2021/03/30

『反穀物の人類史――国家誕生のディープヒストリー』 ジェームズ・C・スコット/立木勝訳 みすず書房

僕らは国家を基準にしか歴史を検討できない。国家管理が永続的なものだという幻想ももっている。
驚くべきことに、定住が行われはじめていた紀元前5000年、6000年では乾燥地帯ではなく湿地帯だったという。沖積層が現在の水準よりも10メートル以上低かった。乾燥地帯だったというのは現在を過去に投影したにすぎない。
初期の定住は沖積層で発生している。
湿地帯では大規模な灌漑整備を必要とせず、食物獲得においてのポートフォリオでは狩猟、漁労、採食、採集といった多様性に富んでいた。そしてこのような環境では単一の強権的な国家はできなかった。湿地では強権的に徴税する必然性もなく、穀物を備蓄すること、インフラの整備などにうおる労働集約を必要としない。湿地は共有資源だった。
スコット氏はここで氾濫農法(減水農法)を上げている。定期的な河川の氾濫は、土壌を豊かにし、農業で最も労働をさく施肥、耕作、種まきをコストゼロで達成できる。

農業が人類進化の一因だったかもしれないが、狩猟採集よりも当初は優れていたというわけではない。遅延リターンとして、農業が将来への投資としてい位置づけている説もあるが、狩猟採集でも保存食は作られるし、道具も必要となる。ある面では農業よりも複雑な協働と調整が必要になる。農業の有利であるわけではまったくない。
狩猟採集民は湿地、森林、サバンナ、乾燥地などを股にかけ食料をとるゼネラリストだった。国家の分業社会では、人間の生涯の貧困を見ている。

「ブロードスペクトラム革命」というのがあり、これは何かしらの理由で栄養価が低い資源を活用せざるを得ない状況になり、耕作農業、家畜の飼育という労苦に到達したというもの。また人口圧が高まったために以前より多くの者を周辺環境から採取する必要もでてくる。ここから集約的な作物栽培、家畜飼育が必要となっていく。
これにより疫病のリスクが成り立つ。都市化が郡性疾患を主な死因にした。狩猟採集民においては腸チフス、アメーバ赤痢、ハンセン病などの人間以外の生物が保有している宿主のものが主だった。フェロー諸島の麻疹の例が興味深い。これは『1493』に書いてあったか。ここから教訓をえるとすれば、感染病は全員がかかって集団免疫と免疫を持たないものが全員死ぬまで続くということであり、また感染病は波をもっていることだろう。ある程度の人口がいることで感受性の強い宿主が一定程度存在し、そしてこれらの人に感染して、恒久的な感染が維持される。

著者は農耕文明の隆盛にはまさに定住自体に答えを見いだしている。狩猟採集民のほうが労働時間は短く、栄養価では優れていたが、出生率は定住の方が高かった。たとえ定住の場合死産の割合が高くてても、多産であるため狩猟採集民よりも人口増に貢献した。これは長い年月、2000年とか5000年という歳月でみると大きな差として現れてくる。

本書における国家とは何か。それは税の査定と徴収専門として、単数もしくは複数の支配者に対して責任を負う役人階層を有する制度、としている。そしてさらに言えば、分業があり、階級社会となっていること。この条件当てはまる国家が紀元前3200年までに登場したウルクだった。
国家は穀物を税として徴収する。なぜなら運搬、保管、収穫の面で他の作物よりも国家にとって都合が良いからという。
国家が文字をもつ動機は、行政運営のためで、メソポタミアでは簿記目的以外で使用されるには、文字の出現から500年以上も経ってからとなる。ウル第三王朝のギルガメッシュ叙事詩は紀元前2100年まで遡れるが、楔形文字が商業や行政で使用されて方1000年もあとになる。文字は行政を強く連想させるものだった。
本書のおもしろい指摘は、国家が人口管理を基本としているということだ。これはフーコーの近代国家の生権力にも繋がるところ。
人は常に外部に流、死亡率も高かった。城壁は外敵から守ると同様に、内部の人間の外部への流出を防ぐためでもあった。死亡率や出生率が重要な要素となり、人口が減れば外部から調達する必要にがでてくる。それは戦争によって調達されていく。奴隷も同様に生産に従事させられていく。戦争の一番の目的は領土獲得ではなく捕虜の獲得だったといってもいい。

