改めて読むとすごい作品です。1959年に単行本が刊行されているというのだから、いまから半世紀も前なのだ。
安部公房の小説は不気味さがいいわけですね。水棲人間というと、まあふつう人魚みたいのを連想したりするけど、安部公房の場合は鰓をもっていて、しかもこの水棲人間を人間が開発したものにしていることで、グロテスクさが増している。しかも開発しているのが、なんかDr. Strangelove的な感じですし。
堕胎について書いているところで、
「人間が未来的な存在であり、殺人が悪であるのは、その未来を奪いとるためだというのは確かだとしても、未来はあくまでも現在の時間的投影なのである。その現在さえもっていないものの未来に、誰が責任などもちえよう。それではまるで、責任に名をかりて、現実から逃れようとするようなものではないか。」(124)
人間が未来的な存在というのはなかなかで、ハイデガーでありますね。そしてこの責任についてもハイデガーでありますね。本来性を獲得している者は現実を引き受け、責任を負う。しかし、そもそも未来がないのだから責任もへったくれもない。だから堕胎するにあたり、道徳的判断を持ち込むのは想像過剰となる。うへー。
未来とは何か。それは現在の投影なのか、それとも未知なる現在から切り離され、独立した意志なのか。
ソ連の預言機モスクワ2号は、近い将来、32年後の1984年に資本主義社会は没落し、共産主義社会が実現すると預言した。おお、こんなところにジョージ・オーウェル。
そして日本の預言機では共産主義を〈政治・預言・∞〉と理解しているようで、これは「あらゆる予言を知りつくしたうえで現れる、政治の無限次予言、すなわち最大予言値」を意味している。むむ、これはいったいどういうことなのか。あらゆる可能性をさぐっていき、その極にあるものってことか。
未来を考えるとき、人間は純粋に「未来」を考えない。未来は想像の範疇に通常はある。想像を超えたところに本来はあるものだが。人間が言語的な生き物であることがわかる。言語の範囲で想像し語る。
「予言機械をもつことで、世界をますます連続的に、ちょうど鉱物の結晶のように静かで透明なものになると思い込んでいたのに、それはどうやら私の愚かさであったらしい。知るという言葉の正しい意味は、秩序や法則をみることなどではなしに、むしろ混沌を見ることだったのだろうか・・・・・・?」(167)
「耐えなけりゃなりませんよ。その断絶に耐えることが、未来の立場に立つことです・・・・・・」
先生は断絶した未来に耐えられないと判断されて殺さる運命にある。
「プログラミングとは、要するに。質的な現実を、量的な現実に還元してやる操作のことである。」(127)
先生は結局、未来を質的に考えることができなかったのだ。予言機械の論理的帰結は観念でしかない。しかし、それは海底植民地、水棲生物という質的なものに返還されることで、グロテスクとなる。先生はその未来を拒絶し、現在を温存する方へと思考してしまう。
ウイリアム・ジェームズをかりて、「人間は悲しいから泣くのではない、泣くから悲しいのだ」。涙腺がなければ悲しいという感情を知らないのかもしれない。それにたいして先生は、残酷だと思ってしまう。
しかしそれは違う。ここでも先生は未来を現在の自己の投影としてしか見れていない。
ここはちょっと還元論的でいろいろ考えさせるところ。
安部公房が人間を非常にちっぽけなものとして見ているのがうかがえる。所詮は物理的な反射で生きているにすぎないみたい感じでしょうかね。
この小説で貫かれている一種のアンチ・ヒューマニズムで、予言機械の存在自体が人間の思考を越えたものであるし、それが予言した未来なんかすでに人間の世界ではなくなっている。
そして社会システムは、いかにつくられるかの話を飛躍させることもできる。
外部の刺激が人間の心を形成するというのであれば、社会の構造やシステムが人間の行動を形作るわけで、水棲人の社会はモスクワ2号が予言したとおり共産主義なのかも。水に帰ることでしか共産主義を実現できないとなると。
将来、水棲人間がかつての人間にうらみをもつのではないか。
「豚に、豚みたいだと言っても、おこったりしませんよ・・・・・・」
ときたもんだ。
「人間はただ、存在すというるだけで義務をおわされるべきものなのか? ・・・・・・つくったものがつくりだされた者に裁かれるというのが、現実の法則なのであろう・・・・・・」(268)
「未来は、日常的連続感へ、有罪の宣告をする。」(あとがき)
日常の平凡な秩序にこそ大きな罪があり、はっきり自覚しなければならない。未来は本来的に残酷だという。
先生は日常の中で死ぬ。
水棲人間の子供は風の音楽を聴くために陸に立ち上がろうとするが重力で押しつぶされて、地上病で涙をながしながら死ぬ。
未来を生きている者は逆に過去には生きられない。最後の涙は過去への感傷なのか。
蛇足
解説は磯田光一が書いているが、まあ書いている内容よりも、そこに安部はソ連の遺伝学者ルイセンコに依拠しているのではないか、と書いている。
んーどうでしょうね。ルイセンコは、環境が遺伝に影響を及ぼすという主張で、これはアメリカの突然変異が進化を決めるという考えの対極をなしていて、ルイセンコはバーナリゼーションの提唱者でもあり、ソ連の飢饉の元凶をつくった科学者としても有名で、まだこの当時はルイセンコ論争が盛り上がっていなかったのかどうか。
磯田さんは、ルイセンコ説は後天的に環境が遺伝に影響するというふうに書いているが、ちょっとこれはあまりにルイセンコの主張を簡単にしすぎている。この主張だけならルイセンコは疑似科学だと否定されたりはしない。
安部公房は、たしかにルイセンコの説を知っていたと思うが、水棲人間を作り出したのは環境ではなく人間ということもあって、あんまりルイセンコとは関係ないと思われる。
