2021/02/27

『ブラッドランド――ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実 上』 ティモシー・スナイダー/布施由紀子訳 筑摩書房

んー凄まじい。
ポーランド、バルト地域、ベラルーシ―、ウクライナをブラッドランドと呼び、その凄まじい大量虐殺を書き出している。
1932年から1933年までスターリンの行った五ヵ年計画で工業化を目指して、集団化政策を行って、農作物を輸出して、機械類を輸入して、そしてウクライナが飢餓になって、人肉食までいく。なんなんだこの歴史は。しかもスターリンは意図して飢餓を起こしている。
フセヴァロド・バリツキーはNKVD支局長として、ウクライナの穀物収奪を正当化させていく。スターリンにはこの飢餓を民族主義者の陰謀として説明し、飢餓と処罰を組み合わせていた。
そしてこの集団化政策は階級闘争と位置づけていた。「富農(クラーク)」を抹殺することを意図していた。ではクラークとは何かと言えば、そんなものは国が勝手に決めていた。
グラーグと呼ばれる強制収容所へ農民を大規模に強制移住させ、集団化を行っていく。自由農民が奴隷農民となっていく。
飢餓はウクライナ人300万人だけでなく、ロシア人、ユダヤ人、ドイツ人、ポーランド人で30万人、そしてソヴィエト・ロシアでも150万人が死んだ。さらにカザフスタンでも飢餓が起こっており、130万にが死んでいるという。
この飢餓のによる大虐殺によってウクライナの人口動態が変わったという。しかも人口調査をした担当者を処刑までする。ひどい、、、

1937年、バリツキーはウクライナの飢餓を「ポーランド軍事組織」の陰謀にも結び付けていく。ドイツの侵攻でソ連に亡命した共産主義者はスパイとして処刑もされていく。バリツキーはウクライナで「ポーランド軍事組織」が再結成されたと主張したが、エジェフはそれをさらに誇大にしていき、モスクワ本部、そしてソ連全土にかかわる問題にしていく。そしてスターリンはバリツキーが「ポーランド軍事組織」を甘く見ていたとして免職になり、逮捕され、処刑される。なんなんだこりゃ。

ソ連はインターナショナリズムを謳っているの嘘ではなかった。だからエジェフにしろ、民族問題として取り上げていたのではなく、あくまでスパイ行為として罰せられていく。
1939年9月17日にドイツについでソ連はポーランドへ侵攻する。
そしてモロトフ=リッベントロップ協定(独ソ不可侵条約)によってポーランドは分割される。知識人は虐殺されていく。ソ連によるカティンの森大虐殺など。
ドイツでもポーランドを「浄化」するために、ユダヤ人だけでなくポーランド人も強制移住させられ、餓死していく。ヒトラーもスターリンもポーランドの知識人階層の抹殺を意図的に行っていた。そいて従順な大衆だけを残し統治をしやすくしようとしていた。

ヒトラーもスターリンもイギリスを気にしていた。帝国主義の存在はスターリンにとっての共産主義の存在を、世界革命という目標を成り立たせてくれるものだったし、イギリスという巨大な悪の存在があるからこそヒトラーとも手を結ぶことができた。ヒトラーはイギリスを超える帝国主義国家を目指していた。
ヒトラーもスターリンもイギリスの存在から導きだした答えが、拡張主義だった。食料、鉱物を豊富に持ち、自給自足の社会を作り上げるには領土を増やすことをよしとした。
そこでヒトラーもスターリンも目につけたのがウクライナだった。そして驚くべきことに、ナチスドイツはドイツ国内の食糧問題を解決するために、ウクライナを餓死させることを計画する。大量餓死と植民地化がセットになった政策だった。
ナチスドイツは占領したソ連領で捕虜収容所をつくるが、ここで飢餓政策がなされ、カニバリズムが起こる。*ドゥラーク(一時収容)、シュラーク(下士官用)、オフラーク(士官用)
ドイツのソ連への攻撃が行われて、ソ連は報復処置としてヴォルガ川に住むドイツ人をカザフスタン以に強制移住させていく。これがナチスドイツとは違い、非常にうまくスムーズに行ったようで、スターリンが作り上げた官僚国家の効率の良さがわかる。
リトアニア、ラトヴィア、ルーマニア、などでもユダヤ人の虐殺がなされていく。
モロトフ=リッベントロップの東側では銃殺によ大量虐殺、西側ではガス殺でユダヤ人が殺されていく。

この本を読んでいると、改めて20世紀前半のヨーロッパの歴史の酷さが目につく。いたるところで虐殺が起こり、多くの場所で虐殺の碑がたつのも頷ける。どこでもかしこでも虐殺が行われている。
バビ・ヤールの虐殺で思い出したが、ショスタコーヴィチの交響曲13番がこのバビ・ヤールを題材にしている。聞いたことはないけど。

2021/02/26

『アンナ・カレーニナ』2 トルストイ/望月哲男訳 光文社古典新訳文庫

リョービンとコズヌィシェフの対比。コズヌィシェフは都会人として農民を愛し、農民を知っていると自認している。リョービンはそんなコズヌィシェフの態度を気に入らない。
リョービンにとって農民は共同の仕事の主な参加者でしかない。リョービンも農民を敬い、愛を持ち、彼らの力、つつましさ、公平さに感嘆する。しかし、農民たちのずぼらさや嘘つきっぷりにも怒っている。リョービンは農民を愛しかつ憎んでいた。
コズヌィシェフにとっての田舎生活は都会生活の正反対のものとしてあった。
コズヌィシェフはリョービンがゼムストヴァに参加せず、公共の福祉に寄与しようとしないことを非難する。教育、医療、インフラなどこれらを共同に管理、経営することの素晴らしさをコズヌィシェフは言うが、リョービンは農民に教育は必要ないし、そして医者も自分には関係のないことだと言う。
リョービンはキティに振られてから、さらに偏屈になっていく感じがあり、ドリーが子供たちにフランス語でしゃべることに欺瞞的だと思うようになっている。ドリーはその欺瞞を承知でフランス語を使用しているのだが。
トルストイはロシアの精神性について、けっこう辛辣。「わが国の農民は、経済的にも精神的にもきわめて低い発展段階にとどまっているますから」(258)とか書いているし。
とは言いつつ、リョービンはある計画を考えている。
「おれの個人的な事業ではなくて、公共の福祉に関わる問題だから。農業全体が、なによりも全農民の境遇が、一変しなくてはならない。貧困のかわりに、共同の富と満足が、反目のかわりに利害の調整と一致が必要なんだ。ひとことで言えば、無血革命を、ただし大いなる革命を起こすのだ。はじめはうちの郡の小さな範囲に過ぎないが、だんだんそれが県に、ロシアに世界全体に広がって行くのだ。そうだ、これこそ働き甲斐のある目標だ。」(277)
兄のニコラスがリョービンを訪ねてくる。リョービンは兄の死を予見する。
そこで共産主義を論じる。(292) リョービンは私有財産などを否定することではなく労働の調整を考える。そしておもしろいのがすでにトルストイは共産主義を初期のキリスト教のようなものとして述べている。兄は共産主義を合理的で未来のある運動と一定の評価を与えている。
ニコライとの対話では、リョービンはきちんとした言葉で語ることできずにいる。
リョービンはニコライと別れたあと死がつきまとう。自分の事業が地球規模から考えてちっぽけなものだと思うようになっている。(353)

