2019/06/17

『ソフィストとは誰か?』 納富信留 ちくま学芸文庫

おっもしろーい。下記、かなり大雑把なまとめ。古代ギリシアの文献を読む際に前提知識を教えてくれる。

哲学者とソフィストの区別
プラトンによって、哲学者とソフィストが明確に区別されていたという。ソクラテスの弟子たちは、自らをソフィストであることを自認していたものもいたし、批判的な態度を示しているわけでもないという。「ソフィスト」問いう言葉自体、紀元前4世紀頃では、まだ否定的なニュアンスが含まれていなかった。
『ソクラテスの弁明』を初めて読んだとき、なんじゃこりゃ、ただの言い訳の本じゃないか、と思ったが、ある意味これは正しくて、ソフィストは詭弁を弄する人をいい、哲学者は真理の探究者となる。僕が「弁明」を読んだ際の感想はあながち間違っておらず、ソクラテスが詭弁をつかっていたのは、裁判という場やソフィストを念頭において、裁判という形式そのものを劇場化してのことだったのだ。
ソフィストの著作は、ほとんど現代まで残っていない。その理由として、ソフィスト、たとえばプロタゴラスなどは物理的な迫害などにあっていた可能性もあるという。まあソクラテス自体が、死刑になっちゃうぐらいだから、多くのソフィストも危険分子とみられてもおかしくはない。
ただし、それだけではなく、ソフィストにとって書くことは二次的なもので、語ることが、弁ずることを売り物に商売していた人たちだからでもある。書くこと、それ自体が微妙な行為だった。それはやはりソクラテスも書物を著さなかったことからみてもそうだろう。
ソクラテスはプラトンによって哲学者として扱われるようになったが、当時、一般的にはソクラテスはソフィストと見られていた。だからこそソクラテスは裁判にかけられた。
ソフィストは「弱論強弁」の能力を誇っていた。
プラトンは『ソフィスト』で哲学者とソフィストの分類が行われる。哲学者はポリスに忠誠を誓い、徳の教育可能性を問う、そして不知を自覚し、絶対的な真理を探求する。
ソフィストは、諸国を歴遊し、金銭をとって教育をする。徳の教育を標榜し、懐疑主義や相対主義の立場をとる。ソフィストは、授業料をとっていた。若者はソフィストに知的刺激などをうけて、政治家へと出世していく。それに従ってソフィストの地位も上がっていく。
プラトンはソフィストと哲学者を区別しようとするが、周りから見れば、同じ種類に考えられていた。ソフィストとが誰か。
「シュコファンテス」という人たちがいて、彼らは告訴常習者でアテナイのみ酒的裁判制度を悪用して、人々から嫌悪されていたという。そして、お互いがお互いを「シュコファンテス」として批判しあっていた。この言葉はレッテルとして機能したところがあって、特定の集団や活動をさして述べているわけではない。同様に「ソフィスト」も同じでレッテルとして機能している場合もあれば、たんに「思想家」一般を意味することにもなる。
プロタゴラスは、自らを「ソフィスト」と自称することはせず、他のソフィストを一線を画している自負があったと考えられる。
そして彼らは特定の教義を持っていなかった。ソフィストは相対主義の立場をとっていたわけではない。プロタゴラスはたしかに相対主義を標榜していたが。
ソフィストは誰かという問いは、かなり難しいよう。ゴルギアスは自らを弁論家と名乗っていて、法廷弁論を大きなテーマにしていた。ただしそれはプロタゴラスらのソフィストたちも同様だった。

『ヘレネ頌』
この本の素晴らしいところは、前半部もさることながら、後半部のゴルギアスとアルキダマスのテキストの詳細な読解だ。
ゴルギアスが弁論の演示として提示した『ヘレネ頌』について
悪女と言われていたヘレネをロゴスでもって弁護していく。まさに弱論強弁というやつだ。逆説的な言論を行うことで、罵られていた神話上の女性を擁護することは、ある種聞くも者に愉楽を与える。これは面白いところ。ロゴスで説得されることに人は快感を覚える。
ヘレネが行為の「ありそうな」原因をあげる。「神の必然、暴力、言論による説得、愛」。これらの原因によればヘレナに責任はないと主張する。これらありそうな原因には、一定の説得力がある。しかしそれは真理でもなんでもない。あくまでもヘレネを弁護するための手段となっている。ゴルギアスは、偽りで魂を説得し、「ありそうな」議論で、読者を幻惑する。彼の「整いし様」というのは、たんなる見せかけの装飾なのだが、じつはそれこそが真理なのだと開き直っている。偽りが真理となる。これはゴルギアスの弁論が時間の制限がある法廷を想定していることにもわけがあり、短時間で絶対的な真理なんて答えがでるわけではないし、正しいのか正しくないのかの答えだってあやしい。そんななかで「ありそうな」議論のすることが重要となる。しかしゴルギアスにとって、その「ありそうな」議論で世界がなりたっているのだから、たしかに「真理」に違いない。
『ヘレネ頌』を読んで、心底説得されることはない。というのも大前提としてヘレネが悪をなしたということを、読者は知っているからだ。そして論理の進め方に違和感を覚える。

