2021/05/25

『人口減少社会のデザイン』 広井良典 東洋経済新報社

 前提として日本の財務残高の対GDP比でみると、250%ぐらいあって大変と。

で、なぜこんなことになっているかと言えば、高度経済成長期の夢から醒めておらず、いまだ日本が蘇ると勘違いし、借金をしまくる。しかしそれが将来世代への負担になっている。
そして日本は他国に比べて社会的孤立が進んでおり、社会保障の面からいっても他人の無関心が、人々の支えあいを忌避させていると。

そこで将来の日本のデザインが大きく分けて二つ。
都市集中型シナリオ
地方分散型シナリオ
となり、前者は出生率の定価と格差を広げるが、政府の財政は持ち直す。
後者は出生率は持ち直し、個人の幸福感も持ち直すが、政府の財政は悪化する。
んーどうなのでしょうか。ぼくは基本的には都市集中型であるほうがいいのではないかなと思うのだけど。そもそも地方分散であれな出生率が上がるとか、幸福感が増大するって本当ですか。

まあいいとして、人口減少がもたらす帰結よりも、そんんあ社会をどうデザインするか公共政策経済社会システムの問題が重要。
東京の出生率の低さは際立っているにせよ、でもですね、これって東京は単身者が多いことを意味している。地方は単身者よりも家族が大いに決まっている。だから出生率が高い。
それに資本主義からの脱却的なことを述べているが、どうもね。言わんとしていることはよくわかるが。
クリエイティブ産業、つまり科学、文化、デザイン、教育が経済を牽引していくと。だからねー物を生みだすというのは、工業でもあって、たしかに3Dプリンターとかもあって、大量生産からの脱却というのはある程度達成できるけど。
なんか工場労働というのが非常によくないものという固定観念があるのではないかな。
まあ工場労働は非人間的なシステムだけど、そもそもクリエイティブ産業だって非人間的だ。
たしかに資本主義が単なる市場経済主義とは違うのはそのとおりで、そもそも国家による暴力と独占が富がさらに富を生むというサイクルになっている、これが資本主義の実体だろう。

でも全体のパイが限られてる世界で、とくに現代のように高度成長が望めない時代、そのパイの食いあいをする資本主義の倫理、つまり私利の追及が全体の幸福に繋がるというのは、イデオロギーにすぎないから、もっと違うあり方があるのかもしれない。
日本は「その場にいない人々」つまり将来世代につけをまわす社会になっている。
これはハンス・ヨナスの倫理、世代の責任を見ようとしない状況で、嘆かわしい。

社会保障には三つのモデルがある。税を財源とする普遍主義モデル、保険料で賄う社会保険モデル、民間保険そしてボランティアが主要な役割となる市場型モデル。

コロナ前の著作で、医療の問題も書かれている。勤務医の少なさと開業医の多さ。そして開業医の利権。なんだかね。

『誓願』 マーガレット・アトウッド/鴻巣友李子訳 早川書房

全体的に砕けた感じの、前作のような苦しいさのようなものがなくなる。
いくぶんニコールの存在が軽く、台詞もなんか微妙だし、ギレアデ潜入前の訓練なんかの描写が、ちょっと微妙でありましたね。ドラマシリーズもあるから、このあたりの影響かもしれない。どこかヤングアダルト的なところがあった。

現代社会の負のスパイラル。自然災害、戦争、経済問題、社会問題など。
「人々は不安になっていた。そのうち怒りだした。希望のある救済策は出てこない。責める相手を探せ。」(96)
そしてできあがるのが、全体主義的な社会。皆がお互いを監視しあう社会。今回のコロナ騒動で、はっきりいと身に染みた。

リディア小母も"Tomorrow is another day"と。言ったりしている。侍女の衣服は赤だし「スカーレット」だし。ニコールの養母はメラニーだし。
まあリディアも目的のために手段を選ばないリアリストであるし。

抑圧的な社会で、言説はコンスタンティヴなものではなく、意味がずれていく。信仰心のある言葉が機械的になり、発話者の行為と一致しなくなっていく。
リディア小母が信仰の言葉を発しても、そこに読者はリディアの信仰を見いだすことはない。どこか皮肉めいていて響く。
この現象はリディアだけでなく、全ての登場人物にあてはまり、全登場人物の言葉が行為と一致していかない。
ただし、そこに社会への反抗が読み取れる。リディアとジャド司令官とのやりとりは象徴的になってる。

