2019/02/28

『神の罠 浅野和三郎、近代知性の悲劇』松本健一 新潮社

浅野和三郎の評伝はこれ唯一と言ってもいい、貴重な一冊。
「ふるさと」、「原郷(パトリ)」の喪失と近代日本を絡めて論じるのは松本さんのいつものやり方。
この本は、松本さんの評伝関係ではあまりできがよくないとは思う。題名の「神の罠」というのは、ちょいと違うのではないかな、「罠」というものでもないとは思う。
それに、浅野和三郎が大本に入るきっかけが、次男の病であるのはいいのだけれど、明治の知識人たる浅野が神霊を信じる過程がやはり物足りない。科学を信奉する浅野には、ラフカディオ・ハーンの影響があり、これが伏線にはなっている。ただし、ここはもっと掘り下げるべきところなのかと思う。太田龍は陰謀論へ、景山民夫は幸福の科学へ、などインテリが陰謀論やオカルト、そして宗教へ向かうことがある。立花隆も死後体験をとおして、体外離脱などに一時期関心をよせていた。なぜ浅野は、大本のイデオローグを経て心霊研究に邁進していったのか。松本さんはポストモダン思想との関連を匂わせているが、結局あまり論じられなかった。明治から大正を生きた浅野が体験した時代の流れと、1980年代から90年代にかけての日本の知の変遷がどうつながるのか。
浅野の書いた、近代日本スピリチュアリズムの原点『小桜姫物語』はまだ読んだことがない。序文を土井晩翠が書いているのも驚き。豊島与志雄の名前が出てきた。学生の頃に豊島さん訳の『レ・ミゼラブル』『千一夜物語』を根性いれて読んだ。豊島さんが書いた小説や随筆は読んだことがない。心霊研究所に参加していたとは。秋山真之もそうだが、明治軍人や多くの知識人が大本教などの新興宗教に傾倒していった。なんでだろう。
浅野が出口なおを敬愛し続け、王仁三郎とは遠ざかったというのは、やはり王仁三郎の山師的なところが浅野のような真面目な人間には受けがよくないのかもしれない。本書で、浅野がなおとはじめて会った際の思い出が引用されているが、非常にいい文章だった。僕も王仁三郎はおもしろい人物だなあと思うのだけど、どうもカリオストロ的人物に見え、なおのほうが人間味を感じてしまう。

2019/02/27

『超心理学 封印された超常現象の科学』 石川幹人 紀伊国屋書店

いわゆる超能力は存在するのかどうか。僕はあると考えている。というのも、あらゆる生物は皆特殊な能力をもっているわけで、超音波で使う奴、低周波を使う奴、匂いだけで認識する奴、人間には見ることができないスペクトルを認識できる奴もいる。人間にももしかしたら、ちょっとした変異で赤外線をつかえたり、超音波をつかえたりできるかもしれない。それは、微々たる力かもしれないけども可能性はある。
この世の原則は因果関係で、ある結果はある原因によって引き起こされるものであって、無から現象は生じない。超能力というのも物理現象として捉えればいい。それで証明する方法を確立しなければならないが、それがなかなか難しいことが本書を読んでわかる。
科学は再現可能でなければならない、というけど、これって難しいと思う。だいいち再現可能かどうかの環境を設定すること自体が難しいことだろうし。否定派がいてもいいけれども、もうちっと歩み寄ることはできないのかな。
特定の時間、特定の場所、特定の心理状況のみで、能力が発揮されることは普通に考えてありえる。ただし、それをラボレベルで実現できるかというと話が違う。ピアニストは最高の演奏ができる環境は、コンサートホールの湿度や温度、響き具合だけでなく、演奏者の心理状況も大きく作用するからだ。観客はその場を共有して、全員ではないけども大半がその演奏に感動することがある。この演奏は再現性もないわけで。だけども観客はそれを共有してしまっているわけ。演奏は存在している。僕らは常に再現性の世界のなかで生きているわけでない。ピアニストであればピアノがあればピアノを演奏できるが、その演奏が観客を魅了させることができるかとは、わけが違う。
と考えると、科学的手法を用いている心理学の実験は、けっこう特殊な条件のもとでやらされているのだともわかる。はっきり言って、心理学の場合、実験室の結果と現実世界との整合性はどうやって担保しているのだろうか。僕はそのあたり全然うとい。
と、まあつらつら書いてみたけど、ピアノの例はちょっと違うのかな、と思わないわけでもないけど、本書を読んでいて通常の心理学が扱っている世界ってかなりせまいのだなと思った。だって実験室で再現性がないとその存在が認められないってのはわかるんだけど、それって誰が実験するかでも違うし、これは物理学、生物学とかでも同じだし。それに物理学も生物学も実験室で再現できないからって頭ごなしに否定はしないと思う。実際、僕の経験上、実験室で失敗した場合、論文を疑う前に自分の実験方法の不備をまず疑う技術者しか知らない。
ガンツフェルト実験というのを本書で紹介している。外部からは超心理学はトンデモと見られてしまうし、実際にそれに近い研究もあり、そのような懐疑の目に鍛えられて、非常に厳しい実験環境を整え、それを実施してきているらしい。その結果は有意な結果がでているらしいが、超能力の存在を明確に指示する結果はまだないようだ。
微々たる力しかないかもしれないけど、秘める人間の能力っておもしろいとおもうのだけどな。
たとえ証明されても、人間の超能力ってのはしょせんそんな程度の弱い力だってことなのかもしれない。結局、本書で言うように実験室レベルではなかなか発現しなようだし。ファンタジーのように自由自在ではないということだ。
あとは科学を語る一部の人間が、科学にあまりに厳密性を持ち込みすぎているとも思うけどね。
超心理学の成果がどんなものなのか、さらっと読むにはいいと思うけど、超能力や魔術が実在していると信じる僕みたいな人間にとっては、超能力ってこんなものなのかとがっかりするだろう内容。くそーレールガンつかえねーのかよ。

