2019/08/27

『戦国の壺』司馬遼太郎短篇全集二

『戦国の壺』

細川忠興、号を三斎、が持っていた壺、「安国寺肩衡」はさまざまな人の手に渡り、世の名器となって、忠興同様に翻弄される。そして忠興の手に戻ってきたとき、老いた忠興の胸に迫るものがあった。
忠興は西行の歌を思い出す
  年たけてまたこゆべしと思いきや、 命なりけり佐夜の中山
その後、忠興の子の時代に豊前で飢饉があり、その際にこの安国寺を庄内藩酒井忠勝に売却して民を救った。
それから壺は信州上田城主松平家へと渡り、そして大正になって松平家から入札にだされ、落札価格はわずか二百円だったという。

とても短い作品。世の変遷の儚さがある。人生は流転するもの。
モノとはかくあるものであると、誰もが知っていながらも、人間、哀しくもモノに振りまわされてしまうのです。茶器はしょせん茶器。しかし、それが世を乱すこともあれば、救うこともあるようで。

2019/08/26

Brahms Piano Cocerto No. 2 Arthur Rubinstein Josef Krips RCA VICTOR Symphony Orchestra RCA, SB-2069/ブラームス、ピアノ協奏曲第2番、アルトール・ルービンシュタイン、ジョセフ・クリプス



Brahms
Piano Cocerto No. 2
Arthur Rubinstein
Josef Krips
RCA VICTOR Symphony Orchestra
RCA, SB-2069, 1958, STEREO

ルービンシュタインとクリプスによるブラームス、ピアノ協奏曲第2番。
オーケストラはどこかはわからないが、録音はニューヨークでやっているのかな。
あいもかわらずルービンシュタインのピアノは華麗で、第一楽章のソロや第二楽章の出だしなんか、なかなか他のピアニストでは聴けないぐらい力強くて、酔いしれれること間違いないでしょう。
どこのオーケストラかわからないけど、オーケストラの演奏も素晴らしいですね。
有名な録音でもあるので、わざわざいろいろ書くのもどうかと思うけど、第二楽章がこの録音で一番いいところで、オーケーストとピアノがたたみかけるように進んでいきます。
第三楽章は、チェロがいい味だしてます。ブラームスの感傷、ここに極まり、といった感じ。
これ以上の演奏があるのかどうか。あんまり多くの演奏に接してないから、よくわらないや。

2019/08/25

Tchaikovsky, Violin Cocerto, David Oistrakh, Kirill Kondrashin, MK/チャイコフスキー、ヴァイオリン協奏曲第1番、ダヴィッド・オイストラフ、キリル・コンドラシン



Tchaikovsky
Violin Cocerto
David Oistrakh
Kirill Kondrashin
USSR State Symphony Orchestra
MK, DO3820, MONO

ダヴィッド・オイストラフとキリル・コンドラシンによるチャイコフスキー、ヴァイオリン協奏曲第一番。
MKというレーベルは知りませんでいた。オイストラフのチャイコフスキーはいくつか種類があると思うが、そもそもオイストラフのチャイコフスキーを聴くのがはじめて。
それで、驚いた。
こんな演奏を待っていたといっても過言ではありません。
とにかくオイストラフのヴァイオリンが歌っています。いちいちどう素晴らしいかを説明するのも野暮な感じです。
泥臭さが色濃くでています。繊細さではなく、おおらかさがたまらなくいいですね。
はじめて、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を一日中聴き、はじめて心の底からチャイコフスキーっていいなあと思った。音楽ってのは、やはり人間的な行為なのだと思わせてくれる。
コンドラシン率いるオーケストラも力強くて華やかです。
録音もいい。MKからのものがオリジナルなのか、メロディアからのものがオリジナルなのかはわからない。CDは未発売か。

2019/08/18

Beethoven Klaviersonate Nr.29 B-sur op.106 Wilhelm Kempff Deutshe Grammophon, 18146 LPM/ベートーヴェン、ピアノ・ソナタ第29番「ハンマークラヴィーア」、ヴィルヘルム・ケンプ





Beethoven
Klaviersonate Nr.29 B-sur op.106
Wilhelm Kempff
Deutshe Grammophon, 18146 LPM, MONO

ヴィルヘルム・ケンプ、ベートーヴェン、ピアノ・ソナタ29番「ハンマークラヴィーア」、50年代、第一回目の録音。盤質はいい。傷もないし。
そして、なんたる奇跡。つい最近、ディスクユニオンでこのレコードを購入した。そしてこのレコードについてネットで調べていたら、全く同じものの写真をETERNA TRADINGのサイトで発見。
なんでわかったかというと、レコードにサインが書かれていたからわかった。
んでそのサインの写真と僕が買った実物を見比べてみると、全く一緒。スタンプの滲み、筆跡などなど全部一緒。まさかそんなものを購入していたとは。間違いなく同じもの。世界は小さいですね。
そこの説明になんとケンプのサイン付か?みたいなことが書かれてあるわけです。これほんとうにケンプのサインなのか。筆記体をきちんと判読できないが、そうっぽい。

ケンプらしいハンマークラヴィーアで豪快さや激しさはない。静かに始まり、穏やかに曲が進んでいく。無駄な虚飾がない。
第三楽章が素晴らしくて、なんていうか変に深刻ぶった演奏をしていなくて、すーっと自然に音が流れていって、荘厳さよりも暖かさを感じる。
正直、六〇年代の二回目のハンマークラヴィーアの録音をまだ聴いたことがない。理由はとくになくて、ただ聴く機会がなかっただけ。今度見つけたら買ってみよう。

2019/08/17

第五章 さまざまな儀礼が定められた理由について。また歴史物語を信じることについて。つまり、そういう物語を信じることはどういう理由で、また誰にとって必要なのかについて――スピノザ『神学 政治論』

儀礼とは
神の法は、普遍的なもので、人間本来のあり方から導き出された法だから、人間精神に内在する。
儀礼はそのようなものではない。旧約聖書にみられる儀礼はヘブライ人に定められたもので国家体制に合わせてできている。社会が実行するもので、個人が実行するものではない。
だから、儀礼は神の方には含まれたない。そして幸福や徳のにも役に立つものではない。
つまりご霊は一時的なものでしかなく、物質的な幸福と国の安定だけを念頭においている。国が存続している間しか利益になりえなかった。
モーセ五書も神の法ではなく、ヘブライ人の理解力に合わせて定められた方にすぎない。
たとえば「殺すことなかれ、盗むことなかれ」という戒めは教育者として預言者としてユダヤ人に説いているのではなく、むしろ立法者、支配者として命じている。そして法を犯したものは罰を受けることにも鳴っている。
さらに「姦淫することなかれ」というのも共同体、国の利益のための法となっている。しかしキリストは姦淫を行うことを心で思うこともしてはならないと説いている。こkれは普遍的な法となっている。
キリストは魂について説くが、モーセの場合は即物的な約束をする。

