François Couperin
Trois Leçons De Ténèbres • Motet Pour Le Jour De Pâques
Judith Nelson
Emma Kirkby
Jane Ryan
Christopher Hogwood
L'Oiseau-Lyre , DSLO 536, 1978
少し前、クープランの「ルソン・ド・テネブル」のレコードを発見する。聴いたこともなかったのだが、380円で売っていたから買ったのだけれど、これがなかなかすばらしい。
この曲についていろいろと調べたかったのだが、日本語ではあまりよい情報がないため、ライナーノーツを訳す。なんとまあ訳しにくい英語だこと。英文の画像も貼り付けておく。今回、この曲と出会っていろいろと勉強になった。英語版のWikipediaなんかでは下記を参考にできた。英語版しかないのが残念だけれども。
Leçons de ténèbres:
Canonical hours:
Martins:
この曲は非常に静かな曲で、修道院で流れていたらさぞかし雰囲気があるものだろうなあと思う。非常にカトリック的といってもいいかもしれない。18世紀初期にはまだこのような曲が作曲されていたのだなあと思う。
しかし、なぜエレミア哀歌をテキストに採用しているのかがいまいちよくわからない。イエスの死から復活までの三日間を、なぜエルサレムの荒廃への嘆きとだぶらせているのだろうか。
**********************
「頭や体、足で拍子をとることは下品なことだ。一つの対象をじっと見続けたり、ぼんやりと眺めたりせずに、人はハープシコードの前で安らぎという気品を持つべきだ。他のものに夢中になっていないかのように、仮に何か対象があっても、集まった仲間たちを見なさい。難しい顔をすることについて、スピネット(小型のチェンバロ)やハープシコードの譜面台の上に鏡を置くことで、この習慣を自らやめさせることもできよう。」
これはフランソワ・クープランのL'Art de toucher Le Clavecin(1717)の冒頭からのもので、この助言には単なる演奏指導以上により広い重要なことがある。ここに含意された節度と抑制という考え方は、クープランの音楽に溶け込んでいて、教会のために作られ、今も残る彼の音楽を支配している。ジョン・ホーキンス(1719−1789、作家)の『歴史(General History)』に書かれているようなコレッリの行動は、クープランには当てはまらない。
「彼(コレッリ)がヴァイオリンを弾いている間、いつも顔は悶え、目は炎のように輝き、眉は苦痛で歪んでいるかのようだ」
コレッリの演奏は優美さでも有名であるため、おそらくこの報告は少しは詩的誇張がある。というのもヘンデルがイタリアに滞在した際に、彼はコレッリがあまりに抑えた演奏をしていたので、ある激しさをもつパッセージをどのように演奏してほしいかを自ら示さねばならなかったほどだからだ。平静さを保ちつつ、この偉大なるヴァイオリニストは次のように答えた。「親愛なるサクソン人、この音楽はフランススタイルだ。私は知らないのだよ」
フランス・スタイルとイタリア・スタイルの違いは、グルックとピッチンニやブラームスとワーグナーの論争が後の世代にとってそうであるように、ルイ14世の治世の間、多くの議論の動機であった。「Paralleles des Italiens et des Rransois' (1705) でラグネットは次のように書いている。
「イタリア人が私達の音楽を退屈で無感覚にさせるものであると考えていることに不思議ではない。彼等の感覚からすれば、 一本調子で味気ないものとみえるだろう。例え私達がフランスのアリアの性質を、イタリアのアリアと比較して考えたとしてもだ。アリアにおいてフランス人は、柔らかさ、安らぎ、流麗さ、そして統一性を目的とする。…しかしイタリア人は最も大胆なカデンツァや最も不規則な不協和音をあえて行おうとする。つまり、彼等のアリアは常軌を逸していて、彼等は世界のどの国で作曲されたものとも似せようとしない。…イタリア人は不快で異常なあらゆることをあえてする。そして冒険をする権利を持ち、成功すると確信している人々のようにそれを行うのだ。」
太陽王ルイ14世の周辺でフランス文化生活が変化して以来、王の趣向は非常に影響力があった。音楽はすべての芸術と同じように、「朕は国家なり」という言葉の延長にあった。その主な目的は、王政の栄光や王の趣味を反映することである。というのもの王の壮麗さに伴う単純な調べが尊ばれるべきだったのだ。