2019/02/26

『饅頭伝来記』司馬遼太郎短篇全集一

 饅頭伝来記

名品。臨済宗の竜山和尚の弟子、浄因は饅頭を作ることだけが取り柄。浄因は捨て子で、竜山に育てられるのだが、その竜山の愛情が嫌になり、女犯におよび子を孕ませる。竜山は浄因をつれ日本への帰国を決意する。日本に来てから浄因はやることもないので子供に饅頭をつくってやってたら話題になり、時の帝の耳にもいき、帝から妻を娶るようにすすめられる。そんなこんなで月日が流れ、竜山の死をきっかけに姿を消してしまう。
おもしろかったなあ。浄因が子供たちに饅頭をはじめて食べさせたところで。子供たちのセリフが
「おっそろしく、甘え」
ここが、この小説のカタルシス。そして、浄因の女房が夫の無知を嘆くところで
「あなたは唐土の人と聞いたから、さぞ高い教養をお持ちだろうと思ったのに、ただの職人ではありませんか」
と吐かせ舌打ちをしたとするところは愉快だった。内容自体は愉快ではないのだが、文章のリズムで、どうも面白可笑しく書いているんじゃないかと思ってしまう。たぶん笑いを誘うためにこんなセリフを入れたと思うが。
竜山の人物描写もすばらしくて、まさに僕らが思い浮かべる禅僧を描いている。煩悩に負けて浄因を育てる心境や、浄因の子を孕んでいる娘には悪いと知りながら自分の都合で浄因を日本に連れて行くとするところ、ちょっとした記述から禅僧としての竜山の人となりがでてくる。冒頭の竜山が、虚石和尚の腕から浄因をひったっくて走っていくところもいい。禅僧が走るというのはなかなかおもしろい。
「あっはっはっはっはっ。わかっておって、なぜ拾った。なぜ叩き殺さぬ。竜山っ、助平! あっはっはっはっ」
煩悩をもつ人間を肯定的に描写している。そんな人間のおかしみがなす短篇だった。

2019/02/25

『生き残った帝国ビザンティン』井上浩一 講談社学術文庫

ビザンツ入門書として最良。簡潔にして要点をおさえている。ローマの継いでいながらも、ラテン語ではなくギリシア語を用いたり、元老院があるが専制君主制であったり、「パンとサーカス」も時代が進むに連れて、イスラーム勢力によってエジプトなどの属州が奪われたりで実施できなくなるが皇帝即位の際には配給したり、と建前はローマだが本音は現実にそくして柔軟に対応していったという。
ローマ帝国が面白いのが、たしかに親から子へと皇位が移るのだが、ときに支持を集められずに他の血統が皇帝となってしまう。にもかかわらず「ローマ帝国」のアイデンティティは保たれる。東アジアでは血が変われば王朝が変わりアイデンティティも変わる。まあ西ヨーロッパもだけど。かつてローマ帝国の政体を理解できなかった。
ビザンツ帝国では、内輪もめが盛んで、宮中の陰謀やらクーデターが盛んだったよう。それでもときにはそのことが帝国の新陳代謝を促進し、千年の長き歴史を築くことができたともいう。そしてたとえ政変が起きても帝国を維持できたのは、能力の高い官僚がいたからと。
しかし、いつのまにか帝国は弱体化していき、11世紀頃ローマ教会のほうが力が強くなっていたようで、1204年第四回十字軍は、まさにコンスタンティノープルからの要請による遠征だった。にもかかわらず、逆に十字軍にコンスタンティノープルは占拠される。しかも占拠のされ方が、情けなくてヴェネチアに翻弄され、自らコンスタンティノープルを十字軍に明け渡してしまった感じだ。亡命政府ニカイア帝国はミカエル8世パレオロゴスのもとで再びコンスタンティノープルを奪還したが、かつての隆盛を取り戻すことがなかった。その落日のなかで、哲学、文学、科学、芸術の分野が花開きルネサンスが起こる。やはり斜陽の時代になると文芸などは盛んになる模様で、清朝末期もまさに哲学や文学などが盛んになった。ミネルヴァの梟は黄昏時に飛びたつ。

そういえば、夢枕獏の小説『シナン』を思い出す。スィナンはハギア・ソフィア「アヤソフィア」にあこがれて、スレイマニエ・モスクを建てる。スィナンはイエニチェリでイスラームに改宗した元キリスト教徒とされている。出自がトルコ人かどうかが問題になっているようで、トルコでは彼はトルコ人としているとかなんとか。でも、何人でもいいじゃんと思うのだけど。オスマン帝国はトルコ人が皇帝だったが、民族の出自を関係なく有能な人物を採用していた、その事実だけでオスマン帝国の偉大さがわかるのに。現代では考えられない寛容さが実現していたのだから。

2019/02/24

Brahms, Piano Concerto No. 1 Maurizio Pollini, Karl Böhm, Deutsche Grammophon, 28MG 0006, 2531 294/ブラームス ピアノ協奏曲第一番 ポリーニ、ベーム


Johannes Brahms
Klavierkonzert · Piano Concerto No. 1
Maurizio Pollini, Karl Böhm
Wiener Philharmoniker
Deutsche Grammophon, 28MG 0006, 2531 294, 1980

ベームとポリーニによるブラームスのピアノ協奏曲第一番。安く買えたのでよかった。
第一楽章、ベーム指揮によるオーケストラの導入は、やはり往年のベームらしく重厚かつ、しっとりしている。
が、そしてポリーニのあのメカニカルなピアノが始まる。ポリーニのピアノの安定感がいい。ブラームスの音楽がもつ、どこか童貞くさいところが、ポリーニのピアノで換骨奪胎できている。なので、人によっては「浅く」感じられてしまうのも否めない。ただそれがポリーニのよさなんだとは思う。とくに第三楽章はポリーニのピアノがいきいきと、力強い打鍵で、繰り広げられていく。これはやはりポリーニのピアノ技術があってのものだろう。感情は抑制されており、ロマン派の音楽がロマンティックに聴こえない。
内に秘める童貞の執念というか、鬱屈した気持ちが、ブラームの音楽を作りあげていて、それはもう僕が童貞だったころはブラームスに耽溺したものだ。だから昔はポリーニの演奏を好きではなかったし、求めていた音はもっと悶々としたくねくねした演奏だった。かつてブラームスのピアノ協奏曲第一番はアラウとハイティンクのものを好んで聴いていた。ハイティンクの指揮では導入部が、もうなんというか重々しくって、感傷的な感情とよくリンクさせていたものだ。僕って不幸だぜ、みたい感じで。
この演奏はピアノについてはその油っこさがない。しかしオーケストラにはそのピアノに負けないくらいの情念が宿っている。かといって過剰にならないのがベームのいいところだ。節度を守り、自らを律する音楽を構築している。なかなかな快演だ。いまの僕にとって、この「浅さ」がちょうどいい。
ああ、こころ一すじに、ブラームスにうちこめる、そんな日がふたたび来ないものだろうか。

2019/02/23

『長安の夕映え 父母恩重経ものがたり』司馬遼太郎短篇全集一

長安の夕映え 父母恩重経ものがたり(1952)

天竺の僧が死ぬ前に、衛兵に父母恩重経を授けるという話。この父母(ぶも)恩重経は儒教的な要素が濃いが、それを普遍的な親不孝へと昇華させている。まあ、読むものには耳が痛いだろうし、衛兵が途中でやめてくれと懇願するのもうなずける。お経をいうのは、やはり呪なのだと思った。そして呪は人の弱みをつくものなんだな。

