2020/10/30

『ママ、最後の抱擁――わたしたちに動物の情動がわかるのか』 フランス・ドゥ・ヴァール/柴田裕之訳 紀伊國屋書店

情動とは何か
情動は、私たちは十分に理解できない複雑な世界で舵取りをするのを助ける。情動は、私たちが自分にとって最善のことをするのを確実にする、体なりの手段なのだ。しかも、必要とされる行動をとれるのは身体だけだ。心は単純では役に立たない。周りの世界とかかわりを持つには体を必要とする。情動は、これら三つ、すなわち、心と体と環境の接点なのだ。(114)
ドゥ・ヴァ―ルによる情動(emotion)の定義。
情動とは、当該の生き物にとって意味のある外的刺激によって生じる一時的な状態である。情動は、体と心(脳、ホルモン、筋肉、内臓、心臓、覚醒状態など)における特定の変化を特徴とする。どの情動が引き起こされているかは、その生き物が置かれた状況からも、その生き物の行動の変化と表現からも推測できる。情動と、その結果として生じる行動との間には、一対一の対応関係はなく、情動は個々の経験を環境の評価と組み合わせ、最適の応答ができるようにその生き物に準備させる。(114)
感情は意識的な経験であり、情動の経験を自覚した時にのみ、感情へと変化する。「だから私たちは、情動は示すが、感情については語る」(11)。情動は身体的表現であり、感情は内面にとどまる。
動物行動学のような機能的解釈は、情動を語るのを避ける。ラットが馬やヘビを怖がるという表現は慎むように言われるが、なぜそんな必要があるのか。
共感は中立的な能力だとする。(139) 他者を思いやるにせよ、拷問をして痛めつけるにせよ、この共感という能力は使われる。他者を助ける利他的行動を起こす。
人間は言うほど利己的ではないし、自らを犠牲にしてでも他者を助けることはよくある。

情動の背景にある豊かさと深み
微笑みが「幸せな」顔だと判断されがちだが、微笑みの背景にはもっとずっと豊かな意味がある。他者を喜ばせる必要性や、不安な他者を安心させる意図、歓迎の態度や服従、愉快さなどで、単一の意味を持っているわけではない。微笑みは服従と敵愾心の欠如を表すことから、親愛の合図に変化していった。笑いはくすぐりあいなどの遊びの標識として始まり、絆作りや健全さのシグナル、そして面白さや幸せのシグナルへと変化していった。この二つの表現はしだいに近づき、混ざりあっている。
「自分のよからぬ振る舞いについて後ろめたく感じると言って謝罪する人のも、私はいつも納得いくわけではない。むしろ私は、無言の後ろめたさの「ほうが好ましいと思う。」(205)
へーと思うのが、海外でも偽りの涙や、謝罪の形式というものがあって、有名人の謝罪なんかはこの「非謝罪」「偽謝罪」を使うようだ。んー人間は普遍的だね。
「嫌悪」という情動は、文化的現象が背景にあり、後天的なものと扱われることもある。虫、排泄物に対する嫌悪だけではなく、道徳的な嫌悪も同じで、近親相関や詐欺などに対する嫌悪もそうだが、しかし動物も人間と同じように

動物への不当なまなざし
動物、特に哺乳類、類人猿は、人間と近い情動を表す。同一ではないかもしれないが、人間が使う表現で表すことはできる。動物はこれらの情動に沿って、返礼、復讐、赦し、そして未来を予期することもする。犬だって何かを「期待」して行動をしている。
人間と動物にはそれぞれ」異なる言葉が使われる。「自負」と「優位性」、「恥じる」と「服従」あるいは「下位者」など。動物を語る差異、機能にかかわる言葉を使い行動の背後に感情がることを意図して無視する。
行動心理学からすると「愛」は否定され、そこには生殖だけを問題にし、動物が自負を見せれば、それは単なる自己顕示だと言う。生物学ではこれを「分析レベルの混同」として知られているようで、
情動が行動の背後にある同期にかかわるものであるのに対して、結果は行動の機能にかかわる。両者は切っても切れない間柄にある。どんな行動も、動機と機能の両方を特徴としている。私たち人間は、愛するとともに生殖もする。自負を感じるとともに相手を畏怖させもする。渇きを覚えるとともに水を飲みもする。恐れるとともに自分を守りもする。嫌悪を感じるとともに体を清潔にする。(224)
チンパンジーの母親が自分の子を他人に奪われたとき、母親は関心がないふりをする。へたに奪った者を追いかけたりすれば赤ん坊に危険が及ぶことを知っているからだ。だからあえて無関心を装ったり、冷静さを保つ。しかし子供を取り返すと、奪った者たちを力いっぱい威嚇し怒りを発散させる。ここにも情動の抑制がみられるし、そして物事の対応へのある種の「合理性」を見出すことができる。

現代社会では受け入れられるか
現在では人間の社会構造を分析し、それを肯定することは、道徳的に批判を受けることになりかねない。例えば、会社で上司にゴマをすったりぐらいならまだいいが、部下が上司に気を使ったり、上司の顔色を読んだり、上司が気に入った人物を特別扱いしたなどなどはは、「閉鎖的」とか言われるが、人間特有の特質ではなく、動物も構造は異なるにせよ、持ち合わせている。こういう現象は、人間が特別な存在ではなく、動物一般に見られ、人間が動物であることの証拠である。
権力はいかなる人間関係の間にも存在する網の目のような力関係であり、人はそれから決して逃れられない。
そして人間の社会は、整然として見えるが、規則を守らない者には刑罰と強制によってなりたっている。「人間であれ動物であれ、結果を考えずに情動に屈することほど愚かな行動はない」(52)。動物は機械のような生き物ではない。自らの情動を抑えて行動をしている。食べ物を狙うときだって、情動の従って闇雲に襲うことはないのもその証左となる。
つまりは、人間社会というものの悲しい現実に直面せざるを得なく、またそれは必然でもあるという悲しさ。
だからといって、よりよい社会、よりよい人間関係を目指しても無駄だということではなく、人間社会の不平等や不寛容を批判する際に、フェミニズムや合理的・理性的思考をもって批判すること自体が無効化されていくと思われる。
さらに、ある種のタブーも書かれている。
ボノボの研究で孤児となった子供は、共感能力を著しく損なわれるということがわかったようだ。母親とともに育った場合情動のコントロールがうまく、調整することを知っている。孤児の場合、自分の情動の波をどう処理していいのか、難しいようだ。そして孤児のボノボは他者を気遣ったり、慰める行動は少ない。
これを人間社会でもそうなのではないかとして研究をすること自体が難しく、結果がでてもそれを公表しずらい時代でもある。しかし動物を対象にしていれば、雄弁にも語られる。

哲学は有効なのか
「文明は何か外部にある力ではなく、私たちそのものだ。」(261)霊長類は社会生活とは切っても切れないものであり、文化が社会を構成するのではない。生物学的特質と社会は密接に関係しあっている。
猿たちは、自分のご褒美と他のサルのご褒美の比較をし、それに満足や不満足を示す。つまり猿たちも他者を観察し、見積り、比較している。人間だけでなく猿たちも相対的な世界で生きている。ロールズへの批判として、正義の原理は嫉妬とは無縁の人びとが選ぶべきものとしており、そうするある矛盾に行きつく。つまり嫉妬のない世界であれば、公平さに配慮する必要がないからだ。ロールズのような合理的な議論は、道徳原理が情動から力を得ていることを無視している。(290)むしろこの情動の存在を認めて社会を構築していくべきだ。
哲学では、贈与や負債などの概念が、人間に特有のものとして展開されるが、「おもいやり
」や「後ろめたさ」といった情動が動物にもあるのなら、宗教や社会制度によって構築されていったとされるこれらの概念が危うい状況になるかと思う。
ということで次にアガンベン『オプス・デイ』を読むことにする。

