2021/06/21

コロナ雑感

この馬鹿馬鹿しさは、言語を絶する。
死者が少ないと対策のおかげだと言い、ワクチンを打てば安心だとかほざく。
ワクチンを打ったら実家に帰れるだとか、ワクチン打てば人と会えるとか、バカなのか。勝手に会えばいいじゃないか。
外を出れば、ほぼ9割がマスクをしていて、何を何から守っているのか。
全てが対策をやっている言い訳をしているだけの行動。しかもそのやってる感には一切のアイロニーもない。パフォーマティヴなものが単に再生産されていくだけ。
日本の表現も劣化したようだ。全てお上の言うことを聞き、それに従う。すこしは面従腹背を学ぶべきだ。

太平洋戦争とコロナ騒動を比較なんかできないが、ただし太平洋戦争時の人々がいかに人を抑圧し、自由を剥奪し、相互監視をしていったのかが、今回のコロナ騒動でよくわかった。
数年をまたずコロナ以前の日常が戻ってくる。それまでパーパー騒いでいた奴らはもコロナを忘れていく。
残されるのは、弱者であり、不信感であり、虚像だけ。
大多数の愚民たちは、ふつうに生活をしていく。
なんて気持ちの悪い、おぞましさだろう。これが人間の良いところだとも言えるが、にしても醜悪すぎる。

もう社会にも日本にも期待するのはやめる。
宮台真司が昔、日常を絶望しながら生きろ、みたいなことを言っていたと思うけど、いまならこの言葉の意味が十分に理解できる。
絶望しかない。だから日々を生きていこうと思う。淡々と、粛々と。

2021/06/15

末摘花

ひでい話。
夕顔を失くした光源氏は、故常陸の宮の娘に興味をもつ。そしてあばら家みたいな落ちぶれぶりをみながら心躍る光源氏。
胴長で、赤い鼻。
ベニバナのような鼻で、この鼻を揶揄しまくる。
醜悪なのが、紫の上と絵描きで戯れながら、自分の鼻に紅をつけたりして、末摘花を馬鹿にしつつ、紫の上となんか仲のいい夫婦のようだとかで、いい感じの雰囲気をだしたりして、最悪だな。
つーかですね、光源氏が末摘花に許諾もせずに、襲い掛かるなんて、すげーな、強姦魔ではないか。周りの女たちも、まあ光源氏だし、まいっかー的な感じで見て見ぬふり、末摘花自身は恥ずかしいけど、まんざらでもない感じで。
末摘花の面倒をみてやるようになるが、それが光源氏の優しさだとかなんとかいうようだが、本当にそうなのかな。『源氏物語』の受容の歴史を知らないがそこまで光源氏を持ち上げることもなかろうかと思う。
この「末摘花」は滑稽話になっているし、特に光源氏の人格云々がどうでもいいような気がします。

2021/06/14

若紫

光源氏はロリコンじゃないとかなんとか言う人もあろうが、まあロリコンです。ロリコンの定義とは何かですが、初潮を向かえる前の少女を性の対象とみることでしょうか。光源氏はさすがに10歳そこそこの紫の上と枕をともにはしないが、しかし明らかにその将来を夢想している。歌にも読み込んでいる。
そして誘拐犯であること。紫の君の父親が迎えにくることを知った光源氏は、夜更けに紫の上をかっさらっていく。
んーすげえな。
言い訳としては、紫の君の継母がいじめるから救出したといえる。たしかにね。そういう場合は誘拐まがいのことでもしないとだめではあるな。
でも光源氏の場合は、道徳的行為と性的欲求行為が一致しているため、「色魔やろー」と罵りたくもなる。

蛇足ながら、瘧に光源氏ががなったことから話がはじまる。瘧、そうマラリア。戦後日本でいつのまにかマラリアがいなくなるが、驚くべきことになぜ日本でマラリアが根絶してしてしまったのかわかっていないらしい。

とりあえず、若紫まで読んでみたが、なかなかラノベみたいなお話であるし、なぜに本居宣長は『源氏物語』至上主義をとるようになったのか不思議でならない。
けっこう軽薄な読み物であることがよくわかる。

