んー、かなり読むのがしんどかった。どうでもいい内ゲバの話が延々とつづく。出版当時は、タイムリーな内容であったから、ノンフィクションとしては最高におもしろかったのではないかと思うが、現在ではもう正直どうでもいい話になりさがっている。
とはいうものの、なぜ内ゲバや組織内でリンチが起きるのかなんてのは、興味深いテーマではある。
本書は基本的には中核派と革マル派の内ゲバ事件を中心に書いていて、思想の差異についてはそこまで突っ込んではいない。
まあ、そこまでやってもね、というのはある。
黒田寛一、太田竜、西京司らによって革命的共産主義者同盟(革共同)が設立されて、分裂に次ぐ分裂で黒田寛一率いる革マル派が分離し、中核派も必然と出来上がっていく。
内ゲバの論理と左翼の論理
立花さんも言うように、「市民の論理」では内ゲバの論理は理解できない。
ぼくも左翼なので耳が痛い話だ。
組織というのは、ある程度ゆるいつながりでなければ大きくならない。
左翼の場合、組織の理論に従うことが重要なんだけど、これはどんな組織でも同じように思えて、左翼の場合はおもむきが違う。
自民党ではさまざまな考えを内包する組織となっている。よくいわれるように右も左も真ん中もいる。自民党としてのアイデンティティはなんなんだと言いたくなるが、それは大きな枠組みで「保守」とよんでもいい。だから、ちょっと左の保守でもなんでも保守として自民党支持を名乗れる。
民間の会社であれば、金儲けが目的であるので、最終的に設ければ思想がどんなでもぶっちゃけどうでもいい。金儲けという枠組みはけっこう大きい範囲になる。
しかし左翼政党の場合は違う。
イデオロギーが違う。その理論が違う。革命へといたる道が違う。
だから、同じ組織で違う論理を主張すれば、日和見主義だとか裏切り者だとかいわれて自己批判をせまられたりする。
そもそもの組織のあり方、自民党や一般の会社とは違うだ。
だからちょっと理屈が違うだけでも、だめなのだ。お互いを反革命的だとののしっているが、同じ共産主義なのに一緒に運動ができないのだ。
これは本当につらい。
ぼくなんかも、選挙の時、日本共産党に票をいれるぐらいなら、自民党にくれてやると思っちゃっているし。
なんてったって、現代の日本共産党は民族主義路線だし、天皇制打倒をいわないし、もう日和見主義なわけで、そんなの共産主義の名折れだと、ぼくは考え、絶対に票をいれてこなかった。
これは根深い。
たとえ革命理論が異なっていても、共産主義の名の下、集まることができればいいんだが、そうなっていない。
それは理論が先にあって、それで組織をつくるから、理論に反することは、組織に反することになってしまう。
革マル派の暴力論
彼らの暴力論では、暴力そのものは否定されない。これはあたりまえ。暴力の質が重要で、誰が誰に対して、何の目的で、どんな条件で暴力を行使するのか、真のマルクス・レーニン主義に貫かれているかぎり暴力は肯定される。
これは革マル派だけでなく、暴力を肯定するうえであたりまえの理屈なんだけど、ただし「マルクス・レーニン主義」というところがネックで、それ以外は正しくないとなっちゃう。
でも、革命ってそういうもんだし。
革マル派の組織論
立花死は、黒田寛一『日本の反スターリン主義運動』の
「他党派の戦術やイデオロギーを批判し(理論上ののりこえ)、他党派を革命的に解体するための組織活動を展開する(組織上ののりこえ)ことを通じて、〈運動上ののりこえ〉を実現する」
というところが肝だという。
つまり、通常では運動で多くのシンパをつくり、そして組織で他党派を圧倒する、という順序だが、革マル派の場合、他党派を圧倒してから運動を広げるという理屈になっている。
内ゲバのエスカレーション
内ゲバとは、傍観者からすれば同じ共産主義者で、なおかつ革マルと中核は同根だから内ゲバになるが、当事者からすれば、敵は反革命になる。なんとまあばかばかしい。
はては、革命的殺人というのがでてくる。たしかに革命するためには殺人がさけてとおれないけど、中核派、革マル派にとっての致命的なミスは、彼らがそれほど力をもっていなかったということで、幕末のときもテロが横行していたが、もちろん薩摩と長州のある種の内ゲバもあったが、薩摩も長州も力をもっていた。
革マル派も中核派も残念ながら、バックにだれもいないのが致命的だった。
中核派は鉄パイプからさらにエスカレートしてバールを使いはじめる。鉄パイプでもかなりヤバイがバールへいきつく。鉄パイプは中が空洞だから、それどほの重さがないので、殺傷能力はバールに比べれば低い。
そしてそれに対する革マル派の反中核派キャンペーンもおもしろくて、自分たちを非難した知識人にたいして、ナーバス作戦なることをおこなう。ニワトリの首、牛の目玉、はては人糞を送りつける。
