2021/01/30

『日本の近代とは何であったのか――問題史的考察』 三谷太一郎 岩波新書

ウォルター・バジェットをヒントに日本の近代を解いていく。
バジェットにとってき近代とは「議論による統治」であり、前近代を自由な議論を可能にする積み重ねの時代とし、近代は一日にしてならずとした。
バジェットは「伝統や習慣から自由な人間の自己利益の認識能力に疑問をもち、それを駆使して把握したと信ずる自己利益を行動の発条とする同時代の功利主義的人間観に与し」なかった。
王権のような単純な統治ではなく、近代は「複雑な時代」であり、おもしろいのがバジェットは「受動性」を説く。性急な行動を妨げて入念な考慮による「議論による統治」。
そして「慣習の支配」から解放させるには、議論に委ねること、つまり議論されることは問題の脱神聖がなされていくという。
戦前の政党政治を加藤高明内閣(1924, 大正13年)から犬養毅内閣(1932年、昭和7年)までの8年としている。

複数政党制が成立することは世界史的にみて一般的ではない。しかし日本では明治憲法下で複数政党制が実現した。
それは日本が江戸幕府からもっていた権力分立制を引き継いでいるからという。江戸幕府では合議制によって政治が行われていた。これは支配者が専門家である有力官僚の恣意的な決定を防ぐためだった。行政の没主観性を達成するための合議制であった。そして日本では幕藩体制とともに相互監視機能が備わっており、あらゆる行政機構が複数性(合議制)であり、お互い牽制しあう制度が精密に出来上がっていた。
そして同時に、「文芸的公共性」が成立しており、政治的コミュニケーション以外の学芸の分野でのコミュニケーションが活発だった。(森鴎外の史伝、澀江抽齋、伊澤蘭軒、北條霞亭など)

西周は徳川慶喜のブレーンとして、三権分立を主張していく。これは幕府が行政権を最終的には握る算段だったという。すげーな。そして立法権は全国の大名たちらによる合議制をもって行おうとした。立法権と行政権の分離は、非幕府勢力を立法権の領域に封じ込めることだった。やっほー。
そしてさらに諸大名らの意見を「衆議」として、伝統的な合議制をめざし、それまで幕府を意味していた「公儀」の正当性が失われ、「公議」へと移行していく。ここには議会制の萌芽がみられる。

明治憲法は幕府のような覇府の出現を防止するために、権力分立制だった。つまり三権分立のみならず統帥権の独立は、そもそもが軍事政権のイデオロギーではなく、。権力分立のイデオロギーによってなされたもの。天皇の存在のために集権的、一元的国家と見られがちだが、実際には相互均衡が作動していた。そして明治憲法は反政党内閣の性格をもっているが、これも立法と行政の両機能をもってしまっている政党内閣の排除の志向性だった。
穂積八束はアメリカと同様に権力分立がなされている明治憲法を高く評価していたし、上杉慎吉は反政党内閣論者だが、明治憲法の権力分立制を強く主張していた。とくに立法権と司法権の独立を重視していたという。美濃部達吉はゆるやかな権力分立で立法権を優位にする学説をといていた。故に裁判所が議会でつくった法律を審議することはありえないことだった。なにーー。

明治憲法においうては内閣にしろ統制力は弱かった。内閣自体、国会の指名ではないので、議会の支持を得ずらかった。これは現在の内閣制とは異なる。
「日本の政治は、遠心的であり、求心力が弱かった」(72)
この分権的な体制を統合する非制度的な主体の役割を担っていたのが、藩閥のリーダーであり元老たちだった。とはいいつつも藩閥とは関係のない議会を掌握することは元老たちもできず、藩閥は政党の役割を担えなかった。
注意すべきは、立憲主義であることは民主主義であるということではない。五・一五事件ののちにできた斎藤實内閣は、専門家組織としての官僚内閣であり、これに蠟山正道は立憲主義の唯一も道として提言し、立憲的独裁へと日本の政体は変わっていく。