儀礼の意味
ではなぜ儀礼というものがユダヤ人たちの国を維持し安定させるのにどのようなに、なぜ必要だったのか。
社会とは、敵から守られて安全に暮らすためだけではなく、多くの事柄について便宜を図るためにも有益で、なくてはならない。分業を通して社会は成り立つものである。
人間は理性的でもないし、欲望に駆り立てられることも、感情に支配されることもある。だからこそ、法が必要となる。
その一方で、絶対的な強制を受けることは本来のあり方からして耐えられないようにできている。そして一旦認めた自由をひとびとから再び取り上げ得るほどこてゃ難しい。
ここから帰結するのは、国の支配というものはできることなら社会全体が一丸となって行うべきだということで、そうするれば、みなが自分自身に奉仕していることであり、自分と同等の他人に仕えるよう義務付けられていないことになる。
そして国を法は、恐怖よりも希望に訴えかけるほうがよい。義務に自ら望んで果たすべきである。
そして法はみんなの同意に基いて定められる社会では、服従はありえない。彼らは他人の権威ではなく、自分自身の同意に基いて行為することになる。
しかし、たったひとりの支配者による国の法は、人は嫌々従うことになる。
エジプトから脱出したヘブライ人は、悲惨な奴隷生活が長かったため、民主的な法ではなく、モーセという支配者に委ねる必要があった。
一方でモーセは恐怖ではなく自発的に法に従わせるように心がけた。なぜなら、人びとは頑固で簡単に従うものではなかったし、戦争が近かったため刑罰を控え、励ます必要があったからだ。
モーセは人びとに心から奉仕するようにしむけていく。恩恵を施し、神の名で厳しい法は定めなかった。

儀礼の効用
そしてモーセは宗教を持ち込んだ。
さらに、モーセは「自らの権利の下にありえない民衆」が支配者の言うことを聞くように、隷属になれた人たちを、勝手な振る舞いをさせなかった。畑を耕す、身にまとったり、髭をそったり、なんでも法に定めた。
彼らに自らの権利のもとにあるのではなく。完全に他の者の権利の下にあることを思い知らせるためだった。
つまり儀礼というものは幸福に何ひとつ貢献しない。

聖書を学ぶことについて
そして聖書の歴史物語を信じることことの理由はなにか。
明白でないことを納得させるためには、知性の能力と知的理解の正しい手順によってだけ導かれるが、そのような作業は脂質がなければ普通は難しい。
だから経験によって教えられることが好まれる。
そして知的な作業によって論理を構築したり、難解な概念をもちこむこともしてはいけない。
つまり民衆の理解力にあわせて説明する必要がある。そのために聖書の歴史物語は必要なのだ。
さらに言えば、一般民衆が神の存在を否定したり、神の行いを信じないことは不道徳である。しかし、神の存在などを自然の光によって知っており、ほんとうの生き方を知っているならば、聖書を知らずともその人は幸福であり、一般民衆よりも幸福である。
そして何も聖書をすべて知る必要もなく主要な物語だけで十分。もしすべて知らなければならないならば、一般民衆にとって聖書は手に余る物になってしまう。民衆が知っておくべき物語は、心の服従と奉仕に駆り立てる物語だけでよい。
しかし民衆は物語の教訓を判断できない。民衆は教訓よりも奇跡などの珍しさに心惹かれてしまう。だから宣教師や教会、代弁者も必要となる。
聖書を読む際に、教えを理解しようとしないで、好奇心からよむならば、それは戯曲やコーランを読むのと同じことで意味がない。
そして聖書を読まずとも徳をもって生きているひとは幸いなのである。

結論
儀礼というものが、単なる社会的な慣習でしかないことを述べていて、そこには人間の幸福は含まれていない。国家や社会を維持するためのものでしかないという。
ただ、一般民衆はバカだから、理性でもって論理的に徳を考えたりできないし、自然を理解しようとも、理解もできない。だからそんな理屈や論理は無視して、聖書を信じること、それが聖書の役目であって、聖書はその点で言えば、非常に有益で、聖書は神への服従と奉仕を教えてくれる点、それだけの点では非常に優れた書物となっている。かといって、教訓を知ったからといって幸福になれるわけではないが。

まとめ終了。
この章はなかなか宗教にたいして手厳しい。宗教的儀礼の脱神秘化で、たしかに怒られる内容だとは思うけど、でもそれほど過激でもないとは思う。
スピノザはけっして宗教を否定しているのではない。その意義をきちんと認めている。
彼の難しさは、神に服従、奉仕している人たちを、迷信深いやつらだとバカにしているわけではないというところかと思う。
そんな単純ではないと思う。

2019/08/16

第四章 神の法について――スピノザ『神学 政治論』

まとめ
法lexは端的に解すれば、個体がみな従っているはずの何か。それが自然の必然性によるものか、人々の合意によるかどちらかとなる。
後者について。人びとが自然に持っている権利の一部を放棄したり、放棄するように強いられたりして、自分の特定の生活様式に縛り付けられている場合、その基礎となっているのは人びとの間の合意である。二つの理由がある。(ここムズイ)
一、人間も自然の一部で、人間の本性上の必然から帰結することは、自然それ自体から帰結していると言えるということは、必然的ではあるが、人間の力によって生じている。だからこの種の法を建てることが、人びとの合意に基づくと言っても問題ない(???)。というのもこのような法がたてられるかどうかは人間精神の働き次第だから、だからこそ、ものごとを真偽の観点から見分けようとする場合、人間精神はこの種の法がなくても明らかに成り立つ。これに対して、自然の法に服さない人間精神というのはない。ぬおー、言っていることがよくわからん。
二、こうした法が人びとの合意に支えられていると言ったのは、ものごとの定義や説明は一番近い原因を介して行うべきだから。何か具体的なことを考察する場合、一般的考察は役に立たない。そしてものごとのつながりはどうなっているのかは全くわからない。だからうまく生きるためにはものごとを可能的な(必然的ではない)ものとして考えることが有益であり、欠かせない。何言ってやがるのだ、こいつは。
法とは、人間の力を一定の制限のもとに仕切るもので、人が自分や他人にたいして何らかの目的のために課す生活規則と、考えられている
しかし法の本来の目的は違っていて、賢い立法者は法を法本来の性質からはかけ離れた目的に置いた。つまり法を守れば、世間で望まれているものを与え、犯せば恐怖で脅す。
このことで、法は生活規則のように扱われ、このような規則を守ることが法に服していると言われるようになった。
しかし、刑罰を恐れて規則を守ることは正義ではない。法(律法)に服しているから義なのではない。
神の法は、最高善を、神を知ることや愛することと関わる。知性を完成させることは最高善であるはずで、その知や確信の支えは神を知ることにほかならない。神なしにはどんなものも知り得ない。自然を知れば知るほど神の本質を知ることになり、神を知ること、愛することが最高善の内実なのだ。
神の観念は私たちの精神に内在している。私たちのあらゆる営みの目的は、神の命令といってもいい。
それではここから求められる生活規則、最善の国家の基礎は何か。
それは神を最高善として愛すること、この営みが最終目的であり、このことは神の観念から導かれる。再考禅はもっぱら思索活動や清らかな精神に存する者だから、「肉の人」にはこうしたことがわからない。
つまり、神を愛すること以外を目標に置いた法は、みな人間の法である。
しかし、啓示によって制定された法である律法はこの限りではない。
ということはモーセの立法も神の法といってよい。たとえそれが普遍性を持ち合わせていないにせよ、だ。
当時ヘブライ人は律法を、永遠の真理として受けとっておらず、そしてモーセも律法を永遠の真理ではなく取り決めや指図として受けとった。そして神の法として民衆に課した。
預言者たちはみな啓示を神の法として受け取っていた。
キリストの場合は、神の口といったほうがよく、法を説いているのではない。


