2017/08/28

『イスラーム世界の創造』 羽田正 東京大学出版会

第一部 前近代ムスリムの世界像と世界史認識

古典時代(9ー10世紀)のアラビア語地理書
イブン・フッラダービド(825ー911)、マスウーディー(956歿)、ムカダッスィー(945年頃ー1000年頃)の地理書の記述の傾向について。
1 プトレマイオス地理学を踏襲している。
2 前二者については、古代イラン的世界像が残っている。気候による区分。
3 バルヒー学派のムカダッスィーはイスラーム世界という区分を使うが、前二者はこういった区分けはしていない。
4 ヨーロッパに関する記述は少ない。

その後のアラビア語地理書(11-15世紀)
イドリースィー(1100ー1165年)も基本的に古典時代を踏襲している。ただし、シチリアノルマン王国につかえていた関係で、ヨーロッパの記述が詳しい。またイスラームと非イスラームの区別も特にしていない。
イブン・ハルドゥーン(1332ー1405年)の古典時代を踏襲している。古典時代同様、イスラーム世界に限定されない記述。
モストウフィー(1281ー1339年)は、ペルシア語で地理書を書く。イランの地という概念を生み出す。
当時の地理的中心をイラクにおいているのが、全体的な特徴。しかし、一部バルヒー学派のようにイスラーム世界と非イスラーム世界を意図的に分ける場合もあるが、大部分ではこのような区分けはしない。イスラーム対ヨーロッパのような見方もしていない。
近代にみられる「イスラーム」を地理的、理念的なものとしては見なしていなかった。

第二部 近代ヨーロッパと「イスラーム世界」

サイードへの批判。「近代以前の「ヨーロッパ」におけるイスラーム認識を論じる現代の研究者は、自らの頭にある「イスラーム」や「イスラーム世界」という概念を過去に投影し、過去の文献のうちからそれに相当すると思われる部分を「イスラーム」ないし「イスラーム世界」として切りとったりつぎあわせたりして、当時の人々のそれらに対する態度や言説を「イスラーム」ないし「イスラーム世界」認識として語るのである。このように、ある時代にはまだ存在しなかった概念に対する当時の人々の認識の是非を現代の時点から論じることは、果たしてどれだけ学問的に意味があるのだろうか。」108 「イスラームが「アラブ的・オスマン的・北アフリカ的・スペイン的形態」をとりながら、ヨーロッパ・キリスト教を支配したと考えるのは、ほかならぬサイード自身なのである」109
17世紀末時点では、イスラームという語は広まっておらず、「マホメット教」と呼んでいた。「シスラーム」の用語をフランス語で初めて紹介したとされるデルブロ。そのなかで「ビラード・アル=イスラーム」という語がデルボラは使用するが、これはあくまでも一部のムスリムの空間概念として使用されている。さらにはフルティエールのフランス語辞典では、トルコ人のマホメット教とペルシアの宗教が共にイスラム教であることを認識していなかった。そしてムガル帝国も個別に認識されていた。
17世紀後半の旅行家シャルダンもイスラームを単位と見ておらず、当方地域を区分する時、国名ないし民族名を使用していた。シャルダンの知識は当時において最先端のものでシーア派の教義をきちんと説明している。
18世紀後半に出版されているギボンの『ローマ帝国衰亡史』でも、言語、法、信仰の一体性をイスラームの重要なものと見なしているが、「イスラーム世界」という空間概念を明確には持っていない。ギボンのアラブやトルコについての記述は詳細を極めているが、あくまで脇役に位置する。17、18世紀では、「イスラーム世界」という地域概念、空間概念を用いての東方を叙述をしていない。