明治日本の経済政策は、やはり不平等条約とは切り離せない。明治政府は外国からの支配を警戒し、外国債に頼ることをしたくなかった。そこで、地租改正が行われていく。そして安定的な質の高い労働力の確保という観点から「学制」が取り入れられていく。
また外国資本に依存しないですんだのは、明治政府が四半世紀以上、対外戦争をしなかったこと、とくに日清戦争の回避が大きい。外債の危険性はグラント大統領が明治天皇にも具申したらしい。
そして明治27年の日清開戦までには、ある程度の不平等条約が是正されていき、外債募集へと舵をきることができるようになった。
自立型資本主義から、外債を受け入れることで国際資本主義へと転換していく。外資資本が入り、本格化するなかで日露戦争となっていく。
高橋是清と井上準之助の対比もおもしろく、高橋はドイツ・ユダヤ系の投資銀行クーン・レーブ商会と親密な関係があったが、井上はアングロサクソン系のモルガン商会と結びついていたという。
井上のモルガン商会とのつながりで、1920年に中国に対する米英仏日四国借款団にモルガン商会のラモントを加入させ、日本はますます国際金融とのつながりを強化していく。そしてこのながれはワシントン体制へと引き継がれていく。この四か国を第一次世界大戦後の戦後レジームとなる。

日本は帝国主義であったが、それは欧米諸国の帝国主義とは性格が異なるものだった。
欧米の帝国主義は「自由貿易帝国主義」であり、単純な拡大主義ではなかった。欧米の場合は軍事コストを植民地経営にあまりかけずに行っており、つまり植民地経営とは欧米とっては経済的利益の追求にあり、日本では山県の「利益線」「主権線」という言葉が表すように、軍事的安全保障の問題であった。
台湾、朝鮮の法と内地の法は異なっていた。その理屈が「異法区域」。植民地に憲法を適用できるかどうかなども議論される。美濃部達吉は立憲主義の範囲外として植民地を規定していた。

枢密院とは、憲法に規定された枢密顧問によって構成される天皇の最高諮問機関のことである。枢密院は帝国議会の貴族院と衆議院の上にある存在であり、明治憲法における日本の議会は三院制といっても間違えではない側面があった。

一般に日本の植民地経営についてのある種の誤解がある。それは、関東軍や関東都督府、総督府などの権力は集中的なものだったというもので、ある種のイメージとなっている。しかし実態は、分権的にしようとしており、悪く言えば縦割りにわざと仕組んでいる。そうすることで権力の分散を極力狙っている。

蠟山正道の「地域主義」はなかなか示唆的。「地域主義」は「国際主義」の修正版として提案されていることが重要。「地域主義」は「民族主義」「帝国主義」「普遍主義」の対立概念として登場する。
しかしこの考えが日本の「大東亜」という概念に利用されていく。
著者はここでおもしろいことを少しいっていて、竹山道雄『ビルマの竪琴』では「埴生の宿」「仰げば尊し」といった欧米の曲を原曲とする歌を使うが、最初はアジア共通で親しまれている旋律を選ぼうとしたようだが、結局はそんな日本とビルマで共通の旋律はなく、「埴生の宿」を選ぶしかなかったという。アジアを考える上でもなかなか示唆的な話。

日本をヨーロッパ化するのに上で、ヨーロッパのイメージを必要とした。そこで持ちだされたのが機能主義的思考様式。国民が主体的に動き、役割を果たすこと。
福澤諭吉、田口卯吉、長谷川如是閑、石橋湛山などもそうで、戦後では司馬遼太郎が代表。マルクス主義も当初は実用的な計画経済の理想として取り上げられていた。
鴎外の史伝はこの機能主義へに反対命題として明確に意識して著述されている。
近代日本が抱えていたヨーロッパ像は歴史的背景を排除されたものであり、永井荷風などはこのようなヨーロッパ像への批判があり、「近代」がすなわちヨーロッパであるという考えを一面的だとしていた。

