2020/03/31

『方舟さくら丸』 安部公房 新潮文庫

やはり安部公房の小説は、なんだかんだいって演劇だな。
描写もなかなかおもしろい。
「ペダルを漕いでみるふりをして、女に接近し、ぼくも負けずに手を出した。尻叩きというより、尻撫でだ。……女は…前かがみになってくすくす笑った。反対側では昆虫やが掌をひらいて待ち受けている。女の尻を使ったハンド・ボールだ」
ひどい描写だよ。


いろいろと疑問が残ります。
便器の隠喩はなんなのかな。船長は片足をつっこんじゃうけど。

半永久的に生きるユープケッチャって一体なに。足はなく、自分の糞を食べて生きていくって。

オリンピック阻止同盟ってなんの隠喩なのか。シンボルマークは、まん丸で緑色の豚。デブとその仲間が中心で
筋肉礼讃反対!
ビタミン剤反対!
国旗掲揚反対!
を叫ぶ。 強健な肉体のために国旗が掲げられ国家が歌われる。それは一部の人への差別ではないか。ぬおーーー。そうだよなー!

サクラが突然起き抜けに、奇声を発し、
「『アッカン、プッカ、アッカン、プッカ』
したい事をするのと、したくない事を拒むのとは、似ているようでまったく別のことなのだ」(227−228)
こりゃ、なんだ。サクラの性格はなかなか見えにくいのだけれど、いきなりこんな奇声を発するような感じじゃない。

サバイバルゲームについて。痛風病みの老人が最後発作で死んでしまう。老人に従っていたプレイヤーも保留となる。なんのこっちゃ。

ほうき隊をとりしきる副官も、なんだか頭は切れるようなんだけれど、狂気と理性の狭間にいる感じです。
「猪突先生の指導のもとに自主独立の老人王国の建設を夢みてまいりましたいや、私ども老人王国という言葉は用いません。[ほうき隊]では老人という言葉は差別用語に指定しております。……私どもは棄民t読んでおります。……年齢とは無関係な概念なのであります。……正式には《代表棄民王国》なのであります。さいわ実現の日が近づいてまいりました。ほどなく空からウラニウムやプルトニウムの業火が降りそそぎ、そこに居られる千石さんの申されるところの御破算の時が迫っているのです。」(317)
なんだか、出口なおみたいな感じになっている。
そして、モグラこと船長の「生きのびるための切符」のように副官は電話帳で、適当に選別していく。どちらにせよ、裁判なしでの死刑宣告なのだ。

なぜサクラと女は方舟に残ることにしたのか。
なんてたって女は船長に
「わたし、空が見えないと駄目なんだ……私にも口に出して言ってみる呪いがあるんだ。いつだったか、空を眺めていたら、空気が生き物に見えてきたのね。樹の枝は欠陥にそっくりでしょう。形だけでなく、炭酸ガスを酸素に変えたり、窒素を九州したり、しゃんと新陳代謝しているわけだし、……風や気圧の変化は空気の筋肉の運動で、草や樹の根っこは指や手足ね。棲みついている動物は、血球やウィールすや大腸菌で……」(275)

最後、それまであったグロテスクさから解放された感じがありますね。
「合同市庁舎の黒いガラス張りの壁に向かって、カメラを構えてみる。二十四ミリの広角レンズをつけて絞り込み、自分を入れて街の記念撮影をしようと思ったのだ。それにしても透明すぎた。日差しだけでなく、人間までが透けて見える。透けた人間の向こうは、やはり透明な街だ。ぼくもあんなふうに透明なのだろうか。顔のまえに手をひろげてみた。手を透して街が見えた。振り返って見ても、やはり街は透き通っていた。街ぜんたいが生き生きと死んでいた。誰が生きのびられるのか、誰が生きのびるのか、ぼくはもう考えるのを止めることにした。」(374)

最初から最後まで疑問だらけですが、これらは明確で論理的な回答もないと思われ。
と、まあいろいろと安部公房的な要素がたんまりで「豚の死体無料贈呈、腸詰め製造業者殿」とかも、安部臭がすごいわけです。ただ、ちょっとやりすぎたところもないわけではない。
全体的に安部公房の小説では、荒唐無稽な内容にみえて、読みやすい。

2020/03/29

第十六章 国家体制の基礎について。個人のもつ自然な権利と、市民としての権利について。そして至高の権力の持ち主の権利についてスピノザ『神学 政治論』

「哲学する自由とは、つまり自分で判断する自由であり、自分が判断したことを言う自由である。こうした自由は、最善の国家ではどこまで認められることになるのだろうか」
個人のもつ自然な権利。それは個物それぞれに備わった自然の規則のこと。そして自然の権利は自然の力が及ぶところまで及ぶ。つまり個物は自然に決まったかたちで存在し活動するという至高の権利をもつ。
これは、理性をもつ人、無知の人関係なくもっているものでもある。衝動にかられていてもそれは至高の権利をもつ。
それは、自然の権利とは理性ではなく欲望と力によって決まる。そして自然の権利は、能力上できないこと以外、何も禁止していない。
しかし、人間が生きる上ですべてが許された状態では、安全かつ最善の生活ができない。だから集合的に自然の権利をもつことが要請される。他人の権利を自分の権利同様に尊重するような契約が必要となる。
人間は利己的な生き物で、いいことよりもよりいいことを選び、大きい悪いことよりも小さな悪いことを選ぶ。
とすると、自分の権利を譲渡する人はいないことになる。さらに言えば、よりよいこと手に入れたり、より悪いことを回避することがなければ、人は約束を守らない。つまり契約をするうえでは利益と繋がらなければならない。でなければ破棄されてしまう。
理性にしたがって国家から有益性や必要性を導きだし、誰も国家を支えていくはずだが、実際は誰もが理性をもって生きているわけではない。人は欲望にひきづられていく。
自然の権利は人それぞれがもつ力できまる。ということは、人びとが自分の権利を他人に渡せば渡すだけ、連鎖的に人は自分の権利を譲渡していく。そして至高の権力ができあがる。
あらゆる人が自らの権利を社会に引き渡せば、社会は至高の権利を独占できる。そして誰もが従うようになる。これを民主政と呼ばれる。
そして、たとえ理不尽なことを命令してきても、理性はそのような命令に従うことを命じる。わたしたちはこの二つの「悪いこと」のうち、より小さい方をえらばなければならないから。
民主政ではこの至高の権利をもつのは期限があり、権力を失えば権利も失われる。だから、権力者は理不尽なことを命じることはまれだ。

曰く、自分の権利を譲渡することは奴隷になることではない。むしろ自分の欲望に引きずられて、よりよいことをできないでいるものは奴隷のきわみであり、一心に理性の導きに基いて生きる人だけが自由なのである。
たしかに服従すれば自由は失われる。しかしそれは奴隷を意味するのではない。奴隷かどうかは行動で決まる。行動の利益が命令者に帰属する場合、それは奴隷となる。しかし、共同体、国家、民衆全般の福祉こそが至高の法よなる。だからこそ至高の権力に従う人はは、臣民と呼ばれるべきである。
つまり、理性に基づいた法を制定しているならば、その国は自由のきわみにある国といえる。

