2019/05/31

『丼池界隈』司馬遼太郎短篇全集一

丼池銀座、北久太郎通でガタ政こと駒田政吉は、いとはんに十二年ぶりに会う。戦中、手代として働いていた鳩仙堂の老主人から娘桃子との結婚をすすめられる。戦争に若いものは全員招集され、行末もわからない、そこで政吉に店をついでもらおうということになった。しかし政吉は事故にあい、びっこをひくようになり、結婚の話も流れ、居たたまれなく政吉は店をやめる。その後、政吉は丼池で「台」をもち、繊維を扱うようになる。
「おんどれ、今に見てくされ」
政吉は、紙くずのように捨てた主人と裏切った桃子への反発心で、一心不乱に働き、ガタ政と呼ばれるようになる。
大学教授とあだ名される床屋の主人が引抜屋の娘の縁談をもってくるが、政吉は承諾しない。大学教授は桃子の話をする。桃子は学生と駆け落ちをしたが、男が甲斐性がなく、生活は失敗する。そして実家に戻るも親は死に、従兄夫婦が家督をつぎ、しかたなく一緒に住んでいるが、落ち着かないから職をさがしているという。
ある日、政吉は床屋に行き、顔を剃ってもらっていると、それが桃子だと気づき、髪も切らず床屋をでる。
床屋の帰り道、亀屋伊予の前を通ると、商人の勘でこの店が潰れたことをさとる。政吉がいずれ潰れると予想し、その後店を買おうとしていた。しかし予想より早く買う資金がない。そこに大学教授が現れ桃子のことを話す。じつは桃子には資産があって、結婚する際はそれを一緒に政吉に譲る心づもりだと。
政吉はそれを聞いて激怒する。
「が、がしんたれ! おのれは、このわいを何と見くさった。丼池のあきんどは、金にゃア、汚い。金のためなら、馬の糞でも舐めてやるが、魂まで金で売買せんぞう。……ええか、よう聞きさらせ。わいは、な。ほんまを云えば、いとはんが大好きやったンじゃ。今でも、好きで、好きでたまらンわい。そやが、……そやがそんな話を聞いた以上、もう嫌じゃ。死んでも、嫌じゃ。帰ってくれ。帰れ! 塩オ、まいたるぞ」
大学教授は、そこで話したことは全部嘘だという。
「ハッハッハッ、とうとう、泥オ吐きよった。儂の知恵に負けたか。」
桃子はそばでやりとりを聞いていた。政吉は、仲人料をとられた、とつぶやく。

とてもいい作品。テンポもいいし、なんてたって関西弁のリズムがいい。谷崎潤一郎の関西弁もいいが、彼のはしっとりしているが、司馬さんのはいきいきとしていて、猥雑さがたまらない。それに丼池の描写も、現代日本にはないドブ板なかんじもいい。
小説としても、構成がかなりしっかりしていて、無駄がない。最後のオチも文句なし。
引抜屋というのがでてくるあたりも、1950年代の大阪町工場の喧騒な感じがでている。しかし、司馬さんはよく引抜屋なんて知っていたな。今では線引をする仕事は技術力が問われていて、そんじょそこらの町工場の域を越えているのだけれど、今ある会社なんかもともと町工場からスタートした。今でこそ技術力の日本とか言っているけど、当時は「引抜屋」でしかなかったのだ。最近の工場のやつらは、そういう歴史を知ってか知らずか、傲慢なものだよ。こういうちょっとしたディテールが小説の世界観を作り上げていくのだな。
長篇作品とは異なり、練りに練ったのだとわかる。司馬遼太郎が、巷で言う歴史小説家とはイメージが全く異なるものだろう。まさに小説家だったことがうかがえる。えてして司馬さんを歴史家と見なすことがあるが、それは司馬さんにとって非常に不幸なあり方なのだと思う。
司馬遼太郎は小説家であって、歴史家ではない。
『坂の上の雲』みたいな駄作を書かないで、こういう作品をいっぱい書けばよかったのに。