さらに中核派のいる学校にイラスト付きのビラを送りつける。
「学校ではやさしい先生ですが(教室でのやさしい先生)→ところが……ギロッ、目つきも変わり(子供たちと分かれると吸血鬼のような顔になる)→ジャーン、学校が終わると殺し屋に返信(中核のヘルメットをかぶり、バールをもっている)→死ね! 死ね! ドスッ、グシャ、うぎゃあ〜〜あ(バールをふるって革マルの脳ミソを叩き割っている)→これが君の先生のほんとうのすがたなのだ。(こわいよーと泣いている子供たち)」
なかなかセンスがある。
ついに告訴、そして陰謀論へ
革マル派は中核派を告訴する。それにたいして中核派は権力への密告として革マル派を非難する。
革マル派も中核派も、お互いを権力の犬を批判している。これはどちらも確証がなく、憶測で非難していて、中核派のK=K理論も革マル派の謀略論も、なんというか、立花さんがいうように不毛だよ。
警察権力は戦前の方が力をもっているかのように思っているが、実は現代のほうが大きい権力をもっている。戦前は内務省が管轄していたが、戦後解体される。いま日本版FBIだとかをつくろうとか話題になっていて日本にはそんな機関がないと勘違いしているが、実際はある。公安警察は、たしかにいろいろと制約はあるだろうが、日本にある反政府組織のみならず、政治家の用心たちの情報も握っている。
感想
新左翼の凋落は公安側の計画通りなのか、それとも新左翼側の自滅なのかはわからない。いずれにせよ、新左翼は人心を味方につけることはできなかった。
このことは左翼のひとたちは真剣に考えたほうがいい。
自分たちが正義だと考え、四方八方に敵を作りすぎる。
左翼は理論を重要視しすぎ、神学論争のていをなしていく。
大きな枠組みで、左翼をとりこめる政党があればいいのだが、残念ながらいまのところない。
社民党を見ていると自民党のほうがまだましに見えてしまうし、日本共産党も立憲民主党なども同じ。
だから、れいわ新撰組は多くのあぶれた左翼たちをとりこめる可能性があるのはたしか。山本太郎の立ち回りは、ときにはどうかと思うこともあるが、なかなかいい線いっていると思う。
前回の参院選では、障害を持つ方を比例で当選させたのは快挙で、これは弱者味方である社民党も共産党もやってこなかった。当事者を国会に送り込むことをしなかった。
ポピュリズムと批判されていても、この件についてはよくやったと思う。
とはいうものの、なぜ内ゲバや組織内でリンチが起きるのかなんてのは、興味深いテーマではある。
本書は基本的には中核派と革マル派の内ゲバ事件を中心に書いていて、思想の差異についてはそこまで突っ込んではいない。
まあ、そこまでやってもね、というのはある。
黒田寛一、太田竜、西京司らによって革命的共産主義者同盟(革共同)が設立されて、分裂に次ぐ分裂で黒田寛一率いる革マル派が分離し、中核派も必然と出来上がっていく。
立花さんも言うように、「市民の論理」では内ゲバの論理は理解できない。
ぼくも左翼なので耳が痛い話だ。
組織というのは、ある程度ゆるいつながりでなければ大きくならない。
左翼の場合、組織の理論に従うことが重要なんだけど、これはどんな組織でも同じように思えて、左翼の場合はおもむきが違う。
自民党ではさまざまな考えを内包する組織となっている。よくいわれるように右も左も真ん中もいる。自民党としてのアイデンティティはなんなんだと言いたくなるが、それは大きな枠組みで「保守」とよんでもいい。だから、ちょっと左の保守でもなんでも保守として自民党支持を名乗れる。
民間の会社であれば、金儲けが目的であるので、最終的に設ければ思想がどんなでもぶっちゃけどうでもいい。金儲けという枠組みはけっこう大きい範囲になる。
しかし左翼政党の場合は違う。
イデオロギーが違う。その理論が違う。革命へといたる道が違う。
だから、同じ組織で違う論理を主張すれば、日和見主義だとか裏切り者だとかいわれて自己批判をせまられたりする。
そもそもの組織のあり方、自民党や一般の会社とは違うだ。
だからちょっと理屈が違うだけでも、だめなのだ。お互いを反革命的だとののしっているが、同じ共産主義なのに一緒に運動ができないのだ。
これは本当につらい。
ぼくなんかも、選挙の時、日本共産党に票をいれるぐらいなら、自民党にくれてやると思っちゃっているし。
なんてったって、現代の日本共産党は民族主義路線だし、天皇制打倒をいわないし、もう日和見主義なわけで、そんなの共産主義の名折れだと、ぼくは考え、絶対に票をいれてこなかった。
これは根深い。
たとえ革命理論が異なっていても、共産主義の名の下、集まることができればいいんだが、そうなっていない。
