2021/07/29

『数の発明――私たちは数をつくり、数につくられた』 ケイレブ・エヴェレット/屋代通子訳 みすず書房

んー基本的にはおもしろい内容ではあるが、結局は数を扱うことは本能なのかそれとも文化の影響なのか、というとまあ後者の方が強いね、という内容。
人間は10進法が標準であり、えてして10進法は遺伝子に組み入れられていると考えられたりするが、そうではないんだよと著者は言っている。2進法も12進法も60進法なのかは、文化で異なっていく。
そして数詞が存在しない言語があり、ピダハンがそうだと。実験では3を越える数になると正答率が低くなると。3を越える数は、人間は「だいたい」でしか把握できない、という主張はそうかもしれないなと思う。カントも『純粋理性批判』で同じような話をしてる。直感かどうかってやつ。
ということで、すべてに共通する法則はない、という結論をするんだが、いやあるんじゃないのか。そして数を数える上で身体、とくに手指を使っていたり、というのは人間の共通したものかもしれないが、でも数詞なんかは遺伝子レベルで組み込まれていないという。
んーまあね。
大きい数になれば、それは実際に認識している数ではなくて、概念になる。で、その境目が「3」ということ。
数を必要とするのは、やはり農耕社会においてで、それが複雑になればなるほど帳簿をつけるうえでの数は必須なものになっていく。これはさもありなんというところでしょう。
農耕社会だからこそ、時間や年月が重要になっていく。時間も概念だし、年齢や何歳離れているのかも概念だ。高度な計算なんかあたりまえだけど概念だし。
でも、だからといって生成文法という説は覆せていないわけではないが。

2021/07/28

『白鯨 MOBY-DICK』 夢枕獏 角川書店

いちいちかっこいい。

ジョン万次郎が実はピークオッド号に乗っていたというお話で、考えてみればメルヴィルとかって同時代の人なんだな。

「われらは、死んだら海になればよい。海の底で、海の生きものに喰われ、やがて、スターバックスであったか、エイハブであったかなど、何もわからなくなってしまうのでいいのだ」(24)

「そのホトケは、嵐を鎮める力があるのかい?」
「ある」
ここは、万次郎は、迷わずに口にした。
「しかし、その力があるかどうかということより、こっちの願いを聞いてくれるかどうかだな」(263)

「あたりまえの事実を、あたりまえに告げた――そんな顔をしている。自分の死を告げながら、その表情に恐怖も何もない。むしろ、どちらかというのなら、その声にはわずかながら悦びの響きすらあった。」

「人は、いつも、正しい道を選ぶとは限らぬのだ。おおかた、人は、間違った道を選ぶ。しかも、人は、間違った答えを手にしてしまっても、そのことに気づかぬ。たとえ正しい答えを見つけたとしても、それが正しいかどうかということにも気づかぬのだ。いやそもそも、正しい答えがこの世にあるのかどうか」(412)

「時に、物語は、予定調和を拒否する。答えがないことが答えの時があるんだよ。物語は混沌でいいんだ。混沌――カオスこそが物語の本質だよ。……物語には、結末なんていらないんじゃないかと思う。だって、そうだろう。」(453)

2021/06/21

コロナ雑感

この馬鹿馬鹿しさは、言語を絶する。
死者が少ないと対策のおかげだと言い、ワクチンを打てば安心だとかほざく。
ワクチンを打ったら実家に帰れるだとか、ワクチン打てば人と会えるとか、バカなのか。勝手に会えばいいじゃないか。
外を出れば、ほぼ9割がマスクをしていて、何を何から守っているのか。
全てが対策をやっている言い訳をしているだけの行動。しかもそのやってる感には一切のアイロニーもない。パフォーマティヴなものが単に再生産されていくだけ。
日本の表現も劣化したようだ。全てお上の言うことを聞き、それに従う。すこしは面従腹背を学ぶべきだ。

太平洋戦争とコロナ騒動を比較なんかできないが、ただし太平洋戦争時の人々がいかに人を抑圧し、自由を剥奪し、相互監視をしていったのかが、今回のコロナ騒動でよくわかった。
数年をまたずコロナ以前の日常が戻ってくる。それまでパーパー騒いでいた奴らはもコロナを忘れていく。
残されるのは、弱者であり、不信感であり、虚像だけ。
大多数の愚民たちは、ふつうに生活をしていく。
なんて気持ちの悪い、おぞましさだろう。これが人間の良いところだとも言えるが、にしても醜悪すぎる。

もう社会にも日本にも期待するのはやめる。
宮台真司が昔、日常を絶望しながら生きろ、みたいなことを言っていたと思うけど、いまならこの言葉の意味が十分に理解できる。
絶望しかない。だから日々を生きていこうと思う。淡々と、粛々と。

2021/06/15

末摘花

ひでい話。
夕顔を失くした光源氏は、故常陸の宮の娘に興味をもつ。そしてあばら家みたいな落ちぶれぶりをみながら心躍る光源氏。
胴長で、赤い鼻。
ベニバナのような鼻で、この鼻を揶揄しまくる。
醜悪なのが、紫の上と絵描きで戯れながら、自分の鼻に紅をつけたりして、末摘花を馬鹿にしつつ、紫の上となんか仲のいい夫婦のようだとかで、いい感じの雰囲気をだしたりして、最悪だな。
つーかですね、光源氏が末摘花に許諾もせずに、襲い掛かるなんて、すげーな、強姦魔ではないか。周りの女たちも、まあ光源氏だし、まいっかー的な感じで見て見ぬふり、末摘花自身は恥ずかしいけど、まんざらでもない感じで。
末摘花の面倒をみてやるようになるが、それが光源氏の優しさだとかなんとかいうようだが、本当にそうなのかな。『源氏物語』の受容の歴史を知らないがそこまで光源氏を持ち上げることもなかろうかと思う。
この「末摘花」は滑稽話になっているし、特に光源氏の人格云々がどうでもいいような気がします。

2021/06/14

若紫

光源氏はロリコンじゃないとかなんとか言う人もあろうが、まあロリコンです。ロリコンの定義とは何かですが、初潮を向かえる前の少女を性の対象とみることでしょうか。光源氏はさすがに10歳そこそこの紫の上と枕をともにはしないが、しかし明らかにその将来を夢想している。歌にも読み込んでいる。
そして誘拐犯であること。紫の君の父親が迎えにくることを知った光源氏は、夜更けに紫の上をかっさらっていく。
んーすげえな。
言い訳としては、紫の君の継母がいじめるから救出したといえる。たしかにね。そういう場合は誘拐まがいのことでもしないとだめではあるな。
でも光源氏の場合は、道徳的行為と性的欲求行為が一致しているため、「色魔やろー」と罵りたくもなる。

蛇足ながら、瘧に光源氏ががなったことから話がはじまる。瘧、そうマラリア。戦後日本でいつのまにかマラリアがいなくなるが、驚くべきことになぜ日本でマラリアが根絶してしてしまったのかわかっていないらしい。

とりあえず、若紫まで読んでみたが、なかなかラノベみたいなお話であるし、なぜに本居宣長は『源氏物語』至上主義をとるようになったのか不思議でならない。
けっこう軽薄な読み物であることがよくわかる。

2021/06/13

夕顔

さてここで悲しい夕顔の話。光源氏と恋をしてしまったために、悪霊に呪い殺されるという悲しさよ。まず光源氏が夕顔に言いよる理由というのが、下の下に良いもんがあるだろうという理由から。腐っている。
で、この怨霊が六条の御息所の生霊だとか。ただ本文を読んでみても、六条の御息所と光源氏の関係性が見えてこない。和辻が言うように、全くもって不完全なかたちとなっている。
この怨霊が誰なのかがどうも議論になっているようだが、とりあえず作品自体が不完全な状態で残っているわけだし、詮索してもよくわからないのは確かだけど、「葵」との関係で読めば、時系列がおかしいにせよ六条の御息所であるのは妥当だし、でなければ誰なの? 他の登場人物では弱くないかと思う。
「葵」では、生霊となったことを六条の御息所も自覚し、光源氏も彼女が生霊であることを認知している。だからそのあと別れることになるわけで。だから、ここの怨霊は六条の御息所ではないということもわかる。
でも、伏線とみても悪くない。

ただし描写はなかなか美しいところではある。山彦がこだまするなんていうのも、情景描写としては古典的だけど、「源氏物語」自体が古典中の古典なのでいいでしょう。怨霊も非常に簡潔な形で描いていて、想像力がかきたれれるではありませんか。
でも、夕顔の死後の光源氏はけっこうひどいもので、夕顔が死んだの逃げちゃうし。死体の処理を他人に任せちゃうし。
頭中将と夕顔との間に娘がいることが判明するが、これが玉鬘と。

2021/06/10

和辻哲郎「『もののあはれ』について」を読む。

「「もののあはれ」を文芸の本意として力説したのは、本居宣長の功績の一つである。彼は平安朝の文芸、特に『源氏物語』の理解によって、この思想に到達した。文芸は道徳的教戒を目的とするものでない、また深淵なる哲理を説くものでもない、功利的な手段としてはそれは何の役にも立たぬ、ただ「もののあはれ」をうつせばその能事は終わるのである、しかしそこに文芸の独立があり価値がある。このことを儒教全盛の時代に、すなわち文芸を道徳と政治の手段として以上に価値づけなかった時代に、力強く彼が主張したことは、日本思想史上の画期的な出来事と言わなくてはならぬ。」(221)

「「あはれ」は悲哀に限らず、おもしろきこと、楽しきこと、おかしきこと、すべて嗚呼と感嘆されるものを皆意味している。」(222)

ではなぜ文芸の独立を「もののあはれ」によって成立するのか。
「もののあはれ」は「心のまこと」「心の奥」であるという。何か。

「すなわち彼にとっては、「理知」でも「意志」でもなくてただ「感情」が人生の根底なのである。従って、表現された「物のあはれ」に没入することは、囚われたる上面を離れて人性の奥底の方向に帰ることを意味する。」(224)

本居宣長はいかなる感情も「もののあはれ」といっても、それでは浄化作用として機能しない。そこで制限を加える。
自然的な感情ではなくそれを克服した「同情」、感情が純であること、深く知ること、感傷的ではない真率な深い感情
これらの制限を設け、「「物のあはれ」は、世間的人情であり、寛いhumaneな感情であり、誇張感傷を脱した純な深い感情であることがわかる。……自己を没入することは自己のきよめられるゆえんである……かくて彼が古典に認める「みやび心」、「こよなくあはれ深き心」は吾らの仰望すべき理想となる。」(226)

「彼のいわゆる「まごころ」は、「ある」ものでありまた「あった」ものではあるが、しかし目前には完全に現れていないものである。そうして現れることを要請するものである。……彼が人性を奥底を説くとき、それは真実在であるとともに当為である。」(227)

「「もの」は意味と物とのすべてを含んだ一般的な、限定せられざる「もの」である。……究竟のEsであるとともにAllesである。「もののあはれ」とは、かくのごとき「もの」が持つところの「あはれ」……にほかならぬであろう。我々はここでは理知及び意志に対して管所言うが特に根本的であると主張する必要をみない……そうしてその根源は、ここのもののうちに働きつつ、個々のものをその根源に引く。我々がその根源を知らぬということと、その根源が我々を引くということは別事である。「もののあはれ」とは畢竟この永遠の根源への思慕でなくてはならぬ。歓びも悲しみも、すべての感情は、この思慕の内に含む事によって、初めてそれ自身になる。意志せられると否とにかかわらず、すべての「詠嘆」を根拠づけるものは、この思慕である。愛の理想を大慈大悲と呼ぶことの深い意味はここにあるであろう。歓びにも涙、悲しみにも涙、その涙に湿おされた愛しき子はすなわち悲しき子である。かくて我々は過ぎ行く人生の内に過ぎ行かざるものの理念の存する限り、――永遠を慕う無限が内に蔵せられてある限り、悲哀をは畢竟は永遠への思慕の現われとして認め得るのである。」(229)

「「物のあはれ」とは、それ自身に、限りなく純化され浄化されようとする傾向を持った、無限性の感情である。すなわち我々のうちにあって我々を根源に帰らせようとする根源自身の働きの一つである。文芸はこれを具体的な姿において、高められた程度に表現する。それによって我々は過ぎ行くものの間に過ぎ行くものを通じて、過ぎ行かざる永遠のものの光に接する。」(230)

「「物のあはれ」という言葉が、その伴なえる倍音のことごとくをもって、最も適切に表現するところは、畢竟平安朝文芸に見らるる永遠の思慕であろう。
平安朝は何人も知るごとく、意力の不足の著しい時代である。……貴族生活の、限界の狭小、精神的弛緩、享楽の過度……意志の強きことは彼らにはむしろ醜悪に感ぜられたらしい。それほど人々は意志が弱く、しかもその弱さを自覚していなかったのである。……飽くまでも愉悦の杯をのみ干そうとする大胆さではない。彼らは進む力なく、ただ両端にひかれて、低徊するのみである。かく徹底の傾向を欠いた、衝動追迫の力なき、しかも感受性においては鋭敏な、思慕の強い詠嘆の心、それこそ「物のあはれ」なる言葉に最もふさわしい心である。我々はこの言葉に、実行力の欠乏、停滞せる者の詠嘆、というごとき倍音の伴なうことを、正当な理由によって肯くことができる。
かくて我々は「物のあはれ」が平安朝特有のあの永遠の思慕を現わしているのを見る。」(231-232)

「「物のあはれ」は、厳密に平安朝の精神に限らなくてはならぬ。」(233)

「「物のあはれ」は女の心に咲いた花である。女らしい一切の感受性、女らしい一切の気弱さが、そこに顕著に現れているのは当然であろう。しかも女が当然の最も高き精神を代表するとすれば、この女らしい「物のあはれ」によってこの時代の精神が特性づけられるのもまたやむを得ない。……それは男性的ななるものの欠乏に起因する」(235)

これ以上に「もののあはれ」の論考はないかと思う。

2021/06/08

和辻哲郎「『源氏物語』について」を読む。

和辻哲郎『日本精神史研究』(岩波文庫)を繙く。
和辻は本論考で、桐壺と帚木との関係を説いており、現在では源氏研究では当たり前のようだが、たしか秋山『源氏物語』(岩波新書)では、和辻のこの論文を紹介し、ここから源氏研究の道筋が創られたとか書いてあったかと思う。

「我々の知るところでは、光る君はいかなる意味でも好色ではない。しかも突如として有名な好色人光源氏の名が掲げられれうのは何ゆえであろうか。」(205)

「「語り伝へけむ」とはこの物語、この後の巻々のことである。かく宣長がこの発端の語に注意すべきものを見いだし、これを全篇の「序」とさえも認めた事は、彼が古典学者としてよき洞察力を持っていたことを明証するものであるが……世人は彼を好色人というが、しかし実は「なよひかにをかしき事はなく」、好色人として類型的な交野の少々には冷笑されるだろうと思える人なのである。

『源氏物語』を読んでいて、当惑するのが、あたかも「みなさんご存知のように」と言ったように人間関係だとかが出来上がっているようで、読者に相応の前提知識を要求する。例えば「夕顔」で六条の御息所は唐突すぎる。和辻も書いており、「六条あたりの御忍びアルキ」という一語が光源氏との情事を暗示させるものとはなっていない、読者はそれを絶対に悟りえないと言っている。(210) これは心強い言葉である。
夕顔との恋が単なる一挿話にすぎない印象があるのもそのとおりで、六条の御息所と藤壺との恋が本作のテーマであるのだが、それ記述も薄い。
つまりは源氏の物語は、当時すでに伝説となっており、いくつかの原型となる物語は流布していたり、宣長からすれば帚木は桐壺系の物語による光源氏への誤解を批判するために書かれているしているようで、この場合、帚木は桐壺の後に書かれている。
とにもかくにも、『源氏物語』が、現在の形となったのも不明だし、現在の順番は書かれた順でもない、と。

「『源氏物語』の芸術的価値については、自分は久しく焦点を定め惑うていた。」(216)

そう和辻は『源氏物語』を本居宣長のように絶対的なものとして見なしていない。

「古来この作が人々の心を捕えたのは、ここに取り扱われる「題材」が深い人性に関与するものなるがゆえではなかろう。」(216)

和辻は『源氏物語』の描写の不十分さを指摘する。視点が定まらず混乱していることを批判する。主格をのぞいて書いておきながら、薫、姫君、作者の視点が相接しており、悪文であると。
では和辻はこの物語の何を美しいとしたのか。

「最も美しい部分は、筋を運ぶ説明によって連絡せられたこれらの個々の情景である。」(219)

そしてさらにこの物語の作者を紫式部一人に帰すことができないこと、そしてこれは複数の執筆者が紫式部を筆頭とする「一つの流派」が描いたのかもしれないと想像する。構図のまずさ、源氏の人格のなさなど、『源氏物語』は多くの困難がある。
しかしこの物語から「一つの人格を具体的存在としての主人公を見いだすことができなくもない。

「それは自己の統御することのできぬ弱い性格の持ち主である。しかしその感情は多くの恋にまじめに深入りのできるだけ豊富である。従ってここに人性の歓びとその不調和とが廓大して現わされる。この種の主人公が検出させたれたとき、『源氏物語』の構図は初めて芸術品として可能なものとなるであろう。」(220)

弱い性格、次に収録されている「「もののあはれ」について」で論じられることと関係している。

とまあ、和辻哲郎は「源氏物語」に一定の距離を置いている。正岡子規の古今和歌集批判の延長として見る向きもある。モダニズムからみて平安文学の不完全性というかあまりに技巧的すぎるところなど、感情を二の次に置いているところなんかが、正岡子規以降の平安文学批判だと思う。
しかし、和辻の言わんとしていることを、こういったモダニズムの枠組みだけで捉えるのは、和辻への敬意もなくしているものと思う。そもそも1889年生まれで、すでに近代への懐疑をもって育っている。だからこそ彼はハイデガーやニーチェなんかをやっていたわけですし。
人間は時代の制限から自由ではないにしても、和辻は「源氏物語」の評価の仕方では、けっして偏っているとはいえないと思われる。

2021/06/07

空蝉――源氏物語

空蝉と逢瀬を楽しもうとするが、空蝉の継娘である軒端荻を間違って抱いてしまう。光源氏は途中でどうも肉付きが違うと思い、空蝉ではないことに気づくが、そのまま続行。軒端荻には世を憚れることでもあるので、忍んでまた逢おうみたいなことを言う。
光源氏のひどさは、空蝉の弟である小君に、お前はあの女の親類だからずっと面倒なんかみてやらない的なことを言う。小君はそれを聞いて泣いちゃうし。ひどい奴。
空蝉は、蝉の抜け殻のこととで、夜這いにあった空蝉が逃げる際に単衣をおいていったことに由来。光源氏も変態なので、その単衣を持ち帰る。キモイな。
しここでは現実の女性が光源氏との逢瀬を拒絶する女性像が書かれる。帚木での品定めで論じられた女性論のようなかたちで男の勝手ばかりにならず、思うようにはいかない現実が書かれる。
光源氏の成長物語としての通過儀礼と読める。この挫折をバネにもっと羽ばたくようだ。