カレーニンはこれまで通りの生活をすることを決意する。アンナにもその旨を手紙で知らせる。アンナはこれを受けて、さらに気がふれる。アンナは当初の魅力がなくなり、ヒステリックな女性へと変わっていった。ヴロンスキーもアンナに初めて会った時のような感覚は失せたが、それでもアンナが自分を愛していることに、愛を感じたりする。すでに引き返せないと悟っている。(312)
同僚のセルプホフスコイが昇進し、その自信を目の当たりにし、ヴロンスキーはそれでも自ら昇進を辞退したこと、そのことに焚いて自分は自由気ままな人生を送る人間と装うこと、これではまずいという本音などが書かれている。
ヴロンスキーは、ある国の皇太子に街を案内しているときに、皇太子のふるまいに自分自身の卑しさをみて嫌気がさす。
アンナとヴロンスキーは同じ夢を見る。ぼうぼうにひげを生やした小さな百姓が身をかがめて袋をごそごそといじっている夢。死の予見させる。
オブロンスキーはカレーニンと会い、晩餐に誘う。リョービン、コズヌィシェフ、キティらが一堂に会する。そこでリョービンはキティと再会し、お互い許しあい、愛を語る。
ドリーはカレーニンに離婚しないように説得するが、カレーニンはドリーが語るきれいごとに嫌気がさす。敵を愛せ、、、
カレーニンはペテルブルグでアンナの容態が悪いことを聞き、家に戻ると娘を産んだ後に産褥熱にかかる。
アンナはうなされながら、カレーニンに許しを請う。アンナはカレーニンを高潔な人物とみなす一方でそんな高潔さを憎んでいた。
カレーニンは、アンナの病状を目の当たりにして、死に直面したアンナのすべてを許すことにした。しかしアンナは回復してしまう。カレーニンの誤算。
アンナはカレーニンを恐れ、オブロンスキーはそんな夫婦関係を見て、ヴロンスキーに離婚を勧める。いったんは離婚を決意していたヴロンスキーは、アンナを許したにもかかわらず、再び離婚を決意することがなかなかできなかったが、オブロンスキーに説得され、離婚に踏み切るも、アンナは離婚をせずにヴロンスキーと一緒に国外にでる。

2021/02/22

『遠野物語 山の人生』 柳田国男 岩波文庫

「遠野物語」の良さは、やはり簡潔な文章にある。
収集した説話を無駄なものを付け加えずに残している。常民の研究が日本の精神史、宗教史をつまびらかにする。文章で残っている「古事記」「日本書紀」などだけでは日本の歴史を語れない。いまでも柳田のような研究を下品なものとして脇に追いやることがままある。とくにナショナリストによる歴史はそうだ。柳田が書くように、そういう人たちは「いつまでも高天原だけを説いているがよい」(264)

「山人考」で説かれているように、東北には神社が少ない。これは大和の支配圏がせいぜいいっても関東程度であったことで、「風土記」の編纂も常陸までしかない。
東北地方では、おそらく大和のもつ文化的宗教的侵襲を、平泉平定ごろまで拒んでいたふしがある。
とはいいつつも東北地方だけでなく、全国で常民の宗教の残滓を垣間見ることができる。「山の人生」はそれを見せてくれる。
かつては神を扱われたものが妖怪として恐れられたりする。もともと天狗や山人と集落の者たちとの交流があった。
「始めて人間が神を人のごとく想像しえた時代には、食物は今よりも遥かに大なる人生の部分を占めていた。」(253) その象徴が餅で、古来より神に餅を捧げるのは、まさに餅を供えることで神は人間の手助けをしてくれた時代があったのだ。角力も現在のような天皇を頂点とするヒエラルキーの中で行われていたわけではない。土地土地で山人と角力によって交流がなされていた説話が多く残っている。

柳田が残した説話から常民たちの宗教史なるものが浮かび上がる。この宗教というのは、仏教やキリスト教やイスラム教などのようなたいそうなものではない。
明治の三陸地震の津波の話が残っている。
「夏の初めの月夜に便所に起き出でしが、遠く離れたるところにありて行く道も浪の打つ渚なり。霧の布きたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者の近よるを見れば、女は正しく亡くなりしわが妻なり。……男はとみればこれも同じ里の者にて海嘯の難に死せり者なり。自分が婿に入りし以前に互いに深く心を通わせたりと聞きし男なり。今この人と夫婦になりてありというに、子供は可愛くはないのかといえば、女は少しく顔の色を変えて泣きたり。死したり人と物いうとは思われずして、悲しくて情なくなりたれば足元をっみてありし間に、男女は再び足早にそこを立ち退きて、小浦へ行く道の山陰を廻り見えずなりたり。」(64)
よく柳田はこの話を残したと思う
このようなことは、簡単に幻覚だとか夢だとか、ウソだとかと言っていい話ではない。かなり現実的な話で、東日本大震災のあとも同様の話がいくつもある。