しかし18世紀初頭までに、太陽王の芸術への態度は変わってきた。彼の栄光は陰りをみせ、マントノン公爵夫人の影響下にあったからだ。ルイはヴェルサイユ宮殿の壮麗さに関心を失い、1680年前半に生活をし始めたパリから東に数マイル離れたつまらない宮殿からも遠く、小さいがより家庭的なマルリー宮殿へと心を移していった。シャルル・ルブランの絵画の英雄的なスタイルに代わって、より内省的で脆さがあるヴァトーが取って代わり、そしてたとえ王が壮麗さや儀式を愛することを決して全面的に放棄しなかったにしても、自らの壮麗さへの思いは減じていった。
王はもちろん王室の仕事を采配していて、同じように音楽の自らの選択で雇っていたことだろう。1693年、王はフランソワ・クープランをthe Chapell Royaleで四人のオルガニストの一人に任命した。彼等の役割は音楽を提供するだけでなく演奏指導も行い、そしてたとえ時代が変わってもChapelleは完全な栄光を保持することである。音楽家の総数は、88人の歌手が2つにわかれ別々に活動し、19人の楽器奏者から成っていた。荘厳ミサは日々行われ、2つの大きなモテットを含んでいた。一つ目は約15分間続くが、この2つのモテットはきまってソリスト、合唱、オルガン、オーケストラのために作曲された。奉献式の間には、小さな編成で歌われる短いElevation(これは何?)も含んでいる。
18世紀前半の教会音楽のこの壮大なスタイルで最も賞賛された作曲家は、ミシェル・ドラランド(1657-1726)で、彼は1704年にthe Chapelle Royaleの音楽の運営指揮を完全に引き継いだ。25年後の彼の死後に特別に書いた大きなスケールのモテットのうちで42曲が王の費用で出版がなされた。
クープランの今も残る教会音楽とは完全に対照をなす。事実、全ての音楽がソロのために作曲されており、ときに小さな編成で、ガンバとオルガンを組み入れたアンサンブルを伴っていた。ドラランドと比べて、彼の音楽は小さなものだったが、しかしそれは驚くほどの緊張感があり、ウィルフレッド・ミュラーが「親しみ深い精神性、感情の純粋さ、そして好奇心」と呼ぶものが表現されている。この三つのルソン・デ・テネブルはクープランが生涯で出版した唯一の教会音楽である。これは彼を雇っていた王家のために書いたのでなく、女子修道院のために作曲された。そしてこの曲は、マルク=アントワーヌ・シャルパンティエ(1636-1704)がポート・ロイヤルの修道女のために9つで一組の曲を作曲したことをもとにしている。さらにイタリアの作曲であるカリッシミのイタリア・オペラの伝統を受け継いでいる。クープランのメリスマ的な声部(シラブルの対語。一つの音節に複数の音符をあてること)と和声的な書法が、いわばパリの娯楽作品とは全く異なるフランス・スタイルのもつ雅さ、柔らかさなどの特徴と融合しているのである。
このTenebleの務めは、もちろんそのために書かれているのだが、聖週間の最後の三日の朝課(Martins)と賛課(Lauds)に行われる。第二回バチカン公会議の時代までには、公の典礼の一部であることを終えてしまったのだが、たしかに最近までは非常に重要で意義あるものであった。この務めの歌が歌われる時、それは前夜に行われるものだった。Tenebleの名前はおそらくこの務めが執り行われるに従い広がる闇について言っているものだ。この務めの殆どの時間、唯一の光は三角形の枠に上にある15本のロウソクからのみで、各詩篇と聖書の朗読(lesson)の終わりに一つ一つ消されていき、最後に詩篇50、ミゼレーレ(詩篇51)、キリストの地獄への下降の歌と共に、完全な闇の中で終了する。それぞれの日、三つの聖書からの引用(lesson)が読まれるのだが、クープランの場合最初の一日目の一連の音楽だけが現在残っている。(初版への前書きで、もし望まれるならば、完成させると言っている。また「L'art de toucher」の第二版(1717)では続きを作曲しているため忙しいと述べている。しかし残りのものは出版もされず、草稿すら発見されていない。)