本書の最大の魅力はもう一つ、「崩壊」について語るところだ。中央集権の終わりは暗黒時代をもたらしたのではないということだ。
古代の国家は疫病や天変地異、気候変動や戦争、または環境破壊などにより非常に脆弱だった。ウル第三王朝が五代の王が引き継ぎ100年続いたことが異例中の異例だったという。
何かしらの理由で国家が崩壊しても、住民たちも一斉に消滅したり死んだりするわけではない。外部へと逃亡する。
国家の崩壊は必ずしも文明や文化も同時に消滅したことを意味していない。離散していった民衆たちは、文化を保持しながら生きていた。国家管理の時代よりも栄養面であったり労働面でも優れていたと思われる。
例えばイリアス、オデュッセイアは古代ギリシアの暗黒時代に語り継がれたものであり、それが後世に文字で残されたにすぎない。たんに暗黒時代には巨大な建築物やインフラ整備、生産活動が行われず、現代からは何も見えないことで、我々からすれば「暗黒」になるにすぎない。

定住と遊牧、狩猟採集の境界を明確に線を引くことができないのかもしれない。
国家が崩壊したあとの暗黒時代は暗黒であったかどうかは議論がある。狩猟採集民や遊牧民たちは、定住している集落や国を略奪することがあったが、しかしだからと言って常に略奪をしていたわけではない。そもそも集落や国家が少ないのだから、略奪するよりは交易をするほうがいい。また国家よりも遊牧民のほうが武力で優り、そのため交通の安全は遊牧民にかかっていた。遊牧民たちは、国家に交通の安全と引き換えに貢物を要求する。
このあたりの話は、モンゴルでもお馴染みになっている。

遊牧民たちは国家に手を貸していたが時代、それは彼らにとって黄金時代だったか、いつのまにか立場は逆転をしていく。彼らは国家の発展に手を貸し、自分で自分の首をしめていた。

2021/03/17

『晩年のカント』 中島義道 講談社現代新書

はじめて中島さんの本を読む。カントへのイメージが一変した。
食べ方とか汚いとか、なんか人間的でいい。決まった時間に散歩するというのも、若いころからしていた習慣ではなく、自分の家をもった63歳ごろで、病弱だったので健康のためにやっていたという。そして病弱なからだについて自己診断で自己流の療養法を行っていたという。ビールが嫌いで、誰かが病気になったとか死んだとかいうとビールのせいにしたらしい。
さらに女性観がひどいのなんの。女性が悪を避けるのは不正だからではなく、悪が醜いからだというのだ。女性に道徳心を認めていない。
本書にカントの草稿が載っているが、病的なほどびっしり書いている。

カントの「根本悪」という概念がおもしろい。真実性の原理と幸福の原理があって、人間は幸福の原理を選択する本性がある。なぜなら人間は感性的であり理性的だからだ。
そしてこれを必然的であるとはみなさない。というのも「べし」という普遍性と一般人が守っている経験的規則がある。そして必然性とは自然法則や道徳法則にかなったもの、理性にかなったものにしか使用してはならないという。つまり法則(理性)に反するものは必然的ではない。
よってすべての人に責任を帰すことができる、という結論になる。根本悪に陥ることが物理法則のように必然的だとすると、根本悪に陥る人間に責任を課すことはできない。つまり根本悪は必然的ではなく、選択しうるものである、となる。

「性癖」には三つある。1人間心情の脆さ。2人間心情の不純。3人間心情の悪性。
3は1と2で異なる構造をもつ。1と2は感性が理性にまさって陥ることで、3は理性が感性に引き起こすもの。
ここから人間は感性的存在者であり、かつ理性的存在者であることが導きかれる。根本悪はまさに感性的存在者にある理性が引き起こすものとなる。

『たんなる理性の限界内における宗教』が、物議をよび、カントは弁明をする。ここがまず素晴らしいところ。この弁明がが上記の根本悪と照らしてみると、まさにカントは根本悪をなしてしまっている。好意的にみてもそうなる。
そしてカントはスピノザのごとくキリスト教の有用性を説いたりしている。

カントの時間についてもいい感じ。
「時間の長さ」とは、過去を想起することから長さが生まれる。

んー他の中島さんの本を読んでみようか。

2021/03/16

『理論疫学者・西浦博の挑戦――新型コロナからいのちを守れ!』 西浦博/川端裕人 中央公論新社

僕は前提として西浦さんには批判的。
「3密」の誕生とあるが、正直そんなたいしたことではないと思う。まあ言葉としては巧みだと思うが。でもこれがいかに日本社会を歪めているかを理解しているのか。コロナウイルスが飛沫や接触で感染するのは別段格別な証拠が必要なのかと思う。
風邪ひいたら、近くに寄らないというのは、多くの人に同意が得られることだろうし、閉じられた空間は喚起が良くないのなんて、あたりまえだし、なんだかね。
この3密という言葉は社会を壊しかけていることを何も考えていない。

