2020/04/27

『新記号論 脳とメディアが出会うとき』 石田英敬 東浩紀 ゲンロン

かなり抽象的な議論をしていて、一度読んだだけでは理解が追いついていかなかった。というか、いまもって理解できていないところもある。情報量もかなり多いので、まとめることもなかなかしんどい。
石田さんの問題意識は最後に書かれていて、現代21世紀の消費文化を分析するために、かつてのアナログメディアを分析していた記号論ではなく、まったく新しい記号論が必要だという。
とても刺激的な内容だった。とは言いつつも、脳科学の知見がどう石田理論に繋がっているのかがよくわからなかった。『ひとの目、驚異の進化』『数覚とは何か』
『プルーストとイカ』とか参考文献として論じられるが、「新記号論」の理論にどう組みも込まれているのか。
脳科学は科学の分野だけあり唯物論的、解剖学的、神経学的だが、茂木健一郎さんなんかが言う「クオリア」というのは、かなり抽象度が高いだけでなく「心理学的」要素が強い。
この科学的な面と心の装置というメタファーをどうつなげていくのか、その心の装置が解き明かす現代消費社会における美学(記号論)を作り上げていこうという試み。

******************
下記はメモ。

第一講義 記号論と脳科学
現代記号論はアナログメディアのなかで培われたもの。デジタルメディアを分析する新しい記号論が必要となる。アナログメディアのメッセージは自己完結している。
ソシュール派記号学の限界は言語中心主義からくる。すべての記号を「言語のようなもの」として、言語モデルを基本に考えていた。
まずアナログ革命が大衆社会と現代記号論を生みだし、そのアナログ革命が再帰的なったものが、1950年代以降の消費社会としてる。そしてこの再帰的アナログ革命とデジタル革命が融合したところに知識社会が生まれる。
20世紀になり、写真、映画、電話、レコード、ラジオが普及する。これは音や光などが「文字」として記録されているメディア。
レコードは、そこに存在しないものの音を再現し、写真は人間の目では捕えられない瞬間を切り取り、映画は写真を連続させて、あたかも動いているかのように見させる。メディアの技術的無意識。

フッサール『内的時間意識の現象学』
ばらばらの連続した音をつなげてメロディーになっているが、どこからメロディーと知覚されるのか。意識と時間の問題。フッサールは速記ができ、その速記のスピードで意識を考えていたかもしれない。
やはりフッサールが一つの鍵なのか。旋律が心地よいとか、「音楽を奏でている」という認識って、不思議です。音の羅列が旋律になるのって、単純に不思議。

宮沢賢治の『春と修羅』の解釈。
テレビの原理で書かれている詩ではないか。「わたしといふ現象」が「明滅する」「幽霊」。デリダ的。「メディアがテクノロジーの文字で書くようになると亡霊化する。だから、事物および事実が、まさに現象学が言うよう「現象」になる」P63
これはすごい説得力のある話。ブラタモリで『銀河鉄道の夜』の鉄道とはどんなものだったのか、というので僕らのイメージでは蒸気機関車なんだが、じつは電車だったというやつ。

『ひとの目、驚異の進化』(マーク・チャンギージー、インターシフト)
ヒトはみな同じ文字を書いている。ひとは物の辺や縁、角の輪郭の部分要素の位相的パターンを手がかりに、物の位置関係を読みとる。そのパターンは有限で、これらが文字の基本要素となっている。その証拠として、現在流布している画像データを解析すると、世界の文字のなかで現れるかたちの要素の出現頻度と一致する。世界の文字は自然界のなかで見つかる。
ニューロンリサイクル仮説。ヒトは空間の配置を本能的に見分ける能力があり、その空間識別をする脳の領域で文字を識別することにも転用している、という仮説。これは言語とは違い、文字を識別すること、つまり識字は後天的であることを意味している。
文章を読んでいる時、文、文節などを認識しながら読み進めていく。これらが脳科学からみたらどうなっているのか。

第二講義 フロイトへの回帰
ラカン「無意識は言語のように構造化されている。」
石田「無意識はシネマトグラフィーのように構造化している。」「無意識は、グラマーとロジック・テクノロジックなものである。」
21世紀のメディア環境は、かつてとは異なりSNSやネットに常につながっている状態。第一講義での「読むヒト」がこの21世紀のメディア環境で、どんな影響を受け、どのように読み書きをするのか。