生殖が機械的な作業であるべきものとして規定されているようだが、実際に存在するのは女性という存在なんだが、その存在を否定し、思弁的な存在として捉えていく社会。
神を信仰することは反理性であるようだが、しかしそこで行われる統治のテクノロジーは理性的だ。だからこそ女性を産む機械として見なす。女性とは、こうあるべきである、という定言命法がいかに人間性を剥奪していくかがよくわかる。

2021/05/19

『侍女の物語』 マーガレット・アトウッド/斎藤英治訳 ハヤカワepi文庫

一人称で進んでいく。
かなり閉塞感のある小説で、詳しい設定はよくわからないところもあり、ギレアデ共和国なるものがいかなる経緯で出来上がった国であるかなどは明確になっていない。
「日常とは、あなた方が慣れているもののことです」(72)。
んーそうなのだよね。日常が変わって、それに抵抗してもみんながその日常を受け入れた時、抵抗者は白い眼で見られる。
オブフレッドは、読者に語りかけていく。
オブフレッドは、いつの間にかギレアデ支配の生活をしていく。子供は奪われ、子供を産む機械としての女性でしかなくなっていく。
少しづつオブフレッドの周囲の雰囲気が変わっていく。司令官に個人的に誘われるようになることだけでなく、セリーナ・ジョイの口調が変わったり、けっこうみんな、ギレアデの体制の中で不満があって、でもそれを外には出さない。とりあえず日常を過ごしていく。
これってソ連の体制みたいなもので、みんなソ連体制の欺瞞を知っているけど、いちいちそれに反抗せず、日常を過ごしていく。
これって単なるフェミニズム文学なのだろうか。
たしかに女性が所有や人権などの権利を剥奪され、生殖に特価された存在とクローズアップされているけど、小母の存在やらもいるし女中もいる。女性社会が出来上がっている。
男も性の快楽を許されているわけではない。

気に入らないのは、解説に落合恵子を持ってきていること。なんでもかんでも従軍慰安婦だとか沖縄に結びつけちゃうバカじゃない。この解説もかなり的外れではありませんか。
「フェミニズムの視点から読むと、わたしには近過去、あるいはいまもって過去完了になっていない半過去の「地球の半分の思い」(女性側からの景色』を描いた作品にも読めるのだ」
まあですね、小説の読み方はある程度自由ではありますが、「近過去」とか「半過去」とかわけのわからないこと言ってないで、きちんと小説の解説をしたほうがよい。
小説で書かれる女性への抑圧を書いて、このディストピアは現在と重なると決まり文句を言って、申し訳なさ程度に男もつらいようだと書いて、んで最後にはみんなで異議申し立てをしましょうって終わる。
なんたる駄文。
この小説のテクストの魅力や一人称で描かれることの効果、さらにけっこう人間関係が複雑であることなど、語れることはいっぱいほかにもある。
「フェミニズム的臭いのする作品を忌み嫌い、矮小化することが特異な文学の世界」ってのはお前の頭の中だけだろ。ちゃんとアトウッドの作品は評価されているじゃないか。
まあですね2001年9月、まさに同時多発テロのときの文章でもあるし、まあいいでしょう。

2021/05/18

『謎とき『風と共に去りぬ』――矛盾と葛藤にみちた世界文学』 鴻巣友季子 新潮選書

『風と共に去りぬ』は映画も名作であることは間違いないが、小説はそれを遥かに越える世界を描き出していて、映画と小説ではストーリーは同じでも描かれているものは全く異なる。

"Tomorrow is another day"も小説を読むと、全く異なる響きがある。「明日には明日の風が吹く」という訳は現在の映画版の字幕では採用されていない。しかしかなり日本では人口に膾炙している表現となっている。そしてどこか希望が響く。本書ではこの訳が帝劇で舞台化した菊田一夫だという。スエレン役を演じたことがある黒柳徹子が「江戸職人みたい」と言ったようだが、言われてみればそうだ、「宵越しの金は持たない」みたいな。
鴻巣さんはこの言葉を、ある種のネガティヴシンキングとしてとらえれている。
そしてなるほどと思わされたのが、ヘミングウェイの『日はまた昇る』で、これも原題は"The Sun Also Rises"。これは旧約聖書「伝道の書」から引かれているとのことで、"The sun rises and the sun sets"だと。
"Tomorrow is another day"はマタイ福音書でも同様のフレーズがあり"take therefore no thought for the morrow: for the morrow shall take thought for the things of itself"「明日のことは思い悩むな。明日のことは明日が考える」となる。
これは人間が考えなくても、神がお与えになる的なことのようで、まあスカーレットの気質ともあう。
「たとえ、今日と代わり映えしなくても、つぎの一日がはじまる。そのなかでなんとか生き抜くしかないというある種の諦念がベースにあり、……だからこそ、何度も挫けながらも人生を新生させ前に進もうとするヒロインの意志がいっそう輝くのである。」(57)