詩は予言者エレミアの哀歌(ラメント)からとられている。まずインキピット(Incipit、ラテン語で「ここより始まる」の意味)で始まり、クープランは伝統に従い、ヘブライ語のアルファベットを置いている。これらアルファベットは大いなる悲痛さ、哀歌を表現するかたちで各連の前に置かれている。各務め(lesson)は聖なる都市の民に向けられたキリストの言葉「エルサレムよ、主の下に立ち返れ(jerusalem convertere ad dominum deum tuum)」で終わる。このラテン語のテキストは数多くの「小休止(petittes pauses)」で区切りをつけられている。そしてクープランは、フランス・バロック音楽ではあまり使われない緊張のあるアリオーソ・レチタティーヴォが持つイタリア風の叙情性のパッセージを挟み込ませることで、多様性をもたらしている。凝った声部の装飾音は、全て注意深く音が配置されており(all carefully notated)、当時の慣習をみても、もはや純粋に装飾的ではなく音楽を構築させている要素(structual)で、多くの装飾音が不協和音やパトスに付されている。全体を通して、全てに慎みがある。それはクープランが深く大切にしていたものである。ここにイタリアスタイルとフランススタイルの2つがまさに統一されている。
最初の2つのルソンはソロのために書かれていいて、三番目が二重唱とこの二重唱が生み出すextra scope(意味が全くわからない)が、徐々に教会を暗闇へと包まれるその場にふさわしい(correct)儀式の中で、劇的に音楽の効果を高めることだろう。人は予想するように、豊かな言葉や絵画性、多くの象徴がある。しかし決して少しの過剰にならない。クープランがこのような感動的で、音楽的、劇的な終わり方を作り出すために採ったこの古典的な平衡感覚は驚くべきものである。
「復活祭のためのモテット」の素晴らしさは対照的である。Chapelle Royaleの曲であったが、今ではちょとした教材になっている。しかしながら、生き生きとしたこの2つの声部の音の連なりは喜びを表現するのに威勢のよさは必要条件ではないことを表している。高音のソプラノのパートは、キリストの復活や霊魂の再生(spiritual rebirth)のキリストの言葉を讃えることと織り交ぜ、寄り添い進んでいく。非常に細かく規律正しくあるために、テネブルに劣らず生き生きと宗教的な情熱を伴っている。
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Trois Leçons De Ténèbres • Motet Pour Le Jour De Pâques
Judith Nelson
Emma Kirkby
Jane Ryan
Christopher Hogwood
L'Oiseau-Lyre , DSLO 536, 1978
少し前、クープランの「ルソン・ド・テネブル」のレコードを発見する。聴いたこともなかったのだが、380円で売っていたから買ったのだけれど、これがなかなかすばらしい。
この曲についていろいろと調べたかったのだが、日本語ではあまりよい情報がないため、ライナーノーツを訳す。なんとまあ訳しにくい英語だこと。英文の画像も貼り付けておく。今回、この曲と出会っていろいろと勉強になった。英語版のWikipediaなんかでは下記を参考にできた。英語版しかないのが残念だけれども。
Leçons de ténèbres:
Canonical hours:
Martins:
この曲は非常に静かな曲で、修道院で流れていたらさぞかし雰囲気があるものだろうなあと思う。非常にカトリック的といってもいいかもしれない。18世紀初期にはまだこのような曲が作曲されていたのだなあと思う。
しかし、なぜエレミア哀歌をテキストに採用しているのかがいまいちよくわからない。イエスの死から復活までの三日間を、なぜエルサレムの荒廃への嘆きとだぶらせているのだろうか。
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「頭や体、足で拍子をとることは下品なことだ。一つの対象をじっと見続けたり、ぼんやりと眺めたりせずに、人はハープシコードの前で安らぎという気品を持つべきだ。他のものに夢中になっていないかのように、仮に何か対象があっても、集まった仲間たちを見なさい。難しい顔をすることについて、スピネット(小型のチェンバロ)やハープシコードの譜面台の上に鏡を置くことで、この習慣を自らやめさせることもできよう。」