2021/06/06

帚木――源氏物語

帚木は桐壺とは別の序論として位置づけられるようで、前巻の桐壺を直接受けての話にはなっていない。

帚木系十六巻
帚木、空蝉、夕顔、末摘花、蓬生、関屋、玉鬘、初音、胡蝶、蛍、常夏、篝火、野分、行幸、藤袴、真木柱

まず「雨夜の品定め」である。
ん-しかし、時代が違えど、男たちの女性論は普遍であるような気がしてならない。ここで論じられれている女性論はもちろん現代では大っぴらに公表はできないし、こんなことを現代の作家が書いたら叩かれてしまう。しかし、呑み屋では今もって語られていることと同じようなものである。
あまりに悋気がすぎることを嫌い、ちょっとした浮気ぐらい大目に見ろといって、別れ話を切り出すと女はニヤニヤしてそれに言い返したりする。いやーなかなかおもしろい。女も黙っておらず、左馬頭の指一本を咬みつく。このあたりもなんかおかしみがある。女は女でニヤニヤしながら対応しているし、男をコントロールしようという意志がありそうな話になっている。しかし女は死んでしまうが。男はその女の郷愁にしたり、あれ以上の女はいないだとかぬかす。
ちょっと現代風で変わった女と付き合うよりは、しっかりした女と付き合った方がいいみたいなことも、まあ今と変わらない普遍性を感じる。
この「指食いの女」は『白氏文集』の「諷諭詩」の「上陽白髪人」から引かれているらしい。紫式部はここで女の人生の怨嗟を描いているようだ。にしてもなんか馬鹿馬鹿しい話にも見える。
中将の妻がニンニク臭いとかも、どこかのんびりしているが、女の人生の儚さがでている。

しかし、それに気が付かぬ男どもよ、と紫式部は言っているかのようではないですか。人それぞれ恋愛論はあるけれど、時代が変わっても一般論としての女性論は変わらずといったところでしょう。これはまあ男性からみた女性論、結婚論であり、これを受けて、光源氏の空蝉との逢瀬となる。

方違えだからというので紀伊守の家に行く。女房たちが来ているから手狭であると暗に紀伊は断ろうとするが、光源氏は、人が大勢いるからいいんだと押し通す。この時光源氏十七歳。なんとも数寄者だこと。
光源氏は心臓に毛が生えたような奴で、紀伊守の継母(空蝉)を抱いてしまう。

2021/06/05

桐壺――源氏物語

満を辞して、「源氏物語」を読む。谷崎の新訳版。
現代語訳とは言いつつも、かなり難しい。主語がなく、敬語で判断したりするのはかなりしんどい。
そして和歌がよくわからないのが悲しい。長恨歌や古今和歌集などを引いているのだが、さっぱりよくわかない。このあたりは致し方なし。
時代背景を学びながらなので、相当の気力が必要と思われる。

桐壺系十七巻
桐壺、若紫、紅葉賀、花宴、葵、賢木、花散里、須磨、明石、澪標。絵合、松風、薄雲、朝顔、少女、梅枝、藤裏葉

なかなか『ガラスの仮面』や『エースをねらえ』的な話になっている。
桐壺更衣の部屋まで行くのに数多くの局の前を通らなければならないが、送り迎えする人々の着物の裾を汚す仕掛けをしているとか。どんな仕掛けなのか牛糞とか人糞とかか。中核派の「ナイーヴ作戦」さながらの嫌がらせです。
果ては桐壺更衣は死んでしまう。
ここで光源氏の人生がはじまる。帝に愛されるが、どうも「帝王の相」があるからということで、源姓をもらい臣籍に下される。光源氏は帝王の素質があるが、桐壺帝は世が乱れることや光源氏がいじめられることを心配しての措置のようす。
桐壺更衣亡きあとに藤壺が現れて、帝は元気を取り戻し、光源氏は隠れ恋慕。んーどういうことでしょう。

ちなみに光源氏が元服の際に葵上が副臥となるが、これがなんと光源氏の添い寝役の意味だというからね。光源氏は十二歳で、葵上は少し年上で十六歳、そんな年頃の少女が添い寝してくれるなんて、羨ましすぎる。
これだけですでにエロい妄想が全開となる。十二歳というとすでにオナニーも知っていてもおかしくないお年頃であり、そうなってくると葵上を光源氏はちょっとこいつは趣味じゃないと思っていても、性欲は抑えることは難しいことと思う。

日向一雅『源氏物語の世界』 (岩波新書)では、ここでいくつかの謎を提唱している。
なぜ按察使大納言は、死後に桐壺更衣を入内させたのか。死後のためすでに一族繁栄という意味ではない。天皇の外戚の地位を得るためではない。ここに明石一族の繁栄物語が重なってくるらしい。
そして白居易の長恨歌が随所で登場し、これは帝の桐壺更衣への「長恨」と藤壺の「形代」が提示され、この主題は光源氏、そして息子の薫にも引き継がれていくという。
さらに「帝王の相」をいかに実現していくのという光源氏の王権物語をなしているという。
んーなかなかおもしろそうではないですか。

2021/05/25

『人口減少社会のデザイン』 広井良典 東洋経済新報社

 前提として日本の財務残高の対GDP比でみると、250%ぐらいあって大変と。

で、なぜこんなことになっているかと言えば、高度経済成長期の夢から醒めておらず、いまだ日本が蘇ると勘違いし、借金をしまくる。しかしそれが将来世代への負担になっている。
そして日本は他国に比べて社会的孤立が進んでおり、社会保障の面からいっても他人の無関心が、人々の支えあいを忌避させていると。

そこで将来の日本のデザインが大きく分けて二つ。
都市集中型シナリオ
地方分散型シナリオ
となり、前者は出生率の定価と格差を広げるが、政府の財政は持ち直す。
後者は出生率は持ち直し、個人の幸福感も持ち直すが、政府の財政は悪化する。
んーどうなのでしょうか。ぼくは基本的には都市集中型であるほうがいいのではないかなと思うのだけど。そもそも地方分散であれな出生率が上がるとか、幸福感が増大するって本当ですか。

まあいいとして、人口減少がもたらす帰結よりも、そんんあ社会をどうデザインするか公共政策経済社会システムの問題が重要。
東京の出生率の低さは際立っているにせよ、でもですね、これって東京は単身者が多いことを意味している。地方は単身者よりも家族が大いに決まっている。だから出生率が高い。
それに資本主義からの脱却的なことを述べているが、どうもね。言わんとしていることはよくわかるが。
クリエイティブ産業、つまり科学、文化、デザイン、教育が経済を牽引していくと。だからねー物を生みだすというのは、工業でもあって、たしかに3Dプリンターとかもあって、大量生産からの脱却というのはある程度達成できるけど。
なんか工場労働というのが非常によくないものという固定観念があるのではないかな。
まあ工場労働は非人間的なシステムだけど、そもそもクリエイティブ産業だって非人間的だ。
たしかに資本主義が単なる市場経済主義とは違うのはそのとおりで、そもそも国家による暴力と独占が富がさらに富を生むというサイクルになっている、これが資本主義の実体だろう。

でも全体のパイが限られてる世界で、とくに現代のように高度成長が望めない時代、そのパイの食いあいをする資本主義の倫理、つまり私利の追及が全体の幸福に繋がるというのは、イデオロギーにすぎないから、もっと違うあり方があるのかもしれない。
日本は「その場にいない人々」つまり将来世代につけをまわす社会になっている。
これはハンス・ヨナスの倫理、世代の責任を見ようとしない状況で、嘆かわしい。

社会保障には三つのモデルがある。税を財源とする普遍主義モデル、保険料で賄う社会保険モデル、民間保険そしてボランティアが主要な役割となる市場型モデル。

コロナ前の著作で、医療の問題も書かれている。勤務医の少なさと開業医の多さ。そして開業医の利権。なんだかね。

『誓願』 マーガレット・アトウッド/鴻巣友李子訳 早川書房

全体的に砕けた感じの、前作のような苦しいさのようなものがなくなる。
いくぶんニコールの存在が軽く、台詞もなんか微妙だし、ギレアデ潜入前の訓練なんかの描写が、ちょっと微妙でありましたね。ドラマシリーズもあるから、このあたりの影響かもしれない。どこかヤングアダルト的なところがあった。

現代社会の負のスパイラル。自然災害、戦争、経済問題、社会問題など。
「人々は不安になっていた。そのうち怒りだした。希望のある救済策は出てこない。責める相手を探せ。」(96)
そしてできあがるのが、全体主義的な社会。皆がお互いを監視しあう社会。今回のコロナ騒動で、はっきりいと身に染みた。

リディア小母も"Tomorrow is another day"と。言ったりしている。侍女の衣服は赤だし「スカーレット」だし。ニコールの養母はメラニーだし。
まあリディアも目的のために手段を選ばないリアリストであるし。

抑圧的な社会で、言説はコンスタンティヴなものではなく、意味がずれていく。信仰心のある言葉が機械的になり、発話者の行為と一致しなくなっていく。
リディア小母が信仰の言葉を発しても、そこに読者はリディアの信仰を見いだすことはない。どこか皮肉めいていて響く。
この現象はリディアだけでなく、全ての登場人物にあてはまり、全登場人物の言葉が行為と一致していかない。
ただし、そこに社会への反抗が読み取れる。リディアとジャド司令官とのやりとりは象徴的になってる。

生殖が機械的な作業であるべきものとして規定されているようだが、実際に存在するのは女性という存在なんだが、その存在を否定し、思弁的な存在として捉えていく社会。
神を信仰することは反理性であるようだが、しかしそこで行われる統治のテクノロジーは理性的だ。だからこそ女性を産む機械として見なす。女性とは、こうあるべきである、という定言命法がいかに人間性を剥奪していくかがよくわかる。

2021/05/19

『侍女の物語』 マーガレット・アトウッド/斎藤英治訳 ハヤカワepi文庫

一人称で進んでいく。
かなり閉塞感のある小説で、詳しい設定はよくわからないところもあり、ギレアデ共和国なるものがいかなる経緯で出来上がった国であるかなどは明確になっていない。
「日常とは、あなた方が慣れているもののことです」(72)。
んーそうなのだよね。日常が変わって、それに抵抗してもみんながその日常を受け入れた時、抵抗者は白い眼で見られる。
オブフレッドは、読者に語りかけていく。
オブフレッドは、いつの間にかギレアデ支配の生活をしていく。子供は奪われ、子供を産む機械としての女性でしかなくなっていく。
少しづつオブフレッドの周囲の雰囲気が変わっていく。司令官に個人的に誘われるようになることだけでなく、セリーナ・ジョイの口調が変わったり、けっこうみんな、ギレアデの体制の中で不満があって、でもそれを外には出さない。とりあえず日常を過ごしていく。
これってソ連の体制みたいなもので、みんなソ連体制の欺瞞を知っているけど、いちいちそれに反抗せず、日常を過ごしていく。
これって単なるフェミニズム文学なのだろうか。
たしかに女性が所有や人権などの権利を剥奪され、生殖に特価された存在とクローズアップされているけど、小母の存在やらもいるし女中もいる。女性社会が出来上がっている。
男も性の快楽を許されているわけではない。

気に入らないのは、解説に落合恵子を持ってきていること。なんでもかんでも従軍慰安婦だとか沖縄に結びつけちゃうバカじゃない。この解説もかなり的外れではありませんか。
「フェミニズムの視点から読むと、わたしには近過去、あるいはいまもって過去完了になっていない半過去の「地球の半分の思い」(女性側からの景色』を描いた作品にも読めるのだ」
まあですね、小説の読み方はある程度自由ではありますが、「近過去」とか「半過去」とかわけのわからないこと言ってないで、きちんと小説の解説をしたほうがよい。
小説で書かれる女性への抑圧を書いて、このディストピアは現在と重なると決まり文句を言って、申し訳なさ程度に男もつらいようだと書いて、んで最後にはみんなで異議申し立てをしましょうって終わる。
なんたる駄文。
この小説のテクストの魅力や一人称で描かれることの効果、さらにけっこう人間関係が複雑であることなど、語れることはいっぱいほかにもある。
「フェミニズム的臭いのする作品を忌み嫌い、矮小化することが特異な文学の世界」ってのはお前の頭の中だけだろ。ちゃんとアトウッドの作品は評価されているじゃないか。
まあですね2001年9月、まさに同時多発テロのときの文章でもあるし、まあいいでしょう。

2021/05/18

『謎とき『風と共に去りぬ』――矛盾と葛藤にみちた世界文学』 鴻巣友季子 新潮選書

『風と共に去りぬ』は映画も名作であることは間違いないが、小説はそれを遥かに越える世界を描き出していて、映画と小説ではストーリーは同じでも描かれているものは全く異なる。

"Tomorrow is another day"も小説を読むと、全く異なる響きがある。「明日には明日の風が吹く」という訳は現在の映画版の字幕では採用されていない。しかしかなり日本では人口に膾炙している表現となっている。そしてどこか希望が響く。本書ではこの訳が帝劇で舞台化した菊田一夫だという。スエレン役を演じたことがある黒柳徹子が「江戸職人みたい」と言ったようだが、言われてみればそうだ、「宵越しの金は持たない」みたいな。
鴻巣さんはこの言葉を、ある種のネガティヴシンキングとしてとらえれている。
そしてなるほどと思わされたのが、ヘミングウェイの『日はまた昇る』で、これも原題は"The Sun Also Rises"。これは旧約聖書「伝道の書」から引かれているとのことで、"The sun rises and the sun sets"だと。
"Tomorrow is another day"はマタイ福音書でも同様のフレーズがあり"take therefore no thought for the morrow: for the morrow shall take thought for the things of itself"「明日のことは思い悩むな。明日のことは明日が考える」となる。
これは人間が考えなくても、神がお与えになる的なことのようで、まあスカーレットの気質ともあう。
「たとえ、今日と代わり映えしなくても、つぎの一日がはじまる。そのなかでなんとか生き抜くしかないというある種の諦念がベースにあり、……だからこそ、何度も挫けながらも人生を新生させ前に進もうとするヒロインの意志がいっそう輝くのである。」(57)

鴻巣さんの訳は本当によかった。岩波版と少し比較してみたが、岩波では括弧で独立してスカーレットやマミーの心情、まさに自由間接話法で書かれているところを、鴻巣さんは地の文のなかで簡潔させている。
「語りてからある人物の内面へ、また別の人物の内面へと、視点のさり気なく微妙な移動があり、それに伴う声の”濃度”のきめ細かい変化、そして、間接話法から自由間接話法、自由直接話法、直接話法に至るまでに、何段階ものグラデーションが存在している。」(154)
『風と共に去りぬ』という小説は、著者の意見というか思想がほとんど読み取ることはできない。小説でよくあるのは地の文で著者の意見や判断が書かれている。『風と共に去りぬ』はそれが見えない、わからない。
そしてこの翻訳でいいなあというのが、話の展開のコミカルさがよくでていることだ。
「シリアス一辺倒、悲劇一辺倒、感傷一辺倒にならず、その後に必ず軽妙、コミカル、あるいは話の腰をおるような反転が織り込まれるのだ」(159)

メラニーこそが母エレンであるというのは、まあそんな感じで、憧れの存在である母エレンになれないスカーレットの反発がメラニーへと向かっている。
メラニーはmelaniaで黒い、暗いの意味。スカーレットscarletは緋色。まさに「赤と黒」。タラの赤土でもあるし。いろいろと暗示的ではありませんか。
母エレンが死んだ時とレットがスカーレットを置き去りを決意した時が一緒なのではないか、という指摘はなかなかいい。
そしてこの小説ではスカーレットのエロスがほとんどないことだ。一度だけレットがアシュリーとスカーレットの噂に嫉妬し、ベッドに強引に押し倒しとたとき、性の悦びに目覚めたのか、と思わせなくもないが、ほんとこれぐらいしかエロスがない。だから、このこの話はまったく性的な嫉妬だとかで話が進まない。
鴻巣さんは『風と共に去りぬ』は単なる恋愛小説ではないという。ほんとうだよ。

蛇足。
スカーレット・オハラの名はもともとパンジーPansyだったという。でもこれは俗語で「ホモセクシュアルな男性、なよなよした男」といった意味があるようで、当時では南部にはまだこの俗語の意味が浸透していなかったらしい。
んで、Pansyだが、『How I met your mather』というシットコムがもうかれこれ10年前ぐらいに流行った。その第一話で、リリーがマーシャルの優しさを皮肉って、
"Please, this guy could barely even spank me in bed for fun. He's all like, "Oh, did that hurt?" and I'm like, "Come on, let me have it, you pansy!" Wow, complete stranger."
「ちょ、こいつはベッドでお楽しみの時でさえ私のお尻を叩くのがやっとで、「ねえ、痛くないかい」ってな感じなのよ。んで私は「カモン、もっとやりやがれ、pansy野郎!」オッオー、知らない人だったわ。」
とタクシー運転手に言うが、このPansyの意味がいまひとつよくわからなかったが、こんなところで長年の疑問が氷解した。んまあ「おかま野郎」ってなところでしょう。

2021/05/07

――エックハルトの神秘説と一燈園生活――『西田幾多郎講演集』 田中裕編 岩波文庫

「エックハルトは心の動きを三つに分けて居る。一つは五感の働き即ち感官と、今一つは考える力即ち理性である。……彼はその上に超理性的な能力(super rational faculuty)があるとした。それは心が一つになった状態であって、前述の感官の働きと理性の働き以外に、今一つの別の働きがあるのではなくて、それらが一つになったときに、純一になったとき、私のないとき、言葉を換えていえば我のいないとき、我を忘れたとき、火花のように現われるFunke(火花)である。この力によって、自分と人との区別がなくなり、自他一体、神と我と一致する働きがあるのである。それは感官あるいは理性で考えていえるのでなくて、それらを棄てたとき現れる光である。光という言葉は、前の時代からあってラチン語ではスチンテリア(scintilla)と言った。」(20)

「自分と他人が一つになり、神と自己が一つになるという、根本思想であり、この根本思想から種々の差別が生じ、物と我と、自分と人、いろいろと分けれてくる」(27)

「智識の奥に、もう一つの智識即ち超理性的ともいわれ、直覚ともいわるべき流れがある。それが我々に真実の智識を与え、我々の声明は、この心の奥に流れて居る智識によって、導かれて行くのである。」(31)

つまりは芸術家の技能は一つの智識ではあるが学問的な智識ではない。働くことによって得られる智識で、「どう描けばいいだろう」という問いに「考えてはいては駄目だ。まあ描いてみよ」というもの。