『パルメニデス』
『パルメニデスの弁明』、これは『ヘレネ頌』とは異なり、無実のパルメニデスの法廷での自らの無実を弁明する内容となっている。そしてこれがおもしろいのが、読者はパルメニデスが無実であることを知っているが、弁明を読むといかがわしを感じてしまうところだ。それは徹頭徹尾、論理で論証しており、そこに僕らは何かしらの信じられなさというか、憎しみに近いものも生まれる。

ゴルギアスの「重層論法」と「枚挙論法」
重層論法とは、一つの議論を退けた後に、そのいったん否定された可能性を仮に認めた上で、さらにそこからの帰結を検討し退けていく論法。
つまりは、仮に、仮にこういうことが可能で、これらのことをなしたと仮定したとして、それは最終的には不可能であることがわかる、といったところ。
枚挙論法とは、一つの命題を否定するために、その命題を含意する複数の可能性を選択肢として枚挙し、それらを一つずつ退けて、最終的に当の命題を退ける論法。ただし、ゴルギアスの場合は、それらの選択肢はそれぞれ独立しているのではなく、少しづつ重なっていて、論が進んでいくにしたがって、その不可能生を強化していくやり方。

ゴルギアス『ないについて、あるいは、自然について』
「まず一つ、最初に、何もない、ということ、第二に、もしあるとしても、人間には把握できない、ということ、第三に、もし把握できたとしても、隣の人に語ることができず伝えられない、ということである。」
ここでも重層論法が使われている。『ないについては』は哲学的な論考で、そこでこのいったん退けたものを、再度仮定でおいて論ずるというは、哲学がもとめる真理とは異なるやり方となる。ゴルギアスは、このような重層論法を用いることで、哲学的な議論も法廷での弁論も同等のものにすぎないと考えている。つまり、哲学が解明しようとする真理自体、なんだかわからない状況で、そんな哲学への懐疑となっているかのかもしれない。
そもそも「何もない」というのは何なのか。「ない」について何かを語り、思考することは自己矛盾に陥っているとも言える。そして把握不可能なものを把握できるのか、それはメタレベルでの話としてしているわけではない。ある、ないについて私たちは何も考えていないのかもしれない。にもかかわらず、ロゴスによってゴルギアスは把握不可能なことを伝えようとしてる。
さらに枚挙論法が使われているが、ここでは論理の穴が散見される。「生成」か「永遠」か、それとも両方か。といった議論で、これらをすべて否定しても、生成したあとは永遠というのもありうる。しかしこれは、ゴルギアスは意識的に論理の穴を作り上げていると考えることができる。
パルメニデスなどのエレア派はあるは、ある、ないは、ない、という絶対的真理から不変で一なる「ある」の存在論を説く。ゴルギアスは、これに反論するかたちとなっていて、「ある」の主語がなんであっても成立するのかどうか、成立しないなら、「何もない」となる。

哲学のパロディ
『ないについて』は哲学のパロディとなっている。エレア派の議論を念頭において、哲学を揶揄している。ゼノンの多があるなら一もある、という議論に対しては一がないなら多もないといったように、全否定へと向かう。そしてエレア派の欠陥をあえて使い、暗にエレアの論を退けていく。
エレア派はゼノンの逆説のように常識を破壊し、「ある」の真理を真面目に積極的に哲学している。しかしゴルギアスはそれらをいかがわしいものとして批判する。『ないものについて』の議論は、ナンセンスで、把握できないものを把握できるように読者に伝えてくいくという自己矛盾を含む。
ゴルギアスはパロディを使い、哲学を笑う。笑いは弁論において、敵対する人の真面目さを笑い、言論の魅力と力を見せつける。そして、哲学が真面目であればあるほど、真理を説く哲学者は不誠実なる。思い込み(ドクサ)に陥り、言説をひねりだす。やっていることとは法廷弁論と同じことに過ぎない。

アルキダマス『ソフィストについて』
紀元前五世紀、小アジアのエライアに埋めれたアルキダマスは、現代では忘れらたソフィストだが、当時は最も著名なソフィストだったという。彼はゴルギアスの即興演説を受け継ぎ、語り言葉を重視していた。語ることと書くことは能力が異なり、書くことは精確さを求めて推敲に推敲を重ねるが、語ることは即興を真髄とする。書くことに卓越した者はソフィストではなく作家とよばれるべきだという。
書くことは、瞬時のアドリブがきかないため、時期を逸してしまうことになる。即興を重んじる人は、その場の雰囲気を直接感じ、その場にふさわしい論をたてていく。
そして書くことはゆっくりした知的作業で、語ることに対して遅れをとり、行き詰まってします。さらに書くことは、忘却をともなう。即興的な語りは「アイデア」を重視している。
プラトンは『パイドロス』で、このアルキダマスを念頭において、プラトンも語りの優位を説いている。しかしプラトンの場合、何も残さなかったソクラテスに語らせて、対話篇を書いたが、それは繰り返し読むという作業が、その時その時の即興とは異なり、物事を距離をもって理解していくのに必要だったと考えたからかもしれない。
当時、古代ギリシャでは語りの優位が語られることがよくあったようだが、アテナイなどでは、医学や天文学などの著作が巷で売られ読まれていた。そういったなかで民主制を敷いていたという点で、語りに優位があると考えられていた。