自然の法の声質とはなにか。
1 普遍性があるか、人間の本性から導きだせたものか。
2 歴史物語を信じることは求められない。歴史物語は有益だが。
3 特定の儀礼をおこなうように求められることはない。
4 神の法への報いは、まさにこの神の法そのもの。

神の意志と神の知性は区別されない。というのも三角形の三つの角の角度の合計が二直角に等しいいという取り決めは、神の意志と言おうが、神の知性といおうが一緒のことだから。
神は立法者だとか支配者だとか言われるが、それは民衆の理解力のなさのせいで、じつは神は必然的に働き、永遠の真理である。
そして聖書は自然の光や、自然の法について、知らないでは済まされないもの、無条件で推奨されるものとされ、無知は言い訳にはならない。

以上、まとめ終了。
まあ言わんとしていることはわかる。神の法と人間の法を峻別していて、神の法を宗教の側にもっていって、人間の法を宗教から世俗へと切り離そうとしている。
と思いきや、啓示による法は神の法であるとも述べる。
どゆこと。
神を知ること、愛することが神の法だというのに、モーセの立法も神の法となる。というのも当時の民衆は神を知る手がかりは、律法しかなかったからだと。
んー、とりあえずよくわからないので、おいておこう。

2019/08/15

Bach Magnificant BWV243/ Kantate・Cantata BWV78 "Jesu, Der Du Meiner Seele", Karl Richter, Archiv Produktion, 198 197/バッハ、マグニフィカント、カンタータ78「イエスよ、汝わが魂を」、カール・リヒター


Johann Sebastian Bach
Magnificant BWV243
Kantate・Cantata BWV78/"Jesu, Der Du Meiner Seele"
Münchener Bach-Chor
Münchener Bach-Orchester
Solistengemeinschaft Der Bach-Woche Ansbach
Karl Richter
Archiv Produktion, 198 197


リヒターの神格化には辟易する。リヒターはリヒターでバッハを神格化している演奏だ。ぼくはリヒターの演奏をあまりにも統一感がありすぎていて好きになれない。ブランデンブルグ協奏曲にしろ、協奏曲にしろ、電子音に聞こえてしまうのはぼくだけか?
マタイ受難曲でもそうだ。とくに二回目の録音があまりにもステレオ過ぎているので、エンジニアのせいかもしれない。なんてったって右と左で音が別々に、本当に言葉の通り別々に出てくるもんだから、陳腐に聞こえてしまう。おそらく二部合唱であることを強調したいがためなのだろうが、失敗している。

カンタータ78番「イエスよ、汝わが魂を」も、やっぱり機械音っぽい。合唱もなんか冷たい感じがして。
リヒターの演奏は聴衆にバッハの解釈の一元化をうながす何かがある。これはカラヤンも同様で、音楽を「退化」させてしまった。
リヒターの解釈がある種の到達点のように扱われてしまう。
たとえばアーノンクールのカンタータ78番は、ぼくはベスト番とは言い難いもので、物足りなさを感じるが、しかしそこには古楽演奏の発展を見ることができて、そこに音楽の愉しさがある。
しかし、リヒターには何があるのか。彼の演奏は素晴らしいものもあると思うけれど、それ以上の発展が見込めない「退廃」を象徴していると思う。
とまあ、えらそうに書いたけれど、テオドア・アドルノからすれば、レコードを聴いている事自体「退廃」だからなあ。
でも、リヒターの録音って、機械音ぽいってのは、多くの人が思っていることではないのかな。


2019/08/14

『壺狩』司馬遼太郎短篇全集二

『壺狩』

細川藩の初代家老、松井佐渡守康之は、慶長十七(1612)年正月二十三日、六十三歳病没。その家臣、稲津忠兵衛は追腹をする。忠兵衛は朴訥で皆から愛されていた。越前ゆうの峠の茶屋の老婆から七十文で買った、小さな壺にせんぶりを入れていた。それを康之が細川三斎に見せる。
「忠兵衛という異相の者、予は見覚えている。この釉薬の神妙、なりの朴訥さ、まるで忠兵衛が壺に化けたかのごとくである。生きて動き出しそうではないか。」と評する。
三斎は、この肩衡(かたつき)を古今の名器となり、「人生(ひとよ)」と呼ばれるにいたる。
武勇で名を馳せることができず、壺が有名になったことは忠兵衛にとっては恥ずべきことだった。

短篇の良さがよくでている。たいして動きのある話ではなく、忠兵衛の周辺を描き、忠兵衛という人物を第三者の立場から眺めるかたちとなっている。
司馬さんが、長篇ではさむ「余談」といったところか。
文章がうまいですねー。猛々しくなくて、徹底して文章のみで何かを伝えようとする意思がある。

2019/08/13

Rachmaninov Concerto No.2 in C minor for piano and orchestra op. 18 Rudolph Kerer(Kehrer) Kirill Kondrashin Symphony Orchestra of The Moscow State Philharmonic Society Μелодия(Melodiya), 33д 012495-96(a)/ラフマニノフ ピアノ協奏曲第二番 ルドルフ・ケレル(ピアノ)、キリル・コンドラシン(指揮)



