『神学・政治論』吉田量彦訳
光文社古典文庫で読む。岩波版で学生時代にも読んでいるのだが、よくわからなかった。たしか授業でもスピノザをやっているのだが、当時、ドゥルーズやネグリといった思想家が嫌いだったため、彼らが信奉するスピノザには興味がわかなかったというのもある。
読んでみようと思ったのは、たまたま手にとってしまったため。なんか『エチカ』より読みやすそうだし。2019年8月6日
***
じっさいは去年のうち読了していたが、せっかく読んだのだからきちんとノートにとってまとめようとしたら、案外時間がかかってしまった。
読んでみて、やはり時代背景を知っておかないとつまらないと思う。吉田さんの解説と上野さんの本でその内容は補える。
光文社古典文庫で読む。岩波版で学生時代にも読んでいるのだが、よくわからなかった。たしか授業でもスピノザをやっているのだが、当時、ドゥルーズやネグリといった思想家が嫌いだったため、彼らが信奉するスピノザには興味がわかなかったというのもある。
読んでみようと思ったのは、たまたま手にとってしまったため。なんか『エチカ』より読みやすそうだし。2019年8月6日
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じっさいは去年のうち読了していたが、せっかく読んだのだからきちんとノートにとってまとめようとしたら、案外時間がかかってしまった。
読んでみて、やはり時代背景を知っておかないとつまらないと思う。吉田さんの解説と上野さんの本でその内容は補える。
上野さんの『スピノザ『神学政治論』を読む』は、第一部ぐらいで十分かなと思う。第三部なんかになると、アルチュセールやネグリを論じていて、前者は青土社「現代思想」、後者は岩波書店の「思想」に載せた論考ということもあり、正直読むに耐えなかった。いつも不思議になるけど、とくに雑誌「現代思想」の論考は、なぜかみんな寄稿者の文章は同じトーンになる。文章は硬く、衒学的。『スピノザ『神学政治論』を読む』の第一部、第二部では、そんなそぶりを見せなかった上野さん、「現代思想」の文章はなぜか「現代思想」風になってしまっている。「現代思想」という雑誌は読む価値がない雑誌の一つでしょうが、まあいいでしょう。
とにもかくにも、『神学政治論』はなかなか興味深い。上野さんは否定しているけど、偽装された無神論がいい線をいっていると思う。ぼくはこの立場を否定しないし、むしろ肯定的に評価していいと思う。2020年4月20日
とにもかくにも、『神学政治論』はなかなか興味深い。上野さんは否定しているけど、偽装された無神論がいい線をいっていると思う。ぼくはこの立場を否定しないし、むしろ肯定的に評価していいと思う。2020年4月20日
序文
第一章 預言について
第二章 預言者について
第三章 ヘブライ人たちの「お召し」について。また預言とは、ヘブライ人たちだけに独自に与えられた贈り物だったのかについて
第四章 神の法について
第五章 さまざまな儀礼が定められた理由について。また歴史物語を信じることについて。つまり、そういう物語を信じることはどういう理由で、また誰にとって必要なのかについて
第六章 奇跡について
第七章 聖書の解釈について
第八章 この章では、モーセ五書やヨシュア記、士師記、ルツ記、サムエル記列王記は本人の著作ではないことを示す。その後これらすべてについて、著者は複数いたのか、一人だけだったのか、また誰だったのか探求する/第九章 [前章と]同じ[『創世記』から『列王記』までの]各巻について、別の問題が取り上げられる。エズラはこれらの巻に最終的な仕上げを施したのか、またヘブライ語の聖書写本に見られる欄外の書き込みは[本文に採用されなかった]異本の読みだったのか、といった問題である
第十章 残りの旧約聖書各巻が、既に取り上げられた各巻と同じ仕方で検証される
第十一章 使徒たちはその「手紙」を使徒や預言者として書いたのか、それとも教師として書いたのか、ということが考察される。さらに、使徒たちの役割りとはどういうものだったか明らかにされる
第十二章 神の法が記された本当の契約書について。聖書はなぜ聖なる書物と呼ばれ、なぜ神の言葉と呼ばれるのかについて。そして最後に、聖書は神の言葉を含む限りにおいて、損なわれることなくわたしたちまで伝えられた、ということが示される
第十三章 聖書は単純きわまりない教えしか説いていないこと、ひとびとを服従させることだけが聖書の狙いであること、そして聖書は神が本来どういうものであるかについては、ひとびとがそれを見習っていきかをの指針にできるようなことしか説いていないことが示される
第十四章 信仰とは何か。信仰のある人とはどのような人か。信仰の基礎になることが決められ、最終的に信仰が哲学から切り離される