ちょっとした感想
納富さんはソフィストと現代の共通点をあげる。人それぞれといった相対主義、富や権力への信奉などなど。でも、それはおそらくどの時代においても通じることだと思われる。
自由主義社会である現代日本だけで、相対主義が蔓延するわけではない。どの時代でも、人はそれほど傲慢ではないからだ。相対主義はたしかに哲学的にはよろしくないかもしれないが、現実社会では一定の役割りがあって、それはある種の他者への配慮をともなっている。ただし、相対主義が常にいいというわけでもない。
かなりおもしろい内容だった。もっと早くに読んだほうがよかった。プラトンを読む上での前提知識を仕入れることができるし、プラトンの立ち位置がよくわかる。

2019/06/15

『ソクラテスの弁明』 プラトン 納富信留訳 光文社古典文庫



いまさらながら、古典というのはいいもんで、いろいろと読み方ができて、だからこそ2500年も受け継がれてきたのだと、しみじみ思う。

不知と無知について

「知らない」ことを「知っている」というのではなくて、「知らない」ことをそのとおり「知らない」と「思っている」。
「不知」というのは、真善美のような「知恵」を「知らない」ということで、この神々にしかわかないようなことを「知らない」ことを「不知」といい、この「不知」を自覚することが「人間的な知恵」と呼ばれる。
まず「知る」というのは数学の根拠のように明確な根拠もって知っている際に使われ、「思う」は答えがあっていても、知っていても、根拠を明示できなかれば、それは「知っている」というのではなくて「思っている」となる。
つまりはこの「不知」を自覚すること、それが哲学の探求であり、ソクラテスはまさに知者としては不完全であると「思ってる」から、「人間的な知恵」を「知る」ために、哲学をしている。
自分の寄って立つドクサ(思い込み)を突破するのは、「不知」を「自覚」すること。そして「不知」なのにもかかわらず、「知っている」と考えていることが、「無知」の状態となる。
プラトンの対話篇は、すべてこの「無知」を暴きだすことに力が注がれている。ソクラテスが、一般で述べられる「無知の知」を説いているのではない。
「知らないことを知っている」というのでは、そこから哲学ははじまらない。というのも、その状態は、知を愛し、知を探求する姿勢ではないからで、「不知の自覚」を得る過程こそが哲学となる。
知ることができない事柄があり、その「知らないことを知らない」、これを「知ろ」うとすることが、自己吟味となる。
「無知の知」とこそ「無知」そのものであり、欺瞞でしかない。「知らない」ことを「知らない」とそのとおり思う、それは「知らない」ことを「知っている」ではない。「無知」自体がなんなのかの吟味もしなければならないし、「無知」とは何かを「知らない」のだから、それを「知っている」と言ってしまえば、傲慢でしかない。

詭弁と現実世界

ソクラテスの論駁は詭弁でしかないが、その詭弁こそがこのソクラテス裁判の根本的な批判となっている。
詭弁によってソクラテスの理屈は通るが、それによってアテネの市民が腑に落ちず、憎しみを抱く。
これは世界を表しているとも言える。人間の現実世界はソクラテス裁判のように詭弁によって出来上がっている。ソクラテスは自らの身でもって、そんな人間や人間社会を批判している。
ソクラテスは、自己への配慮をもって、本当に大切なことに配慮、「魂を最善にするように配慮する」ことを説く。身体や物への執着ではなくて、「より善く」生きること、それが「徳(アレテー)」となる。

人間とポリス

まず、自己吟味をすることを説く。
「本当に正義のために闘う人は、もし短時間でも生き残りたければ、公人としてではなく私人として活動する必要があるのです。」
「自分自身ができるだけ善く、思慮あるものになるようにと配慮する前に、自分自身に関わるさまざまな事柄に配慮することがないように。また、ポリス自体を配慮する前に、ポリスに関わるさまざまな事柄に配慮することがないように。そして、他のものについても同様に、そのような配慮するように」
そこから浮かび上がってくる、「人間」によって営まれる共同体こそが、「ポリス」にほかならない。「善き生」を生きる者が、「人間」なのであり、そうでないならば「動物」となる。

かなり真面目に「弁明」を読んだ。解説もかなり充実していて勉強になった。
この「ソクラテスの弁明」は、一歩間違えるとたんなる自己啓発本のような類に堕してしまうが、プラトンがこの裁判を描くことで何を投影していたのかが、よくわかる。
世界は詭弁に満ちている。だから、日々精進しなさい。
ああ、そういえばブッダも同じようなことをいっていたな。「ブッダの最後の旅」で、臨終の間際に、世の中は無情だから日々修行を怠らないように、と。

