2021/04/30

『荘子――古代中国の実存主義』 福永光司 中公新書

本書は荘子を実存主義に近づけて論じているが、必ずしも荘子が実存主義として扱っているわけではない。

「それぞれの人間が現実の痛苦と死とに直面して今という時間を生きている事実であり、問題はただ、それぞれの人間が現実の痛苦と死とに直面した今という時間をどのように生きるかである。荘子の哲学はこのような精神の極限状況から出発する」(7)

人間の存在それ自身は善悪の価値批判を超えている。そしてこの世のに必然によって投げ出された自己に対してだけ責任をもてはよい。
荘子の哲学を徹底した現実主義、現世主義をとる。
人間は寄る辺もない孤独を曠野のなかで彷徨している「一匹のこぶた(獣偏に屯)」のようなものだと。
荘子は人間存在をその上限からとらえるのではなく下限からとらえる。人間は生まれながらにして「身体障碍者であり、醜き者、貧し者、虐げられた者である。しかし全ての存在は必然的な理由をもって存在している。人間存在を全宇宙的規模で把握する。

「人間の声明のいとなみは常に一つの有機的な全体であり、そこでは全体を全体としてとらえる叡智が何よりも重要だからである。(17)

抽象的な思考ではなく、どこまでも現実的であり具体的であり、そして全一的である。
曰く、「生命なき秩序よりも生命ある無秩序を愛する。彼らにとって大切なのは理論そのものではなく現実であり、法則そのものではなくて生きることであった。」(18)

2021/04/21

『風と共に去りぬ』第2巻 マーガレット・ミッチェル/鴻巣友季子訳 新潮文庫

南北戦争勃発とアトランタの荒廃、そして南部の敗北。
かなーりおもしろい。スカーレットの自己中心さが暗い話に花を添える。
本書では南部の武器の貧しさが書かている。北部では最新式のライフル銃なのにもかかわらず、南部ではマスケット銃だったり。バトラー曰く、南部には戦争するにも武器は綿花と傲慢さしかないとか(16)、ひどい言われよう。医療品もなく、軍需物資もない。食料は先細りしていき、アトランタでの生活も日増しに悪化していく。

スカーレットはメアリーに内緒でアシュリーの手紙を読むが、興味があるのはアシュリーが事細かに書いてくる戦争の状況や戦争のバカさ加減ではなく、あくまでもアシュリーのメアリーへの愛の言葉だとかそんなことばっかり。
しかも戦争がまだアトランタから遠いときは、スカーレットはその状況を歓迎し楽しんでいた。戦争は人を享楽的にするし平時のような礼儀作法もすっとばすものがあるようだ。看護しながらスカーレットは傷病兵に色目を使う。

レットは完璧なまでにリアリストで、ミード医師との言い争いでは、

「戦争というのはいずれも神聖なものでしょう。戦いに出される人々にとってもは。もし戦争を始めた人たちが神聖化しなければ、どこの馬鹿がわざわざ戦いにいきます? しかしながら、闘う阿呆たちに演説屋がどんな掛け声をかけようと、戦争にどんな気高い目的を付与しようと、戦争をする理由はひとつしかありません。それは、金です。」(55)

んーこのあたりもこの小説が単純な戦争ロマンティシズムを描いているわけではないがよくわかる。
本書が出版されたのが1936年、まだまだイギリス、フランスがドイツに宣戦布告するまであと三年、日本の真珠湾攻撃までまだ五年ある。アメリカにおける戦争忌避がけっこう率直に書かれているのかもしれない。
メアリーなんかもバトラーの味方をする。アシュリーが不毛な戦争だと言っていたことなんかを述べたりする。メアリーは大義だとかを信じている割には、こんなことを言う。なかなか複雑な人間のようだ。
アシュリーもバトラーも良識があるが、違いはバトラーはリアリストであるが、アシュリーは現実に苦悩するタイプであることだ。

バトラーの台詞がいい。スカーレットが帽子の代金を少しばかりだそうとすると、
「頂いたところで、どぶに捨ているようなものですよ。あなたの魂のためを思えば、そのぶんの丘ねでミサをしてもらってはいかがです。あなたの魂は何度かミサの必要があるんじゃないかな」(85)
スカーレットは、バトラーの言葉にいちいち魅力を感じ、反発を感じる。でも最終的にはキスしちゃう。
「愛人ですって! 愛人なんて、子どもをぞろぞろ生んでおしまいじゃないの!」(291)
ひどい。スカーレットの子供に対する態度はひどい。ウェイドにも愛情を感じていないし、むしろメラニーが子供を生んだときに抱きながら、アシュリーの子供ということで自分の子供だったらよかったのにとまで思ってしまう。