とまあ、やはり小難しいが、超理性的な能力というの、フロイトのエスとかそんなものとしても捉えられるのかな。無意識的な力。
意識の流れがここでは書かれている。んーいわば意識というのは邪魔な存在でもあり、例えばピアノを弾いていて、意識的に弾こうとすると間違いを犯してしまう。いい演奏をしたなと思う時は、意識的にピアノを弾いていない。
ここではピアノと自己が一致している状況であると考えられ、それは「直覚」の流れがあるということか。
んーむずい。

「草枕」 『漱石全集 3巻』 岩波書店

やはり「草枕」は難しい。漢語なんか、注釈を参照しても難しい。芸術論云々も難しい。
ただこの本はそういう難しいところをうっちゃって、流れに身をまかせながら読むと、いい小説。ターナーやミレーの絵画のような淡さが通奏低音となる。
那美の「憐れ」ってなんなのか。さっぱりわからないけど、いいんですね。
久一も野武士も満州へ行く。にもかかわらず、その現実があんまり現実感もなく描かれている。
坊主たや源兵衛たちの交流にしろ、なんとなく浮世離れしている。
東洋的詩情、ここに極めりといった感じか。

「芭蕉と云ふ男は枕元へ馬が尿するのをさへ雅な事と見立てゝ発句にした。余も是から逢ふ人物を――百姓も、町人も、村役場の書記も、爺さんも婆さんも――悉く大自然の点景として描き出されたものと仮定して取りこなして見様」(12)

人間をなめている。

2021/05/05

――Coincidentia oppositorumと愛――『西田幾多郎講演集』 田中裕編 岩波文庫

「神は無限とはいっても、それは有限を否定した無限ではない。……有限と無限との一致した無限である、即ちCoincidentia oppositorumである。神は総ての反対の統一である。論理的に矛盾したものを統一したものであって、両立しないものの一致を神の性質と(クザヌスは)考えた」(10)

「我は我を知る。知る我と知らるる我とは同一である。……部分と全体とが同一でこれが真の無限であり、具体的には「自覚」がそれである。」(12-13)

論理の連鎖を辿るのではなく、偶然にも全体を直覚し、そこから論理を組み立てる。Coincidentia oppositorumは消極的であるが、愛いおいては積極的となる。

「我等が真に愛するということは自と他の矛盾の一致である。即他を愛するという事が自分を愛する事になる。かく愛の本質はこのCoincidentia oppositorumがもっとも純粋に顕われたものである。」(15)

愛は論理的には説明できないが、Coincidentia oppositorumが生活の愛で、一切の生活の、人間活動の基礎となっている。

なかなか興味深い話をしている。神の無限とは何かが明確に語られている。そしてそれが愛なんだという。ここはよくわからないが、ただ論理では説明できないものがあって、それは矛盾を内包しているというこの感覚はいい。

2021/05/04

『風と共に去りぬ』 第5巻 マーガレット・ミッチェル/鴻巣友季子訳 新潮文庫

んー素晴らしい小説だった。今の今まで読んでいなかったのが悔やまれる。
スカーレットの"tomorrow is another day"の意味が、頻繁に困難なときに登場するが、この言葉の意味がその都度変化しており、単純に面倒なことは先送りというだけでなく、たまに諦念が入ったり。
ラストでこの言葉で終わるが、決して希望のある言葉ではないし、そして決して単に困難を先送りすることを意味しているだけでなく、スカーレットの生き様がまさに最後の言葉に凝縮されていて、リアリストで気性が激しく自己中心的な人物にぴったり。

スカーレットはいつになってもスカーレットのままで、何も学ばない。メラニーが死んで、メラニーしか友達はいなかったと悟っても、アシュリーが色あせても、レットへの愛を自覚しても、スカーレットはスカーレットのまま。
レットへ愛を語っても、どこか自己中心的だし、確かにレットとの会話で怒りを抑制してレットを少し驚かせたりもするけど、なんだかんだでタラへの思いは変わらない。
アシュリーへの愛が醒めても、たんにレットに乗り換えただけでもある。
この小説では、南部は敗北後にレット以外の男たちは皆、クー・クラックス・クラウンに参加する。しかしそんなことをしていても仕方がないと少しづつだが気づき始め、小説の最後のほうではKKKは解散していることが語られる。そしてみんなめいめいが必死に一日を生き言っていることが語られる。ただし、そこでは取り残された者と時代の変化に対応した者とがいた。かつては貴族然としてものが、パイのワゴン販売やら農作業に自らの道を見いだしていく。
物語は少しづつ様相を変えていくのだが、スカーレットだけ昔のままのスカーレットなのだ。
マミーはタラに帰り、メラニーは死んでいく。レットは愛をすりへらしイギリスに行くという。
最後の最後までタラとマミーなのだ。
んー素晴らしい。
フランクが死んだときもたしかに良心に目覚める。でも、そんなことすぐに忘れてレットを結婚してしまう。
アシュリーへの愛が醒めても、レットにすぐに乗り換えるし、レットから愛想をつかされても、タラに帰れば元気になる。
ただここで一番のスカーレットにとっての痛みはメラニーの死のようで、ここで始めてスカーレットは味方が誰もいなくなるのを知る。
実際そうなのだ。アンナ・カレーニナと同様に、周りに理解者がいなくなる。
つねにスカーレットを守るメラニーの存在が輝いている。メラニーも頑固な性格で、南部精神の鑑みたいなものなのかな。

訳者あとがきで自由間接話法について語っている。なるほど。最後にマミーが地の文で自由間接話法になったりしているところも、なかなかいい。(424-425) ここは本当に素晴らしいところで、これまで主にスカーレットの心情だったが、ここで突然マミーの心の声が登場する。ボニーの葬儀のことやレットの落ち込みよう、メラニーの高潔さ、これらが重なりながら、マミーの心が吐露されていく。こんな素晴らしいことはない。
地の文では、著者の味方が書かれているかと思いきや、登場人物の考えや心理描写になっている。
映画では、このあたりの表現はできないので、小説を読み終わった後に見返してみると、なんと映画版が薄いことか。映画では絢爛豪華な描写であったり、風景の美しさがメインになっている。映像美に徹しているといっていい。しかし、小説は風景描写はあくまでタラの美しさとアトランタの喧騒と猥雑さで、スカーレットの心理を描くための素材でしかない。



2021/05/03

『風と共に去りぬ』 第4巻 マーガレット・ミッチェル/鴻巣友季子訳 新潮文庫

あまりのおもしろさに、ゆっくり読むつもりだったのが一気読みとなってきた。
スカーレットはフランクと結婚をして、タラの追徴税を支払う。そしてさらにはレットから金を借りて製材所を経営する。
スカーレットも南部が再び復興することを望んでいる。しかし、その達成方法が異なる。男どもは選挙や投票、KKKなど政治運動によってこれを達成しようとする。しかしスカーレットは金持ちになることで、自分を守り、家族を守っていくことができると考えている。
スカーレットは男どもをバカにしていく。

「男性って、どん底に落ちても目が覚めないのかしら?」
「どうやらそうらしい。けど、プライドだけは売るほどあるんだ」トミーはまじめな顔になった。
「プライドね! プライドって素晴らしく美味しいんでしょ。特にくずれやすいパイ皮みたいで、メレンゲをのっけて食べたら最高ね」(126)

きついお言葉で。
スカーレットというのは、なかなか複雑に描かれている。スカーレットは基本的に子供が嫌い。自分の子供にもあんまり感心がない。が、そんな彼女も子供達にはひもじい思いをさせたくない、幸せな、安全な生活を送ってほしいとも思っている。(95)

この小説の複雑さの一つは黒人奴隷問題の描き方で、南部はたしかに奴隷制であったし、貴族趣味をしていた地域。で、黒人に対する認識を、北部と南部の違いを書いている。

ヤンキーの女たちが子供の乳母がほしい、アイルランド人の乳母がほしいと考えている。でもスカーレットは黒人の乳母を勧めるが、ヤンキーの女たちは黒人に自分の子供を預けられるわけがない、と。スカーレットはマミーを思い出す。エレンに仕え、スカーレットに仕え、しまウェイドの世話を焼いている。スカーレットは思う、

「やさしい手。このよそ者たちは黒人の手のなにを知っているというのだろう。 彼らのてはどんな愛おしく、安らぎを与えてくれるか。その手はその時々で、やさしくなだめたり、ぽんとたたいたり、そっとなでたり、何をするにも間違いがない」(140)

そしてさらにピーター爺やまでも「ニガー(黒んぼ)」と馬鹿にしていく。ピーターはいまだかつて白人から「ニガー」と侮辱されたことはない。んでピーターのここでの回想がちょっとおもしろく、

「大佐は今わの際でわしにこうおっしゃたぞ。『ピーター、わたしたちの子どもたちの面倒を頼んだぞ。頼りないピティパットも世話してやってくれ』そう言われたのだ。『あればバッタ並みの分別しかないのだ』と。それ以来、ピティさまのことは、それは大事にしてきたのじゃ」(141)

オールド・ペットと侮辱されたピーターはなんかピティを逆にペットみたいに扱っている様子。
父ジェラルドが落馬で死んでしまった。スカーレットがその経緯をウィルから聞いていて、逆にスエレンを讃えたりする。

「十五万ドルですって」スカーレットはそうつぶやきながら、誓いへの抵抗感があっさり薄れていくのを感じた。すごい大金じゃないの! それは、合衆国連邦政府への忠誠を誓う書類にサインするだけで手に入るなんて。……そんなささいな嘘をつくだけで、こんな大金が手に入るなんて! そういうことなら、スエレンを責められないわね。やれやれ!」(206)

とここでもプライドを重んじる南部人を馬鹿にしていく。
フォンテインおばあさんのウィルとスエレンの結婚を認めるかどうかをスカーレットに確認して、スカーレットは確信をもって認めるところ、

「では、わたしに帰すをしなさい。……いままであなたのことをあまり好きになれなかったのよ、スカーレット。子どもの頃から、ヒッコリーの実みたいに頑固で、わたしは自分はさておき、頑固な女性は好かないからね。とはいえ、ものごとに向かい合うあなたの姿勢は買っているんだよ。どうにもならいと分かったら、どんな嫌なことでも、つべこべ騒がない。そうして腕のいい猟人みたいに、柵をみごとに越えてしまう」

ここのやりとりもみごとで、おばあさんはウィルとスエレンとの結婚をあたかも認めているかの口ぶりで、しかもウィルを非常に買っている。でも雑種とサラブレットの結婚を認めるわけがないと言ってスカーレットを面食らわせる。
このあばあさんは多くのことをリアリストとして見えていて、アシュリーが使い物にならない男であること、それをメアリーのおかげで成り立っていること。スカーレットにはヤンキーやクズ白人から絞れるだけ絞れとまで言う。
フランクやアシュリーの行動がスカーレットの責任であるというなかで、メラニーだけが彼女をかばう。

「スカーレットは悪くなんかありません。彼女はただ――すべきと思うことをしただけよ。同じように男性たちも、すべきと思うことをしたの。人間にはそれぞれ己のなすべきことがあるし、しなくてはならない。」(424)

さすがはメラニー。何か宗教的使命感を感じる。

2021/05/02

『11の国のアメリカ史――分断と相克の400年』 上 コリン・ウッダード 岩波書店

上巻では独立までの北アメリカの移民の状況が書かれているが、これがなかなかおもしろい。
11の国は独立13州のことではなくて、明確に線を引けない文化領域を指している。
エル・ノルテ
ニューフランス
タイドウォーター
ヤンキーダム
ニューネザーランド
深南部
ミッドランド
大アパラチア
レフト・コースト
極西部
ファーストネイション

まずsteteとnationの混同があることを指摘している。そしてアメリカは世界で唯一、独立国家としての地位statehoodと国民であることnationhoodとが交換可能な人々であるという。
stateとは国家であり、いわば国連だとかへの加盟資格をもつもののことで、nationは共通の文化、民族、言語、歴史を共有していると信じている集団をさす。
故に日本はネイション=ステイトとなる。クルドやパレスチナ、ケベックはネイションであるがステイトではない。うひょひょー

なかなか興味深い指摘なのが、北アメリカへ新たに移住してくる者たちは、何世代か経ながら同化していく。移民たちが移住地の文化を多少なにかしらの影響を与えなくもないが、みんなが折り合いをつけていく。
んで、僕は全くと言っていいほどアメリカ史に疎いんだけど、基本的にアメリカへの移住者はヨーロッパからのエクソダスした人たち、信仰の自由を得るために新天地を求めてきた人たちというイメージがあったが、必ずしもそうではないし、むしろもっと複雑だとわかる。

エルノルテでは、スペイン人とインディアンとの混血も進んでいたし、そのためエルノルテでのカースト制も崩壊していく。エルノルテはメキシコの封建的な中心部とは異なる。自給自足的、勤勉かつ能動的で、暴政を容認しない人々であるそうだ。しかし政治的なものはスペインの影響をうけており、農奴なんかも制度として存在した。また家父長的でもあったし、宗教にも熱心もある。

ニューフランスはだいたいいまのケベックで、ここは現代においても寛容な社会を築き上げている。ド・モン公ピエール・ドゥグアとサミュエル・ド・シャンプランで二人はフランスでの宗教戦争にも疲れ、ユートピアを建設するために新世界へとやってきたという。とはいいつつも彼らが描いていたのはフランスと同様の封建制であったようで。しかし宗教には寛容でプロテスタントにも入植が許されていた。インディアンとの関係も良好にたもっていた。

タイドウォーターは現在のバージアニ周辺。ここはまずジョン・スミスがジェームズタウンをつくり開拓していくが、これは大勢の死者をだす事業だったよう。これは『1493』でも書かれていた。その後イングランドの王党派がやってきて、インデアンを追いやり巨大なタバコのプランテーションをやり始める。ということもあり、タイドウォーターでは貴族的な寡頭政治が主流になる。小作人や奴隷をつかってプランテーションを営んでいく。
んで、ワシントン、ジェファーソン、マディソンなどの建国の父たちはバージニア州出身でみなプランテーションの領主だった。だから彼らは決して民主主義者ではなく、古典的な共和主義者だったということだ。古代ギリシャ・ローマに範をとっていたつーことだ。
タイドウォーターでは街の建設ではなく、農村社会が出来上がっていた。
タイドウォーターでは非常に中世的な紳士像が残っており、何かあれば決闘もするし復讐もする。

ヤンキーダムはピルグリムにはじまる。彼らはイギリスの王党派のような理念を嫌っており、新しい社会、実践的宗教ユートピア、カルヴァンの教えに基づく神政国家の建設を目指していた。彼らピューリタンたちは自分たち以外の宗派に非常に非寛容であった。
そして迫害されて新世界にやってきたと思われがちだが、事実そういった面もあるが、多くは宗教的実践を徹底させるために移住してきたという。
彼らには使命感があった。そしてこの使命感、アメリカ例外主義、「明白な運命」をもたらしてきた。
そしてヤンキーたちはタイドウォーターのようなノルマン人のもつ文化を嫌っていた。

ニューネザーランド。つまりは現在のニューヨーク市。ニューヨークがまさにオランダ西インド会社が治めていた当初から貿易で賑わっていた。通商の自由が優先課題であり、さまざまな民族がひしめき合っていたよう。
多様性、寛容、社会的上昇志向、個人的企業心など現代ニューヨークらしさがすでにできあがっていた。
経済でも科学でも政治でも哲学でも、最先端の国だったオランダ。当時のオランダの文化の影響を受けていた。
とはいっても支配層はエリートであり、さらに言えば、タイドウォーターや深南部に奴隷を輸出していたのは、ここの商人だった。だから南北戦争のときも当初はヤンキーにつくつもりはなかったとかなんとか。

深南部への移民たちはバルバドスからやってきており、バルバドスのやり方をそのまま踏襲してプランテーションを作り上げていく。そして自分たちはタイドウォーターと同様にノルマンの末裔としてアングロサクソンやケルトを見下していた。
そして最もアメリカらしさの原型がミッドランドだという。すなわりペンシルヴァニアであり、フィラデルフィア。クェーカというヒッピー的、平和主義、アナーキズムなどイカレタ連中だったようだ。だから政治がまったくできなかったようで・・・。

大アパラチア。ボーダーランド、つまりはイングランドとスコットランドの境で戦争に耐え忍んできた人々が入っていく。彼らは貧しく、教養もなく、刹那的で。何か財産をもつこともせず、牛などの牧畜で生計をたてたりしていく。誰かに服従するのを嫌い、奴隷制にも嫌悪していた。他のネイションからはたんに怠惰な人たちに見えたようで。彼らの感心ごとは富ではなく、強制からの自由の極大化であった。ボーダーランドの人々はインデアンに溶け込んだり、白人インデアンになったり、婚姻をむすんだりしていく。

ということで独立戦争。これもなかなか解釈が難しいところで、みんながみんな独立したかったのではなく、イギリスが結構強硬路線で、妥協なんかしないでやってきたから戦争になってしまったところがあるようだ。
そもそも北部ヤンキーが反王室でもあるが、お茶を沈めた事件だってボストンだ。ミッドランドでは革命には興味ないし、アパラチアではそもそも統一的な見解なんかなく、イギリスの方が自分たちに自由を与えるならイギリスだしといった基準。
という感じで統一的ではなかった。憲法は妥協の産物であり、オランダ的な権利章典もあり、南部の選挙人のようなまさに共和主義の思想、拡張主義のヤンキーや南部を抑えるために州権の強化などなど。とりあえず全てが妥協の産物ではじまっている。

どうも独立戦争によってアメリカはイギリスの軛から逃れることができたが、統一国家ではないと言える。

2021/05/01

『風と共に去りぬ』 第3巻 マーガレット・ミッチェル/鴻巣友季子訳 新潮文庫

だんだんおもしろくなって参りました。
タラにようやく戻ったスカーレットたち。スカーレットは過去を二度と振り返らないことにする。エレン・オハラの教えを振り払い、手に豆をつくりながら生きていく。それでもタラへのスカーレットの思いは変わらなかった。
スカーレットは泥棒に入ったヤンキーを銃で撃ち殺すし、ヤンキーどもがタラの屋敷から略奪しにきたときも毅然と対応していく。メラニーに対してもどこか親近感を抱く。
スカーレットは相変わらず現実主義者で、ケネディ・フランクがやってきてスエレンと結婚は経済的に迎える用意ができてから結婚することをスカーレットに伝えるが、スカーレットは一人口減らしになると期待していたのにとがっかりしたりする。
死んだと思われたアシュリーの帰還したときが、またおもしろい。メリーがアシュリーに抱きつき、スカーレットも有頂天になってアシュリーに抱きつこうとすると、ウィル・ベンティーンがスカートを掴んで止めるところ。(213)。とってもコミカル

スカーレットがアシュリーに金策を相談にしにいくと、アシュリーは自分には助けられないことを伝えるところ。ここはなんだかんだ、いい場面で、アシュリーという内気な性格の持ち主が、戦後の南部におかれた現実になかなか向き合えない状況が述べられる。スカーレットのような現実主義者とアシュリーのような内腔的な人物とで、戦後の生き方が明確に分かれていく。