Rachmaninov
Concerto No.2 in C minor for piano and orchestra op. 18
Rudolph Kerer(Kehrer)
Kirill Kondrashin
Symphony Orchestra of The Moscow State Philharmonic Society
Μелодия(Melodiya), 33д 012495-96(a)

ルドルフ・ケレル(Rudolf Kehrer)というピアニストを初めて名前を知る。
ケレルは、1923年、グルジアのティビリシでドイツ系ユダヤ人の両親から生まれた。1941年ドイツ系ということでカザフスタンへ強制移住となったようだが、これはおそらくスターリンによる「ヴォルガ・ドイツ人追放」かと思われる。移動の自由がなかったらしく、ながらく東側でのみ知られていたピアニストのよう。カザフスタンのシムケントで数学、物理学を学び教職につくが、のち現在ウズベキスタンのタシュケントで音楽を学んだという。
タシュケントかあ。タシュケントには一度行ったことがあるが、そこはかなりソ連的な街並みだったが、ケレルが学んでいたのは66年の大地震前の50年代だから、まだサマルカンドのようなイスラーム色が色濃く残っていたのだろうか。
そして驚くべきは、強制移住させられた1941年からスターリンが死んだ1954年の13年間、ピアノ教育を受けていないということで、1923年生まれだから18歳ごろから31歳ごろまで、音楽界の表にでることがなかったということで、おそらく練習は続けていただろうけれど、1954年からようやくタシュケントで音楽を学ぶというのは、異色な感じがするが、当時の状況からすれば多くの人が同じような境遇だっただろう。
もっと何か情報がほしいものだ。
演奏はなんともずっしりとしたピアノで、一音一音、力強くて確信に満ちていて、きわめて硬質。なよなよした演奏ではないから、第二番とあっている。
第一楽章の冒頭の和音のクレッシェンドを聴けば、すぐに名演であることがわかると思う。この曲の場合、曲の始まりで良いか悪いか決まってしまう、というか聴く者にその後の展開の先入観を植えつけてしまう。ケレルの第一音から、これこそラフマニノフの第二番といっていいもの。
コンドラシンは相変わらず図太いがロシアンロマンティシズムを地でいく演奏で泣けてくる。
なぜこれほどの演奏が埋もれているのか。もったいないだろう。ヨーロッパではCDになってたりするのかな。

2019/08/12

『伊賀源と色仙人』司馬遼太郎短篇全集二

『伊賀源と色仙人』

大阪の丼池で商いをしていた伊賀源太郎は不渡りをだして、西成区山王区の天国荘に逃げ込む。そこで色仙人と出会う。色仙人は女乞食のクマバチとやっている最中だった。
色仙人の素性は誰も知らない。色仙人は伊賀源の見込んで地面に落ちている金目の物を拾うジミ屋家業を教える。そしてつぎにソーイ屋を教え、子供玩具の設計図などを手がけていった。
色仙人は、もう教えることがないと、もう山王からでていくように伊賀源に言い、最後にクマバチの身体にマッチの灯りを照らしながら、秘法をさずける。色仙人はストッキングの切れ端をクマバチの身体にあてるように言う。
何が何だかわからず、伊賀源はアパートに戻り一日思案して閃いた。
伊賀源は前から思いをはせていた画廊に務める時子のもとに行き、裸になってくれと頼みこむ。秘法とは女性向け下着のデザインだった。
伊賀源が色仙人に報告しにいくと懐から二十万円ほどの札束をわたす。
「山王町の色仙人といわれた俺や。それぐらいの金はある」といってクマバチとともに闇に消えていった。
昭和三十一年以降の下着ブームが席巻するにいたる。

「丼池界隈」「大阪商人」と同じで、猥褻さがいいですね。
この小説で「マッチ売りの少女」という、マッチの灯りで女の秘部を照らすという卑猥な遊びについて書かれている。
昔、もう20年以上まえだが、この手のAVを見たことがある。僕がまだ小学生か中学生のころだ。タイトルもたしかそのままで「マッチ売りの少女」だったか。そんな遊び、正直AVの特殊な設定でしかないと思っていたが、まさか司馬さんの小説で再会するとは。あのAVはノンフィクションだったのか。
地見屋なんかも、柳家金語楼の「身投げ屋」でしか知らなかった。そんな商売がほんとにありえたのが、なんとも時代だなと思うわけで。
司馬さんもこういう話が書けたのだな。この感じ、現在で言えば、浅田次郎の世界感のようで、ヘミングウェイのようなかっこよさもあるわけです。
猥雑さと人情が混ざり合っている。

2019/08/10

『禅思想史講義』小川隆 春秋社

僕は昨今のマインドフルネスの流行に嫌気がさしていて、GoogleやAppleが社員研修かなにかで採用したとか。「禅」がエクササイズの一環になってしまった。それってどうなの。それだと人間救えないでしょ。「悟り」へ少しづつエクササイズしていく、それだと結局、凡夫、衆生は救われず、出家した坊主だけが天国行き。まあ、この解釈はかなり悪意があるけど、けど修行した者だけが救われるってなると違和感が残る。
マインドフルネスは、結局、瞑想をつづけ、高みへと昇っていく思想で、この資本主義社会にマッチしてしまった。やれば報われるってな感じでしょうか。

敦煌禅宗文献という一連の大量の巻物が、清朝末期1900年ごろに敦煌の石窟から発見されて、イギリスやフランス、そして日本、ロシアなどが自国に持ち帰ったりして世界中に散逸したのだと。幸か不幸か、そのため「敦煌学」という国際的な学問分野が生まれたとか。そうでしたか。そんな分野があるとは知りませんでした。

師から弟子へと直に伝えられていくのを、ロウソクの炎を移していくの喩えて、「伝灯」という。釈尊、そしてインドから仏法を伝えに達磨が東土にやってきた。これが中国の禅のはじまりとなる。本書でも何度も言及される「祖師西来意」というやつ。

「頓悟」と「漸悟」
僕なんか、悟りというのは少しづつ悟っていくものだと考えていたが、唐代、神会を代表とする南宗は一時に悟る「頓悟」が高尚という考え方を打ち出だした。北宗の漸悟を否定し、「単刀直入、時期了見性」といって、頓悟の坐禅を主張した。
いやー、まさかそんなことになっていたとは。ここ数年流行っているマインドフルネスやアビダルマ仏教とは、かなりかけ離れている。
「神会は法会で、「坐禅」の「坐」とは念の起こらぬこと、「禅」とはそのような自己の本来性を自ら「見る」ということ。」それは漸悟を否定し、坐禅そのものを廃棄している。
ひたすら「無念」であること、無住は「只没に閑たるのみ」という。無限定、無分節に、それは常にいまあることが定慧等であり、そのまま仏なのだという。まさに大乗仏教っぷりがいい。