アシュリーのつかの間の帰還のとき、スカーレットは再び愛の告白をする。アシュリーは節度を守る範囲でスカーレットの愛を受けとめる。

戦争は日増しに悪化していき、スカーレットの幼馴染たちも死んでいく。すでにあの頃には戻れないような状況になっている。老兵たちまでもが駆り出され、死んでいく。
アトランタ脱出のとき、ようやくプリシーが活躍する。プリシーがなかなかな狂言回しでいい。スカーレットに急かされなきゃ、のろのろと動くし、基本的にやる気がない感じ。
バトラーは老いた馬をくすねてきて、それでスカーレット、メラニー、メラニーの赤ん坊にウェイド、そしてプリシーをのせて逃げようとする。途中、少年兵がふらふらと崩れ落ち、その少年を他の兵が肩で担ぎ上げて歩き出そうとすると、少年はおろせと怒りだす。その光景をみてバトラーは変わる。スカーレットたちをタラへ連れて返すつもりだったが、軍に入隊するといってスカーレットに後は任せて去ってしまう。
アトランタでまだ平和だったとき、北西の方角にあらわれた黒雲はみるみる大きくなって強い嵐となり、スカーレットの世界をなぎ倒し、彼女の生活を吹き飛ばした。
「〈タラ〉は無事だろうか? それとも、ジョージアを席捲した風と共に去ったのだろうか?」(414)
「風と共に去りぬ」のタイトルは19世紀のイギリス詩人アーネスト・ダウスンの詩「シナラ」からとられているという。

スカーレットはなんとかタラに着く。そして母が死に、父は憔悴して、妹たちは腸チフス、奴隷はマミーとディルシー、ポーク以外みんな逃げた。
スカーレットはなんだかんだで責任感があり、アシュリーとの約束は守るし、タラに残されている家族や奴隷たちを背負うことを決心する。
「子どもとして大切にしてもらえるのも、今夜が最後になるだろう。スカーレットは大人の女になった。青春時代はもうおしまいだ。ええ、そうよ、父方の親族にも母方の存続にも頼るわけにはいかない。頼るものすか。オハラ家の人間は他人の情けを受けたりしない。オア原家の人間は自律して生きていく。自分の重荷は自分で背負う。」(466)
ジェラルドはスカーレットにかつて言ったように、スカーレットは赤土の土地タラで生まれ、養分を吸い上げ、留まるのが運命となった。

2021/04/20

『ソークラテースの思い出』 クセノフォーン/佐々木理 訳 岩波文庫

やはり詭弁を弄しているとしか思えないこともない。
これを読むとプラトンの初期の著作は、けっこうソクラテスの言葉を正直に伝えているのではないかと思えてくる。クセノフォンの描く対話、勇気について、正義についてなど、プラトンのものとあまりかわらない。
「国家」にいたると、おそらくはプラトンの考えが相当色濃く入るようになっているようだ。
いずれにせよ、プラトンがソクラテスに見いだす哲学、クセノフォンがソクラテスに見いだしたものは、同じものだったと思われ、しかし時間が経つにつれ、プラトンは抽象的な物言いをするようになっていく、といった感じか。

「世間の人々は世間一般の人が知らぬことについてあやまつ人間を気狂いとは呼ばず、大多数の人が知っていることに間違いを犯す人間を気狂いと呼ぶのであった。」(152)

「小さいことに間違いをする人は狂気とは思わない、けれども、強度の願望を愛念と呼ぶごとく、大きい迷妄を人は狂気と呼んだのであった。」(153)

「彼はまた「よい食事で暮す」euocheisthaiという言葉はアテーナイ語ではただ「食べる」の意味になっていると言っていた。そしてここの「よい」euは、精神も身体も苦しめることがなく、かつ手に入れることのむずかしくないところの食べ物を、食べる意味で付け加えてあるのだと言った。こうして彼は「よい食事をする」の語もまた、節制ある生活をする人々のことに、用いたのである。」(174)