2021/06/13

夕顔

さてここで悲しい夕顔の話。光源氏と恋をしてしまったために、悪霊に呪い殺されるという悲しさよ。まず光源氏が夕顔に言いよる理由というのが、下の下に良いもんがあるだろうという理由から。腐っている。
で、この怨霊が六条の御息所の生霊だとか。ただ本文を読んでみても、六条の御息所と光源氏の関係性が見えてこない。和辻が言うように、全くもって不完全なかたちとなっている。
この怨霊が誰なのかがどうも議論になっているようだが、とりあえず作品自体が不完全な状態で残っているわけだし、詮索してもよくわからないのは確かだけど、「葵」との関係で読めば、時系列がおかしいにせよ六条の御息所であるのは妥当だし、でなければ誰なの? 他の登場人物では弱くないかと思う。
「葵」では、生霊となったことを六条の御息所も自覚し、光源氏も彼女が生霊であることを認知している。だからそのあと別れることになるわけで。だから、ここの怨霊は六条の御息所ではないということもわかる。
でも、伏線とみても悪くない。

ただし描写はなかなか美しいところではある。山彦がこだまするなんていうのも、情景描写としては古典的だけど、「源氏物語」自体が古典中の古典なのでいいでしょう。怨霊も非常に簡潔な形で描いていて、想像力がかきたれれるではありませんか。
でも、夕顔の死後の光源氏はけっこうひどいもので、夕顔が死んだの逃げちゃうし。死体の処理を他人に任せちゃうし。
頭中将と夕顔との間に娘がいることが判明するが、これが玉鬘と。

2021/06/10

和辻哲郎「『もののあはれ』について」を読む。

「「もののあはれ」を文芸の本意として力説したのは、本居宣長の功績の一つである。彼は平安朝の文芸、特に『源氏物語』の理解によって、この思想に到達した。文芸は道徳的教戒を目的とするものでない、また深淵なる哲理を説くものでもない、功利的な手段としてはそれは何の役にも立たぬ、ただ「もののあはれ」をうつせばその能事は終わるのである、しかしそこに文芸の独立があり価値がある。このことを儒教全盛の時代に、すなわち文芸を道徳と政治の手段として以上に価値づけなかった時代に、力強く彼が主張したことは、日本思想史上の画期的な出来事と言わなくてはならぬ。」(221)

「「あはれ」は悲哀に限らず、おもしろきこと、楽しきこと、おかしきこと、すべて嗚呼と感嘆されるものを皆意味している。」(222)

ではなぜ文芸の独立を「もののあはれ」によって成立するのか。
「もののあはれ」は「心のまこと」「心の奥」であるという。何か。

「すなわち彼にとっては、「理知」でも「意志」でもなくてただ「感情」が人生の根底なのである。従って、表現された「物のあはれ」に没入することは、囚われたる上面を離れて人性の奥底の方向に帰ることを意味する。」(224)

本居宣長はいかなる感情も「もののあはれ」といっても、それでは浄化作用として機能しない。そこで制限を加える。
自然的な感情ではなくそれを克服した「同情」、感情が純であること、深く知ること、感傷的ではない真率な深い感情
これらの制限を設け、「「物のあはれ」は、世間的人情であり、寛いhumaneな感情であり、誇張感傷を脱した純な深い感情であることがわかる。……自己を没入することは自己のきよめられるゆえんである……かくて彼が古典に認める「みやび心」、「こよなくあはれ深き心」は吾らの仰望すべき理想となる。」(226)

「彼のいわゆる「まごころ」は、「ある」ものでありまた「あった」ものではあるが、しかし目前には完全に現れていないものである。そうして現れることを要請するものである。……彼が人性を奥底を説くとき、それは真実在であるとともに当為である。」(227)

「「もの」は意味と物とのすべてを含んだ一般的な、限定せられざる「もの」である。……究竟のEsであるとともにAllesである。「もののあはれ」とは、かくのごとき「もの」が持つところの「あはれ」……にほかならぬであろう。我々はここでは理知及び意志に対して管所言うが特に根本的であると主張する必要をみない……そうしてその根源は、ここのもののうちに働きつつ、個々のものをその根源に引く。我々がその根源を知らぬということと、その根源が我々を引くということは別事である。「もののあはれ」とは畢竟この永遠の根源への思慕でなくてはならぬ。歓びも悲しみも、すべての感情は、この思慕の内に含む事によって、初めてそれ自身になる。意志せられると否とにかかわらず、すべての「詠嘆」を根拠づけるものは、この思慕である。愛の理想を大慈大悲と呼ぶことの深い意味はここにあるであろう。歓びにも涙、悲しみにも涙、その涙に湿おされた愛しき子はすなわち悲しき子である。かくて我々は過ぎ行く人生の内に過ぎ行かざるものの理念の存する限り、――永遠を慕う無限が内に蔵せられてある限り、悲哀をは畢竟は永遠への思慕の現われとして認め得るのである。」(229)