教育勅語は天皇からの直接の公示ろなっている。当時から教育勅語と明治憲法の異質性があった。しかし、明治憲法はあくまでインテリ向けであり、教育勅語は庶民の規範となっていく。このあたりにも日本の政治の不安定さがあった。
教育勅語の成立過程で問題になっていたのは、宗教色をなくすこと、政治色をなくすことだった。
宗教色をなくすことは、道徳を天皇と結びつけるうえでも重要で、無用な宗教の対立産むことをさけるためだった。
そして政治色が強くなれば、世俗臭が強くなり、天皇からの勅語という神聖性を失いかねないというものだった。
教育勅語では、天皇は神などの絶対的超越者ではなく相対的超越者になっている。「皇祖皇宗」というのは、現実の君主の祖先というものを道徳の源泉としている。そしてこの徳は儒教思想が盛り込まれている。

とはいいつつ、「近代」も盛り込まれたものが教育勅語となっている。

2021/01/16

『民主主義とは何か』 宇野重規 講談社現代新書

前著の『保守主義とは何か』に引き続き、とってもためになる本でした。民主主義という漠然としたものの歴史がまとまっていてよかった。
僕自身は、それほど民主主義に期待していないのだけれど、というか現在の日本の民主主義が良くないってことに尽きるのかもしれない。いやそうではなく、一人の市民として自治体にも何も働きかけていないのだし、僕自身、かなり個人主義に毒された人間にすぎないことが痛感させられます。
まず、ポピュリズムも民主主義の現象であること。不満をもつ多くの市民の声を政治がすくい上げていくこなかった結果ともいえる。

合議制で決める政治は、特別なものではなく、ましてや起源を古代ギリシアに求める必要がないが、古代ギリシアでは民主制を発展させてきたこともあり、古代ギリシアの制度と歴史は民主主義を考える上でも出発点となる。
古代ギリシアにおいて、民主主義は第一に公共的な議論によって意思決定をすることが重要であるとする。そして第二に公共的な議論によって決定されたことについて、市民はこれに自発的に服従する必要があったが、強制されるものではなく、納得に基づく「自発的な服従」が重要であった。
古代ギリシアのソロン、クレイステネス、ペイシストラトスについては、
トゥキディデス『戦史』、モーゼス・フィンリー『民主主義 古代と現代』、橋場弦『民主主義の源流 古代アテネの実験』あたりを参照。
とはいいつつ、民衆の憎悪でソクラテスを失ったプラトンやクセノフォンからすれば民主制は、多数派が正しいとは限らないことを常に言っているしし、自己に配慮した哲人王を夢想していわけだが、まさにイデアだけにプラトンは理想主義者。アリストテレスにいたっては籤引きがいいといっている。
ここで重要なのが「共和制(res publica)」で、これはデモクラシーとは異なる。たしかプラトンの『国家(ポリテイア)』のラテン語訳はres publica。で、この共和制とは、「国家は市民にとって公共的な存在であり、それを動かす原理は公共の利益であるという理念」で、デモクラシーの「多数派の利益の支配」とは異なり、「公共の利益の支配」を含意する。共和制は代表制を取り入れた政治体制であり、間接民主主義をとおして選ばれた少数の市民が政府を運営することを意味している。
民主主義というのは、現在では金科玉条のようなものに仕立て上げられているが、歴史は必ずしも民主主義を肯定的に扱っていたわけではない。なんてたってアリストテレスからすれば理想的なポリスの大きさは5040人だとしているぐらいだから。