2020/10/24

『イワンのばか』 トルストイ/金子幸彦訳 岩波少年文庫

「イワンのばか」の話は、そらくは小学生か中学生ぶり。そういえばこういう話だったなーと思い出に耽る。トルストイ先生は、やはり根っからのヒューマニストである。一生懸命に、手にタコができながら、畑を耕して働く人間の尊さと書く。
そもそも本書に収められている「カフカースのとりこ」を読むために本書を繙いた。
当時から、ロシア人とチェチェン人はいがみあっていたようですね。トルストイは特にタタール人を悪くは書いていない。
最後に
「これがぼくの帰郷と結婚だったのさ! いや、二つとも、ぼくには縁がなかったようだね。」
と言って、カフカースで任務を全うしたと終えている。
これはどういう意味なのか。
この話は、他の短篇とは異なり、あまり人生論や道徳を語っていない。主人公のイワンが帰郷途中にタタール人に捕まり、タタール人と仲良くもなりつつ、逃げるための準備をする。一回目は失敗するが、二回目タタール人の少女ジーリンの助けもあり成功する。
トルストイはタタール人の村のある老人が、家族を殺されたことでロシア人を憎んいると書く。

2020/10/23

『阿片王――満州の夜と霧』 佐野眞一 新潮文庫

里見甫や満州国の阿片金脈を知りたかったが、悪い意味で期待を裏切っる。里見よりも愛人関係や周辺の人物のことばかりであり、おそらくは佐野眞一は群像劇を狙ったのかもしれないが、失敗している。梅村うた、淳の複雑怪奇な家系図や人生に相当なページを割き、満州国の蠱惑的雰囲気をだそうとしているが、ぼくは失敗していると思う。
梅村うたと多彩な政界、財界人との交流は、どうみても誇張しすぎとしか言いようがない。ノンフィクションとして焦点を合わせて、満州裏面史としては、まあそういう人生もあるというだけで、それが歴史とどう結びつくのかが不明瞭であり、かつ強引すぎる。時代にほんろうされたというならわかるが。それに梅村淳についても、はっきりいって消化不良であり、淳が満州で阿片の運び屋をしていたというが、その具体的な方法やどう関わっていたのかが書かれていない。淳がどれほど里見にとって重要な人物であったのかもわからず。
がっかりしたのが、満州国が阿片王国であったことは、興味がある人にはすでに知っていることだが、その莫大な阿片が満州国の繁栄にどのように使われ、そして日中戦争を戦ってきたのかもよくわからない。東條英樹と阿片についても、とっても重要なことなのにあっさりしか触れていない。
そして、佐野眞一だけではないのだが、ノンフィクション作家の癖というか習性なのか、関係があるのかどうかわからない人間関係が網羅されていて、はっきりいって何がなにやらわからなくなる。吉野作造の弟である吉野信次が梅村うたとアメリカで出会っていたことや湯崗子のホテルから日本に期間したあとに会いにいった話など、これって本当に書くべきことなのか。だから何だというしかない。取材過程を書くのはいいが、吉野信次と知り合いだったから何なのだ。こういう小枝が多すぎて、結局だから何なんだという感想が浮かぶのみ。
多くの点で不満足すぎる。満州の壮大な実験が戦後日本の高度成長期を実現させたとかなんとか。半分は本当だと思う。前間孝則氏の『亜細亜新幹線 幻の東京発北京行き超特急』あたりでは、佐野がちょろっとしか触れていない特急「あじあ号」について詳細がわかるし、そして新幹線との関係が語られている。

収穫といえば、里見が中国との和平工作を動いていたという記述で、太平天国の乱を鎮圧した曾国藩の末裔である老三爺を介して蒋介石、毛沢東と交渉をすすめようとしていたらしい。
その条件が
1 日本の即刻内閣の総辞職
2 満州国、そして権益を含め、手放すこと
3 台湾の後協議
4 以上の条件がのめない場合、日本は首都を長春に遷都して、徹底抗戦をする。
これらの条件について、よく意味がわからない。とくになぜ1辞職をせねばならないのか、そして満州を手放す云々であればポツダム宣言と一緒であり、当時の鈴木貫太郎首相が勝手に内閣に内緒で根回ししたとは思えない。3はいいとしても4はあまりに荒唐無稽すぎる。おそらく里見も個人の意見として中国との和平を望んでいただろうし、そのためにどうすればいいかという考えもあっただろう。具体的に動いていたのかどうかまではわからないようだし、ソ連の参戦でおじゃんになったという。
ここでも佐野はあまりに深くこのことを突っ込まない。なぜ里見は以上の条件を提示できると考えたのか。ポツダム宣言を里見は知らなかったにせよ、上記の条件で日本政府が動くわけがない。
満州国通信社について、宏済善堂について、里見機関について、すべて中途半端。
満州国通信社を作った里見がなにをこの会社でなしていたのか、そして里見機関がどのような組織で、阿片の売買のルートなども靄っとさせたまま。結局はわからないというのが正直なところだろう。資料だって残っていないのだし。
結局、満州国と里見の関係は暴かれることなく、里見の阿片王たる所以もわからず、たんに里見の女性関係と、里見が笹川良一や児玉誉士夫などの金の亡者とは一線を画すのです程度の内容が書かれているのみ。
タイトルが『梅村うたと淳 里見の愛した女たち』みたいなタイトルなら納得だけど、ひどいよ。里見がなぜ阿片と深く付き合うようになったのか、どのようにネットワークが構築されていったのか。重要な証言として、里見は国民党にも阿片の利益を流していた。この事実をなぜもっと広げないのだ佐野!! 単に中国で商売しなければならない手前蒋介石にも恩を売る必要があるのはわかるが、しかし、とっても重要なことだろうよ。敵国に援助していたのだから。
まあつまりです、里見を知りたくて読むには適していない。単純に満州にかかわった女たちの生きざまというノンフィクションとしては面白いとは思う。

2020/10/22

『ニュルンベルク裁判――ナチ・ドイツはどのように裁かれたのか』 アンネッテ・ヴァインケ/板橋拓己訳 中公新書

日本ではなぜかニュルンベルク裁判の書籍がほとんど出版されていない。東京裁判関係は山ほどあるのにもかかわらずだ。東京裁判の枠組みをつくったニュルンベルク裁判を知りたくても難しい状況だ。
んで、この小さい書物なのだが、はっきり言って入門中の入門で、かなり不満すぎる。ウィキペディア級のことしか書かれていないというか、ウィキペディアの方が詳しいし、変な訳語もなくていい。
ニュルンベルク裁判の成立については、かなり興味があるんだけど、まあ入門書でもあるのでさらっとしか書いていないが、そもそもイギリスは裁判形式をせず、銃殺してしまえという態度だっとなんて知らなかった。そうすることで、単純に有耶無耶にもできうるし、ところがスターリンが裁判形式を支持してしまうらしい。
このあたりの詳しい状況を知りたい。
さらには「モーゲンソー・プラン」という過酷な制裁もアメリカは考えていたようだ。
んー気になるね。もっと詳しい事情を知りたい。

とりあえず、本書で重要なのは、ニュルンベルク裁判が、単にナチス指導者21人を裁いた裁判ではなく、他のエリートたちを裁く12の継続裁判も重要視していることで、むしろこれらの諸裁判を含めて「ニュルンベルク裁判」と呼ぶべきものであるという。
医師裁判
ミルヒ裁判
法律家差異案
ポール裁判
フリック裁判
IGファルベン裁判
南東戦線将官裁判(人質殺害裁判)
親衛隊人種・植民本部(RuSHA)裁判
行動部隊裁判
クルップ裁判
ヴィルヘルムシュトラーセ裁判(諸官庁裁判)
国防軍最高司令部(OKW)裁判

1945年以降のドイツの歴史認識やら言説なんかは、日本とあんまり変わらないのかなと思うし、敗戦国の宿命とも言える。勝者の裁きだっていう声だって普通に存在してもおかしくないし、一億総懺悔よりもいいような気がしないでもない。
ニュルンベルク裁判はドイツを裁くために行われたにせよ、日本でも適用され、そしてハーグ国際刑事裁判所へと繋がっていく

芝健介『ニュルンベルク裁判』岩波書店
クリストフ・クレスマン『戦後ドイツ史1945-1955――二重の建国』未來社
石田勇治『過去の克服――ヒトラー後のドイツ』白水社
このあたりを今度読んでみるか。