権利の侵害とはなにか。
それは私人のあいだで起こることであり、至高の権力は何をやってもいいのだから、侵害もへったくれもない。
正義とは誰にでもその人に市民としての権利上認めてられていることを保障しようという、ゆるぎない心構えのことである。
不正義とは、認められる権利を誰かから取り上げることである。

盟友とは。
違う国の人同士が、戦争に踏み切って危機に陥らないために、あるいは何か他の利益のために、お互いに害し合わず、逆に必要に迫られた時には助け合い、しかもそれぞれが自国を維持し続ける[=一つの国として融合しない]という契約を交わした場合、彼らは盟友となる。
自国の利益が見通せるまで契約を信用することはない。自国の利益を保持することが至高の法なのだから、相手を完全に信用できない。
また道徳心や宗教からみても、自国の損失につながると思われる約束を律儀に守るなら、臣民から信頼をなくし、神を汚すことにもなる。

敵とは。
国から外れて、盟友としても臣民としても国の命令に一切耳を貸さずに生きている人は、みな敵である。そもそも国家の敵は憎しみではなく権利関係で決まる。そして国の命令をどのようなかたちの契約によっても認めない人に対しては、国は[その国に]損害をもたらす人に対するのと同じ権利をもっている。

主権侵害の罪
この罪は臣民または市民の中でしか起こりえない。自らの権利を国家に譲渡しているが、もし彼らが至高の権力から権利を奪い取るか、他に移そうとすれば主権侵害となる。

神は隣人を愛せよと義務づけている。しかし自然の状態では衝動の原理にしたがっている。
そこで衝動にしたがって行動したことは、他人に損害をもたらすことにもなり、どうしても権利の侵害になるはずだ。しかし自然状態は本来的にも時間にも宗教に先立っている。
人は自然状態では、神の啓示も法も知らない状態だったが、啓示により神が定めた権利関係に従うことを約束し、自らの権利を自由に譲渡し、自由の権利を神に引き渡した。ここから市民の状態となる。
権利関係に従うかどうかは、当人にとって責任を受け入れるかどうかとなる。人は他人の決めたことに従う義務はない。そして神や至高の権力に従わなくてもいい。その危険を自分が引き受けるだけだ。

もし至高の権力が宗教に反するならどうなるのか。
そして人はその時、神に従うべきか、至高の権力に従うべきか。
宗教に従うならば、そのとき最高権力に従わないことで、バラバラな判断や感情に左右されてしまう。人は迷信に陥ることがよくあるのだし、それを口実になんでもできるようになってしまう。
だから宗教も至高の権力に属しているということである。

******************
ここにきてようやく政治論がからんできた。
おもしろいのが、スピノザはバビロン捕囚の際、ネブカドネザル二世にほぼすべてのユダヤ人が服従したことを例にとって、当時の多くのユダヤ人は神の取り決めで、王は至高の権力を手にしていると考えていただろうと書いていること。
あんまり悲劇的に取り扱っていない。

2020/03/27

『第四間氷期』 安部公房 新潮文庫

改めて読むとすごい作品です。1959年に単行本が刊行されているというのだから、いまから半世紀も前なのだ。
安部公房の小説は不気味さがいいわけですね。水棲人間というと、まあふつう人魚みたいのを連想したりするけど、安部公房の場合は鰓をもっていて、しかもこの水棲人間を人間が開発したものにしていることで、グロテスクさが増している。しかも開発しているのが、なんかDr. Strangelove的な感じですし。

堕胎について書いているところで、
「人間が未来的な存在であり、殺人が悪であるのは、その未来を奪いとるためだというのは確かだとしても、未来はあくまでも現在の時間的投影なのである。その現在さえもっていないものの未来に、誰が責任などもちえよう。それではまるで、責任に名をかりて、現実から逃れようとするようなものではないか。」(124)
人間が未来的な存在というのはなかなかで、ハイデガーでありますね。そしてこの責任についてもハイデガーでありますね。本来性を獲得している者は現実を引き受け、責任を負う。しかし、そもそも未来がないのだから責任もへったくれもない。だから堕胎するにあたり、道徳的判断を持ち込むのは想像過剰となる。うへー。

未来とは何か。それは現在の投影なのか、それとも未知なる現在から切り離され、独立した意志なのか。
ソ連の預言機モスクワ2号は、近い将来、32年後の1984年に資本主義社会は没落し、共産主義社会が実現すると預言した。おお、こんなところにジョージ・オーウェル。
そして日本の預言機では共産主義を〈政治・預言・∞〉と理解しているようで、これは「あらゆる予言を知りつくしたうえで現れる、政治の無限次予言、すなわち最大予言値」を意味している。むむ、これはいったいどういうことなのか。あらゆる可能性をさぐっていき、その極にあるものってことか。

未来を考えるとき、人間は純粋に「未来」を考えない。未来は想像の範疇に通常はある。想像を超えたところに本来はあるものだが。人間が言語的な生き物であることがわかる。言語の範囲で想像し語る。
「予言機械をもつことで、世界をますます連続的に、ちょうど鉱物の結晶のように静かで透明なものになると思い込んでいたのに、それはどうやら私の愚かさであったらしい。知るという言葉の正しい意味は、秩序や法則をみることなどではなしに、むしろ混沌を見ることだったのだろうか・・・・・・?」(167)
「耐えなけりゃなりませんよ。その断絶に耐えることが、未来の立場に立つことです・・・・・・」
先生は断絶した未来に耐えられないと判断されて殺さる運命にある。
「プログラミングとは、要するに。質的な現実を、量的な現実に還元してやる操作のことである。」(127)
先生は結局、未来を質的に考えることができなかったのだ。予言機械の論理的帰結は観念でしかない。しかし、それは海底植民地、水棲生物という質的なものに返還されることで、グロテスクとなる。先生はその未来を拒絶し、現在を温存する方へと思考してしまう。
ウイリアム・ジェームズをかりて、「人間は悲しいから泣くのではない、泣くから悲しいのだ」。涙腺がなければ悲しいという感情を知らないのかもしれない。それにたいして先生は、残酷だと思ってしまう。
しかしそれは違う。ここでも先生は未来を現在の自己の投影としてしか見れていない。
ここはちょっと還元論的でいろいろ考えさせるところ。
安部公房が人間を非常にちっぽけなものとして見ているのがうかがえる。所詮は物理的な反射で生きているにすぎないみたい感じでしょうかね。
この小説で貫かれている一種のアンチ・ヒューマニズムで、予言機械の存在自体が人間の思考を越えたものであるし、それが予言した未来なんかすでに人間の世界ではなくなっている。
そして社会システムは、いかにつくられるかの話を飛躍させることもできる。
外部の刺激が人間の心を形成するというのであれば、社会の構造やシステムが人間の行動を形作るわけで、水棲人の社会はモスクワ2号が予言したとおり共産主義なのかも。水に帰ることでしか共産主義を実現できないとなると。

将来、水棲人間がかつての人間にうらみをもつのではないか。
「豚に、豚みたいだと言っても、おこったりしませんよ・・・・・・」
ときたもんだ。
「人間はただ、存在すというるだけで義務をおわされるべきものなのか? ・・・・・・つくったものがつくりだされた者に裁かれるというのが、現実の法則なのであろう・・・・・・」(268)
「未来は、日常的連続感へ、有罪の宣告をする。」(あとがき)
日常の平凡な秩序にこそ大きな罪があり、はっきり自覚しなければならない。未来は本来的に残酷だという。
先生は日常の中で死ぬ。
水棲人間の子供は風の音楽を聴くために陸に立ち上がろうとするが重力で押しつぶされて、地上病で涙をながしながら死ぬ。
未来を生きている者は逆に過去には生きられない。最後の涙は過去への感傷なのか。