民主主義を先導するアメリカ合衆国だが、そもそもこの国の成り立ち自体が民主主義を目標にしていたかが疑問で、むしろ表向きの単なる看板でしかないのかもしれない。アメリカで憲法を制定し、各州に批准させるために運動していたの「ザ・フェデラリスト」の憲法解説書。憲法案は妥協の産物で、連邦政府が全州にたいする統治と支配が中途半端であった。
そしてアメリカ合衆国は、民主主義ではなく共和制を志向していたし、実際建国の父たちは「民主主義」ではなく「共和制」を好んで使っていた。
トクヴィルは19世紀前半のアメリカをみて、アメリカを覆う「平等化の趨勢、さらにはそこで人々の思考法や暮らし方」を含めて「デモクラシー」と呼んだ。アメリカ社会が出すエネルギーを「デモクラシー」とみたという。
アメリカ東部では名もなき一般人が政治的見識をもち、自治や結社の活動をしていたことに感銘をうけたようで、そこにデモクラシーを感じたという。ここからそれまで否定的な色彩を帯びていた「デモクラシー」に脚光が浴び、多様な「デモクラシー」が含まれるようになる。
トクヴィルはデモクラシーをまず少数の小さな自治体レベルでのものとして考えていた。だからトクヴィルの本には代議制民主主義の話はほとんどない。アメリカにはまさに古代ギリシアで行われていたデモクラシーが自治体で行われていたことに驚いていた。
そしてトクヴィルはデモクラシーを平等化の趨勢のことを指してもいる。貴族、聖職者、地主などの封建制から脱していく過程やエネルギーをデモクラシーとみている。
そしてデモクラシーの裏面もみる。伝統を壊すことは、それは社会基盤をこわすことでもあり、個人主義をもたらしている。これはデモクラシーが引き起こしたものと言える。アメリカでは結社というもので伝統的な紐帯のかわりを担い、市民からの寄付で事業を行うようになる。

ジョン=スチュアート・ミルはベンサムの功利主義の影響のもとに、古典的な自由主義を追求していく。自由を自分自身の幸福の追求であり、他人に決定権はない。幸福の尺度はみんな違うのだから。しかし自由にも限界があり、他人を妨害しないかぎりにおいてという条件付きとなる。すなわち他者の自由を侵害するならば権力によって抑制されることになる。
ミルは代議制民主主義を最善としてる。なぜならこれこそが、官僚制や優れた人材の必要性を述べており、さらには彼らに投票数を二票、もしくはそれ以上を与えることを認めていた。
代議制の真意は、執行権ではなく立法権にあり、ということではない。ミルは国会での立法については懐疑的だった。専門性が高く、うまく運用できていないのは昔からだったようだ。では、ミルは代議制の何を見ていたのか。「代議制統治が意味するのは、全国民あるいは国民の大多数の部分が、自分たちで定期的に選出する代表を通じて、どんな国制でも必ずどこかにあるはずの最終的統制力を行使する、ということである」。つまり代議制の本義は統治の監視と統制にあり、立法ではない。ぬおーーーー。そして、議会が行うべきは審議であり、多数の意見を聞き、討論を行うこと、多くの、多様な国民の意見を表明する機関である。ぬおーーーーー。
よく言われる三権分立について、執行権(行政権)、立法権、司法権があるが、実際には執行権と立法権を分離することは難しく、多くの国で立法権は空疎化し、執行権が強大にある。
この執行権がちょっとした議論になる。ルソーは民主制は理想であり、現実的な制度ではないとみていたふしがあり、むしろ貴族政、寡頭政を良しとしたふうもある。ルソーにとっては重要なのは人民主権であり、つまり立法権となり、執行権については少数の人びとにゆだねることを主張する。
しかし重要なのは立法権というよりも、執行権であるといえる。というとだ、現在の日本の国会は、とりあえず立法府となっているので、与野党ともに法案がでないこと自体、もうすでに国会の機能は果たせていないといえて、これはミルの意見と同じだ。ということは日本の国会も立法府ではなく、行政府としての性格をもっと強くすべきなのかもしれない。
そしてアメリカではフランスの影響で建国が行われたこともあり、三権分立がきっちりなされているが、イギリスでは行政権と立法権があいまいなかたちで一体化がみられるという。なるほどねー。