鴻巣さんの訳は本当によかった。岩波版と少し比較してみたが、岩波では括弧で独立してスカーレットやマミーの心情、まさに自由間接話法で書かれているところを、鴻巣さんは地の文のなかで簡潔させている。
「語りてからある人物の内面へ、また別の人物の内面へと、視点のさり気なく微妙な移動があり、それに伴う声の”濃度”のきめ細かい変化、そして、間接話法から自由間接話法、自由直接話法、直接話法に至るまでに、何段階ものグラデーションが存在している。」(154)
『風と共に去りぬ』という小説は、著者の意見というか思想がほとんど読み取ることはできない。小説でよくあるのは地の文で著者の意見や判断が書かれている。『風と共に去りぬ』はそれが見えない、わからない。
そしてこの翻訳でいいなあというのが、話の展開のコミカルさがよくでていることだ。
「シリアス一辺倒、悲劇一辺倒、感傷一辺倒にならず、その後に必ず軽妙、コミカル、あるいは話の腰をおるような反転が織り込まれるのだ」(159)

メラニーこそが母エレンであるというのは、まあそんな感じで、憧れの存在である母エレンになれないスカーレットの反発がメラニーへと向かっている。
メラニーはmelaniaで黒い、暗いの意味。スカーレットscarletは緋色。まさに「赤と黒」。タラの赤土でもあるし。いろいろと暗示的ではありませんか。
母エレンが死んだ時とレットがスカーレットを置き去りを決意した時が一緒なのではないか、という指摘はなかなかいい。
そしてこの小説ではスカーレットのエロスがほとんどないことだ。一度だけレットがアシュリーとスカーレットの噂に嫉妬し、ベッドに強引に押し倒しとたとき、性の悦びに目覚めたのか、と思わせなくもないが、ほんとこれぐらいしかエロスがない。だから、このこの話はまったく性的な嫉妬だとかで話が進まない。
鴻巣さんは『風と共に去りぬ』は単なる恋愛小説ではないという。ほんとうだよ。

蛇足。
スカーレット・オハラの名はもともとパンジーPansyだったという。でもこれは俗語で「ホモセクシュアルな男性、なよなよした男」といった意味があるようで、当時では南部にはまだこの俗語の意味が浸透していなかったらしい。
んで、Pansyだが、『How I met your mather』というシットコムがもうかれこれ10年前ぐらいに流行った。その第一話で、リリーがマーシャルの優しさを皮肉って、
"Please, this guy could barely even spank me in bed for fun. He's all like, "Oh, did that hurt?" and I'm like, "Come on, let me have it, you pansy!" Wow, complete stranger."
「ちょ、こいつはベッドでお楽しみの時でさえ私のお尻を叩くのがやっとで、「ねえ、痛くないかい」ってな感じなのよ。んで私は「カモン、もっとやりやがれ、pansy野郎!」オッオー、知らない人だったわ。」
とタクシー運転手に言うが、このPansyの意味がいまひとつよくわからなかったが、こんなところで長年の疑問が氷解した。んまあ「おかま野郎」ってなところでしょう。

2021/05/07

――エックハルトの神秘説と一燈園生活――『西田幾多郎講演集』 田中裕編 岩波文庫

「エックハルトは心の動きを三つに分けて居る。一つは五感の働き即ち感官と、今一つは考える力即ち理性である。……彼はその上に超理性的な能力(super rational faculuty)があるとした。それは心が一つになった状態であって、前述の感官の働きと理性の働き以外に、今一つの別の働きがあるのではなくて、それらが一つになったときに、純一になったとき、私のないとき、言葉を換えていえば我のいないとき、我を忘れたとき、火花のように現われるFunke(火花)である。この力によって、自分と人との区別がなくなり、自他一体、神と我と一致する働きがあるのである。それは感官あるいは理性で考えていえるのでなくて、それらを棄てたとき現れる光である。光という言葉は、前の時代からあってラチン語ではスチンテリア(scintilla)と言った。」(20)

「自分と他人が一つになり、神と自己が一つになるという、根本思想であり、この根本思想から種々の差別が生じ、物と我と、自分と人、いろいろと分けれてくる」(27)

「智識の奥に、もう一つの智識即ち超理性的ともいわれ、直覚ともいわるべき流れがある。それが我々に真実の智識を与え、我々の声明は、この心の奥に流れて居る智識によって、導かれて行くのである。」(31)

