2021/04/17

『増補 責任という虚構』 小坂井敏晶 ちくま学芸文庫

んーおもしろいですねー、自由があるから責任があるんではなくて、責任や罰を誰かに帰さなけれならないから自由がつくられる。
人権、自由、責任なんてのは、いまさらながら虚構ではあるが、この社会はこの虚構で成り立っている。いわゆる社会構成主義の立場。
以下はメモ程度の書きなぐり。かなり脈絡なくまとまている。

小坂井氏は人間を「外来要素の沈殿物」だという。いつ、どこで、だれが親でかは選べずに人間は生まれる。
意識は行動の原因ではなく、行動を正当化する機能をもつ。行動が意識をかたちづくる。
ベンジャミン・リベットの研究が紹介されている。

そもそも責任概念を支える自律的人間像がいかに脆弱であるか、社会心理学の実験から明らかになっていく。

分業社会は近代社会にとって必要なことではあるが、これによって、自分自身が何かに加担しているという感覚が薄らいでしまう。組織が行う全体的な行動が各人では見えにくくなり、残虐行為が可能になっていく。通常、人が人を苦しめることや殺すことはかなりストレスがあるが、分業はこのストレスを緩和していく。
ユダヤ人の拷問や強姦に多くのドイツ人は苦しむケースがあった。指導層はこのストレスの緩和のため、ヒューマニズムの観点から虐殺のストレスを緩和すべく、効率的で合理的な殺害方法をつくりだしていく。
ここから導かれるのは、反ユダヤ主義がホロコーストの原因というのではなく、虐殺の結果が反ユダヤ主義であるかもしれないということだ。
ホロコーストの分業体制と現在の日本の死刑制度の類似点も論じている。
ぼくは死刑制度に賛成ではあるのだけれど、本書を読んでみて、んーたしかに全て隠されているなかで、自ら手をください卑劣さを見いだしてしまった。
ぼくは死刑制度は、抑止効果とは考えておらず、たんに報復措置として捉えている。
まあそれはいい。
責任を因果関係で理解すると、責任と運の両概念が相容れない。もし自分がナチスドイツの政権下で生まれた場合、はたして自分はどうだっただろうと考える。正しい行為を選択できたのか。道徳状況が運命に任されていく。これは不合理だ。責任とは自由であるから発生するもののはずだからだ。
責任概念と因果関係は論理矛盾を抱える。(230)
1 自らの行為に対して道徳的責任を負うのが、行為者自信が当該行為の原因をなす場合である。
2 だが、どんな存在も自らの原因ではありえない。
3 したがってどんな存在も責任を負えない。
犯罪の原因は何なのかという発想自体に問題あるという。行為者は行為の最終原因と見なされ、行為者を超えて因果関係を遡らない。なぜか因果関係は無限に続くからだ。

行為とは「する」ことだけでなく「しない」ことも行為であるはずだ。
しかし「しない」は意志がないことではあるが、「殺さない」という場合は意志があるということでもある。
意志と行為のあいだにの因果性ではなくて、意志と責任を負うべきあいだの因果性が「自由による因果律」となる。「事後的に「その行為の原因として(過去の)意志を構成するのだ」(234、中島義道孫引き)
意志は行為の原因として認められる、これが近代的発想の誤謬である。意志がの有無は原因になりえない。それでは意志と願望の区別はなにか。それは行為が起きた事実しかない。

「自由だから責任が発生するのではない。百に我々は責任者を見つけなければならないから、つまり事件のけじめをつける必要があるから行為者を自由だと社会が宣言するのである。自由は責任のための必要条件ではなく逆に、因果論で責任概念を定立する結果、論理的に要請される社会的虚構に他ならない」(244)

社会規範は集団の相互作用によって生みだされる。超越論的な何かが支えているものではない。我々が非難する行為が悪と呼ばれる。
小坂井氏は犯罪は多様性の同意語だという(258)。逸脱行為は社会でかならず生じる。均一性が高ければ逸脱行為は減少し、多様性が高まれば逸脱行為が増加する。
ゆえに「正常な社会現象として犯罪を把握するとはどういう意味か。犯罪は遺憾だが、人間の性質が度し難く邪悪なために不可避的に生ずる現象だと主張するだけに止まらない。それは犯罪が社会の健全さを保証するバロメーターであり、健全な社会に欠かせない要素だという断言でもある(258、デゥルケーム孫引き)
小さな逸脱行為に敏感になる共同体では、些細な逸脱が犯罪の烙印をおしていく。

集団犯罪を社会が糾弾する一方で、しばしば犯罪者当人は責任を自覚しない。
なぜか。
近代的意味での道徳責任主体に集団はありえない。例えば日本の戦争責任を認めとという場合でも否認する場合でも同じ論理の誤りを犯している。
個人に責任を還元するならば、道徳的意味での集団責任は無駄な概念だ。しかし集団に主体概念を認めるかどうかが問題となる。国家の場合は論理が違うのでおくとして、集団として民族の責任はありえるのか。
小坂井氏はここで責任が「気軽さ」もって集団に認められてきたことを指摘する。イギリスの植民地、アメリカの先住民、トルコのアルメニア人の虐殺、これらが「気軽に」認められてきた。
責任は因果関係によって意味をもつ。しかし、現代に日本人と第二次世界大戦時の日本人では因果関係が認められない。