これはフランソワ・クープランのL'Art de toucher Le Clavecin(1717)の冒頭からのもので、この助言には単なる演奏指導以上により広い重要なことがある。ここに含意された節度と抑制という考え方は、クープランの音楽に溶け込んでいて、教会のために作られ、今も残る彼の音楽を支配している。ジョン・ホーキンス(1719−1789、作家)の『歴史(General History)』に書かれているようなコレッリの行動は、クープランには当てはまらない。
「彼(コレッリ)がヴァイオリンを弾いている間、いつも顔は悶え、目は炎のように輝き、眉は苦痛で歪んでいるかのようだ」
コレッリの演奏は優美さでも有名であるため、おそらくこの報告は少しは詩的誇張がある。というのもヘンデルがイタリアに滞在した際に、彼はコレッリがあまりに抑えた演奏をしていたので、ある激しさをもつパッセージをどのように演奏してほしいかを自ら示さねばならなかったほどだからだ。平静さを保ちつつ、この偉大なるヴァイオリニストは次のように答えた。「親愛なるサクソン人、この音楽はフランススタイルだ。私は知らないのだよ」
フランス・スタイルとイタリア・スタイルの違いは、グルックとピッチンニやブラームスとワーグナーの論争が後の世代にとってそうであるように、ルイ14世の治世の間、多くの議論の動機であった。「Paralleles des Italiens et des Rransois' (1705) でラグネットは次のように書いている。
「イタリア人が私達の音楽を退屈で無感覚にさせるものであると考えていることに不思議ではない。彼等の感覚からすれば、 一本調子で味気ないものとみえるだろう。例え私達がフランスのアリアの性質を、イタリアのアリアと比較して考えたとしてもだ。アリアにおいてフランス人は、柔らかさ、安らぎ、流麗さ、そして統一性を目的とする。…しかしイタリア人は最も大胆なカデンツァや最も不規則な不協和音をあえて行おうとする。つまり、彼等のアリアは常軌を逸していて、彼等は世界のどの国で作曲されたものとも似せようとしない。…イタリア人は不快で異常なあらゆることをあえてする。そして冒険をする権利を持ち、成功すると確信している人々のようにそれを行うのだ。」
太陽王ルイ14世の周辺でフランス文化生活が変化して以来、王の趣向は非常に影響力があった。音楽はすべての芸術と同じように、「朕は国家なり」という言葉の延長にあった。その主な目的は、王政の栄光や王の趣味を反映することである。というのもの王の壮麗さに伴う単純な調べが尊ばれるべきだったのだ。
しかし18世紀初頭までに、太陽王の芸術への態度は変わってきた。彼の栄光は陰りをみせ、マントノン公爵夫人の影響下にあったからだ。ルイはヴェルサイユ宮殿の壮麗さに関心を失い、1680年前半に生活をし始めたパリから東に数マイル離れたつまらない宮殿からも遠く、小さいがより家庭的なマルリー宮殿へと心を移していった。シャルル・ルブランの絵画の英雄的なスタイルに代わって、より内省的で脆さがあるヴァトーが取って代わり、そしてたとえ王が壮麗さや儀式を愛することを決して全面的に放棄しなかったにしても、自らの壮麗さへの思いは減じていった。
王はもちろん王室の仕事を采配していて、同じように音楽の自らの選択で雇っていたことだろう。1693年、王はフランソワ・クープランをthe Chapell Royaleで四人のオルガニストの一人に任命した。彼等の役割は音楽を提供するだけでなく演奏指導も行い、そしてたとえ時代が変わってもChapelleは完全な栄光を保持することである。音楽家の総数は、88人の歌手が2つにわかれ別々に活動し、19人の楽器奏者から成っていた。荘厳ミサは日々行われ、2つの大きなモテットを含んでいた。一つ目は約15分間続くが、この2つのモテットはきまってソリスト、合唱、オルガン、オーケストラのために作曲された。奉献式の間には、小さな編成で歌われる短いElevation(これは何?)も含んでいる。
18世紀前半の教会音楽のこの壮大なスタイルで最も賞賛された作曲家は、ミシェル・ドラランド(1657-1726)で、彼は1704年にthe Chapelle Royaleの音楽の運営指揮を完全に引き継いだ。25年後の彼の死後に特別に書いた大きなスケールのモテットのうちで42曲が王の費用で出版がなされた。
