2022/01/31

『貧困・介護・育児の政治 ベーシックアセットの福祉国家へ』 宮本太郎 朝日新聞出版

ベーシックアセットとは何か。
ベーシックインカムやベーシックサービスは現金給付かサービスに絞りこんでいる。それに対してベーシックアセットは現金給付やサービスだけでなく、コモンズも含まれる。
アセットとは「有益な資源」の意味。これは私的、公共的なものを含むが、ベーシックアセットはさらにコモンズが含まれる。
コモンズとは何か。「誰のものでもなく、オープンで、多くの人がその存続に関わるが、その分、誰かが占有してしまう場合もあるようなアセットである。……ベーシックアセット論におけるコモンズは、コミュニティ、自然環境、デジタルネットワークなどが年頭に置かれている。」(23)
特に本書で重要視しているのが「社会とつながり続け承認を得る(そのことで自己肯定感を得る)ことができる、コミュニティというコモンズである。」(23)
政府が所属するべきコミュニティを割り当てる、という性格がないわけではないが、「コミュニティがアセットとなるということは、……包括的相談支援のサービス等を受け、人々が貴族したいと考える居場所や職場をみつけ、そこに身を置くことで元気を回復できる、ということである。」(24)

現代日本の福祉制度は必ずしも良いとは言い難いところが多いが、それでも日進月歩で拡充してきた。しかし、そもそも前提に男性稼ぎ主がある。
生活保護はなぜ「選別主義」のような性格をもってしまたたのか、それは社会保障給付へ充当できる財源も抑制されているからであり、また低所得者層には給付が向けられていない。
税と社会保険料が使われているのは主に、年金、介護、医療の分野に絞られる。これらは保険料が確実な歳入としてあり、そのため財源としては潤沢にある。しかし生活保護は税金によって支えられているため財源も抑制されていく。
そのため生活困難層が、社会福祉制度から漏れてしまいかねないものとなる。
親の介護、子供の介護などは、働く世代に重くのしかかり、非正規雇用で低賃金で働かざるを得ないケースが多い。

ベーシックインカムについてがなかなか盲点。ベーシックインカムは基本的に全国民に給付することが目的であるように見えるが、そもそもが財源論の問題なのだと。財源をどこからもってくるかで、国の福祉の方向性が決まってくる。所得税からなのか、産業界への補助金などをゼロにするかなどどこからどこからかでベーシックインカムの性格が変わり、そして国の福祉制度の性格も変わっていく。

いろいろと勉強になりますね。
すでに限られたパイをいかに配分していくかが重要になっており、また各セクションに多くを割けない状況でもあるなかで、アセットという考え方は魅力的だが、はたして日本でこれが実かどうか。
日本はよくもわるくも個人主義が強い。地域に密着して活動することにも弱い。
どうなることやら。

2022/01/30

『日中十五年戦争史――なぜ戦争は長期化したか』 大杉一雄 中公新書

下記、書きかけ。たぶん書き終えることない。めんどうになった。

日中戦争というのは、なんなのか、正直よくわからない。日本はアメリカと戦争していた時期もずっと中国と戦争していた。これだけでも愚かなんだが。二方面作戦という最悪な状況。
いちおう、「十五年戦争」という呼称を大杉氏は全面的に賛成しているわけではない。あくまで便利だからという感じ。1996年出版時、どうも「十五年戦争」という呼称がある程度流行っていたようで、大杉氏はここにある種のイデオロギー臭をかぎとっている。つまりまるで満州事変から日米戦争までの歴史が必然であるかのような印象を与えると。結果をみればそうだが、歴史では和平、和解を模索する動きが常に存在していた。それがなかったかのような印象を「十五年戦争」という呼称にはあると。
なるへそ。さらに大杉氏の見方はいい感じで、
「歴史的にみて「日米戦争」は八か月にわたる日米の二国間交渉の破綻の結果開戦されたのであり、日米交渉が妥結すれば、日米戦争はなかったわけである。このようにみれば、あの戦争に東亜民族解放というような目的があり得なかったことも了解されるだろう。」(まえがきvi)

とりあえず年表。
1931年9月18日:柳条湖事件(満州事変)
1932年3月1日:満州国建国宣言
1933年3月27日:国際連盟脱退
   5月31日:塘沽休戦協定

本書は塘沽停戦協定から書かれている。つまり塘沽休戦協定が
塘沽休戦協定は満州事変後、1933年5月31日に中国軍と結ばれた。
塘沽休戦協定によって、下記を行う。
1 長城と河北省と蘆台をラインの間の非武装中立地帯を定める。
2 東三省(遼寧、吉林、黒竜江)と熱河を加えた地域を満州国として独立させた。
この塘沽休戦協定によって37年の盧溝橋事件までの4年間は軍事衝突はなかった。ここで大杉氏の疑問がでてくる。

「長城をもって国教とするだけで、満州国の防衛は確保できたのではないか。何故に中国本土である関内に緩衡地帯を必要としたのかということである。これに対しては、万里の長城は北方に対して防御するように築かれており、長城の北川にある満州国を守るには長城以北だけでは不十分で、どうしても少し超硬を越えて南にでなければ防げない、ここに停戦協定から華北問題に発展する軍事的要因があったという説明がある。しかしこれは牽強付会の説だろう。……緩衝地帯などは必要なかったはずである。……緩衝地帯の設定を要求したことは、すでに初めから将来長城を越えて華北に侵入していこうとする意図があったとみられても仕方がないだろう。」(7)
さらに言えば、緩衝地帯に傀儡政権をつくればなおいい、ということになっていく。んーなるほど。
地図で非武装地帯を見てみると、けっこう大きな面積を非武装としており、大杉氏の言うとおりだろうな。
大杉氏はここで、「満州だけでやめておけ論」に若干の考察をしている。曰く、日中戦争というものは日本帝国主義と中国ナショナリズムの戦いであり、満州はその中国ナショナリズムを煽るものだ、だから早晩か行けるしなければならない問題になっていはず。そして、仮に満州国が傀儡国家としてうまくいったとしても、日中戦争にも太平洋戦争も起きなかったとしても、ナショナリズムの時代、満州は手放すことになっていたと思れる。
まあねー。
些末だけど、ここで大氏は「いずれにせよドイツが敗北することになるだろうが」と一言くさしているが、ほんとかなー。ドイツの敗因のひとつは二方面で戦線を展開したことだし、日本が中国ともアメリカとも戦争していない状態だと、ソ連はおいそれとはドイツと戦争もできないし、しても負けていた可能性がでてくる。ソ連も日本とドイツの二方面戦争を余儀なくされるから。
まあいいや。

梅津・何応欽協定:張学良系の于学忠軍、中央直径軍、国民党機関の河北省からの撤退の要求
土肥原・秦徳純協定:察哈爾省で軍事衝突していた宋哲元の撤退
これらの協定は軍事ということで広田弘毅は外務省で扱うことを拒否。
広田三原則
排日言動を徹底的に取り締まり、欧米依存政策より脱却し対日親善政策を採用すべきこと
満州国の事実上の黙認、満州国との経済的文化的提携
外蒙方面よりの赤化勢力の脅威排除のため、わが方の希望する諸般の施設に協力すること
まあ、中国は怒るよね。
広田弘毅に対しては、かなり批判的。優柔不断だし、軍部の顔色を見てばっかだし、「自ら計らわぬ」とかぬかすし。わからないでもない。