2020/10/21

『漂泊のアーレント 戦場のヨナス――ふたりの二〇世紀 ふたつの旅路』 戸谷洋志、百木漠 慶應義塾大学出版会

ヨナスとアーレントのちょっとした入門書にもなっているし、いい感じ。
アーレントの入門書は多く出版されているが、ヨナスは共著者の一人である戸谷洋志さんの『ハンス・ヨナスを読む』(堀之内出版)という本ぐらい。こちらは未読なので何とも言えないが、ヨナスって環境倫理や生命倫理のの分野では活躍した人という程度しか知らなかったし、読んだこともないが、面白そうじゃないですか。
しかし、ヨナスの本は難しいそうで、本書ではかなーりわかりやく解説しているが、翻訳でも原著にあたるとすると、おそらくは理解できない恐れがある。とくにハイデガー用語を使われたら一巻の終わりで、だってハイデガー・ジャーゴンはあまりに抽象的で、その抽象的な用語をこねくり回しているなら、そりゃもう読みにくいこと疑いない。

アーレントの思想の足跡をみるのも非常によくって、『エルサレムのアイヒマン』で展開されている「凡庸な悪」という概念は、『全体主義の起源』で展開されていた「根源的な悪」とは、全く異なる、自らを否定するものになっていて、アーレント自身がそれを認めていた。そして、「活動」ではなく、「精神の生活」へと展開していく様子。

他にも、著者はなかなか面白い指摘をしていたのは、アーレントの「出生」概念について、ある種の齟齬で、アーレントは私的領域と公的領域を玄覚に区別していたが、「出生」にあたってはその区別がない。政治的に人間がはじまるのは、人間の誕生によって保証されるとアーレントは説く。
このあたりのアーレントの思想遍歴をみるうえでも非常によくって、しかもヨナスの思想との対比がアーレントの思想を浮かび上がらせている。

よく思うのだが、ある人物の入門書を読んでいて不満なのが、同世代との比較、そして過去との比較が一切なく、単にアーレントならアーレントのみの思想や、フーコーならフーコーのみを語る入門書で、これだとなにがアーレントの特異さなのか、何がフーコーの狂気なのかがわからずに終わる。
その点、本書はヨナスとアーレントとかなり興味深いうえに、お互いがどのように影響していったのか、違いはなんなのかが考察されているので、とってもよかった。

ヨナスの論理を追うと、生命を還元論で説明しようとすると、ドーパミンがどうの、フェロモンがどうも、そして細胞を細かくみれば炭素だとかの元素に帰し、それには生命と呼ばれるものがなく、死のみとなる。
そうなると、刹那的な生き方やニヒリズムへと行きつく。
ヨナスは戦争体験によって、ハイデガーの「世界-内-存在」などといった上品な概念では捉えつくせない人間の脆さを知る。飢えや劣悪な衛生環境、一瞬で殺されていく人間たち。
ヨナスの哲学的生命論では、有機体のうちに精神を基礎づけるという点で、生物学的な生名の理解を回避するものであり、同時に、精神のうつに有機体を基礎づけるという点で、ハイデガーのニヒリズムを克服しようとする。つまりそれは、「一方では観念論および実存主義の人間中心主義的な制約を、他方では自然科学の物質主義的制約を、ともに打破することを試みている」。(181)
死の存在論を相対化して別の存在論を打ち立てようとしていた。

重要な概念の一つに「代謝stofwechsel」があり、外部を取り入れながら内部と交換していく働きを、有機体の本質として取り上げる。つねに代謝を繰り返すことは、生命の個体の同一性が、その個体をこうせいしている物質の同一性では説明できないことになる。(182) 
ヨナスの倫理学でおもしろいのは、やはり「子供への責任」「未来への責任」で、これって現在が見知らぬ未来に責任をもっているということだから。ヨナスの場合、ここで未来を語ることの難しを承知していて、通常では未来をバラ色に描くことはできけど、実際はぼくらは現在にしか生きることができない。バラ色の未来なんてものは保証されていない。
ヨナスは形而上学的な公理を提示する。生命をそれ自体で善なる存在であり、存在しているだけで価値をもつ存在である、という。これは実証的に結論付けられた公理でもなんでもなく、単なる仮想ではあるが、これは死の存在論と対置するためにも必要で、ヨナスはここであげる事例が興味深い。
生まれたばかりの子供の呼吸、ただそれだけで反論の余地もなく、自分を世話することへの当為を向ける。子供は大人に世話の当為を喚起させる。これを説明するために、家族愛では説明できない広がりがあり、契約や合意といったものでこの責任を論じることもできない。これをこの責任を説明するためには、子供の存在それ自体は勝ちを持つ、と考えるしかない。赤ん坊の「呼び声」。

アーレントとは異なり、ヨナスは第二次世界大戦の経験から、神を語ることの虚しさを共有していたが、それでも形而上学的な概念が必要であることを説く。アーレントは「一者のなかの二者」としての自己内対話から導き出す「良心」と「判断」を重視していたが、ヨナスは、究極的なもの、普遍的なものへ向かう倫理を目指していた。ヨナスは究極の、破局的な終末の状況は、それ自体は究極的なものであり、だからこの究極的状況を語るためにも究極的な知をさぐる必要があると。

歴史認識についても、ちょっとおもしろい。歴史的な理解の正しさの正しさを問う。
人間の歴史は、ある特定の文脈に支配されており、それは一回きりの出来事であるから、人間が過去を理解することは不可能なものとなる。結局は「私」による理解にすぎないとなる。いや、今も昔も人間の思考は一緒だとすることもできる。
ヨナスはここでそもそも正しさの正しさを問うていく。ここでもヨナスは赤ん坊を事例に上げていて、おもしろい。
赤ん坊が微笑むのは、微笑みがなんであるかを経験していて、理解しているからではない。母親が微笑み、それに微笑み返し、そして微笑みが喜びであることを理解する。赤ん坊は自らの内に潜む可能性に触発され、理解していく、というのだ。
にゃるほど。

アーレントにとって「責任」とは、大人のみが参加する公的領域で成立するものであり、ヨナスの「乳飲み子への責任」というのは私的領域に属すると考える。子供への責任というのが、ある種の生命至上主義という普遍的真理となことを恐れたのではないかと著者は言います。僕もそのとおりだと思う。「乳飲み子への責任」というのはある種の脅迫感じなくもない。
単純に、その責任がはたして正しいのかどうかが、結局は未来の人間が判断せざるを得ないのだから、現在の人間が未来の責任を担うってかなり傲慢でもあるような気がする。がしかし、と堂々巡りなる。

2020/10/14

『山県有朋と明治国家』 井上寿一 NHKブックス

以下、箇条書きで。

徴兵制のジレンマがあり、山県は士族の特権を排し、国民皆兵を目指すが、山県は自由民権運動などの国民運動に否定的で、しかし徴兵制はその国民を徴兵するものであるから必然的に軍に自由民権運動のような思想が流れ込むことになる。それでも1873年に徴兵令が発せられた。
そしてだからこそ軍人勅諭がつくられる。軍人たるもの政治に関与してはならず、天皇への忠義を説く。
参謀本部の独立は統帥権の独立であり、これが太平洋戦争のときに悪用される。しかし、軍の政治からの中立を必要としていたため、参謀本部は独立機関となり、陸相から軍令事項の権限から切り離された。とはいっても、これをもってシビリアン・コントロールは崩れたとは言えない。参謀本部が内閣や陸軍より優位であることではないし、政治から切り離し、作戦、用兵を立案する組織は「強兵」の面から必要であり、前提条件だった。
この軍の改革は地方自治にも通じ、地方の富裕層、地主などが地方自治制度の中心に据え、秩序を与えようとした。そしてこれら地方自治から有力者が国政に進出できるようにする、そうすればみだりに空論を弄する輩が現れず、秩序が保てると考えた。

1885年巨文島事件が起き、山県はイギリスとロシアの衝突を危惧する。またカナダの太平洋横断鉄道やシベリア鉄道によって近い将来日本は危機に直面すると予想する。山県は外交の重要性を承知しているが、その裏付けには軍事力が必要だと考えていた。しかし軍拡張をするにせよ、予算が足りない、増税すれば内政の不安定になる、という現実があった。

