2020/04/20

第二十章 自由な国家体制では、誰にでも、考えたいことを考え、考えていることを口にすることが許される、ということが示される――スピノザ『神学 政治論』

自由に考え、判断をくだすのは、自然権であり、他人に譲るものではないし、できない。権力者もその自由を奪えない。
国の究極の目的は、人を恐れから解放し、安全に暮らせるようにし、自然の権利を自分自身た他人に危害を加えないかぎり最大限確保できるようにすることである。
人はそれぞれ考えが異なる。だから平和に暮らすために人は自然の権利を勝手きままに使うことを放棄しなければならない。
だからといって理性を働かせう権利や自分で判断する権利を放棄するわけではない。
ただし人は至高の権力者の取り決めに従う必要がある。よかろうと思っても行動をとらないことは仕方がない。

自由を認めても国の平和や道徳心や至高の権力者の権利は損なわれない。むしをこれらを損ないたくなければ、この自由を認めなければならない。奪おうとすれば必然的に社会が壊れていく。

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自由はどこまで許されるのか。ふわっとしている。まああくまで抽象論だからね。いいでしょう。
書いてある内容は、現代からみればまとも。なぜこれが発禁あつかいになるのか。神=自然とか聖書は道徳の教科書的な発言が冒瀆に値すると。
なるへそですね。

オランダの政治と宗教
17世紀のオランダには連邦制で州の独立性が高かった。しかし、独立戦争の英雄オラニエ公ウィレムが半元首の存在として影響力をもち、この中央集権的色合いが強いのが「総督派」と呼ばれる。対し、連邦内の分権性を確保するのが「議会派」となる。
カルヴァン派の流れの新教各が乱立している状況で、主流派と非主流派に分けれていく。主流派は総督派と結びつきが強かった。議会はは一方の派閥に肩入れすることに慎重だった。というのも彼らの支持基盤が商人であったから。
ただし実際はスピノザの時代、改革派教会主流派はすでに17世紀半ばには国教のような地位にあった。そのためリベラルな議会派が政権を担っていても、教会主流派の考えを無視できなかった。だからスピノザが総督派か議会派かは本質的に問題ではなくなる。
「不寛容な宗教勢力が既に多かれ少なかれ政治権力の中枢部に食い入ってしまっている場合に、思想の自由をどうしたら守り抜けるか」(364、解説)

スピノザは『神学・政治論』を哲学的読者に向けて書いた。それ以外の人は倒錯した解釈をつけて勝手に不愉快がる、というのはなんとも、今も昔も変わらないようで。
解説に書かれているが、議会派率いていたデ・ウィットは失脚して群衆に虐殺されている。
時系列を眺めていると、世相は急転していくのがわかる。自由な雰囲気がいっきに不自由な社会へとなっていく。
世の中、非常にあやういものなんですねー。
だからこそ、自由はつねに大事にしなければならないわけですね。
自由を捨てるぐらいなら死を選ぶ、的な感じのことがこのコロナ狂騒のときにでてこないものかねー。

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