ウェーバーの苦悩。第一次世界大戦後のドイツで「指導的民主主義」と打ち出す。大統領制というのは代議制民主主義とは異なり、人民投票で決まる。ヴァイマール政治体制の苦悩。
シュミットの独裁論。なかなかアクチュアル。「近代議会主義とよばれているものなにしも民主主義は存在しうるし、民主主義なしにも議会主義は存在しうる。そして独裁は決して民主主義の決定的対立物でなく、民主主義は独裁への決定的な対立物でない。」んーいま現在、強いリーダーを欲する人民の心を代弁しているかのようなシュミット。
シュンペーターのエリート民主主義論。シュンペーターは人民は代表を選ぶだけで、あとは代表者が政治を自由に行えるようにすべきとする。個別案件での主張によって左右されてはいけない、代表者も競争によって選ばれるべきであるとする。
ロバート・ダールのポリアーキー。これはなかなかいい感じ。民主主義、民主主義とはいうけれど、この民主主義なる概念はあいまなでありすぎる。なので、ダールは民主主義をある種の理想として脇へ置き、ポリアーキーという複数の利益団体による権利獲得闘争として政治をとらえ直すという現実路線をとっている。民主主義を標榜する国家は先進国含めて数あれど、どこも「民主主義」を達成しておらず、いわば寡頭政治をしているにすぎない。痛いところです。だからこそ集団間の自由な競争によって望ましい結末を考え出せるような体制を考えることにしているようだ。ここには一元的な政府の支配もないい。ダールは面白そうだから、今度読んでみようかと思う。

その他参考文献は下記。
待島聡史『政治改革再考 変貌を遂げた国家の軌跡』 新潮選書
三谷太一郎『日本の近代とは何であったか 問題史的考察』 岩波新書

2021/01/14

『牛と土――福島、3.11 その後。』 眞並恭介 集英社文庫

 「牛の経済的価値は失われ、もはや家畜ではない。ここにいれば被曝はするし、これから先も餌代はかかる、手間もかかる。そこになんの意味があるのか。それを見いださないかぎり、自分らのやっていることには意味がない」(68)
被曝した牛を、安楽死ではなく生かしす選択をした被災者を描く。
読んでいてつらいものがある。牛を放っておけば餓死をするし、もしくは人に家を荒らしてしまう。それに牛を生かしても被曝した牛に価値があるのかと、安楽死させる。政府もそれを言う。
安楽死させる選択は決して非難できるものではない。
安楽死を選択した人にとっては、牛を生かしている人を非難したくなってしまう。
誰が悪いって、政府と東電なのに、被災者同士がいがみ合う現実。
悲しいですね。
牛を生かす理由って、かなり根源的な生への問いかと思う。牛を農地で草を食わせて生かせておけば、農地もすぐに復活できる。でも、これはある種の方便なのかもしれない。
そうしないと行政も人々も納得させることができないから。

2021/01/13

『木村正彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』 増田俊也 新潮文庫

福島清三郎が舞鶴に左遷された石原莞爾を慕い、東亜連盟の活動をしていく。その会が義方会で、それに牛島辰熊がや曹寧柱が参加する。そこで木村政彦と大山倍達も出会う。なんと牛島は木村を使って、東條英機を暗殺しようとしていたという。しかし、しようとしたところ東條は総辞職した。
この時代、武道家と政治家や軍人との関係は現在では考えられないような緊密さをもっていたのはたしかで、植芝盛平も出口王仁三郎とともにモンゴルへ行っているし。
ここに収められている柔道一本で生きてきた男たちの悲哀がたまらない。阿部謙四郎は戦後イギリスで講道館柔道ではない柔道を広めていこうと奮闘するのが泣ける。
あと、解説にも書かれているが、オーバーワークにたいする批判が昨今うるさいが、オーバーワークってなんでしょうね。根性だとかなんとかみんな嫌いなのかな。
なんか決められた練習以外で練習するのはいけないみたいな論調もあるようで。バカかとしか言いようがない。
みんな強くなりたい、うまくなりたいからオーバーワークする。
はあ、オーバーワークごときで昭和の価値観として批判されるのはたまらんわ。