ルナンのイスラーム批判。ルナンは「「非宗教性」の時代にふさわしいキリスト教のあり方を考究し、セム語の文献学的知識の集大成として、セム対アーリアという対立軸のうえにオリエンタリズムのモデルを構築し、その結果、人種イデオロギーの理論化にも加担して、さらにアーリア的なヨーロッパ文明の普遍性を信じ、民主主義・自由主義・個人主義のフランスをたたえ、そうしたこと全てを、奔流のように力強いフランス語で、ときには攻撃的な雄弁をもって語り続けて」130(工藤庸子から) ルナンは大文字での「イスラーム世界」を語っている。
アフガーニトとルナンとのあいだで論争になる。その際、「イスラーム」という概念が飛び交う。アフガーニーはパン・イスラーム主義者だが、18世紀・19世紀には、ヨーロッパの知識人の世界像が大きく変わっているようだ。どうもナポレオンのエジプト遠征ぐらいからのよう。
このあたりからプラスの「ヨーロッパ」とマイナスの「イスラーム」という図式ができてきている。つまりは進歩のヨーロッパと停滞のイスラームということ。
オリエントという語はアジアをも含むが、ヨーロッパにとってイスラームは身近であり、実際的だった。空間としての「イスラーム世界」認識への転換があった。ただし、ここではまだ「歴史」はない。
またアフガーニーのプラスの「イスラーム」もヨーロッパ思想に深く影響を受けている。「新オスマン人」「イスラームの統一」「パン・イスラミズム」の用語は19世紀半ばぐらいに登場する。アフガーニーの「イスラーム世界」はまさに理念上のウンマ、ムスリム共同体のこと。イスラームという言葉の混乱は、理念上の理念と地域的・空間的な概念が結びついていることにある。

18、19世紀の帝国主義の拡大の中で、アジア研究が盛んになっていたが、彼らは東洋学者で歴史学者ではない。ウォーラーステインは19世紀後半から20世紀前半に諸学問を三つに分類。
1 19世紀以前からすでに存在してた学問……神学、哲学、法学
2 進歩し普遍性を持つヨーロッパ世界を理解するための学問……政治学、経済学、社会学、歴史学
3 不変で特異な非ヨーロッパを理解するための学問……東洋学、人類学、民俗学
つまりはヨーロッパ以外を理解するのに使われる手法は、3であり、歴史ではないということ。

あらにイスラームという枠組みが東洋学では採用されており、そのため古代イラン学はイスラームのカテゴリーから外れることになる。イスラーム学は、日本学、インド学のような「地域」性をもって扱われるようになる。フランスにおける東洋学はルナンの思想を受け継ぐことになる。
イスラーム史の雛形を作ったのがアウグスト・ミュラーの『東洋と西洋のイスラーム』で、ムハンマド誕生直前から書かれている。重要なのは、古代ペルシアは聖書や古代エジプト都の関係上イスラーム史には含まれていない。そして扱われる空間は東インド、中央アジアから西はイベリア半島まで。ここでは住民がムスリムかどうかではなく統治者がムスリムかどうかが条件となる。ここで現代人に馴染み深いイスラーム史が出て来る。
驚くべきは、「イスラーム世界」を単位とした歴史は20世紀に入り、ブロッケルマンの『イスラーム教徒の歴史』という本からで、この本が英訳されるのが終戦直後だ。そしてバーナード・ルイスによりイスラーム世界という図式が出来上がる。それはヨーロッパ対イスラームという二項対立を確立し、ムスリムが統治する地域、信仰、シャリーア、アラビア語という共通性をもつこと。これは現代まで引き継がれることになる。そしてさらにこの考えは逆にムスリム史家にも引き継がれていき、サイイド・クトゥブを代表に「イスラーム世界」と「非イスラーム世界」を想定している。ただしクトゥブの場合は、ヨーロッパが描くマイナスのものではなくプラスではあるが。
ただし、国ごとで歴史教育は異なる。イランではムハンマドと正統カリフを除いてイラン高原が主役で「イスラーム世界」を志向していない。トルコに至っては「トルコ史・テーゼ」なるものがあり、トルコ人とされるシュメール人の優秀さやアナトリアのヒッタイトの先行性が強調されている。そして世俗的国家を標榜していることもあり「イスラーム世界」という枠組みは使用されない。

