2020/02/25

『アニメーション、折にふれて』高畑勲 岩波書店

高畑さんのつくる映画で一番気になるのが、登場人物の表情。『おもひでぽろぽろ』のシワも、子供のころ、映画館でみたけれど、とってへんな感じがした。
なんとなく気持ち悪い絵だな、と。
年を重ねるごとにその感じもなくなってきて、アニメにおける特殊な表現であることに気づいた。
『おもひでぽろぽろ』では、他のアニメでは見られない口の動きも忘れがたい。きちんとあいうえおを発音しているように見えた。
本書を読んで、高畑さんが日本語の発話について考えて作品を生み出していたの知った。
しかもプレアコということで、先にセリフを録音しているんだと。なるほど、だから地井武男さんが亡くなっても公開には問題なかったのね。

ディズニーの『ピノキオ』が徹頭徹尾客観的に描かれている、という指摘はなるほどと思った。日本のアニメでは、非常に主観的なカットが多い。

本書に『かぐや姫の物語』の企画書の一部が載っていて、それが一番読みたかった。
なぜ高畑さんが『竹取物語』を選んだのか、知りたかったから。
『竹取物語』をここまで真剣に考えていた人がいたのか、と思うくらい。
いつかぐや姫は自分がこの世界の人間ではないと気づいたのか。
なぜかぐや姫は地球に来たのか。
なぜかぐや姫は月に帰らなければならなかったのか。
なぜ最後の最後まで御門の求婚を拒んだのか。
かぐや姫は五人の公達に無理難題をしたのはどうしか。姫は冷淡だったからか。
かぐや姫は月にもこの世界にもどこにも居場所がない。
『竹取物語』自体、ハッピーエンドではない。ハッピーエンドならば、御門の夫人になって云々となる。でも、最後衣を着て、無感覚になり、月に帰ってしまう。
これら「もやもや」を解消するのではなく、そのままに残すこと、それが「物語の出で来はじめの祖」の所以。
高畑さんの『かぐや姫の物語』も、公開当初、これらのなぞや姫の罪と罰が明らかに、とかいう宣伝とかあったが、見てみれば、それらはなぞのまま。
でも、そこに能動的にアニメ作品を鑑賞する機会があって、それが高畑さんの意図でもあるわけで。

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