第十五章 神学が理性に奉仕するのでも、理性が神学に奉仕するのでもないことについて。そしてわたしたちが聖書の権威を認める理由について
第十六章 国家体制の基礎について。個人のもつ自然な権利と、市民としての権利について。そして至高の権力の持ち主の権利について
第十七章 至高の権力にすべてを引き渡すことは誰にもできないし、その必要もないことが示される。ヘブライ人達の国家体制はモーセの存命中、その死後、王たちを選ぶ前はそれぞれどうなっていたのかについて。この国家体制の優れていた点について。そして最後に、この神による国家体制が滅びた原因や、存続している間もさまざまな反逆にさらされずにはいられなかった原因について
第十八章 ヘブライ人たちの国家体制と歴史物語から、いくつかの政治的教訓が引き出される
第十九章 宗教上の事柄にまつわる権利は、すべて至高の権力の持ち主たちの管理上にあることが示される。正しいかたちに神に奉仕したいなら、宗教上の礼拝活動は国の平和と両立するようなに行われなければならないのである
第二十章 自由な国家体制では、誰にでも、考えたいことを考え、考えていることを口にすることが許される、ということが示される
参考図書
『スピノザ『神学政治論』を読む』 上野修 ちくま学芸文庫
第一章 預言について
第二章 預言者について
第三章 ヘブライ人たちの「お召し」について。また預言とは、ヘブライ人たちだけに独自に与えられた贈り物だったのかについて
第四章 神の法について
第五章 さまざまな儀礼が定められた理由について。また歴史物語を信じることについて。つまり、そういう物語を信じることはどういう理由で、また誰にとって必要なのかについて
第六章 奇跡について
第七章 聖書の解釈について
第八章 この章では、モーセ五書やヨシュア記、士師記、ルツ記、サムエル記列王記は本人の著作ではないことを示す。その後これらすべてについて、著者は複数いたのか、一人だけだったのか、また誰だったのか探求する/第九章 [前章と]同じ[『創世記』から『列王記』までの]各巻について、別の問題が取り上げられる。エズラはこれらの巻に最終的な仕上げを施したのか、またヘブライ語の聖書写本に見られる欄外の書き込みは[本文に採用されなかった]異本の読みだったのか、といった問題である
第十章 残りの旧約聖書各巻が、既に取り上げられた各巻と同じ仕方で検証される
第十一章 使徒たちはその「手紙」を使徒や預言者として書いたのか、それとも教師として書いたのか、ということが考察される。さらに、使徒たちの役割りとはどういうものだったか明らかにされる
第十二章 神の法が記された本当の契約書について。聖書はなぜ聖なる書物と呼ばれ、なぜ神の言葉と呼ばれるのかについて。そして最後に、聖書は神の言葉を含む限りにおいて、損なわれることなくわたしたちまで伝えられた、ということが示される
第十三章 聖書は単純きわまりない教えしか説いていないこと、ひとびとを服従させることだけが聖書の狙いであること、そして聖書は神が本来どういうものであるかについては、ひとびとがそれを見習っていきかをの指針にできるようなことしか説いていないことが示される
第十四章 信仰とは何か。信仰のある人とはどのような人か。信仰の基礎になることが決められ、最終的に信仰が哲学から切り離される
第十五章 神学が理性に奉仕するのでも、理性が神学に奉仕するのでもないことについて。そしてわたしたちが聖書の権威を認める理由について
第十六章 国家体制の基礎について。個人のもつ自然な権利と、市民としての権利について。そして至高の権力の持ち主の権利について
第十七章 至高の権力にすべてを引き渡すことは誰にもできないし、その必要もないことが示される。ヘブライ人達の国家体制はモーセの存命中、その死後、王たちを選ぶ前はそれぞれどうなっていたのかについて。この国家体制の優れていた点について。そして最後に、この神による国家体制が滅びた原因や、存続している間もさまざまな反逆にさらされずにはいられなかった原因について
第十八章 ヘブライ人たちの国家体制と歴史物語から、いくつかの政治的教訓が引き出される
第十九章 宗教上の事柄にまつわる権利は、すべて至高の権力の持ち主たちの管理上にあることが示される。正しいかたちに神に奉仕したいなら、宗教上の礼拝活動は国の平和と両立するようなに行われなければならないのである
第二十章 自由な国家体制では、誰にでも、考えたいことを考え、考えていることを口にすることが許される、ということが示される
参考図書
『スピノザ『神学政治論』を読む』 上野修 ちくま学芸文庫
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