2020/02/04

『日本の路地を旅する』 上原善広 文藝春秋

被差別部落を訪ねるルポ。記録としての要素よりも、かなり文学的な仕上がりになっている。どっちがいいとか悪いとかではない。ただノンフィクションではなくて、随想といったほうがいい。

「失われた路地を歩くほど、自分が愚か者になっていくような気がした。なぜならそこは遺跡でも何でもなく、ただある人びとがかつて生活していた、というだけの話だからだ。」(344)
現在でも、ぞくぞく新しいマンション、アパートはできて、新しい住人が入り、かつての記憶も少しずつ薄れてくるのかとは思う。
しかし、著者が言うように、なんかの拍子にその記憶が呼び起こされることはある。なにか事件がおこったりすればなおさらで、土地というのは、そういう意味でも、人々の意識を縛り付けるものなのだと思う。
唯物論にいえば、大地は大地でしかない。しかし、人間というのは、「本質」を見出そうとする生き物だ。「本質」というのはやっかいな言葉だと思う。「本質」を実在するものとみることが、人が人を差別する原因で、かといってこの「本質」を見ようとする心の動きは、人間の想像力の源泉かもしれない。

現代では、過疎地でない場合は、被差別部落との境界線はあいまいになってきていると思う。差別自体も都会になればなるほど薄れている。
そのため著者の旅は、住井すゑ『橋のない川』などの文学作品のようなそこはかとない暗さはない。
というよりも、著者の旅は、かつて存在した被差別部落を訪ね、その痕跡を見つけるものと言っていい。たしかに、まだ色濃くのこる地域にも訪問しているが、現代における被差別部落を知らせてくている。しかし、いまだに結婚では差別がのこっっているというのは、ちょっと驚き。
区画が整理されたり、新しい住人が増えていたり、とまあ、まだまだ残るとはいっても、やはりその記憶は薄れてきていて、それがこの本の物足りなさを表している。
この本は、正直物足りない。『橋のない川』だとかの残酷な描写はないし、その他部落問題をあつかったノンフィクションにはある差別問題への強いコミットメントと使命感がない。
著者がダメとかいうのではぜんぜんなくて、むしろこれが著者の良さだと思う。
現代では、正直多くの人には、特に都会に住む人々にはピンとこないし、かといって壮絶な差別の歴史にはリアリティも感じられない。だから著者のこの姿勢や部落を故郷と呼ぶその温かさは、この部落問題への新しいアプローチとなっている。
この本は、ノンフィクションとなっているが、実際、現地にいって目的を果たせずに帰ってしまったりもしている。それは、隠されていると同時に失われつつあるものであることを証明している。

蛇足で、日本人は牛を食べてこなかったといわれるが、著者が言うように被差別部落ではずと食べられてきた。とくに煮込料理として食べられていたという。
隆慶一郎の小説にも煮込料理の描写があったのを思い出す。
そして、知らないことは多かった。牛肉関係の会社なんかも元は路地出身者であったり、あの猿回しなんかも一度は廃れた路地の芸だったとは。

文庫本の解説を西村賢太さんが書いているが、そこで上原さんが兄の性的指向について書いていることに、驚きを示しているが、これは本当にそのとおりで、身内の恥というのは、たとえ文学の題材になってもあまり書けるものではない。
それを「いとも簡単に」書いてしまっている。しかも「告白調」ではないところがすごくて、ふつうできませんよ。

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