2021/02/20

『アンナ・カレーニナ』 1 トルストイ/望月哲男訳 光文社古典新訳文庫

一人ひとりの登場人物がどんな思想をもって、発言し行動しているのかがうまく描かれている。
オブロンスキーは新聞はリベラルなものを読んでいたが、彼はノンポリであくまで都市的な教養としてリベラルを装っている。そして彼は他人に対して非常に外交的で、多くの人が彼に魅了されていく。

「きみはまた人間の行動にはいつも目標があり、愛と家庭生活が常にひとつであることを願うだろうが、そうばかりではないのさ。人生がこんなにも多様で、魅力的で、美しいのも、すべて光と影の両方があるからなんだよ」(110)

オブロンスキーのこの発言なんかも、非常にバランスのいいもので、そして包容力がある。人生をどこか達観している。他の登場人物とはちょっと違った視点を提供する。

アンナの登場の描写も素晴らしい。おそらくはトルストイの恋愛経験から書かれているかと思う。ヴロンスキーがアンナをはじめて会ったときの描写、

「全身から漂っている優雅さや淑やかさのせいでもなくて、相手の人文の脇を通り抜けるときのその愛らしい表情に、なにかしら特別にやさしく暖かいものが感じられたからであった。」(156-157)

このあとの描写でもアンナは自分の優雅さや美しさを自覚している。それを武器にして社交界で生きている。素晴らしい。

結婚観がとっても面白く、恋愛結婚を旧習なものだとヴロンスキーが述べ、理性による結婚こそが幸福であることとを主張する。
アンナとカレーニンの結婚は理性による結婚の象徴であるのか。ドリーが感じるアンナとカレーニンの生活感のなさや、節度をもったお互いの不干渉など、アンナもカレーニンも理性的。
にもかかわらず、アンナもヴロンスキーも恋愛にはまっていく。

リョービンは貴族として農場を経営する。農民たちは言うことをきかない、そんなときリョービンは得体のしれない「自然の力」と戦う意欲がわいてくるらしいのだ。まさに民衆、農民などは「自然の力」なのだ。意志をもって対峙する相手となっている。
当時にすでに「田舎の解放感」が求められていたようで、オブロンスキーもリョービンを訪ねたさいに、田舎を満喫する。
しかし田舎はある意味で都市の幻想で、田舎には現実がある。そしてその現実に疎いオブロンスキーは自分の土地を、リョービンから言わせれば安い価格で手放しています。
キティはドイツに慰安のために滞在中に、ワーレニカに出会う。キティは彼女と出会い心の平安を得て、さらに滞在先でワーレニカの真似をしながら、善行を尽くそうとする。
そこに父が登場し、さらにワーレニカの義母であるシュタール夫人とのやり取りを目の当たりにすることで、キティはシュタール夫人にどこかうさん臭さを見いだし、ここでおもしろいのが父親の存在で、彼はキティに言う、

「しかしね、事前をするのなら、むしろ誰にたずねても誰もしらないという形でしたほうがいいのだよ」(576)

父の街での振舞いやシュタール夫人にたいする態度から、キティが求めていた神々しさのめっきが剥がれていく。

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