蛇足
解説は磯田光一が書いているが、まあ書いている内容よりも、そこに安部はソ連の遺伝学者ルイセンコに依拠しているのではないか、と書いている。
んーどうでしょうね。ルイセンコは、環境が遺伝に影響を及ぼすという主張で、これはアメリカの突然変異が進化を決めるという考えの対極をなしていて、ルイセンコはバーナリゼーションの提唱者でもあり、ソ連の飢饉の元凶をつくった科学者としても有名で、まだこの当時はルイセンコ論争が盛り上がっていなかったのかどうか。
磯田さんは、ルイセンコ説は後天的に環境が遺伝に影響するというふうに書いているが、ちょっとこれはあまりにルイセンコの主張を簡単にしすぎている。この主張だけならルイセンコは疑似科学だと否定されたりはしない。
安部公房は、たしかにルイセンコの説を知っていたと思うが、水棲人間を作り出したのは環境ではなく人間ということもあって、あんまりルイセンコとは関係ないと思われる。

2020/03/26

第十五章 神学が理性に奉仕するのでも、理性が神学に奉仕するのでもないことについて。そしてわたしたちが聖書の権威を認める理由について――スピノザ『神学 政治論』

理性は聖書に従うものではないし、そして聖書が理性に従うものでもない、という主張はどちらも間違っている。
聖書の意味を理解するには理性がが必要である。理性によって理解できないことに盲目的に従うのは愚かである。
では理性で理解できない記述はどうするのか。
まず、聖書はいろいろな人によって記述が歪められたりしている可能性を考慮する必要がある。
理性に反する記述があっても愛に差し支えはない。つまり理性は聖書に従う必要はないし、合わせる必要もない。
だから啓示なのだ。
数学的な論証でもって聖書を読み解くことは間違っている。聖書の教えは数学的な論証がなくても受け入れられるものであるし、理性に秀でていない人にとっても大きな慰めとなる。
哲学と神学は相反する営みなのである。

2020/03/25

第十四章 信仰とは何か。信仰のある人とはどのような人か。信仰の基礎になることが決められ、最終的に信仰が哲学から切り離される――スピノザ『神学 政治論』

信仰について自分が考えたいように考える自由は一体どこまで及ぶのか。
考えが違ってもまともな信仰を持っている人を尊重するなら、どのような人たちなのか。
そして信仰と哲学を切り離す。
信仰とは、神について何かを思うことであり、その思いの内容はそれを知らないと神に従う気持ちが失われてしまうこと、神に従う気持ちがあるとすれ必ず想定すべきことでなければならない。
そこから次が帰結される。
信仰はそれ自体有益なのではなく、神への服従をもたらす限りで有益である。
そして服従に勤しんている人は、必ず本物の健全信仰を持っていることになる。
さらにまともな信仰が持っているかどうかは、信仰の持ち主の行いによってしか決まらない。
それは次のことを帰結する。
信仰に求められるのは真理にかなった信仰箇条というよりも、むしろ道徳にかなった信仰箇条であるというと。つまりは、真理が少しも反映されていなくても一向にかまわない。
信仰箇条は行いだけに基づいて評価されるべきであり、知っておかないと神に従う事自体が不可能となるような項目に限られる。
ここから決められる信仰箇条は以下となる。
1 神が存在すること。最高の存在であり憐れみ深い存在であること。
2 神はただ一つであること。他よりも優れているなどがあってはならない。
3 神はどこにでも存在すること。
4 神は至高の権利をもって万物を支配しており、何ごとも権利上強制されることなく、ただ無条件の最良や特別な恩恵に基いて行っていること。
5 神への服従とはもっぱら正義と愛、つまり隣人愛を内容としている。
6 服従する人、神に従って生きる人は、みな救われる。
7 人が悔い改めるなら、神はその人の罪を許してくれること。だからこそ人は希望をもてる。
これらの信仰箇条は一人ひとりが自分の理解力にあわせて解釈しなければならない。そして神に全面的に同意して従うようになる。

そして哲学と神学(信仰)の間には全く異なるもので、両者の目的も基礎も違う。
哲学は真理の探求であり、信仰は服従と道徳心となる。
信仰はそれぞれの人に哲学する最高の自由を認めている。

2020/03/24

第十三章 聖書は単純きわまりない教えしか説いていないこと、ひとびとを服従させることだけが聖書の狙いであること、そして聖書は神が本来どういうものであるかについては、ひとびとがそれを見習っていきかをの指針にできるようなことしか説いていないことが示される――スピノザ『神学 政治論』

聖書で推奨されている知は、神に従う=隣人を敬うこと。誰でも必要とするような知に限られている。
つまり、それを知らずにいると頑固な不服従か、少なくとも規律を欠いた服従に陥ってしまうような知。
これとは逆にこの点にかかわらない他の知は、神に向かう知であれ自然の物事に向かう知であれ、聖書で問題にはされない。
神を理知的に知ることは服従とは違い信仰と引き換えに誰にでもできることではない。そもそも神は人間に神の属性を知ることを求めてはいない。
神学者たちが神のあり方を比喩的に解釈したりすることを求めるのであれば、聖書は素朴な民衆が理解することは到底できない。
つまり神の正義と愛だけが預言者を通じて求められていることである。
「したがって、考えを行為と無関係に単独で取り上げて、それを道徳的だとか不道徳だとか決めるけることは決して許されない。当人がそお考えによって神への服従[=愛や正義にかなう行為]を促されたり、逆にその考えをお墨付きにして犯罪や反逆を犯したりした場合に限って、そのような考えを道徳的とか不道徳とか言うことができるものだ。ということは、もし信じることで頑なになったら、たとえ進行内容が真実であってもその人の信仰は実は不道徳であり、信じることで逆に従順になったら、たとえ信仰内容が誤っていてもその人の信仰は道徳的なのである。というのも既に示した通り、神を本当に知ることは[誰にでも課せられた]命令ではなく[限られた人にしか与えられない]恩恵だからだ。神がひとびとに求めているのは、ただ神の正義と愛を知ることだけであり、そしてそのような知は学問のためではなく、もっぱら服従のために必要なのである。」

2020/03/23

第十二章 神の法が記された本当の契約書について。聖書はなぜ聖なる書物と呼ばれ、なぜ神の言葉と呼ばれるのかについて。そして最後に、聖書は神の言葉を含む限りにおいて、損なわれることなくわたしたちまで伝えられた、ということが示される。――スピノザ『神学 政治論』