柳田は夏目漱石、森鴎外が作り上げた文学の流れにある。鴎外も柳田も官僚であった。彼らは国家と人間の関係を常に意識した作品となっている。それは田山花袋、芥川、太宰とは異なる系譜をつくりだしている。

2021/02/21

『「色のふしぎ」と不思議な社会――2020年代の「色覚」原論』 川端裕人 筑摩書房

んー脳内革命。
日本では先天的色覚異常が男性では5%いるという。それを「異常」としていいのか。だから日本遺伝学会では、色覚異常を「異常」とせず多型として、1%未満を変異と、概念を変えている。頻度の高いものはすでに定着しているという考え。もちろん1%には根拠はなく目安としている。
色覚異常をもっている人々への差別というのは、正直ピンとこなかった。自分自身が「正常」の範囲であるからでもあるが、かつては結婚差別まであり、現在でも職業差別がある。かつては色覚異常がある場合は理系に進むこともできなかった時代があるとは。
2014年に色覚検査の復活がなされたという。というのも、今の社会において、職業選択の際に前もって自分の色覚について知っておくことは、後で知るよりもメリットがあるからというものだ。これを日本眼科医会が推しているという。とはいえ日本眼科医会も別に差別するために色覚異常を見つけ出すことを目的にしているわけではない。あくまで個人が認知していることの重要性を説いている。
ただ、ここで問題が起きているようで、川端さんがいうように、石原表によるスクリーニングが適切なことなのかどうかということだ。
川端さんは石原表でのスクリーニングは基準を満たしていないという。
この問題は興味深くて、眼科医と色覚の研究者では、視点が異なっていることだ。

あのドットで数字を見る検査表を石原表と呼ぶとは知らなかった。しかも戦前に陸軍で作られ、世界に広まったとは。そしていまなおスクリーニングにおいて有用性があると認知されているとは。
ただし、アメリカ軍でもイギリスの民間航空会社でも、石原表ではなく、別の基準を設けて色覚検査を行い、適正を測っている。そして石原表では異常となりパイロットもしくは整備しにはなれなかったかもしれない人々が、別基準では採用がなされていく。
石原表とは何なのか。しかも感度と特異度がきちんと調査されていないという。なんだそれ。
結局、石原表でスクリーニングにひかっかても、異常ではなく正常にもなる。
問題はスクリーニングにひっかかってもその後の確定診断にいたる過程が確立されていないことだという。
ちなみに石原表には色覚異常ではないと読み取れない票があり、正常な色覚だと読めないものがあるという。もはや正常と異常が何を意味するのかがわからなくなる、そもそもアンビバレントを孕んでいるようだ。

色覚を調べるのに糞のサンプルから遺伝子のDNAを拾うというので驚く。
色覚の2型、3型などがあり、人間は3型が多数を占めるが、必ずしも3型が有利であるというわけでもない。人間がどうして2型、3型、と多様なのかもよくわかっていないようだ。
ただ2型の方が、一般的に明るさのコントラストや形状の違いに敏感で、自然界で昆虫を採取したりなどの条件では有利に働く。ただし3型は森の中で緑の背景で果実の赤を見つけ出すのが有利だったりするらしい。
ただし、こういう有利不利も経験からその差異は埋められていき均されていく。
「色の弁別」と「色の見え」は違うというのは、まったくもって納得。色覚異常であるから色の弁別ができないわけでもない。見え方が違う。ただし、それがどのように見えているかは検証する術がない。
色の見え方は、証明の明るさや波長でも異なっていく。ザ・ドレスを参照。
「色覚は健全な錯視である」
結局、異常と正常の明確な境はない。スーパーノーマルの存在が明らかなように、正常自体が人間が作り出した幻想でしかない。
色覚では、明確な線が引けない。
「軽いほど危険」というフレーズそのものに危険が潜んでいる。気づかないぐらいの色覚だと知らないうちに日常生活で不利益を被るというものだが、そもそもとして正常と異常がはっきりと区別できないことがわかっている状況で、この言説を指示できる根拠がなくなっている。

驚くべきは魚類で、多様な色覚を獲得しているようで、緑型、青型という哺乳類、霊長類がもっていない錐体オプシンをもっているとのこと。すごい。
猫を飼っているが、やつらは多様な色を見分けられないとバカにしていたが、じつはそうではなくて、猫からしてみれば色覚が2型であることで闇夜でコントラストと輪郭をはっきりさせて、生存してきたということであって、まさに多様性なのだな。


2021/02/20

『アンナ・カレーニナ』 1 トルストイ/望月哲男訳 光文社古典新訳文庫

一人ひとりの登場人物がどんな思想をもって、発言し行動しているのかがうまく描かれている。
オブロンスキーは新聞はリベラルなものを読んでいたが、彼はノンポリであくまで都市的な教養としてリベラルを装っている。そして彼は他人に対して非常に外交的で、多くの人が彼に魅了されていく。

「きみはまた人間の行動にはいつも目標があり、愛と家庭生活が常にひとつであることを願うだろうが、そうばかりではないのさ。人生がこんなにも多様で、魅力的で、美しいのも、すべて光と影の両方があるからなんだよ」(110)

オブロンスキーのこの発言なんかも、非常にバランスのいいもので、そして包容力がある。人生をどこか達観している。他の登場人物とはちょっと違った視点を提供する。

アンナの登場の描写も素晴らしい。おそらくはトルストイの恋愛経験から書かれているかと思う。ヴロンスキーがアンナをはじめて会ったときの描写、

「全身から漂っている優雅さや淑やかさのせいでもなくて、相手の人文の脇を通り抜けるときのその愛らしい表情に、なにかしら特別にやさしく暖かいものが感じられたからであった。」(156-157)

このあとの描写でもアンナは自分の優雅さや美しさを自覚している。それを武器にして社交界で生きている。素晴らしい。

結婚観がとっても面白く、恋愛結婚を旧習なものだとヴロンスキーが述べ、理性による結婚こそが幸福であることとを主張する。
アンナとカレーニンの結婚は理性による結婚の象徴であるのか。ドリーが感じるアンナとカレーニンの生活感のなさや、節度をもったお互いの不干渉など、アンナもカレーニンも理性的。
にもかかわらず、アンナもヴロンスキーも恋愛にはまっていく。

