2020/03/16

『楡家の人びと 上下』 北杜夫 新潮文庫

読もう読もうと思い続けて、十数年、ようやく読みはじめる。
第一部は読みすすめながらニヤけてしまう。全体的にユーモアをもって描かれていく。桃子やビリケンさんの存在があまりにもおかしくていいですね。
『さいぜん、ドクトル・メジチーネと聖子のことを礼讃した職人は、夢中で毬と奮闘している桃子を見やりながら、思わずこう呟いた。
「どうもあの下の娘は、あんまりできがよさそうでねえなあ」』
桃子の立ち位置がよくわかるじゃありませんか。
さらに文房部やで消しゴムごときを10個をつけで買ったぐらいで、
「あたしゃ、アナーキストなんだからね」
だとか
「へ、さようでございますか。それはあなた方は学習院出のお姉さまでございましょうからね、へ、てめえら、いってえなにほざいてやがんだ?」
だとか
「へ、なにがたふさぎでございますかよ」
とかいちいちおもしろい。
聖子の哀しさはけっこうさらっと書かれているのだけれど、それが痛いですね。多くの人が聖子と身近の人を重ね合わせたりするんじゃないでしょうかね。

第二部は関東大震災からの復興からはじまり、藍子や徹吉のドイツ留学が描かれていく。楡病院は基一郎の時代を超えるほどの隆盛。
下田の婆やの老いと死。

第三部、太平洋戦争がおこる。楡家の人びとは戦争をなんとなく支持しているし、徹吉は当時のインテリにあるような、欧米への憧れ以上に憎しみをもっている。正義がどうのではなくて、現代の日本人
徹吉の孤独と米国や欧州の世間への諦念。藍子の変わりよう。最後に藍子の変わりよう。
いつのまにか戦争の状況が作り出されていき、一人ひとりが戦争が巻き込まれていく。

市民の物語とは何かといえうと、例えば『北の国から』や『男はつらいよ』などもあるが、これらは、清貧の思想が根底にはあり、なおかつ庶民を醜く描きながら、反面そこに美しい生活を描き、どこか高みの見物を決めこんでいるところがある。なんつーか、『北の国から』も『男はつらいよ』も好きであるんだけど、なんかひっかかるんですね。
まあいいや。
とにかく『楡家の人びと』は一線を画している。
解説を辻邦生が書いていて、ここに書かれていることがすべてかと思う。『楡家の人びと』は「市民的な作品」と位置づけている。つまり、あるべき自己や、自身への嫌悪、モラルを問う作品ではない。
「われわれは、言わば火の燃えさかる暖炉の前にゆっくり坐って、この現実の生をあるがままにこころゆくまで愛好し、たのしむことをしなかった。人間の愚かしさ、騒々しさ、軽薄さ、図々しさを人間らしい弱点として愛することをしなかった。人間が生き、迷い、喋り、ぺてんにかけ、見栄をはり、笑い、失望し、死ぬ姿を、そのままで「よし」として腕に抱きしめることができなかった。つまり俗人性や凡庸性を愛したり、それに魅了されたりすることがなかった。」

また十年後ぐらいにでも読んでみようかな。

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