ずい分前にドゥ・ヴァールの『道徳性の起源』(紀伊國屋書店)を読んだが、今回の『利己的なサル、他人を思いやるサル』も、だいたい同じ内容かと思われる。『道徳性の起源』は、細かいところを覚えてないし、すでに売却してしまったが。
「人間の本性は野蛮なのか、気高いのかという二者択一ではなく、人間はその両方を兼ね備えているのだ――そんな人間像は複雑ではあるけれど、はるかに真に迫っているにちがいない。」(10)
ウィルソンの『社会生物学』
社会生物学者がなげかける意味論のわな。
エリオット・ソーバーは「利己的」には二つの意味があるという。「俗称的エゴイズム」と「進化的エゴイズム」。「俗称的エゴイズム」は日常的に使う意味で、遺伝子の自己発展を意味する場合は「進化的エゴイズム」と使い分けるべきとする。
たとえば、チンパンジーや人間は俗称的な意味で利他的行動が、生存や生殖にかかわる場合、進化的な意味での自己中心的となる。
ただし、通常では人間は道徳を語る際、その意図をみる。意図や意志のない行動から生まれた他者への利益は、利他的行動とは判断されない。たとえ結果が同じでも。
しかし社会生物学では、行動の結果に重点が置かれているため意図の有無は問題にならない。それはつまり生物、ひいては人間の道徳性の解明を放棄していることになる。
道徳性は自然に含めれないものなのか。
ドーキンスは道徳性は自然には埋めれないから意識して身につけるべきとし、自然と道徳性を切り離す。利己的な遺伝子の味方からすると、愛や憎しみもホルモンや脳波に還元しないにせよ、遺伝子に帰結させてしまっている。
これまでの社会生物学などの場合、動物の行動を人間界の基準と比較してきた。
クロポトキンの『相互扶助論』
生存競争に直面する動物は、互いに助け合う必要がある。このような見解はドゥヴォールはクロポトキンのシベリア探検からきていると指摘する。そこでは季節の移り変わりが極端であり、生物がまばらな大地。北アジアでは種の敵は自然だった。生存競争というのは、個体がその種を相手に戦うのではなく、個体の集団が困難な環境に対して行うものだからである。(47)
相互扶助の考え方は社会生物学の基本的な材料となる。
ロバート・トリバースの「互酬的利他現象の進化」
情動や心理プロセスといった中間プロセスに注目した。
ただちに見返りをえたれる協力関係は互酬的利他現象とはいえない。
三つの特徴
1 やりとりされる行為が受け手には利益になるが、実行者には犠牲を伴う。
2 代償と見返りのあいだにタイムラグがある。
3 見返りを条件に犠牲を払う。
これは当事者がギヴ・アンド・テイクで動くわけではない。
リチャード・アレクザンダーの『道徳システムの生物学』
人間の集団対集団、国対国で繰り返してきた暴力行為こそ、我々が共通の利益や倫理的行為に重きを置いてきた究極の理由。
そして、グループ内の葛藤である。個体の利益と集団の利益が矛盾するとき、とくにそれが集団どうしがきそいあっておりときに生じた場合、道徳システムが生まれる。
そしてこの関係は、基本的に類似性の原則で成り立っている。人間の場合、宗教、学歴、身体的特徴など。
道徳原理といものはもっぱら自分が所属するグループに向けられるもので外界には適用されてにくい。
ドゥ・ヴァ―ルの「コミュニティの利害」
「協力的で統率のとれたグループは、所属する構成員すべてに利益を与える。それゆえグループに生きる者は社会に気を配り、・・・・・・社会を改善し、強化する努力をしなければならない。・・・・・・紛争解決は当事者のみならず、コミュニティ全体の問題になってくるのだ。動物がコミュニティのために犠牲を払うと言っているわけではない。むしろ社会環境は個体の生存を左右するため、すべての個体がその質に関与しているのだ。」(61)
さらにモラル社会では、自分の行為が他者からどう見られるか、思われるかが重要な要素となる、アダムスミスの「公正な傍観者」とは、まさに社会的な事象を共感をもって理解する者のこと。
ドゥ・ヴァ―ルは道徳性進化の条件
1 集団の価値――集団に属しているおかげで食物を手に入れ、敵・捕食者から身を守ることができる。
2 相互援助――集団内で協力や互酬的な交換が見られる。
3 内部衝突――集団を構成する個体が、それぞれ異なる利害を持つ。
衝突は一対一もあれば、高度なレベルもある。
1 一対一――直接の相互扶助や、喧嘩後の和解など、個体どうしが一対一で解決する。
2 高いレベル――コミュニティが個体どうしの関係に配慮する。和解のあっせん、平和的な紛争解決の仲裁、利他的行動の集団全体での評価(間接的な相互関係)、社会環境の質の向上のための貢献奨励といった形で現れる
