「哲学する自由とは、つまり自分で判断する自由であり、自分が判断したことを言う自由である。こうした自由は、最善の国家ではどこまで認められることになるのだろうか」
個人のもつ自然な権利。それは個物それぞれに備わった自然の規則のこと。そして自然の権利は自然の力が及ぶところまで及ぶ。つまり個物は自然に決まったかたちで存在し活動するという至高の権利をもつ。
これは、理性をもつ人、無知の人関係なくもっているものでもある。衝動にかられていてもそれは至高の権利をもつ。
それは、自然の権利とは理性ではなく欲望と力によって決まる。そして自然の権利は、能力上できないこと以外、何も禁止していない。
しかし、人間が生きる上ですべてが許された状態では、安全かつ最善の生活ができない。だから集合的に自然の権利をもつことが要請される。他人の権利を自分の権利同様に尊重するような契約が必要となる。
人間は利己的な生き物で、いいことよりもよりいいことを選び、大きい悪いことよりも小さな悪いことを選ぶ。
とすると、自分の権利を譲渡する人はいないことになる。さらに言えば、よりよいこと手に入れたり、より悪いことを回避することがなければ、人は約束を守らない。つまり契約をするうえでは利益と繋がらなければならない。でなければ破棄されてしまう。
理性にしたがって国家から有益性や必要性を導きだし、誰も国家を支えていくはずだが、実際は誰もが理性をもって生きているわけではない。人は欲望にひきづられていく。
自然の権利は人それぞれがもつ力できまる。ということは、人びとが自分の権利を他人に渡せば渡すだけ、連鎖的に人は自分の権利を譲渡していく。そして至高の権力ができあがる。
あらゆる人が自らの権利を社会に引き渡せば、社会は至高の権利を独占できる。そして誰もが従うようになる。これを民主政と呼ばれる。
そして、たとえ理不尽なことを命令してきても、理性はそのような命令に従うことを命じる。わたしたちはこの二つの「悪いこと」のうち、より小さい方をえらばなければならないから。
民主政ではこの至高の権利をもつのは期限があり、権力を失えば権利も失われる。だから、権力者は理不尽なことを命じることはまれだ。
曰く、自分の権利を譲渡することは奴隷になることではない。むしろ自分の欲望に引きずられて、よりよいことをできないでいるものは奴隷のきわみであり、一心に理性の導きに基いて生きる人だけが自由なのである。
たしかに服従すれば自由は失われる。しかしそれは奴隷を意味するのではない。奴隷かどうかは行動で決まる。行動の利益が命令者に帰属する場合、それは奴隷となる。しかし、共同体、国家、民衆全般の福祉こそが至高の法よなる。だからこそ至高の権力に従う人はは、臣民と呼ばれるべきである。
つまり、理性に基づいた法を制定しているならば、その国は自由のきわみにある国といえる。
権利の侵害とはなにか。
それは私人のあいだで起こることであり、至高の権力は何をやってもいいのだから、侵害もへったくれもない。
正義とは誰にでもその人に市民としての権利上認めてられていることを保障しようという、ゆるぎない心構えのことである。
不正義とは、認められる権利を誰かから取り上げることである。
盟友とは。
違う国の人同士が、戦争に踏み切って危機に陥らないために、あるいは何か他の利益のために、お互いに害し合わず、逆に必要に迫られた時には助け合い、しかもそれぞれが自国を維持し続ける[=一つの国として融合しない]という契約を交わした場合、彼らは盟友となる。
自国の利益が見通せるまで契約を信用することはない。自国の利益を保持することが至高の法なのだから、相手を完全に信用できない。
また道徳心や宗教からみても、自国の損失につながると思われる約束を律儀に守るなら、臣民から信頼をなくし、神を汚すことにもなる。
敵とは。
国から外れて、盟友としても臣民としても国の命令に一切耳を貸さずに生きている人は、みな敵である。そもそも国家の敵は憎しみではなく権利関係で決まる。そして国の命令をどのようなかたちの契約によっても認めない人に対しては、国は[その国に]損害をもたらす人に対するのと同じ権利をもっている。
主権侵害の罪
この罪は臣民または市民の中でしか起こりえない。自らの権利を国家に譲渡しているが、もし彼らが至高の権力から権利を奪い取るか、他に移そうとすれば主権侵害となる。
神は隣人を愛せよと義務づけている。しかし自然の状態では衝動の原理にしたがっている。
そこで衝動にしたがって行動したことは、他人に損害をもたらすことにもなり、どうしても権利の侵害になるはずだ。しかし自然状態は本来的にも時間にも宗教に先立っている。
人は自然状態では、神の啓示も法も知らない状態だったが、啓示により神が定めた権利関係に従うことを約束し、自らの権利を自由に譲渡し、自由の権利を神に引き渡した。ここから市民の状態となる。
権利関係に従うかどうかは、当人にとって責任を受け入れるかどうかとなる。人は他人の決めたことに従う義務はない。そして神や至高の権力に従わなくてもいい。その危険を自分が引き受けるだけだ。
もし至高の権力が宗教に反するならどうなるのか。
そして人はその時、神に従うべきか、至高の権力に従うべきか。
宗教に従うならば、そのとき最高権力に従わないことで、バラバラな判断や感情に左右されてしまう。人は迷信に陥ることがよくあるのだし、それを口実になんでもできるようになってしまう。
だから宗教も至高の権力に属しているということである。
個人のもつ自然な権利。それは個物それぞれに備わった自然の規則のこと。そして自然の権利は自然の力が及ぶところまで及ぶ。つまり個物は自然に決まったかたちで存在し活動するという至高の権利をもつ。