山県は1888年に二度目のヨーロッパ視察に行き、そこでシュタイン教授から、シベリア鉄道によってロシアの脅威が直接日本にはあまりないこと、イギリスの極東での脅威は限定的であることを説明し、主権線だけでなく利益線を守ることを説いた。
朝鮮永世中立国化を目指す。ヨーロッパで帝国主義的対りが激しくなり、イギリスとロシアの関係は怪しくなっていた。極東でイギリスとロシア、日本での朝鮮中立化がなればロシアにとっても利益になる。山県は日清英協調路線を目指していた。しかし朝鮮の政府が中立化の意志がなければ達成できない。そのため日本は朝鮮の内政改革に乗り出す。そんななか1894年2月に甲午農民戦争が起こる。朝鮮政府は清に派兵の協力を打診する。日本は朝鮮から協力が得られなければ兵をだすことはできない。
日本の出兵はあくまで居留民の保護が目的で、戦後歴史学で非難されていた侵略ではなかったと考えられる。いずれにせよ朝鮮政府からの要請が必要だった。
しかし5月末ごろ大鳥圭介らがこれを機に内政改革の機会にもなると説く。

山県は伊藤博文の主導する政党政治に否定的だが、とはいっても超然内閣を組閣するこはできない。だから第二次山県内閣のときでも議会の多数派を味方にする必要はあった。だから政党を操縦するためにも憲政党との提携をなしていく。
山県は憲政党との妥協で地租をあげる案も譲歩して予定よりも低くした。しかし、山県は軍部大臣の現役武官制を制度化し、文官人用例を改正し、次官、局長級の勅任官の任用規定によって資格制限が定められた。

1900年、伊藤は政友会を組織する。とはいっても伊藤も政党よりも国家の優位を主張しており、そのところでは山県とも共通している。第一次桂内閣では増税を撤回させるかわりに、海軍拡張を受け入れたりとしていた。政友会からすれば裏切りだが、伊藤は国際情勢をみれば山県と同じ認識であり、国家を優位とする考えからは政党は二の次だったようだ。その後伊藤は政友会での地位が彩湯くなり、枢密院議長という閑職につくことになる。

伊藤の日露協商路線か、それとも山県らの日英同盟かは、両人にとっては手段の違いでしかなく、基本的な認識は共有してたため、どちらもお互いの路線を反対はしていなかった。

赤旗事件、大逆事件、南北朝正閏問題などで社会不安が巻き起こっていた。そのため桂内閣では思想統制法をだし、しかし社会不安を抑えるためにも教員の待遇改善、貧民救済事業、工場法を整備していく。

第二次桂内閣までは山県の政党間における権謀術数が可能であったが、明治天皇が死んで、桂が新党構想をはじめたころから憲政擁護の運動が活発になり、第三次桂内閣のときに民衆運動が直接、倒閣を実現した。

第一次世界大戦には日本は関わりたくはなかったが、当時はまだイギリスが勝つかドイツが勝かはわからない状況で、ただ日英同盟の関係上、ドイツの租借地である膠州湾攻撃を決める。山県は反対ではあったが、攻撃するにせよ、ドイツ側には日英同盟上のいきがかりであることを説明し、信義にもとづくべきと主張する。山県は日英同盟に重きを置く加藤外相に不信をもっていた。しかし一方的な宣戦布告が行われてしまう。
同時に、山県は中国との関係も良好であることを望んでいた。辛亥革命によって袁世凱政権ができ、日本の政策を変えざるを得ないにしても。
膠州湾をとったところで、戦後に中国に返還しなければならない状況に追い込まれる。だからこそ中国との関係を良好にすべきだった。満蒙問題でも袁世凱に日本は信頼できるものであることを主張しなければならなかった。
そこででてきた山県のレトリックは「人種競争」だった。ただしこれは有色人種の同盟をいみしているのではない。欧米に対して説かれているものではなく、あくまで袁世凱政権に対してのレトリックだった。これによって信頼回復を目指した。

日露関係にしても、当時はまだロシア革命がおきるとはだれも予想していなかったし、山県が日露協商を重要視していたにせよ、日英同盟を軽視していたわけではない。あくまでバランスの問題なのだ。1916年の段階で、日英同盟と日露協商によって山県が思い描く多角的な列国協調路線を実現していた。
山県と原敬は日米関係の重要さを強調していた。
大隈内閣は選挙で勝利し、軍艦建造費と二個師団増設を承認させる。山県にとっては朗報だった。とはいっても外交問題では原敬を失うことは出来ない。大隈は1915年に袁世凱政権に対して対華二十一か条の要求をつきくける。理由として第二条七条の満蒙についてで、関東州租借地の起源が1923年に切れるため、その対応という側面もあったが、第五号などが帝国主義的な要求でもあり、しかも日本は列強にそれを隠していたことがバレて、アメリカにリークされる。
山県と原が恐れていたことで、日本がこれで孤立する可能性もある。山県にとっても満蒙を手放す気はないが、中国との関係も重要視していた。要はやり方だった。これによって加藤外相は辞任、大隈内閣は倒閣となる。
後継の寺内内閣ではアメリカとの関係修復のために石井=ライジング協定を結ぶ。アメリカの主張する「門戸開放」を掲げつつ、日本の権益を認めるものだった。そしてそれは対華二十一か条の要求の中核部分をアメリカが認めたことになる。
ロシア革命とドイツの敗北によって、日本の外交が変わる。日露協商は破棄される。
そんななかイギリスよりロシア革命への干渉のために日本へシベリアへの出兵を打診される。山県はシベリアへの出兵に対して、日本の単独行動は不得策であり、アメリカとの協調を重視し、また軍費の調達を明確すべきことを意見する。
日本の経済はアメリカ依存をしていて、そして一度シベリア出兵すればすぐに撤兵はできない。だから慎重にすべきとなる。3月の時点ではアメリカは日本の出兵には反対し、その相談があったことにアメリカ政府は満足していることが伝えられる。しかし7月にあるとアメリカからシベリア出兵の要請がくる。しかし山県は慎重論だったが、意見書の条件を満たすこともあり、出兵をさせる。このあたり一貫した考えと、リアリズムで徹底されている。通常意見書は反対のためにおこなわれるもので、たとえ条件を満たしてもさらに条件をたして見送らせようとするのが常であるのに、ここからわかるように山県はシベリア出兵への反対というのは、筋が通っていた。

1918年7月、米騒動は起きる。第一次世界大戦の好景気は薄れ、米価が高騰していく。しかしこの米騒動はロシア革命のような性質ではなく、自然発生的で組織的なものではなかった。山県も原も重々承知していた。

第一次世界大戦後、アメリカが世界の外交を主導するようになり、山県それに反発するが、理想主義に陥らずに英米本位の平和主義へと順応していく。講和会議では、人種平等を掲げつつ欧州が反対するので引っ込め、そして山東の権益を獲得するという実をあげる。ここでも「人種」はレトリックにすぎない。
山県はあくまでも協調主義をとっており、ワシントン会議において、英米が親中であることがわかり、山東からの撤退をさせる。さらに国際連盟への加盟も当然とし、さらには旧時代に締結された日英同盟もワシントン会議という国際協調路線という新外交の枠組みから破棄されること受け入れる。これは日英米仏による国際条約でもあった。そしてもう一つシベリアからの完全撤退を原内閣とともに実現させる。
原内閣になると普通選挙運動、民主化運動が急進的になっていく。原は民主主義に賛成だが、時期尚早とみていた。そのため吉野作造などの知識人から批判される。

近代から今日までの国民国家にとって、軍部の存在は基礎的な条件でありつづけている。国民国家であるということは、国民軍隊をもっているということである。日本が近代国家をめざす以上、誰かがこの基礎的な条件を整えなくてはならなかった。誰が引き受けたのか。山県だった。……徴兵制による国民軍の創出に勤め……軍政改革をとおして、日本の国家的な独立の危機に対応した軍事的リアリストだった。(236-237)

 

明治国家の権力を強調し、そのもとでたえず抑圧される「民衆」という歴史観では、帝国憲法を前提とする国家体制であっても、斬新的な民主化が進んだ政治過程を説明することはむずかしい。他方で「民衆」が民主化の中心だったとする歴史観にも無理がある。民主化は運動だけでは実現しない。民主化を可能とした近代的な諸制度を整備したのは、国家権力の側、政治指導者であり、国家官僚だった。要するに、多元的な権力関係の明治国家をとらえることがきる歴史観によって、日本近代史像を統合すべきである。(241)

 

