2020/03/24

第十三章 聖書は単純きわまりない教えしか説いていないこと、ひとびとを服従させることだけが聖書の狙いであること、そして聖書は神が本来どういうものであるかについては、ひとびとがそれを見習っていきかをの指針にできるようなことしか説いていないことが示される――スピノザ『神学 政治論』

聖書で推奨されている知は、神に従う=隣人を敬うこと。誰でも必要とするような知に限られている。
つまり、それを知らずにいると頑固な不服従か、少なくとも規律を欠いた服従に陥ってしまうような知。
これとは逆にこの点にかかわらない他の知は、神に向かう知であれ自然の物事に向かう知であれ、聖書で問題にはされない。
神を理知的に知ることは服従とは違い信仰と引き換えに誰にでもできることではない。そもそも神は人間に神の属性を知ることを求めてはいない。
神学者たちが神のあり方を比喩的に解釈したりすることを求めるのであれば、聖書は素朴な民衆が理解することは到底できない。
つまり神の正義と愛だけが預言者を通じて求められていることである。
「したがって、考えを行為と無関係に単独で取り上げて、それを道徳的だとか不道徳だとか決めるけることは決して許されない。当人がそお考えによって神への服従[=愛や正義にかなう行為]を促されたり、逆にその考えをお墨付きにして犯罪や反逆を犯したりした場合に限って、そのような考えを道徳的とか不道徳とか言うことができるものだ。ということは、もし信じることで頑なになったら、たとえ進行内容が真実であってもその人の信仰は実は不道徳であり、信じることで逆に従順になったら、たとえ信仰内容が誤っていてもその人の信仰は道徳的なのである。というのも既に示した通り、神を本当に知ることは[誰にでも課せられた]命令ではなく[限られた人にしか与えられない]恩恵だからだ。神がひとびとに求めているのは、ただ神の正義と愛を知ることだけであり、そしてそのような知は学問のためではなく、もっぱら服従のために必要なのである。」

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