2020/03/15

「ゲンロン」10, 2019, September ゲンロン

下記はメモ

「投資から寄付へ、そして祈りへ SOLIOの挑戦と哲学」家入一真+桂大介 聞き手=東浩紀
日本では寄付の文化があまり育っていないので、ポートフォリオ寄付というものがでてきているようで。桂さんの「寄付は墓参りのようなもの」というのは、おもしいなあと。

「悪の愚かさについて、あるいは収容所と団地の問題」東浩紀
七三一部隊の跡地、プワシュフ収容所跡地、バビ・ヤールの共通点として、住宅街に囲まれた日常の中にある。

笠井潔の探偵小説についての考察
第一次世界大戦での「大量死」の経験への抵抗から探偵小説というジャンルができた。
ミステリーでの死者は二重の光輪に飾られる。犯人による緻密な犯行計画という光輪、それを解明する探偵の推理という光輪。
「大量死」という匿名の死への抵抗。
笠井は現代日本のミステリーを見る際に、「大量死」から「大量生」の転換をみる。人はゴミのように生かされている。
ミステリーは、加害の悪の愚かさを、意味に還元することなく、記号とパズルによって語ることができると語っているようだ。

七三一部隊跡地の「罪証陳列館は、数の暴力に対して意味の回復で抵抗する施設だった。悪は意味で記憶される」
この博物館では、実証的な検証だけを目的にしているのではない。マルタと呼ばれ匿名のまま死んでいった死者たちの記憶を再現していき、固有性を回復させていく。
罪証陳列館の展示は日本政府が薦めた巨大な生物戦構想があったという歴史館でつくられている。
が、じっさい七三一部隊はそこまでの巨大な構想があったというわけでもない。しかし、そのような歴史館が必要になる。なぜなら、日本政府、関東軍が大いなる陰謀とよ構想によって犠牲者は殺されていなければならないからだ。つまり日本政府、関東軍への評価が過大になっている。
「だから、ぼくたちもまた、罪証陳列館の「過大評価」を静かに受け入れるべきなのだろう。そこでもし「たしかいに罪は罪だが、たいして深い意味なんてなかった」と言い放つことができるとすれば、その大胆さこそが、加害の証であり、日本人の特権なのだと、そのように考えるべきなのだろう。」
「でも、ほんとうにそれでよいのだろうか?」
「加害者はそもそも害を記憶しないし、したがらないということである。加害者は害を記憶しない。他方で被害者は害を記憶するが、かわりに意味を与える。ではそのとき、加害の無意味さの記憶は、いいかえれば悪の愚かさの記憶は、いったいどこにいってしまうのだろうか。」

ハイデガーから考える
「ガス室や絶滅収容所における死体の製造」は「機械化された食料産業」と「同じもの」で、犠牲者は人間としては死んでおらず、「死体製造のために徴用された物資の総量を構成する断片」になっただけ、と語った。(『ブレーメン講演とフライブルク講演』(ハイデッガー全集第79巻)*これはかなりきつい言葉だよ。まだ戦争の記憶が生々しいときに。
これは、すべての者が何かの目的のための素材でしかなく、「代替可能」な断片でしかない、という現代人の世界観を言っている。そこには「存在」の意味が忘却されている。
ただ、このハイデガーの理論は、射程が大きく、収容所と団地の区別をしない。それは収容所には加害があるが、団地にはない。

村上春樹から考える
村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』は「加害側が過去の悪へと遡るのがいかにむずかしいか、そのむずかしさのなかで文学になにができるのか」、それを主題にしている。
村上春樹の文学の特徴として、固有名が避けられていること。柄谷行人からの批判。
それに対する応答か? 「彼にとって、歴史と現実に直面するとはけっして名前と意味を回復することではなく、井戸にもぐることなのだ」

「対談 歴史は家である」高橋源一郎+東浩紀
終戦記念日とお盆が重なっているのは偶然ではあるが、それが日本の夏休みが慰霊の季節となって日本人の想像力をつくりあげる。

明治、大正、昭和前期までの文壇を「家」のイメージで表現する。当時の作家はよく葬式にでていて、親戚同士のような感じだった。それが文壇が「家」になった。
現代の文壇は、作品と作家が切り離されている。
家族的共同体であったからこそ、内部の違和感を排除せずに保つことができた。
しかしいまの日本の小説は孤独なのだという。かつては詩や小説は批評とペアだったが、俗語革命が終わり、文芸批評が思想の役割りをしていた時代は終わった。

現在、批評家は文学的言辞を使うことができない、もしくは使うことが許されない。
正しい態度、平板な政治的表明で、どっち側につくかを表現している。
高橋「現代詩はまさに多様性・多義性の言葉です。なにをいっているのかわからない作品も多いのですが、読者がそこから意味を拾い上げ、多様な解釈の世界をつくることが許されていもいた。かつては、言葉の意味とは一義的に存在するものではなく、読者が主体的につくり上げないと存在しないものだという合意が、広く共有されていたように思います」

「対談 国体、ジェンダー、令和以後」原武史+東浩紀
「令和」が万葉集からとられたが、元ネタは張衡や王羲之の漢籍という。なんと。
「令和」には、明治以降にあった政治理念や倫理的な意味合いがなく、感性的なものになっている。
元号とって天皇の名前には深い関係があったが、今回の改元でそれがなくなった。!! それってなんだ。「仁」も政治的な理念を表していて、君主は民に愛情を注ぐべしというものらしい。

皇后の役割り。
1961年、美智子皇后は長野県の養護老人ホームで、ひざまずき老人に話しかける。カトリックの影響か。これが平成のスタイルとなっていく。
「にほんを守る国民会議」による1981年の提灯奉迎の復活。そして1979年の元号法制化。
皇太子夫婦による平成流と保守派による戦前回帰。
天皇明仁は象徴天皇の役割りを「祈り」と「旅」に見いだしているという。だからこそ宮中祭祀ができなくなれば、退位するしかないと考えていたよう。
昭憲皇太后、貞明皇后は熱心な日蓮宗の信者だった。貞明皇后は神道思想家の筧克彦と出会ってからは「神ながらの道」にのめり込んでいく。
美智子妃はカトリックだったが、裕仁は皇太子時代にローマ法王からカトリックの売り込みがあり、なんらかの影響があったかも。
昭和天皇は母親の信仰に引きづられながら、戦後その反省からカトリックに接近したのではないか。そしてGHQ支配を避けるためにカトリックへと接近。
明仁の宮中祭祀へのこだわりは美智子妃の影響が大きく、そしてそれは昭和的な国体への抵抗ではなく、先代の企ての継承となる。
明仁と美智子は乳母を廃止し、マイホームをつくり上げていく。なんと家族旅行もはじめていたという。
雅子妃は美智子妃とは違い、宮中祭祀に熱心ではない。
とここで徳仁がかつて雅子をかばった発言があった。2006年2月23日、「宮中で行われている祭祀については、私達は大切なものと考えていますが、雅子が携わるのは、通常の公務が行えるようになってからということになると思います。」天皇明仁への反論として。
原さんは雅子妃が思い切った改革をするのではないかと考えているという。
そもそも宮中祭祀は明治につくられたもので、明治天皇はそれをよく知っていてほとんど代拝で、大正天皇はそう。明仁はそのにせものを本物にしようとした天皇。
そこで徳仁はどうでるか、それは雅子妃にかかっているのはないかと。

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