フロイトの「不思議メモ帳についての覚書」
コンピューターのインターフェイスには、映画のスクリーンとは全く異なり風景がない。視覚の比喩ではとらえられないデーターベースで、しかもiPadには接触も加わる。接触の痕跡が保存させ、データベースが呼び起こされることでまた痕跡が蘇る。
セルロイド板の下にパラフィン紙があり、そこに入力された文字や絵が表象化される「知覚ー意識」の層。さらにその下にワックスでできた蝋板が「記憶」として貯蔵される「無意識」の層。つぎつぎと書き込まれていく痕跡の記憶が無意識をつくりだす。
フロイトは不思議メモ帳を心の装置のアナロジーとして用いている。
不思議メモ帳は、書き込んでいくものは呼び戻すことができないが、心は記憶を再生できる。不思議メモ帳の比喩の限界。しかし現代ではiPadはそれができる。
「われわれは外部世界からの刺激情報をメディア端末を通して受け取り、意識にとどめて氷床を生み出しては、記憶の層へつぎつぎに送り込んでいる。現代人の「知覚ー意識」に現れる現象は、心の装置の蝋板へと送り込まれると同時に、コンピューターやサーバーのメモリーに送り込まれて蓄積され、それぞれの記憶の層から呼び出されたり消去されたりしつづけている……いまわれわれが使っているインターフェイスなのです。」P105

フロイトの心的装置
初期のフロイトは唯物論的。解剖学的な局在説である「言語装置」を批判し、複数の皮質野の広がりと重なりという「言語連合」で考えていた。そして言語活動は語表象と対象表象の結合によって行われる。語表象とは、視覚、聴覚、筋運動に由来する。対象表象は対象物から受け取る感覚印象の複合。
外部から受けっとた刺激的な物理的エネルギーがニューロンを通して、というように心的装置を考えいてる。そしてニューロン間は離れていて、それを「接触障壁」とよび、シナプスのあいだを「通道」とう言葉で説明している。これによって、記憶を説明できるようにしている。
フロイトは心的装置を流体力学モデルで考えていて、現代のように「ビット」「情報処理」としては捉えていない。

フロイトの夢
フロイトは『夢解釈』でニューロンなどの神経学的な説明をすべて放棄し、心理学的な観点から考察している。精神分析の成立へ。
フロイトは心の装置を光学装置のメタファーで捉える。
感覚・知覚のエネルギーが無意識を通る過程で、接触障壁と通道が組み合わされていく。そのエネルギーが前意識の壁の段階で検閲されて、検閲を通過したものが意識へと登る。それ以外は再帰的にまた同じプロセスをへる。
語表象は前意識の段階で対象表象(物表象)と結びつく。物表象は視覚的、聴覚的、触覚的、筋運動感覚的、それ以外のあらゆる表象の連合複合といて開かれた連合。
それはソシュールのシニフィエが絵を用いているように、イメージで形成されている。つまり無意識は映像である。
フロイトのいう夢とは、感覚器官からの入力がなくなり、身体内部のエネルギーが強くなり、前意識の検閲機能が低下し、エネルギーが退行する。そしてそのエネルギーは感覚末端へいき、知覚にまで達する。つまり「夢」「幻覚」は現実の知覚ではなくて、欲望や欲動が知覚末端・感覚末端が投影装置となる。

エスと超自我
意識が繰り返されることで自我が形成される。
エスとは内部的な興奮をもたらす心的な力の審級のこと。
超自我とは聴覚帽が内在化したもの。「超自我では、外界の事柄を聴覚帽で聞き取り、無意識のレベルでエネルギーを供給しているエスとが結びついて内在化している。
内在化した超自我は語表象とつながっている。超自我の源流には聴覚という知覚がある。
超自我を自然、文化のと対立させずに連続的に捉え直す必要がある。
無意識は物表象でつくられ、意識は語表象でつくられる。超自我も語表象でつくられる。超自我は意識と同じ材料でつくられながら、エネルギーだけは無意識=エスから借りてきている。
語表象の無意識化。

精神分析の方法論とコミュニケーション
つぎつぎと相互のコミュニケーションの輪が広がり、共通の集団的な言語脳ができる。これがソシュールの「ラング」。このコミュニケーションは「聞こえることしか聞こえない」というもの。犬、come here、かめや。ビジン・クレオール。記号内在主義。
これにフロイトの「抑圧」「欲望」を持ち込むと、裏命題がでる。「聞きたくないことこそ聞こえる」。ヒトはデフォルトで抑圧されている存在と考えている。そうすると、ハーバーマスのような理想的な公共的コミュニケーションのモデルではなく、バイアスのコミュニケーションとなる。
そこでフロイトは「黙って聞く」精神分析的聴取を発明する。「聞きたいこと」「聞きたくないこと」を決定している「主体の真理」の歴史を読み解く、「聴く技法」の発明。
患者の自由連想に無意識の痕跡をたどり、無意識を復元する。
「それは、コミュニケーション文明の加速によってどんどんエスのコミュニケーションのほうへ流れていこうとする人々の無意識を、いちど沈黙の壁の前に建てせることで、歴史と記憶をつくり直させ、したがって超自我の声をも聞き取らせることで、真理の主体へと回復させようという文明的な治療の企て」P181-182