野鴨子の話と馬祖の禅
馬大師、百丈と行きし次、野鴨子の飛び過ぐるを見る。大師云く、「是れなんぞ」。丈云わく「野鴨子」。大師云く「いずくにか去ける」。丈云く「飛び過ぎ去けり」。大師、かくて百丈の鼻頭をひねる。丈、忍痛の声を作す。大師云く、「何ぞ曾て飛び去れる」。
馬祖禅の基本的な考え方は、
即身是仏、自らのこころがそのまま仏であること。そしていたるところ「仏」でないものはない。禅の書物には「祖子西来意」を問う門灯が多くあるが、答えも千差万別、しかしながら共通の答えが潜んでいて、「即身是仏」を悟らせるために達磨さんはやってきたという。
作用即性、活き身の自己のはたらきは、すべてそのまま「仏」として本来生の現れである。
平常無事、「即身是仏」と同じで、ふだんのありのままの心、それが「道」であると。行住坐臥、応機接物。

馬祖批判
石頭系の禅は、馬祖への批判となっていて、「即身是仏」というが、そんなありのまま、それが「仏」だと言われたら、なんでもありではないか、と。たしかにそうだ。大乗仏教でたまによくわからなくなるのがこれで、ブッダは修行を説いているはずなんだけど、でも大乗仏教の考えでは、みんなすでに「仏」だったりする。そうするとブッダの修行はなんだったのか。浄土思想なんかだと、ブッダはこの世の苦しみを云々といったキリスト教的な世界感と似たりしている。
まあ、それいいとして、
「わずかに門を過ぎし時、石頭便ち咄す。師、一脚は外に在り、一脚は内に在り。頭をめぐらして看るや、石頭便ち掌をたてて云く、「生従り死に至るまで、只だこの漢なるのみ。更に頭をめぐらしてなんとなる」
「揚眉動目」、つまり「言語」「見聞覚知」「著衣喫飯」を離れ「心」「本心」をとらえる。活きたはたらきがそのまま自己なのではない、活き身の作用とは別次元に本来の自己がある。
それは三人称で「渠」「他」「伊」「一人」「主人公」と三人称をつかって、ありのままの自己とは違う別次元の自己を指している。

「何をやっておる」
「茶をいれておる」
「誰に飲ます」
「お一人茶をご所望の仁があってな」
「ならば、なぜ。そやつ(伊)に自分でいれさせぬ」
「うむ、おりよく、それがしが(専甲)おったものでな」

自分でいれて自分で飲む、ただそれだけのこと。本来生の自己と現実態の自己の不即不離が述べられている。二にして一、一にして二であると。現実態の自己に還元されない本来の自己。
ただ、この本来の自己とはいったい何なのか。それは何を意味しているのか。それが今一つわからないところ。


盤珪禅師
「不生の仏心」、不生とはもともと具わっていること、日常の営みに「仏」が常にあり、わざわざ「仏」になろうと修行するは見当違いだと。江戸時代、盤珪禅師が説いたことは唐代禅を再現したものといってもいい。これに対する批判も元禄期に損翁宗益が石頭と同じような批判を盤珪にする。

宋代の禅、問答から公案へ、公案から看話へ
宋代になると禅も制度化していき、国家機構に組み込まれていくようになる。禅が上流階級、士大夫たちに一種の知的教養になっていたよう。宋代では禅を学ぶ際の教材のようなものとして「公案」を使うようになる。
「公案」参究には「文字禅」と「看話禅」の二つに分けられる。
「文字禅」は、公案の批評や再解釈を通して禅理を闡明しようとするもの。これは科挙のようにあらゆる典拠を駆使する士大夫文化を反映している。
「看話禅」は、特定の一つの公案に全身全霊を集中させ、その限界点で心の激発・大破をおこして決定的な大悟の実体験にいたろうとする方法。
道元さんは看話禅に反対だったらしい。和文の公案を提案しているところからして「文字禅」を展開していったのだという。おお、そうなのか。『正法眼蔵』はいつか読みたいものです。

『碧巌録』の要点
「作用即性」と「無事」禅の否定。
「無事(0度)→大悟(180度)→無事(360度)」という円環の論理。
「活句」の主張。公案を合理的に解釈するのではなく、意味と論理を拒絶する。
『碧巌録』は「文字禅」の極みで、そこから「看話禅」へと移っていく。

僧、趙州に問う、「万法は一に帰す、一は何処に帰す」
州云く、「我れ青州に在りて、一領の布衫を作る、重さ七斤」
存在はどこに帰着するのか。趙州は言う、青州で、あつらえた重さ「七斤」の布、それは、郷里でおぎゃあと生まれ落ちた、このあるがままの活き身の己れ、それにほかならぬ。
このような唐代の問答から宋代にはいると問答は意味も論理も含まない絶対的に不可解な言葉、「公案」となる。その転換が夢窓国師。
公案は、浄土往生でも仏門の理論でもなんでもなく、いかなる思考も感情も及ばぬところに公案はある。それは鉄饅頭をかみ砕くようなもので、噛んで噛んでいずれ砕ける時がきて、その時初めて「鉄饅頭」の味がする。

「死句」と「活句」
意味と論理を含んだ理解可能な語が「死句」、意味が脱落し論理が切断された語を「活句」という。
「西来意=即心是仏=無事」だった唐代の等式が「西来意=活句」対「無事=死句」になり、無事が批判的なものに変わっている。この理解に及ばない語が、どうやって人に理解されるのか、いや理解するしないの次元ではないところで、認識するってことか。

「山は是れ山、水は是れ水」の円環の論理
「即心是仏=無事」を打破し、「大徹大悟」に至る、それが「祖師西来」だという。
人間、「無事」の状態から、「大徹大悟」へ行く。そうすると山は山ではなくなし、水は水でない、と見えるようになる。さらにそこから、「なんだやっぱり山は山だし、水は水だ」となる。つまり、再び「無事」の状態へと戻る。
そう、これ十牛図なんだとわかる。十牛図って、概略だけぼんやりと覚えていたのだけれど、そういえば十牛図は臨済宗からのものでした。

大慧の「看話禅」へ
「碧巌録」の「活句」によってありのままの「無事」を打破し、「大徹大悟」にいたる、というものは断片的に説かれていたが、大慧が実践的にこれを一本化する。
一念にてがっばと大破せねばならない。そのために大破を意識せず、思うこと、考えること、生を好んだり死を憎んだ五、静寂をねがったり、喧噪を嫌ったり、これらを一気におさえこむ、そして「僧、趙州に問う、狗子に還た仏性ありや。州云く、”無”」
この「無」の一字に合理的な解釈、有り無し、などを施してはならない。時々刻々、つねにこの話頭を念頭に置き、心を覚醒させる。
これが公案の「活句」と「大悟」を結びけている。
この「看話禅」は宋、元の時代に主流になり、誰もが追体験可能な禅として規格化されていく。そして中国では禅は発展しなくなってしまった。

