2020/03/23

第十二章 神の法が記された本当の契約書について。聖書はなぜ聖なる書物と呼ばれ、なぜ神の言葉と呼ばれるのかについて。そして最後に、聖書は神の言葉を含む限りにおいて、損なわれることなくわたしたちまで伝えられた、ということが示される。――スピノザ『神学 政治論』

本当の宗教は、人間の精神に神によって書き込まれており、そして神がこれを封印するのに用いた印章こそ神の観念である。神の観念とは、いわば紙の性質を映し出す像なのだ。
旧約聖書と新約聖書が別れているのは、教えの内容が異なっているからではない。それは知らなかったから、「新しい」だけである。
だから聖書の部分が失われたとしても問題はない。
聖書は各時代の状況にあわせて書かれたものであり、
旧約聖書も新約聖書も会議の議決によって正典として承認をうけた。つまりは、正典からもれたものがある。それを決めたのは者たちは神の言葉について見識があったはず、
使徒たちは預言者としてではなく教師として教えを説いていた。
つまり、使徒たちは自分なりの福音の言葉を説き、書きとめていった。
四福音書で相互で異なる記述があることが、神がそうしたのではなく、単に福音記者が自分なりの言葉で書いたから異なっている。
相互に参照することで理解がふくまるとしても、それは偶然でしかなく、たとえ矛盾した箇所を理解できなくても幸福は薄れない。
よって聖書は誰にでもあてはなまる神の法で、神の言葉と呼ばれる。
それは、書き誤りや筆が走ってしまっている箇所が見られても、根本にある万民の法は変わらない。問題なのは、矛盾や理解が難しい箇所などを思弁的に神の権威をかりて、自説を補強することである。

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