リョービンは貴族として農場を経営する。農民たちは言うことをきかない、そんなときリョービンは得体のしれない「自然の力」と戦う意欲がわいてくるらしいのだ。まさに民衆、農民などは「自然の力」なのだ。意志をもって対峙する相手となっている。
当時にすでに「田舎の解放感」が求められていたようで、オブロンスキーもリョービンを訪ねたさいに、田舎を満喫する。
しかし田舎はある意味で都市の幻想で、田舎には現実がある。そしてその現実に疎いオブロンスキーは自分の土地を、リョービンから言わせれば安い価格で手放しています。
キティはドイツに慰安のために滞在中に、ワーレニカに出会う。キティは彼女と出会い心の平安を得て、さらに滞在先でワーレニカの真似をしながら、善行を尽くそうとする。
そこに父が登場し、さらにワーレニカの義母であるシュタール夫人とのやり取りを目の当たりにすることで、キティはシュタール夫人にどこかうさん臭さを見いだし、ここでおもしろいのが父親の存在で、彼はキティに言う、

「しかしね、事前をするのなら、むしろ誰にたずねても誰もしらないという形でしたほうがいいのだよ」(576)

父の街での振舞いやシュタール夫人にたいする態度から、キティが求めていた神々しさのめっきが剥がれていく。

2021/02/14

『代議制民主主義――「民意」と「政治家」を問い直す』 待鳥聡史 中公新書

代議制民主主義を委任と説明責任で解き明かしている。まあそうだよね、この世の中分業だもの。
それよりか民主主義、共和主義、自由主義の枠でもっと書いてほしかった。
共和主義の特徴を
「「市民的徳性」が持つ政治的意義を強調したところにある。市民的特性の持ち主、すなわち他者よりも倫理的、道義的に優れており、それに基づいて社会的事柄に関して的確な判断ができる人物こそが、政治的影響力を持ち、公益あるいは公共善を追求すべきだということ」(25)
と書いている。起源をマキャヴェリと書いていることから、参考文献にあるとおりポーコックあたりがベースか。
共和主義は君主や貴族を否定しているわけではなく、徳性さえあれば別に君主でもよい、とするからで目的は公共善といったところ。
自由主義については二つに大きく分けて論じている。ロック的自由主義とマディソン的自由主義。
ロック的自由主義は経済的自由、君主から財産権の擁護。
マディソン的自由主義とは、党派間で競争させ、お互いを抑止させていくもので、エリート間での相互抑制でもあった。多様な政治勢力たちが勝ったり負けたりすることで、個々の判断が過剰でも全体として妥当に落ち着くという「多元主義」としている。
自由主義にせよ、共和主義にせよ、ブルジョワジーやエリートによる支配という見方は拭えない。しかし民主主義は「多数者の専制」でしかない。
このあたりのバランスは各国で調整しながら運営されていっている。
現在、ミャンマーの軍事クーデターが話題になっているが、ミャンマーでの民主主義とはいかなるものかを論じられていないし、さらに言えば民主主義だからいいというわけでもないのに、ああだこうだ言いすぎている。残念至極。
ということで下記、参考文献から

田中秀夫『アメリカ啓蒙の群像』名古屋大学出版会
ポーコック『マキャヴェリアン・モーメント』名古屋大学出版会

ポーコックは昔読んだけど図書館で借りたからもっていない。もう一度さらっとおさらいしたいけど、高いし、置く場所ないし、図書館で借りるしかない。
しかし蛇足ながら、待鳥さんは素晴らしい実績もあって、他の著作はよかったけど今回は微妙でしたね。なんか焦点が定まっていなくってふわっとしていた。

2021/02/13

『性の歴史IV 肉の告白』 ミシェル・フーコーフ/レデリック・グロ編/慎改康之訳 新潮社

やっぱり一回だけ読んで理解できるような代物では全くなかった。けっこう難解な内容。どう整理していいかもわからない。
この『肉の告白』がどのように現代の問題と結びつくのか、結びつけられるのかがよくわからない。内容自体は興味深いものばかりで、知的好奇心は満足できるものではある。
んーだれかこの主体性やら欲望の系譜学とやらで、現代と結びつけながら論じてくれる人はいないものか。

以下はメモ。
古代ギリシアから離れ、ようやくキリスト教における欲望の系譜学を描き出す。ここでフーコーが抽出しているのは、単純な宗教的禁欲ではない。禁欲や節慾がもつ意味となる。
まず、アレクサンドリアのクレメンスによる『訓導者』を読み解いていく。
「我々が我々の訓導者から学びつつあるキリスト教徒の生は、<ロゴス>に適う行動の一式である。<ロゴス>の教えを断固として実行すること、これがまさしく我々が信仰と呼んだものである。」
クレメンスは適切な振る舞い(カテーコンタ)はロゴスから解読する。ロドスが人間行動の正しい道徳感覚を与え、救済するとなる。
初期キリスト教において、性交や結婚、それ自体は正真正銘の悪としては扱われない。人間の子作りの行為は<天地創造>の力能を関係しており、キリストの再生、受肉にも関連付けられている。

悔い改め
「悔い改めの実践と収斂的な生の務めは、「悪をなす」ことと「真を語る」こととのあいだの諸関係を組織化し、規範の厳しさの増減よりもおそらくはるかに新しくはるかに決定的な一つの様態において、自己、悪、真に対する諸関係を束ねる。実際、問題となtっているのは、主体性の形式である。自己の自己に対する務め。自己の自己による認識。調査および言説としての自己自身の構成。自己の解放と浄め。自己の奥底にまで光をもたらし、最も深いところにある秘密を贖罪のための現出の光へと導く操作を通じて得られる救済。このとき練り上げられたのが、一つの経験形態――自己への現前の様態であると同時に自己の変容の図式であるものとしての経験形態――である。そして、経験形態こそが「肉」の問題を、徐々に自らの装置の中心に据えるようになったのだ。そして、正しい生の一般的規則に統合されるものとしての、性的関係ないしアフロディシアをめぐる規定に代わって、生の全体を貫き生に課される諸規則の基盤をなすものとしての、肉の根本的関係が現れることになるのである。」(68-69)
「悔い改めは、自己の客体化よりもむしろ、自己の現出化に結びついている。」(85)
「メタノイアはこうして、心理に知王辰しようとする魂の動きであるとともに、その動きの現出化された真理でもあるような、複雑な一つの業を構成するのである。