第三部 日本における「イスラーム世界」概念の受容と展開

江戸時代に新井白石の「采覧異言」(1713)や西川如見「増補華夷通称考」(1708)があるが、当然だが、「イスラーム世界」という概念はない。
明治初期には文部省が観光した教科書『萬國地誌略』(明治7年)では、西アジアの情報が書かれていたが、明治37年の『小学地理』においては除かれてしまい、これ以降、イスラームについての記述がなくなる。
面白いことに、当時のアラビアやトルコの歴史は西洋史として区分されていたりする。古代オリエント、古代ギリシア、古代ローマと深い関係がある西アジアは西洋史である必要がある。ただし付随的なものでしかないようだ。
1909年、パン・イスラーム主義者のタタール系ムスリム、アブデゥルレシト・イブラヒムが日本に訪れ、ヨーロッパの蛮行を訴え、アジア同士協力しようともちかけた。当時の日本人はおそらく彼に共感を覚えた。
日本におけるイスラーム研究の先駆者は大久保幸次(1887-1950)で、欧米経由のイスラーム研究はぷ米人によって歪められているので、直接原典にあたり研究すべきと考えた。彼は「回教圏」をいう用語を使う。これは、まさに理念的な概念と空間的な概念を統合したもの。
回教圏概念は大アジア主義と親和性があり、すんなりと受け入れられる。大川周明も回教研究を個なっているが、彼もイスラームに根底にある統一性を見出そうとしていたようだ。まさにアジア主義の思想が見いだせる。日本の場合、1930年代に回教圏が発見され、政治的な思惑で資金援助もうけるようになる。戦前のイスラーム研究は広範に渡り、決してに中東だけに絞られるものではなく、東南アジアも視野に入れていた。これは日本の政治状況を考えても納得できる。
戦後日本では、中東地域に研究の重点がおかれるようになる。悲しいかな日本でも「回教圏」「イスラーム世界」という枠組みが受容されていく。それは理念的なイスラームと空間的なイスラームの融合なのだが、しかし、多くの点で矛盾する。中央アジアは当時ソ連でイスラーム法は適用されていない。インドネシアも世俗的な権力が政治を司っていた。トルコも然り。にもかかわらず、これらの地域もイスラーム世界となる。
イスラーム誌がアジア史、東洋史の範疇に入っているが、これはアジア主義も名残である。

結論 「イスラーム世界」史と訣別

あたかも「イスラーム世界」的ななにかがあるように錯覚してしまう。たしかにイスラームには共通点はある。しかし、イスラームに見られる特徴の共通性は、キリスト教圏でも仏教圏でもみることができる。たとえば建築や法、絵画など。つまり、論者が議論をする上でどんな統一性を強調したいかで「イスラーム世界」の概念が存在する。現代の我々が「イスラーム」と使う際、地域性、言語の多様性、習慣、歴史を見失い、あたかも統一的なイスラームが存在するかのように、またイスラム教徒が同じ風景を見ているかのように論じている。「イスラーム世界」をアプリオリに前提しているのである。現実において、現代のムスリムが多くいる地域の法律体型はシャリーアに則っているわけでもなく、近代の世俗法が用いられている。
イスラーム教は法だけでなく、政治・経済・社会・文化のすべてに関わっていると規定されていて、特別な信仰形態をしていると思われがちだが、キリスト教でも仏教でも同じことだ。このあたり宗教とは何かが忘れられている。宗教は生活に密着していて、たとえある行動が他宗教からみて宗教的な行動と見られていても、行動する本人は普段通りの生活をしているだけだったりする。

「イスラーム世界」という用語は理念として使用されるならいいが、ムスリムが多数をしめる地域の総称、またはムスリムが支配者として支配している地域に使うべきではない。「イスラーム世界」を空間的な用語で使用することで、多くのものが失われる。