これは、理性をもつ人、無知の人関係なくもっているものでもある。衝動にかられていてもそれは至高の権利をもつ。
それは、自然の権利とは理性ではなく欲望と力によって決まる。そして自然の権利は、能力上できないこと以外、何も禁止していない。
しかし、人間が生きる上ですべてが許された状態では、安全かつ最善の生活ができない。だから集合的に自然の権利をもつことが要請される。他人の権利を自分の権利同様に尊重するような契約が必要となる。
人間は利己的な生き物で、いいことよりもよりいいことを選び、大きい悪いことよりも小さな悪いことを選ぶ。
とすると、自分の権利を譲渡する人はいないことになる。さらに言えば、よりよいこと手に入れたり、より悪いことを回避することがなければ、人は約束を守らない。つまり契約をするうえでは利益と繋がらなければならない。でなければ破棄されてしまう。
理性にしたがって国家から有益性や必要性を導きだし、誰も国家を支えていくはずだが、実際は誰もが理性をもって生きているわけではない。人は欲望にひきづられていく。
自然の権利は人それぞれがもつ力できまる。ということは、人びとが自分の権利を他人に渡せば渡すだけ、連鎖的に人は自分の権利を譲渡していく。そして至高の権力ができあがる。
あらゆる人が自らの権利を社会に引き渡せば、社会は至高の権利を独占できる。そして誰もが従うようになる。これを民主政と呼ばれる。
そして、たとえ理不尽なことを命令してきても、理性はそのような命令に従うことを命じる。わたしたちはこの二つの「悪いこと」のうち、より小さい方をえらばなければならないから。
民主政ではこの至高の権利をもつのは期限があり、権力を失えば権利も失われる。だから、権力者は理不尽なことを命じることはまれだ。
曰く、自分の権利を譲渡することは奴隷になることではない。むしろ自分の欲望に引きずられて、よりよいことをできないでいるものは奴隷のきわみであり、一心に理性の導きに基いて生きる人だけが自由なのである。
たしかに服従すれば自由は失われる。しかしそれは奴隷を意味するのではない。奴隷かどうかは行動で決まる。行動の利益が命令者に帰属する場合、それは奴隷となる。しかし、共同体、国家、民衆全般の福祉こそが至高の法よなる。だからこそ至高の権力に従う人はは、臣民と呼ばれるべきである。
つまり、理性に基づいた法を制定しているならば、その国は自由のきわみにある国といえる。
権利の侵害とはなにか。
それは私人のあいだで起こることであり、至高の権力は何をやってもいいのだから、侵害もへったくれもない。
正義とは誰にでもその人に市民としての権利上認めてられていることを保障しようという、ゆるぎない心構えのことである。
不正義とは、認められる権利を誰かから取り上げることである。
盟友とは。
違う国の人同士が、戦争に踏み切って危機に陥らないために、あるいは何か他の利益のために、お互いに害し合わず、逆に必要に迫られた時には助け合い、しかもそれぞれが自国を維持し続ける[=一つの国として融合しない]という契約を交わした場合、彼らは盟友となる。
自国の利益が見通せるまで契約を信用することはない。自国の利益を保持することが至高の法なのだから、相手を完全に信用できない。
また道徳心や宗教からみても、自国の損失につながると思われる約束を律儀に守るなら、臣民から信頼をなくし、神を汚すことにもなる。
敵とは。
国から外れて、盟友としても臣民としても国の命令に一切耳を貸さずに生きている人は、みな敵である。そもそも国家の敵は憎しみではなく権利関係で決まる。そして国の命令をどのようなかたちの契約によっても認めない人に対しては、国は[その国に]損害をもたらす人に対するのと同じ権利をもっている。
主権侵害の罪
この罪は臣民または市民の中でしか起こりえない。自らの権利を国家に譲渡しているが、もし彼らが至高の権力から権利を奪い取るか、他に移そうとすれば主権侵害となる。
神は隣人を愛せよと義務づけている。しかし自然の状態では衝動の原理にしたがっている。
そこで衝動にしたがって行動したことは、他人に損害をもたらすことにもなり、どうしても権利の侵害になるはずだ。しかし自然状態は本来的にも時間にも宗教に先立っている。
人は自然状態では、神の啓示も法も知らない状態だったが、啓示により神が定めた権利関係に従うことを約束し、自らの権利を自由に譲渡し、自由の権利を神に引き渡した。ここから市民の状態となる。
権利関係に従うかどうかは、当人にとって責任を受け入れるかどうかとなる。人は他人の決めたことに従う義務はない。そして神や至高の権力に従わなくてもいい。その危険を自分が引き受けるだけだ。
もし至高の権力が宗教に反するならどうなるのか。
そして人はその時、神に従うべきか、至高の権力に従うべきか。
宗教に従うならば、そのとき最高権力に従わないことで、バラバラな判断や感情に左右されてしまう。人は迷信に陥ることがよくあるのだし、それを口実になんでもできるようになってしまう。
だから宗教も至高の権力に属しているということである。
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ここにきてようやく政治論がからんできた。
おもしろいのが、スピノザはバビロン捕囚の際、ネブカドネザル二世にほぼすべてのユダヤ人が服従したことを例にとって、当時の多くのユダヤ人は神の取り決めで、王は至高の権力を手にしていると考えていただろうと書いていること。
あんまり悲劇的に取り扱っていない。
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