2019/02/22

『ラケス 勇気について プラトン対話篇』プラトン 三嶋輝夫訳 講談社学術文庫

子供たちを立派な人間にするために、どうすればいいのか。とりあえず、立派な大人に師事したことがある人物、もしくは立派な大人に育て上げた人に教えを請うのがいい。
まず徳を説くために、その一部である勇気について考察しようという。そこで何かを説くためには、それが何であるかを知らなければならない。勇気を知らなければ勇気を語ることができない。
ラケス曰く、勇気は「何かに対する忍耐強さ」であると、もっと言えば「思慮ある忍耐強さ」である。
ソクラテスが言う、それでは不十分で、将来必ず儲かるとわかっていて投資し続けることは勇気か。違う。「思慮をもって」というのは、間違っているのではないか。それでは思慮を欠いたものが勇気であるのかもしれない。そこで問題がある。勇気は賞賛されるものであり、徳の一部であるというのは皆が了解している。「思慮をもたない」となるとそれば、愚か者ではないのか。
ニキアス「知っていることに関しては優れた者であるが、知らないことについては愚者である」とすれば、勇気ある者が優れているとすれば、彼は勇気が何であるかを知っているのである。勇気とは「恐ろしいこと」と「平気なこと」を知っていることではないか。
ソクラテスは言う、「恐ろしいこと」「平気なこと」という判断は、将来の善悪の判断も含まれている。そして、それは過去、現在をも内包する知識となる。ということは、勇気を知るものは、節度、正義、敬虔を知るものである。ゆえに勇気は徳の一部というよりも全体を言っていることになる。しかし、勇気は徳の一部ならば、矛盾してしまう。アポリアである。

なかなか面白いものなのだが、やはり言葉遊びの感はぬぐえない。まず、勇気が徳の一部であるという前提をおいているので、結局はアポリアになるようになっている。
あと訳については、岩波の全集のほうがいい。古典ということもあり、古代ギリシアの文献を訳すということもあり、非常に訳が逐語的。これは岩波版でもそうだが、三嶋氏はさらに逐語的。代名詞なんかもわかりにくい。古典を訳すうえで、なるべく直訳で、というのは理解できるが、そうすればそうするほど読者は離れていってしまう。それほど直訳的に訳す必要はないとは思う。だいいち翻訳を読むのは専門家意外が大半で、専門家は原語を読むわけだ。
この訳書を読んで文学的な香りを楽しむことはできない。もう少し格調高い翻訳にはならないものか。

2019/02/19

『流亡の伝道僧』司馬遼太郎短篇全集一

『流亡の伝道僧』(1952)

満州で会った、真宗の僧侶のお話。元兵隊で「人として人を殺す権利」なんかないと思い詰めて、軍を辞めて出家。その後中国人、モンゴル人に説法して旅をしていたという。その説法がなかなか独りよがりで、相手が聞いているのかどうかは頓着しない。風のうわさで、シベリアからの引き揚げの際に、それっぽい人間に偶然会って拳銃を突きつけられながら、病人を車にのせるように頼まれたという話を聞く。その後の消息はない。
1952年といえば、シベリア引揚げが歴史ではなく、まさに昨日のことのように近い出来事であったわけで、当時けっこう生生しい話題だったのかなと思う。この僧侶の人間嫌いが司馬遼太郎の人間嫌いとなんか一致すると思う。

2019/02/18

『勝村権兵衛のこと』司馬遼太郎短篇全集一

『勝村権兵衛のこと』(1952)

惚れた女を盗られて、それを追って脱藩して、盗っていった男と偶然会って、切り殺す。そこで後悔の念に掻き立てられ、死者へ念仏をする。ずっと念仏を続けて明治になって監獄で囚人に念仏を上げ続ける沙門になったという話。
まあどってことはない話なんだが、これもやはり読ませるものがある。落語と同じで、話自体どうってことがない。特に説教するわけでもないし、人生訓を垂れているわけでもない。
それにしても読後の寂莫とした風景が広がる。

2019/02/16

Giacomo Carissimi Jephté Et Trois Motets Solistes, Michel Corboz Erato, STU 70688/カリッシミ『イェフタ』 ミシェル・コルボ


Giacomo Carissimi
Jephté 
Et Trois Motets
Solistes, Choeurs & Orchestre De La Fondation Gulbenkian De Lisbonne
Michel Corboz
Erato, STU 70688, France

ジャコモ・カリッシミのオラトリオ『イェフタ』。1648年に作曲ということなので、なんと400年前。ミシェル・コルボの指揮。聞いたこともないし、レコード店で検索したら、旧約聖書のイェフタの話のオラトリオだというから、面白そうだなと思い買った。
音楽自体、非常によいもので、当初レコードの解説はフランス語だけだし、歌詞もないし、なんだかさっぱりわからないが、ああここで娘が生贄にされることをなげいているんだなと音楽でわかったりで十分楽しめた。
でも、いまのところ僕にとって知識程度の音楽でしかないかな。たしかに良い曲だし、イェフタとその娘の悲劇がここまでフォーカスできているのはやはりすごい。"Resonate!"とソプラノが共鳴するところなんかは、美しいかぎりだ。それでも何度も聞きたくなるかというとそこまでではない。おそらく、ぼくの感性がそこまで追いついていないのかもしれない。モーツァルトを楽しめるようになったのも随分時間がたってからだし。いずれ心から楽しめるときが来るかもしれない。
ということでhttp://www.jamescsliu.com/classical/Carissimi_Jephte.htmlを参考にした。いちおう訳してみた。
まあ、よくわからないところもあるけど、概略はわかったからまあいっか。興味深いのが、カリッシミとバッハやヘンデルの違いで、バッハたちは聖書に忠実ってのはたしかになと。マタイ受難曲なんて、いまでも思うのが、なぜそんなに聖書に一語一語忠実に歌うのかなと、もっと曲に合うように変えてもいいと思っていたものだ。

