2020/03/08

第十一章 使徒たちはその「手紙」を使徒や預言者として書いたのか、それとも教師として書いたのか、ということが考察される。さらに、使徒たちの役割りとはどういうものだったか明らかにされる。――スピノザ『神学 政治論』

第十一章 使徒たちはその「手紙」を使徒や預言者として書いたのか、それとも教師として書いたのか、ということが考察される。さらに、使徒たちの役割りとはどういうものだったか明らかにされる。

新約聖書の使徒たちは旧約聖書の預言者のように、たとえばパウロは神から啓示がきて手紙を書いたのか。
スピノザは言う、彼の書きぶりは預言者たちてゃ異なり、パウロ自身の見解に従って書かれている。さらに彼が神の指示などをかたるときは、キリストが山上で語った教えのことであるという。
そして使徒たちは、予言を伝えるというよりも議論をけしかけているところがある。預言は神の言葉なのだから従うのに理由はない。しかしパウロの場合は、各人に判断をゆだねている。
旧約聖書の預言者の場合、ユダヤ人に向けての預言だが、新約聖書の使徒たちは分け隔てなく教えを説いていた。
そして使徒たちの「手紙」は、自然の光によって書かれたもので、キリストの教えは、主に道徳的な教訓から成立っている。それは誰もが知性で理解できるもので、超自然の光にたよる必要もない。
しかし、使徒たちはそれぞれのやり方で、教えを説いていった。それは分裂や半目をうみだす。
キリスト教が哲学者の思弁から解放されさえすれば、キリストの教えは基本的なことでもあり、幸福な時代といえる。

ここでもスピノザはキリスト教にたいしてけっこう好意的。ユダヤ教にたいしては手厳しいし、スピノザは無神論者という見方からするとけっこう意外。

0 件のコメント:

コメントを投稿