「ぼくはずっと人付き合いを避けて生きていたろう。よくよく選んだ友人とだけ付き合っていた。しかし戦争に教えられてが、あれは夢の人々が済む自分だけの世界を築いていたということだ。人間が実際にどんなものかも戦争に教えられたが、彼らとどうやって暮していくかは戦争も教えてくれなかった。これからも分からないままじゃないかと思うんだ。とはいえ、今後、妻子を養っておくには、自分と似ても似つかない人たちばかりの世界でやって行かざるを得ないようだ。スカーレット、あなたは世の中の角をつかんで、自分の思うようにねじ伏せてしまえる人だ。でも、ぼくはこの先、世界のどこに居場所があると言うのだろう? だから怖いと言っているんだよ。」(240)

んー、よくわかりますよ。ぼくも自分がしている仕事がいかに自分の精神世界とあっていないか、常に苦痛を感じ生きている。まだぼくは生易しい世界で生きているからいいものを。
アシュリーは自分には何も残っていないが、スカーレットには赤土が残っていることを伝える。
スカーレットはそこで決心をする。

「一度は必死で追いかけた人だもの、家族ともどもひもじい思いをさせるわけには行かないわ。もうこんなこと二度と起こらないし」(254)

スカーレットはレットに結婚もしくは愛人になるためにアトランタへ行く。しかしレットは助けることができないことを伝えて、意気消沈した帰り道にケネディ・フランクに会う。そこでスカーレットは標的をレットからフランクに帰る。スカーレットはレットの助言をそのまま言うことを聞く。男を誑しこんでいく。フランクは経験不足でスカーレットの罠にはまっていく。スエレンの婚約者を奪おうとする。
マミーはスカーレットの選択を全面的に指示をする。マミーはなにもかも理解した上で黙ってスカーレットを手助けしようと端から決めている。マミーとスカーレットのやりとりなんかも非常にいいんですよね。

「おまえなんか、とっとと〈タラ〉へお帰り!」
「「無理に〈タラ〉へ帰そうとしたって駄目ですよ。あたしはいまや自由の身なんです」(399)

んーなかなかおもしろい。マミーは奴隷の身から解放されているが、それでもオハラ家に、スカーレットの傍にいることを決めている。
南部の敗北はどこか共感をしてしまうのが日本人の性でしょうか。

「敗戦してなお敗北を知らず、打ち砕かれてなお決然と背をのばして立つ人々だ。じつのところは、叩きのめされて無力な、支配下の人々だ。自分たちの愛する国が敵に蹂躙され、悪党たちが法を嘲笑い、かつての奴隷に脅かされ、男性たちは選挙権を奪われ、女性たちが侮辱されるのを、なすすべもなく見ているしかない。つまりは、記憶を堆積した墓場のようなものだ。」(414)

「旧世界のあらゆるものは変わってしまい、残るは形式だけだった。かつての慣習はいまも続いており、続けていかなくてはならない。いまの彼らに残されているのは、そうした形式だけなのだから。」(415)

そんななかでスカーレットはわが道を行くことを決心する。

2021/04/30

『荘子――古代中国の実存主義』 福永光司 中公新書

本書は荘子を実存主義に近づけて論じているが、必ずしも荘子が実存主義として扱っているわけではない。

「それぞれの人間が現実の痛苦と死とに直面して今という時間を生きている事実であり、問題はただ、それぞれの人間が現実の痛苦と死とに直面した今という時間をどのように生きるかである。荘子の哲学はこのような精神の極限状況から出発する」(7)

人間の存在それ自身は善悪の価値批判を超えている。そしてこの世のに必然によって投げ出された自己に対してだけ責任をもてはよい。
荘子の哲学を徹底した現実主義、現世主義をとる。
人間は寄る辺もない孤独を曠野のなかで彷徨している「一匹のこぶた(獣偏に屯)」のようなものだと。
荘子は人間存在をその上限からとらえるのではなく下限からとらえる。人間は生まれながらにして「身体障碍者であり、醜き者、貧し者、虐げられた者である。しかし全ての存在は必然的な理由をもって存在している。人間存在を全宇宙的規模で把握する。

「人間の声明のいとなみは常に一つの有機的な全体であり、そこでは全体を全体としてとらえる叡智が何よりも重要だからである。(17)

抽象的な思考ではなく、どこまでも現実的であり具体的であり、そして全一的である。
曰く、「生命なき秩序よりも生命ある無秩序を愛する。彼らにとって大切なのは理論そのものではなく現実であり、法則そのものではなくて生きることであった。」(18)

2021/04/21

『風と共に去りぬ』第2巻 マーガレット・ミッチェル/鴻巣友季子訳 新潮文庫

南北戦争勃発とアトランタの荒廃、そして南部の敗北。
かなーりおもしろい。スカーレットの自己中心さが暗い話に花を添える。
本書では南部の武器の貧しさが書かている。北部では最新式のライフル銃なのにもかかわらず、南部ではマスケット銃だったり。バトラー曰く、南部には戦争するにも武器は綿花と傲慢さしかないとか(16)、ひどい言われよう。医療品もなく、軍需物資もない。食料は先細りしていき、アトランタでの生活も日増しに悪化していく。

スカーレットはメアリーに内緒でアシュリーの手紙を読むが、興味があるのはアシュリーが事細かに書いてくる戦争の状況や戦争のバカさ加減ではなく、あくまでもアシュリーのメアリーへの愛の言葉だとかそんなことばっかり。
しかも戦争がまだアトランタから遠いときは、スカーレットはその状況を歓迎し楽しんでいた。戦争は人を享楽的にするし平時のような礼儀作法もすっとばすものがあるようだ。看護しながらスカーレットは傷病兵に色目を使う。

レットは完璧なまでにリアリストで、ミード医師との言い争いでは、

「戦争というのはいずれも神聖なものでしょう。戦いに出される人々にとってもは。もし戦争を始めた人たちが神聖化しなければ、どこの馬鹿がわざわざ戦いにいきます? しかしながら、闘う阿呆たちに演説屋がどんな掛け声をかけようと、戦争にどんな気高い目的を付与しようと、戦争をする理由はひとつしかありません。それは、金です。」(55)

んーこのあたりもこの小説が単純な戦争ロマンティシズムを描いているわけではないがよくわかる。
本書が出版されたのが1936年、まだまだイギリス、フランスがドイツに宣戦布告するまであと三年、日本の真珠湾攻撃までまだ五年ある。アメリカにおける戦争忌避がけっこう率直に書かれているのかもしれない。
メアリーなんかもバトラーの味方をする。アシュリーが不毛な戦争だと言っていたことなんかを述べたりする。メアリーは大義だとかを信じている割には、こんなことを言う。なかなか複雑な人間のようだ。
アシュリーもバトラーも良識があるが、違いはバトラーはリアリストであるが、アシュリーは現実に苦悩するタイプであることだ。

バトラーの台詞がいい。スカーレットが帽子の代金を少しばかりだそうとすると、
「頂いたところで、どぶに捨ているようなものですよ。あなたの魂のためを思えば、そのぶんの丘ねでミサをしてもらってはいかがです。あなたの魂は何度かミサの必要があるんじゃないかな」(85)
スカーレットは、バトラーの言葉にいちいち魅力を感じ、反発を感じる。でも最終的にはキスしちゃう。
「愛人ですって! 愛人なんて、子どもをぞろぞろ生んでおしまいじゃないの!」(291)
ひどい。スカーレットの子供に対する態度はひどい。ウェイドにも愛情を感じていないし、むしろメラニーが子供を生んだときに抱きながら、アシュリーの子供ということで自分の子供だったらよかったのにとまで思ってしまう。

アシュリーのつかの間の帰還のとき、スカーレットは再び愛の告白をする。アシュリーは節度を守る範囲でスカーレットの愛を受けとめる。

戦争は日増しに悪化していき、スカーレットの幼馴染たちも死んでいく。すでにあの頃には戻れないような状況になっている。老兵たちまでもが駆り出され、死んでいく。
アトランタ脱出のとき、ようやくプリシーが活躍する。プリシーがなかなかな狂言回しでいい。スカーレットに急かされなきゃ、のろのろと動くし、基本的にやる気がない感じ。
バトラーは老いた馬をくすねてきて、それでスカーレット、メラニー、メラニーの赤ん坊にウェイド、そしてプリシーをのせて逃げようとする。途中、少年兵がふらふらと崩れ落ち、その少年を他の兵が肩で担ぎ上げて歩き出そうとすると、少年はおろせと怒りだす。その光景をみてバトラーは変わる。スカーレットたちをタラへ連れて返すつもりだったが、軍に入隊するといってスカーレットに後は任せて去ってしまう。
アトランタでまだ平和だったとき、北西の方角にあらわれた黒雲はみるみる大きくなって強い嵐となり、スカーレットの世界をなぎ倒し、彼女の生活を吹き飛ばした。
「〈タラ〉は無事だろうか? それとも、ジョージアを席捲した風と共に去ったのだろうか?」(414)
「風と共に去りぬ」のタイトルは19世紀のイギリス詩人アーネスト・ダウスンの詩「シナラ」からとられているという。

スカーレットはなんとかタラに着く。そして母が死に、父は憔悴して、妹たちは腸チフス、奴隷はマミーとディルシー、ポーク以外みんな逃げた。
スカーレットはなんだかんだで責任感があり、アシュリーとの約束は守るし、タラに残されている家族や奴隷たちを背負うことを決心する。
「子どもとして大切にしてもらえるのも、今夜が最後になるだろう。スカーレットは大人の女になった。青春時代はもうおしまいだ。ええ、そうよ、父方の親族にも母方の存続にも頼るわけにはいかない。頼るものすか。オハラ家の人間は他人の情けを受けたりしない。オア原家の人間は自律して生きていく。自分の重荷は自分で背負う。」(466)
ジェラルドはスカーレットにかつて言ったように、スカーレットは赤土の土地タラで生まれ、養分を吸い上げ、留まるのが運命となった。

2021/04/20

『ソークラテースの思い出』 クセノフォーン/佐々木理 訳 岩波文庫

やはり詭弁を弄しているとしか思えないこともない。
これを読むとプラトンの初期の著作は、けっこうソクラテスの言葉を正直に伝えているのではないかと思えてくる。クセノフォンの描く対話、勇気について、正義についてなど、プラトンのものとあまりかわらない。
「国家」にいたると、おそらくはプラトンの考えが相当色濃く入るようになっているようだ。
いずれにせよ、プラトンがソクラテスに見いだす哲学、クセノフォンがソクラテスに見いだしたものは、同じものだったと思われ、しかし時間が経つにつれ、プラトンは抽象的な物言いをするようになっていく、といった感じか。

「世間の人々は世間一般の人が知らぬことについてあやまつ人間を気狂いとは呼ばず、大多数の人が知っていることに間違いを犯す人間を気狂いと呼ぶのであった。」(152)

「小さいことに間違いをする人は狂気とは思わない、けれども、強度の願望を愛念と呼ぶごとく、大きい迷妄を人は狂気と呼んだのであった。」(153)

「彼はまた「よい食事で暮す」euocheisthaiという言葉はアテーナイ語ではただ「食べる」の意味になっていると言っていた。そしてここの「よい」euは、精神も身体も苦しめることがなく、かつ手に入れることのむずかしくないところの食べ物を、食べる意味で付け加えてあるのだと言った。こうして彼は「よい食事をする」の語もまた、節制ある生活をする人々のことに、用いたのである。」(174)

エウテュデーモスとのやりとり。ソクラテスは自分の優れた気質に自惚れているエウテュデーモスを笑いものにす。(178) 誰かに何かを習うことを避けて、自らの心に湧いてくることに従うよう勧めるエウテュデーモス。対してソクラテスは医術を持ちだして、エウテュデーモスがもし誰かからも何も医術を学ばず、頭に浮かんできたとおりに医術をしたい、実験台になってくれと言っている、と言ってエウテュデーモスを笑いものにする。

エウテュデーモスとソクラテスのやりとりで、正義と不正についてを論じている箇所がある。(184)。

「無自制は飢えも渇きも肉欲も眠気も、これを我慢することを許さない、ところがこれができてこそうまく食い、うまく飲み、性愛も心地よく、休息も睡眠もはじめてたのしいのであり、よく待ちよくがまんしてこそ、それらにひそむかぎりの最大の快味が生まれるのであって、無自制はもっとも本然の、もっとも継続的な快楽を、真正に楽しむことを妨げるのである。ただ自制のみが、よく上述のことをがまんせしめて、ひとり上述のことにおいて言うに足る快味を楽しませるのだ。」(216)
ソクラテスは自制こそ快楽の活用で重要であると述べ、ここからさらに、自己修養、家政の切り盛り、友人関係、そして国家運営、戦争など、あらゆるこに楽しむことの本質をここでは説く。


2021/04/18

『社会心理学講義――〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉』 小坂井敏晶 筑摩選書

んーいい感んじ。
「理論の正しさを確かめるために実験をするのだと普通信じられていますが、その発想自体がつまらない。逆に、理論の不備を露わにすることで、慣れ親しんだ世界像を破戒し、その衝撃から、さらに斬新な理論が生まれるきっかけを提出することこそが実験に本来きたいされるべき役割です。」(51)

「科学とは実証である前に、まず理論的絞殺です。」(51)というのはなかなかな至言であります。

本線とは異なるが、先進国欧米というのはやはり虚構ですね。『責任という虚構』でもいろいろ書かれていて、フランスのウトロー事件にしろ、フランスではホメオパシーは保険適用だったり、というのも保険が効かなくなれば、もっとやばい代替医療に走り、全体の健康を害する可能性があるからという合理的な判断だとか、まあおもしろい。さらにフランスでは最近まで再審請求ができなかったとか。その理由が市民の意志が真理だからだとか。フランス革命からの伝統だとか、EUになって喧々諤々の議論があったとゆう。おっもしろーい。

下記はメモ。

ふつう相関関係と因果関係は違うことは重要なこととして知られているが、実際のところこの二つを明確に分けることができるのか。

ピグマリオン効果

同じ刺激にたいして各個人は違った現れ方がする。これを態度概念。

フロイトのエスについて。
意識の単なる欠如としての前意識ではなく、無意識を一種の意識の近接概念として位置づけている。それは意識に対して力動的関係を保ちつつ機能する、質的に異なったもう一つの能動的契機として無意識は理解される。
無意識とエスは自我とは別の存在者であり、我々の知らないところで操る他者。

認知不協和理論について。
報酬が高額だと嘘をつくことに大きな矛盾がない! 報酬額が高い場合よりも低い方が、行った作業をより楽しく感じると。
ある教団でお告げがはずれるとき、孤立状態の人はそのまま教団をさるが、集団でそのお告げが外れたことをわかると、周りに影響されて、さらに布教活動を始めたり、信者を増やそうとする。というのも認知不協和の低減がはかれるから。
フェスティンガーは、ここで「維持」を説明するために認知不協和理論を用いている。つまりこの理論は集団維持の理論。
外部の環境が行動を促し、意識ではその行動を正当化する、適応させていく。

個人主義的とは、外部情報に依存しても、その事実に無自覚だという意味にすぎません。何らかの行為を行った後で、「何故このような行動をとったのか」と自問する時に、個人主義者ほど自らの心の内部に原因があったのだとろうと内省し、自らの行動に強い責任を感じやすい。そのため行動と意識との間の矛盾を緩和しようと自らの意見を無意識に変更する。こうして個人主義者こそ、強制された行為を自己正当化しやすい、したがって認知不協和をかんわするために意見を変えるという逆説的な結論が導かれます。」(194)

普遍主義の立場は現実に差異があっても、それを本質的なものではない見なされる。この時認知環境では差異化が充分に働かず、他者がいかなる価値観をもっているかは、自分の自己同一性を脅かさない。

他民族。多文化主義ではは、外部と内部で境界があり、両者の誘導は阻止されるが、外部においては馴致される。(212)
これはおもしろ指摘ですね。

多数派からの影響は受けやすく同調していくが、多数派の影響がなくなると同調をやめていく。しかし社会は多数派に影響受けない事には成り立たない。

しかし少数はの影響というものがある。これは無意識に影響を受け、知らずに自らの行動や考えを変えていく。権力や権威への追従は長く継続させるのは難しい。少数派の影響は、「自ら自分の考えを変えた」と意識するところが違うわけだ。

「社会が閉じた系ならば、そこに発生する意見・価値観の正否はシステム内部の論理だけで決められます。規範に反する少数派の考えは否定され、多数派に吸収される。これが機能主義モデルです。それに対し発生モデルは開かれた系として社会を捉えます。システムの論理だけでは正否を決定されない攪乱要素がシステム内に必ず発生する。攪乱要因は社会の既存規範に吸収されず、社会の構造を変革してゆく。これがモスコヴィッシ理論の哲学です。」(264)

「犯罪の原因を社会の機能不全に求め、共同体内の利害調整が失敗する結果として犯罪を捉える限り、自由虚構と社会維持装置とが構成するダイナミックな循環プロセスは析出されない。悪い出来事は悪い原因から生ずるという思い込みが、そもそも誤りです。社会がうまく機能しないから犯罪などの悪い出来事が起きるのではない。社会が正常に機能するから、必然的に問題が起きるのです。

「日本は支配されなかったにもかかわらず、西洋化したのではない。逆に、支配されなかったからこそ、西洋の価値を受け入れた。日本の社会は閉ざされているにもかかわらず、文化が開くのではない。逆に社会が閉ざされてるからこそ、文化が開く。」(341)

同一性は変化に気づかなければその同一性は維持される。

「未来予測を不可能にする要素、あるいは不確実性の厳選、これが時間の本質です。」(377)

「いかし人文・社会科学の世界では新しい発見など、そうありません。……人文・社会科学はなんにも役に立ちません。しかしそれでよいではありませんか。……どうせ人文・社会科学を勉強しても世界の問題は解決しません。自分が少しでも納得するために我々は考える。それ以外のことは誰にもできません。社会を少しでも良くしたい、人々の幸せに貢献したいから哲学を学ぶ、社会学や心理学を研究すると宣う人がいます。正気なのかと私は思います。そんな素朴な無知や傲慢あるいは偽善が私には信じられません」(392-393)

2021/04/17

『増補 責任という虚構』 小坂井敏晶 ちくま学芸文庫

んーおもしろいですねー、自由があるから責任があるんではなくて、責任や罰を誰かに帰さなけれならないから自由がつくられる。
人権、自由、責任なんてのは、いまさらながら虚構ではあるが、この社会はこの虚構で成り立っている。いわゆる社会構成主義の立場。
以下はメモ程度の書きなぐり。かなり脈絡なくまとまている。

小坂井氏は人間を「外来要素の沈殿物」だという。いつ、どこで、だれが親でかは選べずに人間は生まれる。
意識は行動の原因ではなく、行動を正当化する機能をもつ。行動が意識をかたちづくる。
ベンジャミン・リベットの研究が紹介されている。