エウテュデーモスとのやりとり。ソクラテスは自分の優れた気質に自惚れているエウテュデーモスを笑いものにす。(178) 誰かに何かを習うことを避けて、自らの心に湧いてくることに従うよう勧めるエウテュデーモス。対してソクラテスは医術を持ちだして、エウテュデーモスがもし誰かからも何も医術を学ばず、頭に浮かんできたとおりに医術をしたい、実験台になってくれと言っている、と言ってエウテュデーモスを笑いものにする。

エウテュデーモスとソクラテスのやりとりで、正義と不正についてを論じている箇所がある。(184)。

「無自制は飢えも渇きも肉欲も眠気も、これを我慢することを許さない、ところがこれができてこそうまく食い、うまく飲み、性愛も心地よく、休息も睡眠もはじめてたのしいのであり、よく待ちよくがまんしてこそ、それらにひそむかぎりの最大の快味が生まれるのであって、無自制はもっとも本然の、もっとも継続的な快楽を、真正に楽しむことを妨げるのである。ただ自制のみが、よく上述のことをがまんせしめて、ひとり上述のことにおいて言うに足る快味を楽しませるのだ。」(216)
ソクラテスは自制こそ快楽の活用で重要であると述べ、ここからさらに、自己修養、家政の切り盛り、友人関係、そして国家運営、戦争など、あらゆるこに楽しむことの本質をここでは説く。


2021/04/18

『社会心理学講義――〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉』 小坂井敏晶 筑摩選書

んーいい感んじ。
「理論の正しさを確かめるために実験をするのだと普通信じられていますが、その発想自体がつまらない。逆に、理論の不備を露わにすることで、慣れ親しんだ世界像を破戒し、その衝撃から、さらに斬新な理論が生まれるきっかけを提出することこそが実験に本来きたいされるべき役割です。」(51)

「科学とは実証である前に、まず理論的絞殺です。」(51)というのはなかなかな至言であります。

本線とは異なるが、先進国欧米というのはやはり虚構ですね。『責任という虚構』でもいろいろ書かれていて、フランスのウトロー事件にしろ、フランスではホメオパシーは保険適用だったり、というのも保険が効かなくなれば、もっとやばい代替医療に走り、全体の健康を害する可能性があるからという合理的な判断だとか、まあおもしろい。さらにフランスでは最近まで再審請求ができなかったとか。その理由が市民の意志が真理だからだとか。フランス革命からの伝統だとか、EUになって喧々諤々の議論があったとゆう。おっもしろーい。

下記はメモ。

ふつう相関関係と因果関係は違うことは重要なこととして知られているが、実際のところこの二つを明確に分けることができるのか。

ピグマリオン効果

同じ刺激にたいして各個人は違った現れ方がする。これを態度概念。

フロイトのエスについて。
意識の単なる欠如としての前意識ではなく、無意識を一種の意識の近接概念として位置づけている。それは意識に対して力動的関係を保ちつつ機能する、質的に異なったもう一つの能動的契機として無意識は理解される。
無意識とエスは自我とは別の存在者であり、我々の知らないところで操る他者。

認知不協和理論について。
報酬が高額だと嘘をつくことに大きな矛盾がない! 報酬額が高い場合よりも低い方が、行った作業をより楽しく感じると。
ある教団でお告げがはずれるとき、孤立状態の人はそのまま教団をさるが、集団でそのお告げが外れたことをわかると、周りに影響されて、さらに布教活動を始めたり、信者を増やそうとする。というのも認知不協和の低減がはかれるから。
フェスティンガーは、ここで「維持」を説明するために認知不協和理論を用いている。つまりこの理論は集団維持の理論。
外部の環境が行動を促し、意識ではその行動を正当化する、適応させていく。

個人主義的とは、外部情報に依存しても、その事実に無自覚だという意味にすぎません。何らかの行為を行った後で、「何故このような行動をとったのか」と自問する時に、個人主義者ほど自らの心の内部に原因があったのだとろうと内省し、自らの行動に強い責任を感じやすい。そのため行動と意識との間の矛盾を緩和しようと自らの意見を無意識に変更する。こうして個人主義者こそ、強制された行為を自己正当化しやすい、したがって認知不協和をかんわするために意見を変えるという逆説的な結論が導かれます。」(194)

普遍主義の立場は現実に差異があっても、それを本質的なものではない見なされる。この時認知環境では差異化が充分に働かず、他者がいかなる価値観をもっているかは、自分の自己同一性を脅かさない。

