かれこれ十数年前に読んで、もう一度読んでみたのだけれど、ほとんど忘れてましたね。
愚民思想について
立花さんは、共産党の体質を民主集中制にあるとしている。これはもっともでしょう。僕はよく共産系が家父長制を批判的に取り上げると違和感を感じていたけど、それはまさに共産党自体が家父長的なんだよね。
そもそも本書でも言及されているが、マルクス・レーニン主義は選民思想に近い。ユダヤ教の選民思想はユダヤ民族に適用されてるものだけれど、マルクス・レーニン主義の場合は民族が党員に置き換わる。マルクス・レーニン主義においては、共産党が労働者を指導していくとなる。
ただし、だからといって共産主義に傾倒する人たちが、隠れたユダヤ思想に影響を受けているわけでない。根本的にはインテリは人を見下している。けれどそれは表にあまり出さないけど。
その建前と本音のなかで、愚民どもを導く共産党という感じでしょう。
でも、僕はこれ自体それほど批判的ではない。やはり国民の7割ぐらいは本当に愚民だと僕も思っているから。
そして左派思想に入れ込む人たちは自分がブルーカラーでないこと、もしくは貧乏でないころにコンプレックスをもっている。なんてったて社会主義、とくに共産主義は労働者階級こそが担い手であることを謳っている訳なのに、自分たちは労働者でないんだものね。
検察当局のやり方
まあそれはいいとして、戦前の当局は初期の頃、共産党を物理的に潰そうとしていたが、潰しても潰しても組織が再びできあがってくる。そこで内部から壊し、人心を共産主義から話す作戦へと変わっていく。
そもそも共産主義を含む社会主義は、多くの人にとって救いでもある。とくに戦前は現代ほどフラットな時代ではないし、貧富の差の貧困の質も現代とはわけが違う。
だから多くの人が社会主義に肩入れすることは、別段当然といってもいい。だから共産党自体の評判を落としていけばいい。
それで思うのは、現代の日本のリベラリズムの評判の悪さも、ひょっとしたらと思っています。
僕は安倍政権が大っ嫌いなんだけど、福島みずほや辻元清美、枝野幸男、またはジャーナリストや評論家や知識人の発言を聞くと、安部がまともに見えてしまうのが不思議なわけ。
だから常々思うのが、こいつら右派の工作員で、左派やリベラリズムを内から腐らせ、人心が離れさせようとしているのではないか、と。
まあいい。
日本人のメンタリティで、自白をを自ら進んでしてしまうらしい。共産党員が機密を喋りすぎていただけでなく、第二次世界大戦の際には捕虜になった日本兵はアメリカ人が不思議に思うほどぺらぺらとしゃべっていたという。なるほどね。立花さんは、負けた際には負けを認める潔さ、という倫理観があるという。たしかにね。なんとなくわかるよ。
共産党が他の政党とは違うことがある。それは中央委員会が党を支配していて、それは国会議員である必要がないということ。それが共産党の特異さで、宮本顕治は当初、議員でもないのに党を牛耳っており、共産党の議員を支配していた。それはおかしいでしょという。
共産主義がなぜ日本では限定的だったのか、そして民族主義路線、
立花さんが、なぜ日本で共産党がそれほど大きい勢力にならず、保守的な地盤となっていったのかを考察している。
戦前、日本はいまだ農民社会であり、工場労働者は農民にくらべて三分の一程度だったという。そんな社会では共産党イデオロギーが農民の心をつかめない。日本では天皇は土着宗教の農耕神の祭祀であり、それゆえに日本人の意識に「民族の母斑」のように貼り付いているという。
ただ、これはちょっとどうなのかと思う。天皇という存在自体、明治に復興したようなものだし、農耕民に連綿と「民族の母斑」として受け継がれていったとはどうしても思えない。
この問題は明確な答えを得られるものではないけれど、右翼イデオロギーのほうがどうも人の心を捉えることができることは確かだろう。
毛沢東もマルクス・レーニン主義の科学的社会主義をすてて、農民中心へと向かう。もしかするとこれも一種のコンプレックスかもしれないね。
民族主義というイデオロギーはけっこう人間にとってわかりやすいというか、すんなりと受け入れやすいもので、国際主義だとかって想像の域を越えていて、生活のなかでは国際主義だとかは抽象的すぎるのかもしれない。