そもそも責任概念を支える自律的人間像がいかに脆弱であるか、社会心理学の実験から明らかになっていく。

分業社会は近代社会にとって必要なことではあるが、これによって、自分自身が何かに加担しているという感覚が薄らいでしまう。組織が行う全体的な行動が各人では見えにくくなり、残虐行為が可能になっていく。通常、人が人を苦しめることや殺すことはかなりストレスがあるが、分業はこのストレスを緩和していく。
ユダヤ人の拷問や強姦に多くのドイツ人は苦しむケースがあった。指導層はこのストレスの緩和のため、ヒューマニズムの観点から虐殺のストレスを緩和すべく、効率的で合理的な殺害方法をつくりだしていく。
ここから導かれるのは、反ユダヤ主義がホロコーストの原因というのではなく、虐殺の結果が反ユダヤ主義であるかもしれないということだ。
ホロコーストの分業体制と現在の日本の死刑制度の類似点も論じている。
ぼくは死刑制度に賛成ではあるのだけれど、本書を読んでみて、んーたしかに全て隠されているなかで、自ら手をください卑劣さを見いだしてしまった。
ぼくは死刑制度は、抑止効果とは考えておらず、たんに報復措置として捉えている。
まあそれはいい。
責任を因果関係で理解すると、責任と運の両概念が相容れない。もし自分がナチスドイツの政権下で生まれた場合、はたして自分はどうだっただろうと考える。正しい行為を選択できたのか。道徳状況が運命に任されていく。これは不合理だ。責任とは自由であるから発生するもののはずだからだ。
責任概念と因果関係は論理矛盾を抱える。(230)
1 自らの行為に対して道徳的責任を負うのが、行為者自信が当該行為の原因をなす場合である。
2 だが、どんな存在も自らの原因ではありえない。
3 したがってどんな存在も責任を負えない。
犯罪の原因は何なのかという発想自体に問題あるという。行為者は行為の最終原因と見なされ、行為者を超えて因果関係を遡らない。なぜか因果関係は無限に続くからだ。

行為とは「する」ことだけでなく「しない」ことも行為であるはずだ。
しかし「しない」は意志がないことではあるが、「殺さない」という場合は意志があるということでもある。
意志と行為のあいだにの因果性ではなくて、意志と責任を負うべきあいだの因果性が「自由による因果律」となる。「事後的に「その行為の原因として(過去の)意志を構成するのだ」(234、中島義道孫引き)
意志は行為の原因として認められる、これが近代的発想の誤謬である。意志がの有無は原因になりえない。それでは意志と願望の区別はなにか。それは行為が起きた事実しかない。

「自由だから責任が発生するのではない。百に我々は責任者を見つけなければならないから、つまり事件のけじめをつける必要があるから行為者を自由だと社会が宣言するのである。自由は責任のための必要条件ではなく逆に、因果論で責任概念を定立する結果、論理的に要請される社会的虚構に他ならない」(244)

社会規範は集団の相互作用によって生みだされる。超越論的な何かが支えているものではない。我々が非難する行為が悪と呼ばれる。
小坂井氏は犯罪は多様性の同意語だという(258)。逸脱行為は社会でかならず生じる。均一性が高ければ逸脱行為は減少し、多様性が高まれば逸脱行為が増加する。
ゆえに「正常な社会現象として犯罪を把握するとはどういう意味か。犯罪は遺憾だが、人間の性質が度し難く邪悪なために不可避的に生ずる現象だと主張するだけに止まらない。それは犯罪が社会の健全さを保証するバロメーターであり、健全な社会に欠かせない要素だという断言でもある(258、デゥルケーム孫引き)
小さな逸脱行為に敏感になる共同体では、些細な逸脱が犯罪の烙印をおしていく。

集団犯罪を社会が糾弾する一方で、しばしば犯罪者当人は責任を自覚しない。
なぜか。
近代的意味での道徳責任主体に集団はありえない。例えば日本の戦争責任を認めとという場合でも否認する場合でも同じ論理の誤りを犯している。
個人に責任を還元するならば、道徳的意味での集団責任は無駄な概念だ。しかし集団に主体概念を認めるかどうかが問題となる。国家の場合は論理が違うのでおくとして、集団として民族の責任はありえるのか。
小坂井氏はここで責任が「気軽さ」もって集団に認められてきたことを指摘する。イギリスの植民地、アメリカの先住民、トルコのアルメニア人の虐殺、これらが「気軽に」認められてきた。
責任は因果関係によって意味をもつ。しかし、現代に日本人と第二次世界大戦時の日本人では因果関係が認められない。

そこで同一化が問題となる。
責任の感覚は心理的同一化に依存する。不断の同一化という虚構が、集団的責任をもたらす。
動物や植物を裁判にかけていた時代がある。また当人だけでなく家族や部族全体を処罰対象になったこともある。後者は現代でもある。
それは現代が責任を自由に結びつけているからだ。因果関係をもとめることが原因となる。

犯罪者が捌かれるのは端的に言えば行為者が目立つからにすぎない。犯人と犯罪が密接に結びつきやすい。「責任と罰は表裏一体の概念をなす。責任があるから罰せられるのではなく、逆に書っ罰が責任の本質をなす」(296)
社会を安定させるために「けじめ」が必要で、責任のつじつま合わせで精神科医や臨床心理学者が起用される。
動機は本当に存在するのか。小坂井氏は犯罪時の記憶が物語として創られていくという。このあたり興味がある。
正義という信仰は人に正当化を与える。天は理由なく賞罰を与えない、徳をなせば必ず報われる、このような信仰で他者の不幸が正当化されていく。
データを解釈、判断することで、正しい戦略がなされるかというとそうではない。ある個人がデーターから下した判断が後に誤りだとわかったとしても、すでにその言説は再生産をされ個人の手から離れ集団行為へと移っていく。誤りだとわかっていてもすでに時は遅い。それが集団行為というものとなる。
なかなか興味深い。実体はよくしらないが北欧では快適な牢獄ライフが犯罪者には待っていて、しかも再犯率が低いという。ぼくはこの件をはじめてしったとき、ある種の嫌悪感みたいのを覚えた。やはり犯罪者はたとえ再犯率が高くなろうとも罰を受けるべきだと。しかし、頭の片隅には犯罪とは何かという疑問をもった。んーたしかに責任が虚構であるならば、北欧の刑務所は新しいパラダイムを開いているのかもしれない。

道徳も法も根拠なんかない。根拠をもとめてもそれは虚構でしかない。しかしその虚構を社会は必要としている。そしてこの虚構に従わせるために暴力が必要となる。
個人への制限は政治思想において、必要なものではあるが、捉え方が異なる。ホッブズは必要悪としてみているが、ルソーにいたっては一般意思によって住民を従わせ真の自由を獲得する。市民の利益はそのまま個人の利益となると考えている。

正義論の無知のヴェールについても簡単に触れているが、これは小坂井氏の言うとおりだ。無知のヴェールをルソーの一般意思と同じものとして考えていいという。そりゃそうだ。
遺伝、遺産、能力は個人差があるが、ロールズはそれを失くす必要はないと考える。これらの個人差は個人の責任ではないが、格差をつけることで社会の生産力は向上する。そうすれば下層の人々も必然的に生活があがる。自由と機会が平等に与えられさえすればよいとロールズは考えている。
しかし、人間はそこまで単純ではない。人間は妬む。だから階級闘争がおこる。また平等になればなるほど不満も増大する。
自由が前提の社会では、平等に機会を与えられても、能力は平等ではない。故に下層の人はこの能力差を自分の責任として引き受けがちになる。
ロールズの公正さは、誰もが納得するものであるべきとするが、しかしそれによって格差を是認することになる。しかも現実の世界ではロールズのような仏は存在しない。
人間の悲しさは、近い所得や近い能力の人間たいして強い羨望を抱くことだ。天才に対しては諦めがつくが、近い存在にたいして妬みをもつ。

万人が競争することが自由で平等な社会であると錯覚するが、それは階級を分けていた境界がなくなったことを意味しているわけではない。不平等が常識であれば、上昇志向がなくなるので、不平等に気づかない。平等であるべきという考えが不満をおこす。
ロールズの場合は格差を無能な自分のせいとなる。それはロールズの示すシステムがそうさせる。だがロールズが劣等感をもつことはない、それは本人の責任ではないからだといいう。しかし自由が担保されているにもかかわらず責任がないとはこれ如何に。

「人間が営む夥しい相互作用から生成される集団現象が人間から遊離し、<外部>として現前するおかげで根拠が構成される。真善美は集団性の同意語だ。無から根拠が生まれる錬金術がここにある。神のような超越的存在を斥けながら同時に遺伝子や物質的所与への還元主義をも否定した上で、それでも人間世界に意味が現れる可能性をこの認識論が保証する」(385)
そしてこの無根拠なこと、全くの恣意性は隠蔽される。
因果関係は社会制度が作り出す表象である。(402)
「近代は自由と平等をもたらしたのではない。格差を正当化する理屈が代わっただけだ。自由に選んだ人生だから貧富の差に甘んじるのではない。逆だ。貧富の差を正当化する必要があるから、人間は自由だと近代が宣言する。努力しない者の不幸は自業自得だち宣言する。……近代は神という外部を消し去った後、自由意志なる虚構を捏造して原因や根拠の内部化を目論む。その結果、自己責任を問う脅迫観念が登場する。」(419)
そして、
「構成主義の最も重要な功績は、世界の恣意性の暴露ではない。恣意性が隠蔽される事実の認定だ。」(435)

2021/04/16

『風と共に去りぬ』 第1巻 マーガット・ミッチェル/鴻巣友李子訳 新潮文庫

滅法面白い。
スカーレットが無教養な箇所の描写なんかもよくって、バーベキューでレット・バトラー初登場の際にアシュリーがバトラーを評して、ボルジアみたいな人だというけど、スカーレットはなんだかわからない。それにチャールズは嘘だろこいつ的に飯能するが、無教養を装っているのかもしれない、淑女のたしなみ、みたいに勘違いしたりする。
スカーレットは、周りの女たちを見下しているから、同性の友人がいない。そして男たちを誑かすことに喜びを見いだし、結婚する気もないのにインディアに入れ込んでいたスチュアートを落したりする。自分がどう見られ、人をどう扱えば自分に好意を与えてくれるかが完全にわかっている人間として描かれている。
第1巻では、スカーレットの失恋と、自暴自棄のチャールズとの結婚、そして夫の死。この死も滑稽で戦死ではなくて病死。ひどい。さらにひどいのがチャールズとの子供をじゃけんにしているこっと。アトランタでの日々でバザーでレット・バトラーとの再開。
このバトラーとの再開は素晴らしい。バトラーの魅力はよくわかる。無頼で正義なんて信じていなくって、金儲け主義者と思わせるが、どこか筋の通っており、なにか真理めいたものを持っている人間。アシュリーやメラニーは逆にどこか偽善を感じるわけで。
「ほかの女性たちは結局なにも考えずに、郷土愛だ大義だと言って騒いでいるだけなのではないか。男性たちも死活問題だ州権だと騒いでいて、同じく目もあてられない」(380)
そしてスカーレット自分自身だけが良識をもっていると思っている。
スカーレットは男性にせよ女性にせよ、たらし込む術をよく心得ていて、そのういうときは謙虚を装うこともできる。
アトランタに来て、スカーレットは<タラ>の赤土を懐かしんだりする。結局、ジェラルドが言ったようにスカーレットは<タラ>しかないのだと言った感じ。
バザーでメラニーを含めて皆が大義だとかを口にしているなかでスカーレットだけが冷めて周囲をバカにしている。スカーレットは傷病病院での仕事に嫌気がさしていたが、メラニーは天使のように看病をしている。このあたりスカーレットが悪女のように思わされるが、逆にメラニーの態度が逆に何か奇妙なものを思わされるなにかがある。それは偽善の溢れる世の中で象徴であるかのように。
メラニーもピティ叔母もスカーレットを誤解している。
スカーレットが指輪を寄付するところなんかも、ストーリテラー的な感じで読ませるおもしろさ。で、バトラーがメラニーの指輪だけを買い戻してあげるなんかも、よくできている。
スカーレットとレット・バトラーとの再開でダンスを踊ったことが、<タラ>にまで聞こえ、ジェラルドが連れ戻しにアトランタに来るが、ここのやりとりもいい。スカーレットが泣くのをなだめ、バトラーに会いに言ったと思ったらポーカーで大負けして大いに酔っぱらう。
スカーレットはジェラルドがポーカーで大負けしたことをエレンに黙ってあげるかわりに、<タラ>に戻らなくていいことを約束させる。
ここはなんかお約束事のような展開だが、ジェラルドの滑稽さがよくでていていいし、バトラーの「悪さ」もでていていい。
南部の工業力の脆弱さもきちんと指摘していて、しょせんは綿花王国でしかないみたいな、ことが書かれている。だから北部に負けるのは必然であると。
んーどこかで聞いた話みたい。
素晴らしい小説。各登場人物のキャラがよくできているし、軽快なストーリー運び。
んーいい。

2021/04/07

『ジャックポット』 筒井康隆 新潮社

どうなんでしょうか。最後の「川のほとり」は息子の死を思い書かれているので、きちんとした文章になっている。
しかしその他の作品はすべて言葉遊びを徹底しているものになっている。まあたまーに読む分には楽しめるんだけど、収録されている作品のほとんどが言葉遊びだと、さすがに疲れるし、飽きてくる。
とはいいつつも全体的にはまあまあおもしろかった。80歳超えてもなお新鮮な言葉遊びができて、諧謔をわすれず、アイロニーもある。「ジャックポット」なんかまさにね。コロナの氾濫。
超高齢にもかかわらず今だ若さを感じる文章を書いているので、☆三つ。


2021/04/06

ピアノ・レッスン(1日目)

高校卒業以来、ほとんどピアノを触らずに生きてきて、電子ピアノを、しかも結構いいやつを購入したので、もう一度ピアノを弾こうとと思ったが、全然指が動かないし、楽譜の読み方も忘れてしまっている。
暗譜している曲なんかは、ミスはありつつも弾けるのだが、新しい曲となると指と頭がリンクしていないのか、全然ダメになっていおり、簡単な曲でも初見で弾けなくなってしまった。
なかなか感覚ももどらないから、もう一度初歩からやり直すつもりで、
『バッハ演奏へのアプローチ はじめてのバッハ 「インヴェンション」のまえに』(高木幸三校訂・解説/全音楽譜出版社)
を購入して、まさに初心者としてピアノをやり始めることに。
一曲目は「コラール ヘ長調 (満ち足りて心安らかたれ)(BWV510)」
この曲は「アンナ・マクダレーナ・バッハの音楽帳」からのもので、大バッハの三男のヨハン・ゴットフリート・ベルンハルト・バッハの作かという説があるが、よくわからない模様。
曲そのものは素朴で悪くない。
一発目ということもあり簡単ではあるが、それでも指使いに苦戦するし、間違えずに弾けなかったりと、かつてはショパンのエチュードだって弾けたのに、と悔しい思い。
とりあえず、この曲を1時間ちょいずっと繰り返し弾いていた。どうにか間違えずに弾けるようにはなった。指使いは心許ないが。
練習中、どこかの時点で昔の感覚を取り戻したところがあった。指の動きと打鍵にかつての確かさのようなものを覚えるようになった。その瞬間から、旋律をきちんと把握して弾いている感覚が戻ってきて、身体で覚えていた曲を弾くのとは違うものを感じた。

とりあえず一日目であもあるので、まあこんなところかという感じで終わりにして、明日の課題は、BWV510の復習と二曲目「無題の曲 ヘ長調(BWV Anh131)を練習する。この曲も「アンナ・マクダレーナ・バッハの音楽帳」の一曲で、バッハの作曲ではないようだ。

2021/04/05

『言語の七番目の機能』 ローラン・ビネ/高橋啓訳 東京創元社

デリダとサールが死んじゃう。なんか暗示的ではあるが、よくわからない。デリダは猫を論じていたが犬は論じていないと思う。サールは自殺しちゃうけど、これはなぜだ。
かなり笑える小説となっている。ソレルスが扱いのひどさ、フーコーの王様のような態度と浮世離れした言葉。ポスト構造主義の思想家が勢揃いであるが、ビネはおそらくウンベルト・エーコーのことは好きなよう。
ベルナール・アンリ・レヴィなんかかなり印象悪い感じだ。
アルキビアデスのような若者に始終しゃぶらせているフーコー。
バイヤールとジュディス・バトラー、スピヴァクの3P。
シモンとビアンカの解剖台の上でのマシーンのようなセックス。
いろいろと酷い。
いつおう史実に基づいているが、これらの解釈というかなんというか、それが違ったりする。アルチュセールの妻の絞殺は書類を捨てたことで頭に血が上ってしたことになっている。ボローニャ駅のテロなんかも絡ませている。この事件は詳しく知らない。
他にもクリステヴァがブルガリア人スパイの嫌疑があったこと、傘の柄に仕込んだ暗殺がブルガリア人スパイが実際にやっていたということ、など。

ロラン・バルトの死が1980年3月で、エーコーの『薔薇の名前』も1980年9月。どうも中世普遍論争を大陸哲学と分析哲学の確執とダブらせているようとのこと。
衒学的な文章もエーコーを思わせるものだし、<ロゴス・クラブ>でのバカみたいな議論、ゴシックとクラシックとか、本当にどうでもいい議論が続くが、エーコーはそのクラブのテッペンの人。
ソレルスは負けて陰嚢がちょん切られてしまうし。去勢だ。

言語の七番目の機能とは何か。魔術的機能。
これはよくわからん。でも最後シモンがそれを実行したのは確か。シモンはミッテランの宣伝広報を受け持つようになる。

そういえば読んでてヤコブソンが1980年にはまだ生きていたというのも、そうだったのかとバイヤールだけでなく僕も驚くばかりで、このあたりもビネのふざけているところ。
生きているのに、ヤコブソンの言語学に関する切れ端とかテープとかをみんなで追いかけまわっているのだから。おそらくこれもビネの仕掛けの一つ。ある種の哲学談義の空疎さを揶揄しているとも思える。実在しているものに周辺でなんのかんのと騒いでるだけっていう感じでしょうか。

石田さんのUchronieユークロニーについて指摘がおもしろい。次の著作ではインカ帝国がヨーロッパを支配したら、という話らしい。いいじゃないですか。

2021/03/30

『反穀物の人類史――国家誕生のディープヒストリー』 ジェームズ・C・スコット/立木勝訳 みすず書房

僕らは国家を基準にしか歴史を検討できない。国家管理が永続的なものだという幻想ももっている。
驚くべきことに、定住が行われはじめていた紀元前5000年、6000年では乾燥地帯ではなく湿地帯だったという。沖積層が現在の水準よりも10メートル以上低かった。乾燥地帯だったというのは現在を過去に投影したにすぎない。
初期の定住は沖積層で発生している。
湿地帯では大規模な灌漑整備を必要とせず、食物獲得においてのポートフォリオでは狩猟、漁労、採食、採集といった多様性に富んでいた。そしてこのような環境では単一の強権的な国家はできなかった。湿地では強権的に徴税する必然性もなく、穀物を備蓄すること、インフラの整備などにうおる労働集約を必要としない。湿地は共有資源だった。
スコット氏はここで氾濫農法(減水農法)を上げている。定期的な河川の氾濫は、土壌を豊かにし、農業で最も労働をさく施肥、耕作、種まきをコストゼロで達成できる。