途上国において軍部がその国の近代化を主導することは不思議ではない。第二次世界大戦後、あらたに独立した東南アジア諸国が程度の差はあれ、そうだった。これは開発独裁体制といってもよい。山県の政治的な役割も同じだった。明治維新革命後の途上国日本は、山県のもとで開発独裁体制の確立を志向した。……国家と国民の一体感は過渡に協調すべきではないだろう。幕末維新期の国家的な独立の危機が国家と国民の間の共通の明式だったのは、日清戦争までである。……開発独裁体制の確立をめざして出発した明治国家は、条約改正問題をとおして、西欧化が不可避となったからである。西欧化とは政治的な西欧化を含む。僧である以上、帝国憲法のもとであっても、選出勢力による政治が展開する。国家的利益と非国家的利益の噴出によって、多元的な政治対立が生まれる。……客観的には近代日本の斬新的な民主化の過程が進んだ。(242-243)
1874年(明治7年) 台湾出兵
1875年(明治8年) 江華島事件
1877年(明治10年) 西南戦争
1884年(明治17年) 甲申政変
1885年(明治18年) 天津条約
1889年(明治22年) 朝鮮永世中立化構想
1889年2月11日 大日本帝国憲法公布
1890年(明治23年) 第一議会
1894年(明治27年)3月 甲午農民戦争
1894年7月~1895年4月 日清戦争
1900年6月~1901年9月 義和団事件
1904年2月~1905年5月 日露戦争
1911年~1912年 辛亥革命
1915年1月 対華21カ条要求
1917年10月 ロシア革命
1917年11月 石井-ライジング協定
1918年8月~1922年10月 シベリア出兵
1919年1月 パリ講和会議
1919年5月 五四運動
1919年6月 ヴェルサイユ条約
1920年~1921年2月 宮中某重大事件
1922年2月 ワシントン海軍軍縮条約
1923年8月 日英同盟失効

第一次伊藤内内閣1885年(明治18年)12月 1888年(明治21年)4月30日
黒田内閣 1888年(明治21年)4月30日 1889年(明治22年)10月25日
三条内閣 1889年(明治22年)10月25日 1889年12月24日
第一次山県内閣 1889年12月24日 1891年(明治24年)5月6日
第一次松方内閣 1891年(明治24年)5月6日    1892年(明治25年)8月8日
第二次伊藤内閣 1892年(明治25年)8月8日    1896年(明治29年)9月18日
第二次松方内閣 1896年(明治29年)9月18日    1898年(明治31年)1月12日
第三次伊藤内閣 1898年(明治31年)1月12日 1898年(明治31年)6月30日
第一次大隈内閣 1898年(明治31年)6月30日 1898年(明治31年)11月8日
第二次山縣内閣 1898年(明治31年)11月8日 1900年(明治33年)10月19日
第四次伊藤内閣 1900年(明治33年)10月19日 1901年(明治34年)6月2日
第一次桂内閣 1901年(明治34年)6月2日 1906年(明治39年)1月7日
第一次西園寺内閣 1906年(明治39年)1月7日 1908年(明治41年)7月14日
第二次桂内閣 1908年(明治41年)7月14日 1911年(明治44年)8月30日
第二次西園寺内閣 1911年(明治44年)8月30日 1912年(大正元年)12月21日
第三次桂内閣 1912年(大正元年)12月21日 1913年(大正2年)2月20日
第一次山本内閣 1913年(大正2年)2月20日 1914年(大正3年)4月16日
第二次大隈内閣 1914年(大正3年)4月16日 1916年(大正5年)10月9日
寺内内閣 1916年(大正5年)10月9日 1918年(大正7年)9月29日
原内閣 1918年(大正7年)9月29日 1921年(大正10年)11月13日
高橋内閣 1921年(大正10年)11月13日 1922年(大正11年)6月12日

2020/10/10

『山県有朋 愚直な権力者の生涯』 伊藤之雄 文春新書

山県有朋は近代日本を作り上げた立役者の一人であるのは間違いないが、なぜか人気がない。
本書を読むと山県が単なる権力欲の塊であったり、陸軍や宮中を完全に支配していたわけではないことがわかる。そして、人間が単純な生き物ではないこともよくわかる。
議会運営の際には、伊藤や議会に妥協点を見出しながら行っており、陸軍拡張や地方自治制度の確立のためにも根回しをしながらやっている。それに本書によれば、山県有朋が実質的に伊藤博文と対等の権力を得ることができたのは1900年頃だという。
山県は地租増微法案を成立した見返りに、憲政党が求めていた地方制度改革案を帝国議会で成立させたり、複選制ではなく府県会議員を直接選挙に変えた。軍備拡張のためにも、ロシアに対抗するためにもここでも妥協をする。
妥協ばかりだ。太平洋戦争の時の指導部と格が違う。

山県が構想した徴兵制がなかなか面白くて、皆兵制ではなくエリート集団をまず作ろうとしていた。
六歳から十九歳までに小中学校教育を終えた者が二十歳で徴兵されるというのは、当時では小学四年程度が普通の当時ではエリートと言っていい。ただし、代人料を支払えば徴兵免除ができる規定が加わったためエリート性がなくなったともいう。
徴兵制というものが、現在言われているものとは違う。現在は皆平等なので皆徴兵となるけど。

参謀本部の独立は、山県が西南戦争で得た教訓からなされたことで、当時は有力者が文官の参議や大臣を決めていたため、後に「統帥権の独立」でもって暴走することは考えられなかった。参謀本部は大久保も伊藤も人員、物資の配置などの大枠を指導、作戦、戦略をたてる部署を必要であるという合理的判断で行われている。ただし、実質的に山県が竹橋事件で苦境に立っているのを救い、政権の安定をもたらすためにも設立されている。
著者は、参謀本部の独立や山県の陸軍の在り方が、後の陸軍や関東軍の暴走、そして統帥権の独立へと繋がっている、という考えを明確に否定している。
山県は陸軍に内閣の介入を嫌っていたし、実際に介入を阻止する仕組みも作った。しかし、陸軍は陸相を中心に統制がとれていた組織であり、関東軍の暴走を参謀本部と陸軍が追認なんかする組織ではなかった。
帝国主義の時代にあって、伊藤も山県も列強の干渉を恐れて、強気の大陸政策をとらなかったし、列強が認めないならば伊藤も山県も引いていた。だから日清戦争でも日露戦争でも、不満足な結果でも受け入れてきた。

山県は議会制を嫌っていたため、大隈重信が1883年までに国会を開き政党内閣制をするという、当時では急進的な内容の意見書をだしたので、伊藤、山県は大隈を罷免し、政府追放させる。
山県は晩年まで議会を嫌っており、原敬の内閣をみて、議会政治を認めるようになったとか著者はいう。原敬を「偉い」と評価し、暗殺されたときも涙を流したらしい。伊藤博文にしろ、大隈の革新性を好まなかった。
「自由党はもっぱら「下等の人民」をあやつり、「過激粗暴な士」集めようとしているようである」と山県は自由民権運動を見ていた。そのため政党処分は厳しい処断を求めていた。
山県はヨーロッパ視察でベルリンなどの議会政治を見て、「沈着老成」の議論ではなく、「急燥過激」の空論が名望を得ていることに、国会や選挙に不信を抱いたという。
まったくもって山県は正しい。世界の趨勢はデモクラシーにあっても、それがいかに醜悪なものかもわかっていた。1900年ではまだ民主主義はヨーロッパでも主流ではなく、かなり限定的ではあったが、それでも流れは寡頭政治ではなく衆愚政治へと向かっていく。

当時最先端だった政治理論であるウィーン大学のローレンツ・フォン・シュタイン教授の君主機関説の憲法理論は、伊藤のめざす統治機構だった。
憲法制定と同じく重要だったのが地方自治制の確立で、ドイツの制度をもとにつくりあげられていく。山県が内務卿になってから推進していく。1889年12月から翌10月まで山県は地方自治制度の視察のために二度目のヨーロッパ視察にいく。グナイストから強権を持った政府が迅速で効果的な施政をすべきで、地方行政において道路や橋の補修・治安・救貧などで、住民の自発的な隣保活動が重要であることを山県に伝える。
地方自治について、山県がどれくらい関与し、現在の仕組みと繋がっているのかはよくわからないので、松本崇『山縣有朋の挫折――誰がための地方自治改革』(日本経済新聞出版社)を読むことにする。

軍人勅諭の成立は、自由民権運動が軍に波及することを恐れ、西周に起草させ、福地源一郎に大幅に改編させ、そして井上毅と山県で修正したもので、忠節、礼儀、武勇、信義、質素の五か条が強調され、政治に惑わされることを戒めている。
山県内閣の1890年に地方長官などから文部省へ教育の道徳的指針をまとめてほしいという要望があったという。欧米に心酔し日本を卑下する風潮を戒めるために、儒教の「仁義忠孝」を基本に芳川正顕と山県でつくられる。