ソ連も1943年にはコミンテルンを解体している。それは戦争を遂行するうえではどうしても民族主義の発想が必要だからなのだろう。
多様性を叫ぶのはいいが、民族主義がなぜかくも人を簡単に魅了できるのかを考えていけば、やはり人間の多くは愚民だからとなるのだろう。
スパイMについて
本書で異彩を放っているのはやはりスパイM・松村昇こと飯塚盈延。
共産党を牛耳り、内部から崩壊させていく。組織の規模を大きくしていき、スパイでないのに尹基協を暗殺し、全協の松原殺そうとする。しかも彼らの汚名はいまだに挽回されていないという。いまはどうなんでしょう。
松村は組織を動かす天才でもあり、実際に共産党が大きくなったのも松村のおかげだという。松村は組織を拡大させていき、いっきに潰せるように仕向けていく。上記の暗殺事件も全協を共産党に従がわせるためだといえる。
立花たちの努力で松原を見つけ出し、松原がスパイではなかったことを証明する。
松村は共産に対し幻滅していた模様で、それはよくわかる。僕は共産党支持者であったことはないが、いまでも左翼を公言しているし、メンタリティは左翼なんだが、かつていくつかの運動に参加していた経験からすると松村の共産党への嫌気もわかる。
スパイ活動は、弱みを握られて仕方なくやっても成功しない。やはり自発的にスパイ活動をやる人間ではないとダメ。
松村は後年、スパイ活動をしていたことを後悔していたかという質問にまったく後悔していないと答えている。世が世ならぼくもスパイに率先してなっていると思う。
松村は熱海事件後、姿をくらませる。満州へ行き、そして北海道へ。一本の映画が作れる。
共産党は晩年の松村を悲惨な末路を送ったふうにしているようだが、こういうことをやっているから共産党はバカなのだ。
共産党だけではないが、左翼系の運動体にはある種の潔癖症を患っていて、運動に参加している人間の過去や運動と一体であることを要求している。議論の多様性など標榜していても、内実は多様性もなにもあったもんじゃない。
戦前共産党の資金集めについて
戦前の共産党の活動でおもしろいのが、美人局や詐欺、持ち逃げ、猥褻な絵や映画で金を稼いだり、ナイトクラブやダンスホールの経営なんかもやっていたという。
「東京朝日」の昭和8年の記事が引用されていて、
「大塚有章は更にエロ班を組織、エロの仲介による大口資金の獲得を企て帝大生デブちゃんこと古川精一にエロ味たつぷりの女党員の物色を命じた。」
なんじゃこりゃ。なかなか下品な文章だこと。
全協と、現場を知らない中央
講座派の野呂栄太郎が小泉信三の薫陶を受けていたなんて知りませんでした。
まあいい。
全協委員長の高江州重正の言葉で、天皇制打倒を行動綱領に入れることに反対だった、というのも労働運動にはメリットがないばかりか、デメリットしかないからだという。全協に結集される人間の幅が狭まるし、共産党と一緒のスローガンでは全協の存在理由がなくなる。
それに労働者にたいして納得できる内容かどうかも問題。
しかも治安維持法のもとでは、天皇制打倒をいうことは、それで運動の障害になる。しかし、共産党からすれば、だからなんだ、過激であればそれは革命的な行動の証となる。
このあたりも今も昔もかわらない。天皇制打倒自体はいい。ただ、それを下部団体だとかに求めてはいけないし、この場合労働運動がテーマなのだから、その問題にたいして問題意識を持っている人たちが結集することが大事。
いまでも左派系の団体では、思想が異なるだけでリンチにあう。昔から変わらないやつらだ。
共産党にとっての反戦平和
共産党は戦後、自らを反戦、平和主義を一貫して主張していたと自慢するが、じつはこの反戦平和の意味が戦後民主主義で使われる反戦平和の意味とは違う。
共産党にとって反戦というのは、資本主義が行う戦争にたいしての反戦であって、内乱内戦、資本主義国家への戦争、帝国主義への民族革命戦争は肯定される。
いざというときは、時刻ブルジョア政府を倒すために、革命成就のために自国政府と闘うことを要請される。ソビエトこそがプロレタリアートの祖国だから。