農業が人類進化の一因だったかもしれないが、狩猟採集よりも当初は優れていたというわけではない。遅延リターンとして、農業が将来への投資としてい位置づけている説もあるが、狩猟採集でも保存食は作られるし、道具も必要となる。ある面では農業よりも複雑な協働と調整が必要になる。農業の有利であるわけではまったくない。
狩猟採集民は湿地、森林、サバンナ、乾燥地などを股にかけ食料をとるゼネラリストだった。国家の分業社会では、人間の生涯の貧困を見ている。

「ブロードスペクトラム革命」というのがあり、これは何かしらの理由で栄養価が低い資源を活用せざるを得ない状況になり、耕作農業、家畜の飼育という労苦に到達したというもの。また人口圧が高まったために以前より多くの者を周辺環境から採取する必要もでてくる。ここから集約的な作物栽培、家畜飼育が必要となっていく。
これにより疫病のリスクが成り立つ。都市化が郡性疾患を主な死因にした。狩猟採集民においては腸チフス、アメーバ赤痢、ハンセン病などの人間以外の生物が保有している宿主のものが主だった。フェロー諸島の麻疹の例が興味深い。これは『1493』に書いてあったか。ここから教訓をえるとすれば、感染病は全員がかかって集団免疫と免疫を持たないものが全員死ぬまで続くということであり、また感染病は波をもっていることだろう。ある程度の人口がいることで感受性の強い宿主が一定程度存在し、そしてこれらの人に感染して、恒久的な感染が維持される。

著者は農耕文明の隆盛にはまさに定住自体に答えを見いだしている。狩猟採集民のほうが労働時間は短く、栄養価では優れていたが、出生率は定住の方が高かった。たとえ定住の場合死産の割合が高くてても、多産であるため狩猟採集民よりも人口増に貢献した。これは長い年月、2000年とか5000年という歳月でみると大きな差として現れてくる。

本書における国家とは何か。それは税の査定と徴収専門として、単数もしくは複数の支配者に対して責任を負う役人階層を有する制度、としている。そしてさらに言えば、分業があり、階級社会となっていること。この条件当てはまる国家が紀元前3200年までに登場したウルクだった。
国家は穀物を税として徴収する。なぜなら運搬、保管、収穫の面で他の作物よりも国家にとって都合が良いからという。
国家が文字をもつ動機は、行政運営のためで、メソポタミアでは簿記目的以外で使用されるには、文字の出現から500年以上も経ってからとなる。ウル第三王朝のギルガメッシュ叙事詩は紀元前2100年まで遡れるが、楔形文字が商業や行政で使用されて方1000年もあとになる。文字は行政を強く連想させるものだった。
本書のおもしろい指摘は、国家が人口管理を基本としているということだ。これはフーコーの近代国家の生権力にも繋がるところ。
人は常に外部に流、死亡率も高かった。城壁は外敵から守ると同様に、内部の人間の外部への流出を防ぐためでもあった。死亡率や出生率が重要な要素となり、人口が減れば外部から調達する必要にがでてくる。それは戦争によって調達されていく。奴隷も同様に生産に従事させられていく。戦争の一番の目的は領土獲得ではなく捕虜の獲得だったといってもいい。

本書の最大の魅力はもう一つ、「崩壊」について語るところだ。中央集権の終わりは暗黒時代をもたらしたのではないということだ。
古代の国家は疫病や天変地異、気候変動や戦争、または環境破壊などにより非常に脆弱だった。ウル第三王朝が五代の王が引き継ぎ100年続いたことが異例中の異例だったという。
何かしらの理由で国家が崩壊しても、住民たちも一斉に消滅したり死んだりするわけではない。外部へと逃亡する。
国家の崩壊は必ずしも文明や文化も同時に消滅したことを意味していない。離散していった民衆たちは、文化を保持しながら生きていた。国家管理の時代よりも栄養面であったり労働面でも優れていたと思われる。
例えばイリアス、オデュッセイアは古代ギリシアの暗黒時代に語り継がれたものであり、それが後世に文字で残されたにすぎない。たんに暗黒時代には巨大な建築物やインフラ整備、生産活動が行われず、現代からは何も見えないことで、我々からすれば「暗黒」になるにすぎない。

定住と遊牧、狩猟採集の境界を明確に線を引くことができないのかもしれない。
国家が崩壊したあとの暗黒時代は暗黒であったかどうかは議論がある。狩猟採集民や遊牧民たちは、定住している集落や国を略奪することがあったが、しかしだからと言って常に略奪をしていたわけではない。そもそも集落や国家が少ないのだから、略奪するよりは交易をするほうがいい。また国家よりも遊牧民のほうが武力で優り、そのため交通の安全は遊牧民にかかっていた。遊牧民たちは、国家に交通の安全と引き換えに貢物を要求する。
このあたりの話は、モンゴルでもお馴染みになっている。

遊牧民たちは国家に手を貸していたが時代、それは彼らにとって黄金時代だったか、いつのまにか立場は逆転をしていく。彼らは国家の発展に手を貸し、自分で自分の首をしめていた。

2021/03/17

『晩年のカント』 中島義道 講談社現代新書

はじめて中島さんの本を読む。カントへのイメージが一変した。
食べ方とか汚いとか、なんか人間的でいい。決まった時間に散歩するというのも、若いころからしていた習慣ではなく、自分の家をもった63歳ごろで、病弱だったので健康のためにやっていたという。そして病弱なからだについて自己診断で自己流の療養法を行っていたという。ビールが嫌いで、誰かが病気になったとか死んだとかいうとビールのせいにしたらしい。
さらに女性観がひどいのなんの。女性が悪を避けるのは不正だからではなく、悪が醜いからだというのだ。女性に道徳心を認めていない。
本書にカントの草稿が載っているが、病的なほどびっしり書いている。

カントの「根本悪」という概念がおもしろい。真実性の原理と幸福の原理があって、人間は幸福の原理を選択する本性がある。なぜなら人間は感性的であり理性的だからだ。
そしてこれを必然的であるとはみなさない。というのも「べし」という普遍性と一般人が守っている経験的規則がある。そして必然性とは自然法則や道徳法則にかなったもの、理性にかなったものにしか使用してはならないという。つまり法則(理性)に反するものは必然的ではない。
よってすべての人に責任を帰すことができる、という結論になる。根本悪に陥ることが物理法則のように必然的だとすると、根本悪に陥る人間に責任を課すことはできない。つまり根本悪は必然的ではなく、選択しうるものである、となる。

「性癖」には三つある。1人間心情の脆さ。2人間心情の不純。3人間心情の悪性。
3は1と2で異なる構造をもつ。1と2は感性が理性にまさって陥ることで、3は理性が感性に引き起こすもの。
ここから人間は感性的存在者であり、かつ理性的存在者であることが導きかれる。根本悪はまさに感性的存在者にある理性が引き起こすものとなる。

『たんなる理性の限界内における宗教』が、物議をよび、カントは弁明をする。ここがまず素晴らしいところ。この弁明がが上記の根本悪と照らしてみると、まさにカントは根本悪をなしてしまっている。好意的にみてもそうなる。
そしてカントはスピノザのごとくキリスト教の有用性を説いたりしている。

カントの時間についてもいい感じ。
「時間の長さ」とは、過去を想起することから長さが生まれる。

んー他の中島さんの本を読んでみようか。

2021/03/16

『理論疫学者・西浦博の挑戦――新型コロナからいのちを守れ!』 西浦博/川端裕人 中央公論新社

僕は前提として西浦さんには批判的。
「3密」の誕生とあるが、正直そんなたいしたことではないと思う。まあ言葉としては巧みだと思うが。でもこれがいかに日本社会を歪めているかを理解しているのか。コロナウイルスが飛沫や接触で感染するのは別段格別な証拠が必要なのかと思う。
風邪ひいたら、近くに寄らないというのは、多くの人に同意が得られることだろうし、閉じられた空間は喚起が良くないのなんて、あたりまえだし、なんだかね。
この3密という言葉は社会を壊しかけていることを何も考えていない。

日本がクラスター対策を重視している理由は、感染の仕方が二通り考えられ、一つはインフルのように一人の感染者がきちんとふたりずるに感染させるというのと、SARSのような一部の人がたくさん感染させるというもので、西浦さんたちは後者のSARSに近いものと考えて、だからこそ重点的なクラスター対策をとっていたようだ。でも欧米予想外の拡がりとなったので、どうも違うとなる。

日本と欧米の対策で、日本の優れているのは感染者の濃厚接触者に対するアプローチだけでなく、その場を共通の感染源となった場を見いだして、その場を共有した人たちをも追跡したことだという。

42万人という数字について、川端さんは二つの理由で西浦さんを擁護している。
一つは、西浦さんの計算はあくまでも「最悪の被害想定」であるということ、そして二つ目が被害想定の期間の問題で、終息までの期間なのだから、まだ42万人は有効期間内であるという。
そしてさらには42万人というのは、ファクターXの存在が明らかになり、仮に日本人が何らかの免疫をもっているなどが判明しないかぎりは、同様の関数となり、42万人という数字は変わらないという。マジかよ。これって科学というよりも神学ではないか。
ならば100万人でも1000万人でもいいじゃない。対策次第でゼロが一つも二つもとれていくってい、まあ至極普通のことを言っているけど、でもそれって多めに言っておけば成果が出やすいことでもある。
サラリーマンの社会でもまっとうな計算ではもっと少なくても、成果をでていることをアピールするためにも損を莫大に言ったりする。

基本的に西浦さんのロジックは、「感染症を止める」につきていて、それ以上でもそれ以下でもない。ウイルスの毒性云々はこの際どうでもいいような印象がぬぐえない。
またクラスター潰しが功を奏しているのかどうかも、正直どうなんでしょうね。

2021/03/15

『柳田国男――知と社会構想の全貌』 川田稔 ちくま新書

川田氏の著作は全般的に冗長だ。全体を俯瞰するのにはとても役に立つが、通読するのには骨が折れる。
書いてある内容で、特筆すべきところとしては、農務省時代の柳田国男の農業政策だ。地主制度の廃止、南方への移民の推進などは柳田の手軽に読める著作物では知ることはできない。
地方の人口増加によって、農民一人がもてる土地の面積が小さくなるから、南方に移民を考えていたというのも、けっこうショッキングではある。

柳田は民俗学を欧米のフォークロアでもエスノロジーでもないものとして確立しようとしていた。
柳田の著作を読んでいても、欧米の影響というのはよくわからないのだが、本書ではデュルケーム、マリノフスキー、フレイザーらの影響があることが論じられている。まあそうだな。

全体的には柳田国男の著作をある程度読んでいれば、さもありなんといった感想しかない。
とりあえず国家神道への批判や氏神信仰について書かれている。ある程度まとまっているので便利ではあるが、それ以上でもそれ以下でもないかなと思う。

2021/03/14

『感情史の始まり』ヤン・プランパー/森田直子 監訳 みすず書房

んーかなり微妙。普遍主義と構築主義を止揚しようとしているようだが、正直何をやっているのかわかりかねた。
感情というのは本能だ。しかしその現れ方は文化によって異なるし、時代によっても異なるだろう。
歴史上の人物にも感情があるなんて、そんなことふつうでしょうし、テキストを読むうえであたりまえのように考慮に入れることでしょう。怒りの文章でも、今の自分がもっている怒りの感情とは同質かどうかなんて、んなこと知るかよ、と思う。
神経生理学や解剖学的な知見だけではいけない、というのもそうでしょうよ。
アリストファネスでもアイスキュロスでもいいけど、読んでみれば、そこには現在と相通じるものがある。たしかに細かい機微まではわからないけど、同じように笑い悲しんでいたわけです。
いずれにせよ感情史とはなんだかよくわからない。

2021/03/13

『ブラッドランド――ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実 下』 ティモシー・スナイダー/布施由紀子訳 筑摩書房

しかし酷いのなんの。どうしてここまで虐殺が起こるのか。
本書で、ユダヤ人大虐殺の見方が変わる。ぼくなんかそれほど知識ないから、ホロコーストといえばアウシュヴィッツのような強制収容所での虐殺だけを念頭においていたが、実際には大半のユダヤ人がモロトフ=リッベントロップ線以東で殺されている。
おそるべきはナチスのバルバロッサ作戦の失敗がユダヤ人の東への移送を不可能にし、その結果として大虐殺がおきていくということだ。
第一世界大戦から第二次世界大戦の終了まで、東欧の歴史はあまりに悲惨すぎる。

下記はメモ。

ナチスの対パルチザンとユダヤ人の殺害は同じものとして扱われた。パルチザンの活動は民衆やユダヤ人を助けた面もあるが、ナチスが民衆とユダヤ人を問答無用で殺害する動機にもなっていた。

ベラルーシ―などでパルチザンが結成されていくが、ある不安があった。ナチスを追い出した後にスターリンはパルチザン組織を弾圧するのではないか。ということでスターリンは共産主義の教義上、下から勝手に組織が出来上がることはよくないので、これらのパルチザンはナチスの手先として

ナチスは民間人の退避計画を組織できなかった。しかし軍はソ連に降伏するよりはイギリス、アメリカに降伏したほうがいいと考えて西に逃げていたという。ひどい話。それでソ連へに民間人の男は殺されるか強制収容所に送られ、女は強姦されていく。

ナチスの敗戦後、新生ポーランドが生まれる。共産主義政党はすべてのドイツ人を追放、排除することを決める。これはポーランドだけでなくチェコスロヴァキアでも起きた。ポーランド人にとっては共産主義は好ましい相手ではなかったが、土地を与え、ドイツから守ってくれるのがソ連だった。

「大祖国戦争」では、実際に戦地となり、勝利していったのは、ベラルーシ、ウクライナであり、死んでいった者たちもロシア人よりユダヤ人、ベラルーシ―人、ウクライナ人が多かった。しかし、スターリンはそれを隠し、ロシア人の勝利として扱っていった。ここで疑問なのだが、グルジア人であって、生粋のロシア人ではなかったと思うのだが、それでもロシア人に肩入れしたのはどういう理由なのか。マジョリティであるロシア人の顔色をうかがったのか?

ソ連にとってナチスがおこなったホロコーストをあまり宣伝材料に使いたくはなかったようで、というのもソヴィエト人の手を借りて膨大なユダヤ人を殺害していったからだという。

ユダヤ人虐殺ではアウシュヴィッツが象徴として取り上げられる。たしかにアウシュヴィッツは死の工場であったが、大量飢餓発生地域やトレブリンカのほうが虐殺の効率性はよかった。そしてアウシュヴィッツはユダヤ人コミュニティを形成していたポーランド、ソヴィエトのユダヤ人が多数殺された場所でもなかったアウシュヴィッツが中心的な死の工場となったころには、すでにポーランド、ソヴィエトのユダヤ人は殺害されていた。アウシュヴィッツは大量虐殺の最終章だったという。

モラルとは何か。ナチスもソ連も、これらはひとつのモラルだった。
ある目的のためには犠牲が伴う、という期待が現在の悪を将来の善であると信じていた。


2021/03/12

『アンナ・カレーニナ』4 トルストイ/望月哲男訳 光文社古典新訳文庫

リョービンはオブロンスキーに誘われて仕方なくアンナに会いに行く。そこでリョービンはアンナの女性としての魅力に惹かれていく。そして彼女の境遇をかわしそうだと思うようになる。アンナはリョービンをわざと籠絡しているのだが、リョービンはキティに指摘されるまで気づかない。キティに指摘されリョービンはアンナの誘惑に敗けたことを自覚はするが。
「およそ人間はどんな状況にでも慣れしまえるものだが、まして周囲の人が全部そんな風に暮らしているのだとわかっている場合はなおさらである。」(98)
キティの出産がはじまる。リョービンは理性的に考えれば神を会議するものと考えていたが、そんな判断さえも出産という事件では神に呼びかけることを少しも妨げるものではなかった。
「子供は? どこから、どうして現れたのか? そしていったい何者なのか?……彼はどうしてもわからなかったし、その考えに慣れることもできなかった。子供は何かしら無駄なもの、過剰なものと思われ、長いこと子供の存在に慣れることができなかったのである。」(122)

オブロンスキーはアンナの離婚を成立させるためにカレーニンを訪れる。そこでリディア・イワーノヴナ伯爵夫人とカレーニンの関係を知り、そしてランド―と呼ばれる怪しい占師、もしくは教祖のような存在がこの二人の心を支配していることを知る。キリスト教ではあるが、狂信的な教えのようでカレーニンもリディアも彼の言いなりで、ランド―が離婚を否定した。
アンナはカレーニンを愛しているが、ヴロンスキーを信じることができなかった。ヴロンスキーを冷たい人間であると、そしてアンナの絶望や孤独は全てヴロンスキーのせいにする。そして言い争いになると、アンナは自分を「不誠実な人間よりももとお悪い、心のない人間」と言う。ヴロンスキーはそんなアンナに我慢ができなくなく。
アンナはヴロンスキーの愛を強烈に欲していく。しかしアンナはヴロンスキーには愛がないと感がている。
アンナは自分の置かれた境遇、カレーニンの恥辱、息子の恥辱、そしてヴロンスキーへの復讐をするためには、死を選ぶしかない考えるようになる。
ヴロンスキーはアンナの我儘を極力聞いてあげている。しかしアンナはどんどんと自ら絶望へと走って行く。ヴロンスキーが母のところへ行くのも、ソローキン侯爵夫人の娘に会いに行くのだと思って、彼を追いかける。
鉄道の駅に向かう前にアンナはドリーに会いに行って、すべてを話そうとするしかしそこにキティがいた。アンナは露悪的な態度でドリーとキティに接する。彼女たちはアンナをかわいそうだと思い、同情していく。このあたりですでにアンナとキティたちの立場がまったく別のものになっている。

アンナが死んだあと、リョービンの信仰について書かれていく。
ここにはリョービンが抱えもっている矛盾と調和が書かれる。
善い生き方をしているのはすべて信者であること、そして反宗教的な人は決してリョービンを納得させるようなことを言ってはくれない。
リョービンは「魂のために生きる」ことを言うようになる。
理性には理解できない、理性の外部にあるもの、しかし明確な認識、善は因果の連鎖の外にある。
理性が教えてくれるのは生存競争であり、自分の願望の成就だ。他者を愛せというのは理性からはでてこない。なぜなら不合理だから。理性は傲慢だ。(324)
リョービンはこのような認識を得て、これで自分も変われたと思ったが、実際彼は人にも腹をたてるし、議論もしてしまう。

