点からすれば、相当やばい。部外者である吉田さんは、水俣にどっぷりつかり同じ目線で水俣の若者の代弁者となっている。水俣の怨念、醜さ、泥くささがあって、まあ当時も問題作だったようだけど。
―――――――――――――――――――――――――――――――
知らなかった、デリダが篠山紀信が撮影した大竹しのぶのヌード写真集を論じていたなんて。東浩紀が言うには、デリダを見る目の人びとの初期設定が違っている。政治的には慎重でもあるけれど、かなり軽い感じで仕事うけたりしている。「かれは根本的に健康的なひと」であり、謙虚であり、ポジティブであるという。いくつかデリダの逸話が話されているが、ぼくはデリダをあまり読んだことがないから正直よくわからない。なーんでかといえば、ぼくはフーコー派だったから。でもぼくのデリダ像は、もっと高慢ちきで都市的に洗練された哲学という印象。どうも違うようです。
―――――――――――――――――――――――――――――――
「杉田水脈さんの反LGBT論を話題にして、杉田さんとリベラルの論者を同じ舞台にあげて「はい、議論してくだいさい」というやりかたではなにも生まれない。そんなことをしても、双方がいままでの主張を繰り返したすえに「結局わかりあえませんでいた」という結論に」なり、分断をふかめる。そうではなく「あれほどつっぱねるのは、おそらく杉田さんの人格のなかになにかがあるからであって、対面して話を聞くのであればその「なにか」を引き出さなくてはならない」(251)
全くもってそのとおりです。最近ではとんとみなくなったが、朝まで生テレビなんかも、正直、もうあのスタイルの議論は飽きたのではないかな。
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「労働者を等価交換から解放すること」(386)
いいこといいます。現代では労働はしょせん労働としてしかみられず、そこになにかを求めることが、迷惑なことになったりする。なんでこうなったのか。
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2020/01/28

『ロッキード裁判批判を斬る 1~3』立花隆 朝日新聞社

田中角栄がアメリカにはめられた、と考えている人がいる。田中角栄が中国、ソ連にすり寄ったからアメリカが怒ったとかなんとか。
でもですね、そもそもこのロッキード事件は日本だけの話ではなくて世界規模の汚職事件だったわけで、たかが極東日本低国ごときをおしおきするためにロッキード事件を仕掛けるのだろうか。
英語版のWikipediaでは、日本以外でのロッキード事件の記事がある。https://en.wikipedia.org/wiki/Lockheed_bribery_scandals
それに5億円を田中角栄が実際もらっているのならば、バラしたのがたとえアメリカ政府でも、ダメでしょう。(そもそももらっていないという主張もあるが。)
さらに不思議なのが、保守派がこのように主張するのはまだ心情的にわかるのだが、左派までも同じような主張をする人がいることだ。しかもバリバリの左翼大学教授や左派インテリがだ。左派のロジックからみると、現在の親米政権へのアンチテーゼが田中角栄となっている。ごりごりの左派は基本反米だから。そしてアメリカに反抗した田中角栄を特別視してるわけで。
_______________________
現在も、ロッキード裁判と同じような杜撰な言説が飛び交っている。ただ、当時と現在で比較すると大きく異なるのが、その論客たちの質の低さだろう。保守側も百田尚樹や小川榮太郎みたいなバカを担がないで、もっとまともな人を担げばいいのに。保守側の哀しいのは、いまSNSだとかネットとかで肩で風をきっているやつらが全て渡部昇一級の低級であること。
そしてそれは左派側にも言えて、左派ジャーナリストの頽廃と左派の言説のむなしさはひとしおです。
そして一番悲しいのは、バカな保守とバカな左派が両極端な主張で論戦もどきをしていること。しかもそれがネットとかでとりあげられたりするし。馬鹿ではないかと。
なんのために論争しているのか。批判しやすい極端な意見を鬼の首を取ったように批判しあう両陣営。
もう嫌になってしまいます。
_______________________
立花隆は、臨死体験とか宇宙を語り始めたあたりから、あやしくなってきたのだけれど、田中角栄や日本共産党を追っていた時代はすごいきれる感じ。この『ロッキード裁判批判を斬る』は、彼の最高傑作といっても言い過ぎではない。
とりあえず、本書はかなりおもしろいし勉強になってしまった。渡部昇一だけでなく、法曹界の人までも論駁の対象で、立花氏のロジックは明確すぎるくらい明確。
渡部昇一さんは、『朝日新聞と私の四十年戦争』という本を出版している。渡部さんもそこまで朝日が憎いかね。
この本でロッキード論争について書いていて、立花氏を批判している。で、この批判がひどい。というか、おそらく渡部さんは立花隆の記事を読んでいないか、もしくは理解していない。
というかこの本、自分で書いているのか。
でも、たしかに自分への批判をきっちりと読みこなし、受け入れるには、かなりしんどいことはたしか。ぼくだって、常に自己正当化しているからね。
ただ、この『朝日新聞と私の四十年戦争』での記述にはいっさい立花氏への反論となっていない。というか立花氏が批判していた内容を、当時のまま繰り返しているだけ。