2019/05/30

『戈壁の匈奴』司馬遼太郎短篇全集一

司馬さんのモンゴル賛歌。イギリスの考古学境界に所属する退役大尉がひとつの玻璃の壺を、寧夏の西で見つけたところから空想がはじまる。チンギスカンは少年の頃、チャオルベという青海のウイグルの商人から、西夏の女こそ、世界でいちばんうまい、ということを聞く。
「この時代、この沙漠民の人生は、ものとおんな、この二つへの強烈な執着で成立っていた。」
「女さえあれば、この男たちの集団は走った。この集団の頭目になる視覚は、これまたたった一つしかない。性欲と好戦欲と略奪欲の人一倍激しい男、こういう男にのみ安心感が置ける」
テムジンは仲間に西夏の女の話をし、小さな軍隊をもつ。そして西夏を城を攻める。しかしテムジンは文明にはじめて接し、その強さを思い知り、撤退する。
「中世蒙古人は、神の産んだ最も卓れた獣であった。」
テムジン、65歳のとき、インド遠征ののち、モンゴル高原に一度戻る。その際少年ころより一緒だった蒙克(マング)とともに「やぶさめる」。そのせいか、突然テムジンは発熱し、一ヶ月ほど寝込む。そののち、西夏への挙兵を決める。
そのとき西夏のリーシェン公主が自らの身体を引き換えに西夏を守ることにする。公主はテムジンのオルドになる夜、玻璃の湯槽っで身体を無心で洗う。テムジンは念願の西夏の女を手に入れる。
その後すぐテムジンは再度熱がでて、西夏の公主とカラコルムに帰る途中で没する。
この小説には、司馬さんが少年の頃から妄想していた蒙古民族なるものが描かれている。一見、モンゴルへのひどい言い方のようだが、これは司馬さんのモンゴル賛歌。
草原を馬に乗って駆け抜けるモンゴル人の、力強さ、素朴さ、そして偉大さを讃えている。
これ以降、司馬遼太郎は小説でモンゴルを題材にしなくなるのかな。『草原の記』というのがあるけど、これは小説というかエッセイに近いし、『韃靼疾風録』は、モンゴルではないし。これから短篇を読み進めていくと、またモンゴルが主題になっている話がでてくるのだろうか。

2019/05/29

『ペルシャの幻術師』司馬遼太郎短篇全集一

ペルシャ高原の東、プシュト山脈をのぞむ町メナムが舞台。このメナムがどこかは不明。大鷹汗ボルトルの求愛を拒み続けるメナムの姫ナンがある日街で幻術師アッサムを目にする。アッサムはボルトルの暗殺を請負い、ある夜宴でアッサムはボルトルの眼前に姿を現す。そこでアッサムはボルトルを10日以内にボルトルを殺すことを宣言し、城をあとにする。
ナンは街でアッサムを訪ね、アッサムの術で経験したことないのない快楽を得、夢現ですごす。ある夜、ボルトルは夜陰に乗じてナンの寝室に行く。ナンはまだ幻術のとりこになっており、傍にあった護身用の短剣で蛇を刺すが、それはボルトルの上膊部だった。ボルトルはそこでアッサムがいることを悟り、短剣でアッサムを斬りつける。ボルトルとアッサムは死闘を繰りひろげるなか、アッサムはナンのこころに語りかけ、望楼にいくように言う。そして愛を告白する。望楼にのぼったナンを待ち受けていたのは洪水だった。メナムの街は洪水にのまれ、あとかたもなくなる。その後のナンの消息は知れず。
幻想小説としては、もう一歩といったところだが、発表当時では、日本人が一人も存在しない、エキゾチックな内容で、斬新だったよう。
この小説のラストでナンの消息がわからなず、しかし「悪魔(シャイターン)の石」がテヘランの博物館に収蔵されていると書く。このあたりでロマンをかきたてられるもので、ひとつの石から僕らの意識は過去へとぶ。ほんとうにこの石が存在するのか、テヘランの博物館とは、どこのことかもわかならいが、ストーリーだけでなく、石そのものの存在が妖しいものとなる。そもそも登場人物がみんな真に存在した人なのか? メナムってどこだ? なかなかにくい書き方かと思う。
この話はなにをもとにしているのか。『集史』あたりからか。話自体は、どうってことないけれども、司馬さんの中世モンゴルへの熱い想いを感じる。
もう20年近くまえに読んだことがあるが、すべて覚えていなかった。はじめて読んだ感じがした。
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2019/05/27