本当の宗教は、人間の精神に神によって書き込まれており、そして神がこれを封印するのに用いた印章こそ神の観念である。神の観念とは、いわば紙の性質を映し出す像なのだ。
旧約聖書と新約聖書が別れているのは、教えの内容が異なっているからではない。それは知らなかったから、「新しい」だけである。
だから聖書の部分が失われたとしても問題はない。
聖書は各時代の状況にあわせて書かれたものであり、
旧約聖書も新約聖書も会議の議決によって正典として承認をうけた。つまりは、正典からもれたものがある。それを決めたのは者たちは神の言葉について見識があったはず、
使徒たちは預言者としてではなく教師として教えを説いていた。
つまり、使徒たちは自分なりの福音の言葉を説き、書きとめていった。
四福音書で相互で異なる記述があることが、神がそうしたのではなく、単に福音記者が自分なりの言葉で書いたから異なっている。
相互に参照することで理解がふくまるとしても、それは偶然でしかなく、たとえ矛盾した箇所を理解できなくても幸福は薄れない。
よって聖書は誰にでもあてはなまる神の法で、神の言葉と呼ばれる。
それは、書き誤りや筆が走ってしまっている箇所が見られても、根本にある万民の法は変わらない。問題なのは、矛盾や理解が難しい箇所などを思弁的に神の権威をかりて、自説を補強することである。

2020/03/22

『レッド』山本直樹 講談社

立花隆『中核VS革マル』を読んだので、ついでに久しぶりに読んだが、やっぱりおもしろい。
「総括しろー」と言われ、何を総括したらいいのかよくわからない。
みんながみんな自己批判をしまくる異常さ。
リンチが原因で死んだにもかかわらず「敗北死」とはいったいどんな理屈なのか。
スターリン批判しているにも関わらず毛沢東主義をとりいれるとは、これいかに。

この漫画のいいところは、凄惨なリンチを描きながら、連合赤軍のメンバーが、なんだか日常をふつーに生きているのを描いているところかな。
山岳ベースでの生活は日常ではないけど、ひとりひとり青春を過ごし、インターナショナルを歌い、恋愛をし、酒をのむ。そのなかでリンチが行われていく。

読みながら、笑っちゃうんですね。「がんばれ」の掛け声とともに、みんな泣きながら殴り、蹴る。
総括することで真の革命戦士になるっていうんだけど、彼らの理屈を理解しようにもぶっとんでてね。
共産主義化とはなんなんでしょうかね。
彼らを単に馬鹿だねーと批判するだけでは意味がないと理解はしてるんだけど、でてくる言葉は馬鹿だねーしかない。

とはいっても、もう少し違った視点もある。
このリンチ事件は単なる極端なイデオロギーが引き起こしたものというだけでなく、永田一派と森一派との間の主導権争いでもあった。
このあたりは『レッド』ではそれほど書かれていないけど、山岳ベース事件というのは、遠山美枝子のリンチに見られるように、実は赤軍派の権力争いの一つでもあったし、永田側の赤軍派へのあてこすりの面もあったわけで。

でも、内部の人間を粛清するのはまだ理解できけれど、そもそも参加人数が少ないのに、十人以上も殺すことが、どんだけ痛手なのか考えないのかな。
まあこんな批判自体は、この手の人たちには明後日の方向なんだろうが。

2020/03/21

『中核VS革マル』上下 立花隆 講談社

んー、かなり読むのがしんどかった。どうでもいい内ゲバの話が延々とつづく。出版当時は、タイムリーな内容であったから、ノンフィクションとしては最高におもしろかったのではないかと思うが、現在ではもう正直どうでもいい話になりさがっている。
とはいうものの、なぜ内ゲバや組織内でリンチが起きるのかなんてのは、興味深いテーマではある。
本書は基本的には中核派と革マル派の内ゲバ事件を中心に書いていて、思想の差異についてはそこまで突っ込んではいない。
まあ、そこまでやってもね、というのはある。
黒田寛一、太田竜、西京司らによって革命的共産主義者同盟(革共同)が設立されて、分裂に次ぐ分裂で黒田寛一率いる革マル派が分離し、中核派も必然と出来上がっていく。

内ゲバの論理と左翼の論理
立花さんも言うように、「市民の論理」では内ゲバの論理は理解できない。
ぼくも左翼なので耳が痛い話だ。
組織というのは、ある程度ゆるいつながりでなければ大きくならない。
左翼の場合、組織の理論に従うことが重要なんだけど、これはどんな組織でも同じように思えて、左翼の場合はおもむきが違う。
自民党ではさまざまな考えを内包する組織となっている。よくいわれるように右も左も真ん中もいる。自民党としてのアイデンティティはなんなんだと言いたくなるが、それは大きな枠組みで「保守」とよんでもいい。だから、ちょっと左の保守でもなんでも保守として自民党支持を名乗れる。
民間の会社であれば、金儲けが目的であるので、最終的に設ければ思想がどんなでもぶっちゃけどうでもいい。金儲けという枠組みはけっこう大きい範囲になる。
しかし左翼政党の場合は違う。
イデオロギーが違う。その理論が違う。革命へといたる道が違う。
だから、同じ組織で違う論理を主張すれば、日和見主義だとか裏切り者だとかいわれて自己批判をせまられたりする。
そもそもの組織のあり方、自民党や一般の会社とは違うだ。
だからちょっと理屈が違うだけでも、だめなのだ。お互いを反革命的だとののしっているが、同じ共産主義なのに一緒に運動ができないのだ。
これは本当につらい。
ぼくなんかも、選挙の時、日本共産党に票をいれるぐらいなら、自民党にくれてやると思っちゃっているし。
なんてったって、現代の日本共産党は民族主義路線だし、天皇制打倒をいわないし、もう日和見主義なわけで、そんなの共産主義の名折れだと、ぼくは考え、絶対に票をいれてこなかった。
これは根深い。
たとえ革命理論が異なっていても、共産主義の名の下、集まることができればいいんだが、そうなっていない。
それは理論が先にあって、それで組織をつくるから、理論に反することは、組織に反することになってしまう。

革マル派の暴力論
彼らの暴力論では、暴力そのものは否定されない。これはあたりまえ。暴力の質が重要で、誰が誰に対して、何の目的で、どんな条件で暴力を行使するのか、真のマルクス・レーニン主義に貫かれているかぎり暴力は肯定される。
これは革マル派だけでなく、暴力を肯定するうえであたりまえの理屈なんだけど、ただし「マルクス・レーニン主義」というところがネックで、それ以外は正しくないとなっちゃう。
でも、革命ってそういうもんだし。

革マル派の組織論
立花死は、黒田寛一『日本の反スターリン主義運動』の
「他党派の戦術やイデオロギーを批判し(理論上ののりこえ)、他党派を革命的に解体するための組織活動を展開する(組織上ののりこえ)ことを通じて、〈運動上ののりこえ〉を実現する」
というところが肝だという。
つまり、通常では運動で多くのシンパをつくり、そして組織で他党派を圧倒する、という順序だが、革マル派の場合、他党派を圧倒してから運動を広げるという理屈になっている。