この時代、露土戦争がおきており、ここでヴロンスキーが志願兵としてセルビアに行くことを愛国的と評価される向きがあったようだが、トルストイはリョービンとシチェルバルツキー老侯爵の口を借りて言う、いつのまにスラブ人であることを求められるようになった、けれども自分にはスラヴ人同胞に興味がなくロシアのことしか興味がわかないと言う。民衆はそれに戦争のことなんか理解していないという。民衆は意志表明をしないし、そもそも何に意思表明をしなければならないかもわかっていないと。(348)
ここでもリョービンは議論に負ける。しかし、それは重要な事ではなかった。議論は理性的な活動的しかないからだ。
キリスト教以外の宗教を信じている者たちは、キリストが教えてくれる最高の恵みを奪われているのだろうか、とリョービンは自らに問う。しかしリョービンはこのような問い自体、多種多様なことに一般的な表現を取り入れることを拒否するようになる。個人としての自分の心に理性では捉えられない知恵をはっきり示してもらっているのもかかわらず、理性と言葉を頼りにしようとしていた。(369)
「これからもおれはこれまでと同じように御者のイワンに腹を立て、同じように議論をとおして場違いなところで自分の意見を述べるだろうし、自分の胸のうちの神聖なるものと他人との間には、たとえ相手が妻であれ、壁があり続けることだろうし、相変わらず自分の恐怖感を妻への非難にすり替えては、それを後悔し、また同じくなんで自分が祈るのか理性で説明できぬまま、祈りつづけることだろう。だが今やおれの生が、おれの生活の全体が、わが身がどうなろうと関係なく、どの一分間をとっても、単にかつてのように無意味でないばかりでなく、疑いようのない善の意味をもっている。しかもその善の意味を自分の生活に付与する力が、おれにあるのだ!」(373)

2021/03/11

『アンナ・カレーニナ』3 トルストイ/望月哲男訳 光文社古典新訳文庫

リョービンは結婚する前に痛悔礼儀を受ける。リョービンは神の存在を疑っている。司祭から神の存在は世界を見れば自明であることを説かれる。子供が生まれたときに子供に世界の存在をどう説明するのかとも言われる。
リョービンは兄ニコライの見舞いに行くと、すでに死期が近いことを悟る。キティも一緒についてきて、リョービンが嫌々ながら兄に紹介する。するとキティはベッドのシーツや枕などのを変えたり、病人に必要なことを指示し、行っていく。一方リョービンは何もできずに呆然とするだけ。ニコライは臭いや汚らしさを嫌がることなく接してくれるキティに感銘をうける。ニコライとリョービンは互いにある瞬間で優しい気持ちをもち手を握り合ってったりするが、ときに不機嫌になったりするニコライに対してどう接していいかもわからなくなったりもする。
てきぱきと動くキティを「賢い」とリョービンは思う。リョービンは死にゆく者を恐れていた。
キティとアガーフィアは死にゆく者に身体的な苦痛を和らげる以外の何かを求めていた。
リョービンもキティもニコライが死ぬことを確信していた。しかしニコライはなかなか死なない。面白いのはトルストイはこのあたりでニコライの早い死を誰もが望んでいることを率直に書いていることだ。キティは身体的にも精神的にも看病に参っていた。ニコライは痛みから周りに当たり散らすようになる。
リョービンは死を神秘として捉え、そしてニコライの死は同時にキティの妊娠へと繋がっていく。

アンナとヴロンスキーはイタリアへ駆け落ちをする。セリョージャを置いて、ヴロンスキーを選ぶ。
しかし欲望を満たすことが幸せであることとは違うことを悟っていく。これをトルストイは人間のよくやる過ちとしている。
アンナはいろいろとめんどくさい女になっていく。ペテルブルクで社交界に勝手に行ったにもかかわらず、ヴロンスキーに愛しているなら、なぜ止めてくれなかったのかと責めたりする。

オブロンスキーが連れてきたヴェスロフスキーという脇役が登場する。感じのいい青年で、ドリーやキティに色目を使ったような態度で接したりして、服装もどこか気取っていた。リョービンはヴェスロフスキーを感じのいい青年として認めるも、自分の感情が不安定になるというので、家から追い出す。

リョービンはオブロンスキーと労働について議論をする。ここではリョービンは素朴に暴利を貪る人間、利権にしがみつく人間を嫌う。オブロンスキーはかなり自由主義的な発送で、銀行でも鉄道でも事業を行う人間が居なければ発展がないだろうという考えをもつ。
この違いは、かなり現在でも引きづっている。リョービンの考えは簡単に反論できるものではある。事実リョービンは簡単にやりこめられてしまう。しかしそれに納得できないのがリョービン。
オブロンスキーはそんなに不平等を間違っているというならば、領地を農民にくれてやるべきではないかと言う。リョービンは言う、農地を農民たちにくれてやる権利はないし、そして先祖代々の土地を守っていく義務があると言う。リョービンはここでも言語化がうまくできずにいる。
「所詮二つに一つなんだ。現存の社会体制を正当なものと認めて、自分の権利を守ろうとするか、それともこのぼくがしているように、自分が不当な特権を教授しているのを認めながら、その特権を喜んで教授するしかないのさ」(386)

リョービンは子供が生まれることは神秘であるべきである考えていた。そんんなかキティは細々とした実用的な準備を進めている。それをリョービンは苦々しく思っている。キティの人為的な作業がそれを冒涜していると感じている。

ドリーはアンナに会い行く。アンナとヴロンスキーの生活は驕奢で、イギリス風の家具を取り揃えていたりと何かとってつけたような幸せなところがあった。ドリーは現実の子育てや子供たちの未来、苦しい家計などに直面しており、アンナたちのような贅沢はできない。
しかし、アンナたちの生活を目の当たりにして、その窮屈さや堅苦しいさががまんできなくなり、むしろ現実的な生活のほうが懐かしく思うようになる。
ヴロンスキーはドリーにアンナが離婚をするように説得してくれるように頼む。しかしアンナはドリーに、自分の不幸と、自分の置かれた立場がいかに絶望的かを叫ぶ。
理性があるのだから不幸な子供を産まない、それは理性的な回答かもしれなかったが、ドリーはそれを理解できず、嫌悪感も覚えた。
ドリーは子供が欲しいが経済的にも子供をもてない、しかしアンナは今の状況で子供が欲っしてはいけないという状況というふうにアンナは理解していた。
なかなか難しいところだ。

2021/02/27

『ブラッドランド――ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実 上』 ティモシー・スナイダー/布施由紀子訳 筑摩書房

んー凄まじい。
ポーランド、バルト地域、ベラルーシ―、ウクライナをブラッドランドと呼び、その凄まじい大量虐殺を書き出している。
1932年から1933年までスターリンの行った五ヵ年計画で工業化を目指して、集団化政策を行って、農作物を輸出して、機械類を輸入して、そしてウクライナが飢餓になって、人肉食までいく。なんなんだこの歴史は。しかもスターリンは意図して飢餓を起こしている。
フセヴァロド・バリツキーはNKVD支局長として、ウクライナの穀物収奪を正当化させていく。スターリンにはこの飢餓を民族主義者の陰謀として説明し、飢餓と処罰を組み合わせていた。
そしてこの集団化政策は階級闘争と位置づけていた。「富農(クラーク)」を抹殺することを意図していた。ではクラークとは何かと言えば、そんなものは国が勝手に決めていた。
グラーグと呼ばれる強制収容所へ農民を大規模に強制移住させ、集団化を行っていく。自由農民が奴隷農民となっていく。
飢餓はウクライナ人300万人だけでなく、ロシア人、ユダヤ人、ドイツ人、ポーランド人で30万人、そしてソヴィエト・ロシアでも150万人が死んだ。さらにカザフスタンでも飢餓が起こっており、130万にが死んでいるという。
この飢餓のによる大虐殺によってウクライナの人口動態が変わったという。しかも人口調査をした担当者を処刑までする。ひどい、、、

1937年、バリツキーはウクライナの飢餓を「ポーランド軍事組織」の陰謀にも結び付けていく。ドイツの侵攻でソ連に亡命した共産主義者はスパイとして処刑もされていく。バリツキーはウクライナで「ポーランド軍事組織」が再結成されたと主張したが、エジェフはそれをさらに誇大にしていき、モスクワ本部、そしてソ連全土にかかわる問題にしていく。そしてスターリンはバリツキーが「ポーランド軍事組織」を甘く見ていたとして免職になり、逮捕され、処刑される。なんなんだこりゃ。

ソ連はインターナショナリズムを謳っているの嘘ではなかった。だからエジェフにしろ、民族問題として取り上げていたのではなく、あくまでスパイ行為として罰せられていく。
1939年9月17日にドイツについでソ連はポーランドへ侵攻する。
そしてモロトフ=リッベントロップ協定(独ソ不可侵条約)によってポーランドは分割される。知識人は虐殺されていく。ソ連によるカティンの森大虐殺など。
ドイツでもポーランドを「浄化」するために、ユダヤ人だけでなくポーランド人も強制移住させられ、餓死していく。ヒトラーもスターリンもポーランドの知識人階層の抹殺を意図的に行っていた。そいて従順な大衆だけを残し統治をしやすくしようとしていた。

ヒトラーもスターリンもイギリスを気にしていた。帝国主義の存在はスターリンにとっての共産主義の存在を、世界革命という目標を成り立たせてくれるものだったし、イギリスという巨大な悪の存在があるからこそヒトラーとも手を結ぶことができた。ヒトラーはイギリスを超える帝国主義国家を目指していた。
ヒトラーもスターリンもイギリスの存在から導きだした答えが、拡張主義だった。食料、鉱物を豊富に持ち、自給自足の社会を作り上げるには領土を増やすことをよしとした。
そこでヒトラーもスターリンも目につけたのがウクライナだった。そして驚くべきことに、ナチスドイツはドイツ国内の食糧問題を解決するために、ウクライナを餓死させることを計画する。大量餓死と植民地化がセットになった政策だった。
ナチスドイツは占領したソ連領で捕虜収容所をつくるが、ここで飢餓政策がなされ、カニバリズムが起こる。*ドゥラーク(一時収容)、シュラーク(下士官用)、オフラーク(士官用)
ドイツのソ連への攻撃が行われて、ソ連は報復処置としてヴォルガ川に住むドイツ人をカザフスタン以に強制移住させていく。これがナチスドイツとは違い、非常にうまくスムーズに行ったようで、スターリンが作り上げた官僚国家の効率の良さがわかる。
リトアニア、ラトヴィア、ルーマニア、などでもユダヤ人の虐殺がなされていく。
モロトフ=リッベントロップの東側では銃殺によ大量虐殺、西側ではガス殺でユダヤ人が殺されていく。

この本を読んでいると、改めて20世紀前半のヨーロッパの歴史の酷さが目につく。いたるところで虐殺が起こり、多くの場所で虐殺の碑がたつのも頷ける。どこでもかしこでも虐殺が行われている。
バビ・ヤールの虐殺で思い出したが、ショスタコーヴィチの交響曲13番がこのバビ・ヤールを題材にしている。聞いたことはないけど。

2021/02/26

『アンナ・カレーニナ』2 トルストイ/望月哲男訳 光文社古典新訳文庫

リョービンとコズヌィシェフの対比。コズヌィシェフは都会人として農民を愛し、農民を知っていると自認している。リョービンはそんなコズヌィシェフの態度を気に入らない。
リョービンにとって農民は共同の仕事の主な参加者でしかない。リョービンも農民を敬い、愛を持ち、彼らの力、つつましさ、公平さに感嘆する。しかし、農民たちのずぼらさや嘘つきっぷりにも怒っている。リョービンは農民を愛しかつ憎んでいた。
コズヌィシェフにとっての田舎生活は都会生活の正反対のものとしてあった。
コズヌィシェフはリョービンがゼムストヴァに参加せず、公共の福祉に寄与しようとしないことを非難する。教育、医療、インフラなどこれらを共同に管理、経営することの素晴らしさをコズヌィシェフは言うが、リョービンは農民に教育は必要ないし、そして医者も自分には関係のないことだと言う。
リョービンはキティに振られてから、さらに偏屈になっていく感じがあり、ドリーが子供たちにフランス語でしゃべることに欺瞞的だと思うようになっている。ドリーはその欺瞞を承知でフランス語を使用しているのだが。
トルストイはロシアの精神性について、けっこう辛辣。「わが国の農民は、経済的にも精神的にもきわめて低い発展段階にとどまっているますから」(258)とか書いているし。
とは言いつつ、リョービンはある計画を考えている。
「おれの個人的な事業ではなくて、公共の福祉に関わる問題だから。農業全体が、なによりも全農民の境遇が、一変しなくてはならない。貧困のかわりに、共同の富と満足が、反目のかわりに利害の調整と一致が必要なんだ。ひとことで言えば、無血革命を、ただし大いなる革命を起こすのだ。はじめはうちの郡の小さな範囲に過ぎないが、だんだんそれが県に、ロシアに世界全体に広がって行くのだ。そうだ、これこそ働き甲斐のある目標だ。」(277)
兄のニコラスがリョービンを訪ねてくる。リョービンは兄の死を予見する。
そこで共産主義を論じる。(292) リョービンは私有財産などを否定することではなく労働の調整を考える。そしておもしろいのがすでにトルストイは共産主義を初期のキリスト教のようなものとして述べている。兄は共産主義を合理的で未来のある運動と一定の評価を与えている。
ニコライとの対話では、リョービンはきちんとした言葉で語ることできずにいる。
リョービンはニコライと別れたあと死がつきまとう。自分の事業が地球規模から考えてちっぽけなものだと思うようになっている。(353)

カレーニンはこれまで通りの生活をすることを決意する。アンナにもその旨を手紙で知らせる。アンナはこれを受けて、さらに気がふれる。アンナは当初の魅力がなくなり、ヒステリックな女性へと変わっていった。ヴロンスキーもアンナに初めて会った時のような感覚は失せたが、それでもアンナが自分を愛していることに、愛を感じたりする。すでに引き返せないと悟っている。(312)
同僚のセルプホフスコイが昇進し、その自信を目の当たりにし、ヴロンスキーはそれでも自ら昇進を辞退したこと、そのことに焚いて自分は自由気ままな人生を送る人間と装うこと、これではまずいという本音などが書かれている。
ヴロンスキーは、ある国の皇太子に街を案内しているときに、皇太子のふるまいに自分自身の卑しさをみて嫌気がさす。
アンナとヴロンスキーは同じ夢を見る。ぼうぼうにひげを生やした小さな百姓が身をかがめて袋をごそごそといじっている夢。死の予見させる。
オブロンスキーはカレーニンと会い、晩餐に誘う。リョービン、コズヌィシェフ、キティらが一堂に会する。そこでリョービンはキティと再会し、お互い許しあい、愛を語る。
ドリーはカレーニンに離婚しないように説得するが、カレーニンはドリーが語るきれいごとに嫌気がさす。敵を愛せ、、、
カレーニンはペテルブルグでアンナの容態が悪いことを聞き、家に戻ると娘を産んだ後に産褥熱にかかる。
アンナはうなされながら、カレーニンに許しを請う。アンナはカレーニンを高潔な人物とみなす一方でそんな高潔さを憎んでいた。
カレーニンは、アンナの病状を目の当たりにして、死に直面したアンナのすべてを許すことにした。しかしアンナは回復してしまう。カレーニンの誤算。
アンナはカレーニンを恐れ、オブロンスキーはそんな夫婦関係を見て、ヴロンスキーに離婚を勧める。いったんは離婚を決意していたヴロンスキーは、アンナを許したにもかかわらず、再び離婚を決意することがなかなかできなかったが、オブロンスキーに説得され、離婚に踏み切るも、アンナは離婚をせずにヴロンスキーと一緒に国外にでる。

2021/02/22

『遠野物語 山の人生』 柳田国男 岩波文庫

「遠野物語」の良さは、やはり簡潔な文章にある。
収集した説話を無駄なものを付け加えずに残している。常民の研究が日本の精神史、宗教史をつまびらかにする。文章で残っている「古事記」「日本書紀」などだけでは日本の歴史を語れない。いまでも柳田のような研究を下品なものとして脇に追いやることがままある。とくにナショナリストによる歴史はそうだ。柳田が書くように、そういう人たちは「いつまでも高天原だけを説いているがよい」(264)

「山人考」で説かれているように、東北には神社が少ない。これは大和の支配圏がせいぜいいっても関東程度であったことで、「風土記」の編纂も常陸までしかない。
東北地方では、おそらく大和のもつ文化的宗教的侵襲を、平泉平定ごろまで拒んでいたふしがある。
とはいいつつも東北地方だけでなく、全国で常民の宗教の残滓を垣間見ることができる。「山の人生」はそれを見せてくれる。
かつては神を扱われたものが妖怪として恐れられたりする。もともと天狗や山人と集落の者たちとの交流があった。
「始めて人間が神を人のごとく想像しえた時代には、食物は今よりも遥かに大なる人生の部分を占めていた。」(253) その象徴が餅で、古来より神に餅を捧げるのは、まさに餅を供えることで神は人間の手助けをしてくれた時代があったのだ。角力も現在のような天皇を頂点とするヒエラルキーの中で行われていたわけではない。土地土地で山人と角力によって交流がなされていた説話が多く残っている。

柳田が残した説話から常民たちの宗教史なるものが浮かび上がる。この宗教というのは、仏教やキリスト教やイスラム教などのようなたいそうなものではない。
明治の三陸地震の津波の話が残っている。
「夏の初めの月夜に便所に起き出でしが、遠く離れたるところにありて行く道も浪の打つ渚なり。霧の布きたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者の近よるを見れば、女は正しく亡くなりしわが妻なり。……男はとみればこれも同じ里の者にて海嘯の難に死せり者なり。自分が婿に入りし以前に互いに深く心を通わせたりと聞きし男なり。今この人と夫婦になりてありというに、子供は可愛くはないのかといえば、女は少しく顔の色を変えて泣きたり。死したり人と物いうとは思われずして、悲しくて情なくなりたれば足元をっみてありし間に、男女は再び足早にそこを立ち退きて、小浦へ行く道の山陰を廻り見えずなりたり。」(64)
よく柳田はこの話を残したと思う
このようなことは、簡単に幻覚だとか夢だとか、ウソだとかと言っていい話ではない。かなり現実的な話で、東日本大震災のあとも同様の話がいくつもある。

柳田は夏目漱石、森鴎外が作り上げた文学の流れにある。鴎外も柳田も官僚であった。彼らは国家と人間の関係を常に意識した作品となっている。それは田山花袋、芥川、太宰とは異なる系譜をつくりだしている。