んん、まあそうだね。現代の日本共産党は戦前の反戦のあり方を否定すると思うけど、戦前のこの反戦テーゼは、理屈としていいんでないか。問題なのは現代の日本共産党自体が日和見主義に陥っていることだろう。
転向問題
転向問題というのは、なかなか興味深い。日本では本書が出版された当時のほとんどの共産党員が汚点をもっている。
なぜ日本の党員の多くが転向していったのか。
立花さんは、日本人は力の論理を覇道として否定的にみる。政治的対決において論理的な対決を好まず、抱き込みあいの論理という妥協という色が強い。国会でのやり取りではなく場外での政治的折衝を重視する。なるほど。
共産主義運動は明確な力の論理(階級闘争論、革命論)の上にたっているが、日本人の性格では敵味方という発想自体が弱い。だから支配者側は共産主義の論理にのってこないし、だから思想犯を処罰するのではなく、教化改善に重きを置く。
ここで驚くべきことなんだけど、司法当局内部では、判事も検事も治安維持法は死刑を想定しているが、運用する場合、死刑はださないことで一致していたという。
そうなのか、人と思想は一致するというのは非常に西洋的な考え方、いや日本では人と思想が切り離すことができるものと考えるのだな。
宮本顕治は非転向の代表的人物だが、吉本隆明は宮本も転向していると批判する。戦後の共産党のあり方は戦前とは違うのだし。
転向問題では、やはり原理原則と実際の運動との乖離が大きいということがあったという。吉本隆明は理論を中心にやっている者からすれば、理論家に現実社会を必要としない、だからはじめから転向する必要がない、自己完結した彼らが非転向だとはいえない、日本の情況、構造を把握していない彼らははじめから転向しているというわけだ。
日本共産党スパイ査問事件
下巻になると、本書のクライマックス、宮本顕治のリンチ事件が中心になる。
小畑、大泉へのリンチの背景には、共産党と全協との関係悪化があるという。全協は共産党の32年テーゼの天皇制打倒では労働運動ができないというが、ミヤケンたちはそんなことを言う全協はスパイが入り込んでいるからとある。それは共産党が否定しようとするが、労働者とインテリの闘いだった。
なんとも、連合赤軍の山岳ベース事件と同じ感じがする。
ミヤケンたちは、小畑、大泉意外にもスパイと疑いがあれば査問(リンチ)をしていった。しかも殺すところまでいかずとも、拷問ののち硫酸で額にバツ印をつけていたのだと。なんとまあ。波多然、大沢武男などなど。ただ波多は査問を受け、死を覚悟しても、その死は革命のための犠牲と捕えていたようで、革命家のロマンをもっていたようだ。
こんなことをすれば組織内は疑心暗鬼になる。そしてこのリンチ事件と同時に大量の転向者がでていた。
そんなこんなで宮本顕治も逮捕され、リンチ殺人が明るみになり、人心が離れる。そして残った袴田はほそぼそと「赤旗」をだしつづけるが、1935年3月4日に袴田も逮捕されて共産党は消滅する。
共産党の論理、ファシズムに負けた共産党
立花さんの戦前の共産党の失敗にたいしてはけっこう手厳しい。まずウェーバーを引きなあがら、心情倫理と責任倫理を分け、政治のプロは責任倫理の世界であるべきで、共産党はいつまでたっても心情倫理を貫いているという。自己の失敗に対して他者に責任を求める。特高や世論や民衆などだ。自らの心情が絶対的に正しいとする共産主義者は、どうもこの心情倫理は本能的なものなのかもしれない。
丸山真男は、ファシズムと闘い共産党は負けたなら、その一切の責任は共産党にあり、たとえ最後まで抵抗、踏みとどまろうが敗軍の将だと、それが苛酷な要求ならば、はじめから前衛党など名乗るべきではないとまで言っている。ここは丸山真男のまさに倫理観がでているね。
そしてこの心情倫理者は心情を共有しないものにとっては独善者のことで、それは独裁へと繋がっていく。
最後に、宮本顕治の判決文が載っている。きちんと読んでいないけど、治安維持法のもとで権力側は好き勝手に裁判だとかやって有罪にしていたと想像してしまうけど、判決文をけっこう論理的で飛躍もない。治安維持法は悪法だけど、それにそって運用されていたことがわかる。そして、当時の日本はすでに官僚国家であり、文書国家であることもわかる。まあ当然か。
愚民思想について