「「物のあはれ」とは、それ自身に、限りなく純化され浄化されようとする傾向を持った、無限性の感情である。すなわち我々のうちにあって我々を根源に帰らせようとする根源自身の働きの一つである。文芸はこれを具体的な姿において、高められた程度に表現する。それによって我々は過ぎ行くものの間に過ぎ行くものを通じて、過ぎ行かざる永遠のものの光に接する。」(230)

「「物のあはれ」という言葉が、その伴なえる倍音のことごとくをもって、最も適切に表現するところは、畢竟平安朝文芸に見らるる永遠の思慕であろう。
平安朝は何人も知るごとく、意力の不足の著しい時代である。……貴族生活の、限界の狭小、精神的弛緩、享楽の過度……意志の強きことは彼らにはむしろ醜悪に感ぜられたらしい。それほど人々は意志が弱く、しかもその弱さを自覚していなかったのである。……飽くまでも愉悦の杯をのみ干そうとする大胆さではない。彼らは進む力なく、ただ両端にひかれて、低徊するのみである。かく徹底の傾向を欠いた、衝動追迫の力なき、しかも感受性においては鋭敏な、思慕の強い詠嘆の心、それこそ「物のあはれ」なる言葉に最もふさわしい心である。我々はこの言葉に、実行力の欠乏、停滞せる者の詠嘆、というごとき倍音の伴なうことを、正当な理由によって肯くことができる。
かくて我々は「物のあはれ」が平安朝特有のあの永遠の思慕を現わしているのを見る。」(231-232)

「「物のあはれ」は、厳密に平安朝の精神に限らなくてはならぬ。」(233)

「「物のあはれ」は女の心に咲いた花である。女らしい一切の感受性、女らしい一切の気弱さが、そこに顕著に現れているのは当然であろう。しかも女が当然の最も高き精神を代表するとすれば、この女らしい「物のあはれ」によってこの時代の精神が特性づけられるのもまたやむを得ない。……それは男性的ななるものの欠乏に起因する」(235)

これ以上に「もののあはれ」の論考はないかと思う。

2021/06/08

和辻哲郎「『源氏物語』について」を読む。

和辻哲郎『日本精神史研究』(岩波文庫)を繙く。
和辻は本論考で、桐壺と帚木との関係を説いており、現在では源氏研究では当たり前のようだが、たしか秋山『源氏物語』(岩波新書)では、和辻のこの論文を紹介し、ここから源氏研究の道筋が創られたとか書いてあったかと思う。

「我々の知るところでは、光る君はいかなる意味でも好色ではない。しかも突如として有名な好色人光源氏の名が掲げられれうのは何ゆえであろうか。」(205)

「「語り伝へけむ」とはこの物語、この後の巻々のことである。かく宣長がこの発端の語に注意すべきものを見いだし、これを全篇の「序」とさえも認めた事は、彼が古典学者としてよき洞察力を持っていたことを明証するものであるが……世人は彼を好色人というが、しかし実は「なよひかにをかしき事はなく」、好色人として類型的な交野の少々には冷笑されるだろうと思える人なのである。

『源氏物語』を読んでいて、当惑するのが、あたかも「みなさんご存知のように」と言ったように人間関係だとかが出来上がっているようで、読者に相応の前提知識を要求する。例えば「夕顔」で六条の御息所は唐突すぎる。和辻も書いており、「六条あたりの御忍びアルキ」という一語が光源氏との情事を暗示させるものとはなっていない、読者はそれを絶対に悟りえないと言っている。(210) これは心強い言葉である。
夕顔との恋が単なる一挿話にすぎない印象があるのもそのとおりで、六条の御息所と藤壺との恋が本作のテーマであるのだが、それ記述も薄い。
つまりは源氏の物語は、当時すでに伝説となっており、いくつかの原型となる物語は流布していたり、宣長からすれば帚木は桐壺系の物語による光源氏への誤解を批判するために書かれているしているようで、この場合、帚木は桐壺の後に書かれている。
とにもかくにも、『源氏物語』が、現在の形となったのも不明だし、現在の順番は書かれた順でもない、と。