他者の意志に服従するのは、他者が服従を欲しているから。
従順とは、他者との関係のみならず、生存の方法である。修道士が従わなければならないのは、まさに従順に達するためとなる(172)。従順とは自己との官益の一形態であり、指導は内面化し自己が自己自身の指導者へとなっていく。指導されるものは自分の意志に代えて他なる意志を際限なく受け入れる立場におかれる。「指導は、もはや欲しないようにしようとする熱意という逆説に依拠している」(175)
なかなか興味深いのが、初期キリスト教思想において、神の力添えなしに、人間の思慮分別は不可能であるとしてることだ。頼みの綱は神の恩寵であると。
自らの行為に間違いがないかどうかの検討をしても、自己自身を欺くこともある。それを払いのけることはできない。だから告白が必要となる。
「自分の心を苛むいかなる思考も偽りの羞恥によって隠されないようにすること、そうした思考がうまれたらすぐにそれを上長に現しだすこと」(カッシアヌス『共住修道制規約』/189)

なぜ告白が検証の役割を担うのか。上長の経験が優っているから助言が適格である、というのもあるが、カッシアヌスは言語による外在化に清めの効力を認める。
告白には羞恥がともなう。
自己を検証することで、「真を語る」ことと絶えず結び、神の恩寵が作動する。神は清らかな思考のみを迎えていく。
フーコーは自己に責任があると認める行為を「法陳述」ではなく、自己自身も知らない秘密に関する「真理陳述」としている。
「清らかさは逆に、自分自身のあらゆる意志の決定的な棄却」とし、「真理陳述」は自己の棄却と結びついている。
処女・童貞性の価値。禁欲や節慾が論じられながら、「個人の自分自身との関係、つまり、個人の自分の思考、自分の魂、自分の身体とのあいだに打ち立てる関係を」定義するようになる。処女・童貞性の推奨は、姦通の禁止の延長線にあるのではなく、非対称であり、異なる本性に属するという。(211)

オリュンポスのメトディオス『饗宴』
処女・童貞性には単に節慾の重要性や困難さを言っているのではなく、霊的な意味が与えられる。
結婚には肯定的な意味が与えられている。ただし、それは処女・童貞を守ることができない弱い人々に対する譲歩としてという。
清らかさは神の賜物なのである、腐敗から人間を守ってくれるという。
「永遠」「この生を超えた世界の彼方」。プラトン的。

アレクサンドリアのクレメンス曰く、結婚は過酷な試練を受けていることになるようだ。結婚は処女・童貞と同じように道徳的価値が与えられる。結婚には多くの危険がある。
処女・童貞を選ぶことは強い人々だけであり、少数の人のためのもの。結婚はみんなのためのもの。
「処女・童貞性は、天指摘生存を開くのだ。処女童貞性は、いまだ我々とともにあり続けている人々を非腐敗と不死性にまで上昇させる。」
「似た躯体的に自発的去勢者となることは、功徳がないだけではない。そのようなことをするものは、自らの魂の処女性を自分自身で確固たるものとすることを拒絶しているゆえに、つまり行為を自分にゆるさないとしても欲望には同意しているゆえに、罪びとともなされるべきである。」(287)とバシレイオスは言う。
結婚の目的は子づくりではない。というのもこの言明は夫婦と性的関係を義務としている。(355)そうではなく姦淫を避けるために、妻をもち夫をもつ。節慾のため。
子づくりは結婚の本質ではない。というのも「神の意志がなければ、結婚がそれ自身によって大地を人々で満たすことなどできないだろう。子づくりについて言えば、神は、結婚も身体の結びつきも減ることなくそれを保証することが完全にできるだろう」(356)とクリュソストモスは言う。
「産めよ、増やせよ」は身体的な生殖活動を言うのではなく、霊的な生殖を意味する。結婚は堕罪に結び付けられる。
処女・童貞性は義務ではないが、結婚は義務であり、法であるという。(361)。情欲のエコノミーにかかわる義務。

アウグスティヌスは、教会が処女・童貞を特別視していてもキリスト教共同体に帰属するための条件として、処女、結婚、節慾を求める必要がないという。(384)一つの共同体において統一される。
アウグスティヌスとって「性的関係は、堕罪の帰結でもなければその原因でもなく、創造の御業そのものによって人間の自然本性のなかに組み入れられているのだ。性的関係は、したがって、過ちからも情欲からも解き放たれいる」(397)
「結婚は<天地創造>の一部となす。。教会は結婚を保証する。なぜなら教会を構成する霊的諸形態の一部であるから。だから結婚は善なのだ。(404)
アウグスティヌスはさらに情欲に支配された、小罪を侵す人々に過度に義務をかすべきではなく、寛容さを説く。(421)
「リビドーとは、過ち、堕罪、「不従順の報い」の原理によって性行為と総合的なやり方で結びつけられた一つの要素なのだ。この要素を明確に定め、メタ歴史におけるその出現地点を決定することによってアウグスティヌスは、性行為とそれに内在する危険とが思考される際に拠り所とされていた「痙攣性のひとかたまり」を解体するための根本的条件を立てる。彼は一つの分野領野を開くのであり、そしてそれと同時に、政敵官益を回避するかそれともそれを(多少とも自らの意志にもとづく譲歩によって)受け入れるかという二者択一とは全「別の様態において振舞いを「統治」する可能性を素描するのである」(447)
アウグスティヌスとって情欲は意志に逆らう非意志的なものではなく、意志そのものに属する非意志的なもので、情欲なしでは意志は意欲しえない、しかし恩寵があれば情欲の弱点がのぞけるという。
「情欲の「自律性」、それは、主体が自分自身の意志を欲するときの主体の法であるということ。そして主体の無力、それは、情欲の法であるということ。これが、帰責性の一般的形式――というよりもむしろ、その一般的条件――なのである。」(454)
「情欲のことを人は「罪」と呼ぶが、「ある種の言葉の綾で」そう呼ぶ」(455)
「古代世界における性行為は、「発作性のひとかたまり」として、つまり個人がそこで他者との関係の快楽のなかに沈潜し、死を模倣するに至るような、痙攣性の統一体として考えられていた。そのひとかたまりについて、それを分析することは問題とならず、それを快楽と力の全般的エコノミーのなかに置き直すことが必要とされていただけであった。そのひとかたまりが、キリスト教においては、生活規則、自らを導き他者を導くための技法、検討の技法、告白の手続きによって、また、欲望、堕罪、過ちなどに関する一般的教義によって、解体されてしまった。しかしながら、もはや快楽と関係を中心としてではなく、欲望と主体を中心として、一体性が組み立て直された。その一体性は、回折がのこるようなやり方で、そしてそこで分析が可能となるようなやり方で組み立て直された。理論や思弁の形態のもとで、そしてまた他者もしくは自己自身による個別的検討という実践的形態のもとで、分析が可能となる。そしてそれらの形態のもとで、分析は、ただ単に[推奨される]だけでなく、義務とされるのだ。このようにして、発作性の快楽のエコノミーを中心とするのではなく、情欲の主体の分析論と呼びうるようなものを中心とする組み立て直しがなされた。そこでは、性、真理、法権利が、我々の文化が緩めるどころかむしろ強固な絆によって結びつけられているのである。」(474)

