2020/04/28

『主体の解釈学 1981-82 ミシェル・フーコー講義集成11』を読む ①

久しぶりに読むと、そんな内容だったのかと再発見ができます。最初に読んだのは出版されてすぐだから2004年!!
フーコーが何を問題にしているのか、講義録ということもあり非常に明確になっている。
ぼくなんかフーコーを読む前までは、真理というのは、認識問題としか考えていなかった。
やはり権力との関係で真理を解き明かそうとしているところが、フーコーらしいところです。アルキビアデスが政治家になる、そこでソクラテスは「自己への配慮」を助言する。「他者の統治」と「自己への配慮」が関係しているところがみそ。

中国哲学では権力とつねにかかわっているし、君主たるものなんたるかが問われる。だから東洋思想は自己修養の方法が前面にでてくる。ギリシア哲学、スコラ哲学なども中国哲学と同様に自己修養が論じられていて、やかり権力との関係が重視されている。
こう見てくると、仏教思想は特異な立場にある。仏教思想は究極の自己中心的な思想であり、そもそもブッダはしぶしぶ解脱について弟子に教えているところがある。しかも出家というのは俗世間とは隔離された状況であり、そこには政治権力がからむことはない。
インド思想では、仏教がどのような立ち位置にあったのかが断片的にしか知らず、インド思想において権力の問題が語られることはあったのかどうか。ウパニシャッド哲学なんかも認識問題のみを扱っているようだが、インドでは政治権力と思想との関係はいかがなものだったのだろう。かなり内的な思索が主流だったようだ。

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以下まとめ

epimeleia heautou(エピメレイア・へアウトゥー)を扱う。自分自身への配慮、自分自身を世話する、自分自身を気にかける
「自己に配慮しなくてはならないというこの原則が、一般に道徳的合理性に実際に従おうとするあらゆる活動的な生活における合理的な振る舞いの原理」ととなっている。(13)
ソクラテスからキリスト教禁欲主義の時代まで、「自己への配慮」という考えは歴史がある。

「自己への配慮」の概念
一般に「自己への配慮」というと、自己を称揚し、自己に引きこもり、個人主義的・自己中心的な響きをもつが、古代の思想では肯定的な意味をもち、そして意味合いが異なっている。
第一に、一般的な態度、物事を見る見方、人々の間での振舞いやさまざまな行動をおこない、他社と関係を取り結ぶ、そのやり方。自己や他人、世界に対する態度。
第二に、「自己への配慮」はまた、注意の、視線の一定の形式。視線の方向を外部、他社、世界から「自己」へ向けかえる必要。
第三に、自己を世話をし、自己を浄化し、変形し、変容させる行動をさす。

哲学と霊性
主体が真理にいたることができるようにするものを問う思考の形式、主体の真理への到達の条件と限界を定めようとする思考の形式を哲学と呼ぶとする。(19)
主体は真理に到達するために必要な変形を自身に加えるような探求。実践、経験を「霊性」と呼ぶとする。それは主体にとって、主体の存在そのものにとって、真理への道を開くために支払うべき代価となる。
「霊性が原理として立てるのは、主体にはその聖そうな権利として審理が与えられているわけではない、ということです。そのものとしての主体は真理に到達する権利も能力も持たない、真理は主体が主体であり、これこれの主体の構造をもつがゆえに基礎づけられて、正当化されるようなたんなる認識行為によっては主体に与えられない。真理に到達するための権利を得ようとするなら、主体は自らを修正し、自らに変形を加え、場所を変え、ある意味で、そしてある程度、自分自身とは別のものにならなくてはならない。霊性はこう主張するのです。」(19)

近代の真理と認識
要するに、近代(ここでは便宜上デカルト的契機)では認識のみが問題となっているが、哲学の歴史ではこの認識行為が真理をえる手段としているのは例外である。
これは霊性にかかわるものではない。客観的条件、方法の形式的規則などは、認識の内部から主体の真理への到達が定義されている。狂ってはいけない、道徳的であれ、利害とかかわるなといったものは主そのものの構造にはかかわりがない。

プラトン『アルキビアデス』について
ソクラテスは「自己への配慮」を伝統から出発している。スパルタでは哲学とは関係なく「自己への配慮」が生活するうえでの姿勢となっている(だから奴隷は正当化される)。
アルキビアデスは、ある境界年齢に達したことで、かつてのエロスからポリス、つまり他者の統治へと転じる。愛の対象にならなくなってしまっていた。アルキビアデスは、自らの特権的な地位を使い、政治的行動、他者の統治へ。
そしてソクラテスはアルキビアデスに声をかけよという霊感を得る。
この瞬間に「自己への配慮」の問題が生じる。

『アルキビアデス』における「自己への配慮」
アルキビアデスは富も教育も欠如している。それを挽回できる技法(テクネ―)もない。そこでソクラテスは彼に都市のよい統治とは何かを問いかける。
アルキビアデスは、市民のあいだで親愛(コンコルド)が成立していることと答える。
では親愛とは何か、ソクラテスは問うがアルキビアデスは答えられないことに恥ずかしさを感じ、自棄になる。
ソクラテスは、五十歳にもなってからでは遅いが、君の歳なら無知を覚り、「自己への配慮」を学べるという。
1 自己への配慮の必要性は権力の行使と結びついている。「自己に専心する」ことは他者に対して政治的権力を行使したいということが含意されている。
2 この概念はアルキビアデスの教育の不十分さと結びついている。ここには二つの側面がある。アルキビアデスが行使しなかったエロスと奴隷から教育を受けたこと。
3 五十歳は自己への配慮するような年齢ではない、というのは問題が含まれている。ソクラテスは『弁明』では老いも若きも市民もそうでない者も、あらゆる生存にとって「自己への配慮」は一般的な機能として論じている。しかし、『アルキビアデス』では、師と弟子、師と愛人といった関係におけるものとしいる。
4 アルキビアデスが無知に気づくとき、ソクラテスは「自己への配慮」を持ちだしてくる。

自己とはなにか。
自己への配慮というが、自己(auto to auto)とは何か。それに配慮するとはいったいどういうことなのか。
問題になっているのは、人間の本性にかかることでははなく、主体が問題になっている。
「個人から発して自己にめぐり来たる、この反照=反省的(レフレクシヴ)な活動、この反照=熟慮(レフレシ)された活動が向かう、この点とはいったい何だろうか。この自己とは何だろうか」(47-48)
そして自己への配慮は、はたして他者を統治する技術(テクネ―)へ導くのだろうか。



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