Mozart, Concert In A MAJOR, K. 488 Walter Gieseking Herbert Von Karajan Philharmonia Orchestra Columbia, 33C1012, MONO/モーツァルト ピアノ協奏曲23番 ウォルター・ギーゼキング、ヘルベルト・フォン・カラヤン、フィルハーモニー管弦楽団



Mozart, Concert In A MAJOR, K. 488
Walter Gieseking 
Herbert Von Karajan
Philharmonia Orchestra
Columbia, 33C1012, MONO

ギーゼキングとカラヤンによるモーツァルトピアノ協奏曲23番。
これがすごくいい。録音も盤質よくないけど、すばらしいの一言。かつてカラヤンのモーツァルトの交響曲を聴いた時は、怒りしかなかったのだが。
録音は51年。50年代のカラヤンはほんとうに華があっていい。後年になればなるほど、なんというか、なんか臭いな、と感じるようになる。後年のカラヤンは、音楽が本来もっている臨場感というかライヴ感を除去し、それが極まってしまい、薄ペッらくなってしまった。
しかし、このモーツァルトはどうだ。録音こそよくないが、ミキシングなんてことをおよそしていない音がある。
ギーゼキングのピアノもいいんだけども、やはりオーケストラの華やかな音に耳がいってしまう。ギーゼキングのピアノとオーケストラが渾然一体となった演奏ではないし、オーケストラが走りすぎているけれど、それがいい。若かりしカラヤンの勇み足を自然に楽しめる。同時代に聴いていたら、つまらない批評をしてしまうところだろう。
レコードという記録メディアだからこその味わえるもので、ぼくらがレコードを聴くのは歴史を聴いていると同義なのだから。

2019/05/10

『デザイナー・ベイビー ゲノム編集によって迫られる選択』 ポール・ノフラー 中川潤訳 丸善

原書が出版されたのが2016年なので、最新というわけではないけれど、クローニングや遺伝子組み換えについての現状をしることができた。でもそれほど刺激的な内容ではなかった。全体をざっくり知るにはいいかもしれない。
まだまだ技術的に、生まれてくる子供の遺伝子をいじって、青い目、金髪、筋肉質な身体などの指定まではできないようだ。しかも技術的な難点もあり、いじってしまうと派生して他のどこかに影響を与えるかもしれず、そのあたりが未解決の模様。
CRISPR-Cas9という最新のテクノロジーによってかなり正確に遺伝子を変更できるようになっているらしい。ネットなんかで検索すると、2019年時点ですでにCRISPR-Cas9を第一世代とみれば第二世代へと移行しているよう。
本書で問われている生命倫理については、まあこんなところかといった感じ。特筆すべきところもないかと。自分の子供を病気への耐性や身体の強化などが一般的にあんれば、デザインしない方がむしろ倫理的に悪と見なされるようになるというのは、2002年の「ガンダムSeed」でナチュラルとコーディネータの関係なんかでもやってたし。
なかなかおもしろいのが、アメリカ、インディアナ州では1900年初頭から1970年代まで、「赤ちゃんコンテスト」というのをやっていたということで、「白人の教育を受けた丈夫な子ども」を理想としていたという。『Eugenic Nation: Faults and Frontiers of Better Breeding in Modern America1(Alexandra Minna Stern)という本があるらしい。誰か訳さないかな。
人種差別、障害者差別は優生思想とは関係なく存在するし、そもそもこの優生思想自体、人間が逃れることができない感情であったり、欲望であったりする。
内なる優生思想には、ぼくもある程度共感するし、理解もする。障害者が健常者の社会に適用しようと努力したり、健常者へ憧れをもったりなど、そこには障害をもっていることがマイナスであることが前提になっていて、障害をもっていてもいいんだ、というポジティヴな感情を否定している。それは仕方がないことなのか、克服?すべきことなのか、そうではなくて、そんあふうに思わせてしまう社会がいけないのか。
人は他人と自分を常に比較している。優生思想をもうちょっときちんと定義したほうがいいとは思う。内なる優生思想は人間一般がもっているもので、それは全て否定されるべきものかどうか。かっこよくなりたい、マッチョになりたい、スマートになりたい、頭が良くなりたい……いろいろと欲望があるけど、このあたりの欲望は優生思想なのか。大きく見ればそうだし、でもそう言い切ってしまうには違和感もある。
このような日常の欲望や憧れと社会構造の差別へ変わる感情との境界線を引けるような理屈があるものだろうか。感情だから、自分で律しなければならないのかもしれない。とするとだ、人間そんな立派ではないから、人間革命を求めるしかなくなる。