2021/01/12

『戦争調査会』 井上寿一 講談社現代新書

『戦争調査会事務局書類』(ゆまに書房)が出版されたのが2015年~2016年。かなり遅れたなあと思う。
敗戦直後、幣原喜重郎が「敗戦の原因及実相調査の件」ということで、戦争調査会が設置される。
三つの基本方針
1 戦争著境は「永続的性質」を帯びている。
2 戦争犯罪者の調査は「別に司法機関とか或は行政機関」が担当すべき。
3 歴史の教訓を後世に遺し、戦後日本は「平和的なる、幸福なる文化の高い新日本の建設」に邁進すべきである。
東京裁判との兼ね合いで、法的な戦争責任を問うことは除外されていた。
戦争調査会は結局は存続せず、調査記録が残っただけとなった。

ブロック経済だったのかという疑問があって、これはなかなか盲点です。
オタワ会議に代表されるような日本いじめがあるというが、渡邊鉄蔵はこれに反論する。日本がブロック経済ではなく開放的な通商貿易体制の国だったこと、そして日本の方が世界経済のブロック化に挑戦していたということ。事実、日本は保護主義に反対していた。そして輸入も拡大していた。そして経済摩擦を起こすまでになっていた。事実は、ブロック経済どころか輸出を拡大していた。日本は孤立化などしておらず、各国は排他的でもなかった。

ジャーナリストの馬場恒吾は敗戦の原因を追究すること、それは戦争をはじめたからという論理だったが、幣原は戦争自体を否定おらず、戦争は勝つこともあるとしている。だからこそ敗戦の教訓を遺す必要性を説く。しかし馬場は危うい発言でもあった。いわば勝てる戦争ならしてもいいという考えの微妙なバランスで成り立っていた。

戦争の原因をどこまで遡ることができるのか。
明治維新まで遡る議論が当時かあるが、平野義太郎はこのような運命論を拒絶する。人口過剰のため領地拡大をしたという説もあったが、実際は日本から満州、朝鮮、中国へと移民がほとんど行われていたなかった。人口問題は非軍事手段で解決は可能だった。そして資源問題についても戦争を正当化できるものではなかった。日露戦争前後までには日中戦争、太平洋戦争の原因を見いだすことは難しいとする。
徳富蘇峰は戦争賛成ではあったが、必ずしも日本のやり方を擁護していたわけではない。とくに日中戦争については、日本側の中国に対する認識を批判していた。
興味深いのは、第一次世界大戦が終わって、軍縮と平和の時代が到来するが、それによって軍人への蔑視感情がでくる。そんななか、大正デモクラシーの雰囲気の中で、世相の頽廃を難じ、反動が起きる。華美な社会と成金の台頭によって、一部から世直し運動がはじまる。右翼テロが起きる。
永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次らのバーデンバーデンの盟約でgは国家総動員による戦争準備を約すが、これも大正デモクラシーの反動であり、もう一ついお形だった。軍部と国民の一体化を唱えている。しかし満蒙問題は話されていない。大正デモクラシーのなかで国
総動員と国家主義が醸成されていく。
ロンドン海軍軍縮会議において統帥権干犯問題が起きる。軍縮に調印するとなると統帥権に侵犯となるが、天皇自身が批准しているのだから問題ないとする。驚くべきは侵犯している主張したのは浜口雄幸だということ。なかなか興味深い。
戦争調査会で共有されていた見方としては、満州事変をすっぱりやめて、満州国への投資がきちんと行われていれば、日中戦争は起きなかったという。
日中戦争の和平についても、宇垣、石射猪太郎は国民党の周仏海の努力も、近衛の無駄な好戦的な声明などでチャンスを逃す。
戦争回避の転換点は、南部仏印への進駐で、これによってアメリカの態度がいっきに硬直化する。対日全面禁輸の措置となる。そしてこの措置は予測不可能だったとの見解もあるが、南部仏印への進駐が外交的に多大な影響を予想はできた。
とはいっても、まだ戦争回避の可能性があった。野村駐在大使によるアメリカ政府との交渉によって日米の妥協点をもって戦争回避もできた。しかし松岡外相による外交政策によってアメリカの心象を悪くする。しかし、野村、松岡に共通する認識は、雨いr化が強硬路線をとってきたことであり、松岡からすれば三国同盟を結ぶことでアメリカへの牽制すう意図があった。
下記、面白うそうな参考文献。
石井修『世界恐慌と日本の「経済外交」』(勁草書房)
井上寿一『線全日本の「グローバリゼーション」』(新潮選書)
籠谷直人『アジア国際通商秩序と近代日本』(名古屋大学出版会)