内ゲバのエスカレーション
内ゲバとは、傍観者からすれば同じ共産主義者で、なおかつ革マルと中核は同根だから内ゲバになるが、当事者からすれば、敵は反革命になる。なんとまあばかばかしい。
はては、革命的殺人というのがでてくる。たしかに革命するためには殺人がさけてとおれないけど、中核派、革マル派にとっての致命的なミスは、彼らがそれほど力をもっていなかったということで、幕末のときもテロが横行していたが、もちろん薩摩と長州のある種の内ゲバもあったが、薩摩も長州も力をもっていた。
革マル派も中核派も残念ながら、バックにだれもいないのが致命的だった。
中核派は鉄パイプからさらにエスカレートしてバールを使いはじめる。鉄パイプでもかなりヤバイがバールへいきつく。鉄パイプは中が空洞だから、それどほの重さがないので、殺傷能力はバールに比べれば低い。
そしてそれに対する革マル派の反中核派キャンペーンもおもしろくて、自分たちを非難した知識人にたいして、ナーバス作戦なることをおこなう。ニワトリの首、牛の目玉、はては人糞を送りつける。
さらに中核派のいる学校にイラスト付きのビラを送りつける。
「学校ではやさしい先生ですが(教室でのやさしい先生)→ところが……ギロッ、目つきも変わり(子供たちと分かれると吸血鬼のような顔になる)→ジャーン、学校が終わると殺し屋に返信(中核のヘルメットをかぶり、バールをもっている)→死ね! 死ね! ドスッ、グシャ、うぎゃあ〜〜あ(バールをふるって革マルの脳ミソを叩き割っている)→これが君の先生のほんとうのすがたなのだ。(こわいよーと泣いている子供たち)」
なかなかセンスがある。

ついに告訴、そして陰謀論へ
革マル派は中核派を告訴する。それにたいして中核派は権力への密告として革マル派を非難する。
革マル派も中核派も、お互いを権力の犬を批判している。これはどちらも確証がなく、憶測で非難していて、中核派のK=K理論も革マル派の謀略論も、なんというか、立花さんがいうように不毛だよ。
警察権力は戦前の方が力をもっているかのように思っているが、実は現代のほうが大きい権力をもっている。戦前は内務省が管轄していたが、戦後解体される。いま日本版FBIだとかをつくろうとか話題になっていて日本にはそんな機関がないと勘違いしているが、実際はある。公安警察は、たしかにいろいろと制約はあるだろうが、日本にある反政府組織のみならず、政治家の用心たちの情報も握っている。

感想
新左翼の凋落は公安側の計画通りなのか、それとも新左翼側の自滅なのかはわからない。いずれにせよ、新左翼は人心を味方につけることはできなかった。
このことは左翼のひとたちは真剣に考えたほうがいい。
自分たちが正義だと考え、四方八方に敵を作りすぎる。
左翼は理論を重要視しすぎ、神学論争のていをなしていく。
大きな枠組みで、左翼をとりこめる政党があればいいのだが、残念ながらいまのところない。
社民党を見ていると自民党のほうがまだましに見えてしまうし、日本共産党も立憲民主党なども同じ。
だから、れいわ新撰組は多くのあぶれた左翼たちをとりこめる可能性があるのはたしか。山本太郎の立ち回りは、ときにはどうかと思うこともあるが、なかなかいい線いっていると思う。
前回の参院選では、障害を持つ方を比例で当選させたのは快挙で、これは弱者味方である社民党も共産党もやってこなかった。当事者を国会に送り込むことをしなかった。
ポピュリズムと批判されていても、この件についてはよくやったと思う。

2020/03/16

『楡家の人びと 上下』 北杜夫 新潮文庫

読もう読もうと思い続けて、十数年、ようやく読みはじめる。
第一部は読みすすめながらニヤけてしまう。全体的にユーモアをもって描かれていく。桃子やビリケンさんの存在があまりにもおかしくていいですね。
『さいぜん、ドクトル・メジチーネと聖子のことを礼讃した職人は、夢中で毬と奮闘している桃子を見やりながら、思わずこう呟いた。
「どうもあの下の娘は、あんまりできがよさそうでねえなあ」』
桃子の立ち位置がよくわかるじゃありませんか。
さらに文房部やで消しゴムごときを10個をつけで買ったぐらいで、
「あたしゃ、アナーキストなんだからね」
だとか
「へ、さようでございますか。それはあなた方は学習院出のお姉さまでございましょうからね、へ、てめえら、いってえなにほざいてやがんだ?」
だとか
「へ、なにがたふさぎでございますかよ」
とかいちいちおもしろい。
聖子の哀しさはけっこうさらっと書かれているのだけれど、それが痛いですね。多くの人が聖子と身近の人を重ね合わせたりするんじゃないでしょうかね。

第二部は関東大震災からの復興からはじまり、藍子や徹吉のドイツ留学が描かれていく。楡病院は基一郎の時代を超えるほどの隆盛。
下田の婆やの老いと死。

第三部、太平洋戦争がおこる。楡家の人びとは戦争をなんとなく支持しているし、徹吉は当時のインテリにあるような、欧米への憧れ以上に憎しみをもっている。正義がどうのではなくて、現代の日本人
徹吉の孤独と米国や欧州の世間への諦念。藍子の変わりよう。最後に藍子の変わりよう。
いつのまにか戦争の状況が作り出されていき、一人ひとりが戦争が巻き込まれていく。

市民の物語とは何かといえうと、例えば『北の国から』や『男はつらいよ』などもあるが、これらは、清貧の思想が根底にはあり、なおかつ庶民を醜く描きながら、反面そこに美しい生活を描き、どこか高みの見物を決めこんでいるところがある。なんつーか、『北の国から』も『男はつらいよ』も好きであるんだけど、なんかひっかかるんですね。
まあいいや。
とにかく『楡家の人びと』は一線を画している。
解説を辻邦生が書いていて、ここに書かれていることがすべてかと思う。『楡家の人びと』は「市民的な作品」と位置づけている。つまり、あるべき自己や、自身への嫌悪、モラルを問う作品ではない。
「われわれは、言わば火の燃えさかる暖炉の前にゆっくり坐って、この現実の生をあるがままにこころゆくまで愛好し、たのしむことをしなかった。人間の愚かしさ、騒々しさ、軽薄さ、図々しさを人間らしい弱点として愛することをしなかった。人間が生き、迷い、喋り、ぺてんにかけ、見栄をはり、笑い、失望し、死ぬ姿を、そのままで「よし」として腕に抱きしめることができなかった。つまり俗人性や凡庸性を愛したり、それに魅了されたりすることがなかった。」

また十年後ぐらいにでも読んでみようかな。

2020/03/15

「ゲンロン」10, 2019, September ゲンロン

下記はメモ

「投資から寄付へ、そして祈りへ SOLIOの挑戦と哲学」家入一真+桂大介 聞き手=東浩紀
日本では寄付の文化があまり育っていないので、ポートフォリオ寄付というものがでてきているようで。桂さんの「寄付は墓参りのようなもの」というのは、おもしいなあと。

「悪の愚かさについて、あるいは収容所と団地の問題」東浩紀
七三一部隊の跡地、プワシュフ収容所跡地、バビ・ヤールの共通点として、住宅街に囲まれた日常の中にある。

笠井潔の探偵小説についての考察
第一次世界大戦での「大量死」の経験への抵抗から探偵小説というジャンルができた。
ミステリーでの死者は二重の光輪に飾られる。犯人による緻密な犯行計画という光輪、それを解明する探偵の推理という光輪。
「大量死」という匿名の死への抵抗。
笠井は現代日本のミステリーを見る際に、「大量死」から「大量生」の転換をみる。人はゴミのように生かされている。
ミステリーは、加害の悪の愚かさを、意味に還元することなく、記号とパズルによって語ることができると語っているようだ。