2019/05/04

Ravel Trio En La Mineur pour Piano, violon et Violencelle Roussel Trio En Fa Maieur, Pour Flûte, Alto et Violoncelle, Op. 40 Trio En La Mineur Pour Violon, Alto et Violoncelle, Op. 58 Lucette Descaves, Piano Jean-Pierre Rampal, Flûte Trio Pasquier ETATO, REM-1027-RE/ MONO/モーリス・ラヴェル ピアノ、ヴァイオリン、チェロのための三重奏曲 イ短調/アルベール・ルーセル フルート、ヴィオラ、チェロのための三重奏曲 ヘ長調 作品40/ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのための三重奏曲 イ短調 作品58/リュセット・デカーヴ、 ジャン=ピエール・ランパル、 パスキエ三重奏団



Ravel
Trio En La Mineur pour Piano, violon et Violencelle
Roussel
Trio En Fa Maieur, Pour Flûte, Alto et Violoncelle, Op. 40
Trio En La Mineur Pour Violon, Alto et Violoncelle, Op. 58
Lucette Descaves, Piano
Jean-Pierre Rampal, Flûte
Trio Pasquier
ETATO, REM-1027-RE/ MONO

モーリス・ラヴェル ピアノ、ヴァイオリン、チェロのための三重奏曲 イ短調
アルベール・ルーセル フルート、ヴィオラ、チェロのための三重奏曲 ヘ長調 作品40
アルベール・ルーセル ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのための三重奏曲 イ短調 作品58
リュセット・デカーヴ、ピアノ
ジャン=ピエール・ランパル、フルート
パスキエ三重奏団

ラヴェルの三重奏は傑作中の傑作。
第一楽章、冒頭がほんとにきれい。ピアノのピアノから入って、弦楽が少しづつ合流していって、あっというまに一つ目の頂点へ。そこからヴァイオリンが歌いだすんだけど、チェロやピアノがヴァイオリンの音色と溶けあう感じが何とも言えない。
第二楽章はパントゥムというマレーの詩から着想を得ているらしいが、僕はパントゥムがなんだか知らないが、まあラヴェルも大して知らずに、どこかで聴いておもしろいと思ったのかな。舞踏的なリズムで、ピアノと弦楽の絡みあいが絶妙。
第三楽章、旋律がとてもよくて、悲しみとか苦しみとかそういう感情に寄りそうような月並みな旋律ではない。ノクターンであって、音で表す静寂って感じ。チェロがまず奏でていくが、それがもう美しいのなんの。ヴァイオリン、ピアノとその旋律を引き継いでいく。フーガみたいにしているのか? 
第四楽章では一転して明るくなり、音楽が雪崩を起こしたかのように押し寄せる。
いま聴いても前衛的だし、それに音楽の愉楽も忘れていない。こういう音楽を聴いていると、ベートーヴェンの交響曲とか三重奏とか野暮で聴いていられなくなる。あの仰々しく、童貞っぽくて、押しつけがましい彼の一連の曲とは全くの対極にあり、ラヴェルは作曲家としてセンスが洒落ている。