2019/06/13

『女の平和(リューシストラテー)』 アリストパネース 高津春繁訳 岩波文庫

ヤりたくて戦争を終わらせる喜劇。
やはり喜劇というのは、その時代の、その土地の文化的背景だとかがわからないとおもしろいとはなかなか思えないものだと再認識できる。注釈はついているけど、ピンとこない。
しかし訳がなんというか、思いきった訳をしているのはいいが、「南無三、八幡大菩薩」だとか「おいどん」だとか、ちょっとやりすぎ。
にもかかわらず、下ネタは大胆な訳にならず、岩波文庫だからか、かなりお硬い訳になっている。オリジナルが読めないからニュアンスがわからないけども。僕が勝手に想像するに、訳よりももっと直接的な表現で、下世話感たっぷりだったんじゃないかと思う。
昔からみんな下ネタが好きだったんだと感慨深いものがある。なぜ下ネタで人は笑うのだろう。しかもその比喩が現代でも同じような表現で使われている。人物評で「大物」だといって「大きい」し「ぶっとい」と飲み屋の会話だ。
男と女の関係というのは、2500年前からほとんど変わっていないことがわかる。男はどこか女に頭が上がらないというやつ。そして女がどこか男を見下しているあたりも、現代の感覚でも理解できるものだ。喜劇でもあるから、かなりデフォルメされているだろうし、ちょっと穿った味方をしているに違いないが、それは現代でも一緒で、映画や小説、漫画などの創作物が現実の世界を、ある一面をフォーカスしているから、描かれていることが世間一般を表しているわけではない。それでも、当時から今と変わらない男女観をもっていたのがわかる。
女は女で、性欲が抑えられずセックスボイコットをやめようとしたり、みんなヤりたくてしようがない感じになっている。
そして最後は、男が我慢できず和平を結んで戦争を終わらせるという、なんともばかばかしいお話。訳者の解説では、アリストファネスの平和主義者としての願いが込められているみたいなことを述べているが、僕はちょっとそれはナイーブすぎかなと思う。
もうちょっと皮肉がきいている内容だと考える。セックスで戦争が終結してしまうという、大真面目で戦争をやっている政治家たちや男どもを揶揄している。しょせん政治家や男どもはヤることしか頭にないんだ、みたいに。
わたしゃ、自由な市民だと述べられるが、女こそが自由な市民で、男は最後の最後で折れちゃう、しかもセックスしたいがために折れちゃう、性の奴隷だと言わんばかり。

ちょっと言い過ぎたかもしれない。

2019/06/12

北方謙三版「水滸伝五 玄武の章」

水滸伝五 玄武の章
「地進の星」「地闘の星」「地会の星」「地空の星」


宋江は江州の料理屋で黄文炳率いる軍一万に徐々に包囲される。武松、李逵がそれを突破し、戴宗が密かに築いた川の中州になる砦にたてこもる。
黄文炳は官軍のあまりの脆弱さと規律のなさを糺すために、味方の将軍をとらえ晒し者にしたりしていた。そのかいあって緊張感のある軍となる。
そしていよいよ梁山泊も動き出す。
黄文炳は公孫勝によって首を切られ、青蓮寺は戦に敗れた。
魯智深は女真族の地へと赴いていたが消息がなくなった。鄧飛がひとり魯智深を探しに行く。女真族の本営のなかの牢城で糞を運ぶ仕事をして牢なのかを探索すると、魯智深がいた。すぐに逃亡売ることに決める。魯智深は鍛冶屋によってつくられて手枷をはめられていたため、自ら鄧飛がもっていた鎌で手首を切って逃亡する。渤海をこえて柴進のもとへ。
安全道が林冲とともに柴進のもとへ訪れ魯智深を手当する。
馬桂は済仁美と楊令と親しくなる。楊令は頻繁に馬桂の芝居小屋にいき、そこで白嵐という犬と仲良くなる。李富は楊志を暗殺し、そして二竜山と桃花山を攻め落とす計画をたてる。
楊志が済仁美と楊令にひそかに会うのを見計らい、白嵐を放つ。そして楊志の居場所が判明してしまう。王和の軍が動く。楊志は吹毛剣で死に物狂いで闘う。
石秀が助けに来たときにはすでに遅く、楊志は立ったまま死んでおり、済仁美も楊令をかばって死んでいた。
石秀は楊令を連れて二竜山へもどる。
李富は許定を将軍にすえて二竜山と桃花山を攻めるも、石秀、周通が必死に抵抗し、梁山泊の援軍もあり、李富と許定を撤退させる。
石秀は死ぬ前に楊令に致死軍にいた際の剣を託す。
林冲は二竜山と桃花山の頭領に命ぜられる。

楊志がまさかここで死ぬとは。たしかに前兆があったが、まさか。青面獣楊志はこれからいろいろと活躍しそうな雰囲気もあっただけに残念なところもあるが。
魯智深が腕を安全道によって切断されて、その腕を林冲と食べる場面があるが、人肉食をここまで明るく書けるのもすごい。人肉食で友情を描いている。
ようやくようやく、話がどんどん進んでくる。

