イスラームの論理がなんたるかがよくわかる。そしてその可能性が語られている。
国民国家システムが破綻しているかどうかといえば、現実としては破綻はしていない。破綻している国はあるが、大勢ではそこそこ成功はしている。
ただし、それが倫理的である体制であるかといえば、否であり、現在日本では難民の受け入れをしていないことは、中田さんが言うように、人間が人間に移動の制限していることであり、それは人道にもとるといえる。
本書は、イスラームの可能性が語られていて、それは現在の国民国家システムのアンチテーゼとなっている。
実際、イスラームの歴史がイスラーム法に則った世界をつくり上げていたかというと疑問だけれどもの、近代の西洋由来の法概念や政治理念がいかに欺瞞に満ち、普遍性を持ちえないのかがわかる。
ISISの首長イブラヒーム・バグダディ―がモスルでカリフ位に推戴し、カリフ制が復興したことを世界史的事件と位置づけている。
「カリフ制は、領域に成立するものではない。言うなればカリフ制は、ムスリムの心の中に再興されたのである」(7)
「カリフ」は「後継者」「代理人」を意味する普通名詞とのことで、ふつうに現代アラビア語で用いられているのだと。そうなのか。それでイスラーム教学で「カリフ」を指す言葉は「イマーム」だと。そうだったのか。ぼくはてっきりシーア派で使われる後継者のことを「イマーム」だと思っていたが。
カリフとは
なかなか興味深いのが、内乱の概念規定をするため「カリフ」に定義を与えたということで、イスラーム法で合法性と正統性が承認されていったらしい。それはカリフに反抗する叛徒を賊軍とし、カリフ、そしてカリフを助けるものを「官軍」ということになる。
まずバイア(忠誠誓約)が締結され、前任カリフの指名があり、カリフとなる。そしてカリフになる諸条件があれば、たとえ邪悪な人間でもイスラーム的教養が欠けていても、カリフ位は締結されるという。
「イスラームは、『誰がカリフであるか』を決める人間や機関を視度的に設けることはしなかった。カリフ制は、人間の心の外のどこかに『対象として(objectively)』存在するのではなく、ムスリム一人一人の心の中に、いわば「主体的に(subjectively)存在する」(166)
「カリフ(イマーム)」とはイスラーム学によって定義を与えられたイスラーム学の概念だり、カリフ制とは一義的にはイスラーム学者の心の中にあるのであり、イスラーム学者がカリフ制の擁立義務を承認している限りは存在している」(166)
イブン・タイミーヤ
スンナ派のカリフ制復興運動のほとんどがサラフィー主義に由来しているという。サラフィー主義はイブン・タイミーヤに理論に求められる。
イブン・タイミーヤはアンチテーゼをだす。シャリーアが命ずるに従うべきであり、それに逸脱する者、それがカリフであった場合、それは反抗ではなく討つべきものとなる。これはタイミーヤのイルハン国への批判のようで、モンゴルはシャリーアではなくモンゴルの法(サヤ)に従っていて、チンギス・カンを神として崇めている。
タイミーヤは、カリフがウンマの中で最も大きい権力を有する者であって権力の源泉ではないとする。それ以前ではすべての職能はカリフに源泉があるとされていた。
タイミーヤはカリフを相対化していく。カリフもイジュティハードをしなければならない、つまりクルアーンとハディースを指針とすることで、それは万人もそうなのであるように、カリフもそうあるべきとした。
ウラマーゥ(イスラーム学者)は「預言者の相続人」で、その権威はシャリーはに由来し、カリフも従わなけれればならない。そしてその源泉はムハンマドが開示した「知」にあり、それを裏付けるものは。預言者に遡るパーソナルな「知」の相伝の学統となる。これはカリフ帝国という制度的な枠組みを越えて、イスラームのネットワークをつくりだした。
解放党
サラフィー主義の亜種である政党で、政治理論の四原則(憲法草案第20条)が以下、
1 「主権(スィヤーダ)はイスラーム法(シャルウ)に帰属し、人民にではない。
