2020/02/01

『テーマパーク化する地球』東浩紀 ゲンロン

久しぶりに東さんの文章を読む。『観光客の哲学』以来。まあ、やっぱりうおもしろい。哲学や批評というのは、日常で言葉にならないものを言葉にしてくれる、そんな営みのひとつかなと思う。

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「大連の歴史はテーマパークの歴史でしかない。そこには最初から「風情」しかない」(17)
ぼくは、仕事で、プライベートで海外んい行くことが比較的多いほうだけど、観光地に興味がもてず、とりあえず行った先の世界遺産やら、歴史的建造物をめぐるが、感慨にふけることも感動することもない。
すべての観光地は「風情」でできていて、そこに「風情」とは無縁の、日々を暮らす人々が存在する。
そこで日常を活きている人々が、この「嘘」を暴いていてい、ぼくはこの嘘の「風情」を楽しめない。
ハルビンと長春に行ったときは、逆にこの「風情」があからさまでおもしろかったけれど。
でも、たとえばドイツのミュンヘンやドレスデンにいって、あのいかにも綺麗に仕上げました感、しかもセンスよく、街がつくられていると幻滅する。
でもハルビンや長春は、嘘の「風情」であることを隠していないような感じがする。アジア的センスだと思う。
アジアの街は全部ハリボテ感と嘘っぱちでできていて、だからエキゾチックなのだな。
欧米はきれいにまとめすぎている。だからヨーロッパの街はおしなべて退屈。
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東さんが、クルーズにのってそこにフラット化した世界を見出している。「嘘」が織りなす公共性。「嘘」の観光がそこにはあうが、公共性が生み出されているという。金持ちではない人でも、カップルも、障害者も、子持ちの夫婦も、この「嘘」によって楽しむことができている。
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日本のオタク文化について。日本のサブカルチャーは「脱社会化」していて、ジェンダー、エスニシティ、階級、所得、居住地にむすびついていない。しかし研究者は現実と何とか対応させようと滑稽な分析になっていく。
「つまり虚構と現実のあいだに、あるはずのない対応関係を見出そうとしてしまう」(49)
そうなんだよね。こういうふうに考えている人はけっこういると思うのだけれど、テレビでは安易な関連付けが行われていく。醜悪なんだけれど、いつもでたっても同じことが続けられていく。不思議な現象だよ。ぼくは多くの人が健全なバランス感覚をもってい生活をしていると考えているのだが、メディアが流すものは、その正反対だ。なんなんだこれは。
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東さんが原発の制御台をまえにして、祭壇とみて、そして人智を超えた崇高なものを感じている。(「ソ連と崇高」)
「ソ連の魅力は「無理すること」にあった。」(86)そう、現代は「無理をしない」時代。ぼくらは無邪気に無理をしていた時代を嘲笑している。
やはり、さすがは東さん。ぼくが抱いていた感覚を言葉にしてくれた。
ぼくは仕事柄、製鉄所や工場とかに行かざるを得ない。そのとき、とくに製鉄所なんかは、まさに「鉄は国家なり」と心から思わせる偉大さがある。
複雑に張りめぐらされたパイプ、オレンジ色に輝くビレット、すさまじい騒音が鳴り響く。安全対策のため、人が直接ものを持ち上げたりは、現在ではほとんどしない。クレーンを使う。人間の腕力では扱えないでかさだったりする。
畏怖を覚える。巨大な坩堝のなかに溢れる溶解された鉄。真空炉で溶解された
何千度にもなる金属たち。
人間はほんとうにこれらをコントロールしているのかと不思議に思うもの。
崇高かあ、いいですね、まさに製鉄所や巨大プラントは崇高です。
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石牟礼道子『苦海浄土』は幻想的詩人の創作であることは、いまではよく知られていると思う。というか、ぼくも初めて読んだとき、ノンフィクションなのかと疑ったことを覚えている。
しかし現代で石牟礼道子と同じような方法で本を書けば、非難される。
「いまはみな当事者の声を「代弁」することしか考えていない。現代の日本ではそぐらいしか正義の根拠がない。……彼ら(政治家、文学者、ジャーナリスト』が行っているのは、当事者の代弁のようでいて、じつは「当事者がいえること」の「当事者がいうべきであること」の、そして「相手が自分にいってほしいと察して当事者がいっていること」の反復でしかないのではない。」(137)
この問題は切実。被害者の代弁をしようものなら、袋叩きにあうから、現在のノンフィクション、ルポなんかは、かなり中立な視点を保とうとしている。Aさんはこう言っている、Bさんはこう言っている、と併記されている感じかな。
『苦海浄土』だけでなく、吉田司の同じ水俣を題材にした『下々戦記』なんか現在の視点からすれば、相当やばい。部外者である吉田さんは、水俣にどっぷりつかり同じ目線で水俣の若者の代弁者となっている。水俣の怨念、醜さ、泥くささがあって、まあ当時も問題作だったようだけど。
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知らなかった、デリダが篠山紀信が撮影した大竹しのぶのヌード写真集を論じていたなんて。東浩紀が言うには、デリダを見る目の人びとの初期設定が違っている。政治的には慎重でもあるけれど、かなり軽い感じで仕事うけたりしている。「かれは根本的に健康的なひと」であり、謙虚であり、ポジティブであるという。いくつかデリダの逸話が話されているが、ぼくはデリダをあまり読んだことがないから正直よくわからない。なーんでかといえば、ぼくはフーコー派だったから。でもぼくのデリダ像は、もっと高慢ちきで都市的に洗練された哲学という印象。どうも違うようです。
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「杉田水脈さんの反LGBT論を話題にして、杉田さんとリベラルの論者を同じ舞台にあげて「はい、議論してくだいさい」というやりかたではなにも生まれない。そんなことをしても、双方がいままでの主張を繰り返したすえに「結局わかりあえませんでいた」という結論に」なり、分断をふかめる。そうではなく「あれほどつっぱねるのは、おそらく杉田さんの人格のなかになにかがあるからであって、対面して話を聞くのであればその「なにか」を引き出さなくてはならない」(251)
全くもってそのとおりです。最近ではとんとみなくなったが、朝まで生テレビなんかも、正直、もうあのスタイルの議論は飽きたのではないかな。
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「労働者を等価交換から解放すること」(386)
いいこといいます。現代では労働はしょせん労働としてしかみられず、そこになにかを求めることが、迷惑なことになったりする。なんでこうなったのか。
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