そこで同一化が問題となる。
責任の感覚は心理的同一化に依存する。不断の同一化という虚構が、集団的責任をもたらす。
動物や植物を裁判にかけていた時代がある。また当人だけでなく家族や部族全体を処罰対象になったこともある。後者は現代でもある。
それは現代が責任を自由に結びつけているからだ。因果関係をもとめることが原因となる。

犯罪者が捌かれるのは端的に言えば行為者が目立つからにすぎない。犯人と犯罪が密接に結びつきやすい。「責任と罰は表裏一体の概念をなす。責任があるから罰せられるのではなく、逆に書っ罰が責任の本質をなす」(296)
社会を安定させるために「けじめ」が必要で、責任のつじつま合わせで精神科医や臨床心理学者が起用される。
動機は本当に存在するのか。小坂井氏は犯罪時の記憶が物語として創られていくという。このあたり興味がある。
正義という信仰は人に正当化を与える。天は理由なく賞罰を与えない、徳をなせば必ず報われる、このような信仰で他者の不幸が正当化されていく。
データを解釈、判断することで、正しい戦略がなされるかというとそうではない。ある個人がデーターから下した判断が後に誤りだとわかったとしても、すでにその言説は再生産をされ個人の手から離れ集団行為へと移っていく。誤りだとわかっていてもすでに時は遅い。それが集団行為というものとなる。
なかなか興味深い。実体はよくしらないが北欧では快適な牢獄ライフが犯罪者には待っていて、しかも再犯率が低いという。ぼくはこの件をはじめてしったとき、ある種の嫌悪感みたいのを覚えた。やはり犯罪者はたとえ再犯率が高くなろうとも罰を受けるべきだと。しかし、頭の片隅には犯罪とは何かという疑問をもった。んーたしかに責任が虚構であるならば、北欧の刑務所は新しいパラダイムを開いているのかもしれない。

道徳も法も根拠なんかない。根拠をもとめてもそれは虚構でしかない。しかしその虚構を社会は必要としている。そしてこの虚構に従わせるために暴力が必要となる。
個人への制限は政治思想において、必要なものではあるが、捉え方が異なる。ホッブズは必要悪としてみているが、ルソーにいたっては一般意思によって住民を従わせ真の自由を獲得する。市民の利益はそのまま個人の利益となると考えている。

正義論の無知のヴェールについても簡単に触れているが、これは小坂井氏の言うとおりだ。無知のヴェールをルソーの一般意思と同じものとして考えていいという。そりゃそうだ。
遺伝、遺産、能力は個人差があるが、ロールズはそれを失くす必要はないと考える。これらの個人差は個人の責任ではないが、格差をつけることで社会の生産力は向上する。そうすれば下層の人々も必然的に生活があがる。自由と機会が平等に与えられさえすればよいとロールズは考えている。
しかし、人間はそこまで単純ではない。人間は妬む。だから階級闘争がおこる。また平等になればなるほど不満も増大する。
自由が前提の社会では、平等に機会を与えられても、能力は平等ではない。故に下層の人はこの能力差を自分の責任として引き受けがちになる。
ロールズの公正さは、誰もが納得するものであるべきとするが、しかしそれによって格差を是認することになる。しかも現実の世界ではロールズのような仏は存在しない。
人間の悲しさは、近い所得や近い能力の人間たいして強い羨望を抱くことだ。天才に対しては諦めがつくが、近い存在にたいして妬みをもつ。

万人が競争することが自由で平等な社会であると錯覚するが、それは階級を分けていた境界がなくなったことを意味しているわけではない。不平等が常識であれば、上昇志向がなくなるので、不平等に気づかない。平等であるべきという考えが不満をおこす。
ロールズの場合は格差を無能な自分のせいとなる。それはロールズの示すシステムがそうさせる。だがロールズが劣等感をもつことはない、それは本人の責任ではないからだといいう。しかし自由が担保されているにもかかわらず責任がないとはこれ如何に。

「人間が営む夥しい相互作用から生成される集団現象が人間から遊離し、<外部>として現前するおかげで根拠が構成される。真善美は集団性の同意語だ。無から根拠が生まれる錬金術がここにある。神のような超越的存在を斥けながら同時に遺伝子や物質的所与への還元主義をも否定した上で、それでも人間世界に意味が現れる可能性をこの認識論が保証する」(385)
そしてこの無根拠なこと、全くの恣意性は隠蔽される。
因果関係は社会制度が作り出す表象である。(402)
「近代は自由と平等をもたらしたのではない。格差を正当化する理屈が代わっただけだ。自由に選んだ人生だから貧富の差に甘んじるのではない。逆だ。貧富の差を正当化する必要があるから、人間は自由だと近代が宣言する。努力しない者の不幸は自業自得だち宣言する。……近代は神という外部を消し去った後、自由意志なる虚構を捏造して原因や根拠の内部化を目論む。その結果、自己責任を問う脅迫観念が登場する。」(419)
そして、
「構成主義の最も重要な功績は、世界の恣意性の暴露ではない。恣意性が隠蔽される事実の認定だ。」(435)

0 件のコメント:

コメントを投稿