つまりは芸術家の技能は一つの智識ではあるが学問的な智識ではない。働くことによって得られる智識で、「どう描けばいいだろう」という問いに「考えてはいては駄目だ。まあ描いてみよ」というもの。

とまあ、やはり小難しいが、超理性的な能力というの、フロイトのエスとかそんなものとしても捉えられるのかな。無意識的な力。
意識の流れがここでは書かれている。んーいわば意識というのは邪魔な存在でもあり、例えばピアノを弾いていて、意識的に弾こうとすると間違いを犯してしまう。いい演奏をしたなと思う時は、意識的にピアノを弾いていない。
ここではピアノと自己が一致している状況であると考えられ、それは「直覚」の流れがあるということか。
んーむずい。

「草枕」 『漱石全集 3巻』 岩波書店

やはり「草枕」は難しい。漢語なんか、注釈を参照しても難しい。芸術論云々も難しい。
ただこの本はそういう難しいところをうっちゃって、流れに身をまかせながら読むと、いい小説。ターナーやミレーの絵画のような淡さが通奏低音となる。
那美の「憐れ」ってなんなのか。さっぱりわからないけど、いいんですね。
久一も野武士も満州へ行く。にもかかわらず、その現実があんまり現実感もなく描かれている。
坊主たや源兵衛たちの交流にしろ、なんとなく浮世離れしている。
東洋的詩情、ここに極めりといった感じか。

「芭蕉と云ふ男は枕元へ馬が尿するのをさへ雅な事と見立てゝ発句にした。余も是から逢ふ人物を――百姓も、町人も、村役場の書記も、爺さんも婆さんも――悉く大自然の点景として描き出されたものと仮定して取りこなして見様」(12)

人間をなめている。

2021/05/05

――Coincidentia oppositorumと愛――『西田幾多郎講演集』 田中裕編 岩波文庫

「神は無限とはいっても、それは有限を否定した無限ではない。……有限と無限との一致した無限である、即ちCoincidentia oppositorumである。神は総ての反対の統一である。論理的に矛盾したものを統一したものであって、両立しないものの一致を神の性質と(クザヌスは)考えた」(10)

「我は我を知る。知る我と知らるる我とは同一である。……部分と全体とが同一でこれが真の無限であり、具体的には「自覚」がそれである。」(12-13)

論理の連鎖を辿るのではなく、偶然にも全体を直覚し、そこから論理を組み立てる。Coincidentia oppositorumは消極的であるが、愛いおいては積極的となる。

「我等が真に愛するということは自と他の矛盾の一致である。即他を愛するという事が自分を愛する事になる。かく愛の本質はこのCoincidentia oppositorumがもっとも純粋に顕われたものである。」(15)

愛は論理的には説明できないが、Coincidentia oppositorumが生活の愛で、一切の生活の、人間活動の基礎となっている。

なかなか興味深い話をしている。神の無限とは何かが明確に語られている。そしてそれが愛なんだという。ここはよくわからないが、ただ論理では説明できないものがあって、それは矛盾を内包しているというこの感覚はいい。

2021/05/04

『風と共に去りぬ』 第5巻 マーガレット・ミッチェル/鴻巣友季子訳 新潮文庫

んー素晴らしい小説だった。今の今まで読んでいなかったのが悔やまれる。
スカーレットの"tomorrow is another day"の意味が、頻繁に困難なときに登場するが、この言葉の意味がその都度変化しており、単純に面倒なことは先送りというだけでなく、たまに諦念が入ったり。
ラストでこの言葉で終わるが、決して希望のある言葉ではないし、そして決して単に困難を先送りすることを意味しているだけでなく、スカーレットの生き様がまさに最後の言葉に凝縮されていて、リアリストで気性が激しく自己中心的な人物にぴったり。