「大アジア主義」への批判
「たしかに日本のおかれた環境は、経済的にも軍事戦略的にも中国を必要とした。しかし中国がそれと同程度に日本を必要としたかどうかはわからない。日本よりもむしろ欧米と接近したかったかもしれない。それは中国の自由である。この意味において大アジア主義というのは日本中心の、しかも夜郎自大的な発送なのであった。したがって本当のアジア主義が成立するためには、日中が平等の立場にたたねばならなかったのである。」(33)
まさに、中国が日本を必要としたかが問題だ。中国は大国だし。
日本人が大アジア主義にいれこんだのは、国際協調主義に対する、後ろめたさからだったというのもいい指摘かと思う。
ただ大杉氏もやはり本書では、第一次世界大戦後のヨーロッパの国際秩序を重んじる協調外交に疎かったと書いているが、んーここはね、勝手に第一次世界大戦で荒廃して、勝手に帝国主義をやめて、国際秩序の新基準をつくって、って日本からしたらふざけんなという感じでもある。いまも脱炭素とか、気象問題でヨーロッパで新しい基準をつくろうとしているが、いままさに発展していこうとする国にとってはふざけるなだろ。ヨーロッパとはそういうところだ。

満蒙特殊権益
旅順・大連を含む関東州租借権(1997年まで)
長春以南の南満州鉄道(満鉄)経営権(付属地の行政権および並行線並び利益を害する支線敷設禁止を含む。2002年まで)
安泰鉄道経営権(2007年まで)
満蒙五鉄道の合弁敷設権および関連二鉄道の受託経営権
鉱山採掘および森林伐採権
土地商租権、自由在来居住権および商工営業権
鉄道守備兵駐屯権(鉄道一キロにつき十五名、総計11665名以内)

これらはポーツマス条約、日清善後条約で獲得されたもので、かなり限定的なものだった。そのため満州国独立は侵略と呼ばれてもおかしいことではないと。
さらにねじれているのが、これらの権益は清からすれば日本に奪われていると感じるが、日本からすれば西洋列強から奪い返したと思ってしまっているところだ。しかも日本は多大な国費と血で勝ち取っているから、やすやすと手放すこともできない。

幣原・重光はあくまで外交的な解決を目指す。そのために宋子文(孫文の義兄)を介して張学良と和解を進める。しかし、途中で柳条湖事件が起こってしまう。軍にしても柳条湖事件の前まではどうも外交が先で、最終的な行動として軍事行動がったようだ。
建川美次を満州に派遣して、軍部を抑えようとするも建川はやる気なし。
どうも関東軍と軍中央では一致した策があったわけではないようで、しかも軍中央にしてもあくめで清国との懸案事項の解決が目的だったよう。
そしてさらに錦州爆撃を関東軍が行う。
1932年5月23日斎藤実内閣が誕生し、ここに7年つづいた政党政治が終わる。
日本の満州国承認は、リットン調査団の報告書が発表される前になされるが、これはいわば国際連盟脱退を前提として、満州国を承認したことであり、しかも政府はリットン調査団の報告書がいかなる内容かをすでに知っていた。イギリス、フランスは中国でのナショナリズムの高騰に手を焼いていたので、日本にたいしても同情的だったのだが、すでに満州国を承認してしまった日本のとれる行動は、連盟脱退だった。馬鹿げているが仕方がない。

一点、微妙なことが書かれている。当時日本は人口過剰により、外地への人口流出を望んでいたという。まあ、政府としては確かに人口過剰という判断が会ったのかもしれないが、人口過剰が本当であったのかどうか。そもそも大杉氏にしても、日本の国土が狭い、ということを前提にしている。たしかに日本は山岳部が多く、平地も少ないかもしれないが、人口過剰で困るほどだったのか。そもそも人口と経済の関係で言えば、多ければいいわけではないが、少ないからいいわけでもない。この人口と経済についての歴史書を今度探そう。

ここで、「近代の超克」について。近代を超える日本独自の路線とは何ぞや。橘樸は農村の自治、農本主義を説く。王道楽土とはいいつつも、それは堯舜を理想とした非現実的な思想となっているという。マジか。読んだことないけど、ちょっと興味深い。でもこの考え方は、結構人気があったようで反資本主義で、さらに反共産主義であれば、自然な流れか。
ただし橘樸が心酔していた石原莞爾は重工業を志向していたようだ。

リース・ロスによる中国経済の立て直し策。
政府系銀行が発行する紙幣の法定化。銀と法幣との兌換し、以後銀を通貨とすることを禁止させる。。さらに不換紙幣となった法幣は外国為替の無制限売買によって対外的に安定させる。イギリスの援助のもと、いい感じなっていく。
さらには米中銀協定を締結させ、法幣はポンドではなくドルに依存する通過となっていく。

冀東、冀察政権。これ知らなかったよ。殷女耕を日本が担いだ冀東防共自治政府を立ち上げ、それに対抗するかたちで国民党は冀察政務委員会を宋哲元を委員長にして組織をつくる。

しかし、まだ途中までしかまとめられないが、わけわかめな感じになっている。
とにかく細部は複雑で、関東軍、軍中央、内閣、外務省などが入り乱れていて、単純化ができない模様。もう面倒なので、ここでやめる。
わたしのように日中戦争関係に疎い人間にとっては、すじを追うのも一苦労です。

2022/01/29

『反逆の神話――「反体制」はカネになる』 ジョセフ・ヒース、アンドルー・ポター/栗原百代訳 早川書房

『マトリックス』の解釈について。デカルト的な解釈は間違えだという。ドゥボール、ボードリヤールの線で考えるべきと。
スペクタクルの世界から目覚めるには、新しい世界を手に入れる必要がある。体制の細部を変えるのではない。すべては白昼夢。そのために必要なことは世界がおかしいと象徴的な抵抗行動をおこすこと。文化自体がイデオロギーにすぎない。だからカウンターカルチャーを創造せよ、という解釈らしい。
んーなるほど。

反体制といいながら体制に取り込まれて、カウンターカルチャーは成長していっているのは、そうだよ。
差異を見出していき、差異にこそ個性を見出していく。しかも万人がそれをやるから、差異が差異ではなくなっていく。わかるよ。
でもねー。
だからみんなもがいているわけですよねー。そのもがきが、なんかいいんじゃないですかー。
まあ、でもですね、カウンターカルチャーがどこかの時点でマスに取り込まれる、その時、寂しさを覚えるよね。もういまはこの感覚ないけど、『エヴァンゲリオン』が大衆社会に取り込まれたと思ったときは寂しかったー。まあ本書の言い方からすれば『エヴァンゲリオン』自体が資本主義から生み出されたものだけど、そりゃわかっているし、別に『エヴァンゲリオン』は反資本主義ではないけど。