七三一部隊跡地の「罪証陳列館は、数の暴力に対して意味の回復で抵抗する施設だった。悪は意味で記憶される」
この博物館では、実証的な検証だけを目的にしているのではない。マルタと呼ばれ匿名のまま死んでいった死者たちの記憶を再現していき、固有性を回復させていく。
罪証陳列館の展示は日本政府が薦めた巨大な生物戦構想があったという歴史館でつくられている。
が、じっさい七三一部隊はそこまでの巨大な構想があったというわけでもない。しかし、そのような歴史館が必要になる。なぜなら、日本政府、関東軍が大いなる陰謀とよ構想によって犠牲者は殺されていなければならないからだ。つまり日本政府、関東軍への評価が過大になっている。
「だから、ぼくたちもまた、罪証陳列館の「過大評価」を静かに受け入れるべきなのだろう。そこでもし「たしかいに罪は罪だが、たいして深い意味なんてなかった」と言い放つことができるとすれば、その大胆さこそが、加害の証であり、日本人の特権なのだと、そのように考えるべきなのだろう。」
「でも、ほんとうにそれでよいのだろうか?」
「加害者はそもそも害を記憶しないし、したがらないということである。加害者は害を記憶しない。他方で被害者は害を記憶するが、かわりに意味を与える。ではそのとき、加害の無意味さの記憶は、いいかえれば悪の愚かさの記憶は、いったいどこにいってしまうのだろうか。」

ハイデガーから考える
「ガス室や絶滅収容所における死体の製造」は「機械化された食料産業」と「同じもの」で、犠牲者は人間としては死んでおらず、「死体製造のために徴用された物資の総量を構成する断片」になっただけ、と語った。(『ブレーメン講演とフライブルク講演』(ハイデッガー全集第79巻)*これはかなりきつい言葉だよ。まだ戦争の記憶が生々しいときに。
これは、すべての者が何かの目的のための素材でしかなく、「代替可能」な断片でしかない、という現代人の世界観を言っている。そこには「存在」の意味が忘却されている。
ただ、このハイデガーの理論は、射程が大きく、収容所と団地の区別をしない。それは収容所には加害があるが、団地にはない。

村上春樹から考える
村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』は「加害側が過去の悪へと遡るのがいかにむずかしいか、そのむずかしさのなかで文学になにができるのか」、それを主題にしている。
村上春樹の文学の特徴として、固有名が避けられていること。柄谷行人からの批判。
それに対する応答か? 「彼にとって、歴史と現実に直面するとはけっして名前と意味を回復することではなく、井戸にもぐることなのだ」

「対談 歴史は家である」高橋源一郎+東浩紀
終戦記念日とお盆が重なっているのは偶然ではあるが、それが日本の夏休みが慰霊の季節となって日本人の想像力をつくりあげる。

明治、大正、昭和前期までの文壇を「家」のイメージで表現する。当時の作家はよく葬式にでていて、親戚同士のような感じだった。それが文壇が「家」になった。
現代の文壇は、作品と作家が切り離されている。
家族的共同体であったからこそ、内部の違和感を排除せずに保つことができた。
しかしいまの日本の小説は孤独なのだという。かつては詩や小説は批評とペアだったが、俗語革命が終わり、文芸批評が思想の役割りをしていた時代は終わった。

現在、批評家は文学的言辞を使うことができない、もしくは使うことが許されない。
正しい態度、平板な政治的表明で、どっち側につくかを表現している。
高橋「現代詩はまさに多様性・多義性の言葉です。なにをいっているのかわからない作品も多いのですが、読者がそこから意味を拾い上げ、多様な解釈の世界をつくることが許されていもいた。かつては、言葉の意味とは一義的に存在するものではなく、読者が主体的につくり上げないと存在しないものだという合意が、広く共有されていたように思います」

「対談 国体、ジェンダー、令和以後」原武史+東浩紀
「令和」が万葉集からとられたが、元ネタは張衡や王羲之の漢籍という。なんと。
「令和」には、明治以降にあった政治理念や倫理的な意味合いがなく、感性的なものになっている。
元号とって天皇の名前には深い関係があったが、今回の改元でそれがなくなった。!! それってなんだ。「仁」も政治的な理念を表していて、君主は民に愛情を注ぐべしというものらしい。

皇后の役割り。
1961年、美智子皇后は長野県の養護老人ホームで、ひざまずき老人に話しかける。カトリックの影響か。これが平成のスタイルとなっていく。
「にほんを守る国民会議」による1981年の提灯奉迎の復活。そして1979年の元号法制化。
皇太子夫婦による平成流と保守派による戦前回帰。
天皇明仁は象徴天皇の役割りを「祈り」と「旅」に見いだしているという。だからこそ宮中祭祀ができなくなれば、退位するしかないと考えていたよう。
昭憲皇太后、貞明皇后は熱心な日蓮宗の信者だった。貞明皇后は神道思想家の筧克彦と出会ってからは「神ながらの道」にのめり込んでいく。
美智子妃はカトリックだったが、裕仁は皇太子時代にローマ法王からカトリックの売り込みがあり、なんらかの影響があったかも。
昭和天皇は母親の信仰に引きづられながら、戦後その反省からカトリックに接近したのではないか。そしてGHQ支配を避けるためにカトリックへと接近。
明仁の宮中祭祀へのこだわりは美智子妃の影響が大きく、そしてそれは昭和的な国体への抵抗ではなく、先代の企ての継承となる。
明仁と美智子は乳母を廃止し、マイホームをつくり上げていく。なんと家族旅行もはじめていたという。
雅子妃は美智子妃とは違い、宮中祭祀に熱心ではない。
とここで徳仁がかつて雅子をかばった発言があった。2006年2月23日、「宮中で行われている祭祀については、私達は大切なものと考えていますが、雅子が携わるのは、通常の公務が行えるようになってからということになると思います。」天皇明仁への反論として。
原さんは雅子妃が思い切った改革をするのではないかと考えているという。
そもそも宮中祭祀は明治につくられたもので、明治天皇はそれをよく知っていてほとんど代拝で、大正天皇はそう。明仁はそのにせものを本物にしようとした天皇。
そこで徳仁はどうでるか、それは雅子妃にかかっているのはないかと。

2020/03/14

『日本共産党の研究』1〜3 立花隆 講談社

かれこれ十数年前に読んで、もう一度読んでみたのだけれど、ほとんど忘れてましたね。

愚民思想について
立花さんは、共産党の体質を民主集中制にあるとしている。これはもっともでしょう。僕はよく共産系が家父長制を批判的に取り上げると違和感を感じていたけど、それはまさに共産党自体が家父長的なんだよね。
そもそも本書でも言及されているが、マルクス・レーニン主義は選民思想に近い。ユダヤ教の選民思想はユダヤ民族に適用されてるものだけれど、マルクス・レーニン主義の場合は民族が党員に置き換わる。マルクス・レーニン主義においては、共産党が労働者を指導していくとなる。
ただし、だからといって共産主義に傾倒する人たちが、隠れたユダヤ思想に影響を受けているわけでない。根本的にはインテリは人を見下している。けれどそれは表にあまり出さないけど。
その建前と本音のなかで、愚民どもを導く共産党という感じでしょう。
でも、僕はこれ自体それほど批判的ではない。やはり国民の7割ぐらいは本当に愚民だと僕も思っているから。
そして左派思想に入れ込む人たちは自分がブルーカラーでないこと、もしくは貧乏でないころにコンプレックスをもっている。なんてったて社会主義、とくに共産主義は労働者階級こそが担い手であることを謳っている訳なのに、自分たちは労働者でないんだものね。