スカーレットはいつになってもスカーレットのままで、何も学ばない。メラニーが死んで、メラニーしか友達はいなかったと悟っても、アシュリーが色あせても、レットへの愛を自覚しても、スカーレットはスカーレットのまま。
レットへ愛を語っても、どこか自己中心的だし、確かにレットとの会話で怒りを抑制してレットを少し驚かせたりもするけど、なんだかんだでタラへの思いは変わらない。
アシュリーへの愛が醒めても、たんにレットに乗り換えただけでもある。
この小説では、南部は敗北後にレット以外の男たちは皆、クー・クラックス・クラウンに参加する。しかしそんなことをしていても仕方がないと少しづつだが気づき始め、小説の最後のほうではKKKは解散していることが語られる。そしてみんなめいめいが必死に一日を生き言っていることが語られる。ただし、そこでは取り残された者と時代の変化に対応した者とがいた。かつては貴族然としてものが、パイのワゴン販売やら農作業に自らの道を見いだしていく。
物語は少しづつ様相を変えていくのだが、スカーレットだけ昔のままのスカーレットなのだ。
マミーはタラに帰り、メラニーは死んでいく。レットは愛をすりへらしイギリスに行くという。
最後の最後までタラとマミーなのだ。
んー素晴らしい。
フランクが死んだときもたしかに良心に目覚める。でも、そんなことすぐに忘れてレットを結婚してしまう。
アシュリーへの愛が醒めても、レットにすぐに乗り換えるし、レットから愛想をつかされても、タラに帰れば元気になる。
ただここで一番のスカーレットにとっての痛みはメラニーの死のようで、ここで始めてスカーレットは味方が誰もいなくなるのを知る。
実際そうなのだ。アンナ・カレーニナと同様に、周りに理解者がいなくなる。
つねにスカーレットを守るメラニーの存在が輝いている。メラニーも頑固な性格で、南部精神の鑑みたいなものなのかな。

訳者あとがきで自由間接話法について語っている。なるほど。最後にマミーが地の文で自由間接話法になったりしているところも、なかなかいい。(424-425) ここは本当に素晴らしいところで、これまで主にスカーレットの心情だったが、ここで突然マミーの心の声が登場する。ボニーの葬儀のことやレットの落ち込みよう、メラニーの高潔さ、これらが重なりながら、マミーの心が吐露されていく。こんな素晴らしいことはない。
地の文では、著者の味方が書かれているかと思いきや、登場人物の考えや心理描写になっている。
映画では、このあたりの表現はできないので、小説を読み終わった後に見返してみると、なんと映画版が薄いことか。映画では絢爛豪華な描写であったり、風景の美しさがメインになっている。映像美に徹しているといっていい。しかし、小説は風景描写はあくまでタラの美しさとアトランタの喧騒と猥雑さで、スカーレットの心理を描くための素材でしかない。



2021/05/03

『風と共に去りぬ』 第4巻 マーガレット・ミッチェル/鴻巣友季子訳 新潮文庫

あまりのおもしろさに、ゆっくり読むつもりだったのが一気読みとなってきた。
スカーレットはフランクと結婚をして、タラの追徴税を支払う。そしてさらにはレットから金を借りて製材所を経営する。
スカーレットも南部が再び復興することを望んでいる。しかし、その達成方法が異なる。男どもは選挙や投票、KKKなど政治運動によってこれを達成しようとする。しかしスカーレットは金持ちになることで、自分を守り、家族を守っていくことができると考えている。
スカーレットは男どもをバカにしていく。

「男性って、どん底に落ちても目が覚めないのかしら?」
「どうやらそうらしい。けど、プライドだけは売るほどあるんだ」トミーはまじめな顔になった。
「プライドね! プライドって素晴らしく美味しいんでしょ。特にくずれやすいパイ皮みたいで、メレンゲをのっけて食べたら最高ね」(126)

きついお言葉で。
スカーレットというのは、なかなか複雑に描かれている。スカーレットは基本的に子供が嫌い。自分の子供にもあんまり感心がない。が、そんな彼女も子供達にはひもじい思いをさせたくない、幸せな、安全な生活を送ってほしいとも思っている。(95)

この小説の複雑さの一つは黒人奴隷問題の描き方で、南部はたしかに奴隷制であったし、貴族趣味をしていた地域。で、黒人に対する認識を、北部と南部の違いを書いている。

ヤンキーの女たちが子供の乳母がほしい、アイルランド人の乳母がほしいと考えている。でもスカーレットは黒人の乳母を勧めるが、ヤンキーの女たちは黒人に自分の子供を預けられるわけがない、と。スカーレットはマミーを思い出す。エレンに仕え、スカーレットに仕え、しまウェイドの世話を焼いている。スカーレットは思う、

「やさしい手。このよそ者たちは黒人の手のなにを知っているというのだろう。 彼らのてはどんな愛おしく、安らぎを与えてくれるか。その手はその時々で、やさしくなだめたり、ぽんとたたいたり、そっとなでたり、何をするにも間違いがない」(140)

そしてさらにピーター爺やまでも「ニガー(黒んぼ)」と馬鹿にしていく。ピーターはいまだかつて白人から「ニガー」と侮辱されたことはない。んでピーターのここでの回想がちょっとおもしろく、

