無機質な文章で、解説のドナルド・キーンさんが言うように、あまりに散文的すぎるのですが、そこからあふれでる詩情がたまらなくいい。都市、街といった郷愁とは無縁の空間が無機質な豊かさをもって迫ってくる。
この小説の奇妙さは、まず主人公が最後に記憶を失ってしまうことにあって、にもかかわらず小説それ自体は自分語りの一人称形式になっていること。記憶がないのに語っているんです。だから小説の中では現在進行形で語るしかなくなる。主人公の語りは、つねに現在が支点になっていて未来が語られない。というか安倍公房の小説は一人称が多いかな。
根室波瑠の弟とはいったなんなのか。住所不定でやくざまがいの仕事をして、殺されてしまう。弟も根室洋を追っているようなのだが、主人公を追っているようにもみえる。田代はなぜ自殺したのか。
この一連の不可解さはけっして解決されず、謎のまま残る。そしてこの謎であることがこの小説の輪郭を決めていく。すべては未解決であり続ける。
事実も、なにが事実であるのかもよくわからない。
「まったく、事実ってやつは、貝みたいなものでね、いじれば、いじるほふぉ、ぴったり口を閉ざして、とりつくしまもない・・・・・・無理に、こじ開けようとすると、死んでしまって、元も子もなくなるし・・・・・・向こうから、口を開けてくれるまで、待つしかないんですよ・・・・・・おおむね、ありそうな所には、何もないというのが、事実の事実たるゆえんでしてね・・・・・・」(166)
田代は根室の撮影したポルノを明かしながらも、それが嘘だといったり。でも、「ぼく」からしたらその真偽はわからないわけで。
田代が街で根室を見かけたときに声をかけなかった。その理由に、
「だって、果たしてぼくに、そんな四角があるものかどうか・・・・・・」(318)
という。なんとも孤立した存在として、都市でいきる個人をとらえている。
「本人の意志にさからってまで、他人の居場所に干渉する権利が、誰にあるのか・・・・・・」(319)
この小説の寂しさは都市に生きる人間に共通のもので、「ぼく」が暴行を受け、女の部屋で起きたとき、女は窓の外をみていて、「ぼく」は何を見ていたのかと問う。
「だから、窓よ・・・・・・沢山の窓・・・・・・だんだん灯が消えていくの・・・・・・そうすると、その瞬間だけ、はっきり分かるのよ、そこに人がいるのが・・・・・・」(357)
カーブの向こうの台地の町が、記憶からなくなり、存在が共同体から、会社、元妻から切り離されいく。
「誰だって、今のぼくと同じように、狭い既知の世界に閉じ込められていることに変わりはないのだ。坂のカーブの手前、地下鉄の駅、コーヒー店、その三角形はなるほど狭い。狭すぎる。しかし、この三角形が、あと十倍にひろがったところで、それがどうしたというのだ。三角形が、十角形になったところで、何処がどう違うというのだ。」(390)
「過去への通路を探すのは、もうよそう。手書きのメモをたよりに、電話をかけたりするのは、もう沢山だ。車の流れに、妙によどみがあり、見ると轢きつぶされて紙のように薄くなった猫の死骸を、大型トラックまでがよけて通ろうとしているのだった。無意識のうちに、ぼくはその薄っぺらな猫のために、名前をつけてやろうとし、すると、久しぶりに、贅沢な微笑が頬を融かし、顔をほころばせる。」(393)
小説は団地の描写からはじまる。どこにでもある平凡な団地には過去も未来もない。
そしてラスト、冒頭の状況描写が反復される。主人公と根室洋が重なっていく。
自分が誰であるのか忘れてしまう。アイデンティティの喪失。故郷の喪失。だから都市で生きることは失踪していることと同義なのかもしれない。
「都会――閉ざされた無限。けっして迷うことのない迷路。すべての区画に、そっくり同じ番地がふられてた、君だけの地図。
だから君は、道を見失っても、迷うことは出来ないのだ。」
冒頭の言葉を読み返せば、失踪、蒸発といったことがポジティブなことであることがわかる。都市で生きるための思想、言葉がある。