そもそもがだ全体の幸福のためにわれわれは長い行列に並んでいるわけではない、ということだ。たんに慣習であったり、周りの目であったりがそうされるわけです。
ルールから逸脱と異議申し立ては別だというが、それも結果論に近い。事後評価に近い。
カウンターカルチャーの反逆者たちは、社会規範はすべて強制されているという所見に基づき、文化全般は支配のシステムであると結論しているというが、まあそりゃそうでしょ。マイノリティからすればマジョリティが圧力をかけてきていると見るんだから。
これはイタチごっこになっていくのね。
マイナーな主張が一般化すれば、バックラッシュがある。バックラッシュでなくても、マイナーが一般化すれば、それが権威になるわけだし、そうすればまた違う角度からの批判がでてくる。

ナオミ・クラインの幼稚さへの批判もわかるし、それに群がる連中の知性の低さを嘆くのも同意しますよ。
ブランドはいらない、っていうのは消費主義批判ではなく、大衆社会批判である、というのは全くもってそのとおり。彼らは大衆を馬鹿にしたいだけ、だとも僕も思いますよ。
でも、これって低脳をやり玉にあげて、勝ち誇るのと一緒だ。最近でも、Twitterなんかでは極端なバカの意見を一般化して、全体を論じていこうとする傾向があるようだ。ここで著者がやってることも同じ。
ナオミ・クラインをだして反資本主義はダメだといっても、何も意味がない。

本書、かなり反動的であることは間違いない。20歳前後で読んでおけば、ある種の解毒剤にもなるかと思う。
ただね、「反体制」は言うほどカネにはなりませんよ。

2022/01/28

『初版 古寺巡礼』 和辻哲郎 ちくま学芸文庫

古代への憧れがひしひしと伝わる。比較文化論としては適切ではないかもしれないが、そんな学術的なことはどうでもよくなるような、そんな熱狂がある。
すでにこのような日本精神史を語ること自体が危ぶまれている昨今。もはや古典でしか、このような日本文化論、精神史を読むことができないのは非常に残念である。

1919年に出版されているから、齢30ということで、んまあ若い。
和辻が京都ではなく奈良を選ぶあたりも感慨深い。
なぜ平安時代ではないのか。そもそも和辻は平安文化についてはちょっと冷淡。「もののあわれ」なんかも評価をあんまりしていない。
脱西洋を成し遂げたい時代の雰囲気もあるかと思う。アジアの、日本の精神を再発見していくことで、西洋思潮とは異なる文明文化をつくりあげていかねばならいといった気概だ。
現代じゃ、こんなこと言うとウルトラライトにされちゃいかねないが。
でも、日本は長年積み上げてきた文化の厚みを持っている。それは無視できない精神史をつくりあげているのだが、それを無視して、普遍性なんかを日本に組み込もうとすること自体が間違っていると思うけど、まあそれはいいや。
和辻の論は、歴史、考古学、美術史から批判できる箇所はいっぱいあるかもしれないが、問題はそこではない。和辻が本書で見出そうとしてるものはなんだったのか。
彼が奈良で、西洋とは異なる思想に裏打ちされている何かの確信を得たわけで、東洋精神を、東洋哲学をつくりあげようとしている。
戦前の知識人のすごいのは、彼らはけっして一つの分野に固執しないで、手広く学問をしているところだ。和辻は『正法眼蔵随聞記』 なんかも校訂している。

「しかし西洋の様式を学んだ日本人の油絵が日本人の芸術であり、しかも固有の日本画よりも好い芸術であるが如く、唐風を模した日本人の仏像寺塔も亦日本人の芸術であって、『万葉』の歌以上の価値を持っているということは云えないだろうか。僕は固有の日本人の「創意」にこだわる必要を見ない。天平の文化が外国人の協働によって出来たとしても、その外国人がまた我々の祖先となった以上は、祖先の文化である点に於いて変わりがない。『万葉』は貴い芸術であるが、文化の表徴としては部分的なものに過ぎぬ。だから僕は『万葉』の反証には驚かない。仏前唱歌の如きは恐らく一種の余興に過ぎなかったであろう』(141)

薬師寺東院堂聖観音を見て。
「僕たちは無言の間々に詠嘆の言葉を投げ合った。それは意味深い言葉のようでもあり、また浅ましいほど空虚な言葉のようでもあった。最初の緊張がゆるむと、僕は寺僧が看経するらしい台の上に坐して、またつくづく仰ぎ見た。何という美しい荘厳な顔だろう。何という力強い偉大な肢体だろう。およそ仏教美術の偉大性を信じない人があるならば、この像を見させるがいい。底知れぬ胸は、あらゆる力と大いさとの結晶ではないか。あの堂々たる左右の手や天をも支えるような力強い下肢は、人間の姿に人間以上の威厳を与えていないか。しかもしれは、人間の体の写実としても、一点の非の打ちどころがない」(189)

天理教について。
「あの熱狂的なおみき婆さんが三輪山に近いこの地からでたことは、古代の伝説に著しい女の狂信者の伝統を思わせて、少なからず興味を刺激する。……とにかく教祖の信仰は本物であったらしい。それが現在の文化の内に力強く生育していかないのは、一つには堕落し易い日本人の性情にも依るであろうが、もう一つにはそれが世界的な思潮に没入して行かないからではないだろうか。親鸞の宗教は基督教的心情と結びつくときに、新しい光揮する。その如く天理教も、日本文化の変形(メタモルフォルゼ)に従って変形を試みなくてはなるまい。僕の漠然たる推測から云うと、もしおみき婆さんが基督教の雰囲気内に育っていたならば、あの狂熱は更に更に大きい潮流を作り得たであろう。日本もまた一人の聖者を持ち、日本の基督教を確立し得たであろう。」(240)

法隆寺金堂壁画阿弥陀浄土図を見て。
「本尊のその左右の彫刻には目もくれず僕たちは阿弥陀浄土へ急いだ。この画こそは東洋絵画の絶頂である。剥落はずいぶんひどいが、その白い剥落さえもこの画の新鮮な生き生きとした味を助けている。この画の前にあってはもうなにも考えるには及ばない。なんにも補う必要はない。ただ眺めて酔うのである。」(256)
「乳房と腰部とに対する病的な趣味は、もはたこの画には存しない。……希臘人はいかに女体の彫刻を愛しても、いのちの美しさ以外には出なかった。それに比べて印度人の趣味は明らかに淫靡であった。この二つの気分の相混じた芸術が東宝に遷移したときに、後者をふり落とし前者を生かせたということは、それが偶像礼賛の伝統に附随するものである限り、希臘精神の復興だとも見られる。それを西域人がやったか、支那人がやったのか、或は日本人がやったのか、――恐らくはそれは三者共にであろう。そうして東方に来るほどそれが力強く行われたのであろう。その意味でこの画は日本人の沁みを、――特に推古仏の清浄を愛していた日本人の趣味を、現わしているのだろう。」(266)

夢殿観音を見て。
「モナリザの生れたのは、恐怖に慄える霊的同様の雰囲気からであった。人は土中から掘り出された白い女悪魔の裸体を見て、地獄の火に焚かれるべき罪の怖れに旋律しながらも、その輝ける美しさから眼を離すことが出来ないという時代であった。しかし夢殿観音の生れたのは、素朴な霊的な要求が深く自然児の胸に萌し初めたという雰囲気からであった。そのなかでは人はまだ霊と肉との苦しい争を知らなかった。彼らを導く仏教も、その生れ出て深い内生の分裂から遠ざかって、むしろ霊肉の調和のうちに、――芸術的な法悦や理想化せられた慈愛のうちに、――その最高の契機を認むるものであった。だからそこに結晶したこの観音にも暗い拝啓は観ぜられない。まして人間の心情を底から掘り返したような深い鋭い精神の陰影もない。ただ素朴にして、しかも云い難く神秘なのである。この相違はモナリザの微笑と夢殿観音の微笑との間に明かに認められると思う。」(282)