他民族。多文化主義ではは、外部と内部で境界があり、両者の誘導は阻止されるが、外部においては馴致される。(212)
これはおもしろ指摘ですね。

多数派からの影響は受けやすく同調していくが、多数派の影響がなくなると同調をやめていく。しかし社会は多数派に影響受けない事には成り立たない。

しかし少数はの影響というものがある。これは無意識に影響を受け、知らずに自らの行動や考えを変えていく。権力や権威への追従は長く継続させるのは難しい。少数派の影響は、「自ら自分の考えを変えた」と意識するところが違うわけだ。

「社会が閉じた系ならば、そこに発生する意見・価値観の正否はシステム内部の論理だけで決められます。規範に反する少数派の考えは否定され、多数派に吸収される。これが機能主義モデルです。それに対し発生モデルは開かれた系として社会を捉えます。システムの論理だけでは正否を決定されない攪乱要素がシステム内に必ず発生する。攪乱要因は社会の既存規範に吸収されず、社会の構造を変革してゆく。これがモスコヴィッシ理論の哲学です。」(264)

「犯罪の原因を社会の機能不全に求め、共同体内の利害調整が失敗する結果として犯罪を捉える限り、自由虚構と社会維持装置とが構成するダイナミックな循環プロセスは析出されない。悪い出来事は悪い原因から生ずるという思い込みが、そもそも誤りです。社会がうまく機能しないから犯罪などの悪い出来事が起きるのではない。社会が正常に機能するから、必然的に問題が起きるのです。

「日本は支配されなかったにもかかわらず、西洋化したのではない。逆に、支配されなかったからこそ、西洋の価値を受け入れた。日本の社会は閉ざされているにもかかわらず、文化が開くのではない。逆に社会が閉ざされてるからこそ、文化が開く。」(341)

同一性は変化に気づかなければその同一性は維持される。

「未来予測を不可能にする要素、あるいは不確実性の厳選、これが時間の本質です。」(377)

「いかし人文・社会科学の世界では新しい発見など、そうありません。……人文・社会科学はなんにも役に立ちません。しかしそれでよいではありませんか。……どうせ人文・社会科学を勉強しても世界の問題は解決しません。自分が少しでも納得するために我々は考える。それ以外のことは誰にもできません。社会を少しでも良くしたい、人々の幸せに貢献したいから哲学を学ぶ、社会学や心理学を研究すると宣う人がいます。正気なのかと私は思います。そんな素朴な無知や傲慢あるいは偽善が私には信じられません」(392-393)

2021/04/17

『増補 責任という虚構』 小坂井敏晶 ちくま学芸文庫

んーおもしろいですねー、自由があるから責任があるんではなくて、責任や罰を誰かに帰さなけれならないから自由がつくられる。
人権、自由、責任なんてのは、いまさらながら虚構ではあるが、この社会はこの虚構で成り立っている。いわゆる社会構成主義の立場。
以下はメモ程度の書きなぐり。かなり脈絡なくまとまている。

小坂井氏は人間を「外来要素の沈殿物」だという。いつ、どこで、だれが親でかは選べずに人間は生まれる。
意識は行動の原因ではなく、行動を正当化する機能をもつ。行動が意識をかたちづくる。
ベンジャミン・リベットの研究が紹介されている。

そもそも責任概念を支える自律的人間像がいかに脆弱であるか、社会心理学の実験から明らかになっていく。

分業社会は近代社会にとって必要なことではあるが、これによって、自分自身が何かに加担しているという感覚が薄らいでしまう。組織が行う全体的な行動が各人では見えにくくなり、残虐行為が可能になっていく。通常、人が人を苦しめることや殺すことはかなりストレスがあるが、分業はこのストレスを緩和していく。
ユダヤ人の拷問や強姦に多くのドイツ人は苦しむケースがあった。指導層はこのストレスの緩和のため、ヒューマニズムの観点から虐殺のストレスを緩和すべく、効率的で合理的な殺害方法をつくりだしていく。
ここから導かれるのは、反ユダヤ主義がホロコーストの原因というのではなく、虐殺の結果が反ユダヤ主義であるかもしれないということだ。
ホロコーストの分業体制と現在の日本の死刑制度の類似点も論じている。
ぼくは死刑制度に賛成ではあるのだけれど、本書を読んでみて、んーたしかに全て隠されているなかで、自ら手をください卑劣さを見いだしてしまった。
ぼくは死刑制度は、抑止効果とは考えておらず、たんに報復措置として捉えている。
まあそれはいい。
責任を因果関係で理解すると、責任と運の両概念が相容れない。もし自分がナチスドイツの政権下で生まれた場合、はたして自分はどうだっただろうと考える。正しい行為を選択できたのか。道徳状況が運命に任されていく。これは不合理だ。責任とは自由であるから発生するもののはずだからだ。
責任概念と因果関係は論理矛盾を抱える。(230)
1 自らの行為に対して道徳的責任を負うのが、行為者自信が当該行為の原因をなす場合である。
2 だが、どんな存在も自らの原因ではありえない。
3 したがってどんな存在も責任を負えない。
犯罪の原因は何なのかという発想自体に問題あるという。行為者は行為の最終原因と見なされ、行為者を超えて因果関係を遡らない。なぜか因果関係は無限に続くからだ。