『ロッキード裁判批判を斬る』は、渡部昇一氏だけでなく、山本七平、小室直樹など現在でも名をとどろかせている論客たちを斬りまくり、さらに法律を本業にしている林修三、石島泰、井上正治も批判の対象になり、その批判がすごくいい。
立花氏の批判の仕方は、批判される側の論理をもって批判する。林修三の著作をもって林修三自身の発言を批判したりする。なぜか法律の専門家たちも自説を曲げてまでも田中角栄を擁護してしまう。田中角栄、おそるべし。
_______________________
具体的な法律の運用の仕方だけでなく、法思想にまで論じ、いかにロッキード裁判を批判する者たちが杜撰でいいかげんかを暴露していく。
以下、メモ程度に。
*賄賂罪の適用の仕方について。賄賂というのは、密室で行われるために物的証拠が極めて少ないので、証言は自供をもって証拠とすることになるという。だから批判派が主張する客観的な物的証拠がないにもかかわらず、有罪となるのはおかしいというのがおかしい。そんなこと言っていたら収賄贈賄罪はけっして裁かれることはない。
しかも、収賄の場合、受けた側の資産が急に増えたりしたら、それはやっぱり収賄なのだとなる。田中角栄はまさにそれ。
*職務権限とはなにか、刑法と行政法での違い。刑法での職務権限は、ある職務が及ぶ権限の範囲を設定するものではない。なるほどね。
*外為法が死に法だというデマ。このあたり現在でも繰り返される、事実に反することを軽々と述べてしまう低品質な論客があぶりだされてしまっている。
*外為法違反は別件逮捕というが、外為法は本丸。
*嘱託尋問とは。裁判所が主体となって、アメリカに要請。裁判所は積極的に証拠集めに関与することはあっていい。有罪ありきで裁判所が動いていたわけでもなく、不法であるわけでもない。
*免責特権とは何か。これは取引ではなくて、強制的に証言させて、ただしその証言によって生じる証言者への不利益は生じさせないといったもの。そしてその証言が嘘の場合は、偽証罪に問われるという。
嘱託尋問の反対尋問。田中側の反対尋問は、衆院選をにらんだ単なる裁判の引き延ばしにすぎない。そうなのか。時系列で裁判を眺めると、憲法に保障された反対尋問が云々とか、そもそも憲法で保障されている反対尋問自体が裁判官の前で証人喚問されたケースを想定しているなど、勉強になりますね。
*証拠能力と証拠の証明力の違いについて。これもなるほどとなる。証拠能力があれば、裁判所は証拠として採用するが、証明力がなければ判決に影響はしない。
*当事者中心主義、職権主義について。まあなんとなくは知っていたけど、大陸法と英米法の違いなんか、こうも明確に簡潔に教えてくれているのはありがたいですね。
*政治家は清濁併せ呑む必要があるのかどうか。小室直樹氏は、田中を全面的に擁護する。5億円なんてどうでもいい。田中角栄がやってきたことに比べたら、ちっぽけだ、それに人を殺したっていいのだとうそぶく。これは難しい問題ですね。田中角栄が魅力的だったのは確かだろうと思う。ハマコーなんか、悪党だけど、魅力的な人だし、話もおもしろくて、機知に富んでる。清廉潔白な政治家でなんにもしないやつよりいいのかもしれない。まあこの小室直樹氏の発言というのは、小室流のアイロニーとレトリックが含まれていてリテラルに受け入れるのはよくないが、それにしても田中角栄、おそるべし。
*最高裁でのコーチャン、クラッタ―への嘱託尋問の証拠能力を否定についてだが、『「ロッキード裁判批判」を斬る』が出版されたときはまだ一審のみだったので、立花氏は最高裁でも証拠能力ありと判断されると予想されているが、実際は否定されてしまった。とはいっても、本書では、仮に嘱託尋問がなくても田中の収賄は立証できるし、それにコーチャン、クラッタ―は最重要証人ではないとしている。
*裁判は歴史的事実を探る場ではない。この客観的真実は、人間の世界では極限概念でしかない。裁判では認定事実が実態的真実をあかるみにだす。

立花氏も口が汚くて、しかも相手を追い詰めるやり方だから、傍観者からすれば面白いけど当の批判される側からすれば、むかついてむかついてたまらないだろうな。
立花氏の攻め方は、日常生活でやったら確実に敵だけをつくり友人もなくす。ふつう日常では、敵にも逃げ道を与えてあげるものだ。
でも、論争なのでとことんまで追いつめていくのは、仕方がない。でも、将来に禍根を残すことは仕方がない。
本書のあとがきで立花氏はこのように書く、
「はじめてみれば、いやな仕事も面白かった。まず、これはあまりいいことではないかもしれなが、いやな奴をやっつけることには快感があるものである。論争はケンカである。ケンカには勝たなければならない。ケンカを始める前から勝つ自信はあったが、実際に、自分の腕がくり出したパンチは相手のアゴを的確にとらえたとき手応えはまた格別なものである。」
立花隆も悪いやつ。

2020/01/20

Mozart Piano Concerto No. 27 Concerto for 2 Pianos Emil & Elena Gilels Karl Böhm Vienna Philharmonic Orchestra Deutche Grammophon, 18MG 4643(419 059-1)/モーツァルト、ピアノ協奏曲27番、「2台のピアノのための協奏曲」(10番)、エミール・ギレリス、エレーナ・ギレリス、カール・ベーム、ウィーンフィル



Mozart
Piano Concerto No. 27
Concerto for 2 Pianos
Emil & Elena Gilels
Karl Böhm
Vienna Philharmonic Orchestra
Deutche Grammophon, 18MG 4643(419 059-1)

モーツァルトのピアノ協奏曲27番と10番の「2台のピアノのための協奏曲」。後者はギレリス父娘で共演。
27番はよく最晩年の曲として他のピアノ協奏曲とは違った評価がされる。例えば天国的だとか、死を予感させる静謐さとか。でもですね、第一楽章からして非常に古典的な、ハイドンやボッケリーニと同じように、古典派のスタイルなわけです。つまりは非常にモーツァルト的なわけです。オーケストラは脇役でピアノを引き立たせる伴奏に徹している。
曲調も非常に幸福感あふれていて、モーツァルトだぜー、となっている。
ぼくは27番は嫌いではないし、好きですよ。よく聴きますしね。でもですね、死んだ年に書かれたからといって、変に意味づけるのは好きではない。
この曲はモーツァルトが死んだ1791年1月に完成し、死ぬのは12月なわけです。まだこの曲を作曲していた時にはモーツァルトはピンピンしていたことだと思う。リューマチ熱が死因だとすると、まあ常に何かしら苦しんでたかもしれないけど。でも死の予感なんてないわけですよ。
だから、この27番はかなりモーツァルトらしい幸福感あふれる曲調で、第二楽章はたしかにモーツァルトが作曲した緩徐楽章のなかでも抜きにでるものがあると思うけど、天国を思わせるものはないし、モーツァルトはクリスチャンじゃないし。