2021/01/11

『人口減少と社会保障――孤立と縮小を乗り越える』 山崎史郎 中公新書

社会保障の4分野は社会保険、公的扶助、公衆衛生、社会福祉となっている。そして自助、相互扶助、公助が基本となっている。
1950年代に日本では社会保障を整備し始めて、1995年一応の充実したものができたが、その後の日本経済の悪化と家族構成の変化により、それまでの社会保障も変化を要請される。
当初は、終身雇用、2世代3世代での家族同居、経済成長が前提となっていたが、これらが崩れていったのが、90年代からの日本の状況となっている。
社会保障の財源をどこから調達するかで、仕組み自体も変わっていく。税か保険かで、予算のたてかたも変わってくる。ここはなるほどと思った。
保険で賄えば、徴収した保険料は必ず目的に使われるが、税から賄う場合は、予算を組むために、必ずしも十分な予算を確保できるわけではない。そのため保険で社会保障を支えることは、財源の確実な確保という観点からはいい。かつては介護サービスは税金で賄われていたこともあり、予算の制限がかなり効いていたために、低いサービス状況だった。
そして保険で賄うことで国民に、制度を支えあっているという意識を植え付けることにもなる。
しかし、社会状況が変化し、非正規社員の増加、失業者の増加、高齢化によって、社会保障が十分に機能しなくなってきた。
教育や子育てへの支援が少ないのは、やはり予算の制限があるからなのだろう。であるから、結局寂しい支援になっている。
今後、人口減少と高齢化社会をむかえるにあたって、多様なニーズに対応できるような社会保障が必要になっていく。
2016年における開度保険の財源構成について、50%が公費で、残りの半分が保険料。全体の22%が65歳以上の保険料で、のこりの28%が40~64歳の保険料で賄われている。けっこう重要なところで、若年層からは保険料がとられれいないこと。たしかに税金から補填されているとはいえ、社会保険を細かくみていくとなかなか興味深い。

2021/01/07

『ミシンと日本の近代――消費者の創出』 アンドルー・ゴードン/大島かおり訳 みすず書房

めっぽう面白い。ミシンは和服には適さず、洋服向けというのは知っていたが、にしても西洋式と日本式をいう「二重生活」が議論されていたりしていたとは。

良妻賢母は、教育を身につけ、必要とあらば就職して稼ぐ努力をすることによって、家族と社会に奉仕する。家庭での役割をしっかり果たすことは、公共的義務であると理解されていた(29) 
裁縫とミシンは、家族と国民と帝国に奉仕する良妻賢母という理想像の普及努力にきわだったはたらきをみせた(29)
現在、家族観が騒がしいけども、家族観は時代でかなり違うもので。現在の見方から過去の家族観を問題にする際には注意が必要。左派の問題は、新しい家族観が提示できていない事かと思う。ぼくは新しい家族観を提示することはとっても重要だと思うんだな。保守側にはそれなりにあるわけ。だから彼らは強い。

ミシンの価格は月給の2か月分。割賦販売が行われていて、明治、大正期にシンガー社はPRと割賦販売で売り上げを伸ばしてきた。当時からローン払いがいいのか悪いのかの論争があって、ローンを組むことはよく言われるように、借金でもあるし、ある種の貧乏人や算術に弱い女をだます商売だという言説とは逆に、ローンを組むということは、家政をきちんと仕切る能力を要求するからよいという意見など、時代が違っても人間は変わらないなーと。

PRで気取った経済学語彙を使ったりしていたことも書かれている。ここでは「償却」。「御宅デシンガーヲ御使用ニナレバ數ケ月ニチヤントミシン代ヲ償却あし得ラレマス」(89)
んー、今ではカタカナ語なのかな。ここで「償却」という言葉を使うことで、科学的、合理的、論理的な雰囲気を創りだしている。
ミシンは二つの近代性を象徴しているという。一つは合理的な投資という近代性、もう一つは、自由と、生活スタイルと、西洋と結びついた快楽の追究という近代性の象徴だという(92)。洋服の自由さと倹約が統合されている。