道元の禅思想は必然
「本覚」は本来具わっているさとり
「始覚」は教えを聞いて修行し、はじめて得られるさとり
本覚も始覚、どっちが先かではない、同時に乗り越える。道元は本証妙修」「証上の修」「修証一等」などのように、修も証もどちらかがどちらかの部分でもないし、どっちが先でもない。本来仏だから修行する、修行してるから本来仏なのだ、という。
こう禅の歴史をたどっていくと、道元の考えは中国禅の乗り越えであり、必然でもあった。
道元は、即身是仏のようになにもしないで仏なんてあってはならいと批判し、公案や話頭をみて悟るなどもありえない。デタラメな「活句」で大悟なんて外道。
只管打坐するのみだと。この只管打坐は「看話是」「始覚」の対立項として考えられている。
仏だから修行する、修行するから仏、なのだという。仏道が不断に行われる世界、食べるときも掃除するときも寝るときも、いつもが仏動に通じる。ゆえに永平寺、となる。

近代の禅
鈴木大拙、西田幾多郎、夏目漱石らは禅に西洋思想、文明への対抗思想を見出していた。なるほど。たしかに。彼らの禅は、臨済宗白隠の禅で、道元は和辻哲郎、田辺元をまつことになる。そういえばそう。
大拙は伝統的な禅から西洋の哲学からえた「自然と必然」の思想を組み入れていく。意思の自由と必然という問題を「般若即非」「無分別の分別」「超個の個」といった大拙独自の思想へと発展させていく。
AはAにあらず、故にAである。
色即是空、空即是色。有限即無限、色不異空。空不異色。そして西田幾多郎の絶対矛盾の自己同一。
一切は空である、しかし空であるがゆえにそこには一切がありありと現象している。
大拙はそこに即非を説く。それは存在や認識の論理ではない。新たな行為の論理のこと。
それは自由と必然がおのずから一致する、最も自由でかつ適切な行為、「妙用(みょうゆう)」
山が山であり、水が水であるのは、それは限界ではなくて「空」を介して、山鹿山であるのは山の自由ではないかという。
「即非の般若的立場から”人”というものを即ち、”人格”をだしたい」(『西田幾多郎随筆集』
「人は」は「即非」の論理を活き活きと体現した自在に「妙用」する主体、いわば、「真空」を「体」とし「妙用」を「用」とする一個の活きた「主人公」のことだという。そして「人」は「超個者であって兼ねて個一者」たるという。

2019/08/09

第三章 ヘブライ人たちの「お召し」について。また預言とは、ヘブライ人たちだけに独自に与えられた贈り物だったのかについて――スピノザ『神学 政治論』

第三章 ヘブライ人たちの「お召し」について。また預言とは、ヘブライ人たちだけに独自に与えられた贈り物だったのかについて

注より、「お召し」とは、神に召し出されるkとで、それは救済に選出されること、預言者として選出されることの意ということ。広い意味で天職。
人間にとって本当の幸福は真実を知ること。他人と比べてどうのというのは、他人の不幸を喜んでいるのだから、悪意でしかない。ということは、ヘブライ人が神から選ばれたとか、ヘブライ人だけが神は存在を知らせてくれたとかいうことは、ヘブライ人自身、本当の幸福を知らなかったからだという。神が他民族に好意を寄せても、ヘブライ人への好意が薄れたりするわけがない。たしかにヘブライ人は他の民族よりも神から大量の軌跡を見せたことはたしかだが。
ヘブライ人が他民族より道徳や知識で勝っていたわけではない。神が他の民族よりもヘブライ人を選んだ理由とは何か。
その前に、いくつかの前置き。
神の導きとは、一定で変えられない自然の秩序のこと。万物が自然の諸法則によって生起する。神の導きと言おうが同じこと。
自然のあらゆることが発揮する力は、神の力そのもので。そして人間も自然の一部だ。神の力が人本来の声質を通じて働いているのか、人本来の声質の外部から働きかけているかの違いはある。
そして、神の選びとは、自然の秩序に反した働きは誰にもできないから、神の「お召し」だけが生き方を導く。運命とは神の導きにほかならない。そして神は外部の原因でもって人事を導く。
私たちが望むのは基本的に三つ。
物事の大元の原因を知ること
感情をうまく制御して特ある生き方を身につけること
安全に健康な身体で生きること
最初の二つは、人間本来の性質それ自体に含まれているから、私たちの力でなんとかなる。しかし最後のものは外部のものごとが決め手となる。
ヘブライ人が他の民族より勝っていたのは、生命を危険さらされるほどの苦難をうまく乗り越え、奇妙な縁で国家を獲得し、長く続けることができたことだ。それ以外では他民族とかわらず、神も万人に平等だった。
律法が約束したのは、服従と引き換えに国を絶えず繁栄させることだった。驚くに値せず、社会、国家は人々が安全に、快適暮らすことを目的に存在している。しかし、国というのは、同じ法で皆を縛る必要がある。律法を守るとはそういうことだ。
では、神は他の民族にも独自の法を定めたのか、といわれれば、スピノザはわからない、けど聖書にはその痕跡がある。そもそも聖書には万人に神は好意的なことが書かれている。にもかかわらずヘブライ人は自分たちは選ばれたと思っている。
聖書はヘブライ人のための物語であり、だから他民族が神から預言を授かったかどうかはわかるわけがない。
モーセは、神が他国民に好意を寄せたとしても妬むことはないだろう。モーセは自らの集団が危機的な状況で、存続させるためには外部の力が必要だった。それが神の助けであり、律法だ。
さらにパウロは万人が法と罪から逃れらないのだから、神は万人のためにキリストを遣わしたという。キリストはあらゆる人を律法への隷属から解き放つ。それは律法に従うのではなく、自分自身の決意に従い、よりよく生きてもらうためであった。ここはある種モーセの発展がキリストといった感じになっている。モーセはヘブライ人を救うために外部から律法をもたらすが、キリストはそれを普遍的な法でもって、ヘブライ人のための律法から人々を解き放ったということになる。
割礼だとかが、ユダヤ人のなかで続くことは、散り散りになった民族が再び国を打ち立てるだろう。しかしそれは知性と本当の徳とは関係がない。ただユダヤ人の国のことと安全のことのみにかかわるにすぎない。