つらつら書いたけど、このレコード買った目的は、10番「2台のピアノのための協奏曲」を聴きたかったから。
ぼくはこの曲をはじめて聴くのだけれど、やはり2台のピアノだけあってピアノの音の厚みがあって迫力がある。
オーケストラはやはり脇役で、ピアノとピアノの対話が紡がれていて、第一楽章はオーケストラの少し長い序奏からはじまり、2台のピアノのユニゾンがはじまる。これはK488「2台のピアノのためのソナタ」と同じ。ここでもモーツァルトは疾走していますね。哀しみではなく幸福ですが。聴いていて楽しい。
第三楽章はとくにいい。ここで使われている主題はとても単純なもの。そして洗練されているとは言い難いフレーズ。それでいてなぜここまで楽しい曲にしあがるのか不思議です。交響曲40番の第四楽章もはっきりいってなんか単純な旋律だし、野暮ったさがあるんだけれど、それがいいんですね。
もちろんギレリスの演奏は言わずもがな、軽やかでいいですね。

2020/01/13

『カリフ制復興――未完のプロジェクト、その歴史・理念・未来』中田考 書肆心水

イスラームの論理がなんたるかがよくわかる。そしてその可能性が語られている。
国民国家システムが破綻しているかどうかといえば、現実としては破綻はしていない。破綻している国はあるが、大勢ではそこそこ成功はしている。
ただし、それが倫理的である体制であるかといえば、否であり、現在日本では難民の受け入れをしていないことは、中田さんが言うように、人間が人間に移動の制限していることであり、それは人道にもとるといえる。
本書は、イスラームの可能性が語られていて、それは現在の国民国家システムのアンチテーゼとなっている。
実際、イスラームの歴史がイスラーム法に則った世界をつくり上げていたかというと疑問だけれどもの、近代の西洋由来の法概念や政治理念がいかに欺瞞に満ち、普遍性を持ちえないのかがわかる。

ISISの首長イブラヒーム・バグダディ―がモスルでカリフ位に推戴し、カリフ制が復興したことを世界史的事件と位置づけている。
「カリフ制は、領域に成立するものではない。言うなればカリフ制は、ムスリムの心の中に再興されたのである」(7)
「カリフ」は「後継者」「代理人」を意味する普通名詞とのことで、ふつうに現代アラビア語で用いられているのだと。そうなのか。それでイスラーム教学で「カリフ」を指す言葉は「イマーム」だと。そうだったのか。ぼくはてっきりシーア派で使われる後継者のことを「イマーム」だと思っていたが。

カリフとは
なかなか興味深いのが、内乱の概念規定をするため「カリフ」に定義を与えたということで、イスラーム法で合法性と正統性が承認されていったらしい。それはカリフに反抗する叛徒を賊軍とし、カリフ、そしてカリフを助けるものを「官軍」ということになる。
まずバイア(忠誠誓約)が締結され、前任カリフの指名があり、カリフとなる。そしてカリフになる諸条件があれば、たとえ邪悪な人間でもイスラーム的教養が欠けていても、カリフ位は締結されるという。
「イスラームは、『誰がカリフであるか』を決める人間や機関を視度的に設けることはしなかった。カリフ制は、人間の心の外のどこかに『対象として(objectively)』存在するのではなく、ムスリム一人一人の心の中に、いわば「主体的に(subjectively)存在する」(166)
「カリフ(イマーム)」とはイスラーム学によって定義を与えられたイスラーム学の概念だり、カリフ制とは一義的にはイスラーム学者の心の中にあるのであり、イスラーム学者がカリフ制の擁立義務を承認している限りは存在している」(166)

イブン・タイミーヤ
スンナ派のカリフ制復興運動のほとんどがサラフィー主義に由来しているという。サラフィー主義はイブン・タイミーヤに理論に求められる。
イブン・タイミーヤはアンチテーゼをだす。シャリーアが命ずるに従うべきであり、それに逸脱する者、それがカリフであった場合、それは反抗ではなく討つべきものとなる。これはタイミーヤのイルハン国への批判のようで、モンゴルはシャリーアではなくモンゴルの法(サヤ)に従っていて、チンギス・カンを神として崇めている。
タイミーヤは、カリフがウンマの中で最も大きい権力を有する者であって権力の源泉ではないとする。それ以前ではすべての職能はカリフに源泉があるとされていた。
タイミーヤはカリフを相対化していく。カリフもイジュティハードをしなければならない、つまりクルアーンとハディースを指針とすることで、それは万人もそうなのであるように、カリフもそうあるべきとした。
ウラマーゥ(イスラーム学者)は「預言者の相続人」で、その権威はシャリーはに由来し、カリフも従わなけれればならない。そしてその源泉はムハンマドが開示した「知」にあり、それを裏付けるものは。預言者に遡るパーソナルな「知」の相伝の学統となる。これはカリフ帝国という制度的な枠組みを越えて、イスラームのネットワークをつくりだした。

解放党
サラフィー主義の亜種である政党で、政治理論の四原則(憲法草案第20条)が以下、
1 「主権(スィヤーダ)はイスラーム法(シャルウ)に帰属し、人民にではない。
2 権力(スルターン)はウンマに属する。
3 ただ一人の国家元首の任命がムスリムの義務である。
4 イスラーム法の立法化は国家元首のみの大権であり、彼が憲法ほかすべての法律を制定する。
そして為政者が不信仰の法律で統治をした場合は、為政者に対して武装蜂起や奪権闘争が義務となる。
ただし解放党は放伐の義務は、あくまでダール・アル=イスラームにおいてとして、ダール・アル=クフルへの義務ではないとしている。そのため、サラフィー・ジハード主義とは異なっている。
現代ではすべてがダール・アル=クフルであり、そのため武力闘争ではなく、党の思想を広め、文化活動、政治闘争を経て、最終段階でカリフ制樹立を目指す。