行為とは「する」ことだけでなく「しない」ことも行為であるはずだ。
しかし「しない」は意志がないことではあるが、「殺さない」という場合は意志があるということでもある。
意志と行為のあいだにの因果性ではなくて、意志と責任を負うべきあいだの因果性が「自由による因果律」となる。「事後的に「その行為の原因として(過去の)意志を構成するのだ」(234、中島義道孫引き)
意志は行為の原因として認められる、これが近代的発想の誤謬である。意志がの有無は原因になりえない。それでは意志と願望の区別はなにか。それは行為が起きた事実しかない。

「自由だから責任が発生するのではない。百に我々は責任者を見つけなければならないから、つまり事件のけじめをつける必要があるから行為者を自由だと社会が宣言するのである。自由は責任のための必要条件ではなく逆に、因果論で責任概念を定立する結果、論理的に要請される社会的虚構に他ならない」(244)

社会規範は集団の相互作用によって生みだされる。超越論的な何かが支えているものではない。我々が非難する行為が悪と呼ばれる。
小坂井氏は犯罪は多様性の同意語だという(258)。逸脱行為は社会でかならず生じる。均一性が高ければ逸脱行為は減少し、多様性が高まれば逸脱行為が増加する。
ゆえに「正常な社会現象として犯罪を把握するとはどういう意味か。犯罪は遺憾だが、人間の性質が度し難く邪悪なために不可避的に生ずる現象だと主張するだけに止まらない。それは犯罪が社会の健全さを保証するバロメーターであり、健全な社会に欠かせない要素だという断言でもある(258、デゥルケーム孫引き)
小さな逸脱行為に敏感になる共同体では、些細な逸脱が犯罪の烙印をおしていく。

集団犯罪を社会が糾弾する一方で、しばしば犯罪者当人は責任を自覚しない。
なぜか。
近代的意味での道徳責任主体に集団はありえない。例えば日本の戦争責任を認めとという場合でも否認する場合でも同じ論理の誤りを犯している。
個人に責任を還元するならば、道徳的意味での集団責任は無駄な概念だ。しかし集団に主体概念を認めるかどうかが問題となる。国家の場合は論理が違うのでおくとして、集団として民族の責任はありえるのか。
小坂井氏はここで責任が「気軽さ」もって集団に認められてきたことを指摘する。イギリスの植民地、アメリカの先住民、トルコのアルメニア人の虐殺、これらが「気軽に」認められてきた。
責任は因果関係によって意味をもつ。しかし、現代に日本人と第二次世界大戦時の日本人では因果関係が認められない。

そこで同一化が問題となる。
責任の感覚は心理的同一化に依存する。不断の同一化という虚構が、集団的責任をもたらす。
動物や植物を裁判にかけていた時代がある。また当人だけでなく家族や部族全体を処罰対象になったこともある。後者は現代でもある。
それは現代が責任を自由に結びつけているからだ。因果関係をもとめることが原因となる。