以上、まとめてみたが、この章はけっこうシンプル。律法というのは、モーセによる単なる統治のための術だったと。
なんともユダヤ教の人が読んだら怒り心頭のような内容だが、実際のところ現代ユダヤ人にとって、この本はどういう位置づけ何だろうか。
そしてここでもスピノザはキリスト教を普遍的宗教として見なしている。そしてかなり好意的。
当時からユダヤ教の選民思想は嫌われていた模様。スピノザは他民族から嫌われることで、ユダヤ人の一致団結が存続すると。そして割礼など習慣が、彼らをまとめあげている。割礼は別に道徳的な行為でもなんでもなくて、単純にユダヤ人をユダヤ人たらしめ、法に服従させている証となっている。

2019/08/08

第二章 預言者について――スピノザ『神学 政治論』

第二章 預言者について
預言者はべつに並外れて優れた精神の持ち主ではなかった。想像力に秀でた人は、純粋に知的に理解するのが苦手だ。知識に想像が混ざってしまえば台無しになる。だから聖書で知恵を付けようなんてのは完全に間違っている。
まず、預言自体が預言者の気質や想像力でまちまちで、預言者も神から預言を授かったからと言って賢くなるわけではない。
ただの想像力には確実性は認められない。預言者たちも神からの啓示を、啓示そのものから確信をしたわけではない。なにか「しるし」があったからこそ確信したわけだ。預言者はしるしを求めた。
この点でも自然の知とは違うことがわかる。自然の知は、知それ自体に確実性が認められる。預言の確実性は気持ちの上でのものでしかない。
となると、預言と迷信は何が違うのか。
道徳心に満ちた人や神自身が選んだ人を、神はけっして欺かない。だから預言に確実性をもたせることができる。なんじゃそりゃ。ここでは、あくまで聖書の読解であって、聖書の論理構造からそうだと言えるとなる。だから預言者が新しい神々を布教し始めたら、そのしるしや奇跡如何に問わず、死罪にせよとモーセは言っている、としている。これは聖書から演繹されることなのだ。
預言の確実性は三つの要素からなる。
一、啓示が生き生きと感じられる。
二、しるしによる裏付け。
三、預言を受けたと自称する者が、正しい心をもっていること。
預言者は自らの預言が本当かどうかは、本当に起こってみるまで確信を得られなかった。つまり預言者の確信というのは、単に気持ちの問題だった。ということは、その確信というのは、預言者の考え方や理解力に応じて与えられた。
神は遍在していて、全てを予知している。しかし預言者たちはそれを知らなかったし、神に対して無知だった。かのモーセですら、神の性質を憐れみ深いとか、怒りっぽいとかしか表現していない。そして、この存在者は万物の製作者として至高の権力を持ってヘブライ人を選んだ。他の民族や地域については他の代役に一任する。だからイスラエルの神だとかエルサレムの神とか表現されていて、他の神々は他の民族の神々と呼ばれている。
モーセは神の住まいがあると信じたり、神を見ることができるとも信じていた。実際は見ることができないが。
神はモーセに啓示を与えたが、イスラエル人は神について無知だった。モーセは哲学者としてではなく、立法者としてイスラエル人に啓示を教えた。それは自由な心で生きることではなく、法に従うことを教えた。それは隷属の延長だった。ただ神の法を愛し、そして服せと命令したのだ。ということは、イスラエル人が徳の素晴らしさや本当の幸福を知らなかったことは確実となる。
神が預言者に接するやり方は、キリストが頑固なパリサイ人に対するのと同じように、聞き手の裁量によって異なっていた。つまりは、方便を使っていたのであって、真理を語っているわけではなかったのだ! そういえば使徒たちも同様に相手の理解力によって語り口を変えている。そうなのだ、方便なのだ。

以上、まとめてみたけど、かなりこんがらがってきた。
スピノザが言う想像力ってのは、なかなか興味深い。というか、この時代想像力ってのはどんな評価だったのか。この本を読んでいる限りだと、知的作業とは反対の意味で使われているようにみえる。
スピノザは、預言は想像力の産物というけど、でも一方で預言は神から授けられるものであるという。また確信は気持ちの問題だと言っておきながら、神が預言者の理解力に応じて与えるものだと言っている。
これは一体どういうことだ。聖書の中だけで論じれば、預言は想像の産物に過ぎないが、預言者からすれば神から授かっていると感じ、そして確信は持てないけど、聖書のなかでは預言者ごとにその確信の持ち方はまちまちだったということか。
啓示には一貫性がない。ということは啓示は方便なのだ。唯一絶対の真理を語っているかのように聖書を思われてきたが、仏教と同じで書かれていること語られていることは、方便に過ぎないのだ。しかし、方便とはいっても、正しい道を行くためになされるもので、その正しい道がなんなのか、それが問題だ。

2019/08/07

第一章 預言について――スピノザ『神学 政治論』

第一章 預言について
預言とは、啓示ともいうが、ある事柄について神が人間に示した確かな知のことである。普通の人は預言を確実に知ることができないから、それを信じるしかない。預言者はその啓示を通訳する存在のこと。
前述の預言の定義よれば、自然の知(人間が自然に備わった認識能力)も預言と言える。人間が自然の光によって知る事柄、煎じ詰めれば神が取り決めたことを知ることにほかならないからだ。例えば数学的な知にしろ、物理学的な知にしろ、だ。しかし、えてして自然の光はありふれたものだから、人間はあまりありがたがらない。超自然的な知にあこがれる。
自然の知は預言の知と違うが劣っているわけではない。預言の知との違いは、自然の知はある確かさを持っているが、預言の知は預言者を信じるしかない。
預言者たちの啓示は、言葉(声)か映像、もしくはその両方で示されてきた。そしてそれらは本物であることもあれば、預言者の想像の産物にすぎないこともある。モーセ以外の預言者たちは、神の本物の声を聞いたのではないのだという。なんと!!
神はモーセに声で啓示した。『出エジプト記』第二十五章二十二節の記述のみが、神の本物の声だった。サムエルやアビメレクらの預言とモーセのもとは別に考える必要がある、というのもモーセ以外の預言者は夢の中だけであったり、近くにいる人の声にそっくりだったというからだ。
モーセの律法は、神が姿形を持っていると述べていないし、そう信じろとも書いていない。ただ神を信じ、敬うことを説いている。
神は夢などを使わずに人間に直接伝えることもできるが、そのためには人間側が抜きん出た精神を持っている必要がある。それはキリスト以外にはいなかった。ぬおー! なんと。ここでイエスを褒めている。キリストの場合は言葉や映像ではなく、直接に啓示されたと述べている。ここはどういうことだ。「直接に啓示」というのは、キリストの精神を通じて使徒たちに言葉をもたらした。キリストの声はモーセと同じで神の声といってよい。モーセは神と対面し仲間同士のようだが、キリストの場合は心と心でつながっていた。
スピノザはここで聖書の言葉から、余計な脂肪をとっていく。「霊」と訳される「ルアハ」も文脈で別に「霊」の意味で用いるべきではないし、「神のなになに」と表現される場合、それは別に神の属性を述べているわけではなく、単純にでかいとすごいとかの意味でとるべきとする。
よくわからないことに「神の」と付けてきた。預言者は神の力を持つと言われるのも、なぜ預言者が啓示をうけるのか、よくわからないからだ。
そもそも知性の限界を超えたことを受けることができたはずだ。預言者たちは自然の知でもって多くを知ることができたはずだ。しかしそうなっていない。あるのは言葉と映像で構築された寓意や謎かけばかり。なぜなら、そのほうが想像力を発揮できたからだ。
と、ここで疑問が生じる。なぜ預言者たちはそんな想像の産物に確信をもてたのか。厳格な理論をもとにしていないにもかかわず。