ルーセルは初めて聴く。名前は知っていたけど、これまで機会がなかったし、それほど興味をそそる感じでもなかった。だが、今回聴いてみて、いい曲だよ。ヘ長調作品40はポリフォニックで、最初は雑多な感じを受けるが、音楽の自然な流れが途切れることがない。すーっと筆で線を書いた感じの潔さのようなものがある。
イ短調作品58ではモノフォニックな曲想で、第二楽章なんかは美しいですね。第三楽章の舞踏的なリズムなんかもおもしろい。
演奏はデカーヴという人で、Wikipediaにはプロコフィエフのピアノ協奏曲第三番の初演をした人だと。ランパルという人は、この人にちなんでフルートコンクールができちゃってるほどの人らしい。
それはそれとして、演奏はやはりフランス的なんだ。やはりドイツ、オーストリアとは全く異なるスタイル。やわらかいというか線が細いというか。リズムのとり方も軽薄な感じがして、いいですね。
これもエラートの再発盤なんだけれど、録音もMONOらしくていい。大音量にしたらさぞかしすばらしいだろうなあ。

2019/05/03

Beethoven Symphony no. 7 IN A MAJOR, OP. 92 Erich Leinsdorf Rochester Philharmonic COLOMBIA, RL6622, MONO/ベートーヴェン 交響曲第7番 エーリッヒ・ラインスドルフ ローチェスター・フィルハーモニー



Beethoven
Symphony no. 7
IN A MAJOR, OP. 92
Erich Leinsdorf
Rochester Philharmonic
COLOMBIA, RL6622, MONO

エーリッヒ・ラインスドルフによるベートーヴェン交響曲7番。初めて聞く指揮者。ロチェスター・フィルハーモニーというのも知らなかった。アメリカで購入したレコードで、雑多に置かれていた中から見つけだした。指揮者も知らないし、オーケストラも知らないけど、何かオーラ的なものを放っていたから買ってしまった。盤も傷が多くってノイズが多いけれども、録音自体はいい。MONOならではの力強さがある。
演奏もとっても力強くていい。ラインスドルフはオーストリアのユダヤ人で1937年にアメリカ亡命ということだが、この時代多くの文化人や知識人がアメリカに逃げていったんだなあと思う。
Wikipediaに、
「ロチェスターは世界一小奇麗な行き止まりだ!(Rochester is the best disguised dead end in the world!)」
という言葉が載っている。正直これだけでは何のことやらわからない。Wikipediaにはロチェスター市民の音楽理解が狭いことをラインスドルフが嘆いた言葉と説明されているけれども。出典がよくわからない。
ともあれ、こんどはレコード屋で他の演奏を見かけたら買ってみようかと思う。