2017/08/27

『狼煙を見よ』 松下竜一 河出書房新社

「いま”狼”を見直していく作業の中で、いかに私はそのとき彼等の近くに居たのかを改めてしるのであり、その驚きに打たれている。私は巨大開発に反対し、発電所建設を拒否した根底には、単なる公害問題を越えた大きな視点があったのだが、それはたとえば当時タイなどで頻発していた日本製不買運動までも見据えてのことであった。海外への経済侵略をやめさせるためにも、これ以上の巨大開発は断念すべきであり、日本がこれ以上の経済大国にってはいけないのだというのが私達の運動理念であった。東アジア反日武装戦線を名乗る彼等ほどには明確に理論化されず政治目的化されていなかったとしても、彼等と私達の行動の動機はかなりの部分で重なっていたのだといえる。」133

「何もしない者は、それだけ間違いも起こさぬものです。そして多くの者は、不正に気付いても気付かぬふりをして、何も事を起こそうとせぬものです。東アジア反日武装戦線の彼等は、いわば「時代の背負う苦しみ」を一身に引き受けて事を起こしたのであり、それゆえに多数の命を死傷せしめるというとりかえしのつかぬ間違いを起こしてしまったということです。その間違いだけを攻め立てて、何もしないわれわれが彼等を指弾することができるでしょうか。極悪犯として絶縁できるでしょうか。」169

松下は片山批判のところで躓く。「新年おめでよう」というだけで、総括を求められる異常性。片山が転向者として批判される。左翼特有の思想統制。なぜもっと他者に寛容になれないのか。
硬直した考えから、ちょっとしたことが小市民的に写ってしまう。松下はここで「私という人間の弱い部分を容赦なくえぐってやまない」と書いているが、おそらくは極左系の活動における思想の厳格さ? というよりも不寛容さが面前に突きつけられたとき、自らの考えとの溝の埋めようのなさへの絶望だろう。俺はこうなれない、なるべきではないといった。
しかし、片山を批判した大道寺は考えが変わっていったが。
「片山君批判の頃は、ぼくは自分を見失っていたと思います。連合赤軍の兵士たちと同じような状態だったかもしれません。全く慚愧に堪えません。…そのうちぼくに批判が集中してきました。ぼくが彼を批判せずにいることはナンセンスだと。…ぼくが反論できずその批判に屈したのは、ぼく自身が自供してしまっているという事実です。…”片山が立ち直るための援助をすべきだ。それは、彼を厳しく批判することだ”という救援会や同志の批判を受けて、ぼくも彼への批判を行いました」230 片山批判への批判もあったが、大道寺にとって当時はその行為は小市民的なものとしてはねつける。大道寺は後にこの小市民的なものを理解し、賛成していく。もともと大道寺の東アは連合赤軍とは異なり、非常に寛容なものであったにも関わらず、片山批判をするような状況になってしまっていた。
左翼とはなぜかくも不寛容な集団になってしまうのか。これは日本の左翼の特徴なのか。それとも左翼思想に傾倒する人間がもつ、ある種の潔癖さが原因なのか。

「三菱は失敗であったとしても、被告人たちを日本は裁けるのか」ある牧師の言。238

なぜ東アは失敗したのか。

「いますぐ撃つべき敵は誰であるのかを明確にできなかったが故に、いつの日にか結びつくべき人々、そして権力の弾圧から防衛すべき人々を見失い、殺傷してしまったのだ、と。ぼくらは、人民という生きている具体的な存在を、人民あるいは大衆という概念でのみ理解していたのです。つまり一人一人違った顔、名前、ぬくもりを持ち、違った生活を営んでいる人たちを、人民、あるいは大衆という概念で一括りに規定して、それでいいものと思っていたのです。こうしてぼくらの観念性は、三菱重工爆破の結果、八人のし者と三百余名び負傷者を出してしまっという結果をつきつけられ、その死傷者の方々と具体的にむきあうことによって、はじめて意識されたことなのです。ぼくらの誤りは、厳しく糾弾されなくてはなりません。ぼくは、繰り返し自己批判を深めています。」172