国も老いる。国は少しずつ姿を変えていくべきだ。十年かけて腐敗をなくし、二十年かけて帝のかたちをかえていけばよい。青蓮寺はこう考える。保守主義とはかくあるものだろう。
一方、梁山泊はやはり暴れもの好きにすぎないところがあり、青臭いところがある。革新とはかくあるものだろう。
梁山泊側は義憤で立ち上がったものたちだが、やはり青臭い。反乱分子はつねにこの青さをもっていて、ゆえに脆い。
政治とは、複数の勢力のせめぎあいであり、それは利害の衝突だ。議論をすることではない。よい政治を目指すのでもない。政治とは理想ではない。
梁山泊は、その点でも政治を理解していない集団という謗りを受ける。考えてみれば梁山泊は左翼的だなあ。政治が利害の場であることを忘れたのか、知らないのか、いずれにせよ、良くも悪くも梁山泊は青すぎる。

2019/06/09

北方謙三版「水滸伝四 道蛇の章」

「天退の星」「地鎮の星」「地狐の星」
宋江が逃亡したことで、残された雷横は、李富に目をつけられてしまう。そこで柏世とともに鄆城からにげる。途上、追ってきた志英たちと戦場になる。すると幾人かの兵が雷横の味方を志英を打ち取るが、一緒に逃亡した柏世は死んでしまう。志英に背いた兵たちは雷横についていくことを決心する。
李富は閻婆惜が死んだことを利用して、馬桂を取り込もうとする。その過程で唐牛児を洗脳し都合の良い話を信じ込ませ、馬桂にあわせて閻婆惜の死を宋江にせいにする。それを信じた馬桂は宋江に恨みを持つようになる。唐牛児は何者かに殺されてしまう。
袁明は李富に、馬桂を取りこむように指示する。李富は馬桂に家を与え、妾としてかこうことにする。李富は自身で馬桂を利用していると知りつつも、馬桂の肉体に心が惹かれていってしまう。
宋江は旅である村の保正の家で休むことになる。そこの村では上流の村で川の水が堰き止められている。それは保正の鐘静が博打で村の水を賭けて負けたことが原因だった。それがもとで宋江は穆弘と穆春の兄弟と知り合う。鐘静は村から追いだされる。穆春は兄の穆弘を慕うのと同時に恐れてもいた。宋江はしばらく穆家の家にやっかいになる。
梁山泊では湯隆という鍛冶屋が武器を製造していた。さらに湯隆は安道全のために鍼を製造したり、晁蓋のために刀を作ったりしていた。そんななか晁蓋はいよいよ梁山泊からでて政府に正式に戦いを挑む決心をする。そして梁山泊は鄆城を支配下におさめ、民政をひくうえでの予行練習のようなことをしようとしていた。

「天寿の星」「天殺の星」「天速の星」
李俊は童猛と童威とともに独自に塩の密売をしていた。李俊は塩の密売をしているだけではと疑問に思いはじめていた時、宋江と出会う。宋江は李俊の家に厄介になる。李俊の家には公淑という女がいて夫と子供を同時になくし、気がふれてしまっていた。
李立は江南の商人から塩を売って欲しいという仕事を持ちこむが、何かおかしいと思い、書類をそろえて密売をしていないことを装う。やはり罠だったが、賄賂を渡し切り抜ける。宋江は公淑のために欅の木を庭に植える。そして李俊と別れることにする。
穆弘と李俊は知り合いで、お互いを認めあう仲だった。宋江と別れた後、「替天行道」の旗のもと、叛乱を起こすことを決意する。そのことを穆弘に話し、いずれ穆弘も加わりたいと語る。李俊は山塞を築き、そこを拠点に反政府運動を起こすことにし、穆弘も陰ながら助ける。
宋江は江州にでむく途上に李逵と出会う。李逵は宋江都の出会いの中で母を虎に殺される。武松とともに虎二匹を倒す。李逵は宋江とともに旅をすることにした。
時遷は高俅に賄賂で取り込むことに成功したが、青蓮寺はそれを把握していた。青蓮寺は宋江のみならず楊志をなんとか殺そうと企む。楊志はようやく梁山泊に合流し、兵士を鍛え、梁山泊に兵を送り込んでいた。
蔡京は息子の蔡徳章を江州の知府にし、その下に黄文炳をつけることにする。その際、賊徒討伐のために一万の兵をあつめる。名目では蔡徳章が指揮する事になっているが、実際は青蓮時から派遣された黄文炳がすべてをまかされていた。
戴宗は飛脚を使った連絡網を国中に広げていた。宋江は戴宗に会うために江州に入りを果たす。黄文炳はそんな戴宗を不審に思い、直接会い尋問する。黄文炳は戴宗が叛乱軍側であることを確信する。
馬桂は李富との関係を深め、梁山泊のために諜報活動を行っていると見せかけて李富のために働く二重スパイとなる。馬桂は楊志を探るために済仁美と楊令に近づく。

