2020/04/30

『主体の解釈学 コレージュ・ド・フランス講義1981-82 ミシェル・フーコー講義集成11』を読む ②

ここで展開される『アルキビアデス』のフーコーの解釈は感動的ですらある。テクストを読解するとはこういうことなんだと。
『アルキビアデス』の副題は「人間の本性について」となっていてる。前に『アルキビアデス』を読んだとき、この人間の本性が国家と結びつくところにかなり違和感があったのはたしかで、ここのつながりがいまいちよく理解できなかった。上に立つもの心を清く、正しく、強くあらねばならない、といたって普通のことを述べているとしか思えなかったもので。
フーコーの解釈は、ぼくはそこまで突拍子もないものではなくて、いたって『アルキビアデス』を「自己への配慮」にフォーカスして読解している。ただフーコーが語ると、身体性が前面に出てくるのが不思議です。まあぼくがフーコーの他の著作も読んでるから、そのように読み込んじゃうんだけだと思うけど。それに「自己の技術」は、仏教思想にもみられるし別段めずらしい考えではないのだけれど。仏教では、かなり身体的な制御と精神の制御はリンクしている。
『アルキビアデス』の最後がおもしろくって、アルキビアデスがソクラテスをストーカーすることを誓う。対話だけで相手を落しちゃうんなんて、いい世界だな。ソクラテスって中年なのに。

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下記まとめ

自己の技術
まず退却の技術
プラトンのはるか昔から、自己の技術(テクネ―)を実践することは、広く現れていた。神に近づくことや神託を聞いたすることは、まず自己を浄めなければならない。浄化の実践は古典期ギリシア、ヘレニズム期、ローマ世界にも確認されている。
魂を外部から守ることが重要になる、そのとき退却の技術を必要とする。
アナコーレーシスanakhoresisは、人が世界から自らを切り離し、自らを引き上げる一定のやり方を意味する。外界から接触を断ち、感覚を感ずることをやめ、出来事にふりまわされない、目の前のものを見ないこと、可視的な不在の技術。
この退却の技術によって、苦痛に耐え、誘惑に抵抗することができる。忍耐の技術。
そして試練の技術。
自ら試練ある状況をつくりだして、それに耐えること。

自己とは何か
「heautonとは何か、……君は自己に配慮しなければならない。配慮するのは君だが、君は君と同じもの、配慮する主体〔と同じもの〕である何かへ配慮する。それは対象として君自身なのだ」(64)
heautonとは魂(psukhe)である。
「よき統治とは何か、都市の親愛とは何に存するのか、義しい統治とは何かを知ろうとして、魂の何たるかを問い、個々の魂のなかに、都市の類似物を、モデルを求めようとする……結局のところ魂の階層や機能が、統治の術についてたてられた問いにかんして私たちに解き明かしてくれいるのかもしれない、というわけです」(65)

khresthai/khresisについて
これらの概念は世界や身体を道具として見るのではなく、自分の取り巻く他者や自分自身を超越的な立場でみつこと。
hippo khresthai(馬を使う)は馬をふさわしい仕方で使うことであり、theois khresthai(神を使う)は神をふさわしいかたちで関係を結ぶ意味、礼拝し神を敬うことを意味する。
つまる魂を使うというのは、魂を実体として扱っているのではなく、魂は主体になっている。

医者、家長、愛人
医者が自分の身体を配慮すること、家長が家の財産を管理することは、自己の配慮ではない。
愛人の場合は、少し論調が異なる。アルキビアデスを追っていた者たちは、アルキビアデスの身体に関心があった。ソクラテスはアルキビアデスの青春が過ぎてから彼に声をかけた。それはソクラテスがアルキビアデスの魂、主体に配慮していることを示す。もっといえば、「ソクラテスはアルキビアデスが自分自身を配慮することになる、そのやり方をこそ配慮している」(70)
師の存在が、弟子(愛人)を自己への配慮へと導く。師の少年への無私の愛が配慮の原理になっている。

スパルタ、ペルシャにおけるケース
スパルタ人は自己へ専心しなければならないため、農作業などは農奴にゆだねている。ただし、スパルタの人々にとっては主知主義や哲学には関心がなかった。つまり。スパルタにとって「自己への配慮」というのは「生き方」になっている。
ペルシャの王子がうける教育は、知恵(sophia)、正義(dikaiosune)、節制(sophrosune)、勇気(andreia)、各教師がおり、帝王学があった。
ソクラテスは、この点アテネは劣っている、教育がなされていないことを憂いている。

自己を見る「眼」と「鏡」
他者の瞳に映る自己。それは本来の同一性のことであり、これこそ個人が自分が何であるかを知ることができるための条件となる。
そして眼がこのように他者の眼の中に自らを知覚するとき、自分の視覚の行為は他者の視覚の行為の中で実現する。
そして、魂の本性である思考と知をなす原理そのものへその視線を向けることではじめて自らを見る。
この思考と知の要素とは何か。それは神的な要素で、神lこそが私たちの魂の最良の、純粋で明るいもの。
神は最良の鏡である。
「自己を再認するためには、神的なものを認識しなければならばい」(84)

正義の誓い
アルキビアデスは最後にソクラテスの約束をする。自己に配慮するこではなく、「正義」に配慮することを約束する。
神的な要素と同時に知恵の本質を見たとき、その中に自らを認識し、再認する。なぜか神的なものは私が何であるかを写すからだ。
「したがって自己へ配慮することと、正義へ配慮することは同じことである。」(86)
よき統治者になるために自己を配慮する、それは正義に配慮することであるとなる。

『アルキビアデス』の成立とその射程
『アルキビアデス』の真贋はずっと議論されてきており、フーコーは疑いなくプラトン作としてる。実際はいまだに議論があるよう。
フーコーはこの書物が、プラトンの初期から後期の要素をもっており(例えばペルシャへの関心や鏡の比喩などは後期の特徴)、そしてプラトン哲学の主題や形式がはっきちろ提示されている。さらに捏造されたテクストも含まれており、しかしそのテクストも決して全体を損なうようなものではない。
プラトン的、ないし新プラトン主義的な伝統は、まず自己への配慮が自己認識のなかに至上の形式とあり、また自己認識が真理へのすすむ道を開き、真理への到達が神的なものを自己の内に認めること。
これらの要素はエピクロス派、ストア派、ピュタゴラス派などには見いだせない。
プラトン主義において、真理への到達は神的なものにかかわる一方で、「合理性」を育んでいく。霊性と合理性は対立するかのようだが、、、どうなるのでしょうか。

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