2017/08/18

『ファルマゲドン』 デイヴィッド・ヒーリー みすず書房

日本で薬の認可は時間はかかるのが弊害という。アメリカでは逆にあまりに認可基準が甘すぎるという。
かつての医療は、「薬を使用しない場合の経過をみる」ことの重要性を持っていた。
医師が発行する処方箋の害悪について。かつては医師に頼らずとも、アヘン、ブロム剤、胃腸薬などを手に入れることができた。これは、医師にかかること自体が稀なことであったことを意味している。医師にかかる、それは重篤であったりした場合の選択肢だった。
処方箋がなければ薬を買えないということは、ある意味正当なことのように思えるが弊害も多い。というのも医療が根本的に非対称性を有しているからだ。
処方箋というシステムは、消費者と注文者が異なるということだ。注文するものが直接使用するのではない。消費者は患者だ。患者は医師の言いなりににその薬を使う。医療は専門性の高い分野なだけ、非対称性が働いてしまう。医師がこれを飲め、これが効くといえば、信頼しなければならない。ただ実際の使用者は、自身で効果の程を実感できるものだが、たとえ効き目がないと思われても従ってしまう。高血圧やコレステロールを下げる薬というのは、実際、実感が沸かないものだ。効果があろうがなかろうが服用しなければならない、これがこの処方箋薬の害悪の最もなところ。処方箋というシステムは、患者に薬の選択肢を与えないことである。

「薬が効いた」とは一体なにを指しているのか。かつては医者が薬を処方すれば、手に取るようにその効果があったものだった。抗生物質は明らかに効果があったし、アヘンの鎮痛剤は明らかに痛みを和らげていた。ただし薬とはこれほど明確な効果を見られるものばかりではない。そこがつけ入る隙間を与える。似非医者や代替医療などがそうだ。しかし、それは現代において認可されている薬においても同様だ。効果があるかどうかは、治験によるエビデンスをもとにすべきということになる。医療はart(術)ではないと。
エビデンスによる評価は、当初は因果関係を明確にできなかった。1870年代コッホの細菌学の提唱によって病原菌説が医療にインパクトを与えた。ジョン・スノウは19世紀のコレラの流行を水源に求められたことで、コレラの発生を防いだ。疫学の誕生だ。ジョン・スノウの業績は、コッホの細菌学によって立証された。
無作為化比較試験のルーツについて。ロナルド・フィッシャーは、肥料が穀物の収穫量を向上させるかどうか調べていた。ここで使用された2つの概念、無作為化と統計的有意性を導入した。
無制限に巻かれた肥料は、穀物の収穫量を一見すると向上させたように見せる。しかし、土壌、日照、灌漑、気候などの要因が結果に影響している。ここで「判明している未知の要素known unknown」と「判明していない未知の要素unknown unknown」をコントロールすることが必要となる。無作為の割付はこの2つを同時に処理してくれる。
フィッシャーのアプローチは、基本的に新たな肥料には効果がないことを前提としている。これを帰無仮説という。20回のうち19回で収穫量が、他の区画より高かった場合、初めて偶然性を排除し、新たな肥料が何らかの理由で効果があったと譲歩できるとするのである。これの意味するところは、肥料を施された畑の収量が多かった理由が偶然の結果であった可能性が低いといったことを意味するにすぎない。しかし、このことが薬剤とプラセボに応用されると、無意味な差異が偶然生じた可能性は低いという意味となり、有意であると見なされる。ここで統計的有意性は、実験設計で変化する。つまりは条件がさまざま状態で何度も実験を繰り返し、類似の結果を導くことができるのかどうかだ。すなわち有意であるといえるのは、実験を行う方法がわかって初めて意味をなす。この統計という方法は、フィッシャー自身はそう思っていないが、数字が伴いあたかも科学的と見えてしまうのだ。有意である数字がでた、つまり科学的に証明されたと。
内実では、50%がプラセボ以上の効果が発揮されていなくても、有意があると判定される。有意であることは、フィッシャーにとっては偶然の結果を意味するかもしれないので、効果があったと言えないのだが、有意であることが薬においては、それを認可するにあたって十分な条件となる。有意であることは、偶然性ではないということになってしまったのだ。
そして、この単なる有意であることが、大きな力をもってくる。無作為化比較試験の有利なところは、大規模な被験者を募ることがなく、少人数でその結果を導くことにある。しかし、参加者が大きければ大きいほど有意な実験結果を導くことができるからだ。
つまりエビデンスとは統計的有意な差があることを指すことになってしまったのだ。そしてこのことが、副作用や薬害などのリスクを統計的有意が生じないように操作できるようにしてしまっている。「効く」有意な差はベネフィットとなり、副作用の有意な差はないことにされる。