2 権力(スルターン)はウンマに属する。
3 ただ一人の国家元首の任命がムスリムの義務である。
4 イスラーム法の立法化は国家元首のみの大権であり、彼が憲法ほかすべての法律を制定する。
そして為政者が不信仰の法律で統治をした場合は、為政者に対して武装蜂起や奪権闘争が義務となる。
ただし解放党は放伐の義務は、あくまでダール・アル=イスラームにおいてとして、ダール・アル=クフルへの義務ではないとしている。そのため、サラフィー・ジハード主義とは異なっている。
現代ではすべてがダール・アル=クフルであり、そのため武力闘争ではなく、党の思想を広め、文化活動、政治闘争を経て、最終段階でカリフ制樹立を目指す。
イスラーム国の意味
アール・アル=シャイフは、背教を二種類あるという、個々人の信仰だけでなく、統治システムに関わること。
だから、西洋の人が定めた法によって統治することは不信仰なものとなる。
そしてこれが「ジャーヒリーヤ論」の基礎づけとなる。「ジャーヒリーヤ」は「無明」という意味のようんで、これを克服するためにジハードを説く革命論となる。
カリフ論において、アル=カイーダは同胞団と同じく、地方国家レベルでイスラーム国家を作っていき、それらを最終的に統合してカリフ制を樹立させるというもの。
ただし、アル=カイーダはそれ以上の具体的なプランがあるわけではなく、イデオロギー色は薄い。だからこそ多くのスンナ派組織のハブ機能をはたした。
アブー・バクル・バグダディ―はイスラーム国をつくりカリフになることは、領域国民国家システムへの挑戦であり、サイクス・ピコ協定体制を破棄したことを宣言している。
イスラーム国は知らず知らずのうちに残虐な全体主義的政警察国家のやり方をしているが、このようなカリフ制が出現したことはウンマ全体の責任だという。「民主主義」「中道」「人権」などの西洋の概念で、保身を第一に作り上がられた中東の国家は、イスラーム国のようなカリフ制を誕生させた。中田さんはイスラーム国は、このような責任を自覚しないウンマに対する試練、神の鞭としてこの世に送られた存在だという。
イスラーム法の聖俗
近代に政治の枠組みでは、イスラームは「政教一致」と見なされるが、イスラーム法の運用は神的霊感とは無縁なものであり、信仰による理解は不必要である。
イスラーム法体系が成立し、法学者が成立する。そして法も世俗化する。イスラーム法はたしかに神的啓示であるが、だからといって「宗教的」とはいえない。法の起源は「宗教的」だろうが「世俗的」だろうが、起源は必然的に「神聖」かつ「非合理的」だからだ。アメリカの独立宣言にしろフランスの人権宣言しろ、「神聖」「聖性」をもとにしている。イスラーム法だけを「宗教的」と呼ぶのは不適切。
イスラームにおいては法と宗教は完全に分化していて、カリフ政権は行政のみならず法においても、宗教とは分離した「世俗」政体といえる。
そして、領域国民国家は必然的に全体主義への道をひらく。イスラームはキリスト教とは違い、個々人の内面の信仰には干渉しない。言うまでもなくカリフにもその権限はない。住民はたんにイスラームの公共性を外面的に遵守すればよい。
イスラーム法の統治
「この大地はアッラー以外の誰のものでもなく、それ故、この大地をバラバラに切り刻み、その間の移動を制限することは何人にも許されない。西洋の領域国民国家のイデオロギーとは対照的に、イスラームではムスリムが別々の国家に属することを禁じている。なぜならアッラーは『まことに私はあなた方を男と女に創造し、また民族と部族としてお互いを知り合うために造った。』(クルアーン49章13節)」(183)だから、国境を廃止しイスラーム秩序のもと大地を統合することが要請される。
「カリフ制とは、一言で言うなら、『法の支配』を実現することにより、人間を阻害する偶像神リヴァイアサン領域国民国家の姿で発言した人間によr支配ぁら人類と大地を開放する「持続可能な良き統治(sustainable good governance)」である。」
