2020/01/28

『ロッキード裁判批判を斬る 1~3』立花隆 朝日新聞社

田中角栄がアメリカにはめられた、と考えている人がいる。田中角栄が中国、ソ連にすり寄ったからアメリカが怒ったとかなんとか。
でもですね、そもそもこのロッキード事件は日本だけの話ではなくて世界規模の汚職事件だったわけで、たかが極東日本低国ごときをおしおきするためにロッキード事件を仕掛けるのだろうか。
英語版のWikipediaでは、日本以外でのロッキード事件の記事がある。https://en.wikipedia.org/wiki/Lockheed_bribery_scandals
それに5億円を田中角栄が実際もらっているのならば、バラしたのがたとえアメリカ政府でも、ダメでしょう。(そもそももらっていないという主張もあるが。)
さらに不思議なのが、保守派がこのように主張するのはまだ心情的にわかるのだが、左派までも同じような主張をする人がいることだ。しかもバリバリの左翼大学教授や左派インテリがだ。左派のロジックからみると、現在の親米政権へのアンチテーゼが田中角栄となっている。ごりごりの左派は基本反米だから。そしてアメリカに反抗した田中角栄を特別視してるわけで。
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現在も、ロッキード裁判と同じような杜撰な言説が飛び交っている。ただ、当時と現在で比較すると大きく異なるのが、その論客たちの質の低さだろう。保守側も百田尚樹や小川榮太郎みたいなバカを担がないで、もっとまともな人を担げばいいのに。保守側の哀しいのは、いまSNSだとかネットとかで肩で風をきっているやつらが全て渡部昇一級の低級であること。
そしてそれは左派側にも言えて、左派ジャーナリストの頽廃と左派の言説のむなしさはひとしおです。
そして一番悲しいのは、バカな保守とバカな左派が両極端な主張で論戦もどきをしていること。しかもそれがネットとかでとりあげられたりするし。馬鹿ではないかと。
なんのために論争しているのか。批判しやすい極端な意見を鬼の首を取ったように批判しあう両陣営。
もう嫌になってしまいます。
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立花隆は、臨死体験とか宇宙を語り始めたあたりから、あやしくなってきたのだけれど、田中角栄や日本共産党を追っていた時代はすごいきれる感じ。この『ロッキード裁判批判を斬る』は、彼の最高傑作といっても言い過ぎではない。
とりあえず、本書はかなりおもしろいし勉強になってしまった。渡部昇一だけでなく、法曹界の人までも論駁の対象で、立花氏のロジックは明確すぎるくらい明確。
渡部昇一さんは、『朝日新聞と私の四十年戦争』という本を出版している。渡部さんもそこまで朝日が憎いかね。
この本でロッキード論争について書いていて、立花氏を批判している。で、この批判がひどい。というか、おそらく渡部さんは立花隆の記事を読んでいないか、もしくは理解していない。
というかこの本、自分で書いているのか。
でも、たしかに自分への批判をきっちりと読みこなし、受け入れるには、かなりしんどいことはたしか。ぼくだって、常に自己正当化しているからね。
ただ、この『朝日新聞と私の四十年戦争』での記述にはいっさい立花氏への反論となっていない。というか立花氏が批判していた内容を、当時のまま繰り返しているだけ。