安部公房の小説は不気味さがいいわけですね。水棲人間というと、まあふつう人魚みたいのを連想したりするけど、安部公房の場合は鰓をもっていて、しかもこの水棲人間を人間が開発したものにしていることで、グロテスクさが増している。しかも開発しているのが、なんかDr. Strangelove的な感じですし。
堕胎について書いているところで、
「人間が未来的な存在であり、殺人が悪であるのは、その未来を奪いとるためだというのは確かだとしても、未来はあくまでも現在の時間的投影なのである。その現在さえもっていないものの未来に、誰が責任などもちえよう。それではまるで、責任に名をかりて、現実から逃れようとするようなものではないか。」(124)
人間が未来的な存在というのはなかなかで、ハイデガーでありますね。そしてこの責任についてもハイデガーでありますね。本来性を獲得している者は現実を引き受け、責任を負う。しかし、そもそも未来がないのだから責任もへったくれもない。だから堕胎するにあたり、道徳的判断を持ち込むのは想像過剰となる。うへー。
未来とは何か。それは現在の投影なのか、それとも未知なる現在から切り離され、独立した意志なのか。
ソ連の預言機モスクワ2号は、近い将来、32年後の1984年に資本主義社会は没落し、共産主義社会が実現すると預言した。おお、こんなところにジョージ・オーウェル。
そして日本の預言機では共産主義を〈政治・預言・∞〉と理解しているようで、これは「あらゆる予言を知りつくしたうえで現れる、政治の無限次予言、すなわち最大予言値」を意味している。むむ、これはいったいどういうことなのか。あらゆる可能性をさぐっていき、その極にあるものってことか。
未来を考えるとき、人間は純粋に「未来」を考えない。未来は想像の範疇に通常はある。想像を超えたところに本来はあるものだが。人間が言語的な生き物であることがわかる。言語の範囲で想像し語る。
「予言機械をもつことで、世界をますます連続的に、ちょうど鉱物の結晶のように静かで透明なものになると思い込んでいたのに、それはどうやら私の愚かさであったらしい。知るという言葉の正しい意味は、秩序や法則をみることなどではなしに、むしろ混沌を見ることだったのだろうか・・・・・・?」(167)
「耐えなけりゃなりませんよ。その断絶に耐えることが、未来の立場に立つことです・・・・・・」
先生は断絶した未来に耐えられないと判断されて殺さる運命にある。
「プログラミングとは、要するに。質的な現実を、量的な現実に還元してやる操作のことである。」(127)
先生は結局、未来を質的に考えることができなかったのだ。予言機械の論理的帰結は観念でしかない。しかし、それは海底植民地、水棲生物という質的なものに返還されることで、グロテスクとなる。先生はその未来を拒絶し、現在を温存する方へと思考してしまう。
ウイリアム・ジェームズをかりて、「人間は悲しいから泣くのではない、泣くから悲しいのだ」。涙腺がなければ悲しいという感情を知らないのかもしれない。それにたいして先生は、残酷だと思ってしまう。
しかしそれは違う。ここでも先生は未来を現在の自己の投影としてしか見れていない。
ここはちょっと還元論的でいろいろ考えさせるところ。
安部公房が人間を非常にちっぽけなものとして見ているのがうかがえる。所詮は物理的な反射で生きているにすぎないみたい感じでしょうかね。
この小説で貫かれている一種のアンチ・ヒューマニズムで、予言機械の存在自体が人間の思考を越えたものであるし、それが予言した未来なんかすでに人間の世界ではなくなっている。
そして社会システムは、いかにつくられるかの話を飛躍させることもできる。
外部の刺激が人間の心を形成するというのであれば、社会の構造やシステムが人間の行動を形作るわけで、水棲人の社会はモスクワ2号が予言したとおり共産主義なのかも。水に帰ることでしか共産主義を実現できないとなると。
将来、水棲人間がかつての人間にうらみをもつのではないか。
「豚に、豚みたいだと言っても、おこったりしませんよ・・・・・・」
ときたもんだ。
「人間はただ、存在すというるだけで義務をおわされるべきものなのか? ・・・・・・つくったものがつくりだされた者に裁かれるというのが、現実の法則なのであろう・・・・・・」(268)
「未来は、日常的連続感へ、有罪の宣告をする。」(あとがき)
日常の平凡な秩序にこそ大きな罪があり、はっきり自覚しなければならない。未来は本来的に残酷だという。
先生は日常の中で死ぬ。
水棲人間の子供は風の音楽を聴くために陸に立ち上がろうとするが重力で押しつぶされて、地上病で涙をながしながら死ぬ。
未来を生きている者は逆に過去には生きられない。最後の涙は過去への感傷なのか。
蛇足
解説は磯田光一が書いているが、まあ書いている内容よりも、そこに安部はソ連の遺伝学者ルイセンコに依拠しているのではないか、と書いている。
んーどうでしょうね。ルイセンコは、環境が遺伝に影響を及ぼすという主張で、これはアメリカの突然変異が進化を決めるという考えの対極をなしていて、ルイセンコはバーナリゼーションの提唱者でもあり、ソ連の飢饉の元凶をつくった科学者としても有名で、まだこの当時はルイセンコ論争が盛り上がっていなかったのかどうか。
磯田さんは、ルイセンコ説は後天的に環境が遺伝に影響するというふうに書いているが、ちょっとこれはあまりにルイセンコの主張を簡単にしすぎている。この主張だけならルイセンコは疑似科学だと否定されたりはしない。
安部公房は、たしかにルイセンコの説を知っていたと思うが、水棲人間を作り出したのは環境ではなく人間ということもあって、あんまりルイセンコとは関係ないと思われる。
0 件のコメント:
コメントを投稿