やはり詭弁を弄しているとしか思えないこともない。
これを読むとプラトンの初期の著作は、けっこうソクラテスの言葉を正直に伝えているのではないかと思えてくる。クセノフォンの描く対話、勇気について、正義についてなど、プラトンのものとあまりかわらない。
「国家」にいたると、おそらくはプラトンの考えが相当色濃く入るようになっているようだ。
いずれにせよ、プラトンがソクラテスに見いだす哲学、クセノフォンがソクラテスに見いだしたものは、同じものだったと思われ、しかし時間が経つにつれ、プラトンは抽象的な物言いをするようになっていく、といった感じか。
「世間の人々は世間一般の人が知らぬことについてあやまつ人間を気狂いとは呼ばず、大多数の人が知っていることに間違いを犯す人間を気狂いと呼ぶのであった。」(152)
「小さいことに間違いをする人は狂気とは思わない、けれども、強度の願望を愛念と呼ぶごとく、大きい迷妄を人は狂気と呼んだのであった。」(153)
「彼はまた「よい食事で暮す」euocheisthaiという言葉はアテーナイ語ではただ「食べる」の意味になっていると言っていた。そしてここの「よい」euは、精神も身体も苦しめることがなく、かつ手に入れることのむずかしくないところの食べ物を、食べる意味で付け加えてあるのだと言った。こうして彼は「よい食事をする」の語もまた、節制ある生活をする人々のことに、用いたのである。」(174)
エウテュデーモスとのやりとり。ソクラテスは自分の優れた気質に自惚れているエウテュデーモスを笑いものにす。(178) 誰かに何かを習うことを避けて、自らの心に湧いてくることに従うよう勧めるエウテュデーモス。対してソクラテスは医術を持ちだして、エウテュデーモスがもし誰かからも何も医術を学ばず、頭に浮かんできたとおりに医術をしたい、実験台になってくれと言っている、と言ってエウテュデーモスを笑いものにする。
エウテュデーモスとソクラテスのやりとりで、正義と不正についてを論じている箇所がある。(184)。
「無自制は飢えも渇きも肉欲も眠気も、これを我慢することを許さない、ところがこれができてこそうまく食い、うまく飲み、性愛も心地よく、休息も睡眠もはじめてたのしいのであり、よく待ちよくがまんしてこそ、それらにひそむかぎりの最大の快味が生まれるのであって、無自制はもっとも本然の、もっとも継続的な快楽を、真正に楽しむことを妨げるのである。ただ自制のみが、よく上述のことをがまんせしめて、ひとり上述のことにおいて言うに足る快味を楽しませるのだ。」(216)
ソクラテスは自制こそ快楽の活用で重要であると述べ、ここからさらに、自己修養、家政の切り盛り、友人関係、そして国家運営、戦争など、あらゆるこに楽しむことの本質をここでは説く。
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