2021/02/05

『はじめてのウィトゲンシュタイン』 古田徹也 NHKブックス

とってもためになった。かなりわかりやすく書かれていて、入門書としてはいいかもしれない。ただ、ウィトゲンシュタインをある程度読んでいて、知っているからさくさく読めたのかもしれないけど。
本書と同時に『哲学探究』の新訳が出版されており、それと一緒に購入。『哲学探究』はもう10年以上前に全集版で読んでいるけど、もう一度読むにはいい機会かなと思う。
ウィトゲンシュタインは存在論などの形而上学に否定的だが、どうしても僕ら人間はアプリオリなものを検討したい衝動がある。僕は最近では倫理についてよく考えているけど、これなんか普遍的な善なんかをどうしても考えてしまう。そんなものはないのはわかっているけど。ウィトゲンシュタインが言うように、日常に落とし込んだ倫理を検討する必要があるのはわかる。
けれども、普遍性も考えないと、何が良くて何が悪いのか比較もできないのではないかとも思う。それでもウィトゲンシュタインのほうが正しいと思う。
『哲学探究』を読む前の復習と予習をかねて本書を読んだ。以下、まとめ。

ウィトゲンシュタインにとって、「好奇心」「知識欲」の類を美徳と見ていなかった。(113) 科学技術の向上による知識を増やすことよりも、この営みにでは語りえないものの見方に重きをおいた。論理実証主義のように形而上学を嘲笑することはせず、語りえないものを語ろうともがく人に対して深く敬意を払っていた。(114)

前期ウィトゲンシュタイン
世界が存在するとはどういうことか、なぜ世界は亜存在するかということを、我々は語りえない。
「世界が存在する」とうう記号列は有意味な命題ではない。
存在と論理はともに超越論的である。
「論理は、どんな経験にも――すなわり、何かがしかじかという仕方で存在するという経験にも――先立つ」(『論考』5.552)
「私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する」(『論考』5.6)

科学信仰について。すべてを自然法則で説明ができるという態度の結果は、神秘の喪失。「説明が尽きる地点を看過し、語りえないものを見失ってしまう。その意味で、現代人は古代人よりも明晰ではない。
「古代の人びとは説明が尽きる地点をはっきりと認めていた分、より明晰であった。」(『論考』6.372)

永遠の相。
「永遠の相のもとに世界を全体として直感する、という場合には、そこに因果的関係というものが入り込む余地はない。……現実の世界にかんしては、原因と結果という関係性のもとで、個々の事態の成立や、時間的に前後する個々の事態間の関係を機寿する必要がある。」(74)
神秘は神秘に過ぎず、奇跡は奇跡に過ぎない。そこから「よい」ということは帰着できない。
「無限定の世界全体を直感している私について語ろうとすれば、つまり独我論を語ろうとすれば、それはたとえば自己中心主義の主張に変質してしまう。同様に、世界が存在するという奇跡について語ろうとすれば、たとえば「宇宙に声明が存在するという奇跡」や「声明を育む地球という天体が存在するという奇跡」といった、経験的な内容にまつわる話に変質してしまう。だから、語ってはならない。神秘や奇跡は、沈黙において示され、保存されているということである」(84-85)
「彼の言う「現在に生きる」こととは、未来に背を向けて刹那的に生きる、などということではなく、世界に生じうる一切の事態を現在卿においてとらえつつ生きるということだ。言い換えれば、過去も未来もない、無時間的な生を生きるということにほかならない。」(85)

後期ウィトゲンシュタイン
像(Bild)
「(1)人がときに実際に頭に思い浮かべるイメージそれ自体(=心的な絵、映像、写真の類い)と、(2)何かのイメージで物事を捉えるということ(=何かになぞらえて物事を把握するということ)とはっきり区別するために、後者の(2)の方の意味で言われる「イメージ」を、本書ではこれから特に「像」という言葉で表していく。そして、あるイメージで物事を捉えることを、ある像のもとで物事でとらえる、とも表現していく。」(131)
「肝心なのは、像とは、物事の見方や活動の仕方を曖昧に――つまり、多様な仕方で、あるいは未確定な仕方で――方向づけるものだということである。まして、像がそれ自体で何事か意味のある内容を主張しているわけではない。にもかかわらず、人はしばしば、「人間の行動は自然法則に支配されている」とか「人間の行動は石の落下や天体の運行のようなものなのだ」などという記号列を口にし、その際に何らかの像を抱くだけで満足してしまう。なぜなら、そうした記号れるによって喚起される像が意味ありげだからだ。もう少し正確に言えば、その像が何かしら意味のある主張内容を示唆するからだ。しかし、それだけなのだ。像はそれ自体としては、人間の行動をどのように見るか、人間の行動に対してどのような探究や活動を行っていくか、その方向性を大雑把に示すだけなのである。」(136)