『ロッキード裁判批判を斬る』は、渡部昇一氏だけでなく、山本七平、小室直樹など現在でも名をとどろかせている論客たちを斬りまくり、さらに法律を本業にしている林修三、石島泰、井上正治も批判の対象になり、その批判がすごくいい。
立花氏の批判の仕方は、批判される側の論理をもって批判する。林修三の著作をもって林修三自身の発言を批判したりする。なぜか法律の専門家たちも自説を曲げてまでも田中角栄を擁護してしまう。田中角栄、おそるべし。
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具体的な法律の運用の仕方だけでなく、法思想にまで論じ、いかにロッキード裁判を批判する者たちが杜撰でいいかげんかを暴露していく。
以下、メモ程度に。
*賄賂罪の適用の仕方について。賄賂というのは、密室で行われるために物的証拠が極めて少ないので、証言は自供をもって証拠とすることになるという。だから批判派が主張する客観的な物的証拠がないにもかかわらず、有罪となるのはおかしいというのがおかしい。そんなこと言っていたら収賄贈賄罪はけっして裁かれることはない。
しかも、収賄の場合、受けた側の資産が急に増えたりしたら、それはやっぱり収賄なのだとなる。田中角栄はまさにそれ。
*職務権限とはなにか、刑法と行政法での違い。刑法での職務権限は、ある職務が及ぶ権限の範囲を設定するものではない。なるほどね。
*外為法が死に法だというデマ。このあたり現在でも繰り返される、事実に反することを軽々と述べてしまう低品質な論客があぶりだされてしまっている。
*外為法違反は別件逮捕というが、外為法は本丸。
*嘱託尋問とは。裁判所が主体となって、アメリカに要請。裁判所は積極的に証拠集めに関与することはあっていい。有罪ありきで裁判所が動いていたわけでもなく、不法であるわけでもない。
*免責特権とは何か。これは取引ではなくて、強制的に証言させて、ただしその証言によって生じる証言者への不利益は生じさせないといったもの。そしてその証言が嘘の場合は、偽証罪に問われるという。
嘱託尋問の反対尋問。田中側の反対尋問は、衆院選をにらんだ単なる裁判の引き延ばしにすぎない。そうなのか。時系列で裁判を眺めると、憲法に保障された反対尋問が云々とか、そもそも憲法で保障されている反対尋問自体が裁判官の前で証人喚問されたケースを想定しているなど、勉強になりますね。
*証拠能力と証拠の証明力の違いについて。これもなるほどとなる。証拠能力があれば、裁判所は証拠として採用するが、証明力がなければ判決に影響はしない。
*当事者中心主義、職権主義について。まあなんとなくは知っていたけど、大陸法と英米法の違いなんか、こうも明確に簡潔に教えてくれているのはありがたいですね。
*政治家は清濁併せ呑む必要があるのかどうか。小室直樹氏は、田中を全面的に擁護する。5億円なんてどうでもいい。田中角栄がやってきたことに比べたら、ちっぽけだ、それに人を殺したっていいのだとうそぶく。これは難しい問題ですね。田中角栄が魅力的だったのは確かだろうと思う。ハマコーなんか、悪党だけど、魅力的な人だし、話もおもしろくて、機知に富んでる。清廉潔白な政治家でなんにもしないやつよりいいのかもしれない。まあこの小室直樹氏の発言というのは、小室流のアイロニーとレトリックが含まれていてリテラルに受け入れるのはよくないが、それにしても田中角栄、おそるべし。
*最高裁でのコーチャン、クラッタ―への嘱託尋問の証拠能力を否定についてだが、『「ロッキード裁判批判」を斬る』が出版されたときはまだ一審のみだったので、立花氏は最高裁でも証拠能力ありと判断されると予想されているが、実際は否定されてしまった。とはいっても、本書では、仮に嘱託尋問がなくても田中の収賄は立証できるし、それにコーチャン、クラッタ―は最重要証人ではないとしている。
*裁判は歴史的事実を探る場ではない。この客観的真実は、人間の世界では極限概念でしかない。裁判では認定事実が実態的真実をあかるみにだす。

立花氏も口が汚くて、しかも相手を追い詰めるやり方だから、傍観者からすれば面白いけど当の批判される側からすれば、むかついてむかついてたまらないだろうな。
立花氏の攻め方は、日常生活でやったら確実に敵だけをつくり友人もなくす。ふつう日常では、敵にも逃げ道を与えてあげるものだ。
でも、論争なのでとことんまで追いつめていくのは、仕方がない。でも、将来に禍根を残すことは仕方がない。
本書のあとがきで立花氏はこのように書く、
「はじめてみれば、いやな仕事も面白かった。まず、これはあまりいいことではないかもしれなが、いやな奴をやっつけることには快感があるものである。論争はケンカである。ケンカには勝たなければならない。ケンカを始める前から勝つ自信はあったが、実際に、自分の腕がくり出したパンチは相手のアゴを的確にとらえたとき手応えはまた格別なものである。」
立花隆も悪いやつ。

2020/01/20

Mozart Piano Concerto No. 27 Concerto for 2 Pianos Emil & Elena Gilels Karl Böhm Vienna Philharmonic Orchestra Deutche Grammophon, 18MG 4643(419 059-1)/モーツァルト、ピアノ協奏曲27番、「2台のピアノのための協奏曲」(10番)、エミール・ギレリス、エレーナ・ギレリス、カール・ベーム、ウィーンフィル



Mozart
Piano Concerto No. 27
Concerto for 2 Pianos
Emil & Elena Gilels
Karl Böhm
Vienna Philharmonic Orchestra
Deutche Grammophon, 18MG 4643(419 059-1)

モーツァルトのピアノ協奏曲27番と10番の「2台のピアノのための協奏曲」。後者はギレリス父娘で共演。
27番はよく最晩年の曲として他のピアノ協奏曲とは違った評価がされる。例えば天国的だとか、死を予感させる静謐さとか。でもですね、第一楽章からして非常に古典的な、ハイドンやボッケリーニと同じように、古典派のスタイルなわけです。つまりは非常にモーツァルト的なわけです。オーケストラは脇役でピアノを引き立たせる伴奏に徹している。
曲調も非常に幸福感あふれていて、モーツァルトだぜー、となっている。
ぼくは27番は嫌いではないし、好きですよ。よく聴きますしね。でもですね、死んだ年に書かれたからといって、変に意味づけるのは好きではない。
この曲はモーツァルトが死んだ1791年1月に完成し、死ぬのは12月なわけです。まだこの曲を作曲していた時にはモーツァルトはピンピンしていたことだと思う。リューマチ熱が死因だとすると、まあ常に何かしら苦しんでたかもしれないけど。でも死の予感なんてないわけですよ。
だから、この27番はかなりモーツァルトらしい幸福感あふれる曲調で、第二楽章はたしかにモーツァルトが作曲した緩徐楽章のなかでも抜きにでるものがあると思うけど、天国を思わせるものはないし、モーツァルトはクリスチャンじゃないし。