犯罪者が捌かれるのは端的に言えば行為者が目立つからにすぎない。犯人と犯罪が密接に結びつきやすい。「責任と罰は表裏一体の概念をなす。責任があるから罰せられるのではなく、逆に書っ罰が責任の本質をなす」(296)
社会を安定させるために「けじめ」が必要で、責任のつじつま合わせで精神科医や臨床心理学者が起用される。
動機は本当に存在するのか。小坂井氏は犯罪時の記憶が物語として創られていくという。このあたり興味がある。
正義という信仰は人に正当化を与える。天は理由なく賞罰を与えない、徳をなせば必ず報われる、このような信仰で他者の不幸が正当化されていく。
データを解釈、判断することで、正しい戦略がなされるかというとそうではない。ある個人がデーターから下した判断が後に誤りだとわかったとしても、すでにその言説は再生産をされ個人の手から離れ集団行為へと移っていく。誤りだとわかっていてもすでに時は遅い。それが集団行為というものとなる。
なかなか興味深い。実体はよくしらないが北欧では快適な牢獄ライフが犯罪者には待っていて、しかも再犯率が低いという。ぼくはこの件をはじめてしったとき、ある種の嫌悪感みたいのを覚えた。やはり犯罪者はたとえ再犯率が高くなろうとも罰を受けるべきだと。しかし、頭の片隅には犯罪とは何かという疑問をもった。んーたしかに責任が虚構であるならば、北欧の刑務所は新しいパラダイムを開いているのかもしれない。

道徳も法も根拠なんかない。根拠をもとめてもそれは虚構でしかない。しかしその虚構を社会は必要としている。そしてこの虚構に従わせるために暴力が必要となる。
個人への制限は政治思想において、必要なものではあるが、捉え方が異なる。ホッブズは必要悪としてみているが、ルソーにいたっては一般意思によって住民を従わせ真の自由を獲得する。市民の利益はそのまま個人の利益となると考えている。

正義論の無知のヴェールについても簡単に触れているが、これは小坂井氏の言うとおりだ。無知のヴェールをルソーの一般意思と同じものとして考えていいという。そりゃそうだ。
遺伝、遺産、能力は個人差があるが、ロールズはそれを失くす必要はないと考える。これらの個人差は個人の責任ではないが、格差をつけることで社会の生産力は向上する。そうすれば下層の人々も必然的に生活があがる。自由と機会が平等に与えられさえすればよいとロールズは考えている。
しかし、人間はそこまで単純ではない。人間は妬む。だから階級闘争がおこる。また平等になればなるほど不満も増大する。
自由が前提の社会では、平等に機会を与えられても、能力は平等ではない。故に下層の人はこの能力差を自分の責任として引き受けがちになる。
ロールズの公正さは、誰もが納得するものであるべきとするが、しかしそれによって格差を是認することになる。しかも現実の世界ではロールズのような仏は存在しない。
人間の悲しさは、近い所得や近い能力の人間たいして強い羨望を抱くことだ。天才に対しては諦めがつくが、近い存在にたいして妬みをもつ。

万人が競争することが自由で平等な社会であると錯覚するが、それは階級を分けていた境界がなくなったことを意味しているわけではない。不平等が常識であれば、上昇志向がなくなるので、不平等に気づかない。平等であるべきという考えが不満をおこす。
ロールズの場合は格差を無能な自分のせいとなる。それはロールズの示すシステムがそうさせる。だがロールズが劣等感をもつことはない、それは本人の責任ではないからだといいう。しかし自由が担保されているにもかかわらず責任がないとはこれ如何に。

「人間が営む夥しい相互作用から生成される集団現象が人間から遊離し、<外部>として現前するおかげで根拠が構成される。真善美は集団性の同意語だ。無から根拠が生まれる錬金術がここにある。神のような超越的存在を斥けながら同時に遺伝子や物質的所与への還元主義をも否定した上で、それでも人間世界に意味が現れる可能性をこの認識論が保証する」(385)
そしてこの無根拠なこと、全くの恣意性は隠蔽される。
因果関係は社会制度が作り出す表象である。(402)
「近代は自由と平等をもたらしたのではない。格差を正当化する理屈が代わっただけだ。自由に選んだ人生だから貧富の差に甘んじるのではない。逆だ。貧富の差を正当化する必要があるから、人間は自由だと近代が宣言する。努力しない者の不幸は自業自得だち宣言する。……近代は神という外部を消し去った後、自由意志なる虚構を捏造して原因や根拠の内部化を目論む。その結果、自己責任を問う脅迫観念が登場する。」(419)
そして、
「構成主義の最も重要な功績は、世界の恣意性の暴露ではない。恣意性が隠蔽される事実の認定だ。」(435)