記号列は文脈に依存する。意味あるような記号列も文脈によっては全く意味不明にもなる。
記号列は人間の行動に対するひとつの像を表しているだけある。
「像はときに我々をから「かう。我々は像に幻惑され、像の内実を探究することなく、像を表現する物言いがはっきりした意味を有していると思い込んでしまう。」(157)
自然法則を説明も比喩的な物言いであり、自然科学の発展という事実に促されて構築されているがゆえに、有意味な内容を語っているだけではなく事実を語っているという錯覚すら助長している。
「言葉が意味をもつのは、言葉とともに我々が行う実践の賜物なのである」(178)
「ではいったい、言葉の意味はそのつど何によって定まるのか。それは生活の流れだ。すなわち、記号が我々の生活のなかで使用され、特定の役割を果たすその具体的な状況こそが、その記号をまさに意味ある言葉にするのである。」(183)
ウィトゲンシュタインは「言葉と、それが織り込まれた諸行為の全体」(『探究』-1:7)を言語ゲームと呼ぶ」(185)
「「言語ゲーム」という用語はここでは、言葉を話すということが活動の一部分、あるいは生活形式(Lebensform)の一部分であることを際立たせるべきものである(『探究』-1:23)」(185)
「共通の本質なしに全体として一個のまとまり(カテゴリー、概念)を構成する類似性の連関を、比喩的に「家族的類似性」と呼ぶ」(188)
「言葉が織り込まれた我々の日々の実践は……多様なものであり、しかも常に生成変化を続けている。そして、ある実践と別の実践の間に見られる共通点は、また別の実践との間との間には見られず、代わりに別の共通点が現れる、という風にして、錯綜した類似性のネットワークが書く実践の間に張られている。そのネットワークを辿ることによって見わたされる複雑な連関の全体を、ウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」と呼ぶである」(189)
「日常」とは多様な文脈の寄せ集めである。

「連結項」は、「原型(諸事象の根源、共通の本質)」ではなく「像」に過ぎない。諸事象を一個の全体として秩序づける見方はひとつとは限らない。(212)
「理念は、現実の比較大正となる像、現実がどのようであるかを描写するために用いられる像であるはずだ。我々がその像に従って現実を歪めるような、そうした代物であったはならない。(『宗教哲学日記』1937.2.8)
「発話が身振りや表情や眼差しといったものと同様の振る舞いとしての側面をもつこと、反応(リアクション)である以上は自己感けるしたものであはありえず相手を必要とすること、空いてを動かし影響を与える行為としての側面をもつこと、等々である。」(216)

アスペクト。
「ゲームのアスペクト(相貌、側面)も次々に替わっていく。そうやって多様なアスペクトを渡り歩きつつ、個々のアスペクト同士を比較できること、それが「ゲーム」という言葉の意味を十分に把握できているということである。つまり、ゲームがまさにそうであるように、多様なアスペクトを見渡すことではじめてあるがままに捉えられる物事が存在する、ということだ」(224)
「あらゆる物事(物、現象、概念)は多様な見方に開かれており、無数のアスペクトをもちうる、というアプリオリな主張を行っているわけではない。むしろ彼は「ゲーム」であれ何であれ、常に特定の物事を取り上げ、それに対する別の見方を実地で具体的に提示することに徹している。それによって、その特定の物事に対して志向が硬直している者が「精神的痙攣」を解く手助けをすること、それが彼の目的なのだ。その意味で、後期ウィトゲンシュタインの活動はすぐれて臨床的である。」(231)
感覚にも感情にも、それを引き起こした原因が当然想定されるが、感情の場合にはそれを加えて理由も必要である。」(251)
「知っている」とは、知らない可能性があるときに使わる。しかし自分の痛みを「知らない」というのは意味不明となる。他者の心を知ることができるのか。懐疑論者は他者の心を知ることはできないというが、ウィトゲンシュタインは他者の心を知ることができる、という。つまり、「知っている」は自分の心ではなく他者の心について言われる事柄となる。
「私は自分がいま感じていることや考えていることを知っているわけではない。かといって、知らないわけでもない。つまり自分の心はそもそも「知っている」とか「知らない」という知識の概念が通常適用される事柄ではない」(256)
アスペクトの閃き。不規則なものに秩序を見出した時の、バラバラなものの集合に有機的なまとまりを認めたときのこと。同じものを見ているにもかかわらず、同じではなくなる。
ウィトゲンシュタインはこれを生理的、解剖学的な解明ではなく、「知覚や思考等にまつわるほかの多様な概念との関係をよくせいりすることによって答える」(281)
アスペクトの閃きそれ自体の家族的類似性の探求。地道な調査を抜きにして、この種の体験の全体をあるがままに見わたすことは不可能。
アスペクト盲は、知覚に障害があるのではなく、類似性や多義性に気づくことができないこと。

2021/02/04

『新プロパガンダ論』 西田亮介/辻田真佐憲 ゲンロン

2018年4月と言えばまだつい最近だけど、もういろいろと忘れている。
西田さんの「プロパガンダ」に対する距離感もよくわかる。西田さんはあらゆる政治的な広報をプロパガンダと手あかのついた言葉で表すことで、見るべきことが見えなくなることを危惧している。
でも辻田さんの「プロパガンダ」に対する警戒感というか認識もよくあかり、辻田さんは歴史との照合という観点から「プロパガンダ」を見ている。

政治プロパガンダの怖さは、「空気」を醸成していくことにある。プロパガンダではないが、辻田さんが述べるナチスの例で、あえて重要な指示は口頭で行い、曖昧にしていく。それによって指示されたものはあれこれ慮って行動を起こす。自主規制や相互監視はこの空気の醸成による。
プロパガンダの効果測定も難しく、実際に効いているのかどうかよくわからないともいう。
与野党の広報については、なかなか考えさせる。政治の広報というのはダサくて、見てられないものだったけど、安倍政権の広報はなかなかだと思った。芸能人との会食やバラエティ番組への出演。「Vivi」なんかは、ぼくは自民党支持者ではないけど、なかなか面白いことやっているなあと思った。
下からの「プロパガンダ」のようなものも、なかなか面白い事例があって、知らなかったけど、ゆずが「ガイコクジンノトモダチ」とかいう曲をかいていたとは。この手の下からの便乗なるものが、けっこう大きい影響はあるのかもと思う。