イスラーム国の意味
アール・アル=シャイフは、背教を二種類あるという、個々人の信仰だけでなく、統治システムに関わること。
だから、西洋の人が定めた法によって統治することは不信仰なものとなる。
そしてこれが「ジャーヒリーヤ論」の基礎づけとなる。「ジャーヒリーヤ」は「無明」という意味のようんで、これを克服するためにジハードを説く革命論となる。
カリフ論において、アル=カイーダは同胞団と同じく、地方国家レベルでイスラーム国家を作っていき、それらを最終的に統合してカリフ制を樹立させるというもの。
ただし、アル=カイーダはそれ以上の具体的なプランがあるわけではなく、イデオロギー色は薄い。だからこそ多くのスンナ派組織のハブ機能をはたした。
アブー・バクル・バグダディ―はイスラーム国をつくりカリフになることは、領域国民国家システムへの挑戦であり、サイクス・ピコ協定体制を破棄したことを宣言している。
イスラーム国は知らず知らずのうちに残虐な全体主義的政警察国家のやり方をしているが、このようなカリフ制が出現したことはウンマ全体の責任だという。「民主主義」「中道」「人権」などの西洋の概念で、保身を第一に作り上がられた中東の国家は、イスラーム国のようなカリフ制を誕生させた。中田さんはイスラーム国は、このような責任を自覚しないウンマに対する試練、神の鞭としてこの世に送られた存在だという。

イスラーム法の聖俗
近代に政治の枠組みでは、イスラームは「政教一致」と見なされるが、イスラーム法の運用は神的霊感とは無縁なものであり、信仰による理解は不必要である。
イスラーム法体系が成立し、法学者が成立する。そして法も世俗化する。イスラーム法はたしかに神的啓示であるが、だからといって「宗教的」とはいえない。法の起源は「宗教的」だろうが「世俗的」だろうが、起源は必然的に「神聖」かつ「非合理的」だからだ。アメリカの独立宣言にしろフランスの人権宣言しろ、「神聖」「聖性」をもとにしている。イスラーム法だけを「宗教的」と呼ぶのは不適切。
イスラームにおいては法と宗教は完全に分化していて、カリフ政権は行政のみならず法においても、宗教とは分離した「世俗」政体といえる。
そして、領域国民国家は必然的に全体主義への道をひらく。イスラームはキリスト教とは違い、個々人の内面の信仰には干渉しない。言うまでもなくカリフにもその権限はない。住民はたんにイスラームの公共性を外面的に遵守すればよい。

イスラーム法の統治
「この大地はアッラー以外の誰のものでもなく、それ故、この大地をバラバラに切り刻み、その間の移動を制限することは何人にも許されない。西洋の領域国民国家のイデオロギーとは対照的に、イスラームではムスリムが別々の国家に属することを禁じている。なぜならアッラーは『まことに私はあなた方を男と女に創造し、また民族と部族としてお互いを知り合うために造った。』(クルアーン49章13節)」(183)だから、国境を廃止しイスラーム秩序のもと大地を統合することが要請される。
「カリフ制とは、一言で言うなら、『法の支配』を実現することにより、人間を阻害する偶像神リヴァイアサン領域国民国家の姿で発言した人間によr支配ぁら人類と大地を開放する「持続可能な良き統治(sustainable good governance)」である。」

2020/01/08

『カラマーゾフの兄弟』ドストエフスキー/原卓也訳 新潮文庫

やはりかなりわけわからない小説で、一人語りが激しく、しかも感情の起伏がすさまじい。
ドストエフスキーの文学を読むと、文学とは語りえないものを語れる形式なんだと心から思うもので、変に要約したりすると肩透かしくらうくらいどうでもいい話なんだけど、それをくどくどと書くことで、怨念のようなものが憑りついていく。
いろいろとこの小説では考えさせることがあるのだけれど、ひとつは人間が人間を分析することの高慢さへの批判だろう。この小説には、いっさいの精神分析や心理学の見方を寄せつけないものがある。
この小説はやはり「家族」がメインテーマなのだろう。
そして、バラバラのカラマーゾフ親子が財産のことでもめ、女のことでもめ、親殺しで裁判にかけられる。ドミートリーは有罪、イワンは病に倒れ死の床、アリョーシャの旅立ち。ヒョードルの死によってカラマーゾフ家はバラバラになる。
そしてイリューシャの死によってもたらされるスネギリョフ家の和解とアリョーシャやコーリャたちの絆がラストを飾る。

「いいですか、これからの人生にとって、何かすばらしい思い出、それも子供の頃、親の家にいるころに作られたすばらしい思い出以上に、尊く、力強く、健康で、ためになるものは何一つないのです。君たちは教育に関していろいろ話してもらうでしょうが、少年時代から大切に保たれた、何かそういう美しい神聖な思い出こそ、おそらく、最良の教育にほかならないのです。そういう思い出をたくさん集めて人生を作りあげるなら、その人はその後一生、救われるでしょう。そして、たった一つしかすばらしい思い出が残らなかったとしても、それがいつの日か僕達の救いに役立ちうるのです。」(下、653)

2020/01/06

BEETOVEN Quartet in C sharp minor, Op.131, Julliard String Quartet, RCA VICTOR, LSC2626/ベートーヴェン 弦楽四重奏曲第14番 ジュリアード弦楽四重奏団



BEETOVEN
Quartet in C sharp minor, Op.131
Julliard String Quartet
Robert Mann(violin)
Isidore Cohen(violin)
Raphael Hillyer(viola)
Claus Adam(cello)
RCA VICTOR, LSC2626