国民国家システムが破綻しているかどうかといえば、現実としては破綻はしていない。破綻している国はあるが、大勢ではそこそこ成功はしている。
ただし、それが倫理的である体制であるかといえば、否であり、現在日本では難民の受け入れをしていないことは、中田さんが言うように、人間が人間に移動の制限していることであり、それは人道にもとるといえる。
本書は、イスラームの可能性が語られていて、それは現在の国民国家システムのアンチテーゼとなっている。
実際、イスラームの歴史がイスラーム法に則った世界をつくり上げていたかというと疑問だけれどもの、近代の西洋由来の法概念や政治理念がいかに欺瞞に満ち、普遍性を持ちえないのかがわかる。
ISISの首長イブラヒーム・バグダディ―がモスルでカリフ位に推戴し、カリフ制が復興したことを世界史的事件と位置づけている。
「カリフ制は、領域に成立するものではない。言うなればカリフ制は、ムスリムの心の中に再興されたのである」(7)
「カリフ」は「後継者」「代理人」を意味する普通名詞とのことで、ふつうに現代アラビア語で用いられているのだと。そうなのか。それでイスラーム教学で「カリフ」を指す言葉は「イマーム」だと。そうだったのか。ぼくはてっきりシーア派で使われる後継者のことを「イマーム」だと思っていたが。
カリフとは
なかなか興味深いのが、内乱の概念規定をするため「カリフ」に定義を与えたということで、イスラーム法で合法性と正統性が承認されていったらしい。それはカリフに反抗する叛徒を賊軍とし、カリフ、そしてカリフを助けるものを「官軍」ということになる。
まずバイア(忠誠誓約)が締結され、前任カリフの指名があり、カリフとなる。そしてカリフになる諸条件があれば、たとえ邪悪な人間でもイスラーム的教養が欠けていても、カリフ位は締結されるという。
「イスラームは、『誰がカリフであるか』を決める人間や機関を視度的に設けることはしなかった。カリフ制は、人間の心の外のどこかに『対象として(objectively)』存在するのではなく、ムスリム一人一人の心の中に、いわば「主体的に(subjectively)存在する」(166)
「カリフ(イマーム)」とはイスラーム学によって定義を与えられたイスラーム学の概念だり、カリフ制とは一義的にはイスラーム学者の心の中にあるのであり、イスラーム学者がカリフ制の擁立義務を承認している限りは存在している」(166)
イブン・タイミーヤ
スンナ派のカリフ制復興運動のほとんどがサラフィー主義に由来しているという。サラフィー主義はイブン・タイミーヤに理論に求められる。
イブン・タイミーヤはアンチテーゼをだす。シャリーアが命ずるに従うべきであり、それに逸脱する者、それがカリフであった場合、それは反抗ではなく討つべきものとなる。これはタイミーヤのイルハン国への批判のようで、モンゴルはシャリーアではなくモンゴルの法(サヤ)に従っていて、チンギス・カンを神として崇めている。
タイミーヤは、カリフがウンマの中で最も大きい権力を有する者であって権力の源泉ではないとする。それ以前ではすべての職能はカリフに源泉があるとされていた。
タイミーヤはカリフを相対化していく。カリフもイジュティハードをしなければならない、つまりクルアーンとハディースを指針とすることで、それは万人もそうなのであるように、カリフもそうあるべきとした。
ウラマーゥ(イスラーム学者)は「預言者の相続人」で、その権威はシャリーはに由来し、カリフも従わなけれればならない。そしてその源泉はムハンマドが開示した「知」にあり、それを裏付けるものは。預言者に遡るパーソナルな「知」の相伝の学統となる。これはカリフ帝国という制度的な枠組みを越えて、イスラームのネットワークをつくりだした。
解放党
サラフィー主義の亜種である政党で、政治理論の四原則(憲法草案第20条)が以下、
1 「主権(スィヤーダ)はイスラーム法(シャルウ)に帰属し、人民にではない。
2 権力(スルターン)はウンマに属する。
3 ただ一人の国家元首の任命がムスリムの義務である。