「大佐は今わの際でわしにこうおっしゃたぞ。『ピーター、わたしたちの子どもたちの面倒を頼んだぞ。頼りないピティパットも世話してやってくれ』そう言われたのだ。『あればバッタ並みの分別しかないのだ』と。それ以来、ピティさまのことは、それは大事にしてきたのじゃ」(141)

オールド・ペットと侮辱されたピーターはなんかピティを逆にペットみたいに扱っている様子。
父ジェラルドが落馬で死んでしまった。スカーレットがその経緯をウィルから聞いていて、逆にスエレンを讃えたりする。

「十五万ドルですって」スカーレットはそうつぶやきながら、誓いへの抵抗感があっさり薄れていくのを感じた。すごい大金じゃないの! それは、合衆国連邦政府への忠誠を誓う書類にサインするだけで手に入るなんて。……そんなささいな嘘をつくだけで、こんな大金が手に入るなんて! そういうことなら、スエレンを責められないわね。やれやれ!」(206)

とここでもプライドを重んじる南部人を馬鹿にしていく。
フォンテインおばあさんのウィルとスエレンの結婚を認めるかどうかをスカーレットに確認して、スカーレットは確信をもって認めるところ、

「では、わたしに帰すをしなさい。……いままであなたのことをあまり好きになれなかったのよ、スカーレット。子どもの頃から、ヒッコリーの実みたいに頑固で、わたしは自分はさておき、頑固な女性は好かないからね。とはいえ、ものごとに向かい合うあなたの姿勢は買っているんだよ。どうにもならいと分かったら、どんな嫌なことでも、つべこべ騒がない。そうして腕のいい猟人みたいに、柵をみごとに越えてしまう」

ここのやりとりもみごとで、おばあさんはウィルとスエレンとの結婚をあたかも認めているかの口ぶりで、しかもウィルを非常に買っている。でも雑種とサラブレットの結婚を認めるわけがないと言ってスカーレットを面食らわせる。
このあばあさんは多くのことをリアリストとして見えていて、アシュリーが使い物にならない男であること、それをメアリーのおかげで成り立っていること。スカーレットにはヤンキーやクズ白人から絞れるだけ絞れとまで言う。
フランクやアシュリーの行動がスカーレットの責任であるというなかで、メラニーだけが彼女をかばう。

「スカーレットは悪くなんかありません。彼女はただ――すべきと思うことをしただけよ。同じように男性たちも、すべきと思うことをしたの。人間にはそれぞれ己のなすべきことがあるし、しなくてはならない。」(424)

さすがはメラニー。何か宗教的使命感を感じる。

2021/05/02

『11の国のアメリカ史――分断と相克の400年』 上 コリン・ウッダード 岩波書店

上巻では独立までの北アメリカの移民の状況が書かれているが、これがなかなかおもしろい。
11の国は独立13州のことではなくて、明確に線を引けない文化領域を指している。
エル・ノルテ
ニューフランス
タイドウォーター
ヤンキーダム
ニューネザーランド
深南部
ミッドランド
大アパラチア
レフト・コースト
極西部
ファーストネイション

まずsteteとnationの混同があることを指摘している。そしてアメリカは世界で唯一、独立国家としての地位statehoodと国民であることnationhoodとが交換可能な人々であるという。
stateとは国家であり、いわば国連だとかへの加盟資格をもつもののことで、nationは共通の文化、民族、言語、歴史を共有していると信じている集団をさす。
故に日本はネイション=ステイトとなる。クルドやパレスチナ、ケベックはネイションであるがステイトではない。うひょひょー

なかなか興味深い指摘なのが、北アメリカへ新たに移住してくる者たちは、何世代か経ながら同化していく。移民たちが移住地の文化を多少なにかしらの影響を与えなくもないが、みんなが折り合いをつけていく。
んで、僕は全くと言っていいほどアメリカ史に疎いんだけど、基本的にアメリカへの移住者はヨーロッパからのエクソダスした人たち、信仰の自由を得るために新天地を求めてきた人たちというイメージがあったが、必ずしもそうではないし、むしろもっと複雑だとわかる。

エルノルテでは、スペイン人とインディアンとの混血も進んでいたし、そのためエルノルテでのカースト制も崩壊していく。エルノルテはメキシコの封建的な中心部とは異なる。自給自足的、勤勉かつ能動的で、暴政を容認しない人々であるそうだ。しかし政治的なものはスペインの影響をうけており、農奴なんかも制度として存在した。また家父長的でもあったし、宗教にも熱心もある。