クープランの今も残る教会音楽とは完全に対照をなす。事実、全ての音楽がソロのために作曲されており、ときに小さな編成で、ガンバとオルガンを組み入れたアンサンブルを伴っていた。ドラランドと比べて、彼の音楽は小さなものだったが、しかしそれは驚くほどの緊張感があり、ウィルフレッド・ミュラーが「親しみ深い精神性、感情の純粋さ、そして好奇心」と呼ぶものが表現されている。この三つのルソン・デ・テネブルはクープランが生涯で出版した唯一の教会音楽である。これは彼を雇っていた王家のために書いたのでなく、女子修道院のために作曲された。そしてこの曲は、マルク=アントワーヌ・シャルパンティエ(1636-1704)がポート・ロイヤルの修道女のために9つで一組の曲を作曲したことをもとにしている。さらにイタリアの作曲であるカリッシミのイタリア・オペラの伝統を受け継いでいる。クープランのメリスマ的な声部(シラブルの対語。一つの音節に複数の音符をあてること)と和声的な書法が、いわばパリの娯楽作品とは全く異なるフランス・スタイルのもつ雅さ、柔らかさなどの特徴と融合しているのである。
このTenebleの務めは、もちろんそのために書かれているのだが、聖週間の最後の三日の朝課(Martins)と賛課(Lauds)に行われる。第二回バチカン公会議の時代までには、公の典礼の一部であることを終えてしまったのだが、たしかに最近までは非常に重要で意義あるものであった。この務めの歌が歌われる時、それは前夜に行われるものだった。Tenebleの名前はおそらくこの務めが執り行われるに従い広がる闇について言っているものだ。この務めの殆どの時間、唯一の光は三角形の枠に上にある15本のロウソクからのみで、各詩篇と聖書の朗読(lesson)の終わりに一つ一つ消されていき、最後に詩篇50、ミゼレーレ(詩篇51)、キリストの地獄への下降の歌と共に、完全な闇の中で終了する。それぞれの日、三つの聖書からの引用(lesson)が読まれるのだが、クープランの場合最初の一日目の一連の音楽だけが現在残っている。(初版への前書きで、もし望まれるならば、完成させると言っている。また「L'art de toucher」の第二版(1717)では続きを作曲しているため忙しいと述べている。しかし残りのものは出版もされず、草稿すら発見されていない。)
詩は予言者エレミアの哀歌(ラメント)からとられている。まずインキピット(Incipit、ラテン語で「ここより始まる」の意味)で始まり、クープランは伝統に従い、ヘブライ語のアルファベットを置いている。これらアルファベットは大いなる悲痛さ、哀歌を表現するかたちで各連の前に置かれている。各務め(lesson)は聖なる都市の民に向けられたキリストの言葉「エルサレムよ、主の下に立ち返れ(jerusalem convertere ad dominum deum tuum)」で終わる。このラテン語のテキストは数多くの「小休止(petittes pauses)」で区切りをつけられている。そしてクープランは、フランス・バロック音楽ではあまり使われない緊張のあるアリオーソ・レチタティーヴォが持つイタリア風の叙情性のパッセージを挟み込ませることで、多様性をもたらしている。凝った声部の装飾音は、全て注意深く音が配置されており(all carefully notated)、当時の慣習をみても、もはや純粋に装飾的ではなく音楽を構築させている要素(structual)で、多くの装飾音が不協和音やパトスに付されている。全体を通して、全てに慎みがある。それはクープランが深く大切にしていたものである。ここにイタリアスタイルとフランススタイルの2つがまさに統一されている。
最初の2つのルソンはソロのために書かれていいて、三番目が二重唱とこの二重唱が生み出すextra scope(意味が全くわからない)が、徐々に教会を暗闇へと包まれるその場にふさわしい(correct)儀式の中で、劇的に音楽の効果を高めることだろう。人は予想するように、豊かな言葉や絵画性、多くの象徴がある。しかし決して少しの過剰にならない。クープランがこのような感動的で、音楽的、劇的な終わり方を作り出すために採ったこの古典的な平衡感覚は驚くべきものである。
「復活祭のためのモテット」の素晴らしさは対照的である。Chapelle Royaleの曲であったが、今ではちょとした教材になっている。しかしながら、生き生きとしたこの2つの声部の音の連なりは喜びを表現するのに威勢のよさは必要条件ではないことを表している。高音のソプラノのパートは、キリストの復活や霊魂の再生(spiritual rebirth)のキリストの言葉を讃えることと織り交ぜ、寄り添い進んでいく。非常に細かく規律正しくあるために、テネブルに劣らず生き生きと宗教的な情熱を伴っている。
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