四巻を読み終えて、アマゾンの低評価のレヴューをみる。そこにはこの小説は「深くない」というような意見が書かれている。まあ深くないですよ。でも、そんなもの求めることが野暮なんだとわからないものなのか。まあそんなこともわからないから、わざわざ低評価のレヴューをするのだろう。まず小説を読む姿勢がなってないといえる。
この北方版「水滸伝」は、正直あまりに陳腐な表現が散見されるし、あまりに登場人物の、特に宋江や晁蓋の描かれかたが安易だ。
しかし、この小説の読み方は、むしろ大叙事詩を読む感覚で読むべきもので、たとえば「マハーバーラタ」を読んで「ふかーい」と誰も思わないし、三國志を読んで人生訓を学べるわけでも、政治観を養えるわけでもない。とりあえず、この抒情詩に身を委ねて、だらだらと読むのがよくて、人生に悩みながら読む本ではないだろう。
それはさておき、ようやく話が大きく進みだした。楊志がいい感じに活躍しそうだ。
ここでおもしろいのが、叛乱をくわだてて、暴れる理由が志だけではなく、ただ単純に暴れたいだけという感覚を持ち出していることでしょう。これは、なかなか正直でいいと思う。
反政府運動はつねに道徳的な理念の実現のために行われるのではなく、単純な破壊衝動や暴力衝動に端を発していて、後付の理由として志だったりするわけだ。李俊や穆弘らが、破壊衝動から反政府運動に身を投じ、宋江によって高尚な志をもつようになる。時系列では、まず衝動があり、そのあとに自ら納得するといったところ。
それでいいじゃないか、と北方さんは言っているのだ。世には不純な動機を批判するむきがあるが、でも人間のこころってとても複雑だし不合理なわけで、不純な部分と、しかしこころから不正を正したいという感情がミックスされるのだ。
私の左翼の友人なんかは、ビジネスで金を儲けることに、一種の穢を感じているやつらが一定数いる。彼らにとっては一途に再分配を信じている。
でも、その穢が再分配を可能にしていることを、儲けたいという衝動が世を支えていることを、認めつつも穢としてみてしまう輩なのだ。
世直しのきっかけが何にであるにせよ、かまわない。アホみたいな潔癖主義はやめたほうがいい。

2019/06/07

『十八の夏』 光原百合 双葉社

もう二十年前になるけれど、光原さんの『時計を忘れて森へ行こう』を読んでいて、当時僕は高校生だったこともあり、なんて清々しい小説なんだろうとちょっと感動した。もうかなり前のことなので内容もほとんど覚えてはいないけども。それから、記憶の片隅にはあったのだけれど、光原さんの小説は読まずにこれまできた。
とくに何かあったわけでもなく、ふと思いついたので読んでみた。
「十八の夏」は、高校生が年上の女性にいだく恋心のようなものを書いていて、その女性は主人公の父親に心を寄せているといった話。
「ささやかな奇跡」では、書店を営む女性に恋心抱いてしまった、妻と死に別れた子持ちの男が、息子に誘われて女性と結ばれる話。
「兄貴の純情」は、演劇をしている兄が勘違いで好きになった女性は実は結婚していて、告白する間際にそれに気づき、これまでにない演技で何事もなかったかのように振舞うという話。
「イノセント・デイズ」は、塾を営んでいる男のかつての教え女の子の両親の死で苦しんで、自ら命を絶とうとする話。

どの話も淡く、胸をうずかせるに内容なのだけれど、やはり読む時期を逸してしまったかと思った。おそらく十代か二十代前半に読んでいたら、もっと心にくるものがあったかもしれなけれど、もう三十代の真ん中あたりの僕には、ちょっと青すぎる話だった。
それと、セリフなんかもちょっと今の僕にはうけつけない感じのやりとりで、例えば「十八の夏」で、主人公が紅美子を看病した際の会話、

「どうもありがとう」
・・・・・・紅美子は片手を拝むように立てた。
「いいですよ。恩は倍返しが世間の決まりです」
「・・・・・・オニ」
「はいはい。とっとと寝て早く元気になって、恩返ししてくださいね」

なんとも青すぎる会話ではないか。紅美子の設定は20代後半。「オニ」なんて普段の会話で使わないわけではないけど、この状況で使われるとなんかファンタジーを感じてしまう。「はいはい」とあしらう感じも、赤面してしまう。僕が活字として、ラノベをうけつけない理由が同じで、会話があまりにも非現実的に感じられてしまうからなのだ。
と、まあいまの僕にはちょっとすんなりと読める作品群ではなかったけれども、それはそれとして、ちょっと高校生の頃を思い出しただけでも、甘くて切ない時間を少しは取り戻せたかな。
定期的にやってくる世の中にすねる時期に読んでいたら、解毒剤になったかもしれない。

2019/06/04

Mozart, Sonata For Two Pianos In D Major, K448 Ravel, Ma Mère L'Oye Brahms Variations On A Theme Of Haydn, Op. 56b Dezső Ránki Zoltán Kocsis Hungaroton(London), SLA1081/デジェー・ラーンキ、ゾルターン・コチシュ、モーツァルト「2台のピアノのためのソナタ」、ラヴェル「マ・メール・ロワ」、ブラームス「ハイドンの主題による変奏曲」



Mozart, Sonata For Two Pianos In D Major, K448
Ravel, Ma Mère L'Oye 
Brahms Variations On A Theme Of Haydn, Op. 56b
Dezső Ránki
Zoltán Kocsis
Hungaroton(London), SLA1081