それは理論が先にあって、それで組織をつくるから、理論に反することは、組織に反することになってしまう。
革マル派の暴力論
彼らの暴力論では、暴力そのものは否定されない。これはあたりまえ。暴力の質が重要で、誰が誰に対して、何の目的で、どんな条件で暴力を行使するのか、真のマルクス・レーニン主義に貫かれているかぎり暴力は肯定される。
これは革マル派だけでなく、暴力を肯定するうえであたりまえの理屈なんだけど、ただし「マルクス・レーニン主義」というところがネックで、それ以外は正しくないとなっちゃう。
でも、革命ってそういうもんだし。
革マル派の組織論
立花死は、黒田寛一『日本の反スターリン主義運動』の
「他党派の戦術やイデオロギーを批判し(理論上ののりこえ)、他党派を革命的に解体するための組織活動を展開する(組織上ののりこえ)ことを通じて、〈運動上ののりこえ〉を実現する」
というところが肝だという。
つまり、通常では運動で多くのシンパをつくり、そして組織で他党派を圧倒する、という順序だが、革マル派の場合、他党派を圧倒してから運動を広げるという理屈になっている。
内ゲバのエスカレーション
内ゲバとは、傍観者からすれば同じ共産主義者で、なおかつ革マルと中核は同根だから内ゲバになるが、当事者からすれば、敵は反革命になる。なんとまあばかばかしい。
はては、革命的殺人というのがでてくる。たしかに革命するためには殺人がさけてとおれないけど、中核派、革マル派にとっての致命的なミスは、彼らがそれほど力をもっていなかったということで、幕末のときもテロが横行していたが、もちろん薩摩と長州のある種の内ゲバもあったが、薩摩も長州も力をもっていた。
革マル派も中核派も残念ながら、バックにだれもいないのが致命的だった。
中核派は鉄パイプからさらにエスカレートしてバールを使いはじめる。鉄パイプでもかなりヤバイがバールへいきつく。鉄パイプは中が空洞だから、それどほの重さがないので、殺傷能力はバールに比べれば低い。
そしてそれに対する革マル派の反中核派キャンペーンもおもしろくて、自分たちを非難した知識人にたいして、ナーバス作戦なることをおこなう。ニワトリの首、牛の目玉、はては人糞を送りつける。
さらに中核派のいる学校にイラスト付きのビラを送りつける。
「学校ではやさしい先生ですが(教室でのやさしい先生)→ところが……ギロッ、目つきも変わり(子供たちと分かれると吸血鬼のような顔になる)→ジャーン、学校が終わると殺し屋に返信(中核のヘルメットをかぶり、バールをもっている)→死ね! 死ね! ドスッ、グシャ、うぎゃあ〜〜あ(バールをふるって革マルの脳ミソを叩き割っている)→これが君の先生のほんとうのすがたなのだ。(こわいよーと泣いている子供たち)」
なかなかセンスがある。
ついに告訴、そして陰謀論へ
革マル派は中核派を告訴する。それにたいして中核派は権力への密告として革マル派を非難する。
革マル派も中核派も、お互いを権力の犬を批判している。これはどちらも確証がなく、憶測で非難していて、中核派のK=K理論も革マル派の謀略論も、なんというか、立花さんがいうように不毛だよ。
警察権力は戦前の方が力をもっているかのように思っているが、実は現代のほうが大きい権力をもっている。戦前は内務省が管轄していたが、戦後解体される。いま日本版FBIだとかをつくろうとか話題になっていて日本にはそんな機関がないと勘違いしているが、実際はある。公安警察は、たしかにいろいろと制約はあるだろうが、日本にある反政府組織のみならず、政治家の用心たちの情報も握っている。
感想
新左翼の凋落は公安側の計画通りなのか、それとも新左翼側の自滅なのかはわからない。いずれにせよ、新左翼は人心を味方につけることはできなかった。
このことは左翼のひとたちは真剣に考えたほうがいい。
自分たちが正義だと考え、四方八方に敵を作りすぎる。
左翼は理論を重要視しすぎ、神学論争のていをなしていく。
大きな枠組みで、左翼をとりこめる政党があればいいのだが、残念ながらいまのところない。
社民党を見ていると自民党のほうがまだましに見えてしまうし、日本共産党も立憲民主党なども同じ。
だから、れいわ新撰組は多くのあぶれた左翼たちをとりこめる可能性があるのはたしか。山本太郎の立ち回りは、ときにはどうかと思うこともあるが、なかなかいい線いっていると思う。
前回の参院選では、障害を持つ方を比例で当選させたのは快挙で、これは弱者味方である社民党も共産党もやってこなかった。当事者を国会に送り込むことをしなかった。
ポピュリズムと批判されていても、この件についてはよくやったと思う。
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