つらつら書いたけど、このレコード買った目的は、10番「2台のピアノのための協奏曲」を聴きたかったから。
ぼくはこの曲をはじめて聴くのだけれど、やはり2台のピアノだけあってピアノの音の厚みがあって迫力がある。
オーケストラはやはり脇役で、ピアノとピアノの対話が紡がれていて、第一楽章はオーケストラの少し長い序奏からはじまり、2台のピアノのユニゾンがはじまる。これはK488「2台のピアノのためのソナタ」と同じ。ここでもモーツァルトは疾走していますね。哀しみではなく幸福ですが。聴いていて楽しい。
第三楽章はとくにいい。ここで使われている主題はとても単純なもの。そして洗練されているとは言い難いフレーズ。それでいてなぜここまで楽しい曲にしあがるのか不思議です。交響曲40番の第四楽章もはっきりいってなんか単純な旋律だし、野暮ったさがあるんだけれど、それがいいんですね。
もちろんギレリスの演奏は言わずもがな、軽やかでいいですね。

2020/01/13

『カリフ制復興――未完のプロジェクト、その歴史・理念・未来』中田考 書肆心水

イスラームの論理がなんたるかがよくわかる。そしてその可能性が語られている。
国民国家システムが破綻しているかどうかといえば、現実としては破綻はしていない。破綻している国はあるが、大勢ではそこそこ成功はしている。
ただし、それが倫理的である体制であるかといえば、否であり、現在日本では難民の受け入れをしていないことは、中田さんが言うように、人間が人間に移動の制限していることであり、それは人道にもとるといえる。
本書は、イスラームの可能性が語られていて、それは現在の国民国家システムのアンチテーゼとなっている。
実際、イスラームの歴史がイスラーム法に則った世界をつくり上げていたかというと疑問だけれどもの、近代の西洋由来の法概念や政治理念がいかに欺瞞に満ち、普遍性を持ちえないのかがわかる。

ISISの首長イブラヒーム・バグダディ―がモスルでカリフ位に推戴し、カリフ制が復興したことを世界史的事件と位置づけている。
「カリフ制は、領域に成立するものではない。言うなればカリフ制は、ムスリムの心の中に再興されたのである」(7)
「カリフ」は「後継者」「代理人」を意味する普通名詞とのことで、ふつうに現代アラビア語で用いられているのだと。そうなのか。それでイスラーム教学で「カリフ」を指す言葉は「イマーム」だと。そうだったのか。ぼくはてっきりシーア派で使われる後継者のことを「イマーム」だと思っていたが。

カリフとは
なかなか興味深いのが、内乱の概念規定をするため「カリフ」に定義を与えたということで、イスラーム法で合法性と正統性が承認されていったらしい。それはカリフに反抗する叛徒を賊軍とし、カリフ、そしてカリフを助けるものを「官軍」ということになる。
まずバイア(忠誠誓約)が締結され、前任カリフの指名があり、カリフとなる。そしてカリフになる諸条件があれば、たとえ邪悪な人間でもイスラーム的教養が欠けていても、カリフ位は締結されるという。
「イスラームは、『誰がカリフであるか』を決める人間や機関を視度的に設けることはしなかった。カリフ制は、人間の心の外のどこかに『対象として(objectively)』存在するのではなく、ムスリム一人一人の心の中に、いわば「主体的に(subjectively)存在する」(166)
「カリフ(イマーム)」とはイスラーム学によって定義を与えられたイスラーム学の概念だり、カリフ制とは一義的にはイスラーム学者の心の中にあるのであり、イスラーム学者がカリフ制の擁立義務を承認している限りは存在している」(166)

イブン・タイミーヤ
スンナ派のカリフ制復興運動のほとんどがサラフィー主義に由来しているという。サラフィー主義はイブン・タイミーヤに理論に求められる。
イブン・タイミーヤはアンチテーゼをだす。シャリーアが命ずるに従うべきであり、それに逸脱する者、それがカリフであった場合、それは反抗ではなく討つべきものとなる。これはタイミーヤのイルハン国への批判のようで、モンゴルはシャリーアではなくモンゴルの法(サヤ)に従っていて、チンギス・カンを神として崇めている。
タイミーヤは、カリフがウンマの中で最も大きい権力を有する者であって権力の源泉ではないとする。それ以前ではすべての職能はカリフに源泉があるとされていた。
タイミーヤはカリフを相対化していく。カリフもイジュティハードをしなければならない、つまりクルアーンとハディースを指針とすることで、それは万人もそうなのであるように、カリフもそうあるべきとした。
ウラマーゥ(イスラーム学者)は「預言者の相続人」で、その権威はシャリーはに由来し、カリフも従わなけれればならない。そしてその源泉はムハンマドが開示した「知」にあり、それを裏付けるものは。預言者に遡るパーソナルな「知」の相伝の学統となる。これはカリフ帝国という制度的な枠組みを越えて、イスラームのネットワークをつくりだした。