4 イスラーム法の立法化は国家元首のみの大権であり、彼が憲法ほかすべての法律を制定する。
そして為政者が不信仰の法律で統治をした場合は、為政者に対して武装蜂起や奪権闘争が義務となる。
ただし解放党は放伐の義務は、あくまでダール・アル=イスラームにおいてとして、ダール・アル=クフルへの義務ではないとしている。そのため、サラフィー・ジハード主義とは異なっている。
現代ではすべてがダール・アル=クフルであり、そのため武力闘争ではなく、党の思想を広め、文化活動、政治闘争を経て、最終段階でカリフ制樹立を目指す。
イスラーム国の意味
アール・アル=シャイフは、背教を二種類あるという、個々人の信仰だけでなく、統治システムに関わること。
だから、西洋の人が定めた法によって統治することは不信仰なものとなる。
そしてこれが「ジャーヒリーヤ論」の基礎づけとなる。「ジャーヒリーヤ」は「無明」という意味のようんで、これを克服するためにジハードを説く革命論となる。
カリフ論において、アル=カイーダは同胞団と同じく、地方国家レベルでイスラーム国家を作っていき、それらを最終的に統合してカリフ制を樹立させるというもの。
ただし、アル=カイーダはそれ以上の具体的なプランがあるわけではなく、イデオロギー色は薄い。だからこそ多くのスンナ派組織のハブ機能をはたした。
アブー・バクル・バグダディ―はイスラーム国をつくりカリフになることは、領域国民国家システムへの挑戦であり、サイクス・ピコ協定体制を破棄したことを宣言している。
イスラーム国は知らず知らずのうちに残虐な全体主義的政警察国家のやり方をしているが、このようなカリフ制が出現したことはウンマ全体の責任だという。「民主主義」「中道」「人権」などの西洋の概念で、保身を第一に作り上がられた中東の国家は、イスラーム国のようなカリフ制を誕生させた。中田さんはイスラーム国は、このような責任を自覚しないウンマに対する試練、神の鞭としてこの世に送られた存在だという。
イスラーム法の聖俗
近代に政治の枠組みでは、イスラームは「政教一致」と見なされるが、イスラーム法の運用は神的霊感とは無縁なものであり、信仰による理解は不必要である。
イスラーム法体系が成立し、法学者が成立する。そして法も世俗化する。イスラーム法はたしかに神的啓示であるが、だからといって「宗教的」とはいえない。法の起源は「宗教的」だろうが「世俗的」だろうが、起源は必然的に「神聖」かつ「非合理的」だからだ。アメリカの独立宣言にしろフランスの人権宣言しろ、「神聖」「聖性」をもとにしている。イスラーム法だけを「宗教的」と呼ぶのは不適切。
イスラームにおいては法と宗教は完全に分化していて、カリフ政権は行政のみならず法においても、宗教とは分離した「世俗」政体といえる。
そして、領域国民国家は必然的に全体主義への道をひらく。イスラームはキリスト教とは違い、個々人の内面の信仰には干渉しない。言うまでもなくカリフにもその権限はない。住民はたんにイスラームの公共性を外面的に遵守すればよい。
イスラーム法の統治
「この大地はアッラー以外の誰のものでもなく、それ故、この大地をバラバラに切り刻み、その間の移動を制限することは何人にも許されない。西洋の領域国民国家のイデオロギーとは対照的に、イスラームではムスリムが別々の国家に属することを禁じている。なぜならアッラーは『まことに私はあなた方を男と女に創造し、また民族と部族としてお互いを知り合うために造った。』(クルアーン49章13節)」(183)だから、国境を廃止しイスラーム秩序のもと大地を統合することが要請される。
「カリフ制とは、一言で言うなら、『法の支配』を実現することにより、人間を阻害する偶像神リヴァイアサン領域国民国家の姿で発言した人間によr支配ぁら人類と大地を開放する「持続可能な良き統治(sustainable good governance)」である。」
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