ドゥ・ヴァ―ルは、そして道徳性というのは、言語と同様に、生まれた社会の規範を吸収していき、並べていきながら学ぶものであるという。ここは生成文法と同じように、道徳は多様で、ある社会では不道徳なことでも別の社会ではそうではないことはふつうにある。性教育、私刑、殺人、これらは普遍的な道徳規範でのべることができず、遺伝子もあらかじめプログラミングしてうrわけではない。ただし、その枠組みはある。
「同情」、または「感情移入」について
本書ではチンパンジーなどがみせる、「思いやり」や「共感」「同情」の例を多く載せている。
ドゥ・ヴァ―ルは、行動主義や社会生物学の考え方に対し、重要な批判をしている。
「私たちがいま取り上げているのは、動機であり意図なのだ。実際にどういう行動で現れるかは関係なく、他人を思いやる者は他者の状況を敏感に察知し、助けたいという衝動に駆られ、その状況で最適の行動は何かを決定しているにちがいない」(105)
社会の形成
カントの道徳論は、行動のフォーマットがなんであるのかを考えたものでもある。つまり、親切心で行うのではなく、「そうせねばならない」という命令というのは、行動規範であると同時に人間のフォーマットだということ。
そこに「記述規則」が加わる。それは見返りと懲罰によって積極的に支えられているもので、典型行動のこと。人間が家畜やペットに課すルールもそのひとつ。
そして社会が醸成されていく。
フォーマットの上に記述規則がつくられていく。
人間と動物の連続性(感想)
「人間の本性は野蛮なのか、気高いのかという二者択一ではなく、人間はその両方を兼ね備えているのだ――そんな人間像は複雑ではあるけれど、はるかに真に迫っているにちがいない。」(10)
ウィルソンの『社会生物学』
社会生物学者がなげかける意味論のわな。
エリオット・ソーバーは「利己的」には二つの意味があるという。「俗称的エゴイズム」と「進化的エゴイズム」。「俗称的エゴイズム」は日常的に使う意味で、遺伝子の自己発展を意味する場合は「進化的エゴイズム」と使い分けるべきとする。
たとえば、チンパンジーや人間は俗称的な意味で利他的行動が、生存や生殖にかかわる場合、進化的な意味での自己中心的となる。
ただし、通常では人間は道徳を語る際、その意図をみる。意図や意志のない行動から生まれた他者への利益は、利他的行動とは判断されない。たとえ結果が同じでも。
しかし社会生物学では、行動の結果に重点が置かれているため意図の有無は問題にならない。それはつまり生物、ひいては人間の道徳性の解明を放棄していることになる。
道徳性は自然に含めれないものなのか。
ドーキンスは道徳性は自然には埋めれないから意識して身につけるべきとし、自然と道徳性を切り離す。利己的な遺伝子の味方からすると、愛や憎しみもホルモンや脳波に還元しないにせよ、遺伝子に帰結させてしまっている。
これまでの社会生物学などの場合、動物の行動を人間界の基準と比較してきた。
クロポトキンの『相互扶助論』
生存競争に直面する動物は、互いに助け合う必要がある。このような見解はドゥヴォールはクロポトキンのシベリア探検からきていると指摘する。そこでは季節の移り変わりが極端であり、生物がまばらな大地。北アジアでは種の敵は自然だった。生存競争というのは、個体がその種を相手に戦うのではなく、個体の集団が困難な環境に対して行うものだからである。(47)
相互扶助の考え方は社会生物学の基本的な材料となる。
ロバート・トリバースの「互酬的利他現象の進化」
情動や心理プロセスといった中間プロセスに注目した。
ただちに見返りをえたれる協力関係は互酬的利他現象とはいえない。
三つの特徴
1 やりとりされる行為が受け手には利益になるが、実行者には犠牲を伴う。
2 代償と見返りのあいだにタイムラグがある。
3 見返りを条件に犠牲を払う。
これは当事者がギヴ・アンド・テイクで動くわけではない。
リチャード・アレクザンダーの『道徳システムの生物学』
人間の集団対集団、国対国で繰り返してきた暴力行為こそ、我々が共通の利益や倫理的行為に重きを置いてきた究極の理由。
そして、グループ内の葛藤である。個体の利益と集団の利益が矛盾するとき、とくにそれが集団どうしがきそいあっておりときに生じた場合、道徳システムが生まれる。
そしてこの関係は、基本的に類似性の原則で成り立っている。人間の場合、宗教、学歴、身体的特徴など。
道徳原理といものはもっぱら自分が所属するグループに向けられるもので外界には適用されてにくい。