検察当局のやり方
まあそれはいいとして、戦前の当局は初期の頃、共産党を物理的に潰そうとしていたが、潰しても潰しても組織が再びできあがってくる。そこで内部から壊し、人心を共産主義から話す作戦へと変わっていく。
そもそも共産主義を含む社会主義は、多くの人にとって救いでもある。とくに戦前は現代ほどフラットな時代ではないし、貧富の差の貧困の質も現代とはわけが違う。
だから多くの人が社会主義に肩入れすることは、別段当然といってもいい。だから共産党自体の評判を落としていけばいい。
それで思うのは、現代の日本のリベラリズムの評判の悪さも、ひょっとしたらと思っています。
僕は安倍政権が大っ嫌いなんだけど、福島みずほや辻元清美、枝野幸男、またはジャーナリストや評論家や知識人の発言を聞くと、安部がまともに見えてしまうのが不思議なわけ。
だから常々思うのが、こいつら右派の工作員で、左派やリベラリズムを内から腐らせ、人心が離れさせようとしているのではないか、と。

まあいい。
日本人のメンタリティで、自白をを自ら進んでしてしまうらしい。共産党員が機密を喋りすぎていただけでなく、第二次世界大戦の際には捕虜になった日本兵はアメリカ人が不思議に思うほどぺらぺらとしゃべっていたという。なるほどね。立花さんは、負けた際には負けを認める潔さ、という倫理観があるという。たしかにね。なんとなくわかるよ。

共産党が他の政党とは違うことがある。それは中央委員会が党を支配していて、それは国会議員である必要がないということ。それが共産党の特異さで、宮本顕治は当初、議員でもないのに党を牛耳っており、共産党の議員を支配していた。それはおかしいでしょという。

共産主義がなぜ日本では限定的だったのか、そして民族主義路線、
立花さんが、なぜ日本で共産党がそれほど大きい勢力にならず、保守的な地盤となっていったのかを考察している。
戦前、日本はいまだ農民社会であり、工場労働者は農民にくらべて三分の一程度だったという。そんな社会では共産党イデオロギーが農民の心をつかめない。日本では天皇は土着宗教の農耕神の祭祀であり、それゆえに日本人の意識に「民族の母斑」のように貼り付いているという。
ただ、これはちょっとどうなのかと思う。天皇という存在自体、明治に復興したようなものだし、農耕民に連綿と「民族の母斑」として受け継がれていったとはどうしても思えない。
この問題は明確な答えを得られるものではないけれど、右翼イデオロギーのほうがどうも人の心を捉えることができることは確かだろう。
毛沢東もマルクス・レーニン主義の科学的社会主義をすてて、農民中心へと向かう。もしかするとこれも一種のコンプレックスかもしれないね。
民族主義というイデオロギーはけっこう人間にとってわかりやすいというか、すんなりと受け入れやすいもので、国際主義だとかって想像の域を越えていて、生活のなかでは国際主義だとかは抽象的すぎるのかもしれない。
ソ連も1943年にはコミンテルンを解体している。それは戦争を遂行するうえではどうしても民族主義の発想が必要だからなのだろう。
多様性を叫ぶのはいいが、民族主義がなぜかくも人を簡単に魅了できるのかを考えていけば、やはり人間の多くは愚民だからとなるのだろう。

スパイMについて
本書で異彩を放っているのはやはりスパイM・松村昇こと飯塚盈延。
共産党を牛耳り、内部から崩壊させていく。組織の規模を大きくしていき、スパイでないのに尹基協を暗殺し、全協の松原殺そうとする。しかも彼らの汚名はいまだに挽回されていないという。いまはどうなんでしょう。
松村は組織を動かす天才でもあり、実際に共産党が大きくなったのも松村のおかげだという。松村は組織を拡大させていき、いっきに潰せるように仕向けていく。上記の暗殺事件も全協を共産党に従がわせるためだといえる。
立花たちの努力で松原を見つけ出し、松原がスパイではなかったことを証明する。
松村は共産に対し幻滅していた模様で、それはよくわかる。僕は共産党支持者であったことはないが、いまでも左翼を公言しているし、メンタリティは左翼なんだが、かつていくつかの運動に参加していた経験からすると松村の共産党への嫌気もわかる。
スパイ活動は、弱みを握られて仕方なくやっても成功しない。やはり自発的にスパイ活動をやる人間ではないとダメ。
松村は後年、スパイ活動をしていたことを後悔していたかという質問にまったく後悔していないと答えている。世が世ならぼくもスパイに率先してなっていると思う。
松村は熱海事件後、姿をくらませる。満州へ行き、そして北海道へ。一本の映画が作れる。
共産党は晩年の松村を悲惨な末路を送ったふうにしているようだが、こういうことをやっているから共産党はバカなのだ。
共産党だけではないが、左翼系の運動体にはある種の潔癖症を患っていて、運動に参加している人間の過去や運動と一体であることを要求している。議論の多様性など標榜していても、内実は多様性もなにもあったもんじゃない。

戦前共産党の資金集めについて
戦前の共産党の活動でおもしろいのが、美人局や詐欺、持ち逃げ、猥褻な絵や映画で金を稼いだり、ナイトクラブやダンスホールの経営なんかもやっていたという。
「東京朝日」の昭和8年の記事が引用されていて、
「大塚有章は更にエロ班を組織、エロの仲介による大口資金の獲得を企て帝大生デブちゃんこと古川精一にエロ味たつぷりの女党員の物色を命じた。」
なんじゃこりゃ。なかなか下品な文章だこと。

全協と、現場を知らない中央
講座派の野呂栄太郎が小泉信三の薫陶を受けていたなんて知りませんでした。
まあいい。
全協委員長の高江州重正の言葉で、天皇制打倒を行動綱領に入れることに反対だった、というのも労働運動にはメリットがないばかりか、デメリットしかないからだという。全協に結集される人間の幅が狭まるし、共産党と一緒のスローガンでは全協の存在理由がなくなる。
それに労働者にたいして納得できる内容かどうかも問題。
しかも治安維持法のもとでは、天皇制打倒をいうことは、それで運動の障害になる。しかし、共産党からすれば、だからなんだ、過激であればそれは革命的な行動の証となる。
このあたりも今も昔もかわらない。天皇制打倒自体はいい。ただ、それを下部団体だとかに求めてはいけないし、この場合労働運動がテーマなのだから、その問題にたいして問題意識を持っている人たちが結集することが大事。
いまでも左派系の団体では、思想が異なるだけでリンチにあう。昔から変わらないやつらだ。

共産党にとっての反戦平和
共産党は戦後、自らを反戦、平和主義を一貫して主張していたと自慢するが、じつはこの反戦平和の意味が戦後民主主義で使われる反戦平和の意味とは違う。
共産党にとって反戦というのは、資本主義が行う戦争にたいしての反戦であって、内乱内戦、資本主義国家への戦争、帝国主義への民族革命戦争は肯定される。
いざというときは、時刻ブルジョア政府を倒すために、革命成就のために自国政府と闘うことを要請される。ソビエトこそがプロレタリアートの祖国だから。
んん、まあそうだね。現代の日本共産党は戦前の反戦のあり方を否定すると思うけど、戦前のこの反戦テーゼは、理屈としていいんでないか。問題なのは現代の日本共産党自体が日和見主義に陥っていることだろう。