中宮寺観音を見て。
「僕は聖女と呼んだ。観音という言葉よりもその方がふさわしい。しかしこれは聖母ではない。母であると共に処女であるマリアの美しさには、母の慈愛と処女の清らかさとの結合が、「女」wpp浄化し透明にした趣があるが、しかしゴシック彫刻に於けるように特に母であるか、或は文芸復興期の絵画に於ける如く特に女であるかはまぬがれない。だから聖母は救主の母たる威厳を現わし、或は浄化されヴィナスの美を現わすのである。しかしわが聖女は、およそ人間の、或は神の「母」ではない。そのういういしさは「処女」のものである。がまたその複雑な表情は、人間を知らない「処女」のものとも思えない。と云って「女」では更にない。ヴィナスはいかに浄化されてもこの聖女にはなれない。しかもなおそこに女らしさがある。女らしい形でなければ現わせない優しさがある。では何があるのか。――慈悲の権化である。人間心奥の慈悲の願望が、その求むるところを人間の形に結晶せしめたものである。」(288-289)


2022/01/27

『戦争と平和』 2 トルストイ/望月哲男訳 光文社古典新訳文庫

アウステルリッツの会戦、相も変わらず、ニコライは皇帝に心酔しているが、この巻の最後の場面、アレクサンドル皇帝とナポレオンがティルジットでの和平会談を目撃したニコライは違った感情をもっているようだ。宴席でニコライは、汚物や死臭を漂わせるデニーソフがいる病院を思いだす。
「あの小さな手をした自信満々のボナパルトが思い起こされた。あの男が今や皇帝であり、アレクサンドル皇帝の愛と尊敬を享受しているのだ。あのもがれた手足は、戦死した者たちは、いったい何の役に立ったのか? さらにあの褒章を受けたラザレフと、罰せられたまま許しを得られぬデニーソフが思い起こされた。」(566)
ニコライはとうとう次のステージに入ったようだ。映画『二〇三高地』にロシア贔屓の先生みたいだな。

再読して気づいたが、アンドレイは真っ青の空を見たのではなかったのだな。
「『これは何だ? 俺は倒れるのか? 葦が立たないぞ』そう思いながら彼はあおむけに倒れた。フランス軍と砲兵部隊の戦いはどうなったのか、あの赤毛の砲兵はしうんだのかどうか、大鵬は奪われたのか守られたのか――それを確かめようとして目を開けた。しかし彼にはそのどれも見えなかった。彼の上にはもはや何もなく、ただ空があるだけだった――高い空、腫れてこそいないが計り知れぬほど高い空と、その空を静かに流れていいく灰色の雲が。『何と静かで、穏やかで、荘厳なんだろう。俺が走っていたのとはまるで違う』アンドレイ公爵はふと思った。『俺たちは走り、叫び、闘ってきたのとは違う。あのフランス兵と砲兵が憎しみと怯えの形相で洗矢の引張り合いをしていたのとはまるで違う。あの高い、果てしない空を行く雲の歩みは全く別ものだ。どうして俺はこれまでこの高い空を見たことがなかったんだろう? でも、何という幸せだろう、ようやくこの空を知ることができたのは。そうだとも! すべては空っぽであり、すべてはまやかしだ、この果てしない空のほかは。何も、何もない、この空のほかは。いや、それさえもない、何ひとつないんだ。静けさと安らぎのほかは、ありがたいことじゃないか!……』(212-213)
ナポレオンが地位の高い捕虜を見に来たとき、アンドレイは、勇敢さをアピールするロシア青年とそれを讃えるナポレオンを横目で見る。ナポレオンはアンドレイに具合を尋ねる。アンドレイはナポレオンがちっぽけな存在に思われて仕方がなかった。すべてが空しく。返事をせず。(245)

ピエールがフリーメイソンに加入する。社交界から離れ、真に心の平安を求めて。家庭にも社交界にも見出しえなかったものを、フリーメイソンは与えてくれるのか。
ピエールは領地の農奴たちの暮しを良くしてあげようとするも、すべて中途半端。ピエールは結局は単なる理想主義者なのか? ここにはサン・シモンやロバート・オウエンのような実践的な社会主義者が存在していない。これは、いわばそれだけロシアがいかに産業が遅れていたかを示してもいる。結局、農奴解放しても彼らの「身の振り方、運営はどうするのか。社会を、国を良くしたい、そのために何が必要か、ピエールは何もわかっていない。
とは言いつつも、ピエールの人の良さはアンドレイの家族に好意的に受け入れられていく。アンドレイ自身もピエールと議論するなかで、かつてアウステルリッツで知ったあの高い空の感覚を取り戻していく。(480-497/第2部 第2編 11章、12章)
アンドレイは、妻が死に、すべてが家族のために、自分のためという目的で行動するようになっていた。でもそれってアウステルリッツがあったからだ。

ボリスとニコライ、いい感じではないですか。
ボリスが思いもかけず出世して、いつのまにかニコライと立場が逆転。その描写では足を組んで、余裕をかましていたり。それにニコライは普段着でなんかみすぼらしい感じになっている。しかも友人のために走り回っている。ニコライが、いい感じで仕上がってきた。ボリスもいい感じだな。

2022/01/26

『環境リスク学 不安の海の羅針盤』 中西準子 日本評論社

んー、リスクという考え方がもっと広まればなー。コロナのバカ騒ぎも終わるような。中西さんが言うように「ファクト」を重視すれば、とも思うが、ファクトを関数に導入して自動的に解が導出されるわけではなく、人間のフィルターをかけざるを得ないので、まあファクトではどうしようもないとは思うが。
種類の異なるもののリスクをどうやって評価するのか、中西さんの研究。確率で許容範囲を考えていく。
そして重要な指摘が、
「私は費用と言ってきましたが、これは必ずしもお金だけを意味しているのではなくて、不便さとか資源の利用などの要素も含めてお金で評価されたものです。つまり、費用とは「リスク削減のためにわれわれが強いられる犠牲の総額」と考えてください。」(45)
そうだよなー。資源が無限だと考えている奴らがいるのがむかつく。
中西さんはさらに市民団体もリスク計算をしてみるといいと言っている。そうすれば、どこで線引きをすべきかという現実的な解を考えざるを得ないからだ。このあたりが中西さんなんかは市民団体から非難される原因かな。
市民感覚という単語によって、過大に安全側に寄ってしまっているのが現在で、これは由々しき事態ではあります。