ドゥ・ヴァ―ルの「コミュニティの利害」
「協力的で統率のとれたグループは、所属する構成員すべてに利益を与える。それゆえグループに生きる者は社会に気を配り、・・・・・・社会を改善し、強化する努力をしなければならない。・・・・・・紛争解決は当事者のみならず、コミュニティ全体の問題になってくるのだ。動物がコミュニティのために犠牲を払うと言っているわけではない。むしろ社会環境は個体の生存を左右するため、すべての個体がその質に関与しているのだ。」(61)
さらにモラル社会では、自分の行為が他者からどう見られるか、思われるかが重要な要素となる、アダムスミスの「公正な傍観者」とは、まさに社会的な事象を共感をもって理解する者のこと。
ドゥ・ヴァ―ルは道徳性進化の条件
1 集団の価値――集団に属しているおかげで食物を手に入れ、敵・捕食者から身を守ることができる。
2 相互援助――集団内で協力や互酬的な交換が見られる。
3 内部衝突――集団を構成する個体が、それぞれ異なる利害を持つ。
衝突は一対一もあれば、高度なレベルもある。
1 一対一――直接の相互扶助や、喧嘩後の和解など、個体どうしが一対一で解決する。
2 高いレベル――コミュニティが個体どうしの関係に配慮する。和解のあっせん、平和的な紛争解決の仲裁、利他的行動の集団全体での評価(間接的な相互関係)、社会環境の質の向上のための貢献奨励といった形で現れる
ドゥ・ヴァ―ルは、そして道徳性というのは、言語と同様に、生まれた社会の規範を吸収していき、並べていきながら学ぶものであるという。ここは生成文法と同じように、道徳は多様で、ある社会では不道徳なことでも別の社会ではそうではないことはふつうにある。性教育、私刑、殺人、これらは普遍的な道徳規範でのべることができず、遺伝子もあらかじめプログラミングしてうrわけではない。ただし、その枠組みはある。
「同情」、または「感情移入」について
本書ではチンパンジーなどがみせる、「思いやり」や「共感」「同情」の例を多く載せている。
ドゥ・ヴァ―ルは、行動主義や社会生物学の考え方に対し、重要な批判をしている。
「私たちがいま取り上げているのは、動機であり意図なのだ。実際にどういう行動で現れるかは関係なく、他人を思いやる者は他者の状況を敏感に察知し、助けたいという衝動に駆られ、その状況で最適の行動は何かを決定しているにちがいない」(105)
社会の形成
カントの道徳論は、行動のフォーマットがなんであるのかを考えたものでもある。つまり、親切心で行うのではなく、「そうせねばならない」という命令というのは、行動規範であると同時に人間のフォーマットだということ。
そこに「記述規則」が加わる。それは見返りと懲罰によって積極的に支えられているもので、典型行動のこと。人間が家畜やペットに課すルールもそのひとつ。
そして社会が醸成されていく。
フォーマットの上に記述規則がつくられていく。
人間と動物の連続性(感想)
動物には、感情がある。そして社会がある。チンパンジーなどは他者へ共感する認識能力もある。他者が何を考えて行動しているのかを推測する能力もある。
だからといって人間のようなモラルがあるわけではない。
しかし、互酬的関係もあれば、排他的な関係もある。諍いをやめさせる和解のやり方もあり、上下関係や公正さもみられる。
人間は、「動物的」であることをやめようとしたりする。例えば婚姻制度を廃止しようとしたり、職場の人間関係を否定したりする。
しかし、婚姻制度はおそらく人類の誕生と同じくらい長い歴史をもち、いまだかつて完全な撤廃を実現できていない。職場の人間関係にしろ、どんなに飲みニケーションを否定しようが存続しつづける。
ぼくらは、婚姻制度などを古い悪習であったりと罵ることがある。まあ婚姻制度の否定なんかずいぶん昔からあるから、別段現代的な考えでもないけど、そのなかを生き延びてきた制度だ。
それには、人間の動物としての何かがあると思われる。
動物がもつ社会は、人間とは異なるにせよ、そこにはただルールがあるのではない。
道徳というのは、たんに善悪を論ずることではなく、社会の規範をつくり上げているもので、重要なのが道徳は理性とは別物であること。
ドゥ・ヴァールはここでかなり重要なことを本書で述べている。哲学の世界では道徳は理性で語られ、高尚なものとして扱われるが、そもそもチンパンジーでも、人間と共通する道徳的ふるまいはあり、それらは集合となし社会が築かれていっているということだ。
善悪の彼岸がここにあり。
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