日本がクラスター対策を重視している理由は、感染の仕方が二通り考えられ、一つはインフルのように一人の感染者がきちんとふたりずるに感染させるというのと、SARSのような一部の人がたくさん感染させるというもので、西浦さんたちは後者のSARSに近いものと考えて、だからこそ重点的なクラスター対策をとっていたようだ。でも欧米予想外の拡がりとなったので、どうも違うとなる。

日本と欧米の対策で、日本の優れているのは感染者の濃厚接触者に対するアプローチだけでなく、その場を共通の感染源となった場を見いだして、その場を共有した人たちをも追跡したことだという。

42万人という数字について、川端さんは二つの理由で西浦さんを擁護している。
一つは、西浦さんの計算はあくまでも「最悪の被害想定」であるということ、そして二つ目が被害想定の期間の問題で、終息までの期間なのだから、まだ42万人は有効期間内であるという。
そしてさらには42万人というのは、ファクターXの存在が明らかになり、仮に日本人が何らかの免疫をもっているなどが判明しないかぎりは、同様の関数となり、42万人という数字は変わらないという。マジかよ。これって科学というよりも神学ではないか。
ならば100万人でも1000万人でもいいじゃない。対策次第でゼロが一つも二つもとれていくってい、まあ至極普通のことを言っているけど、でもそれって多めに言っておけば成果が出やすいことでもある。
サラリーマンの社会でもまっとうな計算ではもっと少なくても、成果をでていることをアピールするためにも損を莫大に言ったりする。

基本的に西浦さんのロジックは、「感染症を止める」につきていて、それ以上でもそれ以下でもない。ウイルスの毒性云々はこの際どうでもいいような印象がぬぐえない。
またクラスター潰しが功を奏しているのかどうかも、正直どうなんでしょうね。

2021/03/15

『柳田国男――知と社会構想の全貌』 川田稔 ちくま新書

川田氏の著作は全般的に冗長だ。全体を俯瞰するのにはとても役に立つが、通読するのには骨が折れる。
書いてある内容で、特筆すべきところとしては、農務省時代の柳田国男の農業政策だ。地主制度の廃止、南方への移民の推進などは柳田の手軽に読める著作物では知ることはできない。
地方の人口増加によって、農民一人がもてる土地の面積が小さくなるから、南方に移民を考えていたというのも、けっこうショッキングではある。

柳田は民俗学を欧米のフォークロアでもエスノロジーでもないものとして確立しようとしていた。
柳田の著作を読んでいても、欧米の影響というのはよくわからないのだが、本書ではデュルケーム、マリノフスキー、フレイザーらの影響があることが論じられている。まあそうだな。

全体的には柳田国男の著作をある程度読んでいれば、さもありなんといった感想しかない。
とりあえず国家神道への批判や氏神信仰について書かれている。ある程度まとまっているので便利ではあるが、それ以上でもそれ以下でもないかなと思う。

2021/03/14

『感情史の始まり』ヤン・プランパー/森田直子 監訳 みすず書房

んーかなり微妙。普遍主義と構築主義を止揚しようとしているようだが、正直何をやっているのかわかりかねた。
感情というのは本能だ。しかしその現れ方は文化によって異なるし、時代によっても異なるだろう。
歴史上の人物にも感情があるなんて、そんなことふつうでしょうし、テキストを読むうえであたりまえのように考慮に入れることでしょう。怒りの文章でも、今の自分がもっている怒りの感情とは同質かどうかなんて、んなこと知るかよ、と思う。
神経生理学や解剖学的な知見だけではいけない、というのもそうでしょうよ。
アリストファネスでもアイスキュロスでもいいけど、読んでみれば、そこには現在と相通じるものがある。たしかに細かい機微まではわからないけど、同じように笑い悲しんでいたわけです。
いずれにせよ感情史とはなんだかよくわからない。

2021/03/13

『ブラッドランド――ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実 下』 ティモシー・スナイダー/布施由紀子訳 筑摩書房