この小説の奇妙さは、まず主人公が最後に記憶を失ってしまうことにあって、にもかかわらず小説それ自体は自分語りの一人称形式になっていること。記憶がないのに語っているんです。だから小説の中では現在進行形で語るしかなくなる。主人公の語りは、つねに現在が支点になっていて未来が語られない。というか安倍公房の小説は一人称が多いかな。
根室波瑠の弟とはいったなんなのか。住所不定でやくざまがいの仕事をして、殺されてしまう。弟も根室洋を追っているようなのだが、主人公を追っているようにもみえる。田代はなぜ自殺したのか。
この一連の不可解さはけっして解決されず、謎のまま残る。そしてこの謎であることがこの小説の輪郭を決めていく。すべては未解決であり続ける。
事実も、なにが事実であるのかもよくわからない。
「まったく、事実ってやつは、貝みたいなものでね、いじれば、いじるほふぉ、ぴったり口を閉ざして、とりつくしまもない・・・・・・無理に、こじ開けようとすると、死んでしまって、元も子もなくなるし・・・・・・向こうから、口を開けてくれるまで、待つしかないんですよ・・・・・・おおむね、ありそうな所には、何もないというのが、事実の事実たるゆえんでしてね・・・・・・」(166)
田代は根室の撮影したポルノを明かしながらも、それが嘘だといったり。でも、「ぼく」からしたらその真偽はわからないわけで。
田代が街で根室を見かけたときに声をかけなかった。その理由に、
「だって、果たしてぼくに、そんな四角があるものかどうか・・・・・・」(318)
という。なんとも孤立した存在として、都市でいきる個人をとらえている。
「本人の意志にさからってまで、他人の居場所に干渉する権利が、誰にあるのか・・・・・・」(319)
この小説の寂しさは都市に生きる人間に共通のもので、「ぼく」が暴行を受け、女の部屋で起きたとき、女は窓の外をみていて、「ぼく」は何を見ていたのかと問う。
「だから、窓よ・・・・・・沢山の窓・・・・・・だんだん灯が消えていくの・・・・・・そうすると、その瞬間だけ、はっきり分かるのよ、そこに人がいるのが・・・・・・」(357)
カーブの向こうの台地の町が、記憶からなくなり、存在が共同体から、会社、元妻から切り離されいく。
「誰だって、今のぼくと同じように、狭い既知の世界に閉じ込められていることに変わりはないのだ。坂のカーブの手前、地下鉄の駅、コーヒー店、その三角形はなるほど狭い。狭すぎる。しかし、この三角形が、あと十倍にひろがったところで、それがどうしたというのだ。三角形が、十角形になったところで、何処がどう違うというのだ。」(390)
「過去への通路を探すのは、もうよそう。手書きのメモをたよりに、電話をかけたりするのは、もう沢山だ。車の流れに、妙によどみがあり、見ると轢きつぶされて紙のように薄くなった猫の死骸を、大型トラックまでがよけて通ろうとしているのだった。無意識のうちに、ぼくはその薄っぺらな猫のために、名前をつけてやろうとし、すると、久しぶりに、贅沢な微笑が頬を融かし、顔をほころばせる。」(393)
小説は団地の描写からはじまる。どこにでもある平凡な団地には過去も未来もない。
そしてラスト、冒頭の状況描写が反復される。主人公と根室洋が重なっていく。
自分が誰であるのか忘れてしまう。アイデンティティの喪失。故郷の喪失。だから都市で生きることは失踪していることと同義なのかもしれない。
「都会――閉ざされた無限。けっして迷うことのない迷路。すべての区画に、そっくり同じ番地がふられてた、君だけの地図。
だから君は、道を見失っても、迷うことは出来ないのだ。」
冒頭の言葉を読み返せば、失踪、蒸発といったことがポジティブなことであることがわかる。都市で生きるための思想、言葉がある。
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