立花さんは、共産党の体質を民主集中制にあるとしている。これはもっともでしょう。僕はよく共産系が家父長制を批判的に取り上げると違和感を感じていたけど、それはまさに共産党自体が家父長的なんだよね。
そもそも本書でも言及されているが、マルクス・レーニン主義は選民思想に近い。ユダヤ教の選民思想はユダヤ民族に適用されてるものだけれど、マルクス・レーニン主義の場合は民族が党員に置き換わる。マルクス・レーニン主義においては、共産党が労働者を指導していくとなる。
ただし、だからといって共産主義に傾倒する人たちが、隠れたユダヤ思想に影響を受けているわけでない。根本的にはインテリは人を見下している。けれどそれは表にあまり出さないけど。
その建前と本音のなかで、愚民どもを導く共産党という感じでしょう。
でも、僕はこれ自体それほど批判的ではない。やはり国民の7割ぐらいは本当に愚民だと僕も思っているから。
そして左派思想に入れ込む人たちは自分がブルーカラーでないこと、もしくは貧乏でないころにコンプレックスをもっている。なんてったて社会主義、とくに共産主義は労働者階級こそが担い手であることを謳っている訳なのに、自分たちは労働者でないんだものね。
検察当局のやり方
まあそれはいいとして、戦前の当局は初期の頃、共産党を物理的に潰そうとしていたが、潰しても潰しても組織が再びできあがってくる。そこで内部から壊し、人心を共産主義から話す作戦へと変わっていく。
そもそも共産主義を含む社会主義は、多くの人にとって救いでもある。とくに戦前は現代ほどフラットな時代ではないし、貧富の差の貧困の質も現代とはわけが違う。
だから多くの人が社会主義に肩入れすることは、別段当然といってもいい。だから共産党自体の評判を落としていけばいい。
それで思うのは、現代の日本のリベラリズムの評判の悪さも、ひょっとしたらと思っています。
僕は安倍政権が大っ嫌いなんだけど、福島みずほや辻元清美、枝野幸男、またはジャーナリストや評論家や知識人の発言を聞くと、安部がまともに見えてしまうのが不思議なわけ。
だから常々思うのが、こいつら右派の工作員で、左派やリベラリズムを内から腐らせ、人心が離れさせようとしているのではないか、と。
まあいい。
日本人のメンタリティで、自白をを自ら進んでしてしまうらしい。共産党員が機密を喋りすぎていただけでなく、第二次世界大戦の際には捕虜になった日本兵はアメリカ人が不思議に思うほどぺらぺらとしゃべっていたという。なるほどね。立花さんは、負けた際には負けを認める潔さ、という倫理観があるという。たしかにね。なんとなくわかるよ。
共産党が他の政党とは違うことがある。それは中央委員会が党を支配していて、それは国会議員である必要がないということ。それが共産党の特異さで、宮本顕治は当初、議員でもないのに党を牛耳っており、共産党の議員を支配していた。それはおかしいでしょという。
共産主義がなぜ日本では限定的だったのか、そして民族主義路線、
立花さんが、なぜ日本で共産党がそれほど大きい勢力にならず、保守的な地盤となっていったのかを考察している。
戦前、日本はいまだ農民社会であり、工場労働者は農民にくらべて三分の一程度だったという。そんな社会では共産党イデオロギーが農民の心をつかめない。日本では天皇は土着宗教の農耕神の祭祀であり、それゆえに日本人の意識に「民族の母斑」のように貼り付いているという。
ただ、これはちょっとどうなのかと思う。天皇という存在自体、明治に復興したようなものだし、農耕民に連綿と「民族の母斑」として受け継がれていったとはどうしても思えない。
この問題は明確な答えを得られるものではないけれど、右翼イデオロギーのほうがどうも人の心を捉えることができることは確かだろう。
毛沢東もマルクス・レーニン主義の科学的社会主義をすてて、農民中心へと向かう。もしかするとこれも一種のコンプレックスかもしれないね。
民族主義というイデオロギーはけっこう人間にとってわかりやすいというか、すんなりと受け入れやすいもので、国際主義だとかって想像の域を越えていて、生活のなかでは国際主義だとかは抽象的すぎるのかもしれない。