中西さんは学生たちがQOLに取り組むことを認めなかった言っている。なぜならQOLが低い人、低くなった人が回復されない間は、質の低い人生とみなされてるという問題があるからだという。(125)
これも正当な見方かと思う。数値で表すことの利点もあるが、それに伴う不利益もでてきてしまう。当然でしょう。
QOL発想は、損失余命だけでリスクを評価できないから。中西さんの考えでは、精神的苦痛でも、弱い苦痛でも、それが長引けば寿命に影響を及ぼすと考えて損失余命を選んでいる。しかし、日本においては微小な影響が多くなっていて、それは裏返せば大きな影響がある事故が少ないということだが、しかし、この弱い影響を評価する上ででてきたのが、QOLだったという。
QOLは完全な健康なら1、死を0として、生活の質をその間のどこかに置くことになる。
QOLの低下はつぎのとおり、1-QOL。
QOLに年数をかけた値が質調整生存年(QOLYs)
ここからあるべき生存年から引いた値をリスクと定義する。
QOLによって、健康被害における金銭保障がある一定の客観的評価によって行えるのは確か。
しかし生まれつきの場合、その人の人生は低い価値なのか、となる。QOLは人の人生を数値によって測るために使い方が難しい。
当事者たちは、質の低い人生だと言われれば反発するし、当然そのとおりだろう。だいいちに完璧な人生という設定自体に無理がある。当事者たちは自らの障害を過大に喧伝されるのを恐れる。それは差別を生むからだし、自分たちの生を否定されることにも繋がるからだ。
さて、ここで中西さんの重要なことが書かれている。
「若い人が人生で、楽しいことを経験せず死ぬ。年を取った人なら、これまでの社会の役割を果たしてきたし、人間にも寿命があるのだから、いいではないか。いいではないかと言うと不穏当かもしれませんが、私ももう歳なので、私の気持ちとして聞いてください。ここには、死という不連続なものを恐れるだけではないものが、人間にはあるということです。つまり、ある種平均寿命的なものを生きる覚悟と、そしてやがて死ぬ覚悟です。だから、損失余命は一つの尺度になるかと思います。そこまで考えて使うことにしました。最初に信いs津余命を認めるかどうかというときにさんざん考えて、これはいいだろうと。もちろん、損失余命でも差別問題が噴出することはあるのです。大気汚染によって主として老人の命を失う場合と、事故などで若者も含めて命を失うふたつの場合を考えます。大気汚染だと、若者の被害者は少ないが、老人の被害者は多いのです。そこで大気汚染の対策と、事故の対策を比べる必要があるとします。死の数では一緒だとしても、損失余命で考えたら、若者のは三十何年から五十年の生命を失うから、年寄り一人より若者一人を救う政策のほうがいいということになります。つまり損失余命で年寄りは六年だが、若者は四十年から五十年ありますので、若者一人死ぬことは、年寄りが六~七人死ぬと同じ価値ですよ、ということになります。だから、損失余命だけを使うと、若者を救うべきというこちょになるのです。……米国で年寄り差別だといおう抗議運動があって、一部で損失余命を使うのをやめたこともあります。これは、決して差別ではないのですが、ある種の政治運動にされてしまうこともあるのです。こうした差別問題のプロパガンダに十分対処すること、その裏側では評価の高い人と低い人がいるので、使い方によっては差別的になること、また、限られた資源のもとでは、誰かが救済され、誰かが救済されないという現実があり、それが、評価への批判になりやすいという事実をよくふまえないといけないのです。ここが、リスク評価を有効に仕えるかどうかの大きな分岐点になるでしょう」(133)
中西さんはさらに、評価が恣意的であるのは当然であるとしている。別に完全な客観的なものではない。ただし、そのリスク評価の手法を示せば、どう評価したかがわかる、ダムと原子力発電のリスク評価は同列にはならない。その裏には利害関係者が関わっている。ただその評価方法は示せる。
「安全だから許容値だというのではない。この程度のリスクを、当面の許容値にしようと決めるのが、リスク論である。寿命が短くなると言うと騒がれるから、許容値という概念をだすのがリスク論であるというのとは制反対である。そもそもリスク論などないときから許容値という概念はあった。」(212)
んーーいろいろと現在繰り広げられているコロナのバカ騒ぎをみるにつけ、日本リスク論を受け付けない気質があるのか、それともマスコミが騒いでいるだけなのか。

2022/01/25

『言語学バーリ・トゥード Round 1 AIは「絶対に押すなよ」を理解できるか』 川添愛 東京大学出版会

風呂入りながら、一日二篇づつ読んだ。

相互知識のパラドックス Clark, H.H. and Marshall, C.R.(1981)"Definite reference and mutual knowledge"(A. Joshi, B.L. Webber, and I.A Sag(eds.) Elements of Discourse Understanding, pp.10-63, Cambridge University Press, Cambridge)
これ読んでみたい。

主語の大きさについて。主語の大きさ、つまり裸名士が文中で実際どれほどの範囲をカバーしているかは述語に左右されると。述語が「性質」か「状態」かで範囲が変わると。曰く、
「述語が『恒常的な性質』を表すとき、主語の裸名士はそれが記述する属性を持つもの一般を表すことが可能だが、述語が『一時的な状態』を表すときはそうではない」(84)
「猫はすばしっこい」と「猫は昼寝中だ」の違い。
にゃるほどー。

川添さんもマンションポエムが気になっているようだ。
「海老名市最高層を、住む」
なかなかいい感じだ。
わが小金井にはシティテラス小金井公園があり、マンションポエムがいくつかある。
「この名作、いよいよ完成」
「武蔵野を極める」
「小金井公園を日常にする」
とまあ、知性もつ僕からすると購入意欲をそがれ、このマンションに住むこと自体が恥辱でしかない。
でも、なかなか秀逸だと思う。
「小金井公園」を日常にする、というのがまあ言いたいことはわかるけど、別に日常でなくていいでしょ、あんな公園。
しかしまあ考えている人も、どこまで本気でこんなポエムつくっているのかな。絶対にニヤニヤしながら創作しているはずだ。

2022/01/24

『戦争と平和』 1 トルストイ/望月哲男訳 光文社古典新訳文庫

『戦争は女の顔をしていない』を読み、今一度読むことを決意。光文社古典新訳文庫で読む。全6巻、あらためて長さに思いやられる。
一巻では、まだそれほどお話は進まず。
読みなおしてみて、ピエールはどうも自閉症的な人物のようだ。これはなかなか重要なところかもしれない。
ニコライってこんなに皇帝陛下万歳の人間だったか! 忘れていた。皇帝陛下のために死すらいとわない感じ。お側にいるだけで卒倒しそうな感じだ。
そしてボリス。こいつがなかなか最初は冴えない感じだが、出世しそうな雰囲気だけは初登場からある。押しの強い母を一歩下がって、やれやれみたいな態度や、でもまんざらそれで手にした地位を棄てないというしたたかさも持ち合わせている。

2022/01/23

『不道徳的倫理学講義――人生にとって運とは何か』  古田徹也 ちくま新書

運と運命で左右される人生観はかなり諦念を含む。
プラトン『ゴルギアス』の神話によれば、「不治の者」は、因果応報で奈落に落されると読める。にもかかわらず、この神話では審判が下されていることになる。因果応報なのにもかかわらずだ。「責任は選んだ者にある。神に責任はない」とすれば。