ただ一つ気になったのが、プロパガンダとは関係ないが、コロナの影響における経営悪化を「経営環境の変化」とする西田さんの認識で、困窮者や失業対策をしっかりしていれば、たとえ潰れても問題がより小さいものとしているところ。
僕はけっこう西田さんには好意的なんだけど、それを言っちゃおしまいじゃない、とも思う。新聞社の人材や取材網はいったんなくなれば再構築が難しいって言っているけど、それは他の商売でも同じ。メディアこそ「経営環境の変化」でしかなく、それによって影響を受ける情報の偏りや不正確さなども、世の中の「経営環境の変化」でしかない、といった感じになると思うわけで。さらに言えば大学のおける大学教授の不遇だって「経営環境の変化」でそれについていけない人は、ふるい落とされればいい的なことになりかねい。

いずれにせよ、どんなことも政府の広報がうまくいっていないことは、ぼくもなんだかなと思う。行政サービスを受ける側には、情報にアクセルするハードルが高いと思う。

数年後にまた読むと面白いかもしれない。コロナのところはまだ記憶に新しいこともあり、それほど感慨深いところはないが、2018年、2019年なんかけっこう年表を見ているだけでもあれこれ思い出す。売らずにとっておこう。

2021/02/03

20年ぶりの第九

去年のことながら、記録のために。
20年ぶりに第九のコンサートへ行く。

東京交響楽団 
ベートーヴェン 交響曲第9番ニ短調「合唱付」
指揮:ジョナサン・ノット
ソプラノ:ジャクリン・ワーグナー
メゾソプラノ:カトリオーナ・モリソン→中島郁子
テノール:クリスティアン・エルスナー→笛田博昭
バスバリトン:リアン・リ
合唱:新国立劇場合唱団
会場:サントリー・ホール
日にち:2020年12月29歩日

コロナの影響で、メゾソプラノとテノールの歌手が変更となる。
第九は正直それほど好きな曲ではなく、全体を通しで聴くのですら、数年ぶりではきかず10年は聴いていない。今年、年末は何を聴きに行こうかと悩んでいたが、たまには第九もいいもんだろうと思ったわけで、でこれがかなり正解の選択だったと思われる。
第九ってこんなにいい曲だったけ、と思わずにはいられず。ジョナサン・ノットの曲運びは軽快で、あのフルトヴェングラーのような重々しさがない。僕はこの重々しさが好きではなく、だから第九を敬遠していたわけです。
しかし演奏は素晴らしかった。
第一楽章から第二楽章まで、ベートーヴェンの童貞臭さが抜けて、あか抜けた演奏だった。両楽章と明るい曲調ではないが、どこか天性的な明るさをもったものに仕上がっている。
第三楽章にしてもたっぷりと聴かせるアダージョではなくて、なめらかでどこかモーツァルトのような要素を含ませていたと思う。
第四楽章、ここはクライマックスでもあるので壮大にダイナミズムを持ってくるかと思いきや、やはりここでも洒脱な軽快さをもって合唱を終えていく。
曲全体で素晴らし統一感を持たせていて、曲が進むにつれてその統一感が増していく。第四楽章では、第一楽章から第三楽章までが序奏であるかのように、僕は第四楽章にこの曲の全体性を感じることができた。これはCDやレコードでは体験のしたことのないものだ。
んーまさかこんなに素晴らしいとは思わなんだ。

アンコールは「蛍の光」。これもこれで素晴らしいですねー。年末を心から味わうことができた瞬間。
拍手はやまず、ジョナサン・ノットは何度もカーテンコール。コロナで「ブラボー」の声はダメなので、紙に書いてきている方を複数見ける。多くの聴衆は立ち上がって拍手を送り続け、なかなかみんな帰らなかった。

2021/02/02

『クオリアと人工意識』 茂木健一郎 講談社現代新書

ううーむ。面白い内容だと思うのだけど、いまの僕は人工意識だとか脳科学だとかにあまり興味がなくて、あまり真剣に読めなかった。残念。僕の今のマイブームは歴史だから、少し時間をおいてもう一度読んでみることにしようと思う。
いちおうは、流し読みはしたのだけど、、、
また今度。

ただ、読んだ感想を簡単に残しておくと、クオリアという概念の難しさ。「質」を感じる以上の身体的、時間的な何かを内包しているのかと思うが、かなり難解。ふわっとしたイメージはできるけど。
茂木さんが言うように、意識を定義づけられなくても意識は存在する。同じようにクオリアを厳格に定義づけられなくてもクオリアはある。

2021/02/01

『罪と罰』 ドストエフスキー/江川卓訳 岩波文庫

んーやっぱりドストエフスキーはおもしろいですね。
『カラマーゾフ』ほどではないにせよ、ここでもやはり登場人物がみな精神疾患持ちのような連中ばかりで、会話劇がやばい。

スヴィドリガイロフの存在がこの小説において際立っている。
ドゥーニャを襲うとしながら、愛してもらえないことを聞いて、途中でやめる。
スヴィドリガイロフは大雨の中で少女を見つける。ベッドに寝かしてあげるが、彼は少女に性的なものをみつける。
ここのくだりは、現実と夢が錯綜しており、かなりカオス。
そしてスヴィドリガイロフが自殺をする。感動的だ。マルメラードフの子供を孤児院にいれ、ソーニャにはラフコリーニコフの懲役暮らしのためにお金をあげ、自分が結婚するつもりだった少女にもお金を与える。
いつの間にか、スヴィドリガイロフは聖人のようにふるまい、そして自殺をする。彼の葛藤は謎だが、行動は聖人めいている。
最後のセリフでアメリカに行ったことを伝えてくれと、守衛に言う。守衛にいったところで意味がないのに。
「ねえ。きみ、おなじことじゃないか。いい場所さ。あとから聞かれたら、アメリカへ行ったといっておいてくれや」

この小説も希望で終わる。
「ふたりは口をきこうとしたが、できなかった。涙がふたりの目に浮かんでいた。ふたりはどちらも青白く、やせていた。だが、この病みつかれた青白い青には、新しい未来の、新しい生活への復活の朝焼けが、すでに明るく輝いていた。ふたりをふっかつさせたのは愛だった。おたがいの心に、もうひとつの心にとっての尽きなることのない生の泉が秘められていたのだ。」
「思弁の代わりに生活が登場したのだ。」