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コラール音楽について ジャコモ・カリッシミ『イェフタ』

カリッシミとオラトリオの誕生
ジョコモ・カリッシミ(1605-1674)の人生は平凡さでは際立っている。1605年4月にローマの丘の郊外であるマリノで生まれた。十代のとき、ティボリ大聖堂の聖歌隊に参加して、19歳でオルガン奏者となる。1628年にはアッシジの聖ラフィーノ教会で音楽監督(maestro di cappella)になる。そして1629年12月には、24歳にして、ローマのドイツ大学(German Callege)*1に教師の地位とサンタポリナーレの大学の教会での音楽監督を得た。彼が1674年にローマで亡くなるまで44年間その職をとどまっていた。
ドイツ大学は1552年にドイツ語圏のプロテスタントの地での宣教活動するイエズス会の司祭を訓練するために設立された。1570年台までにはルネサンスの偉人トマス・ルイス・デ・ビクトリア*2のような音楽監督のもとでドイツ音楽や音楽家を育む後継者を育てていた。1608年までに枢機卿、大使、司祭などサンタポリナーレで教会の職務に参加していたことが、いくつかの報告で書かれている、なぜならそこには素晴らしい音楽があり、カリッシミの時代をとおしてその名声は確固たるものだった。
カリッシミは作曲家として音楽家として卓越した能力を忌憚なく披露したが、その才能と同じぐらい野心も欠けていたことで調和がとれていた。ドイツ大学が多くが望む安定した職であり、彼の人生では少なくとも三度、別の場所での主要な職への提示を断っていたことがわかっている(1643年、クラウディオ・モンテヴェルディの死後、ヴェネツィアのサン・マルコ寺院の後釜を含む)。カリッシミは1629年以降決していかなる地位へも申し出ることがなかった。そしてまた自分自身を貴族たちに売り込む必要性を感じていなかったのだ。1773年にイエズス会は禁止され*3、約30年後にナポレオン軍がローマに侵攻し、ドイツ大学の公式記録や手稿は破壊された。結果、カリッシミの公的な業務についてほとんど資料がのこされておらず、現在知られている曲はパピルスに書かれている複写のみである。
カリッシミが成長し続けていたオラトリオ会(Congregation of the Oratory)*4で熱心に働いていたことを知られていない。この会はPhilio Neriが1540年台に組織した祈りを捧げる信徒(lay worshipper)の集団だ。Neriは一般市民を非公式の霊操(spiritual exercises)*5で教育し、改宗させようとしていた。この霊操には口語による説教やその土地の言葉で催される聖書の物語を劇にすることを含み、一般信徒たちへの聖書の話の重要性を説くことが目的だった。この集団や霊操はすぐに祈祷室(イタリア語でオラトリオ)と名付けられた。彼等はこの祈祷室で会っていたのである。音楽劇が叙唱(レチタティーヴォ)のやり方を借りてきて、通奏低音を伴うアリアを組み入れて始まった。そして1620年代までには、オラトリオは衣装や舞台上の演技を省いたオペラの一種となっていた。オラトリオのみが四旬節の間で上演を許された音楽だった。これはさらに、オペラに熱中していた市民たちを満足させるようにデザインされた音楽へと発展していく。

『イェフタ』の構成について
オラトリオはすぐにローマの多くの教会で演奏されたが、傑作のいくつかは磔刑の祈祷堂(Oratorio del Santissimo Crocifisso)でラテン語で行われた。カリッシミは少なくとも四旬節でこの祈祷堂でオラトリオを指揮している。おそらくサンタポリナーレとドイツ大学の演奏家を使っていたと考えられる。カリッシミは1650年にはラテン語のオラトリオの達人になっていて、彼の最も素晴らしいオラトリオ形式の曲『イェフタ』は、学者アタナシウス・キルヒャーの影響力のあった『普遍音楽』のなかで、その力は「聴衆の心を彼が望むいかなる感情へ」と誘うと言及している。結果、1649年までにオラトリオは作曲されたことがわかるが、それはいつ作曲され、誰が歌詞を書いたかをはっきりとはわからない。
イェフタの物語は旧約聖書の士師記10:6から12:7にある。士師記はヨシュアの後の世代における、カナンへの移住の歴史が書かれている。士師記はさまざまな英雄やカナン人の地におけるイスラエル人の支配を確立するための戦った士師(エフド、デボラ、ギデオン、イェフタ、サムソン)について書き留められている。イェフタの物語は主に三つの節からなっている。イェフタの出生と追放、アンモン人との戦いの勝利、そしてエフライム人との戦いの勝利である。カリッシミのオラトリオはアンモン人との戦いの途中のみを扱っている。
オリジナルの断章ではイェフタはギレアド人と売春婦との子と書かれている。イェフタの父は結果的に結婚し、幾人かの法的に認められた子供がいた。これらの異母兄弟はイェフタをギリアドから追放し、父の相続を庶出を理由に否定した。イェフタは放浪しながらならず者となる。ずる賢く卓越した戦士へと育つ。そしてアンモン人がギレアドを脅かした時、部族の長老たちはイェフタに戻ってくるように懇願し、ギレアドを戦いへと導いてくれるようにお願いした。そしてお返しにギレアドの支配を彼に委ねることを約束したのである。イェフタはこの申し入れを受け入れ、アンモン人の王へ、なぜギレアドを攻撃するのかと問うために使者を送った。王は、ギレアドは正しく自分のものであり、イスラエル人は望まれない侵略者であることを主張した。イェフタは民数記に書かれている、荒野をさまよったイスラエル人ののこと、イスラエルの民のために神が介入された物語を語った。イェフタは神の裁きでギレアドは正しくイスラエル人のものであると主張した(多くのこの手の議論は5000年間、変わっていないようである)。
カリッシミのオラトリオはウルガタ聖書のテキストを使っている。イェフタは、もし神がアンモン人に勝たせてもらえるならば、家に帰ったとき最初に自分にあった人物を神に献げることをすぐに誓う。イェフタはギレアドを勝利に導き、歓喜にわいた。しかし、家に帰ると彼を最初に迎えたのは、イェフタの唯一の子、処女の一人娘だった。イェフタは激情にかられた神への宣誓に後悔したが、それを行動に移さなければならない。山々に登り自分の運命を泣き悲しみたいという娘の最後の願いを聞き入れた(聖書時代、全てのヘブライの娘は子供を手塩にかけて育てた。もしかすると子供の内誰かが預言者となるかもしれないからだ。だからイェフタの娘は死を恥じた。子供をなさず死ぬからである)。娘は感動的な哀歌(lament)を歌い、このオラトリオは悲しみに満ちた哀歌の合唱で終わる。
士師記はイェフタについてもう一つ別の話を語っている。その中で、エフライム人の男たちは、アンモン人との戦いで参加することを自分らに呼びかけられなかったことに腹を立てギレアド人に戦いを挑んだ。イェフタはエフラム人をも討ちとり、ヨルダン川まで領土を拡大した。そして、ヨルダン川を渡る際、エフラム人が発音できない合言葉「shibboleth」を使うことで、エフラム人の難民をひっ捕らえたのである。
カリッシミのやり方は、声楽、楽器の使い方でオラトリオ形式の手本となった。朗読者は聖書の物語を語り、ときにはオリジナルのテキストから直接引用した。登場人物はソロの歌い手が担い、そして同じように聖書から直接引用することもある。モンテヴェルディのレチタティーヴォ(通奏低音を伴う逐語的なやり方)やアリオーソ(フレーズを繰り返す叙情的な方法や感情的な効果へ誘うより複雑で音楽的な修辞方法)の技法を使っている。合唱はさまざまな登場人物を描写し、その場面に対し反応しコメントをする。ほとんどの演奏では30分にも満たない簡潔さについて、この作品は、(原型的音楽的雰囲気という/prototypical musica moods**さっぱり意味がわからない)模範的な音楽描写をそなえている。戦闘場面、勝利の歌、痛ましい場面、そして悲痛な哀歌を含んでいるのである。カリッシミはこれらの雰囲気を作り出すために多くの音楽装置を用いた(例えば最後の合唱の哀歌で、徐々に下がっていくバスの音、そして激しい半音階的な勝利の歌と不協和音を伴った哀歌が何も支障もなく調和している)。この音楽的な修辞方法は後のオラトリオでは標準的なものとなったのである。
しかし、カリッシミのオラトリオは、例えばバッハやヘンデルのオラトリオとは異なっているところが多くある(ヘンデルは実際この同じ話を自分のオラトリオで作曲している。ヘンデルの台本はその差異が明白だ)。例えば、後のオラトリオではパートごとでソリストがいて、通常テノールは聖書の朗読者だ。イェフタでは朗読者の役割は、3人の異なったソリストが交代で行い、時には数人で異なるパートで同時に歌い上げることもある。さらにカリッシミのオラトリオは、バッハやヘンデルが作曲するような描かれている出来事への聴衆の個人的な感情を描写し、表現力に満ちた長いアリアはない。実際、最後の哀歌をのぞけば、このオラトリオにおいてテキストの繰り返しがない。
『イェフタ』の脚本家は、劇的で明快にするため聖書の物語を変えた。バッハやヘンデルは、彼らのオペラのようなアリア、劇的な合唱曲においても、聖書に非常に忠実なのである。カリッシミのテキストは話を先に進むことができない、長々とした連ねた街の名前を除いた。聖書の物語に加えられたのは、イスラエルの勝利を劇的に盛り上げること、イェフタの娘による勝利の歌で、そうすることでイェフタと娘の間の対話を肉付けし、なぜ誓いは実行されねばならないのかを具体的にした。そして娘が自らの悲運な運命を嘆く、最も際立って感動的な哀歌が加えられた。そのテキストは、勝利と諦念(woeful abandonment)を表した詩篇を思い起こさせるものだ。
対話と哀歌はこの物語の力点を少しずらす。士師記のオリジナルの話は、ギリシア悲劇やグリム童話のように読まれ、追放された息子が勝利の英雄として帰ってくることで、彼の願いが実現されるという残酷なアイロニーへと犠牲者を落とし込む(対価として、自らの残酷な約束を実行せねばならない)。対話や哀歌のテキストは、unigenita(一人っ子)という言葉を繰り返し、そして無垢な子供が自らの意志で救国と、王になることを望んでいる父の栄光のために生贄になるというイメージを強調した。unigenitaという単語はミサ曲のラテン語のテキストで、イエスを描写するために使われているのである(たとえばグロリアやクレド)。無垢であることは、究極的な生贄が偉大なイエスの父の勝利を導き、永遠の王国を築くのに必要であると書かれている。このようにカリッシミの改変は旧約聖書をある種新約聖書の説教へと変え、四句節にふさわしいオペラとなっているのである。

