2020/03/25

第十四章 信仰とは何か。信仰のある人とはどのような人か。信仰の基礎になることが決められ、最終的に信仰が哲学から切り離される――スピノザ『神学 政治論』

信仰について自分が考えたいように考える自由は一体どこまで及ぶのか。
考えが違ってもまともな信仰を持っている人を尊重するなら、どのような人たちなのか。
そして信仰と哲学を切り離す。
信仰とは、神について何かを思うことであり、その思いの内容はそれを知らないと神に従う気持ちが失われてしまうこと、神に従う気持ちがあるとすれ必ず想定すべきことでなければならない。
そこから次が帰結される。
信仰はそれ自体有益なのではなく、神への服従をもたらす限りで有益である。
そして服従に勤しんている人は、必ず本物の健全信仰を持っていることになる。
さらにまともな信仰が持っているかどうかは、信仰の持ち主の行いによってしか決まらない。
それは次のことを帰結する。
信仰に求められるのは真理にかなった信仰箇条というよりも、むしろ道徳にかなった信仰箇条であるというと。つまりは、真理が少しも反映されていなくても一向にかまわない。
信仰箇条は行いだけに基づいて評価されるべきであり、知っておかないと神に従う事自体が不可能となるような項目に限られる。
ここから決められる信仰箇条は以下となる。
1 神が存在すること。最高の存在であり憐れみ深い存在であること。
2 神はただ一つであること。他よりも優れているなどがあってはならない。
3 神はどこにでも存在すること。
4 神は至高の権利をもって万物を支配しており、何ごとも権利上強制されることなく、ただ無条件の最良や特別な恩恵に基いて行っていること。
5 神への服従とはもっぱら正義と愛、つまり隣人愛を内容としている。
6 服従する人、神に従って生きる人は、みな救われる。
7 人が悔い改めるなら、神はその人の罪を許してくれること。だからこそ人は希望をもてる。
これらの信仰箇条は一人ひとりが自分の理解力にあわせて解釈しなければならない。そして神に全面的に同意して従うようになる。

そして哲学と神学(信仰)の間には全く異なるもので、両者の目的も基礎も違う。
哲学は真理の探求であり、信仰は服従と道徳心となる。
信仰はそれぞれの人に哲学する最高の自由を認めている。

0 件のコメント:

コメントを投稿