ニューフランスはだいたいいまのケベックで、ここは現代においても寛容な社会を築き上げている。ド・モン公ピエール・ドゥグアとサミュエル・ド・シャンプランで二人はフランスでの宗教戦争にも疲れ、ユートピアを建設するために新世界へとやってきたという。とはいいつつも彼らが描いていたのはフランスと同様の封建制であったようで。しかし宗教には寛容でプロテスタントにも入植が許されていた。インディアンとの関係も良好にたもっていた。

タイドウォーターは現在のバージアニ周辺。ここはまずジョン・スミスがジェームズタウンをつくり開拓していくが、これは大勢の死者をだす事業だったよう。これは『1493』でも書かれていた。その後イングランドの王党派がやってきて、インデアンを追いやり巨大なタバコのプランテーションをやり始める。ということもあり、タイドウォーターでは貴族的な寡頭政治が主流になる。小作人や奴隷をつかってプランテーションを営んでいく。
んで、ワシントン、ジェファーソン、マディソンなどの建国の父たちはバージニア州出身でみなプランテーションの領主だった。だから彼らは決して民主主義者ではなく、古典的な共和主義者だったということだ。古代ギリシャ・ローマに範をとっていたつーことだ。
タイドウォーターでは街の建設ではなく、農村社会が出来上がっていた。
タイドウォーターでは非常に中世的な紳士像が残っており、何かあれば決闘もするし復讐もする。

ヤンキーダムはピルグリムにはじまる。彼らはイギリスの王党派のような理念を嫌っており、新しい社会、実践的宗教ユートピア、カルヴァンの教えに基づく神政国家の建設を目指していた。彼らピューリタンたちは自分たち以外の宗派に非常に非寛容であった。
そして迫害されて新世界にやってきたと思われがちだが、事実そういった面もあるが、多くは宗教的実践を徹底させるために移住してきたという。
彼らには使命感があった。そしてこの使命感、アメリカ例外主義、「明白な運命」をもたらしてきた。
そしてヤンキーたちはタイドウォーターのようなノルマン人のもつ文化を嫌っていた。

ニューネザーランド。つまりは現在のニューヨーク市。ニューヨークがまさにオランダ西インド会社が治めていた当初から貿易で賑わっていた。通商の自由が優先課題であり、さまざまな民族がひしめき合っていたよう。
多様性、寛容、社会的上昇志向、個人的企業心など現代ニューヨークらしさがすでにできあがっていた。
経済でも科学でも政治でも哲学でも、最先端の国だったオランダ。当時のオランダの文化の影響を受けていた。
とはいっても支配層はエリートであり、さらに言えば、タイドウォーターや深南部に奴隷を輸出していたのは、ここの商人だった。だから南北戦争のときも当初はヤンキーにつくつもりはなかったとかなんとか。

深南部への移民たちはバルバドスからやってきており、バルバドスのやり方をそのまま踏襲してプランテーションを作り上げていく。そして自分たちはタイドウォーターと同様にノルマンの末裔としてアングロサクソンやケルトを見下していた。
そして最もアメリカらしさの原型がミッドランドだという。すなわりペンシルヴァニアであり、フィラデルフィア。クェーカというヒッピー的、平和主義、アナーキズムなどイカレタ連中だったようだ。だから政治がまったくできなかったようで・・・。

大アパラチア。ボーダーランド、つまりはイングランドとスコットランドの境で戦争に耐え忍んできた人々が入っていく。彼らは貧しく、教養もなく、刹那的で。何か財産をもつこともせず、牛などの牧畜で生計をたてたりしていく。誰かに服従するのを嫌い、奴隷制にも嫌悪していた。他のネイションからはたんに怠惰な人たちに見えたようで。彼らの感心ごとは富ではなく、強制からの自由の極大化であった。ボーダーランドの人々はインデアンに溶け込んだり、白人インデアンになったり、婚姻をむすんだりしていく。

ということで独立戦争。これもなかなか解釈が難しいところで、みんながみんな独立したかったのではなく、イギリスが結構強硬路線で、妥協なんかしないでやってきたから戦争になってしまったところがあるようだ。
そもそも北部ヤンキーが反王室でもあるが、お茶を沈めた事件だってボストンだ。ミッドランドでは革命には興味ないし、アパラチアではそもそも統一的な見解なんかなく、イギリスの方が自分たちに自由を与えるならイギリスだしといった基準。
という感じで統一的ではなかった。憲法は妥協の産物であり、オランダ的な権利章典もあり、南部の選挙人のようなまさに共和主義の思想、拡張主義のヤンキーや南部を抑えるために州権の強化などなど。とりあえず全てが妥協の産物ではじまっている。