ソ連も1943年にはコミンテルンを解体している。それは戦争を遂行するうえではどうしても民族主義の発想が必要だからなのだろう。
多様性を叫ぶのはいいが、民族主義がなぜかくも人を簡単に魅了できるのかを考えていけば、やはり人間の多くは愚民だからとなるのだろう。
スパイMについて
本書で異彩を放っているのはやはりスパイM・松村昇こと飯塚盈延。
共産党を牛耳り、内部から崩壊させていく。組織の規模を大きくしていき、スパイでないのに尹基協を暗殺し、全協の松原殺そうとする。しかも彼らの汚名はいまだに挽回されていないという。いまはどうなんでしょう。
松村は組織を動かす天才でもあり、実際に共産党が大きくなったのも松村のおかげだという。松村は組織を拡大させていき、いっきに潰せるように仕向けていく。上記の暗殺事件も全協を共産党に従がわせるためだといえる。
立花たちの努力で松原を見つけ出し、松原がスパイではなかったことを証明する。
松村は共産に対し幻滅していた模様で、それはよくわかる。僕は共産党支持者であったことはないが、いまでも左翼を公言しているし、メンタリティは左翼なんだが、かつていくつかの運動に参加していた経験からすると松村の共産党への嫌気もわかる。
スパイ活動は、弱みを握られて仕方なくやっても成功しない。やはり自発的にスパイ活動をやる人間ではないとダメ。
松村は後年、スパイ活動をしていたことを後悔していたかという質問にまったく後悔していないと答えている。世が世ならぼくもスパイに率先してなっていると思う。
松村は熱海事件後、姿をくらませる。満州へ行き、そして北海道へ。一本の映画が作れる。
共産党は晩年の松村を悲惨な末路を送ったふうにしているようだが、こういうことをやっているから共産党はバカなのだ。
共産党だけではないが、左翼系の運動体にはある種の潔癖症を患っていて、運動に参加している人間の過去や運動と一体であることを要求している。議論の多様性など標榜していても、内実は多様性もなにもあったもんじゃない。
戦前共産党の資金集めについて
戦前の共産党の活動でおもしろいのが、美人局や詐欺、持ち逃げ、猥褻な絵や映画で金を稼いだり、ナイトクラブやダンスホールの経営なんかもやっていたという。
「東京朝日」の昭和8年の記事が引用されていて、
「大塚有章は更にエロ班を組織、エロの仲介による大口資金の獲得を企て帝大生デブちゃんこと古川精一にエロ味たつぷりの女党員の物色を命じた。」
なんじゃこりゃ。なかなか下品な文章だこと。
全協と、現場を知らない中央
講座派の野呂栄太郎が小泉信三の薫陶を受けていたなんて知りませんでした。
まあいい。
全協委員長の高江州重正の言葉で、天皇制打倒を行動綱領に入れることに反対だった、というのも労働運動にはメリットがないばかりか、デメリットしかないからだという。全協に結集される人間の幅が狭まるし、共産党と一緒のスローガンでは全協の存在理由がなくなる。
それに労働者にたいして納得できる内容かどうかも問題。
しかも治安維持法のもとでは、天皇制打倒をいうことは、それで運動の障害になる。しかし、共産党からすれば、だからなんだ、過激であればそれは革命的な行動の証となる。
このあたりも今も昔もかわらない。天皇制打倒自体はいい。ただ、それを下部団体だとかに求めてはいけないし、この場合労働運動がテーマなのだから、その問題にたいして問題意識を持っている人たちが結集することが大事。
いまでも左派系の団体では、思想が異なるだけでリンチにあう。昔から変わらないやつらだ。
共産党にとっての反戦平和
共産党は戦後、自らを反戦、平和主義を一貫して主張していたと自慢するが、じつはこの反戦平和の意味が戦後民主主義で使われる反戦平和の意味とは違う。
共産党にとって反戦というのは、資本主義が行う戦争にたいしての反戦であって、内乱内戦、資本主義国家への戦争、帝国主義への民族革命戦争は肯定される。
いざというときは、時刻ブルジョア政府を倒すために、革命成就のために自国政府と闘うことを要請される。ソビエトこそがプロレタリアートの祖国だから。
んん、まあそうだね。現代の日本共産党は戦前の反戦のあり方を否定すると思うけど、戦前のこの反戦テーゼは、理屈としていいんでないか。問題なのは現代の日本共産党自体が日和見主義に陥っていることだろう。