アダム・スミスの道徳について。
「<正当な道徳的評価は運にさゆうされて下されてはならず、――これをスミスは公正の原則(equitable maxim)と呼ぶ――を、誰もが同意するはずの真理だと指摘するのである」(229)
そして、
結果の評価は、運に影響される。行為者の人格や行為に対する感情を根拠とするのは適当ではないと。
つまり、行為者の動機と意図から予想される結果を基に評価がする。これを<功罪(merit/demerit)の評価>と呼ぶ。<功罪の評価>は結果の評価ではない。では中立な傍観者の評価はできるのか。
アダム・スミスの答えは、古田さんによると単純すぎる。善悪あわせもつ。経験豊かな人物が、多面的な評価をすべきというな感じだ。「良心」への信頼があるな。
ただし、スミスは、意図や動機だけでは評価はできず、結果もやはり無視できないというところで落ち着いている。
人は意図した行為でなくても害悪が生じた場合、罪の意識が生じる。それはスミスは他者の幸福を尊重することという。
意図や感情だけで捌けば、それは異端審問のようなものとなる。
「現実の我々は、結果として誰も傷つけなかった人に対して傷害罪や殺人罪と同等の処罰が課されることに対して、これほど公正さを揺るがすものはないという感覚をもつ。それがいかに公正の原則から逸脱した不規則な感覚であろうとも、我々の生活や社会にとって重要な自然な感覚なのだと、スミスは主張するのである」(258)
「<感情の不規則性>や<誤った感覚>に流され、<見えざる手>に導かれて、図らずもたまたま皆の幸福に寄与できたとしても、その結果に至る手段や経緯を自分で正当化してはならない。運によってもたらされたものは、何であれ真の意味で称賛されるべきものではない。公正の原則に従えば、そうなるだろう。人びとはこの点を省みて、いまの自分に驕らず、理想を忘れ去らないことを、スミスは願っていたと言えるかもしれない」(262)
ねー。そうだよねー。世にはびこる自己啓発本なんかの胡散臭さは、この「運」についての考え方が違うということだな。すべてが運でないにしても、運が寄与する影響は凄まじいのに、自己啓発本は運ではなく鍛錬を推奨することだ。ただ鍛錬がいけないことではないがね。

バーナード・ウィリアムズとトマス・ネーゲルの箇所がいい感じ。
「道徳的運(Moral Luck)」とは。ネーゲルは、ある行為が行為者のコントロールを超えた諸要因に依存しているが、なお我々は行為者の道徳的評価の対象として扱い続ける場合に。その諸要因を道徳的運とする。
人はあらゆる行為に自分のコントロールではきかない外的要因が、結果に左右していることに気づいているが、しかしそれだと「責任」がなくなる。しかし実際は「罪の意識」は生じるし、「責任」だも生じてしまう。この矛盾した状況で働いている運と「道徳的運」としている。
しかし、ここで言っている「道徳的運というのは実は道徳をめぐる問題ではなく、認識をめぐる問題にすぎない」(293)というものだ。
つまり完全な認識を得られていない。認識を得られれば道徳を問えるのだということになる。これってラプラスの魔みたいな話ではないですか。
そこでバーバード・ウィリアムズが登場。
広義の道徳と狭義の道徳。これは柄谷行人の倫理と道徳の区別と同じ。狭義の道徳では義務や責任を指す。広義の道徳では、いかに生きるべきが問われている。なのでときには狭義の道徳に抵触することもある。「咎なくとも、責がある行為」ということもありえるわけで。
咎なくても責を感じる、これがない場合、行為者は不道徳な人間になっていく。
ネーゲルの議論を敷衍すると、咎がない、つまり外的な要因による影響のみの場合、自責の念にかられる必要はないことになる。というのも、そこには認識が不完全であるから、と。
このネーゲルの感覚は、ストア派にまで遡れ、自らのコントロール外の場合、それに供えて心を準備する必要はあれど、結果については責任はないとなっていくわけだ。そうなると、すべてが保や社会制度によるものとして自らの責任を免れていく。それはアイデンティティの危機でもある。というのも人生は運が影響されているのだから、それをすべて外にほおりだせば済む話ではない。
「後悔は消去しえないということ、人生は「意図的にしたこと」と「他の、単に自分に起こったことだけのこと」とに峻別できるようなものではないということは、行為というものは本性に存することでもある。(Willians, Shame and Necessity p70)(328)
カントからすれば、善は幸福であるべき、となる。そしてそれは理性が要請していると。悲しい人間の性よ。でもでもそれは道徳と運を切り離しすぎているわけだ。M.C.ヌスバウムの問い。「アリストテレスをはじめてとする古代ギリシアの思想家たちは、価値ある生活を営むために人間はどの程度運と共存すべきか」と問うたと。(282)で、古代ギリシアでは基本的に徳のある生活をすれば幸福であるという考えが基調にあったとしているようだ。

ということで、バーバード・ウィリアムズはなかなかおもしろいので、翻訳がある『生き方について哲学は何が言えるのか』(産業図書)を今度読んでみよう。ともったら文庫になってやんの。しかも2020年11月。筑摩の人もこの本を読んだか。しかも2019年8月には、『道徳的な運:哲学論集1973~1980(双書現代倫理学)』が出版されている。これも念頭において、古田氏、この本を書いたのか?

2022/01/22

『ドードーをめぐる堂々めぐり 正保四年に消えた絶滅鳥を追って』 川端裕人 岩波書店

挿絵をみているだけで、おもしろい。ドードーがどのように需要されていきたかもよくわかるし。残念なのが、やっぱり出島ドードーの行方がわからないところだけど、まあこれもノンフィクションならではだし、すべての謎が解き明かされるわけではないし。
ドードーについてはまったくの無知で、川端さんだから買った本でもある。モーリシャス島に生息していたということも知らなかったし。
収穫はドードーが日本に着ていたという話もさることながら、蜂須賀正氏、近藤典生という方々を知ったこと。みんな知らないところでがんばっていらっしゃる。
とにかくドードーが学際的な拡がりをもつことがよくわかる。
「オランダ商館長日記」のドードー箇所がすでに2005年に訳出されているのにもかかわらず、誰もこのドードーが大事件だったことに気づいていないというのが、いい話。

