北方謙三の『水滸伝』を13巻まで読んで、ぼくは決心しました。
もう、これ以上読むのはやめようと。もう、お腹いっぱいで、正直読むのがしんどい。13巻までだって、面白いから読んでいたのではなくて、義務感から読んでいたにすぎない。
北方謙三の『水滸伝』の斬新さ、ユニークさとは何か、と問われても、ぼくは原典を読んでいないし、講談も知らない、横山光輝の漫画をかれこれ20年以上前に読んだっきりだ。
だからこの『水滸伝』のすごさがわからないままだった。
正直つまらないし、多くの点でぼくは批判的だ。
この『水滸伝』に深淵さを求めるのは野暮だとわかっていても、書かざるをえない。
北方ロマンティシズムのハイパーインフレーション
第九巻の馳星周氏の解説が一番、この小説への評価としてはぼくにとってはしっくりきた。北方謙三の水滸伝の本質をついている。
「百八人全員が、志だの友だちだの生き様だの誇りだのを口にして滅んでいくのだ。……ひとり、ないし数人の男たちの物語ならまだ付き合える。北方健三の妄執に満ちた世界を斜に構えながら受け入れることはできる。しかし百八人だ。百八人の北方謙三もどきが、これでもか、これでもかと男の生き様、死に様を見せつける。百八人分のナルシシズムに翻弄されるのだ。」
破廉恥な自己陶酔、そしておそるべき自己中心主義、だと馳星周さんは書く。まさにそのとおりです。
かっこいいセリフ、かっこいい生き様、かっこいい死に様、これら北方ロマンティシズムがハイパーインフレーションを起こしており、ぼくは途中で付き合いきれなくなっていった。全体的に「かっこいい」が、溢れすぎて価値が著しくなくなっていく。
この小説にあるのは、北方ロマンティシズムのみであり、それが好きな人には堪らなく魅力的なのだろうけど、こうまで見せつけられると食傷気味になってしまう。
宋江の「替天行道」の内容がわからずじまいであること。
さらに、この小説の弱さ、宋江について。馳星周さんは、「替天行道」の本文を書くべきだったといい、そしてこの内容もよくわからない「替天行道」を象徴であり、男の志なんて、北方謙三にとっての男の志は、しょせん象徴以外のなんでもない、という読みをする。そこに恐ろし北方謙三の妄執があるという。
これもそのとおりだと思わざるを得ない。梁山泊に参加する者の多くは「替天行道」に感銘をうけるなり、なんらかの影響を受けて反政府運動に加わっている。しかし、その内容がわからない。
北方さんは、「替天行道」を読んだ者があっさり「感銘を受けた」のように簡単に書いてしまっているけど、そりゃあないでしょ。
「塩の道」ってなによ。
梁山泊の政府転覆運動で大切な役割をしているのが「塩の道」。だれか忘れたがこの「塩の道」が導入されたことで、反乱への現実味を帯びた、と評していた解説者がいた(ちょっと表現が違うかもしれないけど)。
これについても、闇の商売の仕方が非常に簡潔に書かれすぎていて、いただけない。例えば検問の通行証明書は偽造しているわけだが、はっきりいって具体的な記述はこれだけ。これにしたって偽造の仕方などを詳しく書いているわけではない。つまり「塩の道」や公文書偽造の考証学的なことは一切ない。
そんなものをこの『水滸伝』に求めるのは野暮なのは重々わかっている。ただ、あまりに記述が簡潔で強引すぎて、受け入れるのはできない。
人物描写が弱い。
108人以上の登場人物を書き分けることは難しいことがわかる。はっきりいって人物の描写があまりに弱すぎる。宋江も晁蓋も、あまりに漠然としすぎている。
宋江や晁蓋といった人物が「大きい」人物であると書かれているが、言葉が直接的すぎて陳腐になってしまっている。
通常では、その「大きさ」を、その人物描写を事細かく周辺から表現したりして、輪郭をつくっていくものだけど、北方さんはそんな回りくどいことはせず、ただ「大きい人物」としか書かない。全編、この調子なのだ。
表現があまりに直接的であること。
例えば「熾烈」「孤独」「困難」「過酷」などの言葉が乱用され、そのためあまりに文章が稚拙しぎないか、と思わざるを得ない。
さらに「替天行道」や「塩の道」のようにあまりに強引すぎるため、読者は置いてけぼりを食らう。「「替天行道」なる書物はすばらしいもので、人々の心をうった」、「「塩の道」を守ってきた蘆俊義の孤独はすさまじいものだった」のような、こんな調子で、「すばらしい」だとか「すさまじい」とかの言葉を使い、強引に読者に「すばらしい」「すさまじい」ということを伝えていく。内容が何なんだかわからないにもかかわらず。
試練やつらい過去について
宋江は武松に厳しすぎるほど厳しい、みたいなことが書かれているが、これもどんだけ厳しいものなのか、なぜ武松に厳しいのか、読んでいてしっくりこない。書き方が直接的な表現で「厳しすぎる」だとか、だからその「厳しさ」をレトリックで表現してくれ、となるわけです。そしてその結果、文章の密度がうすい。うすすぎる。
林冲の試練、武松の試練、他にも登場人物のつらい過去だとかが描かれていても、なんというか、微妙なんですね。それらの過酷さが読んでいて伝わってこない。
とりあえず、ぼくはいったん『水滸伝』を読むのをやめる。
わかりやすさを求める現代においては、ちょうどいいのかもしれない。レトリックはなければ、メタファーもない。
これは文学ではない。
もう、これ以上読むのはやめようと。もう、お腹いっぱいで、正直読むのがしんどい。13巻までだって、面白いから読んでいたのではなくて、義務感から読んでいたにすぎない。