デジェー・ラーンキとゾルターン・コチシュの、モーツァルト「2台のピアノのためのソナタ」は、爽快感があって名演奏でしょう。
アルゲリッチとアレクサンドル・ラビノヴィチのものが結構評判がいいんだけど、僕はあまり好きになれなかった。なんか重い演奏だなーと思ったもので、そのCDもいまは手元になく、数年前に売ってしまった。いま思えば後悔している。
このソナタはほんとに聴いていて楽しくていいですね。
第一楽章、提示部からコーダへ一気に駆けぬけるのを聴いていると、日々の鬱憤を忘れさせてくれます。
僕は、漫画で「のだめカンタービレ」を読んでいて、知らない曲だったから買って聴いたのです。たしかそのころは大学に入ったばかりのころ。
そのころはまだモーツァルトのどこがいいのかと、かなり否定的だったのだけれど、この曲だけはなかなかいい曲ではないかと感心した。
いま聴いていると不思議と当時を思い出す。しかもその風景は夏なのですね。のだめの影響かと思う。
のだめの漫画版では、当時知らない曲がいくか紹介されていて、でもいいなあと思った曲はこのK448ぐらいだった。
その後、アニメやらドラマやらになって、一躍、モーツァルトの代表作的な扱いになっていった。

思いのほかよかったのがラヴェルの「マ・メール・ロワ」で、僕は初めて聴く曲。かわいらしいし、美しいし、童話の世界観がよくでている。
K488よりも、じつはこちらをよく聴いている。
ユーチューブでオーケストラ版も聴いたけど、ピアノの方がいいかな。

2019/06/03

『街道をゆく 蜀・雲南の道』 司馬遼太郎 朝日新聞社



成都に仕事で行くことになったから、飛行機で読んだ。
随想としてはいまいちなもの。三國志の話が結構あってちょっとね。司馬さんが成都に訪ねたころと現在ではかなり街の雰囲気が異なっていることだろうな。いまじゃあ、地下鉄を10本通すとか、郊外へだらしなく広がる高層マンションだとか。
日本の風景もいいもんじゃないけど、中国も同じような感じになってきている。この「街道をゆく」は特に書くところなし。
こんにゃくが実は蜀地方由来のものとは知らなかったけど。そういえば、中国でこんにゃく料理をたべていないなあ、と思ったら日本で生き長らえたようで。
暇つぶし程度の内容でございました。僕のなかで成都という成都のイメージを何か新しいものにしてくれるかなと思ったけど、なにもなし。
とりあえず、僕の成都のイメージは、三國志程度しかない。
現在の成都を知るためには全くといっていいほど役にはたたねいけど、別に役にたつ、たたないで読書しているわけではないので、機中、隣の同僚が、数十年前の本を読んでも意味がないみたいことを言ってきたので、こころの中で、やはりこいつは愚民だと思った次第。

中国の大都市というのは、なんとも散策しにくいというか。無駄に大きい都市設計をしている。古い通りでは、そうでもないけど、新しい通りはもう歩くのが嫌になる。
東京やニューヨークなんかはコンパクトな都市だと思う。


2019/06/02

Vivaldi, Les Quatre Saisons Concertos Op. VIII, Franco Gulli, DIR: Aldo Ceccaro, Orchestre de Chambre de L'Angelicum de Milan, Charlin, SLC-23/ヴィヴァルディ『四季』 フランコ・グッリ、指揮:アルド・チェッカート、ミラノ・アンジェリクム管弦楽団



Vivaldi
Les Quatre Saisons
Concertos Op. VIII No 1 a 4
Il cimento dell’ armonia e dell'invenzione
Franco Gulli
DIR: Aldo Ceccaro
Orchestre de Chambre de L'Angelicum de Milan 
Charlin, SLC-23

ヴィヴァルディの「四季」フランコ・グッリというヴァイオリニストはじめて聞くヴァイオリニスト。指揮はアルド・チェッカート。この人の名前もはじめて聞く。録音はシャルラン。
シャルランの録音はワンポイントということで、評価がわかれるところ。そして高音が際立っているのも、耳に障るという意見もある。
たしかに高音が効きすぎていいるが、録音は非常にいい。
マイクを複数本置いて置く録音し、ミキシングをするというやり方では、音楽を再生しているとは言えないというシャルランの哲学があるかと思う。音に空間的な広がりをもたせた録音となっている。音は空間を伝わって届くものなのだから当たりまえっちゃ当たりまえなんだけど。つまり、楽器の目の前にマイクを置くスタジオ録音的な音ではないところが、やはりシャルランの良さでしょう。
まあ、「音がいい」というのは、人それぞれ、聞く音楽によっても異なるので、正解の定義なんてないけれども。
演奏はのびやでいい。
グッリのヴァイオリンは、特に技巧的云々というわけではないが(この曲自体粗技巧的なことを目指しているわけではないが)、イタリアらしくおおらかだし、バロック音楽特有のモノフォニーの良さがよくでている。ヴァイオリンがよく歌っている。その歌いっぷりが素直というか素朴というか、そんな感じ。いいレコードです。

2019/06/01

『やわらかに遺伝子』マット・リドレー 中村桂子、斉藤隆央訳 早川書房

原書が2004年に出版されているので、現在のこの分野がどうなっているかはさておき、内容は「生まれ」か「育ち」かではどっちも重要ですよといういたって頷ける内容。というか、まあそんなことわかってたけどね。