解放党
サラフィー主義の亜種である政党で、政治理論の四原則(憲法草案第20条)が以下、
1 「主権(スィヤーダ)はイスラーム法(シャルウ)に帰属し、人民にではない。
2 権力(スルターン)はウンマに属する。
3 ただ一人の国家元首の任命がムスリムの義務である。
4 イスラーム法の立法化は国家元首のみの大権であり、彼が憲法ほかすべての法律を制定する。
そして為政者が不信仰の法律で統治をした場合は、為政者に対して武装蜂起や奪権闘争が義務となる。
ただし解放党は放伐の義務は、あくまでダール・アル=イスラームにおいてとして、ダール・アル=クフルへの義務ではないとしている。そのため、サラフィー・ジハード主義とは異なっている。
現代ではすべてがダール・アル=クフルであり、そのため武力闘争ではなく、党の思想を広め、文化活動、政治闘争を経て、最終段階でカリフ制樹立を目指す。

イスラーム国の意味
アール・アル=シャイフは、背教を二種類あるという、個々人の信仰だけでなく、統治システムに関わること。
だから、西洋の人が定めた法によって統治することは不信仰なものとなる。
そしてこれが「ジャーヒリーヤ論」の基礎づけとなる。「ジャーヒリーヤ」は「無明」という意味のようんで、これを克服するためにジハードを説く革命論となる。
カリフ論において、アル=カイーダは同胞団と同じく、地方国家レベルでイスラーム国家を作っていき、それらを最終的に統合してカリフ制を樹立させるというもの。
ただし、アル=カイーダはそれ以上の具体的なプランがあるわけではなく、イデオロギー色は薄い。だからこそ多くのスンナ派組織のハブ機能をはたした。
アブー・バクル・バグダディ―はイスラーム国をつくりカリフになることは、領域国民国家システムへの挑戦であり、サイクス・ピコ協定体制を破棄したことを宣言している。
イスラーム国は知らず知らずのうちに残虐な全体主義的政警察国家のやり方をしているが、このようなカリフ制が出現したことはウンマ全体の責任だという。「民主主義」「中道」「人権」などの西洋の概念で、保身を第一に作り上がられた中東の国家は、イスラーム国のようなカリフ制を誕生させた。中田さんはイスラーム国は、このような責任を自覚しないウンマに対する試練、神の鞭としてこの世に送られた存在だという。

イスラーム法の聖俗
近代に政治の枠組みでは、イスラームは「政教一致」と見なされるが、イスラーム法の運用は神的霊感とは無縁なものであり、信仰による理解は不必要である。
イスラーム法体系が成立し、法学者が成立する。そして法も世俗化する。イスラーム法はたしかに神的啓示であるが、だからといって「宗教的」とはいえない。法の起源は「宗教的」だろうが「世俗的」だろうが、起源は必然的に「神聖」かつ「非合理的」だからだ。アメリカの独立宣言にしろフランスの人権宣言しろ、「神聖」「聖性」をもとにしている。イスラーム法だけを「宗教的」と呼ぶのは不適切。
イスラームにおいては法と宗教は完全に分化していて、カリフ政権は行政のみならず法においても、宗教とは分離した「世俗」政体といえる。
そして、領域国民国家は必然的に全体主義への道をひらく。イスラームはキリスト教とは違い、個々人の内面の信仰には干渉しない。言うまでもなくカリフにもその権限はない。住民はたんにイスラームの公共性を外面的に遵守すればよい。

イスラーム法の統治
「この大地はアッラー以外の誰のものでもなく、それ故、この大地をバラバラに切り刻み、その間の移動を制限することは何人にも許されない。西洋の領域国民国家のイデオロギーとは対照的に、イスラームではムスリムが別々の国家に属することを禁じている。なぜならアッラーは『まことに私はあなた方を男と女に創造し、また民族と部族としてお互いを知り合うために造った。』(クルアーン49章13節)」(183)だから、国境を廃止しイスラーム秩序のもと大地を統合することが要請される。
「カリフ制とは、一言で言うなら、『法の支配』を実現することにより、人間を阻害する偶像神リヴァイアサン領域国民国家の姿で発言した人間によr支配ぁら人類と大地を開放する「持続可能な良き統治(sustainable good governance)」である。」