ジュリアード弦楽四重奏団による、ベートーヴェン弦楽四重奏曲第14番。ニューヨークのレコード店で購入。やはりニューヨークいったらジュリアードのレコード買うべきかなと思い、$12と少し高かったけど。
ぼくははじめてジュリアード弦楽四重奏団の演奏を聞いたのだけれど、やはりアメリカということもあって、ヨーロッパの弦楽四重奏団とは違って、癖がないなーと。
バリリ、スメタナ、タカーチなどの弦楽四重奏団なんか、けっこう濃い演奏をする。まあぼくにはフランス的だとかハンガリー的だとかの違いまでわかるほどではないけれど。
ジュリアードの場合、そういった癖がなくて中性的な演奏になっている。
とはいっても、個々の演奏家ではヨーロッパからアメリカに渡ってきた一世もいるかもしれないけど。
例えば第二楽章のロンドは、ヨーロッパの弦楽四重奏団なんかだともっと舞踏のリズムを刻む演奏でシャープなんだけど、ジュリアードは非常にフラット。
でも安心感があります。鬼気迫るような緊張感もなくて、のびやかなで全体的に明るい。
そして4人の演奏家で音楽を作り上げているなーという感じ。第一ヴァイオリンだけが突出するようなものがなく、一体感が強い。
ぼくなんかが言うのもおこがましいが、完成度が高い。
けども、正直言えば、物足りなさは否めないか。泥臭さがない。

2020/01/05

『大分岐――中国、ヨーロッパ、そして近代世界経済の形成』 K・ポメランツ、川北稔監訳 名古屋大学出版会

僕が高校生のころから、なぜ産業革命がイギリスで起こったのかが疑問だった。なぜフランス、イタリア、中国ではなくてイギリスだったのか。
当時、歴史の教師に質問したことがあるけど、囲い込みと技術革新が起きたから、としか言ってくれなかった。まあその程度の解答しか得られないとはわかっていたが。

本書では18世紀初頭に分岐が起こってたことを論じていて、かつポメランツ氏は分岐の要因を、社会制度や哲学、そして科学革命には求めていない。一定の評価をするが、それでも決定的要因として扱うべきではないとする。
まず東アジアでは労働集約型の産業がメインであるという考えを否定している。すでに東アジアではプロト工業あって、西ヨーロッパと同程度の収益性があったし、また、日本でもよく言われている、中国は中華思想を伝統的にもっていると言われているが、歴史学にこの説が入り込んで、中国でのヨーロッパ品が売れない理由となっているようだ。ポメランツ氏は、日本を含む東アジアでは、ヨーロッパで生産する品は自分たちで生産ができて、別にヨーロッパ産の需要がなかったからということ述べる。
ヨーロッパでは確かに時計などの精密機械は世界で唯一無二の製品で、東アジアに輸入されていたにせよ、数では知れたものだった。
やはりポトシ銀山の銀ぐらいしかヨーロッパは輸出できるものがなかったようだ。
とにかくも、西ヨーロッパでも東アジアでも消費社会がある程度成熟していたし、贅沢品の需要もあった。
などなどまとめようとしたけど、めんどうくさくなってきた。つまりは社会制度や資本投資などで、余剰資本が西ヨーロッパでたまってきて、それが爆発して産業革命がおこったということに異議もだしている。

著者は石炭とアメリカ大陸が分岐をもたらしたと述べている。
石炭はロンドンでとれて、輸送コストがほとんどかからず使用できた点でイギリスには優位に働き、そしてアメリカ大陸は、イギリスが限界に達していた資源をイギリス本土に替わって供給してくれたし、食料もイギリスで生産した工業製品を大量に買ってくれる存在でもあった。
つまり科学技術が発展しようが、それを活用するための環境がなければ蒸気機関の発展もおこらなかった。イギリス以外のヨーロッパの国にも中国にも蒸気機関を活用する術がなかった。彼らが蒸気機関の技術をもっていてもだ。
ヨーロッパの繁栄を、偶然とまでは言わないまでも、分岐が起こる蓋然性を低く見積もっていて、ヨーロッパ文化の優越を否定している。
(石炭は宋の時代にはすでに使われていたけれども、輸送コストが高いために大量に使うことができなかったらしい。)

そして、経済発展というのは環境を人間が食い物にすることであることがよくわかる。ヨーロッパも東アジアも18世紀初頭までには、すでに人口増加と経済面での発展が、資源や居住地は限界にあり停滞していた。そんななかアメリカ大陸がもたらした富は余剰の富をイギリスにもたらしていった。
アメリカ大陸は土地の制約を開放していった。

とは言っても、中国、日本がアメリカ大陸をもっていたとしても、イギリスと同じように産業革命を起こすことができたか、と言えばわからない。著者が言うように「ヨーロッパの奇跡」といってヨーロッパの分岐を16世紀からの始まったとするのも、肯定できないし、そもそも「ヨーロッパの奇跡」ではなくて、「イギリスの奇跡」だ。

2020/01/04

「法駕籠のご寮人さん」司馬遼太郎短篇全集二

山崎烝と三岡八郎は法駕籠で鉢合わせをする。
お婦以は養父母が死に、そして夫に先立たれ、口入れ屋の法駕籠をまかされることになった。松じじいは、女ざかりのお婦以のために、山崎と三岡に話し相手になって欲しいことを伝え、二人は頻繁に法駕籠に通うようになる。
困った山崎と三岡は松じじいの、ここ法駕籠で情報交換をしながら金策をすればいいという提案をうける。
松じじいはお婦以が山崎に恋をしていると思い、手を焼くがお婦以の煮え切らない態度にいらいらしながら、山崎は鳥羽伏見の戦いに向かことになる。
山崎がいなくなったあとも三岡は法駕籠にかよっていた。そんなとき松じじいはある晩にお婦以と男がまぐわっているところを見てしまう。
松じじいは、そこでお婦以は三岡とできていたんだと思ったが、維新後、法駕籠をしめるとき、お婦以は松じじいに、手代の庄吉と一緒になることをいう。