しかし酷いのなんの。どうしてここまで虐殺が起こるのか。
本書で、ユダヤ人大虐殺の見方が変わる。ぼくなんかそれほど知識ないから、ホロコーストといえばアウシュヴィッツのような強制収容所での虐殺だけを念頭においていたが、実際には大半のユダヤ人がモロトフ=リッベントロップ線以東で殺されている。
おそるべきはナチスのバルバロッサ作戦の失敗がユダヤ人の東への移送を不可能にし、その結果として大虐殺がおきていくということだ。
第一世界大戦から第二次世界大戦の終了まで、東欧の歴史はあまりに悲惨すぎる。

下記はメモ。

ナチスの対パルチザンとユダヤ人の殺害は同じものとして扱われた。パルチザンの活動は民衆やユダヤ人を助けた面もあるが、ナチスが民衆とユダヤ人を問答無用で殺害する動機にもなっていた。

ベラルーシ―などでパルチザンが結成されていくが、ある不安があった。ナチスを追い出した後にスターリンはパルチザン組織を弾圧するのではないか。ということでスターリンは共産主義の教義上、下から勝手に組織が出来上がることはよくないので、これらのパルチザンはナチスの手先として

ナチスは民間人の退避計画を組織できなかった。しかし軍はソ連に降伏するよりはイギリス、アメリカに降伏したほうがいいと考えて西に逃げていたという。ひどい話。それでソ連へに民間人の男は殺されるか強制収容所に送られ、女は強姦されていく。

ナチスの敗戦後、新生ポーランドが生まれる。共産主義政党はすべてのドイツ人を追放、排除することを決める。これはポーランドだけでなくチェコスロヴァキアでも起きた。ポーランド人にとっては共産主義は好ましい相手ではなかったが、土地を与え、ドイツから守ってくれるのがソ連だった。

「大祖国戦争」では、実際に戦地となり、勝利していったのは、ベラルーシ、ウクライナであり、死んでいった者たちもロシア人よりユダヤ人、ベラルーシ―人、ウクライナ人が多かった。しかし、スターリンはそれを隠し、ロシア人の勝利として扱っていった。ここで疑問なのだが、グルジア人であって、生粋のロシア人ではなかったと思うのだが、それでもロシア人に肩入れしたのはどういう理由なのか。マジョリティであるロシア人の顔色をうかがったのか?

ソ連にとってナチスがおこなったホロコーストをあまり宣伝材料に使いたくはなかったようで、というのもソヴィエト人の手を借りて膨大なユダヤ人を殺害していったからだという。

ユダヤ人虐殺ではアウシュヴィッツが象徴として取り上げられる。たしかにアウシュヴィッツは死の工場であったが、大量飢餓発生地域やトレブリンカのほうが虐殺の効率性はよかった。そしてアウシュヴィッツはユダヤ人コミュニティを形成していたポーランド、ソヴィエトのユダヤ人が多数殺された場所でもなかったアウシュヴィッツが中心的な死の工場となったころには、すでにポーランド、ソヴィエトのユダヤ人は殺害されていた。アウシュヴィッツは大量虐殺の最終章だったという。

モラルとは何か。ナチスもソ連も、これらはひとつのモラルだった。
ある目的のためには犠牲が伴う、という期待が現在の悪を将来の善であると信じていた。


2021/03/12

『アンナ・カレーニナ』4 トルストイ/望月哲男訳 光文社古典新訳文庫

リョービンはオブロンスキーに誘われて仕方なくアンナに会いに行く。そこでリョービンはアンナの女性としての魅力に惹かれていく。そして彼女の境遇をかわしそうだと思うようになる。アンナはリョービンをわざと籠絡しているのだが、リョービンはキティに指摘されるまで気づかない。キティに指摘されリョービンはアンナの誘惑に敗けたことを自覚はするが。
「およそ人間はどんな状況にでも慣れしまえるものだが、まして周囲の人が全部そんな風に暮らしているのだとわかっている場合はなおさらである。」(98)
キティの出産がはじまる。リョービンは理性的に考えれば神を会議するものと考えていたが、そんな判断さえも出産という事件では神に呼びかけることを少しも妨げるものではなかった。
「子供は? どこから、どうして現れたのか? そしていったい何者なのか?……彼はどうしてもわからなかったし、その考えに慣れることもできなかった。子供は何かしら無駄なもの、過剰なものと思われ、長いこと子供の存在に慣れることができなかったのである。」(122)