2020/01/08

『カラマーゾフの兄弟』ドストエフスキー/原卓也訳 新潮文庫

やはりかなりわけわからない小説で、一人語りが激しく、しかも感情の起伏がすさまじい。
ドストエフスキーの文学を読むと、文学とは語りえないものを語れる形式なんだと心から思うもので、変に要約したりすると肩透かしくらうくらいどうでもいい話なんだけど、それをくどくどと書くことで、怨念のようなものが憑りついていく。
いろいろとこの小説では考えさせることがあるのだけれど、ひとつは人間が人間を分析することの高慢さへの批判だろう。この小説には、いっさいの精神分析や心理学の見方を寄せつけないものがある。
この小説はやはり「家族」がメインテーマなのだろう。
そして、バラバラのカラマーゾフ親子が財産のことでもめ、女のことでもめ、親殺しで裁判にかけられる。ドミートリーは有罪、イワンは病に倒れ死の床、アリョーシャの旅立ち。ヒョードルの死によってカラマーゾフ家はバラバラになる。
そしてイリューシャの死によってもたらされるスネギリョフ家の和解とアリョーシャやコーリャたちの絆がラストを飾る。

「いいですか、これからの人生にとって、何かすばらしい思い出、それも子供の頃、親の家にいるころに作られたすばらしい思い出以上に、尊く、力強く、健康で、ためになるものは何一つないのです。君たちは教育に関していろいろ話してもらうでしょうが、少年時代から大切に保たれた、何かそういう美しい神聖な思い出こそ、おそらく、最良の教育にほかならないのです。そういう思い出をたくさん集めて人生を作りあげるなら、その人はその後一生、救われるでしょう。そして、たった一つしかすばらしい思い出が残らなかったとしても、それがいつの日か僕達の救いに役立ちうるのです。」(下、653)

2020/01/06

BEETOVEN Quartet in C sharp minor, Op.131, Julliard String Quartet, RCA VICTOR, LSC2626/ベートーヴェン 弦楽四重奏曲第14番 ジュリアード弦楽四重奏団



BEETOVEN
Quartet in C sharp minor, Op.131
Julliard String Quartet
Robert Mann(violin)
Isidore Cohen(violin)
Raphael Hillyer(viola)
Claus Adam(cello)
RCA VICTOR, LSC2626

ジュリアード弦楽四重奏団による、ベートーヴェン弦楽四重奏曲第14番。ニューヨークのレコード店で購入。やはりニューヨークいったらジュリアードのレコード買うべきかなと思い、$12と少し高かったけど。
ぼくははじめてジュリアード弦楽四重奏団の演奏を聞いたのだけれど、やはりアメリカということもあって、ヨーロッパの弦楽四重奏団とは違って、癖がないなーと。
バリリ、スメタナ、タカーチなどの弦楽四重奏団なんか、けっこう濃い演奏をする。まあぼくにはフランス的だとかハンガリー的だとかの違いまでわかるほどではないけれど。
ジュリアードの場合、そういった癖がなくて中性的な演奏になっている。
とはいっても、個々の演奏家ではヨーロッパからアメリカに渡ってきた一世もいるかもしれないけど。
例えば第二楽章のロンドは、ヨーロッパの弦楽四重奏団なんかだともっと舞踏のリズムを刻む演奏でシャープなんだけど、ジュリアードは非常にフラット。
でも安心感があります。鬼気迫るような緊張感もなくて、のびやかなで全体的に明るい。
そして4人の演奏家で音楽を作り上げているなーという感じ。第一ヴァイオリンだけが突出するようなものがなく、一体感が強い。
ぼくなんかが言うのもおこがましいが、完成度が高い。
けども、正直言えば、物足りなさは否めないか。泥臭さがない。

2020/01/05

『大分岐――中国、ヨーロッパ、そして近代世界経済の形成』 K・ポメランツ、川北稔監訳 名古屋大学出版会

僕が高校生のころから、なぜ産業革命がイギリスで起こったのかが疑問だった。なぜフランス、イタリア、中国ではなくてイギリスだったのか。
当時、歴史の教師に質問したことがあるけど、囲い込みと技術革新が起きたから、としか言ってくれなかった。まあその程度の解答しか得られないとはわかっていたが。

本書では18世紀初頭に分岐が起こってたことを論じていて、かつポメランツ氏は分岐の要因を、社会制度や哲学、そして科学革命には求めていない。一定の評価をするが、それでも決定的要因として扱うべきではないとする。
まず東アジアでは労働集約型の産業がメインであるという考えを否定している。すでに東アジアではプロト工業あって、西ヨーロッパと同程度の収益性があったし、また、日本でもよく言われている、中国は中華思想を伝統的にもっていると言われているが、歴史学にこの説が入り込んで、中国でのヨーロッパ品が売れない理由となっているようだ。ポメランツ氏は、日本を含む東アジアでは、ヨーロッパで生産する品は自分たちで生産ができて、別にヨーロッパ産の需要がなかったからということ述べる。
ヨーロッパでは確かに時計などの精密機械は世界で唯一無二の製品で、東アジアに輸入されていたにせよ、数では知れたものだった。
やはりポトシ銀山の銀ぐらいしかヨーロッパは輸出できるものがなかったようだ。
とにかくも、西ヨーロッパでも東アジアでも消費社会がある程度成熟していたし、贅沢品の需要もあった。
などなどまとめようとしたけど、めんどうくさくなってきた。つまりは社会制度や資本投資などで、余剰資本が西ヨーロッパでたまってきて、それが爆発して産業革命がおこったということに異議もだしている。