知らなかったが、シンガー社のセールスマンだった遠藤政次郎と、裁縫学校をしていた並木伊三郎が現在の文化服装学院が設立さえれる。

雑誌「婦人倶楽部」などでは、ミシンを使っての成功物語が掲載されていった。余暇をつかって洋服をつくって貯金ができましたといった話など。んーなんか現在の株投資に似ている。
裁縫をはじめる動機が職業訓練に限定されず、近代を世コロコンで受け入れる日本文化の、特徴となる美徳だとみらていたという。(120)

手縫いかミシン縫いかの是非、服装における二重生活の功罪をあれほどさかんに議論した人びとは、能率と合理性の価値、ときには自由と個性の価値を、問題なく受け入れていた。彼らは同時に、近代の到来が不可避で不可逆であること、そして、近代における日本らしさ、もしくはその道徳的次元を検討せずに、近代を論するのは不可能であることをも肯定していたのである。(132)

「女袴」なんかも、考えてみれば近代の風景であることを思いもしなかった。20世紀初頭、大正期ごろ、女袴自体がモダンだっというのも思いを馳せることだろう。女学生はこの改革を喜び、女性のからだの解放と美的見地からも喜ばしかったという。そしてこれは「女学生」という特権的身分のしるしとなっている。

「日本」と「西洋」は複雑に絡み合いながら文化は醸成されていった。日本と西洋を固定的なものとして理解することを当時からあり、それに対しての批判も当時からあった。今和次郎の例がでており、西洋ファッションの広がりに可能性を感じていた。それは単なる帝国主義的な文化侵略面のものだけでなくグローバルな近代文化の受容の喜びだったという。
1941年に厚生省主導で国民の標準服プロジェクトが発足され、家庭で仕立てることができることが一つの基準にもなっていた。そしてモンペの受容史も興味深く、農業作業用のモンペが普及していったことに、穿きにくく醜悪であるという批判があったらしい。淡谷のり子は「絶対モンペをはかなかった」と語っていたという(219、『洋服と日本人』より)
モンペは今では強制的に着用されるようになったように思っていたが、どうもそうでもないようだ。どこかの時点で大多数を占め、モンペを穿かなければ非国民と言われる時点があったとは思うが。

戦後において、ミシンのイメージは、性的魅惑、近代科学、家政学が重なり合っている。
実質的な面でも、戦争未亡人が手に職をもって生活をしていくことをPRしていく。1960年代ぐらいまでは服装学校では職業訓練の面が強かったかが、70年代ごろから花嫁修業の一環になっていき短期コースができあがっていく。
専業主婦というのは現在ではマイナスのイメージしかないが、専業主婦はプロフェッショナル主婦でもあり、必ずしも現在ほどのマイナスなイメージがあったわけではない。
大宅壮一の文章が引用されている。これが秀逸。
いいドレスを着たい、美しくなりたいという欲望だけでなく、ネコもシャクシもという流行の心境だけでもない。「ふつうせいぜい県庁の下っぱ役人に稼ぐところ……主任か係長クラスのところにゆける」。自立精神をもって系坐雨滴独立のためにドレスメーカーとして働くか、自分の店をもつか、さらには夫や子供に自分が作った服を着せたいとか、このような気風は「ドライだのウェットだのでは割り切れぬ。ニッポンムスメがふむミシンの音は、ダイナミックな複雑だ(300)
ミシンが織りなす社会史は豊穣だ、
ミシンは近代世界の女性にとっての、かなり幅ひろい理想と役割の正当性を立証したのであって、その幅は、教養を求める者や、グローバルな渦となったスタイルとファッションの世界へのしあわせな参加者から、規律あり技能をもつ消費者にして家庭経営者たる者や、自活できることを誇りとする内職者まで、多岐におよんでいたのである(332)