2021/04/16

『風と共に去りぬ』 第1巻 マーガット・ミッチェル/鴻巣友李子訳 新潮文庫

滅法面白い。
スカーレットが無教養な箇所の描写なんかもよくって、バーベキューでレット・バトラー初登場の際にアシュリーがバトラーを評して、ボルジアみたいな人だというけど、スカーレットはなんだかわからない。それにチャールズは嘘だろこいつ的に飯能するが、無教養を装っているのかもしれない、淑女のたしなみ、みたいに勘違いしたりする。
スカーレットは、周りの女たちを見下しているから、同性の友人がいない。そして男たちを誑かすことに喜びを見いだし、結婚する気もないのにインディアに入れ込んでいたスチュアートを落したりする。自分がどう見られ、人をどう扱えば自分に好意を与えてくれるかが完全にわかっている人間として描かれている。
第1巻では、スカーレットの失恋と、自暴自棄のチャールズとの結婚、そして夫の死。この死も滑稽で戦死ではなくて病死。ひどい。さらにひどいのがチャールズとの子供をじゃけんにしているこっと。アトランタでの日々でバザーでレット・バトラーとの再開。
このバトラーとの再開は素晴らしい。バトラーの魅力はよくわかる。無頼で正義なんて信じていなくって、金儲け主義者と思わせるが、どこか筋の通っており、なにか真理めいたものを持っている人間。アシュリーやメラニーは逆にどこか偽善を感じるわけで。
「ほかの女性たちは結局なにも考えずに、郷土愛だ大義だと言って騒いでいるだけなのではないか。男性たちも死活問題だ州権だと騒いでいて、同じく目もあてられない」(380)
そしてスカーレット自分自身だけが良識をもっていると思っている。
スカーレットは男性にせよ女性にせよ、たらし込む術をよく心得ていて、そのういうときは謙虚を装うこともできる。
アトランタに来て、スカーレットは<タラ>の赤土を懐かしんだりする。結局、ジェラルドが言ったようにスカーレットは<タラ>しかないのだと言った感じ。
バザーでメラニーを含めて皆が大義だとかを口にしているなかでスカーレットだけが冷めて周囲をバカにしている。スカーレットは傷病病院での仕事に嫌気がさしていたが、メラニーは天使のように看病をしている。このあたりスカーレットが悪女のように思わされるが、逆にメラニーの態度が逆に何か奇妙なものを思わされるなにかがある。それは偽善の溢れる世の中で象徴であるかのように。
メラニーもピティ叔母もスカーレットを誤解している。
スカーレットが指輪を寄付するところなんかも、ストーリテラー的な感じで読ませるおもしろさ。で、バトラーがメラニーの指輪だけを買い戻してあげるなんかも、よくできている。
スカーレットとレット・バトラーとの再開でダンスを踊ったことが、<タラ>にまで聞こえ、ジェラルドが連れ戻しにアトランタに来るが、ここのやりとりもいい。スカーレットが泣くのをなだめ、バトラーに会いに言ったと思ったらポーカーで大負けして大いに酔っぱらう。
スカーレットはジェラルドがポーカーで大負けしたことをエレンに黙ってあげるかわりに、<タラ>に戻らなくていいことを約束させる。
ここはなんかお約束事のような展開だが、ジェラルドの滑稽さがよくでていていいし、バトラーの「悪さ」もでていていい。
南部の工業力の脆弱さもきちんと指摘していて、しょせんは綿花王国でしかないみたいな、ことが書かれている。だから北部に負けるのは必然であると。
んーどこかで聞いた話みたい。
素晴らしい小説。各登場人物のキャラがよくできているし、軽快なストーリー運び。
んーいい。

2021/04/07

『ジャックポット』 筒井康隆 新潮社

どうなんでしょうか。最後の「川のほとり」は息子の死を思い書かれているので、きちんとした文章になっている。
しかしその他の作品はすべて言葉遊びを徹底しているものになっている。まあたまーに読む分には楽しめるんだけど、収録されている作品のほとんどが言葉遊びだと、さすがに疲れるし、飽きてくる。
とはいいつつも全体的にはまあまあおもしろかった。80歳超えてもなお新鮮な言葉遊びができて、諧謔をわすれず、アイロニーもある。「ジャックポット」なんかまさにね。コロナの氾濫。
超高齢にもかかわらず今だ若さを感じる文章を書いているので、☆三つ。


2021/04/06

ピアノ・レッスン(1日目)