デジタル時代の夢と権力。
夢の解読が可能となると、そこに責任が生じる。夢への政治の介入がおこる。しかし夢は明証性がない。いまここの経験がなく、実証可能でもない。夢のデコーディングが可能になれば、実証可能でないにもかかわらず「エビデンス」を突きつけられる。
夢は忘却したり思い出したりして、幾通りにも解釈してきた。夢は究極的に私的な領域で、実存の重要な領域である。それが脅かされるかもしれない。

第三講義 書き込みの体制2000
フロイトとスピノザ。「エス」の問題。フロイトのスピノザ化。エスのあったところに自我が来なければならない。
「無意識は集団的で情動的でメディア的なものだ」という定式へ。そうすることで情動の記号論、症候や感染のメディア論を浮かび上がらさせる。
アントニオ・ダマシオ『スピノザを探して(邦題:『感じる脳』)
「ホメオタシス機構」
情動と感情に切れ目がない、身体と心を区別している。欲動は情動と表象の二つの領域で表現される。欲動は身体を流れるエネルギーであり、かつ記号や表象を生み出す。
スピノザ、フロイト、ダマシオの心身並行説。心も身体もホメオタシスのシステムで並行して動く。
「ダマシオの樹もフロイトの心の装置も、現在のIT化したコミュニケーション状況では、メディア装置を通してネットワークに接続さて集団に結びついて成立している」231
さらに、インターフェイスの問題。身体的になってきている。たとえばタッチパネルやVR。
デジタルメディアはインタラクティブ。

すべての人がネットワーク化して結びついている
「情動/感情」の境目は「記号の正逆ピラミッド」のふたつの三角形の境界=インターフェイスにある。
メディアたんなる表象を媒介するものではなく、感情と情動が活性させる。
人びとの情動と感情の次元が、人間側では記号生成のボトム、そして、テクノロジー側では情報処理のボトムとなる。
東さんの解説がわかりやすい。
「ダマシオの樹とフロイトの図が、さきほどの「記号のピラミッド」ふたつの三角形の片方に重なるというのではないんですね。むしろ、両方に重なっている。あるいはより正確には、このふたつの三角形の底辺が交わった面、「記号の三角形のボトム」に対して、横から、つまり三次元的にダマシオの樹とフロイトの図がくっついているかんじでしょうか。情動(物表象)が記号化し、分節化して感情(語表象)に変化する、それが一方では個人単位で身体内で起きており、他方では集団単位で社会のなかでおきていると考えている。」(240)

スピノザの「コナトゥス」
観念と物が同時に現れるという一元論。
心身並行論を持ち出す理由。それは心は身体の表象である、または表象するという考えを封じるため。
「感情」は身体と身体のあいだの「感応」として考える。それは情動が記号化されて感情になるだけでなく、その感情は人間と人間をつなぐ=感応するメディアにもなる。
ダマシオのソマティック・マーカー仮説が取り上げられる。外部からの信号はまず脳が情動として身体のループで処理し、そして次のループで感情、判断が生まれる。

パースの記号論
「類像(アイコン)」「指標(インデックス)」「象徴(シンボル)」
まず指標が成立する。
メディア・コミュニケーションとは、メディアを通した述定である。(268)
パースには「現在」がある。「現在」は知覚するものではなく、事後的に生成するものでもある。それは責任として現れる。データベースの本質は「いまここ」で決定できず、未来が決定する。
「いまここ」のの経験が記号として存在する。ピュアアイコン。そしてそのあと二次的にヒュポアイコンが生じる。

フッサールの現象学とデリダ
フッサールはパースの述定(これは〇〇である)にては一定の時間があると考える。知覚世界での述定以前を問題にする。
痕跡が痕跡化する差延。
エクリチュールはシンボルとイメージのあいだにあるもの。

メディア論
スピノザは共同体を考えるとき「模倣」を原理としている。人は他人の感情を模倣する。SNSなんかはその例。そしてスピノザの問題は表象ではなく表出の問題であるとする。
マーケティングでは「感染」をさせることが重要で、権力側も反政府側も「感染」だけを扱っている。
二十世紀資本主義の4つの柱があり、テイラーの「科学的管理法』、フォーディズム、ハリウッド、マーケティング。
マーケティングの立役者エドワード・バーネイズは驚くことにフロイトの甥で、まさにマーケティングとは「心の中の隠された市場」に働きかけるノウハウだという。
消費を分析しなければ、つまりどのように情動は支配され、動員させられているのか。消費者は単なる消費者ではなく、知らないうちにSNSに「いいね」などをしながら労働をしている。生産者かつ消費者であるとは、現代においてどういうことなのか。

「これからの時代においては、人間の心(mind)は身体(body)のレベルで、機会(machine)が行う情報処理のプロセスと接する生活を営むようになる。つまり、人間の知覚が世界を読み取り、心の意識や意味を生み出しているあいだにも、機械のほうでは、人間の感覚経験や行動パターンや思考を解析して情報処理を」している。「人間が記号過程しているあいだに、マシンは情報処理している」。これが石田記号論であるという。(270)

0 件のコメント:

コメントを投稿