「『源氏物語』の芸術的価値については、自分は久しく焦点を定め惑うていた。」(216)

そう和辻は『源氏物語』を本居宣長のように絶対的なものとして見なしていない。

「古来この作が人々の心を捕えたのは、ここに取り扱われる「題材」が深い人性に関与するものなるがゆえではなかろう。」(216)

和辻は『源氏物語』の描写の不十分さを指摘する。視点が定まらず混乱していることを批判する。主格をのぞいて書いておきながら、薫、姫君、作者の視点が相接しており、悪文であると。
では和辻はこの物語の何を美しいとしたのか。

「最も美しい部分は、筋を運ぶ説明によって連絡せられたこれらの個々の情景である。」(219)

そしてさらにこの物語の作者を紫式部一人に帰すことができないこと、そしてこれは複数の執筆者が紫式部を筆頭とする「一つの流派」が描いたのかもしれないと想像する。構図のまずさ、源氏の人格のなさなど、『源氏物語』は多くの困難がある。
しかしこの物語から「一つの人格を具体的存在としての主人公を見いだすことができなくもない。

「それは自己の統御することのできぬ弱い性格の持ち主である。しかしその感情は多くの恋にまじめに深入りのできるだけ豊富である。従ってここに人性の歓びとその不調和とが廓大して現わされる。この種の主人公が検出させたれたとき、『源氏物語』の構図は初めて芸術品として可能なものとなるであろう。」(220)

弱い性格、次に収録されている「「もののあはれ」について」で論じられることと関係している。

とまあ、和辻哲郎は「源氏物語」に一定の距離を置いている。正岡子規の古今和歌集批判の延長として見る向きもある。モダニズムからみて平安文学の不完全性というかあまりに技巧的すぎるところなど、感情を二の次に置いているところなんかが、正岡子規以降の平安文学批判だと思う。
しかし、和辻の言わんとしていることを、こういったモダニズムの枠組みだけで捉えるのは、和辻への敬意もなくしているものと思う。そもそも1889年生まれで、すでに近代への懐疑をもって育っている。だからこそ彼はハイデガーやニーチェなんかをやっていたわけですし。
人間は時代の制限から自由ではないにしても、和辻は「源氏物語」の評価の仕方では、けっして偏っているとはいえないと思われる。

2021/06/07

空蝉――源氏物語

空蝉と逢瀬を楽しもうとするが、空蝉の継娘である軒端荻を間違って抱いてしまう。光源氏は途中でどうも肉付きが違うと思い、空蝉ではないことに気づくが、そのまま続行。軒端荻には世を憚れることでもあるので、忍んでまた逢おうみたいなことを言う。
光源氏のひどさは、空蝉の弟である小君に、お前はあの女の親類だからずっと面倒なんかみてやらない的なことを言う。小君はそれを聞いて泣いちゃうし。ひどい奴。
空蝉は、蝉の抜け殻のこととで、夜這いにあった空蝉が逃げる際に単衣をおいていったことに由来。光源氏も変態なので、その単衣を持ち帰る。キモイな。
しここでは現実の女性が光源氏との逢瀬を拒絶する女性像が書かれる。帚木での品定めで論じられた女性論のようなかたちで男の勝手ばかりにならず、思うようにはいかない現実が書かれる。
光源氏の成長物語としての通過儀礼と読める。この挫折をバネにもっと羽ばたくようだ。