かつての製薬会社は石油会社のように、油田をさがすように薬を開発していた。それは大学の研究室のように、偶然性が支配していた。しかしそれが変化して、効くか効かないかわからい薬や悪影響がある薬を、はたまた特許の切れた薬の分子構造を少し変えて、新たに特許をとったり、他の病気に転用したりする仕事に変わってきた。ここで幅をきかせるのがマーケティングだ。製薬会社の働きかけは、医療の現場のガイドラインの作成に影響を及ぼす。このガイドラインになになにの薬を処方するようにと書かれていれば、医者はそのガイドラインにそった治療をしなければならなくなる。ガイドライン自体は強制的なものではないが、従わないと病院を追い出される、もしくは似非医者のレッテルを張られることになるのだ。

製薬会社は、薬を大量に消費させるために、新たに病気を発明することも辞さない。いや、実際にその病気は存在するかもしれないが、解釈を拡大させたりする。躁鬱病、喘息、PTSD、などなど、これらの病気の深刻さを宣伝し、いつのまにか世間を賑わすトピックになっているのだ。

→病気とはなにか。
→予防医療とはなにか。

1870年代、体重計の発明により、体重を測ることが奨励され、そして診療に世界的に使われるようになった。これは体重計は標準体重という概念を生み出す。それまで健康であることの指標であった見た目の「ふくよかさ」が、いつのまにか潜在的な病を有する不健康な状態へと変化した。そして体重の維持が美を保たせる一つの基準となり、ひいては欧米では三分の一の女性がかかったとされる摂食障害の要因のひとつなっているかもしれないのだ。


なんとも恐ろしきかな。

2017/08/05

Beethoven Piano Sonata No. 23, Sonata No. 27 Wilhelm Kempff,



The Beethoven Piano Sonatas

Sonata No. 23 in F minor, op. 57 "APPASSIONATA"
Sonata No. "7 in E minor, op. 90
Wilhelm Kempff, piano
MONO, 1952, DECCA, DL9580

デッカ版のケンプのピアノソナタ。盤に多少傷があるが、分厚いのでそんなもの物ともせずにきちんと音がでてる、とおもったら音飛びがある。第一楽章の最後のほう。
演奏は、やはりケンプといった感じ。抑制された表現となっている。静にともる情熱の炎といったところかな。ただ僕はベートーヴェンの「熱情」はそれほど好きな曲ではなく、買ったいいがあまり聴くことはないかもしれない。
27番は、ケンプのDGでのステレオ録音を持っているのでよく聴いている。やはり抑制された演奏だ。60年代の録音では、もっと情感豊かに弾いている。ただ、好みとしてはデッカ版の27番。あんまりロマンティックに弾かれるのは、よろしくない。
第2楽章なんかあっさりしたもんだし。

2017/08/04

Rachmaninov, Concerto No.3


Sergei Rachmaninov
Concerto No. 3 for piano and orchestra in D Minor, op. 30
Andrei Gavrilov
conductor: Alexander Lazarev
USSR State Symphony Orchestra
1978, C10-07661-62

アンドレイ・ガブリーロフのラフマニノフの3番を買う。Made in USSRというこもあるのか、盤が薄い。音質は特に悪くない。演奏は素晴らしい。僕が聞いた3番の中でも上位に入ると思う。特に奇抜な演奏ではなく、オーソドックスだけど、ピアノが繊細で大胆だ。カデンツァはオッシア。力強く甘く聞かせている。CDでフィラデルフィア交響楽団、ムーティ指揮のは持っているけど、USSR盤の方がいい。