法駕籠が提供する料理が法隆寺料理というのだが、これが聖徳太子の時代の中華料理だという。そんで高野山の精進料理は弘法大師が伝えたもので、唐代の中華料理ということになり、ということは法隆寺料理は日本で保存されている最も古い中華料理ということで、なかなかおもしろい。
この短篇はおもしろいですね。
新撰組の山崎烝と倒幕の三岡八郎が、法駕籠で友情をはぐくむ。
そして松じじいのキャラクターがよくて、おせっかいにも悪推量、そしてお婦以を孫娘のようにかわいがっていて、なんともほほめましい。
最後のオチも、まあ予想はつくものだが、それでも読後感が清々しいもの。
そしてこの短篇に流れる通奏低音が、新撰組も倒幕も商売でしかないという、身も蓋もない。そしてそれに殉じる山崎や三岡のおかしさよ。

2020/01/03

「神々は好色である」司馬遼太郎短篇全集二

葛城ノ山で祀られている一言主命は遠い昔のことを、ニッポン人がまだそういう名前を持っていなかった昔のことをはなしだす。
長脛彦の村の者が、異相の男女を捕えた。一言主命は背が小さく、吉野川ぞいの「国栖ノ人」で長脛彦とは同種族ではないが知恵に長けていた。ナガスネヒコの種族は朝鮮半島から出雲えおへて大和へはいってきた子孫だ。
捕えられた男女は、皮膚は黒くまぶたは二重、鼻はたかく、唇が熱い。それは挑戦種族とは異なっていた。
話を聞くと、彼らは海族であることがわかる。
大和では朝鮮族の種族、アイヌの種族などが仲良くくらしていた。そこに海族の男女がやってきたのだ。
男女は殺される前にまぐわいたいことをもうしでる。一言主命は縄をといて、その最後の願いをかなえてやるように進言する。
男はそのことに感謝しつつ、いずれ海族が大和におりたつことを予言する。まぐあいの後、石で頭を割られて殺されてしまう。

一言主命は長脛彦から難波ノ津に海族の大軍が押し寄せていることをきく。長脛彦は何かいい知恵はないかとききにくる。
長脛彦は、海族が自分たちの神々、天照大神や大国主命などの神々が海族の神々で、もともと豊葦原千五百瑞穂国も海族のものであると主張していると嘆いていた。
一言主は兄である阿太雷に相談し、秘策をたてる。宇陀の天鈿女命にあいにいくことする。
宇陀では巫女だけが大和から隔離されていて、異性に飢えていた。一言主は何度も犯されながらも、一人の巫女にあう。天鎮女は奥手のため、男を力ずくで犯すこともできない。一言主を天鈿女命のもとへ連れて行く。そのとき一言主は天鎮女を愛おしくなり、まぐわう。そして「常世」までも一緒にいることを誓う。
ようやく天鈿女命にあい、事情を話す。
殺し合いは無益、戦後は宇陀の天鈿女命がまぐわいの指令が各部落にいくようにした。出雲族、海族とを一夜にいっせいに合衾させ二種族の混合による新しい種族をつくりあげるという。
一言主は海族の首領、熊のような人相である神日本磐余彦火火出見尊、世にいう神武天皇と会う。
「彼の仕損である日本の硬質は、出雲族とのながいあいだの混血によってすっかり柔和な人相になりはててしまったが、もとをただせば朝潮型の雄渾凛烈たる骨相だったのである」
一言主から美しい出雲の娘があてがわれることを聞いてまんざらでもなさそうな様子。
一言主は首領にたのみ天鎮女だけは、海族とかかわらないようにしてくれと頼む。
海族はつぎつぎに出雲族を攻略していき、そして宇陀の女とまぐあっていった。一言主は約束通り、天鎮女を迎えに行く。
「海鳴りのような。大和のすべての男女が、いま、いのちの営みのなかにある。あたらしい種族が生まれようとしている音だ」
「アタシタチハ?」
「ああおれたちか。おれたちは、あんな大衆とは別だ。初夜は葛城ノ山についてから迎えることにしよう。おれは、いつも、そういう流儀だからな」

ぼくは日本の神話を全然知らないから、この話の元ネタとかあるのかどうかわからない。おそらくは司馬さんのほぼ創作で、出雲族が朝鮮系であり、海族がポリネシア系で、その混合が日本人というのを神話をモチーフに、古事記をもとに大幅な創作をしているもよう。
日本人はどこからやってきたのか、というのは司馬さんにとっては一つのテーマだったと思う。このテーマで長篇小説を書くことはなかったけど、対談やエッセイなんかではとりあげていた。
古代日本については、吉田武教授の本をいくつか読んだくらいでほとんど疎い。古事記研究では、西郷信綱の本を読んだことがあるけど、さっぱり忘れてしまった。正直、資料自体が限られているし、どこまで実証的に考古学として成立っているのかも疑わしい。
おもしろいのは、大和というちっぽけな地域で繰り広げられる話なんですね、これが。なんともスケールの小さい話なんです。
神々が登場していても、彼らも大和盆地で暮らしているし。
司馬さんは、おそらくだけど、この小さい世界観を描きながら日本人の精神性を描こうとしたのかもしれない。どこまでも日本は島国でしかなく、大きな大陸とは異なる思想があるというやつ。司馬さんが、日本史上で世界的な人物としてあげるのは空海ぐらい。