2021/02/21

『「色のふしぎ」と不思議な社会――2020年代の「色覚」原論』 川端裕人 筑摩書房

んー脳内革命。
日本では先天的色覚異常が男性では5%いるという。それを「異常」としていいのか。だから日本遺伝学会では、色覚異常を「異常」とせず多型として、1%未満を変異と、概念を変えている。頻度の高いものはすでに定着しているという考え。もちろん1%には根拠はなく目安としている。
色覚異常をもっている人々への差別というのは、正直ピンとこなかった。自分自身が「正常」の範囲であるからでもあるが、かつては結婚差別まであり、現在でも職業差別がある。かつては色覚異常がある場合は理系に進むこともできなかった時代があるとは。
2014年に色覚検査の復活がなされたという。というのも、今の社会において、職業選択の際に前もって自分の色覚について知っておくことは、後で知るよりもメリットがあるからというものだ。これを日本眼科医会が推しているという。とはいえ日本眼科医会も別に差別するために色覚異常を見つけ出すことを目的にしているわけではない。あくまで個人が認知していることの重要性を説いている。
ただ、ここで問題が起きているようで、川端さんがいうように、石原表によるスクリーニングが適切なことなのかどうかということだ。
川端さんは石原表でのスクリーニングは基準を満たしていないという。
この問題は興味深くて、眼科医と色覚の研究者では、視点が異なっていることだ。

あのドットで数字を見る検査表を石原表と呼ぶとは知らなかった。しかも戦前に陸軍で作られ、世界に広まったとは。そしていまなおスクリーニングにおいて有用性があると認知されているとは。
ただし、アメリカ軍でもイギリスの民間航空会社でも、石原表ではなく、別の基準を設けて色覚検査を行い、適正を測っている。そして石原表では異常となりパイロットもしくは整備しにはなれなかったかもしれない人々が、別基準では採用がなされていく。
石原表とは何なのか。しかも感度と特異度がきちんと調査されていないという。なんだそれ。
結局、石原表でスクリーニングにひかっかても、異常ではなく正常にもなる。
問題はスクリーニングにひっかかってもその後の確定診断にいたる過程が確立されていないことだという。
ちなみに石原表には色覚異常ではないと読み取れない票があり、正常な色覚だと読めないものがあるという。もはや正常と異常が何を意味するのかがわからなくなる、そもそもアンビバレントを孕んでいるようだ。

色覚を調べるのに糞のサンプルから遺伝子のDNAを拾うというので驚く。
色覚の2型、3型などがあり、人間は3型が多数を占めるが、必ずしも3型が有利であるというわけでもない。人間がどうして2型、3型、と多様なのかもよくわかっていないようだ。
ただ2型の方が、一般的に明るさのコントラストや形状の違いに敏感で、自然界で昆虫を採取したりなどの条件では有利に働く。ただし3型は森の中で緑の背景で果実の赤を見つけ出すのが有利だったりするらしい。
ただし、こういう有利不利も経験からその差異は埋められていき均されていく。
「色の弁別」と「色の見え」は違うというのは、まったくもって納得。色覚異常であるから色の弁別ができないわけでもない。見え方が違う。ただし、それがどのように見えているかは検証する術がない。
色の見え方は、証明の明るさや波長でも異なっていく。ザ・ドレスを参照。
「色覚は健全な錯視である」
結局、異常と正常の明確な境はない。スーパーノーマルの存在が明らかなように、正常自体が人間が作り出した幻想でしかない。
色覚では、明確な線が引けない。
「軽いほど危険」というフレーズそのものに危険が潜んでいる。気づかないぐらいの色覚だと知らないうちに日常生活で不利益を被るというものだが、そもそもとして正常と異常がはっきりと区別できないことがわかっている状況で、この言説を指示できる根拠がなくなっている。

驚くべきは魚類で、多様な色覚を獲得しているようで、緑型、青型という哺乳類、霊長類がもっていない錐体オプシンをもっているとのこと。すごい。
猫を飼っているが、やつらは多様な色を見分けられないとバカにしていたが、じつはそうではなくて、猫からしてみれば色覚が2型であることで闇夜でコントラストと輪郭をはっきりさせて、生存してきたということであって、まさに多様性なのだな。


2021/02/20

『アンナ・カレーニナ』 1 トルストイ/望月哲男訳 光文社古典新訳文庫

一人ひとりの登場人物がどんな思想をもって、発言し行動しているのかがうまく描かれている。
オブロンスキーは新聞はリベラルなものを読んでいたが、彼はノンポリであくまで都市的な教養としてリベラルを装っている。そして彼は他人に対して非常に外交的で、多くの人が彼に魅了されていく。

「きみはまた人間の行動にはいつも目標があり、愛と家庭生活が常にひとつであることを願うだろうが、そうばかりではないのさ。人生がこんなにも多様で、魅力的で、美しいのも、すべて光と影の両方があるからなんだよ」(110)

オブロンスキーのこの発言なんかも、非常にバランスのいいもので、そして包容力がある。人生をどこか達観している。他の登場人物とはちょっと違った視点を提供する。

アンナの登場の描写も素晴らしい。おそらくはトルストイの恋愛経験から書かれているかと思う。ヴロンスキーがアンナをはじめて会ったときの描写、

「全身から漂っている優雅さや淑やかさのせいでもなくて、相手の人文の脇を通り抜けるときのその愛らしい表情に、なにかしら特別にやさしく暖かいものが感じられたからであった。」(156-157)

このあとの描写でもアンナは自分の優雅さや美しさを自覚している。それを武器にして社交界で生きている。素晴らしい。

結婚観がとっても面白く、恋愛結婚を旧習なものだとヴロンスキーが述べ、理性による結婚こそが幸福であることとを主張する。
アンナとカレーニンの結婚は理性による結婚の象徴であるのか。ドリーが感じるアンナとカレーニンの生活感のなさや、節度をもったお互いの不干渉など、アンナもカレーニンも理性的。
にもかかわらず、アンナもヴロンスキーも恋愛にはまっていく。

リョービンは貴族として農場を経営する。農民たちは言うことをきかない、そんなときリョービンは得体のしれない「自然の力」と戦う意欲がわいてくるらしいのだ。まさに民衆、農民などは「自然の力」なのだ。意志をもって対峙する相手となっている。
当時にすでに「田舎の解放感」が求められていたようで、オブロンスキーもリョービンを訪ねたさいに、田舎を満喫する。
しかし田舎はある意味で都市の幻想で、田舎には現実がある。そしてその現実に疎いオブロンスキーは自分の土地を、リョービンから言わせれば安い価格で手放しています。
キティはドイツに慰安のために滞在中に、ワーレニカに出会う。キティは彼女と出会い心の平安を得て、さらに滞在先でワーレニカの真似をしながら、善行を尽くそうとする。
そこに父が登場し、さらにワーレニカの義母であるシュタール夫人とのやり取りを目の当たりにすることで、キティはシュタール夫人にどこかうさん臭さを見いだし、ここでおもしろいのが父親の存在で、彼はキティに言う、

「しかしね、事前をするのなら、むしろ誰にたずねても誰もしらないという形でしたほうがいいのだよ」(576)

父の街での振舞いやシュタール夫人にたいする態度から、キティが求めていた神々しさのめっきが剥がれていく。

2021/02/14

『代議制民主主義――「民意」と「政治家」を問い直す』 待鳥聡史 中公新書

代議制民主主義を委任と説明責任で解き明かしている。まあそうだよね、この世の中分業だもの。
それよりか民主主義、共和主義、自由主義の枠でもっと書いてほしかった。
共和主義の特徴を
「「市民的徳性」が持つ政治的意義を強調したところにある。市民的特性の持ち主、すなわち他者よりも倫理的、道義的に優れており、それに基づいて社会的事柄に関して的確な判断ができる人物こそが、政治的影響力を持ち、公益あるいは公共善を追求すべきだということ」(25)
と書いている。起源をマキャヴェリと書いていることから、参考文献にあるとおりポーコックあたりがベースか。
共和主義は君主や貴族を否定しているわけではなく、徳性さえあれば別に君主でもよい、とするからで目的は公共善といったところ。
自由主義については二つに大きく分けて論じている。ロック的自由主義とマディソン的自由主義。
ロック的自由主義は経済的自由、君主から財産権の擁護。
マディソン的自由主義とは、党派間で競争させ、お互いを抑止させていくもので、エリート間での相互抑制でもあった。多様な政治勢力たちが勝ったり負けたりすることで、個々の判断が過剰でも全体として妥当に落ち着くという「多元主義」としている。
自由主義にせよ、共和主義にせよ、ブルジョワジーやエリートによる支配という見方は拭えない。しかし民主主義は「多数者の専制」でしかない。
このあたりのバランスは各国で調整しながら運営されていっている。
現在、ミャンマーの軍事クーデターが話題になっているが、ミャンマーでの民主主義とはいかなるものかを論じられていないし、さらに言えば民主主義だからいいというわけでもないのに、ああだこうだ言いすぎている。残念至極。
ということで下記、参考文献から

田中秀夫『アメリカ啓蒙の群像』名古屋大学出版会
ポーコック『マキャヴェリアン・モーメント』名古屋大学出版会

ポーコックは昔読んだけど図書館で借りたからもっていない。もう一度さらっとおさらいしたいけど、高いし、置く場所ないし、図書館で借りるしかない。
しかし蛇足ながら、待鳥さんは素晴らしい実績もあって、他の著作はよかったけど今回は微妙でしたね。なんか焦点が定まっていなくってふわっとしていた。

2021/02/13

『性の歴史IV 肉の告白』 ミシェル・フーコーフ/レデリック・グロ編/慎改康之訳 新潮社

やっぱり一回だけ読んで理解できるような代物では全くなかった。けっこう難解な内容。どう整理していいかもわからない。
この『肉の告白』がどのように現代の問題と結びつくのか、結びつけられるのかがよくわからない。内容自体は興味深いものばかりで、知的好奇心は満足できるものではある。
んーだれかこの主体性やら欲望の系譜学とやらで、現代と結びつけながら論じてくれる人はいないものか。

以下はメモ。
古代ギリシアから離れ、ようやくキリスト教における欲望の系譜学を描き出す。ここでフーコーが抽出しているのは、単純な宗教的禁欲ではない。禁欲や節慾がもつ意味となる。
まず、アレクサンドリアのクレメンスによる『訓導者』を読み解いていく。
「我々が我々の訓導者から学びつつあるキリスト教徒の生は、<ロゴス>に適う行動の一式である。<ロゴス>の教えを断固として実行すること、これがまさしく我々が信仰と呼んだものである。」
クレメンスは適切な振る舞い(カテーコンタ)はロゴスから解読する。ロドスが人間行動の正しい道徳感覚を与え、救済するとなる。
初期キリスト教において、性交や結婚、それ自体は正真正銘の悪としては扱われない。人間の子作りの行為は<天地創造>の力能を関係しており、キリストの再生、受肉にも関連付けられている。

悔い改め
「悔い改めの実践と収斂的な生の務めは、「悪をなす」ことと「真を語る」こととのあいだの諸関係を組織化し、規範の厳しさの増減よりもおそらくはるかに新しくはるかに決定的な一つの様態において、自己、悪、真に対する諸関係を束ねる。実際、問題となtっているのは、主体性の形式である。自己の自己に対する務め。自己の自己による認識。調査および言説としての自己自身の構成。自己の解放と浄め。自己の奥底にまで光をもたらし、最も深いところにある秘密を贖罪のための現出の光へと導く操作を通じて得られる救済。このとき練り上げられたのが、一つの経験形態――自己への現前の様態であると同時に自己の変容の図式であるものとしての経験形態――である。そして、経験形態こそが「肉」の問題を、徐々に自らの装置の中心に据えるようになったのだ。そして、正しい生の一般的規則に統合されるものとしての、性的関係ないしアフロディシアをめぐる規定に代わって、生の全体を貫き生に課される諸規則の基盤をなすものとしての、肉の根本的関係が現れることになるのである。」(68-69)
「悔い改めは、自己の客体化よりもむしろ、自己の現出化に結びついている。」(85)
「メタノイアはこうして、心理に知王辰しようとする魂の動きであるとともに、その動きの現出化された真理でもあるような、複雑な一つの業を構成するのである。

他者の意志に服従するのは、他者が服従を欲しているから。
従順とは、他者との関係のみならず、生存の方法である。修道士が従わなければならないのは、まさに従順に達するためとなる(172)。従順とは自己との官益の一形態であり、指導は内面化し自己が自己自身の指導者へとなっていく。指導されるものは自分の意志に代えて他なる意志を際限なく受け入れる立場におかれる。「指導は、もはや欲しないようにしようとする熱意という逆説に依拠している」(175)
なかなか興味深いのが、初期キリスト教思想において、神の力添えなしに、人間の思慮分別は不可能であるとしてることだ。頼みの綱は神の恩寵であると。
自らの行為に間違いがないかどうかの検討をしても、自己自身を欺くこともある。それを払いのけることはできない。だから告白が必要となる。
「自分の心を苛むいかなる思考も偽りの羞恥によって隠されないようにすること、そうした思考がうまれたらすぐにそれを上長に現しだすこと」(カッシアヌス『共住修道制規約』/189)

なぜ告白が検証の役割を担うのか。上長の経験が優っているから助言が適格である、というのもあるが、カッシアヌスは言語による外在化に清めの効力を認める。
告白には羞恥がともなう。
自己を検証することで、「真を語る」ことと絶えず結び、神の恩寵が作動する。神は清らかな思考のみを迎えていく。
フーコーは自己に責任があると認める行為を「法陳述」ではなく、自己自身も知らない秘密に関する「真理陳述」としている。
「清らかさは逆に、自分自身のあらゆる意志の決定的な棄却」とし、「真理陳述」は自己の棄却と結びついている。
処女・童貞性の価値。禁欲や節慾が論じられながら、「個人の自分自身との関係、つまり、個人の自分の思考、自分の魂、自分の身体とのあいだに打ち立てる関係を」定義するようになる。処女・童貞性の推奨は、姦通の禁止の延長線にあるのではなく、非対称であり、異なる本性に属するという。(211)

オリュンポスのメトディオス『饗宴』
処女・童貞性には単に節慾の重要性や困難さを言っているのではなく、霊的な意味が与えられる。
結婚には肯定的な意味が与えられている。ただし、それは処女・童貞を守ることができない弱い人々に対する譲歩としてという。
清らかさは神の賜物なのである、腐敗から人間を守ってくれるという。
「永遠」「この生を超えた世界の彼方」。プラトン的。

アレクサンドリアのクレメンス曰く、結婚は過酷な試練を受けていることになるようだ。結婚は処女・童貞と同じように道徳的価値が与えられる。結婚には多くの危険がある。
処女・童貞を選ぶことは強い人々だけであり、少数の人のためのもの。結婚はみんなのためのもの。
「処女・童貞性は、天指摘生存を開くのだ。処女童貞性は、いまだ我々とともにあり続けている人々を非腐敗と不死性にまで上昇させる。」
「似た躯体的に自発的去勢者となることは、功徳がないだけではない。そのようなことをするものは、自らの魂の処女性を自分自身で確固たるものとすることを拒絶しているゆえに、つまり行為を自分にゆるさないとしても欲望には同意しているゆえに、罪びとともなされるべきである。」(287)とバシレイオスは言う。
結婚の目的は子づくりではない。というのもこの言明は夫婦と性的関係を義務としている。(355)そうではなく姦淫を避けるために、妻をもち夫をもつ。節慾のため。
子づくりは結婚の本質ではない。というのも「神の意志がなければ、結婚がそれ自身によって大地を人々で満たすことなどできないだろう。子づくりについて言えば、神は、結婚も身体の結びつきも減ることなくそれを保証することが完全にできるだろう」(356)とクリュソストモスは言う。
「産めよ、増やせよ」は身体的な生殖活動を言うのではなく、霊的な生殖を意味する。結婚は堕罪に結び付けられる。
処女・童貞性は義務ではないが、結婚は義務であり、法であるという。(361)。情欲のエコノミーにかかわる義務。

アウグスティヌスは、教会が処女・童貞を特別視していてもキリスト教共同体に帰属するための条件として、処女、結婚、節慾を求める必要がないという。(384)一つの共同体において統一される。
アウグスティヌスとって「性的関係は、堕罪の帰結でもなければその原因でもなく、創造の御業そのものによって人間の自然本性のなかに組み入れられているのだ。性的関係は、したがって、過ちからも情欲からも解き放たれいる」(397)
「結婚は<天地創造>の一部となす。。教会は結婚を保証する。なぜなら教会を構成する霊的諸形態の一部であるから。だから結婚は善なのだ。(404)
アウグスティヌスはさらに情欲に支配された、小罪を侵す人々に過度に義務をかすべきではなく、寛容さを説く。(421)
「リビドーとは、過ち、堕罪、「不従順の報い」の原理によって性行為と総合的なやり方で結びつけられた一つの要素なのだ。この要素を明確に定め、メタ歴史におけるその出現地点を決定することによってアウグスティヌスは、性行為とそれに内在する危険とが思考される際に拠り所とされていた「痙攣性のひとかたまり」を解体するための根本的条件を立てる。彼は一つの分野領野を開くのであり、そしてそれと同時に、政敵官益を回避するかそれともそれを(多少とも自らの意志にもとづく譲歩によって)受け入れるかという二者択一とは全「別の様態において振舞いを「統治」する可能性を素描するのである」(447)
アウグスティヌスとって情欲は意志に逆らう非意志的なものではなく、意志そのものに属する非意志的なもので、情欲なしでは意志は意欲しえない、しかし恩寵があれば情欲の弱点がのぞけるという。
「情欲の「自律性」、それは、主体が自分自身の意志を欲するときの主体の法であるということ。そして主体の無力、それは、情欲の法であるということ。これが、帰責性の一般的形式――というよりもむしろ、その一般的条件――なのである。」(454)
「情欲のことを人は「罪」と呼ぶが、「ある種の言葉の綾で」そう呼ぶ」(455)
「古代世界における性行為は、「発作性のひとかたまり」として、つまり個人がそこで他者との関係の快楽のなかに沈潜し、死を模倣するに至るような、痙攣性の統一体として考えられていた。そのひとかたまりについて、それを分析することは問題とならず、それを快楽と力の全般的エコノミーのなかに置き直すことが必要とされていただけであった。そのひとかたまりが、キリスト教においては、生活規則、自らを導き他者を導くための技法、検討の技法、告白の手続きによって、また、欲望、堕罪、過ちなどに関する一般的教義によって、解体されてしまった。しかしながら、もはや快楽と関係を中心としてではなく、欲望と主体を中心として、一体性が組み立て直された。その一体性は、回折がのこるようなやり方で、そしてそこで分析が可能となるようなやり方で組み立て直された。理論や思弁の形態のもとで、そしてまた他者もしくは自己自身による個別的検討という実践的形態のもとで、分析が可能となる。そしてそれらの形態のもとで、分析は、ただ単に[推奨される]だけでなく、義務とされるのだ。このようにして、発作性の快楽のエコノミーを中心とするのではなく、情欲の主体の分析論と呼びうるようなものを中心とする組み立て直しがなされた。そこでは、性、真理、法権利が、我々の文化が緩めるどころかむしろ強固な絆によって結びつけられているのである。」(474)