オブロンスキーはアンナの離婚を成立させるためにカレーニンを訪れる。そこでリディア・イワーノヴナ伯爵夫人とカレーニンの関係を知り、そしてランド―と呼ばれる怪しい占師、もしくは教祖のような存在がこの二人の心を支配していることを知る。キリスト教ではあるが、狂信的な教えのようでカレーニンもリディアも彼の言いなりで、ランド―が離婚を否定した。
アンナはカレーニンを愛しているが、ヴロンスキーを信じることができなかった。ヴロンスキーを冷たい人間であると、そしてアンナの絶望や孤独は全てヴロンスキーのせいにする。そして言い争いになると、アンナは自分を「不誠実な人間よりももとお悪い、心のない人間」と言う。ヴロンスキーはそんなアンナに我慢ができなくなく。
アンナはヴロンスキーの愛を強烈に欲していく。しかしアンナはヴロンスキーには愛がないと感がている。
アンナは自分の置かれた境遇、カレーニンの恥辱、息子の恥辱、そしてヴロンスキーへの復讐をするためには、死を選ぶしかない考えるようになる。
ヴロンスキーはアンナの我儘を極力聞いてあげている。しかしアンナはどんどんと自ら絶望へと走って行く。ヴロンスキーが母のところへ行くのも、ソローキン侯爵夫人の娘に会いに行くのだと思って、彼を追いかける。
鉄道の駅に向かう前にアンナはドリーに会いに行って、すべてを話そうとするしかしそこにキティがいた。アンナは露悪的な態度でドリーとキティに接する。彼女たちはアンナをかわいそうだと思い、同情していく。このあたりですでにアンナとキティたちの立場がまったく別のものになっている。

アンナが死んだあと、リョービンの信仰について書かれていく。
ここにはリョービンが抱えもっている矛盾と調和が書かれる。
善い生き方をしているのはすべて信者であること、そして反宗教的な人は決してリョービンを納得させるようなことを言ってはくれない。
リョービンは「魂のために生きる」ことを言うようになる。
理性には理解できない、理性の外部にあるもの、しかし明確な認識、善は因果の連鎖の外にある。
理性が教えてくれるのは生存競争であり、自分の願望の成就だ。他者を愛せというのは理性からはでてこない。なぜなら不合理だから。理性は傲慢だ。(324)
リョービンはこのような認識を得て、これで自分も変われたと思ったが、実際彼は人にも腹をたてるし、議論もしてしまう。

この時代、露土戦争がおきており、ここでヴロンスキーが志願兵としてセルビアに行くことを愛国的と評価される向きがあったようだが、トルストイはリョービンとシチェルバルツキー老侯爵の口を借りて言う、いつのまにスラブ人であることを求められるようになった、けれども自分にはスラヴ人同胞に興味がなくロシアのことしか興味がわかないと言う。民衆はそれに戦争のことなんか理解していないという。民衆は意志表明をしないし、そもそも何に意思表明をしなければならないかもわかっていないと。(348)
ここでもリョービンは議論に負ける。しかし、それは重要な事ではなかった。議論は理性的な活動的しかないからだ。
キリスト教以外の宗教を信じている者たちは、キリストが教えてくれる最高の恵みを奪われているのだろうか、とリョービンは自らに問う。しかしリョービンはこのような問い自体、多種多様なことに一般的な表現を取り入れることを拒否するようになる。個人としての自分の心に理性では捉えられない知恵をはっきり示してもらっているのもかかわらず、理性と言葉を頼りにしようとしていた。(369)
「これからもおれはこれまでと同じように御者のイワンに腹を立て、同じように議論をとおして場違いなところで自分の意見を述べるだろうし、自分の胸のうちの神聖なるものと他人との間には、たとえ相手が妻であれ、壁があり続けることだろうし、相変わらず自分の恐怖感を妻への非難にすり替えては、それを後悔し、また同じくなんで自分が祈るのか理性で説明できぬまま、祈りつづけることだろう。だが今やおれの生が、おれの生活の全体が、わが身がどうなろうと関係なく、どの一分間をとっても、単にかつてのように無意味でないばかりでなく、疑いようのない善の意味をもっている。しかもその善の意味を自分の生活に付与する力が、おれにあるのだ!」(373)