著者は石炭とアメリカ大陸が分岐をもたらしたと述べている。
石炭はロンドンでとれて、輸送コストがほとんどかからず使用できた点でイギリスには優位に働き、そしてアメリカ大陸は、イギリスが限界に達していた資源をイギリス本土に替わって供給してくれたし、食料もイギリスで生産した工業製品を大量に買ってくれる存在でもあった。
つまり科学技術が発展しようが、それを活用するための環境がなければ蒸気機関の発展もおこらなかった。イギリス以外のヨーロッパの国にも中国にも蒸気機関を活用する術がなかった。彼らが蒸気機関の技術をもっていてもだ。
ヨーロッパの繁栄を、偶然とまでは言わないまでも、分岐が起こる蓋然性を低く見積もっていて、ヨーロッパ文化の優越を否定している。
(石炭は宋の時代にはすでに使われていたけれども、輸送コストが高いために大量に使うことができなかったらしい。)

そして、経済発展というのは環境を人間が食い物にすることであることがよくわかる。ヨーロッパも東アジアも18世紀初頭までには、すでに人口増加と経済面での発展が、資源や居住地は限界にあり停滞していた。そんななかアメリカ大陸がもたらした富は余剰の富をイギリスにもたらしていった。
アメリカ大陸は土地の制約を開放していった。

とは言っても、中国、日本がアメリカ大陸をもっていたとしても、イギリスと同じように産業革命を起こすことができたか、と言えばわからない。著者が言うように「ヨーロッパの奇跡」といってヨーロッパの分岐を16世紀からの始まったとするのも、肯定できないし、そもそも「ヨーロッパの奇跡」ではなくて、「イギリスの奇跡」だ。

2020/01/04

「法駕籠のご寮人さん」司馬遼太郎短篇全集二

山崎烝と三岡八郎は法駕籠で鉢合わせをする。
お婦以は養父母が死に、そして夫に先立たれ、口入れ屋の法駕籠をまかされることになった。松じじいは、女ざかりのお婦以のために、山崎と三岡に話し相手になって欲しいことを伝え、二人は頻繁に法駕籠に通うようになる。
困った山崎と三岡は松じじいの、ここ法駕籠で情報交換をしながら金策をすればいいという提案をうける。
松じじいはお婦以が山崎に恋をしていると思い、手を焼くがお婦以の煮え切らない態度にいらいらしながら、山崎は鳥羽伏見の戦いに向かことになる。
山崎がいなくなったあとも三岡は法駕籠にかよっていた。そんなとき松じじいはある晩にお婦以と男がまぐわっているところを見てしまう。
松じじいは、そこでお婦以は三岡とできていたんだと思ったが、維新後、法駕籠をしめるとき、お婦以は松じじいに、手代の庄吉と一緒になることをいう。

法駕籠が提供する料理が法隆寺料理というのだが、これが聖徳太子の時代の中華料理だという。そんで高野山の精進料理は弘法大師が伝えたもので、唐代の中華料理ということになり、ということは法隆寺料理は日本で保存されている最も古い中華料理ということで、なかなかおもしろい。
この短篇はおもしろいですね。
新撰組の山崎烝と倒幕の三岡八郎が、法駕籠で友情をはぐくむ。
そして松じじいのキャラクターがよくて、おせっかいにも悪推量、そしてお婦以を孫娘のようにかわいがっていて、なんともほほめましい。
最後のオチも、まあ予想はつくものだが、それでも読後感が清々しいもの。
そしてこの短篇に流れる通奏低音が、新撰組も倒幕も商売でしかないという、身も蓋もない。そしてそれに殉じる山崎や三岡のおかしさよ。

2020/01/03

「神々は好色である」司馬遼太郎短篇全集二

葛城ノ山で祀られている一言主命は遠い昔のことを、ニッポン人がまだそういう名前を持っていなかった昔のことをはなしだす。
長脛彦の村の者が、異相の男女を捕えた。一言主命は背が小さく、吉野川ぞいの「国栖ノ人」で長脛彦とは同種族ではないが知恵に長けていた。ナガスネヒコの種族は朝鮮半島から出雲えおへて大和へはいってきた子孫だ。
捕えられた男女は、皮膚は黒くまぶたは二重、鼻はたかく、唇が熱い。それは挑戦種族とは異なっていた。
話を聞くと、彼らは海族であることがわかる。
大和では朝鮮族の種族、アイヌの種族などが仲良くくらしていた。そこに海族の男女がやってきたのだ。
男女は殺される前にまぐわいたいことをもうしでる。一言主命は縄をといて、その最後の願いをかなえてやるように進言する。
男はそのことに感謝しつつ、いずれ海族が大和におりたつことを予言する。まぐあいの後、石で頭を割られて殺されてしまう。