2021/06/06

帚木――源氏物語

帚木は桐壺とは別の序論として位置づけられるようで、前巻の桐壺を直接受けての話にはなっていない。

帚木系十六巻
帚木、空蝉、夕顔、末摘花、蓬生、関屋、玉鬘、初音、胡蝶、蛍、常夏、篝火、野分、行幸、藤袴、真木柱

まず「雨夜の品定め」である。
ん-しかし、時代が違えど、男たちの女性論は普遍であるような気がしてならない。ここで論じられれている女性論はもちろん現代では大っぴらに公表はできないし、こんなことを現代の作家が書いたら叩かれてしまう。しかし、呑み屋では今もって語られていることと同じようなものである。
あまりに悋気がすぎることを嫌い、ちょっとした浮気ぐらい大目に見ろといって、別れ話を切り出すと女はニヤニヤしてそれに言い返したりする。いやーなかなかおもしろい。女も黙っておらず、左馬頭の指一本を咬みつく。このあたりもなんかおかしみがある。女は女でニヤニヤしながら対応しているし、男をコントロールしようという意志がありそうな話になっている。しかし女は死んでしまうが。男はその女の郷愁にしたり、あれ以上の女はいないだとかぬかす。
ちょっと現代風で変わった女と付き合うよりは、しっかりした女と付き合った方がいいみたいなことも、まあ今と変わらない普遍性を感じる。
この「指食いの女」は『白氏文集』の「諷諭詩」の「上陽白髪人」から引かれているらしい。紫式部はここで女の人生の怨嗟を描いているようだ。にしてもなんか馬鹿馬鹿しい話にも見える。
中将の妻がニンニク臭いとかも、どこかのんびりしているが、女の人生の儚さがでている。

しかし、それに気が付かぬ男どもよ、と紫式部は言っているかのようではないですか。人それぞれ恋愛論はあるけれど、時代が変わっても一般論としての女性論は変わらずといったところでしょう。これはまあ男性からみた女性論、結婚論であり、これを受けて、光源氏の空蝉との逢瀬となる。

方違えだからというので紀伊守の家に行く。女房たちが来ているから手狭であると暗に紀伊は断ろうとするが、光源氏は、人が大勢いるからいいんだと押し通す。この時光源氏十七歳。なんとも数寄者だこと。
光源氏は心臓に毛が生えたような奴で、紀伊守の継母(空蝉)を抱いてしまう。

2021/06/05

桐壺――源氏物語

満を辞して、「源氏物語」を読む。谷崎の新訳版。
現代語訳とは言いつつも、かなり難しい。主語がなく、敬語で判断したりするのはかなりしんどい。
そして和歌がよくわからないのが悲しい。長恨歌や古今和歌集などを引いているのだが、さっぱりよくわかない。このあたりは致し方なし。
時代背景を学びながらなので、相当の気力が必要と思われる。

桐壺系十七巻
桐壺、若紫、紅葉賀、花宴、葵、賢木、花散里、須磨、明石、澪標。絵合、松風、薄雲、朝顔、少女、梅枝、藤裏葉

なかなか『ガラスの仮面』や『エースをねらえ』的な話になっている。
桐壺更衣の部屋まで行くのに数多くの局の前を通らなければならないが、送り迎えする人々の着物の裾を汚す仕掛けをしているとか。どんな仕掛けなのか牛糞とか人糞とかか。中核派の「ナイーヴ作戦」さながらの嫌がらせです。
果ては桐壺更衣は死んでしまう。
ここで光源氏の人生がはじまる。帝に愛されるが、どうも「帝王の相」があるからということで、源姓をもらい臣籍に下される。光源氏は帝王の素質があるが、桐壺帝は世が乱れることや光源氏がいじめられることを心配しての措置のようす。
桐壺更衣亡きあとに藤壺が現れて、帝は元気を取り戻し、光源氏は隠れ恋慕。んーどういうことでしょう。

ちなみに光源氏が元服の際に葵上が副臥となるが、これがなんと光源氏の添い寝役の意味だというからね。光源氏は十二歳で、葵上は少し年上で十六歳、そんな年頃の少女が添い寝してくれるなんて、羨ましすぎる。
これだけですでにエロい妄想が全開となる。十二歳というとすでにオナニーも知っていてもおかしくないお年頃であり、そうなってくると葵上を光源氏はちょっとこいつは趣味じゃないと思っていても、性欲は抑えることは難しいことと思う。

日向一雅『源氏物語の世界』 (岩波新書)では、ここでいくつかの謎を提唱している。
なぜ按察使大納言は、死後に桐壺更衣を入内させたのか。死後のためすでに一族繁栄という意味ではない。天皇の外戚の地位を得るためではない。ここに明石一族の繁栄物語が重なってくるらしい。
そして白居易の長恨歌が随所で登場し、これは帝の桐壺更衣への「長恨」と藤壺の「形代」が提示され、この主題は光源氏、そして息子の薫にも引き継がれていくという。
さらに「帝王の相」をいかに実現していくのという光源氏の王権物語をなしているという。
んーなかなかおもしろそうではないですか。