2020/01/02

「下請忍者」司馬遼太郎短篇全集二

伊賀喰代の郷士百地小左衛門配下の下忍猪ノ与次郎は、スグリの娘木津姫と関係をもっており、木津姫から一緒になれるように父にたのんでやると言われるが、平野ノ馬童子と一緒に脱走する。
与次郎らを育てた老忍たちは自分たちの老後の安泰のためにも、与次郎らを必要としていた。というのも老いた忍者はスグリから情けで食わしてもらっている存在でもあるから。
馬は捉えられてしまい、木津姫は自分と一緒になるように馬に説くが、馬は「いろぐるいめ」と罵って拒絶する。
馬の仕置をわら猿、黒傷、柘植ノ妙阿弥がその役をうける。かれら老忍たちは、みづから死をえらぶかたちで馬に切られていく。わら猿はその場から退散し、余生を乞食でもやるながら暮らしていこうときめる。
わら猿は京へでてきて、与次郎とであう。与次郎は群衆に幻術をしているとこだった。わら猿は与次郎に忍びをつづけるようにいい、今川方鵜殿の蒲郡城に行くように提案し、添書をかいてやるという。その代わり、鵜殿の用が終わり次第、伊賀に戻り小左衛門一家を切ることを交換条件にした。
徳川家の鵜殿攻めがはじまり、伊賀者が城に攻めてくる時、馬と小十にあい、与次郎は切り捨てる。
その後、与次郎は伊賀の下忍仲間の復讐の恐怖から伊賀へもどる。
スグリを斬ったところで何も変わらないと諦念がわき、刀をくさむらに捨てる。そこに輿がやってきてのるようにいわれ、いわれるがまま連れて行かれたところで降りると、喰代百地家の屋敷だった。そこに名張服部党の郷士服部孫右衛門がいて、名張服部家の楊志になれと言われ、促されるままいくと、綿帽子をかぶった木津姫がいた。

この短篇は『梟の城』を書いているときと重なる。
ここでも司馬さん特有の人生観がでている。翻弄されたあげくは思いもよらなかったところにでてくる、というやつですね。
「下忍」という概念が、この小説にも暗さをもたらしている。そして老いた忍者たちの末路なんかも悲しいものだし、現在の忍者受容には、その源でもある司馬遼太郎のこの特有の忍者描写の暗さを、不思議にも引き継がれていない。『梟の城』もけっこう暗さとか残酷さがある話なんだけどね。

2020/01/01

「十日の菊」司馬遼太郎短篇全集二

美術骨董商下司安は、敗戦直後の不振期に大量の骨董品を二束三文で購入し、購入するために乞食のような生活をし続けてきた。
昭和三十一年ごろから美術ブームになり、下司安は乞食から億万長者になった。
にもかかわず、下司安は下司安でゆくつもりだった。
下司安は、金持ち相手に商売するために、知り合いの石松に案内され、バー「みお」にいく。そこで乱痴気さわぎを起こす。
「お前も知ってるとおり、小学校しかでへんでえ。せやけどな。酒、ちゅうもんが、酒屋に行ったら売ったァつりゅうことは、ちゃんと知っとる。ところがここへきたら、そのおンなじ酒が、十倍も二十倍にもなりよるわい。差額だけ下司うならなあ、損やないか。相手が暴利屋なら、こっちもその気でいく。」
「どうせわれかて、ドブ板育ちのくせに、舌噛むみたいな言葉使うな。上品ぶるのはわれの趣味かもしれんが、下司ぶるのは、わいの趣味や。どこの世界に、金まで出して人の趣味にあわせにゆくやつがあるかい……何とか物を云え。”空家の雪隠”かい」
「なんですの」
「肥(声)がない、ちゅうこっちゃ」
武田鉄矢の漫談みたいになってる。
下司というなら酒場のマダムもよっぽど下司で、浅はかな事大主義と金儲け主義があるだけじゃないか。下司安の下司は歴とした人生観がある。氷のような孤独がある。
下司安はバーから出入禁止となる。

下司安はマダムの白木恭子に恋したのでは思った。そこで趣味の菊の手入れをしていると、白いスーツを着た小柄の女性が通りかかる。石松の会社の受付をしている曾根
幸子だった。菊の手入れをしている下司安をよくみていて、声をかけてきた。
下司安が育てる菊は品評会でも格調が高いと評判で、しかも鉢は李朝の白磁ときた。
それを下司安は、そんなことを知らない幸子にその場でくれてしまう。

下司安は「みお」にいくと、うってかわって白木恭子は下司安をもてなすと、恭子は下司安が一億円の骨董品を持っていることを知ったのだとわかった。
恭子は投資で失敗をし、借金ができてしまった。そこで下司安に頼んでみると、あっけんく承知してしまう。下司安は恭子を妾にしたりとかではなく、すでに興味をうせていた。ちがう魂胆があった。借金を肩代わりするかわりに「みお」の前の庭に画廊を建てることを恭子に了承させる。

下司安は、幸子にあげた菊を見に行く。十一月三日に品評会があり、それにあわせて丹精に育ててきた。下司安は、どうも幸子に恋をしてしまったようで。
十日目、ベランダから菊は消えていた。幸子は嫁に行く日だった。

なかなかの話でして、司馬さんの小説の常ではあるが、男の純情みたいのをよく描くわけです。一方では女の薄情さを描いたりもするわけです。
おそらくは司馬さん、あんまり女性という生き物が好きではなかったと思われる。
別に、ことさら女の悪口をいうわけでもないのだけれど、にじみでてくる女性性の酷薄さを描くのがおおい。
たとえばこの作品。下司安の純情さとうって変わって、幸子は何も知らないながらも、菊と白磁を手に入れて、下司安には何も言わずに嫁に行っちゃう。
なんのことはないのだけれど、司馬さん、この幸子をたんに物を知らない女とか、純粋そうに描いているけれど、どこか薄情さを残しながら描写しているわけです。
これは司馬さんの女性の描き方にみられる傾向で、まあ読者が男どもを想定しているからというのものあるけど、にしても女性への歩み寄りは司馬さんはあまりしない。
まあそれはいいとして、これも面白い作品でありましたよ。