高校卒業以来、ほとんどピアノを触らずに生きてきて、電子ピアノを、しかも結構いいやつを購入したので、もう一度ピアノを弾こうとと思ったが、全然指が動かないし、楽譜の読み方も忘れてしまっている。
暗譜している曲なんかは、ミスはありつつも弾けるのだが、新しい曲となると指と頭がリンクしていないのか、全然ダメになっていおり、簡単な曲でも初見で弾けなくなってしまった。
なかなか感覚ももどらないから、もう一度初歩からやり直すつもりで、
『バッハ演奏へのアプローチ はじめてのバッハ 「インヴェンション」のまえに』(高木幸三校訂・解説/全音楽譜出版社)
を購入して、まさに初心者としてピアノをやり始めることに。
一曲目は「コラール ヘ長調 (満ち足りて心安らかたれ)(BWV510)」
この曲は「アンナ・マクダレーナ・バッハの音楽帳」からのもので、大バッハの三男のヨハン・ゴットフリート・ベルンハルト・バッハの作かという説があるが、よくわからない模様。
曲そのものは素朴で悪くない。
一発目ということもあり簡単ではあるが、それでも指使いに苦戦するし、間違えずに弾けなかったりと、かつてはショパンのエチュードだって弾けたのに、と悔しい思い。
とりあえず、この曲を1時間ちょいずっと繰り返し弾いていた。どうにか間違えずに弾けるようにはなった。指使いは心許ないが。
練習中、どこかの時点で昔の感覚を取り戻したところがあった。指の動きと打鍵にかつての確かさのようなものを覚えるようになった。その瞬間から、旋律をきちんと把握して弾いている感覚が戻ってきて、身体で覚えていた曲を弾くのとは違うものを感じた。

とりあえず一日目であもあるので、まあこんなところかという感じで終わりにして、明日の課題は、BWV510の復習と二曲目「無題の曲 ヘ長調(BWV Anh131)を練習する。この曲も「アンナ・マクダレーナ・バッハの音楽帳」の一曲で、バッハの作曲ではないようだ。

2021/04/05

『言語の七番目の機能』 ローラン・ビネ/高橋啓訳 東京創元社

デリダとサールが死んじゃう。なんか暗示的ではあるが、よくわからない。デリダは猫を論じていたが犬は論じていないと思う。サールは自殺しちゃうけど、これはなぜだ。
かなり笑える小説となっている。ソレルスが扱いのひどさ、フーコーの王様のような態度と浮世離れした言葉。ポスト構造主義の思想家が勢揃いであるが、ビネはおそらくウンベルト・エーコーのことは好きなよう。
ベルナール・アンリ・レヴィなんかかなり印象悪い感じだ。
アルキビアデスのような若者に始終しゃぶらせているフーコー。
バイヤールとジュディス・バトラー、スピヴァクの3P。
シモンとビアンカの解剖台の上でのマシーンのようなセックス。
いろいろと酷い。
いつおう史実に基づいているが、これらの解釈というかなんというか、それが違ったりする。アルチュセールの妻の絞殺は書類を捨てたことで頭に血が上ってしたことになっている。ボローニャ駅のテロなんかも絡ませている。この事件は詳しく知らない。
他にもクリステヴァがブルガリア人スパイの嫌疑があったこと、傘の柄に仕込んだ暗殺がブルガリア人スパイが実際にやっていたということ、など。

ロラン・バルトの死が1980年3月で、エーコーの『薔薇の名前』も1980年9月。どうも中世普遍論争を大陸哲学と分析哲学の確執とダブらせているようとのこと。
衒学的な文章もエーコーを思わせるものだし、<ロゴス・クラブ>でのバカみたいな議論、ゴシックとクラシックとか、本当にどうでもいい議論が続くが、エーコーはそのクラブのテッペンの人。
ソレルスは負けて陰嚢がちょん切られてしまうし。去勢だ。

言語の七番目の機能とは何か。魔術的機能。
これはよくわからん。でも最後シモンがそれを実行したのは確か。シモンはミッテランの宣伝広報を受け持つようになる。

そういえば読んでてヤコブソンが1980年にはまだ生きていたというのも、そうだったのかとバイヤールだけでなく僕も驚くばかりで、このあたりもビネのふざけているところ。
生きているのに、ヤコブソンの言語学に関する切れ端とかテープとかをみんなで追いかけまわっているのだから。おそらくこれもビネの仕掛けの一つ。ある種の哲学談義の空疎さを揶揄しているとも思える。実在しているものに周辺でなんのかんのと騒いでるだけっていう感じでしょうか。

石田さんのUchronieユークロニーについて指摘がおもしろい。次の著作ではインカ帝国がヨーロッパを支配したら、という話らしい。いいじゃないですか。