2021/03/11

『アンナ・カレーニナ』3 トルストイ/望月哲男訳 光文社古典新訳文庫

リョービンは結婚する前に痛悔礼儀を受ける。リョービンは神の存在を疑っている。司祭から神の存在は世界を見れば自明であることを説かれる。子供が生まれたときに子供に世界の存在をどう説明するのかとも言われる。
リョービンは兄ニコライの見舞いに行くと、すでに死期が近いことを悟る。キティも一緒についてきて、リョービンが嫌々ながら兄に紹介する。するとキティはベッドのシーツや枕などのを変えたり、病人に必要なことを指示し、行っていく。一方リョービンは何もできずに呆然とするだけ。ニコライは臭いや汚らしさを嫌がることなく接してくれるキティに感銘をうける。ニコライとリョービンは互いにある瞬間で優しい気持ちをもち手を握り合ってったりするが、ときに不機嫌になったりするニコライに対してどう接していいかもわからなくなったりもする。
てきぱきと動くキティを「賢い」とリョービンは思う。リョービンは死にゆく者を恐れていた。
キティとアガーフィアは死にゆく者に身体的な苦痛を和らげる以外の何かを求めていた。
リョービンもキティもニコライが死ぬことを確信していた。しかしニコライはなかなか死なない。面白いのはトルストイはこのあたりでニコライの早い死を誰もが望んでいることを率直に書いていることだ。キティは身体的にも精神的にも看病に参っていた。ニコライは痛みから周りに当たり散らすようになる。
リョービンは死を神秘として捉え、そしてニコライの死は同時にキティの妊娠へと繋がっていく。

アンナとヴロンスキーはイタリアへ駆け落ちをする。セリョージャを置いて、ヴロンスキーを選ぶ。
しかし欲望を満たすことが幸せであることとは違うことを悟っていく。これをトルストイは人間のよくやる過ちとしている。
アンナはいろいろとめんどくさい女になっていく。ペテルブルクで社交界に勝手に行ったにもかかわらず、ヴロンスキーに愛しているなら、なぜ止めてくれなかったのかと責めたりする。

オブロンスキーが連れてきたヴェスロフスキーという脇役が登場する。感じのいい青年で、ドリーやキティに色目を使ったような態度で接したりして、服装もどこか気取っていた。リョービンはヴェスロフスキーを感じのいい青年として認めるも、自分の感情が不安定になるというので、家から追い出す。

リョービンはオブロンスキーと労働について議論をする。ここではリョービンは素朴に暴利を貪る人間、利権にしがみつく人間を嫌う。オブロンスキーはかなり自由主義的な発送で、銀行でも鉄道でも事業を行う人間が居なければ発展がないだろうという考えをもつ。
この違いは、かなり現在でも引きづっている。リョービンの考えは簡単に反論できるものではある。事実リョービンは簡単にやりこめられてしまう。しかしそれに納得できないのがリョービン。
オブロンスキーはそんなに不平等を間違っているというならば、領地を農民にくれてやるべきではないかと言う。リョービンは言う、農地を農民たちにくれてやる権利はないし、そして先祖代々の土地を守っていく義務があると言う。リョービンはここでも言語化がうまくできずにいる。
「所詮二つに一つなんだ。現存の社会体制を正当なものと認めて、自分の権利を守ろうとするか、それともこのぼくがしているように、自分が不当な特権を教授しているのを認めながら、その特権を喜んで教授するしかないのさ」(386)

リョービンは子供が生まれることは神秘であるべきである考えていた。そんんなかキティは細々とした実用的な準備を進めている。それをリョービンは苦々しく思っている。キティの人為的な作業がそれを冒涜していると感じている。

ドリーはアンナに会い行く。アンナとヴロンスキーの生活は驕奢で、イギリス風の家具を取り揃えていたりと何かとってつけたような幸せなところがあった。ドリーは現実の子育てや子供たちの未来、苦しい家計などに直面しており、アンナたちのような贅沢はできない。
しかし、アンナたちの生活を目の当たりにして、その窮屈さや堅苦しいさががまんできなくなり、むしろ現実的な生活のほうが懐かしく思うようになる。
ヴロンスキーはドリーにアンナが離婚をするように説得してくれるように頼む。しかしアンナはドリーに、自分の不幸と、自分の置かれた立場がいかに絶望的かを叫ぶ。
理性があるのだから不幸な子供を産まない、それは理性的な回答かもしれなかったが、ドリーはそれを理解できず、嫌悪感も覚えた。
ドリーは子供が欲しいが経済的にも子供をもてない、しかしアンナは今の状況で子供が欲っしてはいけないという状況というふうにアンナは理解していた。
なかなか難しいところだ。