2022/01/21

『福沢諭吉の哲学 他六篇』 丸山眞男/松沢弘陽編 岩波文庫

「福沢が「物ありて然る後に倫あるなり、倫ありて然る後に物を生ずるに非ず。臆断を以て先ず物の倫を説き、其倫に由て物理を害する勿れ」(文明論之概略、巻之一)と断じたとき、それが思想史的に如何に画期的な意味を持っていたかということは、以上の簡単な叙述からもりかいされるであろう。彼は社会秩序の先天性を払拭し去ることによって「物理」の客観的独立性を確保したのであった。」(53)
社会の規範や階層から離れて存在することはできない、だから個人が社会的環境を離れて直接自然と向かい合うという意識は成熟しない。この規範からの乖離を自覚した時はじめて無媒介に客観的自然と対決ている自分を見いだす。「社会から個人の独立は同時に社会からの自然の独立であり、客観的自然、一切の主観的価値移入を除去した純粋に外的な自然の成立を意味する。環境に対する主体性を自覚した精神がはじめて、「法則」を「規範」から分離し、「物理」を「道理」の支配から解放する。」(53)となる。
まず福沢にとっての「実学」とは、巷に溢れる実学とは異なる。通常言われる実学は、生活態度の単なる習得でしかない。環境に順応していくこと、商人であれば自然と商人になるべきと、自己に与えられた環境からの乖離を求められていない。
福沢の実学は異なる。「「実学」とは畢竟こうした生活態度の習得以外の者ではない。そこでいわれる学問の日用性とは、つきつめて行けば、客観的環境としての日常生活への学問の隷属へ帰着するのである。ところが福沢においてはどうか。ここでは生活の客観的環境ではない。……逆にそうした状況に絶えず自らを適合させていこうとする。」(57)
福沢の場合、絶対的な真理や価値判断というものをみとめておらず、善悪、美醜、真偽などは関係のなかで見いだされるものであること。より重要だるとか、より悪いといったように、選択の問題として具体的な環境に実践的に確定されていくものとしているという。
「是に反して主体性に乏しい精神は特殊的状況に根ざしたパースペクティブに囚われ、「場」に制約せられた価値基準を抽象的に絶対化してしまい、当初の状況が変化し、或はその基準の実践的前提が意味を失った後にも、是を金科玉条として墨守する。」(84) 
「この様に、固定的価値基準への依存が「惑溺」の深さに、之に対して、価値判断を不断に流動化する心構えが主体性の強さ(福沢はそれを「独立の気象)と呼んだ)に夫々比例するとしてもそうした人間精神の在り方は福沢において決して単に個人的な素質や、国民性の問題ではなくして、時代時代における社会的雰囲気(福沢の言葉でいえば「気風」)に帰せられるべき問題であった。換言すれば、固定した閉鎖的な社会関係に置かれた意識は自ら「惑溺」に陥り、動態的な、また解放的な社会関係にはぐくまれた精神は自ら捉われざる闊達さを帯びる。また逆に精神が社会的価値基準や自己のパースペクティブを相対化する余裕と能力を持てはつ程、社会関係はダイナミックになり、精神の惑溺の程度が甚だしい程、社会関係は停滞的となる。……福沢は単に価値判断の絶対かという問題にとどまらず凡そ一定の実践的目的に仕えるべき事物や制度が漸次伝統によって、本来の目的から離れて絶対化せられるところ、つまり手段の自己目的化傾向のうちに広く惑溺減少を見いだした。」(86) 
「『既に世界に生まれ出でたる上は、蛆虫ながらも相応の覚悟なきを得ず。即ち其覚悟とは何ぞや。人生本来戯と知りながら、此一場の戯とせずして恰も真面目に勤め……るこそ蛆虫の本分なれ。否な蛆虫の事に非ず、万物の霊として人間の独り誇る所のものなり』(福翁百話)。人間をを一方で蛆虫と見ながら他方で万物の霊として行動せよ――これは明白にパラドックスである。」(110)

 政治を語る上でよく使われる「悪さ加減」の選択。そして重要なのが「統治形態は広義の社会的条件と相関的であり、それを人為的に維持・変革・移植しうる程度には限界があるという」(133)こと。

2022/01/20

『猫に学ぶ いかに良く生きるか』 ジョン・グレイ/鈴木晶訳 みすず書房

最後の十か条、というか十戒かな。
1 人間に対して理性的になれと説教しないこと。
不合理さを感じたら黙って立ち去れと助言している。うん、そうだよな。

2 時間が足りないと嘆くのは馬鹿げている
まさに。それ自体がおもしろいことをやれとおっしゃる。

3 苦しみに意味を見出すのはやめよ
不幸を売るのは柄じゃない~。

4 他人を愛さなくてもはならないと感じるよりも、無関心でいるほうがいい
惻隠の情というやつですね。変な博愛主義や人類愛はヤバい。

5 幸福を追求することを忘れれば、幸福が見つかるかもしれない。
幸福探しが逆に不幸に至らしめている。やはり封建制こそ人類にとっては安息を得られる制度かもしれない。

6 人生は物語ではない。
書かれない人生のほうが、どんな物語よりもはるかに生きる価値があると。そうだよね。偶然こそが生きる楽しみ。

7 闇を恐れるな。大事なものの多くは夜に見つかる。
これも6と同じ。考える前に感じろ。

8 眠る横路こびのために眠れ
おおー。マインドフルネスがビジネスに使われていると聞いた時、それって本末転倒じゃんと思ったものだ。

9 幸福にしてあげると言ってくれる人にはきをつけろ
幸せを売る人は、自分の方が幸せだと思っているということで、私の苦しみはそんな人たちの糧だと。

10 少しでも猫のように生きる術を学べなかったら、残念がらずに気晴らしという人間的な世界に戻れ
おもしろいのが、自分にあった信仰が見つけられないなら、日常生活に没頭し、見え透いた政治ごっこや毎日騒ぎ立てるニュースが救いをもたらすといっていることだ。

以下、抜粋など。
「モンテーニュは、普通の言語には過去の形而上学体系の残滓が散乱していることに気づいていた。それらの痕跡を発掘し、自分たちが現実だと考えていたことがじつは虚妄であることを知ることによって、われわれはより柔軟に思考できるようになるだろう。哲学に対する同種療法薬(ホメオパシー)――反哲学といってもいい――を少量服用すれば、われわれも他の動物たちに近づけるかもしれない。そうすれば人間も、哲学者たちが人間より劣った存在として切り捨ててきた生き物から何か学べるかもしれない。そういう反哲学は、議論ではなく物語で始まることだろう。」(15-16)

「エピクロスはどこか釈迦に似ている。どちらも欲望を棄てれば苦しみから解放されると説く。だが釈迦のほうが現実的で、平安は輪廻転生から離脱することによって、言いかえれば個体として生きるのをやめることによって、達成できると説く。……エピクロスとその弟子たちにとって、宇宙は無のなかに浮かんでいる原子の混沌である。神は存在するかもしれないが、われわれに対しては無関心だ。人間の仕事は自力で苦しみの原因を取り除くことだ。」(38-39)

「気晴らしは人間という動物を定義する特徴に対する答えである。その特徴とは、自意識とともに生まれた死の恐怖だ。……猫は、自分自身の内部に闇を抱える必要がない。猫は、昼の光のなかで生きている夜行動物だ。」(54)

アリストテレスにせよ、人間という存在に宇宙の目的と見なしている。キリスト教とも似通っているこの考えは、人間と他の動物の明確な線引きを要求している。
合理主義の欠陥は人間は理論を適用すればきちんと生きていけると考えてしまうことだという。そうなのだ。みんながみんな合理的に生きていると思っている。でもだったら議論なんかいらないし、みんな幸せだと思うけどそうなっていない。

スピノザの「コナトゥス」という観念について。conatus、努力、傾向、奮闘、、、。世界の中で自分の力を維持し、そして拡大することを努力する。動物が得物をとる時、それは自らの力を主張している。憐れみは悪である。スピノザは権威や神による法ではない道徳・倫理を説く。善悪でもない。
利他主義は近代の発送であるという。利他主義を説く動物学者がいて、ぼくは相当影響を受けている。功利的利他主義にしても、進化論なども相まって、人類愛に行きつくが信用にならん。著者は神よりも信用ならんという(85)
「自分個人の本性を実現するという倫理は、自己を想像するという考え方とは違う。」(87)
「猫は暗闇でも眼が見えるが、彼らの生活には臭いや触感のほうが重要である。猫にとって良き人生とは、彼らが感じ、嗅ぎ取ったものであり、遠くにある何かをちらりと見たいということではない。」(90)
猫は無心の利己主義者だという。そして彼らは自己イメージをもたないがゆえに、彼らの経験は人間よりも濃密であると(92)
「論理的思考は現代の神経症者をかえってあっかさせてしまう。」(132)