山県内閣の際に第一議会が行われている。山県は国家の独立自衛を確保するために、国の領域である「主権戦」と国家の安危に関係する「利益線」(朝鮮半島)を保護する必要を説き、軍備拡張を唱える。しかし自由党や改進党は予算削減を求めていた。憲法に誇りを持っていた伊藤、井上は解散を支持しておらず、山県も列強に日本が議会を運営できることをアピールするためにも、第一議会を乗り切ること考えていた。山県は予算削減の妥協する。

第四次伊藤内閣が倒れた後、山県系の桂内閣ができ、伊藤の推進する日露協商の可能性が低くなり、山県らが求める日英同盟から対強硬路線の可能性が強くなる(330)とある。そうなのか。
山県はアメリカ、イギリスなどの列強と対立することを嫌っていた。あくまで国際ゲームのなかで大陸政策をしなければいけないことを、伊藤ほどではないにしろ理解していた。
山県は伊藤博文とは違い、暗く、近代日本の影の部分みたいな感じの印象を残すが、本書を読むと、まさに山県の人生は近代日本そのものだし、彼抜きでは近代日本は語れないことがよくわかる。

2020/10/08

『1941 決意なき開戦――現代日本の起源』 堀田江理 人文書院

1941年の日本とアメリカのやりとりについて、おそらく見解が割れる。
ルーズヴェルトは、いつ日本との戦争を決意したのかが問題だが、1941年8月12日のチャーチルとの大西洋憲章の際に、日本との戦争を3か月は先延ばしにできると言ったという話もあるが、これをもってすでにルーズヴェルトが太平洋での日本との戦争を決めていたとは言い難い。本書では、ルーズヴェルトは直前まで日本との戦争を回避しようと心がけていたように書かれているが、このあたりは結局は闇の中かと思われるが。
当時の日本はファシズム体制ではなかったし、独裁政権でもなかった。それでも近衛内閣はドイツとイタリアを選んだ。途中で同盟を破棄もできたし、逆にソ連への侵攻も選択肢としてもあった。でもアメリカとの戦争を選んでいる。南印進駐してもアメリカが世界平和、民族解放を理由に、静観してくれるだろうとかいうわけわからない予想もしていたみたいだが。

本書を読んでいて、日本の意思決定というものが、いわば「欧米式」のものではないということが痛感される。建前と本音があるのは世界共通だと思うが、ただ建前と本音の様式が欧米とは異なっているということだろう。
本書では何度もアメリカとの戦争を回避できた場面があることが書かれている。おそらくその通りだ。日本の政府も戦争推進派だけの一枚岩ではないし、むしろ戦争回避を進めてきたのはたしかだが、要は意思決定の様式がアメリカとは異なり、戦争せざるをえない状況に追い込まれていった。
近衛文麿がファシズム気質だったかどうかはおくとして、反欧米の気持ちは当時の日本の指導者たちは持っていてもおかしくない。欧米と親しくすべきと主張する人たちにおいてもだ。そして近衛、松岡洋右にしろ、あまりにもアメリカが日本の理念を理解してくれるものと考えていたのは問題だった。
ハルを筆頭に日本の拡大主義を批判するのはあたりまえで、それは国際協調主義からすれば唾棄されるべきだろう。当時、すでに帝国主義の風潮は退潮ぎみだったし、アメリカ自体が帝国主義ではなかった。フィリピンもすでに独立をすることになっていた。たしかにイギリスなんかは植民地の利権を手放す気はなかったが、それでも第一次世界大戦の教訓で、権謀術数が蔓延る外交は忌避されるようになっていた。

八紘一宇、大東亜共栄、そして王道楽土、これらの用語ははたしてどこまで本気だったのか。それはある種の虚勢で、ただ政策が御前会議で採択されると、聖なるものへと昇華していく、という感じで書いている。おそらくこのあたりが妥当なところか。「信」の構造からすれば、理念とは後追いするものであり、理念が先にあるのではない。
上記の用語は、当時ではある種の枕詞のように使われていたと考える。それがいつしか理念へと変化、大義名分になっていき、信じるものへと昇華していく。そういう過程があったのではないかと思う。多くの政府の指導者やそれに近い人も大東亜共栄なんて、当初は理念でもなく、単なる言い訳だったものが、いつしか信じるものになってしまった。それがなくなれば戦争をする、している理由がなくなるからだ。
日中戦争の泥沼化によって1941年にはすでに物資不足に悩まされていた。そういう状況で政治の指導者はきちんと状況を把握し、アメリカとの戦争を望んではいなかったが、口から出る言葉は、米国との戦争もやむなし、なのだから虚勢でしかない。

本書、太平洋戦争前夜を描くノンフィクションとしては、かなり面白い。ところどころに挟まれるエピソードが人物の描写を際立たせているし、多岐にわたって目が行き届いている。
昭和天皇の洋行、近衛文麿のヒトラーのコスプレ、会津生まれの捨松と薩摩の大山巌の結婚、石川信吾や石原莞爾の思想が小さい扱いながらもバランスよく散りばめられている。そして永井荷風の日記が当時の雰囲気を語る。ゾルゲ事件も重要なことは取り上げていて、トリビアな「結婚報国」や「慰問袋」の話も織り交ぜてくる。太平洋戦争前夜を描くうえで、ほぼすべてがおさまっている。そして、潮津なる人の従軍日記が要所要所に散りばめられて、首脳部と現実とのギャップが悲しい。

ヒトラーがいないドイツはすぐに多くが違う国になったであろうが、日本の場合は東條ではなかったならと言われても相違点が明らかにならない。
堀田さんは結論します。
最終的に、戦争を回避する道を選ぶことは、長期戦を戦えるアメリカではなく、劣性が明らかな日本が下されなければならない決断だった。それがいかに屈辱的で、不可能で、自己去勢行為に等しいことのように思えても、それが最終的に国家の存続と繁栄につながるという考えに、政策と世論を持っていくことが、先見ある指導者の務めであるはずだった。あたかも、避戦という選択肢が存在しないように匂わせる戦略的タイムテーブルと、官僚的なルールは、日本の指導者たちが自身に課したもので、米政府の作ったものではなかった。それは自分たちが、どれだけ外の知からによって不当に戦争に追い詰められた、と納得させようとも、まったく変えられない事実だった。自分たちを被害者だと言い聞かせ、日本は常に平和を願い、アメリカに対して、譲歩の姿勢を取り続けてきたと主張しても、事実は違った。……彼らにあるものは、自己憐憫、怒り、そして何より賭博師の大胆さだけだった。(350-351)
一億層玉砕から一億総懺悔へと変わる。それは戦争が全ての国民に万遍なく責任があるということであり、確かにその面もないわけではないが、しかしこのことによって開戦責任が曖昧になり、「誰も悪くなかった」という主張に等しくなる。国民総懺悔は指導者にとっては好都合な概念でしかない。

時系列は以下。
1940年9月23日 北部仏印進駐
1940年9月27日 日独伊三国同盟
1940年10月 大政翼賛会設立
1941年4月13日 日ソ中立条約
1941年6月22日 独ソ開戦
1941年6月25日 アメリカによるソ連資産凍結の解除
1941年7月25日 アメリカによる日本資産凍結
1941年7月28日 日本の南部仏印進駐(情勢二推移二伴フ帝国国策要綱)
1941年8月1日 アメリカによる石油禁輸措置
1941年8月9日~12日 大西洋憲章
1941年9月6日 帝国国策遂行要領
1941年9月下旬から ゾルゲ事件
1941年10月12日 荻外荘会談
1941年10月15日 日米の外交期限
1941年10月~1942年1月 モスクワの戦い
1941年11月27日 ハル・ノート
1941年12月8日 真珠湾攻撃

内閣の移り変わりは以下。
1937年6月4日~1939年1月5日 第一次近衛内閣
1939年1月5日~1939年8月30日 平沼内閣
1939年8月30日~1940年1月16日 阿部内閣
1940年1月16日~1940年7月22日 米内内閣
1940年7月22日~1941年7月18日 第二次近衛内閣
1941年7月18日~1941年10月18日 第三次近衛内閣
1941年10月18日~1944年7月22日 東條内閣