*1 Collegium Germanicum さて、なんだかよくわからない。https://en.wikipedia.org/wiki/Collegio_Teutonicoには1399年設立されたと書かれているけど。同じものかどうか、調べるのは億劫なので、いずれ。
*2 Tomas Luis De Victoria 正直はじめて聞いた名前。スペイン出身のパレストリーナに次ぐ音楽家とのこと。
*3 クレメンス14世によってドミヌス・アク・レデンプトール (Dominus ac Redemptor)が発布されてイエズス会は禁止となる。1824年教皇ピウス7世によって復興。
*4 オラトリオ会。ネリが組織した。オラトリオはもとラテン語で「祈祷室」の意味。
*5 イグナティウス・デ・ロヨラによって始められた霊性修行法

テキストと翻訳
*こちらはリンク先を元にしているが、逐語的なものは省いた。ラテン語のテキスト、New American Standard Bible、そして僕の方で新共同訳をさらに付け加えるつつ、僕なりに改めてしまっている。ラテン語はウルガタ聖書をもとであるし、上記の記事にもあるように聖書のオリジナルのテキスト自体を改変している。自由詩については、僕が英訳をもとに訳している。聖書が参考にできるところは間違いないだろうけど、自由詩の部分でどうしてもよく訳せないので、まあテキトーになっている。まあ英訳を参考にするほうが無難でしょう。

1.Historicus 
recitative 
solo Alto 
Judges 11:28-30
Cum vocasset in proelium filios 
Israel rex filiorum Ammon 
et verbis Jephte acquiescere noluisset, 
factus est super Jephte Spiritus Domini 
et progressus ad filios Ammon 
votum vovit Domini dicens:

When the king of the children of Ammon 
made war against the children of Israel, 
and disregarded Jephthah's message, 
the Spirit of the Lord came upon Jephthah 
and he went on to the children of Ammon, 
and made a vow to the Lord, saying: 

アンモン人の王はイスラエル人に戦争を仕掛けようとしたとき、
イェフタの言葉を聞こうとはしなかった。
主の霊がエフタに臨み、アンモン人に向かって兵を進め、
主に誓いを立てて言った。

2.Jephte 
recitative 
solo Tenor 
Judges 11:30-31
"Si tradiderit Dominus filios Ammon 
in manus meas, quicumque primus 
de domo mea occurrerit mihi, 
offeram illum Domino in holocaustum." 

"If You will indeed give the sons of Ammon 
into my hand, then whoever comes first 
out of the doors of my house to meet me, 
I will offer him to the Lord as a complete sacrifice." 

もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるなら、
わたしの家の戸口からわたしを迎えに出てくる者を
主のものといたします。

3.Chorus à 6
narrative 
Judges 11:32
Transivit ergo Jephte ad filios Ammon, 
ut in spiritu forti et virtute Domini 
pugnaret contra eos.

So Jephthah crossed over to the sons of Ammon 
with the spirit, strength, and valor of the Lord 
to fight against them.

こうしてイェフタは進んでいき、主の霊と力と勇気をもって、アンモン人と戦った

4.Historicus à 2 
narrative 
solo Soprano 1 & 2 
Et clangebant tubae et personabant tympana 
et proelium commissum est adversus Ammon. 

And the trumpets sounded, and the drums resounded, 
and battle against Ammon ensued. 

トランペットが鳴り、太鼓の音が鳴り響き、アンモン人との戦いは続いた。

5.Solo 
arioso 
solo Bass 
Fugite, cedite, impii, perite gentes, 
occumbite in gladio. Dominus exercituum 
in proelium surrexit et pugnat contra vos. 

Flee and give way, godless ones; perish, foreigners! 
Fall before our swords, for the Lord of Hosts has raised 
up an army, and fights against you. 