2019/12/31

「盗賊と間者」司馬遼太郎短篇全集二

佐渡八は顔の右半分の肉が削がれて、眼のくぼみさえなかった。左頬からあごにかけて、するどい刀傷があった。佐渡八は腕のある泥棒だったが、厳戒態勢の京で捕まってしまう。与力の田中松次郎は佐渡八を買い、裁かずに解き放ってやる。佐渡八はこの時の恩を忘れずにいた。そして釈放のとき清七という若者を連れていくように言われる。
佐渡八は、泥棒をやめてうどん屋をはじめる。そこに新撰組が現れて、壬生の屯所での営業を許される。
清七に連れてこられたおけいは一緒にうどん屋を手伝う。清七とおけいは長州の間者で新撰組の同行を監視していた。
山崎烝が登場する。
「うどん屋。どうもわしは、むかしお前の顔を見たおぼえがある」
「なあんや。あほらし。貴方さんは、針医の赤壁堂の留右衛門はんやないか。いつ転業しなはった」
「気安う言うな。いまでは、会津中将様御支配新撰組副長助勤の山崎烝といえば、京では知らん者がないはずや」
「よりによってみぶろになるとは、ようお父つぁんが承知しやはったな」
「それが耿々一片の氷心というやつでな」
「なんです、それは」
「武士やないとわからん」
「針やが武士かい」
「こいつ」

長州の間者であることがばれてしまい、三人は逃げる。
おけいが佐渡八を頼ってやってくる。そこでおけいは佐渡八と一緒に暮らしたいと告白するが、佐渡八はそれを拒絶する。
維新後、清七とおけいが訪ねてくる。清七は一山あて、逆に新撰組の連中ははずれをひいた。
佐渡八はおけいに恨み言を言われながら、おけいには物味遊山のようにぶらぶら生きるのがいいと、負け惜しみをいう。

新撰組の哀しみがよくでている。百姓町人が旗本、大名になるべく新撰組にはいったり。そして逆に官軍側の軽薄さというのも清七をとおして描かれていて、なかなかいい。
このころの司馬さんはまだ英雄を題材にしていなくて、市井のひとびとを扱っている。
佐渡八の人物描写なんか、非常に優れているとおもう。

2019/11/29

「泥棒名人」司馬遼太郎短篇全集二

盗賊江戸屋音次郎は海鮮物問屋に泥棒に入った時、玄達と出会う。そこで長屋の隣に引っ越してきた易者だった。
音次郎は、大坂にきてお蝶を女房にもらうが、その掛け合いがおもしろい。
音次郎は玄達に、大阪城にある火切り国元を盗む勝負をもちこみ、音二郎は大坂城に忍び込み盗み出すが、じつはそれは玄達が前もって仕込んだものだった。
玄達は音二郎に女を盗み出してほしいという。玄達はみずからの家系や生い立ちをはなしはじめる。
役小角が信貴山で夫婦の鬼を大峰山に住まわせる。その鬼の末裔が自分であるとつげる。北鬼の所領は熊野の奥にあり、誰も嫁ぎに来ない、だから代々嫁を盗んできた。女はあまりに山奥で自分の境遇をあきらめるのだという。
音次郎は玄達の申し出を受け、黄檗寺にいる女を盗みに行く。
「しかし、なんだな。お前はきっと佳い女だろうな。闇の中でもわかるんだ」
女の細引を締めながら音次郎は言った。

落ちは途中で気づいてしまう。
盗むことが愉しくて盗む、っていうのもいいですね。泥棒にたいしも情が湧いてしまう。
少し物足りないところがある。
例えば、ラストの落ちでもう少し音次郎の開き直り感がほしいしところかな。
音次郎とお蝶の会話は、司馬さんのユーモアが光っている。
大阪弁の司馬遼太郎の文章を読んでいると、ある種落語を思い起こさせる。
そう、漱石の『吾輩は猫である』の「オタンチン・パレオロガス」のくだりのような感じ。

2019/11/28

「和州長者」司馬遼太郎短篇全集二

欣吾は嫂の佐絵と関係をもち、睦言を言う。自分のせいでこのような関係になったとか。
事が終わり、嫂が部屋に戻る。欣吾はそのまま寝るが、突然兄采女が入ってきて佐絵が死んでいる、そして佐絵は誰かに犯された痕があるという。欣吾はバレるのではないかと心配するが、兄は疑っている様子がなく、さらに体裁から病死したことにする。
中間の団平が、初七日の日、佐絵と関係をもったものを集める。団平、采女、小間使いの源右衛門、欣吾が集まり、采女は佐絵は不義を働いていたことを知る。
源右衛門は佐絵を無理矢理犯しており、佐絵はその口直しで欣吾と寝ていた。ただ佐絵が死んだ日はめずらしく順番が逆になり、激しく犯された佐絵は、心臓も弱かったこともあり、死んでしまう。
関係をもった順に座が決められる。和州のしきたりだという。そして四つ徳利に一つ毒が入っている。それを上座から選び、飲み干していく。その後、お開きとなり、欣吾は自分が毒入りを飲んだのではないかと恐れる。
のち、死んだのが団平で、采女から団平が酒盛りの際に述べていた、佐絵を最初に抱いたのは自分であると言うのは作り話であることを告げられる。そして、団平は佐絵に恋をしていて、自ら毒をあおって死んでいったという。
采女は家督を欣吾にゆずり、隠居することを欣吾に告げる。采女は最後、欣吾を蹴り飛ばす。

和州は大和のことだが、おそらく司馬さんは大和人である団平の損得のないまことの恋心を描こうとしていたと思うが、あまりフォーカスできていない。
それでも文章がいいので、読ませる読ませる。司馬さんの文章というのは、どこか明るいし、さっぱりしているので、この手の男女の情愛を描くには苦手かなと思う。
団平の佐絵への思いを、もっと妄執的なもので描いていたらと思う。どろどろした情念とか、一方的な団平の佐絵への思いを描写していたらと思う。
でもそれをすると司馬遼太郎ではなくなってしまうけど。