読んでいて、暗澹たる思いでした。本書では日本の意思決定を中心に書いているが、それでもいろいろと疑問がわき出てくる。いろいろと日本側の言い分もあるかと思うが、いずれにせよ戦争を遂行したのは日本の当時の政治家たちで、世論が戦争を支持していたからって、それに靡くようじゃ、はっきり言って政治家なんかいらない。

戦争前夜についての本はかなり久しぶりに読んだから、多くのことを忘れていた。永野修身の存在すら忘れかけていた。
太平洋戦争関係をいろいろと読んでみようと思ったのはいいけど、相当な量の書籍が出版されていて、うんざりすえるぜ。2日に1冊のペースを維持しようと躍起になって読んでいるが、つらい。何がつらいって、読めば読むほど参考文献が増えていくことだ。
どうすりゃいいんだ。もう僕のアマゾンの購入予定のリストには70冊と図書館の予約リストにも50冊、計130冊もの第二次世界大戦関係の書籍があって、どんどん膨れ上がっていく。読めんのかよ、これ。

2020/10/05

『ノモンハン 1939――第二次世界大戦の知られざる始点』 スチュアート・D・ゴールドマン/麻田雅文(解説)、山岡由美訳 みすず書房

本書ではノモンハン事件を世界史の中でとらえ直している。内陸アジアの僻地で戦われた知名度の低い紛争が、ヒトラーのポーランド侵攻などの導火線になっているという。
時系列で言えば
1937年6月 乾岔子島事件
1937年7月7日 盧溝橋事件
1938年3月12日 アンシュルス
1938年7月29日~8月11日 張鼓峰事件
1938年9月下旬 ミュンヘン会談
1939年3月チェコスロヴァキア解体
1939年5月11日~8月31日 ノモンハン事件
1939年8月23日 独ソ不可侵条約
1939年9月1日 ドイツによるポーランド侵攻
1939年9月3日 英仏によるドイツへの宣戦布告
1939年9月15日 ノモンハン事件の停戦協定
1939年9月17日 ソ連によるポーランド侵攻
1940年9月27日 日独伊三国同盟

こう時系列でみるとなかなか面白く、乾岔子島事件が終息したのは盧溝橋事件によってスターリンはアムール川での日本との争いに興味がなくなったからで、日本と中国が戦争へ拡大することはスターリンにとっては歓迎だった。これによって日本の脅威は大幅に減じ、ソ連は蒋介石への支援をしていく。
またチェンバレンがヒトラーに弱腰だった理由として財政問題だったことが書かれている。さらにイギリスは伝統的に反ロシアであり、なおかつ反ボリシェビキでもあった。第一次世界大戦でのロシアの不甲斐なさを知り、スターリンと組むことはしたくなかったようだ。
ヨーロッパと日本では基本的に反ソ連であり、スターリンは孤立していた。外交は難しいようで、日独の同盟はソ連を英仏に走らせることになり、ドイツからすれば第一次世界大戦と同様に英仏露を相手に戦う羽目になる。英仏の宣戦布告まで日独同盟が果たせなかった理由となる。
日本のドイツ接近はゾルゲによってソ連は把握していた。だからこそスターリンはドイツへと接近していき、不可侵条約まで結ばれる。
ソ連にとって僥倖だったのが、ヒトラーのチェコスロヴァキアへの侵攻で、これによってチェンバレンはトサカにきたようだ。ミュンヘン会議はなんだったのかと。
そしてスターリン有利と事が運んでいく。
1939年前半のヨーロッパでは確かにスターリンの思いのままに事が運んでいるかにみえたが、五月の時点ではヒトラーはソ連との条約締結の可能性について明確な意思表示をしておらず、ノモンハン事件はその段階で起きたのだ(228)
スターリンの外交は絶妙だったという。ドイツはポーランドへ侵攻することを決めており、ソ連との不可侵条約締結を目指していた。しかしスターリンは二枚舌外交を行う。英仏との同盟をしていると、わざと英仏との交渉を長引かせてドイツを焦らせている。そしてスターリンはドイツを選び、相互不可侵だけでなく、ポーランド分割、エストニア、ラトヴィアとフィンランドのソ連勢力への容認とリトアニアのドイツ勢力への容認も含んでいた。

なぜスターリンはドイツを選んだのか。著者はここで東アジア情勢を導入する。ソ連と英仏が結べば、ドイツは日本と同盟を結ぶ。そうすると必然的に日本は満州国とソ連圏の国境で攻撃を仕掛けてくる。
しかもドイツを選べば、ヨーロッパの中でソ連は局外の位置に立つことができる。そしてドイツと結べば、ノモンハンで日本を徹底的に争うことができた。
スターリンは日本がソ連と全面戦争やる意志がないことは知っていたが、かといって関東軍が日本中央に従う保証もないとも考えていた。
ノモンハン事件がソ連の軍事的勝利かどうかともかく、外交的勝利であった。8月下旬の時点でスターリンは日本と和平をする準備をしていたが、それを日本側に察知されないようにしていた。
そして、著者はさらにドイツのポーランド侵攻後、ヒトラーはスターリンに東側からポーランドを責めるようになんども催促するが、それは実現するのは9月15日と二週間後となる。なぜなのか。それは東側での戦闘終了がなってから西側の戦いに入ることを考えたからだという。二正面作戦を回避した。
1939年の外交の舞台は複雑を極め、いずれの訳者にも第一の目標と第二の目標があった。イギリス政府はソ連と取り決めを結ぶことでヒトラーのポーランド攻撃を抑止しようとした。ヒトラーの抑止に失敗した場合も、取り決めさえあればソ連を英仏との「同盟にしばりつけることができるものと考えた。ヒトラーが目指した低他の、英仏のポーランド援助を抑止する者としてのソ連との同盟であり、もしくは英仏がポーランド防衛線に打って出た場合にソ連の中立を確保するものとしてのソ連との同盟であった。また日本政府はソ連に照準を絞った軍事同盟をドイツと結ぶことを目指し、それがかなわぬならば包括的な防共協定を強化することを望んでいた。スターリンは西側民主主義国とドイツを戦わせることでソ連の東西において裁量を得ることを目標とし、それに失敗したならば、対独戦となった場合に英仏の援助を確実に得られるようにしたいと考えていた。この四者のうち、第一の目標を達成できたのはスターリンだけである。ヒトラーは第二の目標を実現し、イギリスと日本は何も手に入れられなかった。(244)
本書の弱点としては、スターリンの選択について資料の裏付けがないことだろう。ただし、これは著者言うように論理的な解でもある。

著者は言う、ノモンハンで日本は苦い経験をした。ゆえに北進ではなく南進を選んだと。知らなかったが、独ソの戦争でドイツの快進撃が続くなか、日本でソ連との開戦を検討していたことがあり、松岡外相は日ソ中立条約をまとめた人物だが、条約を破棄しドイツと共にソ連を攻撃することを提案する。それを反対したのが東条英機で、とうじ日本軍ではドイツの快進撃が弱まり、どうも雲行きが怪しい状況にあり、しかも中部戦線のソ連軍を指揮しているのがジューコフであることを知っていたため、というのだ。
ノモンハン事件の責任者が太平洋戦争の開戦論者だった。服部卓四郎と辻政信だ。
ゾルゲによってもたらされた、日本の対ソ戦の延期は極東ソ連軍の大移動をもたらし、1941年のモスクワ攻防戦に投入されていく。モスクワはソ連にとって最重要であり、もしモスクワを取られれば、ソ連は瓦解するとスターリンは確信していたらしい。ドイツももしモスクワだけに集中していれば、ナチスはヨーロッパを手中におさめていたという。
そういう側面からもノモンハン事件が日本にもたらした影響は、ヨーロッパ戦線にも波及していった。

本書解題で、蒋介石がノモンハン事件が日ソ全面戦争に発展することに期待していたことやブリュヘルが張鼓峰事件で粛正、さらにモンゴル共和国でのスターリン粛清について書かれている。このあたりは秦郁彦氏の著作でふれられていた。
また小松原道太郎がソ連のスパイではないかという説があるらしく、著者のゴールドマンは否定的だという。