一言主命は長脛彦から難波ノ津に海族の大軍が押し寄せていることをきく。長脛彦は何かいい知恵はないかとききにくる。
長脛彦は、海族が自分たちの神々、天照大神や大国主命などの神々が海族の神々で、もともと豊葦原千五百瑞穂国も海族のものであると主張していると嘆いていた。
一言主は兄である阿太雷に相談し、秘策をたてる。宇陀の天鈿女命にあいにいくことする。
宇陀では巫女だけが大和から隔離されていて、異性に飢えていた。一言主は何度も犯されながらも、一人の巫女にあう。天鎮女は奥手のため、男を力ずくで犯すこともできない。一言主を天鈿女命のもとへ連れて行く。そのとき一言主は天鎮女を愛おしくなり、まぐわう。そして「常世」までも一緒にいることを誓う。
ようやく天鈿女命にあい、事情を話す。
殺し合いは無益、戦後は宇陀の天鈿女命がまぐわいの指令が各部落にいくようにした。出雲族、海族とを一夜にいっせいに合衾させ二種族の混合による新しい種族をつくりあげるという。
一言主は海族の首領、熊のような人相である神日本磐余彦火火出見尊、世にいう神武天皇と会う。
「彼の仕損である日本の硬質は、出雲族とのながいあいだの混血によってすっかり柔和な人相になりはててしまったが、もとをただせば朝潮型の雄渾凛烈たる骨相だったのである」
一言主から美しい出雲の娘があてがわれることを聞いてまんざらでもなさそうな様子。
一言主は首領にたのみ天鎮女だけは、海族とかかわらないようにしてくれと頼む。
海族はつぎつぎに出雲族を攻略していき、そして宇陀の女とまぐあっていった。一言主は約束通り、天鎮女を迎えに行く。
「海鳴りのような。大和のすべての男女が、いま、いのちの営みのなかにある。あたらしい種族が生まれようとしている音だ」
「アタシタチハ?」
「ああおれたちか。おれたちは、あんな大衆とは別だ。初夜は葛城ノ山についてから迎えることにしよう。おれは、いつも、そういう流儀だからな」

ぼくは日本の神話を全然知らないから、この話の元ネタとかあるのかどうかわからない。おそらくは司馬さんのほぼ創作で、出雲族が朝鮮系であり、海族がポリネシア系で、その混合が日本人というのを神話をモチーフに、古事記をもとに大幅な創作をしているもよう。
日本人はどこからやってきたのか、というのは司馬さんにとっては一つのテーマだったと思う。このテーマで長篇小説を書くことはなかったけど、対談やエッセイなんかではとりあげていた。
古代日本については、吉田武教授の本をいくつか読んだくらいでほとんど疎い。古事記研究では、西郷信綱の本を読んだことがあるけど、さっぱり忘れてしまった。正直、資料自体が限られているし、どこまで実証的に考古学として成立っているのかも疑わしい。
おもしろいのは、大和というちっぽけな地域で繰り広げられる話なんですね、これが。なんともスケールの小さい話なんです。
神々が登場していても、彼らも大和盆地で暮らしているし。
司馬さんは、おそらくだけど、この小さい世界観を描きながら日本人の精神性を描こうとしたのかもしれない。どこまでも日本は島国でしかなく、大きな大陸とは異なる思想があるというやつ。司馬さんが、日本史上で世界的な人物としてあげるのは空海ぐらい。

2020/01/02

「下請忍者」司馬遼太郎短篇全集二

伊賀喰代の郷士百地小左衛門配下の下忍猪ノ与次郎は、スグリの娘木津姫と関係をもっており、木津姫から一緒になれるように父にたのんでやると言われるが、平野ノ馬童子と一緒に脱走する。
与次郎らを育てた老忍たちは自分たちの老後の安泰のためにも、与次郎らを必要としていた。というのも老いた忍者はスグリから情けで食わしてもらっている存在でもあるから。
馬は捉えられてしまい、木津姫は自分と一緒になるように馬に説くが、馬は「いろぐるいめ」と罵って拒絶する。
馬の仕置をわら猿、黒傷、柘植ノ妙阿弥がその役をうける。かれら老忍たちは、みづから死をえらぶかたちで馬に切られていく。わら猿はその場から退散し、余生を乞食でもやるながら暮らしていこうときめる。
わら猿は京へでてきて、与次郎とであう。与次郎は群衆に幻術をしているとこだった。わら猿は与次郎に忍びをつづけるようにいい、今川方鵜殿の蒲郡城に行くように提案し、添書をかいてやるという。その代わり、鵜殿の用が終わり次第、伊賀に戻り小左衛門一家を切ることを交換条件にした。
徳川家の鵜殿攻めがはじまり、伊賀者が城に攻めてくる時、馬と小十にあい、与次郎は切り捨てる。
その後、与次郎は伊賀の下忍仲間の復讐の恐怖から伊賀へもどる。
スグリを斬ったところで何も変わらないと諦念がわき、刀をくさむらに捨てる。そこに輿がやってきてのるようにいわれ、いわれるがまま連れて行かれたところで降りると、喰代百地家の屋敷だった。そこに名張服部党の郷士服部孫右衛門がいて、名張服部家の楊志になれと言われ、促されるままいくと、綿帽子をかぶった木津姫がいた。