2019/05/02

『新復興論』 小松理虔 ゲンロン

マスメディアやSNSでは極端な言説ばっかりになっている。ちょっと人権派っぽい発言をすれば「パヨク」だし、ちょっと天皇を擁護すればウヨクだし。いつからかこんな感じになってしまったな。かつては極論を闘わせる「朝まで生テレビ」だとかをよく見ていたが、いつのまにかどうでもよくなって久しい。政治的なネタにたいして、ほんとどうでもいいと思うようになっていってしまった。その契機が、僕にとっては東日本大震災後のメディアや知識人たちのあり方だった。討論番組をみれば、極論が横行していた。一人一人のコメンテーターや知識人は、おそらくそんな単純な思考はしていないとは思うが、テレビという媒体によって、極論へと編集されていく。そして極論を楽しめなくなったし、その極論がなんちゃってではなく、まじめな言説として広まっていっている。そんな議論を多くは望んでいないにも関わらず。
小松さんは、「中庸」の立場で本書を書かれていて、言ってしまえば退屈な内容なのかもしれない。原発推進、反原発を強く押しだしているわけでもないし、放射能の安全性や危険性を声たかだかに叫んでいるわけでもない。だから、刺激的な内容でもなんでもないのだけれど、でもそれがいま多くの、どっちつかずで過ごしているマジョリティの心に、真摯に訴えかけてくるものがある。
「観光客」として福島と接するをコンセプトに編まれている。どうしても外部である人間が語ることをはばかれる復興を、当事者なんて誰もいない、いやみんなが当事者だということで、お役所的な復興ではないものを提示している。不謹慎でもいいじゃないかという精神がやっぱり必要なんだな。まじめに考えることもいいけど、まじめに考えないで行動することが、正義をふりかざざした言動をかわすきっかけにもなる。眉間に皺寄せていればいいってもんでもない。
第三部のいわきの芸術運動については、僕は全く知らない世界でもあるのでおもしろかった。蔡國強の回廊美術館、UDOK. 玄玄天のこと。
草の根なんていうとカビの生えた言葉で余計なものもついてくるけど、まさに草の根というか、意図せずして「場」ができあがっていく。それが僕らが社会とつながる接点になる。一昔前ならそれが会社であったかもしれないが、現代ではそれもむずかしい。
震災とは関係なくできあがっていく場、それが地域の文化を作り上げられていく。表側の観光ではなく裏側の観光をとおして芸術が生みだされていく。炭鉱やソープランド、そして原発が芸術へと昇華していく。
文学や芸術が、どうも軽んじられ、得てして金儲けか反権力かどちらかでしかないようなものが横行しているなかで、芸術や文学のあるべき姿が福島の土地で出来上がっていく芽が多くあるようだ。
ただし、少し冗長な内容であることは否めない。また福島をバックヤードとして位置づけるというのも、わからんでもないけど、地方はだいたい同じだ。下請け孫請け会社が地方の工業団地だけではなく街中には今でも多くあり、名も知れない中小零細企業がひしめき合っている。むしろ日本の地方は、東京、大阪、福岡などの大都市のバックヤードといっていい。

2019/05/01

Johann Sebastian Bach Sonaten Für Violine & Cembalo Sonata III E-dur, BWV1016 Sonata I h-moll, BWV1014 Sonata V f-moll, BWV1018 Lars Frydén Gustav Leonhardt Telefunken ‎– SAWT 9433-B/バッハ ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ、BWV11014, 1016, 1018、ラールス・フリューデン グスタフ・レオンハルト



Johann Sebastian Bach
Sonaten Für Violine & Cembalo
Sonata III E-dur, BWV1016
Sonata I h-moll, BWV1014
Sonata V f-moll, BWV1018
Lars Frydén
Gustav Leonhardt
Telefunken ‎– SAWT 9433-B

レオンハルトはクイケンとこのヴァイオリン・ソナタを録音しているが、一回目の録音はLars Frydénというヴァイオリニストとやっている。
もうクイケンのヴァイオリンとは全く違うといっていい。あとは好みの問題になるのだけれど、クイケンはクイケンでいいと思うのだけれど、どこか音楽界に挑戦してやるといった意気込みがあって、ちょっとやり過ぎなところがないわけではない。だから、正直言って愛聴盤にはならなかった。
Lars Frydénというヴァイオリニストは全く知らなかった。日本語ではほとんど情報がない。生まれは1927年というからレオンハルトと同世代となる。
演奏は、古楽にありがちな尖った演奏ではなくて、とてもゆったりと音楽が奏でられていっている。クイケンと比較すれば、あまりに前時代的といってもいいかもしれない。バロック・ヴァイオリンを使用しているとはいえ、演奏スタイルはピリオド演奏とはいえず、まだまだピリオドは運動として黎明期であることもわかる。
それでも、Lars Frydénの演奏のほうがクイケンよりもいいと思う。彼の演奏はとても自然だし、バッハの音楽がすとんと心におさまる感じがする。
録音も申し分ない。