アーネスト・ベッカーを引く。狂人ほど論理的であり、細かい因果関係に強い関心をもっていると。宗教はそのような論理を無酢するように教えてくれるのだが、彼らは不条理な自らの生を正当化できない。うーー。
人は人生を悲劇にしたてようとする。しかしそれによって悲しみに囚われてしまう。
「棄てられる荷物のひとつは、完璧な人生はありうるという思い込みだ。人間の人生はかならず不完全なものだ、という意味ではない。人生はどのような完璧な肝炎よりも豊かだ。良き人生とは、これまに送ったかもしれない、あるいはこれから送るかもしれない人生のことではなく、今すでに手にしている人生のことだ。この点で、猫は人間の教師になれる。彼らは自分が送っていいない生活に憧れたりしないからだ。」(151)
哲学は人を慰めてくれない。哲学は人間の病だ。

2022/01/19

『虐げられた人びと』 ドストエフスキー/小笠原豊樹訳 新潮文庫

 この小説は、登場人物が比較的単純な構成になっている。その分、ドストエフスキーとしては読みやすい。

でも、おもしろいのは『カラマーゾフの兄弟』と同じように家族がテーマであることだ。『虐げられた人びと』なんか読んでも、ドストエフスキーって結構保守的な人物だったのかなーと思う。というか、そもそも家族とは何か、というテーマ自体が非常に古いものであって、それを真面目に論じるとやはり保守的に見えてしまうのかもしれない。
この小説では夢見がちな青年アリョーシャと、清廉潔白なナターシャとの恋愛が結婚へと成就できず、アリョーシャは他の女と結婚、しかも恋愛結婚というよりも父親の意向が強い。
家を棄ててアリョーシャをとったナターシャは、全てを懺悔して家に戻る。
小津安二郎の映画なんかもそうだが、結婚を感情的なものとしてよりも、もっと理性的というか、理知的で経験的なものとして捉えている。
娘、父の気持ち知らず、しかし父も娘の気持ち知らず、という感じ。

ワルコフスキーが、もっともドストエフスキー風の登場人物で、あとがきで小笠原先生がスヴィドリガイロフの先駆と言っているように、かなり強烈な個性をもった人物となっている。
ドストエフスキーは基本的には少女趣味的な、メルヘンチックなものにもかなり興味があったはずで、
「哀れな少女の可愛い姿は、まるで幻影か絵姿のように夢現の中に見え隠れするのだった。少女は私に飲みものをすすめたり、寝床を直してくれたり、あるいはおびえた悲しそうな顔つきで私の前にすわり、小さな指で私の髪を撫でてくれたりした。一度、私の顔にそっと接吻してくれのを覚えている。」(254)
かなり微笑ましい場面ではある。これなんか、現代の妹系アニメにも通じる。
ネリーの小説の中での役割としては、それほど大きなものではないが、やはり身寄りのない少女を預り、でも病気になって、しかもその子が父娘を和解させて、そして死んでいくというのは、まあなんというか狙いすぎな感じだが。
この小説の肝は、結局は結婚は破断になること、そして家族でシベリアへ移住せざるを得なくなること、ネルーが死なざるを得ないこと、主人公のワーニャとナターシャは結ばれないこと、あらゆることで運命は変えられない、でもその中で何か光を見出せるかもしれない、といった感じかな。
ネルーの最後に死の情景は、絵画的に終わる。多くの花に飾られるネリー。ネリーは母親との約束を守らずに公爵を訪ねなかった。

「ワーニャ」とナターシャは言った。「ワーニャ、夢だったのね!」「何が夢だったの」と私は訪ねた。「何もかもよ、何もかも」ナターシャは答えた。「この一年間のすべてのことよ。ワーニャ、なぜ私、あなたの仕合せをこわしたのかしら」ナターシャのまなざしは語っていた。『私たちが一緒になったら、永遠の仕合せが訪れるかもしれない!』
感動的なラストではありませんか!
しかし、どうも結局はワーニャとナターシャは一緒にはならなかったようで、冒頭のワーニャの語りか察するに、病気のため断念したのではないかと。

2022/01/18

『戦争は女の顔をしていない』 スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ/三浦みどり訳 岩波現代文庫

女性たちの前線、後衛、銃後の証言録。戦争は男がするもの、事実そう。でもそんな男だけの世界で生きた女たちの記録。とはいいうも証言の記録以上のものがあって、著者自身も
「不断なら目に付かない証言者たち、当事者たちが語ることで歴史を知る。そう、わたしが関心を寄せているのはそれだ。それを文学にしたい。……思い出話は歴史ではない、文学ではないと言われる。それは埃まみれのままの、芸術家の手によっては磨かれていない生の現実だ。語られた生の素材というだけ……などと。しかし、わたしにとっては全てが違っている。まさにそこにこそ、まだ温もりの冷めぬ人間の声に、過去の生々しい再現にこそ原初の悦びが隠されていおり、人間の生の癒しがたい悲劇性もむきだしになる。その混沌や情熱が。」(11-12)
 本書はあらゆる女性兵士の証言ということもあり、要約なんかできない。
ただ一点、何か所かで特筆すべきところがある。
それは、死にゆく兵士が空を見ながら死んでいく描写だ。

「春、戦闘が終わったばかりの畑で負傷兵を探している。畑の麦が踏み荒らされていて。ふと見方の若い兵士とドイツ人の兵士の慕いに行き当たります。あおあおとした麦畑で空を見ているんです。死の影さえ見えません。空を見ている……あの目は忘れられません。」(247)
「そのとき夫が目をあけて、なぜか『天井は青くなってきた』と言いました。私は見ました。「違うは、ワーシャ、天井は青じゃなくて、白よ」でも彼には青く見えるんです。(345)
あと一、二か所あったかと思う
とりあえず、これはおそらくだが、トルストイ『戦争と平和』を意識しているのではないかと思う。アンドレイがアウステルリッツの会戦で死にかけたときの描写でも、アンドレイは空を見ていた。人間の営む戦争という騒ぎとは無縁の静かな空。
人間の総体とは、美しさと醜悪さが混在していることで、それはいかなる価値判断もできない。最終的にはアンドレイの境地に至ってしまう。ピエールではなくね。

本書は単なる証言集ではなく、文学になっている。だから歴史的事実だとか、整合性だとかを問うべきものではなくなる。
歴史を語る際、いつのまにか客観的事実をもとにすることが歴史を語ることとなってしまった。そして証言には、記憶違いや意図的な嘘も混ざる。
ただし、そこにも語り部たちの真実が含まれている。
僕が今現在語ることと、十年後、二十年後では語り口が違ってくるだろう。それは記憶と折り合いをつけたり何なりした結果だ。それで聞き手の印象も違ってくるだろう。
文学なんだから歴史的事実とは異なるという批判は的を得なくなる。