転向問題
転向問題というのは、なかなか興味深い。日本では本書が出版された当時のほとんどの共産党員が汚点をもっている。
なぜ日本の党員の多くが転向していったのか。
立花さんは、日本人は力の論理を覇道として否定的にみる。政治的対決において論理的な対決を好まず、抱き込みあいの論理という妥協という色が強い。国会でのやり取りではなく場外での政治的折衝を重視する。なるほど。
共産主義運動は明確な力の論理(階級闘争論、革命論)の上にたっているが、日本人の性格では敵味方という発想自体が弱い。だから支配者側は共産主義の論理にのってこないし、だから思想犯を処罰するのではなく、教化改善に重きを置く。
ここで驚くべきことなんだけど、司法当局内部では、判事も検事も治安維持法は死刑を想定しているが、運用する場合、死刑はださないことで一致していたという。
そうなのか、人と思想は一致するというのは非常に西洋的な考え方、いや日本では人と思想が切り離すことができるものと考えるのだな。
宮本顕治は非転向の代表的人物だが、吉本隆明は宮本も転向していると批判する。戦後の共産党のあり方は戦前とは違うのだし。
転向問題では、やはり原理原則と実際の運動との乖離が大きいということがあったという。吉本隆明は理論を中心にやっている者からすれば、理論家に現実社会を必要としない、だからはじめから転向する必要がない、自己完結した彼らが非転向だとはいえない、日本の情況、構造を把握していない彼らははじめから転向しているというわけだ。

日本共産党スパイ査問事件
下巻になると、本書のクライマックス、宮本顕治のリンチ事件が中心になる。
小畑、大泉へのリンチの背景には、共産党と全協との関係悪化があるという。全協は共産党の32年テーゼの天皇制打倒では労働運動ができないというが、ミヤケンたちはそんなことを言う全協はスパイが入り込んでいるからとある。それは共産党が否定しようとするが、労働者とインテリの闘いだった。
なんとも、連合赤軍の山岳ベース事件と同じ感じがする。
ミヤケンたちは、小畑、大泉意外にもスパイと疑いがあれば査問(リンチ)をしていった。しかも殺すところまでいかずとも、拷問ののち硫酸で額にバツ印をつけていたのだと。なんとまあ。波多然、大沢武男などなど。ただ波多は査問を受け、死を覚悟しても、その死は革命のための犠牲と捕えていたようで、革命家のロマンをもっていたようだ。
こんなことをすれば組織内は疑心暗鬼になる。そしてこのリンチ事件と同時に大量の転向者がでていた。
そんなこんなで宮本顕治も逮捕され、リンチ殺人が明るみになり、人心が離れる。そして残った袴田はほそぼそと「赤旗」をだしつづけるが、1935年3月4日に袴田も逮捕されて共産党は消滅する。

共産党の論理、ファシズムに負けた共産党
立花さんの戦前の共産党の失敗にたいしてはけっこう手厳しい。まずウェーバーを引きなあがら、心情倫理と責任倫理を分け、政治のプロは責任倫理の世界であるべきで、共産党はいつまでたっても心情倫理を貫いているという。自己の失敗に対して他者に責任を求める。特高や世論や民衆などだ。自らの心情が絶対的に正しいとする共産主義者は、どうもこの心情倫理は本能的なものなのかもしれない。
丸山真男は、ファシズムと闘い共産党は負けたなら、その一切の責任は共産党にあり、たとえ最後まで抵抗、踏みとどまろうが敗軍の将だと、それが苛酷な要求ならば、はじめから前衛党など名乗るべきではないとまで言っている。ここは丸山真男のまさに倫理観がでているね。
そしてこの心情倫理者は心情を共有しないものにとっては独善者のことで、それは独裁へと繋がっていく。

最後に、宮本顕治の判決文が載っている。きちんと読んでいないけど、治安維持法のもとで権力側は好き勝手に裁判だとかやって有罪にしていたと想像してしまうけど、判決文をけっこう論理的で飛躍もない。治安維持法は悪法だけど、それにそって運用されていたことがわかる。そして、当時の日本はすでに官僚国家であり、文書国家であることもわかる。まあ当然か。

2020/03/08

第十一章 使徒たちはその「手紙」を使徒や預言者として書いたのか、それとも教師として書いたのか、ということが考察される。さらに、使徒たちの役割りとはどういうものだったか明らかにされる。――スピノザ『神学 政治論』

第十一章 使徒たちはその「手紙」を使徒や預言者として書いたのか、それとも教師として書いたのか、ということが考察される。さらに、使徒たちの役割りとはどういうものだったか明らかにされる。

新約聖書の使徒たちは旧約聖書の預言者のように、たとえばパウロは神から啓示がきて手紙を書いたのか。
スピノザは言う、彼の書きぶりは預言者たちてゃ異なり、パウロ自身の見解に従って書かれている。さらに彼が神の指示などをかたるときは、キリストが山上で語った教えのことであるという。
そして使徒たちは、予言を伝えるというよりも議論をけしかけているところがある。預言は神の言葉なのだから従うのに理由はない。しかしパウロの場合は、各人に判断をゆだねている。
旧約聖書の預言者の場合、ユダヤ人に向けての預言だが、新約聖書の使徒たちは分け隔てなく教えを説いていた。
そして使徒たちの「手紙」は、自然の光によって書かれたもので、キリストの教えは、主に道徳的な教訓から成立っている。それは誰もが知性で理解できるもので、超自然の光にたよる必要もない。
しかし、使徒たちはそれぞれのやり方で、教えを説いていった。それは分裂や半目をうみだす。
キリスト教が哲学者の思弁から解放されさえすれば、キリストの教えは基本的なことでもあり、幸福な時代といえる。

ここでもスピノザはキリスト教にたいしてけっこう好意的。ユダヤ教にたいしては手厳しいし、スピノザは無神論者という見方からするとけっこう意外。

2020/03/07

第十章 残りの旧約聖書各巻が、既に取り上げられた各巻と同じ仕方で検証される――スピノザ『神学 政治論』

第十章 残りの旧約聖書各巻が、既に取り上げられた各巻と同じ仕方で検証される

「聖書の書き手を崇拝するあまり、聖書にどのような[不可解な]ことが書かれていてもこれを容認しようとする。しかしその彼らでも、もし[ただの]物語作者の誰かがそうした書き方をそっくり真似て物語をつくろうとしたら、間違いなくその誰かをさまざまな仕方で笑いものにするだろう。また彼らは、聖書のどこかに書き誤りがあるなどと言うものは、みな神を冒瀆する者だと考えている。しかしそれなら逆に聞きたいのだが、聖書各巻に手当たり次第に好き勝手な空想を付け加える人たちを、わたしは何と呼べばいいのだろうか。聖書の作者たちを辱めて、まとめて話せない、支離滅裂の話しかできない人物のように思わせる人たちを、何と呼べばいいのだろうか。また聖書の中の明瞭きわまりない[章句の]意味さえ否定する人たちを、何と呼べばいいのだろうか。」(33−34)

ここでもラビたちのいい加減さを批判している。
聖書だけでなく、権威的なものに人間は弱くて、権威付けられれると大したことないものもすごいものになっちゃう。でもこれってしょうがないよね。