まとめ終わり。
ここでの要点は、預言がモーセのもの以外、想像の産物といっていることで、ということは、モーセは本物で、モーセは神と向かい合ったということ、それはスピノザは神を認めているのか。
聖書にでてくる単語が、いつの間にかいろいろと尾ひれがついてくるってのは、仕方がないかな。陰謀論なんてのは、そんな尾ひればかりで、ノストラダムスの予言なんかの解釈なんか百家争鳴でありまして。たいした意味でもないのに、多くの意味をそこに読みとってしまう人間の性よ。
預言は信じるしかないものと言っていて、やはり宗教は哲学とは違うとここでも述べられている。ただし、この「信じる」という行為自体、スピノザは否定していない。
驚くべきは、イエス・キリストを立派な精神の持ち主とほめてることで、しかもイエス・キリストをモーセと相並ぶ人物として見なしている。なんだ、どうなっているのだ。スピノザはキリスト教が好きなのか。
ちょっと疑問。旧約聖書を批判的に読み解いているが、これまで培ってきた、もしくは生きながらえたテクストの読み方はダメだというのはわかるけど、それだとたんなる宗教批判にすぎない。しかしスピノザは宗教を否定しているわけではない。いったいここで論じられている旧約聖書の解釈などを、スピノザは迷信と考えていたのかどうか。旧約聖書は宗教の名に値するものとしてしまっていいのかどうか。
あと「言葉と映像」と「精神」というのは、対立する概念として扱っているのか。

2019/08/06

序文――スピノザ『神学 政治論』

序文
人は簡単に迷信を信じてしまう。迷信は、さっきまで自分たちの支配者を神のように崇めていたかと思うと、今度は罵りるようにしむける。迷信は混乱をもたらす。
そのため、まともな宗教やそうでない宗教も、儀式や仕掛けで飾りたてようとしてきた。それに最も成功したのがトルコ人だという。
君主は国を統治するために人びとを騙し続けることでうまく統治してきたが、しかしこのような専制君主は、オランダのような国にはふさわしくなく、自由こそ愛すべきものであり、自由を認めても道徳心や国の平和は損なうことはない。
これを証明するために、過去の時代の奴隷根性の遺物や主権者の権利についての先入見を指摘する。このような過去の遺物を私物化し、宗教の名を借りて、迷信でもって群衆を再び奴隷状態にされてきた。
宗教は、愛、喜び、平和、自制心を公言しているくせに、いつのまにか諍いをはじめる。というのも、聖職者が特別立派なものであると見られるようになると、ろくでもないやつがでてきて、演説がうまいだけのやつが民衆を扇動しはじめる。そして争いがはじまる。
多くの宗教がもっている儀礼は外的なものだけ、つまり様式だけが残ってしまった。これは人が自由に判断することを妨げる。理性を軽侮するものたちは、神の光が与えられたと信じ込む、なんという皮肉か。少しでも神の光が与えられていたら、もっと慎み深く神を敬い、愛によって人びとの模範になっていただろう。
自然の光(人間の知的能力)は軽んじられ、それは不道徳の源と見なされる。聖書を神聖なものと決めかかる。そして哲学者たちと激しい議論が繰りひろげられてきた。
だから、聖書を自由な気持ちで吟味し、聖書が言っていないことは、聖書の教えではないと認めよう。
すると、聖書には知性に反することは一切ないことがわかる。預言者の言葉は群衆を神にその身を捧げるように仕向けるものにすぎなく、つまりは聖書は理性を放任している。すなわち聖書は哲学と共通するものを何も持たず、両者は別の固有の足がかりにもとづいている。啓示は神への服従以外の何物でもない知であり、哲学的な知とは違う。
だからものごとを判断する自由と信仰の根拠を自分の好きなように解釈する権利は、保証されるべきだ。信仰の良し悪しは、その人の行いだけを基準に決められるべきだ。そうすれば誰もが自由な心で神に仕え、そして正義と愛だけは誰からも重んじられるようになる。
啓示による神の法は、自由を認めている。そして自然権によって縛られる者は誰もいない、自然権を譲ることは自身をま持つ権利も他人に渡すことで、譲渡された至高の権力者は唯一の権利と自由の守り手である。そして至高の権力者は、法や権だけでなく、宗教上の法や権利についても守り手や解釈者の役を務めることになる。それは彼らだけが正不正、道徳不道徳を決める権利を持つ。
そして結論、権力者がこうした最上の権力を保つには自由に考える権利、そして考えたことを言う権利を誰にでも認めることである。

以上、序文のまとめ。
なんというか、けっこう真剣に読んでみると、なかなかおもしろい。
スピノザは宗教批判をしているかのように思っていたが、なかなか、そんな単純ではないようで。というより、宗教を肯定的に書いていると言ってもいい。宗教ではなくて迷信がよろしくないといっている。なんといっても宗教が儀礼を整備したことは、迷信を防ぐためとか。なにーー!
そして宗教と哲学を峻別している。まったく異なる基盤で成り立っていると述べている。宗教は従うことを教えているにすぎないと、しかし従うとは何に従うことなのか、神に、だという。ここでいう神とは何か。ちょっとこのあたりは読み進めていかないと、今のところはっきりしない。神の光が与えられていれば、模範的になれただろうと言っているが、これって宗教を肯定しているわけでしょ。でも宗教は従うことのみを教えているって、何よ。
そして権力者の話になっているが、ここ、論理的なつながりがいまいち把握できなかった。
ちょっと理解しにくい論理構造だけど、まあいいや。とりあえず読み進めていく。