2020/04/19

第十九章 宗教上の事柄にまつわる権利は、すべて至高の権力の持ち主たちの管理上にあることが示される。正しいかたちに神に奉仕したいなら、宗教上の礼拝活動は国の平和と両立するようなに行われなければならないのであるスピノザ『神学 政治論』

宗教上の礼拝や道徳心に基づく活動は国の平和や利益と両立するものでなければならない。
だから至高の権力の持ち主によって取り決められる必要がある。ということは宗教の解釈は至高の権力者に委ねられる。
ただし個人が神を敬うのは侵害されないし、道徳心を他人に譲れというわけでもない。

神は正義や隣人愛をといていて、これらが法として効力をもつ国こそ神の国である。

自然状態では、理性のある者もない者も自然の法則に従って生きることになり、正義も隣人愛もきちんとおさまるところがない。
正義、隣人愛といった理性の教えを全うするためには、権利を譲渡し、はじめて正義、不正義、公平、不公平が成立する。つまりこれらは国の定めた権利関係によって定められる。
ゆえに宗教の教える正義や隣人愛は権利関係のなかにあり、神の王国もそこにある。
したがって宗教は自然の光によって示されようと預言の光によろうが、権力者が法令としてしないかぎ、力を持たない。

至高の権力の持ち主は神の定めた権利関係を解釈する人でもある。

祖国のための道徳心こそ、人の発揮できる最高の道徳心に違いない。なぜなら国がなくなれば自然状態に戻るからだ。
国民の福祉とは、国を保つことであり、たとえ道徳的にみえても行為が国を損なうならば、道徳的な行いではなく、その逆もしかりだ。
国民の福祉をきめるのは至高の権力者であり、隣人の愛し方、神への仕え方も至高の権力者だけが決めることができる。だから至高の権力者は宗教も解釈者である。

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このあたり解釈次第では、現代からみると単なるナショナリスト的なものになりかねないけど、実際スピノザはそれに近いものを考えていたのかもしれないなー。どうなんでしょう。国が乱れることを体験している場合、インターナショナルとはいかないしね。


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