北方謙三の『水滸伝』の斬新さ、ユニークさとは何か、と問われても、ぼくは原典を読んでいないし、講談も知らない、横山光輝の漫画をかれこれ20年以上前に読んだっきりだ。
だからこの『水滸伝』のすごさがわからないままだった。
正直つまらないし、多くの点でぼくは批判的だ。
この『水滸伝』に深淵さを求めるのは野暮だとわかっていても、書かざるをえない。
北方ロマンティシズムのハイパーインフレーション
第九巻の馳星周氏の解説が一番、この小説への評価としてはぼくにとってはしっくりきた。北方謙三の水滸伝の本質をついている。
「百八人全員が、志だの友だちだの生き様だの誇りだのを口にして滅んでいくのだ。……ひとり、ないし数人の男たちの物語ならまだ付き合える。北方健三の妄執に満ちた世界を斜に構えながら受け入れることはできる。しかし百八人だ。百八人の北方謙三もどきが、これでもか、これでもかと男の生き様、死に様を見せつける。百八人分のナルシシズムに翻弄されるのだ。」
破廉恥な自己陶酔、そしておそるべき自己中心主義、だと馳星周さんは書く。まさにそのとおりです。
かっこいいセリフ、かっこいい生き様、かっこいい死に様、これら北方ロマンティシズムがハイパーインフレーションを起こしており、ぼくは途中で付き合いきれなくなっていった。全体的に「かっこいい」が、溢れすぎて価値が著しくなくなっていく。
この小説にあるのは、北方ロマンティシズムのみであり、それが好きな人には堪らなく魅力的なのだろうけど、こうまで見せつけられると食傷気味になってしまう。
宋江の「替天行道」の内容がわからずじまいであること。
さらに、この小説の弱さ、宋江について。馳星周さんは、「替天行道」の本文を書くべきだったといい、そしてこの内容もよくわからない「替天行道」を象徴であり、男の志なんて、北方謙三にとっての男の志は、しょせん象徴以外のなんでもない、という読みをする。そこに恐ろし北方謙三の妄執があるという。
これもそのとおりだと思わざるを得ない。梁山泊に参加する者の多くは「替天行道」に感銘をうけるなり、なんらかの影響を受けて反政府運動に加わっている。しかし、その内容がわからない。
北方さんは、「替天行道」を読んだ者があっさり「感銘を受けた」のように簡単に書いてしまっているけど、そりゃあないでしょ。
「塩の道」ってなによ。
梁山泊の政府転覆運動で大切な役割をしているのが「塩の道」。だれか忘れたがこの「塩の道」が導入されたことで、反乱への現実味を帯びた、と評していた解説者がいた(ちょっと表現が違うかもしれないけど)。
これについても、闇の商売の仕方が非常に簡潔に書かれすぎていて、いただけない。例えば検問の通行証明書は偽造しているわけだが、はっきりいって具体的な記述はこれだけ。これにしたって偽造の仕方などを詳しく書いているわけではない。つまり「塩の道」や公文書偽造の考証学的なことは一切ない。
そんなものをこの『水滸伝』に求めるのは野暮なのは重々わかっている。ただ、あまりに記述が簡潔で強引すぎて、受け入れるのはできない。
人物描写が弱い。
108人以上の登場人物を書き分けることは難しいことがわかる。はっきりいって人物の描写があまりに弱すぎる。宋江も晁蓋も、あまりに漠然としすぎている。
宋江や晁蓋といった人物が「大きい」人物であると書かれているが、言葉が直接的すぎて陳腐になってしまっている。
通常では、その「大きさ」を、その人物描写を事細かく周辺から表現したりして、輪郭をつくっていくものだけど、北方さんはそんな回りくどいことはせず、ただ「大きい人物」としか書かない。全編、この調子なのだ。
表現があまりに直接的であること。
例えば「熾烈」「孤独」「困難」「過酷」などの言葉が乱用され、そのためあまりに文章が稚拙しぎないか、と思わざるを得ない。
さらに「替天行道」や「塩の道」のようにあまりに強引すぎるため、読者は置いてけぼりを食らう。「「替天行道」なる書物はすばらしいもので、人々の心をうった」、「「塩の道」を守ってきた蘆俊義の孤独はすさまじいものだった」のような、こんな調子で、「すばらしい」だとか「すさまじい」とかの言葉を使い、強引に読者に「すばらしい」「すさまじい」ということを伝えていく。内容が何なんだかわからないにもかかわらず。
試練やつらい過去について
宋江は武松に厳しすぎるほど厳しい、みたいなことが書かれているが、これもどんだけ厳しいものなのか、なぜ武松に厳しいのか、読んでいてしっくりこない。書き方が直接的な表現で「厳しすぎる」だとか、だからその「厳しさ」をレトリックで表現してくれ、となるわけです。そしてその結果、文章の密度がうすい。うすすぎる。
林冲の試練、武松の試練、他にも登場人物のつらい過去だとかが描かれていても、なんというか、微妙なんですね。それらの過酷さが読んでいて伝わってこない。
とりあえず、ぼくはいったん『水滸伝』を読むのをやめる。
わかりやすさを求める現代においては、ちょうどいいのかもしれない。レトリックはなければ、メタファーもない。
これは文学ではない。
批判的なレビューがあって嬉しく思います。
返信削除自分は全巻読みましたが、「雑」な印象を抱きました。
漫画だったら絵もあってキャラが描きわけられるので、もう少し楽しいのかもしれませんね。
あなきんさん
削除全巻読みましたか! たしかに漫画だとベストかもしれません。かつては北方ワールドが好きだっただけに、『水滸伝』を読んだのを後悔してしまいました。私の甘酸っぱい北方ノスタルジーが壊れてしまいました。北方小説ってこんなもんだったのか、と。残念。