転向問題
転向問題というのは、なかなか興味深い。日本では本書が出版された当時のほとんどの共産党員が汚点をもっている。
なぜ日本の党員の多くが転向していったのか。
立花さんは、日本人は力の論理を覇道として否定的にみる。政治的対決において論理的な対決を好まず、抱き込みあいの論理という妥協という色が強い。国会でのやり取りではなく場外での政治的折衝を重視する。なるほど。
共産主義運動は明確な力の論理(階級闘争論、革命論)の上にたっているが、日本人の性格では敵味方という発想自体が弱い。だから支配者側は共産主義の論理にのってこないし、だから思想犯を処罰するのではなく、教化改善に重きを置く。
ここで驚くべきことなんだけど、司法当局内部では、判事も検事も治安維持法は死刑を想定しているが、運用する場合、死刑はださないことで一致していたという。
そうなのか、人と思想は一致するというのは非常に西洋的な考え方、いや日本では人と思想が切り離すことができるものと考えるのだな。
宮本顕治は非転向の代表的人物だが、吉本隆明は宮本も転向していると批判する。戦後の共産党のあり方は戦前とは違うのだし。
転向問題では、やはり原理原則と実際の運動との乖離が大きいということがあったという。吉本隆明は理論を中心にやっている者からすれば、理論家に現実社会を必要としない、だからはじめから転向する必要がない、自己完結した彼らが非転向だとはいえない、日本の情況、構造を把握していない彼らははじめから転向しているというわけだ。
日本共産党スパイ査問事件
下巻になると、本書のクライマックス、宮本顕治のリンチ事件が中心になる。
小畑、大泉へのリンチの背景には、共産党と全協との関係悪化があるという。全協は共産党の32年テーゼの天皇制打倒では労働運動ができないというが、ミヤケンたちはそんなことを言う全協はスパイが入り込んでいるからとある。それは共産党が否定しようとするが、労働者とインテリの闘いだった。
なんとも、連合赤軍の山岳ベース事件と同じ感じがする。
ミヤケンたちは、小畑、大泉意外にもスパイと疑いがあれば査問(リンチ)をしていった。しかも殺すところまでいかずとも、拷問ののち硫酸で額にバツ印をつけていたのだと。なんとまあ。波多然、大沢武男などなど。ただ波多は査問を受け、死を覚悟しても、その死は革命のための犠牲と捕えていたようで、革命家のロマンをもっていたようだ。
こんなことをすれば組織内は疑心暗鬼になる。そしてこのリンチ事件と同時に大量の転向者がでていた。
そんなこんなで宮本顕治も逮捕され、リンチ殺人が明るみになり、人心が離れる。そして残った袴田はほそぼそと「赤旗」をだしつづけるが、1935年3月4日に袴田も逮捕されて共産党は消滅する。
共産党の論理、ファシズムに負けた共産党
立花さんの戦前の共産党の失敗にたいしてはけっこう手厳しい。まずウェーバーを引きなあがら、心情倫理と責任倫理を分け、政治のプロは責任倫理の世界であるべきで、共産党はいつまでたっても心情倫理を貫いているという。自己の失敗に対して他者に責任を求める。特高や世論や民衆などだ。自らの心情が絶対的に正しいとする共産主義者は、どうもこの心情倫理は本能的なものなのかもしれない。
丸山真男は、ファシズムと闘い共産党は負けたなら、その一切の責任は共産党にあり、たとえ最後まで抵抗、踏みとどまろうが敗軍の将だと、それが苛酷な要求ならば、はじめから前衛党など名乗るべきではないとまで言っている。ここは丸山真男のまさに倫理観がでているね。
そしてこの心情倫理者は心情を共有しないものにとっては独善者のことで、それは独裁へと繋がっていく。
最後に、宮本顕治の判決文が載っている。きちんと読んでいないけど、治安維持法のもとで権力側は好き勝手に裁判だとかやって有罪にしていたと想像してしまうけど、判決文をけっこう論理的で飛躍もない。治安維持法は悪法だけど、それにそって運用されていたことがわかる。そして、当時の日本はすでに官僚国家であり、文書国家であることもわかる。まあ当然か。
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