この短篇は『梟の城』を書いているときと重なる。
ここでも司馬さん特有の人生観がでている。翻弄されたあげくは思いもよらなかったところにでてくる、というやつですね。
「下忍」という概念が、この小説にも暗さをもたらしている。そして老いた忍者たちの末路なんかも悲しいものだし、現在の忍者受容には、その源でもある司馬遼太郎のこの特有の忍者描写の暗さを、不思議にも引き継がれていない。『梟の城』もけっこう暗さとか残酷さがある話なんだけどね。

2020/01/01

「十日の菊」司馬遼太郎短篇全集二

美術骨董商下司安は、敗戦直後の不振期に大量の骨董品を二束三文で購入し、購入するために乞食のような生活をし続けてきた。
昭和三十一年ごろから美術ブームになり、下司安は乞食から億万長者になった。
にもかかわず、下司安は下司安でゆくつもりだった。
下司安は、金持ち相手に商売するために、知り合いの石松に案内され、バー「みお」にいく。そこで乱痴気さわぎを起こす。
「お前も知ってるとおり、小学校しかでへんでえ。せやけどな。酒、ちゅうもんが、酒屋に行ったら売ったァつりゅうことは、ちゃんと知っとる。ところがここへきたら、そのおンなじ酒が、十倍も二十倍にもなりよるわい。差額だけ下司うならなあ、損やないか。相手が暴利屋なら、こっちもその気でいく。」
「どうせわれかて、ドブ板育ちのくせに、舌噛むみたいな言葉使うな。上品ぶるのはわれの趣味かもしれんが、下司ぶるのは、わいの趣味や。どこの世界に、金まで出して人の趣味にあわせにゆくやつがあるかい……何とか物を云え。”空家の雪隠”かい」
「なんですの」
「肥(声)がない、ちゅうこっちゃ」
武田鉄矢の漫談みたいになってる。
下司というなら酒場のマダムもよっぽど下司で、浅はかな事大主義と金儲け主義があるだけじゃないか。下司安の下司は歴とした人生観がある。氷のような孤独がある。
下司安はバーから出入禁止となる。

下司安はマダムの白木恭子に恋したのでは思った。そこで趣味の菊の手入れをしていると、白いスーツを着た小柄の女性が通りかかる。石松の会社の受付をしている曾根
幸子だった。菊の手入れをしている下司安をよくみていて、声をかけてきた。
下司安が育てる菊は品評会でも格調が高いと評判で、しかも鉢は李朝の白磁ときた。
それを下司安は、そんなことを知らない幸子にその場でくれてしまう。

下司安は「みお」にいくと、うってかわって白木恭子は下司安をもてなすと、恭子は下司安が一億円の骨董品を持っていることを知ったのだとわかった。
恭子は投資で失敗をし、借金ができてしまった。そこで下司安に頼んでみると、あっけんく承知してしまう。下司安は恭子を妾にしたりとかではなく、すでに興味をうせていた。ちがう魂胆があった。借金を肩代わりするかわりに「みお」の前の庭に画廊を建てることを恭子に了承させる。

下司安は、幸子にあげた菊を見に行く。十一月三日に品評会があり、それにあわせて丹精に育ててきた。下司安は、どうも幸子に恋をしてしまったようで。
十日目、ベランダから菊は消えていた。幸子は嫁に行く日だった。

なかなかの話でして、司馬さんの小説の常ではあるが、男の純情みたいのをよく描くわけです。一方では女の薄情さを描いたりもするわけです。
おそらくは司馬さん、あんまり女性という生き物が好きではなかったと思われる。
別に、ことさら女の悪口をいうわけでもないのだけれど、にじみでてくる女性性の酷薄さを描くのがおおい。
たとえばこの作品。下司安の純情さとうって変わって、幸子は何も知らないながらも、菊と白磁を手に入れて、下司安には何も言わずに嫁に行っちゃう。
なんのことはないのだけれど、司馬さん、この幸子をたんに物を知らない女とか、純粋そうに描いているけれど、どこか薄情さを残しながら描写しているわけです。
これは司馬さんの女性の描き方にみられる傾向で、まあ読者が男どもを想定しているからというのものあるけど、にしても女性への歩み寄りは司馬さんはあまりしない。
まあそれはいいとして、これも面白い作品でありましたよ。