本書で勉強になったのは第三章で論じられている、「遺伝性」について。この言葉は、個々人の遺伝を述べているのではなくて、集団で適用されるものだということ。
平均化した社会では、遺伝性が高くなるということ。不平等な社会の場合は、遺伝性が低くなり、環境の影響が大きくなる。
例えば、平等な社会では、身長の大きさは遺伝で決まるが、不平等な社会では金持ちかどうか、食べ物が豊富かどうかで決まる。なるほど。だからこそ教育が重要となるし、機会平等な社会を目指していくべきということになる。
実力主義の本当の意味は、まさにこのことだ述べている。
最終章で、それでは真に平等な社会の中で遺伝に左右されて、成功者とそうでないものが出てくる場合、ひとびとはそれを許容できるのか。それは差別にならないのか、という。
リドレーの偉いところは、許容できる差別と許容できない差別がえることを明言していることで、これはなかなか重要な指摘。ただし、その適用範囲までは述べていない。

例えば、家族はビタミンCのようなもので、ある程度よい家庭環境であれば、あとは遺伝性の問題となるといった感じで述べていて、先では最終章あたりでは短気な親の子供を短気ではない親のもとへ養子にだすと、短気ではない子供に育つみたいなことが書かれているが、結局遺伝とは何かがよくわからなかった。

芸術などの文化活動を淘汰説に還元されている。創作活動は雌の興味をそそるために行われ、とくに若い雄が芸術活動に熱心になるという。たしかに若いころ、その気がないわけではないけど、でもそれってあまりにも変な気がする。
芸術活動だけでなく、危険を犯す冒険家、周りも顧みず熱中するオタクども、これらが雌の気を引くために行われるというような説明は納得できない。
だって彼らの中にはまったく異性に興味がないやつらもいる。というかだいたいそういうやつらはモテないやつらも含まれているわけで、結局、こういった還元論は、どこまであたっているのかわからない。利他主義を説明する際も、それが種の保存で有利に働くっていう説明がなされることもあるけど、でもそれって真実なのかどうか。進化や種の保存をあまりにも合理主義的に捉えすぎている。
哺乳類には、「共感」ができる。でもそれを必ずしも生存競争に還元しうるのもどうかと思う。何かの副産物かもしれないし、共感の感情がない方が繁栄するかもしれない。問題なのはそれを反証できないことだろう。

同性愛について。同性愛者の性的指向は「生物学的」に決まっているという論の立て方は、危険をはらんでいて、男性が暴力的なのは仕方がないといった論法にも適用されかねないという。道徳規範において先天的か先天的でないかは問題ではないと述べている。たしかに。
親が子に与える影響よりも、子が親に与える影響のほうが大きい。親は子供の志向にあわせている。
ジェンダーは、親が固定観念として子供に植え付けているのではなく、それは備わっているものでもあり、たしかに文化的な要素もあるだろうが、ジェンダーのものへの志向の差を支持する遺伝子が備わっていると考えられる。女の子は人形が好きだったり、男の子は銃が好きだったり。
これはなるほどと言った感じ。セクシュアリティを論じる際に、勝手にジェンダーを決めるなという。そして、男性性と女性性は親が押しつけるものという考えがある。または、子供は自由に好きなものを選択できるように親はすべきだと言われることがある。
にもかかわらず、生まれもったセクシュアリティが云々と述べることも同時に行われている。セクシュアリティを論じる際に生じている混乱があって、一方では自由を叫び、一方では先天的なアイデンティティを論じている。やはり、これは筋が悪い。

人は集団の中で自らの役割を決定していく。人は環境の中で、自らの個性を引きだしていく。腕力に自身が他より弱いと考えれば、他の分野を伸ばそうとしたり、話し上手なら、そのようなキャラクターを醸成していく。そして個性は、素質を欲求で強化することで生みだされていく。
「育ち」は「生まれ」よりも残酷だし、またぼくらの自由を否定しかねないということだ。

ボアズとデュルケームは人間の本性は社会的要因の結果であって原因ではない。つまり人間の精神は外的な要因によって変更可能という。それは、文化の優劣へとつながっていくのだが、もし文化が精神に影響を及ぼすなら、ある文化が他よりも優れた精神を生みだすことになる。ボアズは、さらに精神はどの文化においても平等であると述べている。そこでこのパラドックスを解決するため、クリフォード・ギアツは「すべての文化にあてはまる精神」はないとして、文化人類学は差異に注目するようにとといた。
しかしこれは政治的な危険が潜んでいる。しかし文化は文化を決定し得るが、文化は人間の精神を決定しえない。そしてカオス理論から言えることは同じ原因から同じ結果が現実世界で再現されることはないということ。

犯罪をおかした親の子供も犯罪に手をそめやすい。ただ、すべてが遺伝するわけではなく、環境要因がある。だから、将来は犯罪を犯すかもしれない人を救う意味でも、遺伝の検査を行うべき時代へときている。そしてこれは倫理的なことだ。

ちょっと書きなぐり的なまとめになってしまった。きちんとまとめるのがめんどうになってしまった。まあいっか。