逃げろ、道をあけろ、神をもたない者たちよ、死ぬがいい、異邦人ども!
われの剣の前で倒れるがいい、わが主が軍をもって、お前たちと戦うのだ。

6.Chorus à 6
address 
Fugite, cedite, impii, corruite, 
et in furore gladii dissipamini. 

Flee, give way, godless ones! Fall down! 
And with our raging swords, be scattered! 

逃げろ、道をあけろ、神をもたない者たちよ、われらの怒りの剣で、散るがいい

7.Historicus 
recitative 
solo Soprano 
Judges 11:33
Et percussit Jephte viginti civitates Ammon 
plaga magna nimis. 

And Jephthah struck twenty cities of Ammon 
with a very great slaughter. 

そしてアンモン人の二十の町を、徹底的に撃った

8.Historicus à 3 
narrative 
solo Soprano 1 & 2, Alto 
Judges 11:33:
Et ululantes filii Ammon, facti sunt 
coram filiis Israel humiliati.

And the children of Ammon howled, 
and were brought low before the children of Israel.

アンモン人は遠吠えし、イスラエルの人々に屈服した

9.Historicus 
recitative 
solo Bass 
Judges 11:34
Cum autem victor Jephte in domum suam 
reverteretur, occurrens ei unigenita filia sua 
cum tympanis et choris praecinebat:

When Jephthah came victorious to his house, behold, 
his only child, a daughter, was coming out to meet him 
with tambourines and with dancing. She sang:

イェフタが自分の家に帰ったとき、自分の唯一の子供、娘が鼓を打ち鳴らし、踊りながら迎えに出て来た、彼女は歌った

10.Filia 
aria 
solo Soprano 
"Incipite in tympanis, et psallite in cymbalis. 
Hymnum cantemus Domino, et modulemur canticum. 
Laudemus regem coelitum, 
laudemus belli principem, 
qui filiorum Israel victorem ducem reddidit."

"Strike the timbrels and sound the cymbals! 
Let us sing a hymn and play a song to the Lord, 
let us praise the King of Heaven, 
let us praise the prince of war, 
who has led the children of Israel back to victory!"

鼓をならしなさい、神への賛美を歌いましょう、天国の王を讃えましょう、イスラエル人を勝利に導いた王子を讃えましょう

11. Duet 
response 
solo Soprano 1 & 2 
Hymnum cantemus Domino, et modulemur canticum, 
qui dedit nobis gloriam et Israel victoriam.

Let us sing a hymn and play a song to the Lord, 
who gave glory to us and victory to Israel! 

神を称える歌を歌いましょう、主はわたしたちに栄光と勝利をイスラエルにお与えくださる

12.Filia 
aria 
solo Soprano 
Cantate mecum Domino, cantate omnes populi, 
laudate belli principem, 
qui dedit nobis gloriam et Israel victoriam.

Sing with me to the Lord, sing all you peoples! 
Praise ye the prince of war, 
who gave glory to us and victory to Israel!

わたしとともに神に歌いなさい、すべての人を歌いなさい、イスラエルに栄光と承知をもたらした王子を讃えなさい

13.Chorus à 6
response 
Cantemus omnes Domino, 
laudemus belli principem, 
qui dedit nobis gloriam et Israel victoriam. 

Let us all sing to the Lord, 
let us praise the prince of war, 
who gave glory to us and victory to Israel! 

神にみなで歌いなさいmイスラエルに栄光と勝利をもたらした王子を讃えましょう

14. Historicus 
recitative 
solo Alto 
Judges 11:35
Cum vidisset Jephte, qui votum Domino voverat, 
filiam suam venientem in occursum, in dolore 
et lachrimis scidit vestimenta sua et ait: 

When Jephthah, who had sworn his oath to the Lord, saw 
his daughter coming to meet him, with anguish 
and tears he tore his clothes and said: 

主へ誓ったイェフタは彼を迎える娘を見ると、
怒りをもって衣を引き裂いて言った

15. Jephthah 
arioso 
solo Tenor 
Judges 11:35
"Heu mihi! Filia mea, 
heu decepisti me, filia unigenita, 
et tu pariter, 
heu filia mea, decepta es." 

"Woe is me! Alas, my daughter, 
you have undone me, my only daughter, 
and you, likewise, 
my unfortunate daughter, are undone." 

ああ、わたしの娘よ、
お前がわたしを打ちのめし、
わたしの唯一の娘よ、わたしを苦しめるとは

Filia 
recitative 
solo Soprano 
"Cur ergo te pater, decipi, 
et cur ergo ego 
filia tua unigenita decepta sum?" 

"How, then, are you undone, father, 
and how am I, 
your only-born daughter, undone?" 

それでは、父よ、
あなたたはどのように打ちのめしたのでしょう、
そして唯一の娘であるわたしはあなたを打ちのめしたのでしょう

Jephthah 
arioso 
solo Tenor
"Aperui os meum ad Dominum 
ut quicumque primus de domo mea 
occurrerit mihi, offeram illum Domino 
in holocaustum. Heu mihi! 
Filia mea, heu decepisti me, 
filia unigenita, et tu pariter, 
heu filia mea, decepta es." 

"I have opened my mouth to the Lord that 
whoever comes first out of the doors of my house 
to meet me, I will offer him to the Lord 
as a complete sacrifice. Woe is me! 
Alas, my daughter, you have undone me, 
my only daughter, and you, likewise, 
my unfortunate daughter, are undone." 

わたしは主の御前で口をひらきました。
わたしの家からわたしを最初に迎えるのが誰であろうと、
わたしは献げ物として主のものとすることを。
なんてことだ。ああ、娘よ、お前はわたしを打ちのめした、唯一のわたしの娘よ、
わたしを苦しめるとは

Filia 
arioso 
solo Soprano 
Judges 11:36-37
"Pater mi, si vovisti votum Domino, 
reversus victor ab hostibus, 
ecce ego filia tua unigenita, 
offer me in holocaustum victoriae tuae, 
hoc solum pater mi praesta 
filiae tuae unigenitae antequam moriar." 

"My father, if you have made an oath to the Lord, and 
returned victorious from your enemies, 
behold! I, your only daughter 
offer myself as a sacrifice to your victory, 
but, my father, fulfill one wish to 
your only daughter before I die." 

父上、あなたは主に誓い、
あなたの敵から勝利して戻ってきました。
見なさい! あなたの唯一の娘のわたしは、
自分自身を生贄としてあなたの勝利に
献げてください。
しかし、父よ、死ぬ前に
あなたの唯一の娘である
わたしの望みをかなえたいのです。

Jephthah 
arioso 
solo Tenor 
"Quid poterit animam tuam, quid poterit te, 
moritura filia, consolari?"

" But what can I do, doomed daughter, 
to comfort you and your soul?"

しかし、わたしになができるのか、不運な娘よ、お前とお前の魂をなぐさめるために

Filia 
arioso 
solo Soprano 
Judges 11:37
"Dimitte me, ut duobus mensibus 
circumeam montes, et cum 
sodalibus meis plangam virginitatem meam." 