どうも独立戦争によってアメリカはイギリスの軛から逃れることができたが、統一国家ではないと言える。

2021/05/01

『風と共に去りぬ』 第3巻 マーガレット・ミッチェル/鴻巣友季子訳 新潮文庫

だんだんおもしろくなって参りました。
タラにようやく戻ったスカーレットたち。スカーレットは過去を二度と振り返らないことにする。エレン・オハラの教えを振り払い、手に豆をつくりながら生きていく。それでもタラへのスカーレットの思いは変わらなかった。
スカーレットは泥棒に入ったヤンキーを銃で撃ち殺すし、ヤンキーどもがタラの屋敷から略奪しにきたときも毅然と対応していく。メラニーに対してもどこか親近感を抱く。
スカーレットは相変わらず現実主義者で、ケネディ・フランクがやってきてスエレンと結婚は経済的に迎える用意ができてから結婚することをスカーレットに伝えるが、スカーレットは一人口減らしになると期待していたのにとがっかりしたりする。
死んだと思われたアシュリーの帰還したときが、またおもしろい。メリーがアシュリーに抱きつき、スカーレットも有頂天になってアシュリーに抱きつこうとすると、ウィル・ベンティーンがスカートを掴んで止めるところ。(213)。とってもコミカル

スカーレットがアシュリーに金策を相談にしにいくと、アシュリーは自分には助けられないことを伝えるところ。ここはなんだかんだ、いい場面で、アシュリーという内気な性格の持ち主が、戦後の南部におかれた現実になかなか向き合えない状況が述べられる。スカーレットのような現実主義者とアシュリーのような内腔的な人物とで、戦後の生き方が明確に分かれていく。

「ぼくはずっと人付き合いを避けて生きていたろう。よくよく選んだ友人とだけ付き合っていた。しかし戦争に教えられてが、あれは夢の人々が済む自分だけの世界を築いていたということだ。人間が実際にどんなものかも戦争に教えられたが、彼らとどうやって暮していくかは戦争も教えてくれなかった。これからも分からないままじゃないかと思うんだ。とはいえ、今後、妻子を養っておくには、自分と似ても似つかない人たちばかりの世界でやって行かざるを得ないようだ。スカーレット、あなたは世の中の角をつかんで、自分の思うようにねじ伏せてしまえる人だ。でも、ぼくはこの先、世界のどこに居場所があると言うのだろう? だから怖いと言っているんだよ。」(240)

んー、よくわかりますよ。ぼくも自分がしている仕事がいかに自分の精神世界とあっていないか、常に苦痛を感じ生きている。まだぼくは生易しい世界で生きているからいいものを。
アシュリーは自分には何も残っていないが、スカーレットには赤土が残っていることを伝える。
スカーレットはそこで決心をする。

「一度は必死で追いかけた人だもの、家族ともどもひもじい思いをさせるわけには行かないわ。もうこんなこと二度と起こらないし」(254)

スカーレットはレットに結婚もしくは愛人になるためにアトランタへ行く。しかしレットは助けることができないことを伝えて、意気消沈した帰り道にケネディ・フランクに会う。そこでスカーレットは標的をレットからフランクに帰る。スカーレットはレットの助言をそのまま言うことを聞く。男を誑しこんでいく。フランクは経験不足でスカーレットの罠にはまっていく。スエレンの婚約者を奪おうとする。
マミーはスカーレットの選択を全面的に指示をする。マミーはなにもかも理解した上で黙ってスカーレットを手助けしようと端から決めている。マミーとスカーレットのやりとりなんかも非常にいいんですよね。

「おまえなんか、とっとと〈タラ〉へお帰り!」
「「無理に〈タラ〉へ帰そうとしたって駄目ですよ。あたしはいまや自由の身なんです」(399)

んーなかなかおもしろい。マミーは奴隷の身から解放されているが、それでもオハラ家に、スカーレットの傍にいることを決めている。
南部の敗北はどこか共感をしてしまうのが日本人の性でしょうか。

「敗戦してなお敗北を知らず、打ち砕かれてなお決然と背をのばして立つ人々だ。じつのところは、叩きのめされて無力な、支配下の人々だ。自分たちの愛する国が敵に蹂躙され、悪党たちが法を嘲笑い、かつての奴隷に脅かされ、男性たちは選挙権を奪われ、女性たちが侮辱されるのを、なすすべもなく見ているしかない。つまりは、記憶を堆積した墓場のようなものだ。」(414)

「旧世界のあらゆるものは変わってしまい、残るは形式だけだった。かつての慣習はいまも続いており、続けていかなくてはならない。いまの彼らに残されているのは、そうした形式だけなのだから。」(415)

そんななかでスカーレットはわが道を行くことを決心する。