2020/10/03

『明と暗のノモンハン戦史』 秦郁彦 PHP研究所

ノモンハン事件は、僕にとってロマンの対象で、今もそうあり続けている。草原に赤錆びた戦車の残骸が転がっている写真を見れば、そりゃファンタジーの世界に引き込まれるわけです。
いずれにせよ、このノモンハン事件がなんであったのかはよくわからない。ソ連と日本との実質的な戦争であったと言われるが、局所的ではあるし、調べてみても地味な感じは拭えない。それでも日本ではノモンハンについての書籍が多くでていて、何がそうさせているのか。
ノモンハン事件が、モンゴルと満州の国境争いで起こっていて、ハルハ河沿いで行われたのは知っている。河沿いを国境にするのか、それとも東岸にするのかで、当時ソ連でも日本でも曖昧だった。
秦先生は、国境線の論争では日本は輪に分が悪いと見ているが、正直よくわからない。
曖昧であり続ければよかったが、国境線での小競り合いはよくあることで、ノモンハンでも1939年以前から頻発して、あくまで国境警備隊のちょっとしたいざこざで終わることが大半だが、どこかで臨界点を超えてしまう。「子供のケンカに親がでる」事態に発展する。

第一次ノモンハン事件では、モンゴル軍の越境が頻発し、小松原道太郎中将は「満ソ国境紛争処理要綱」をもとに、5月11日の衝突に対して、東八百蔵捜索隊を派遣するが、この東隊は全滅する。
関東軍作戦参謀の辻政信は、驚くべきことに「ノモンハン」を知らなかったという。かなりマイナーすぎる国境線だったこともあるのだろうし、また誰もが大事件になるとまで考えていなかった様子。
第一次ノモンハンはそれほど大規模な戦闘でもなく、日本、ソ連ともに準備していたというよりも、突発的な小競り合いといった印象だ。

ソ連と日本とでは、その後の準備が異なってくる。ソ連は日本側の戦力を大幅に大きく見積もっていたにせよ、戦車、装甲車などの近代兵器を十分に用意した一方で、日本は歩兵の数だけは多く、戦車などの兵器はほとんど増強もしなかった。このあたり、日本の白兵戦信仰のなせるわざでしょうか。戦車の設計思想なんかでも、中国と戦争していた日本にとっては、戦車は中国軍が怖がる牛程度にしか考えていなかったから装甲なんか薄っぺらだったみたいですし。
そして、ここでも日本の敵への蔑視が仇となっている。ソ連兵は大したことがない、士気が著しく低いなど、なんだかねー。
板垣陸相や稲田正純参謀本部作戦課長も関東軍の暴走を止められなかった。稲田の回想では、一抹の不安があったが関東軍は中央に忠実だったように見えたらしい。どうもねー。

第二次ノモンハン事件は7月3日~5日のバインツザガン会戦から8月月末の小松原第二十三師団の壊滅と、失敗に終わった日本軍の逆攻勢までのことのよう。
ジューコフによる8月の大攻勢は、かなり周到に準備しており、それに対して日本側はほとんどなにもしていない。にしても、戦争は運も付き物で、ジューコフ、シュルテンらの思惑にうまくはまりすぎてしまったのが当時の日本軍だった。
しかし、辻と荻洲の会話が載っいるが、かなり醜悪だ。敗北となった責任で、小松原に死をもって償ってもらう話をしている。
八月攻勢後、ソ連はスターリンの厳命で国境線の守備のみをしていたが、関東軍はまだまだ戦う気だったようだ。中央と関東軍との温度差は、ひどいもので、なぜ関東軍はここまで暴走していったのか。
日本軍はハルハ山に侵攻し、奪取する。ジューコフ司令部は奪還計画を準備するが、停戦となる。国境はこの時の停止位置できまっており、現在でもモンゴルは不満のようす。

日ソ停戦協定が1939年9月15日にかわされノモンハン事件は終結する。秦先生は、
スターリンは実現寸前だったドイツを標的とする英仏ソ同盟の路線を一夜で独ソ提携に切りかえ、労せずしてポーランド、バルト三国、フィンランドなど東欧地域を支配権に収めたばかでなく、日独伊三国同盟を阻止して東西から挟撃される軍事的脅威を除去することができた。一石三鳥とも四鳥ともいえる外交的成功と評してよい(235)
と評価する。こういうところを見ると、当時の日本外交の稚拙さが見えて悲しくなる。ヨーロッパの政治情勢は長年権謀術数で出来上がっていることもあり、外交文化自体が極東アジアとはかなり異なっているからでもあるが。
この停戦協定の二日後、ソ連はポーランド侵攻を行う。このあたりもソ連の外交的勝利。というのもの第六軍新攻勢構想というの関東軍にはあり、それが発動されれば長期戦となる。すでにポーランドとフィンランドへの侵攻を予定していたスターリンにとっては早く停戦をしたいところだった。

ノモンハン事件から得られた教訓はいろいろあったにせよ、物資不足は解消できない以上、「精神威力」に頼るしかなかった。関東軍にせよ陸軍にせよ、物資が豊富にあれば、精神力に頼らなくてもよかったのだが。
クックス博士の日本軍の弱点をあげている。「兵力の逐次投入、装備改善の遅さ、夜襲への執着、非降伏主義、守勢への嫌悪、航空機による地上支援能力の低さ」とある。すでに太平洋戦争時の日本軍の駄目さがここでも要約されている。
とはいっても、ソ連側もノモンハンの教訓をきちんと見ず、その後のドイツとの戦いでは戦車を優位にせず歩兵を使った。
人間は過去から学ぶことが根本的にで難しいようで、これは受け入れるしかない。

服部卓四郎、辻政信はノモンハンの件で一時期左遷させられるが、太平洋戦争には再びノモンハンと同じ手法で戦争を行っていく。
指揮官たちは自決を強要されていく。小松原は、命令に従わなかったとして部下に責任を負わせようとしていた。軍法会議になれば自らの作戦の失態を追及されるのを恐れて、軍法会議を回避し、部下に自決を強要する。
捕虜の扱いも、ノモンハンのころには日露戦争のときとは異なっていた。秦先生は上海事変の空閑昇少佐の自決が引き金かもしれないという。捕虜であることは恥ずかしことであるみたいな。とはいいつつソ連のジューコフも捕虜の観念はさほどたがわず、残忍なかたちで帰ってきた捕虜たちに自決を選ばせたという。
年功序列人事が厳として維持されるなかで、敗北や失敗の責任を問われた上級指揮官や実力派参謀が皆無に近かったのに対し、中下級指揮官や兵士たちは飢餓死や玉砕死を強いられた(413)

2020/10/01

『満州事変から日中全面戦争へ(戦争の日本史22)』 伊香俊哉 吉川弘文館

日中戦争と国際法の関係を論じている。本書、この観点を中心に論じていればもっとよかったのだけけれど。ちょっと物足りない感じ。
当時は帝国主義の時代で、食うか食われるかだったという言説があるが、これはけっこう怪しいもので、第一次世界大戦後にすでにヨーロッパでは厭戦ムードだったし、平和のための国際協調が芽生え始めていた時代でもあった。とはいっても各国思惑もあるのでうまくいかず、というところ。
自衛権の範囲なんかも自国の都合によいように解釈されていくが、これはまあ現代と同じですね。領土を攻撃されたら自衛権は明確だけど、領土の外だった場合はどうなるのか。満州事変、イタリアのエチオピア侵攻、ドイツのズデーテン侵攻やらが集団的自衛権がうまく働かなったことなんか、まあ現代でも同じでしょうか。
当時の陸軍だけでなく政治家も、国際情勢への敏感さがなくなっていたのかな。リットン調査団の結論は、日本に相当の譲歩というか、日本にとっては目的達成だったはずなのに、それを拒否する。
すでに何のため行動をしたのか。拡大路線をとるようになっていくのは、陸軍や関東軍、政治家の驕りだろう。
本書では、立作太郎や横田喜三郎の議論が紹介されている。けっこう興味深いものなのだけど、ちょっと物足りない。
現在の視点でみると立作太郎の主張は、「御用学者」と言われるものになるが、彼の満州国容認の立論が、中国は特殊で、言っちゃえば野蛮なんだから文明国が統治するのは正当化されるだろうというもののようだ。この考えは当時において決して異端ではなかった。
しかし、まあ当時の関東軍も日本軍も何を考えていたんだろうな。何のために日中戦争をし、何のために太平洋戦争をしたんだか。