"Send me away, that for two months 
I may wander in the mountains, and with 
my companions bewail my virginity." 

わたしを送りだし、二か月の間、
友たちとともにわたしは山々をさまよい、
わたしが処女であることを泣き悲しみたいのです

Jephthah 
arioso 
solo Tenor 
Judges 11:38
"Vade, filia mia unigenita, 
et plange virginitatem tuam." 

"Go, my only daughter, 
go and bewail your virginity." 

行くがよい、唯一のわたしの娘よ、そして処女であることを泣き悲しむがいい

Historicus à 4 
narrative 
S-A-T-B 
Abiit ergo in montes filia Jephte, et 
plorabat cum sodalibus virginitatem suam, dicens: 

Then Jephthah's daughter went away to the mountains, and 
bewailed her virginity with her companions, saying: 

そして、イェフタの娘は山々に行き、友達とともに処女であることを泣き悲しみ、言った

Filia 
aria accompagnata
solo Soprano 
"Plorate colles, dolete montes, 
et in afflictione cordis mei ululate! 

Mourn, you hills, grieve, you mountains, 
and howl in the affliction of my heart! 

悲しみ、あなたの丘、嘆き、あなたの山々、わたしの心の苦悩のなかでの遠吠え

Echo 
solo Soprano 1 & 2
Ululate!

Howl! 

遠吠え

Filia 
aria accompagnata
solo Soprano
Ecce moriar virgo et non potero 
morte mea meis filiis consolari, 
ingemiscite silvae, fontes et flumina, 
in interitu virginis lachrimate! 

Behold! I will die a virgin, and shall not 
in my death find consolation in my children. 
Then groan, woods, fountains, and rivers, 
weep for the destruction of a virgin! 

見なさい! わたしは処女で死にます、
わたしの死に、わたしの子供の慰めを見いだすことはありません。
うめき声、噴水、そして川は処女の打ち破るために涙を流しすのです

Echo 
solo Soprano 1 & 2
Lachrimate! 

Weep! 

涙を流しなさい

Filia 
aria accompagnata
solo Soprano
Heu me dolentem in laetitia populi, 
in/ victoria Israel et gloria 
patris mei, ego, sine filiis virgo, 
ego filia unigenita moriar et non vivam. 
Exhorrescite rupes, obstupescite colles, valles 
et cavernae/ in sonitu horribili resonate! 
Resonate! 

Woe to me! I grieve amidst the rejoicing of the 
people, amidst the victory of Israel and 
the glory of my father, I, a childless virgin, 
I, an only daughter, must die and no longer live. 
Then tremble, you rocks, be astounded, you hills, 
vales, and caves, resonate with horrible sound! 
Resonate! 

わたしは人々の歓喜のなかで嘆いています、
イスラエルの勝利の中、
父の栄光の中で、
父の唯一の子供、子供のいない処女であるわたしは死なねばなりません、
もはや生きてはいられないのです、
震え、あなたの丘、驚き、谷、洞窟、恐ろしい音が響きわたる

Echo 
solo Soprano 1 & 2
Resonate!

Resonate!

響きわたる

Filia 
aria accompagnata
solo Soprano
Plorate filii Israel, 
plorate virginitatem meam, 
et Jephte filiam unigenitam in 
carmine dolore lamentamini." 

Weep, you children of Israel, 
bewail my hapless virginity, 
and for Jephthah's only daughter, 
lament with songs of anguish." 

涙を流しなさい、イスラエスの人はわたしの望みのない処女に嘆き悲しみ、
そしてイェフタの唯一の娘、
苦悶の歌、哀歌

Chorus à 6
response
Plorate filii Israel, 
plorate omnes virgines, 
et filiam Jephte unigenitam in 
carmine doloris lamentamini.

Weep, you children of Israel, 
weep, all you virgins, 
and for Jephthah's only daughter, 
lament with songs of anguish.

涙を流しなさい、イスラエルの人、
涙を流しなさい、すべての処女、
そしてイェフタの唯一の娘、
苦悶の歌、哀歌
**************************

しかし、旧約聖書というのはあらためてひどい話だよ。この曲を聴くにおよび士師記を読み返したけど、選民思想まるだし。
最後のほうになるとうまく訳せないし……
コルボはいつもながら非常に素晴らしい合唱を聞かせてくれている。しかし、レコード店で買う宗教音楽のレコードでミシェル・コルボが多くなっている。というのも、なぜかコルボの指揮のレコードは全般的に安い。だいたい500円ぐらいで購入できてしまう。しかも演奏は素晴らしいから、ついつい買ってしまい、自然とコルボのばかりになってしまう。

2019/02/13

『「国宝」学者死す』司馬遼太郎短篇全集一

『「国宝」学者死す』(1951)

もうすでに初期から、あの独特の三人称語りを確立させている。主人公を「武平さん」とさん付けだし、まるで誰からから聞いた話であるように、伝聞調でつらつら書かれていく。
吉野の山奥で育ったため魚も豆腐も知らず、下界に降りてきてこれらを覚え、好きが高じて世界的な魚類学者になってしまったという。貧乏学者だから魚も食えない、だから妻にたらふく食わしてやりたいと遠洋漁業にではいいがそこで難破して、狭心症かなにかで死ぬ。葬儀では生ものはよくないが、あんなに食べたかったんだからと供えられる。
短編小説ってのは面白いものだなあ。書き手の力量がそのままでる。この小説、話自体それほど特記すべきところもないけど、やはりそこは文章力で、主人公の武平さんが愛おしくなってしまうのだ。
それに、司馬さんの作品というのは、なんとも真実味がでてしまって、この武平という人物があたかも存在するかのようだ。そもそも白波堆なんてものがあるのか。

2019/02/12

Mozart, Symphony No. 40 Beethoven, Symphony No. 1, Frans Brüggen Philips Digital 416 329-1/モーツァルト交響曲40番、ベートーヴェン交響曲第1番 ブリュッヘン



Mozart, Symphony No. 40
Beethoven, Symphony No. 1
Orchestra Of The 18th Century
Frans Brüggen
Philips Digital Classics, 416 329-1, 1985

ブリュッヘンによるモーツァルト交響曲第40番。カップリングにベートーヴェン交響曲第1番。
演奏は、やはり古楽器演奏に慣れているからか、特に違和感もなく聴けた。というか名盤だなこれは。これまでいくつか40番を接してきたが、それらはほぼモダンの楽器のもの。正直言うと、どの指揮者の演奏がいいかななんて、あんまりよくわからなかった。モーツァルト作品の場合、解釈というのがあまり入り込む余地がないように作られているのかな。でもハイドンなんかもそう。ロマン派の音楽とは違い、モーツァルト時代の作曲法というか求められていた音楽の違いなのかな。
というわけで、ブリュッヘンの演奏にしても、まあ古楽器ということ以外はあまりモダン演奏と変わり映えはないかと思うんだけど、やはり強弱の付け方、アーティキュレーションが独特で40番という作品の輪郭がはっきりとでている。あとは、従来の40番とは違って、短調なのに短調な感じがしないのが不思議。モーツァルトの曲のなかでも有名なこの曲は、短調で書かれているがゆえに、主にロマン派音楽を聴く人や現代人にとっても、感情移入しやすい曲。哀愁だとかを感じちゃんでしょうね。
そしてこのアルバムで白眉なのが、カップリングのベートーヴェン第1番。僕は第1番は35年生きてきたがおそらく10回も聞いていないと思う。というわけで聴いてみた。おお、ベートーヴェン、お前の音楽はやはりこっち側の音楽なんだよ。古典派としてのベートーヴェンの復活だよ、これは。面白い演奏だったよ。堂々たる第一楽章なんだが、とっても軽やか。この楽章だけ聴いても、やはりベートーヴェンはハイドン、モーツァルトといった系譜の中で生きていた人物なんだなとしみじみ思う。で、調べてみたらこの曲はベートーヴェンが30歳の時に作曲したものだと知った。そうなのかー。時間がかかったんだなー。ベートーヴェンはモーツァルトとは違って大器晩成型だな。モーツァルトは、若い頃の作品の方がいいのが揃ってて、K300−400番代なんかはもう名曲揃いだし。ただ500番代に入ると僕の好みの作品が少なくなる。
第2楽章はモーツァルトそのまま緩徐楽章。第三楽章はメヌエットではなくてスケルツォ。このあたりベートーヴェンの独自性が出ていると言われているよう。第4楽章は愉快だね。後年には見られない曲風。
とまあ、全体的にこじんまりとした曲だけど、全体的に統一感があるし、ハイドン的な音楽の面白さを感じられる曲だ。この感じの音楽はベートーヴェンの場合、後年はあまりないと思う。交響曲第8番やピアノ・ソナタ30番の第1楽章ぐらいなのかな。
このアルバムはモーツァルトもよかったけど、ベートーヴェンの第一番を楽しく聴くことができたのが一番の収穫だった。

2019/02/11

『わが生涯は夜光貝の光と共に』司馬遼太郎短篇全集一

『わが生涯は夜光貝の光と共に』(1950年)

螺鈿に魅せられた蒼洋は、師の月樵のもとを去り、失われた螺鈿の技術を習得していく。芸と渾然一体となった蒼洋が晩年自分が作った作品を修理する旅にでる。
「時々道ばたで杖を止めて背をのばした。
過ぎて来た道をふりかえると、山々の鮮やかなみどりが彼の網膜を染めた」(p25)
蒼洋、この人物は実在するのかどうか、僕は分からない。モデルはいたのかもしれない。この小説を貫くみずみずしさとすがすがしさは司馬遼太郎全作品に共通するもので、司馬はえてして英雄ばかり描いてきたように誤解されているが、まあ実際そういうところもあるのだけど、彼が向ける市井の人々へのまなざしは、愛情と共感にあふれている。
短い小説だが、一読、まるで蒼洋の人生を全て見てしまったかのような、そんな錯覚をしてしまう。やはり司馬は文章がうまい。

2019/02/10

J.S. Bach Cantates BWV 54, BWV 53 , BWV 169, Jean-François Paillard Erato, STU71161/バッハ カンタータBWV54「罪に手むかうべし」, 53「いざ打てかし、願わしき時の鐘よ」, 169「神のみにぞわれ心を捧げん」 ジャン=フランソワ・パイヤール



J.S. Bach
Cantates
BWV 54 "Widerstehe doch der Sünde"
BWV 53 "Schlage doch, gewünschte Stunde"
BWV 169 "Gott soll allein mein Herze haben"
Birgit Finnilä, Marie-Claire Alain, 
Orchestre De Chambre Jean-François Paillard
Erato, STU71161
France, 1979

ジャン=フランソワ・パイヤール指揮、オルガンはマリー=クレール・アラン、アルトがビルギット・フィニレ。
パイヤールとアランという組み合わせで、カンタータというのはなかなかいいじゃないですか。ネット調べてみると、どうもこの録音はCD化されていない。パイヤールってバロックを専門にしていたと思うけど、カンタータってあんまり録音していないよう。というよりこれ一枚なのかもしれない。よくわからない。このアルバムでは、いわゆるアルトによるソロ・カンタータの組み合わせとばっている。
さて、演奏なんだけど、これはいいですね。BWV54「罪に手むかうべし」。不協和音ではじまる。ふあーんという感じで。二つのアリアは共に美しい。この曲の歌詞では、罪に抗いなさい、それはサタンからの贈り物なのだから、正しく祈り、罪に立ち向かいなさい、といった内容で、興味深いのが「罪」というのが外部の要素であると認識されているとうことだ。というか比喩かなにかなのかもしれないけど、どうなんでしょうか。神学において人間が罪を犯すのは不完全であるが故ということかと思っていたのだけれど。ここでは人間の欠陥は歌われない。静かに訥々と語るかのようなアルトは、歌詞の内容から想像する勇ましさとは無縁のもので、穏やかに語り聞かせる感じ。フィニレの歌声は、バッハによくあうんじゃないかな。とても抑制のきいた歌い方をしている。
BWV53「いざ打てかし、願わしき時の鐘よ」 ゲオルグ・メルヒオル・ホフマンというライプツィヒのアルガン奏者が作曲したものらしい。ベルがちりんちりんとなっていて、歌も伴奏もシンプルでこじんまりとした曲。初めて聞いたけど、いい曲だと思う。
BWV169「神のみにぞわれ心を捧げん」はオルガン付きシンフォニアから始まる。オーケストラとオルガンの息がぴったりとあっていて心地よい。このシンフォニアだけでも満足。次のアリオーソでは通奏低音のみでアルトが「歌い」あげる。そして第3曲のアリアだが、華麗にオルガンが奏でられながら、アルトが神の愛を賛美する。アルトは人間の祈りで、オルガンは空間を満たす神の慈愛かな。次、二つ目のレチタティーヴォ。神の愛ってなんでしょうか、と問いかける。それは魂の憩う楽園なりと。そしてこのカンタータの最高の聴き所、二つ目のアリアが登場。静かに、肉体から解き放たれ精神的な神への献身を歌い上げる。それは苦難の道、されど神がそばにいてくれる。であるがゆえにオルガンとアルトは共に同じ旋律を歌う。最後のレチタティーヴォで隣人愛を確認し、コラールへ。
パイヤールのこの3つのカンタータは出来栄えが素晴らしい。CD化されていないものでもまだまだ多くの名盤があるのだなあ。