デリダとサールが死んじゃう。なんか暗示的ではあるが、よくわからない。デリダは猫を論じていたが犬は論じていないと思う。サールは自殺しちゃうけど、これはなぜだ。
かなり笑える小説となっている。ソレルスが扱いのひどさ、フーコーの王様のような態度と浮世離れした言葉。ポスト構造主義の思想家が勢揃いであるが、ビネはおそらくウンベルト・エーコーのことは好きなよう。
ベルナール・アンリ・レヴィなんかかなり印象悪い感じだ。
アルキビアデスのような若者に始終しゃぶらせているフーコー。
バイヤールとジュディス・バトラー、スピヴァクの3P。
シモンとビアンカの解剖台の上でのマシーンのようなセックス。
いろいろと酷い。
いつおう史実に基づいているが、これらの解釈というかなんというか、それが違ったりする。アルチュセールの妻の絞殺は書類を捨てたことで頭に血が上ってしたことになっている。ボローニャ駅のテロなんかも絡ませている。この事件は詳しく知らない。
他にもクリステヴァがブルガリア人スパイの嫌疑があったこと、傘の柄に仕込んだ暗殺がブルガリア人スパイが実際にやっていたということ、など。
ロラン・バルトの死が1980年3月で、エーコーの『薔薇の名前』も1980年9月。どうも中世普遍論争を大陸哲学と分析哲学の確執とダブらせているようとのこと。
衒学的な文章もエーコーを思わせるものだし、<ロゴス・クラブ>でのバカみたいな議論、ゴシックとクラシックとか、本当にどうでもいい議論が続くが、エーコーはそのクラブのテッペンの人。
ソレルスは負けて陰嚢がちょん切られてしまうし。去勢だ。
言語の七番目の機能とは何か。魔術的機能。
これはよくわからん。でも最後シモンがそれを実行したのは確か。シモンはミッテランの宣伝広報を受け持つようになる。
そういえば読んでてヤコブソンが1980年にはまだ生きていたというのも、そうだったのかとバイヤールだけでなく僕も驚くばかりで、このあたりもビネのふざけているところ。
生きているのに、ヤコブソンの言語学に関する切れ端とかテープとかをみんなで追いかけまわっているのだから。おそらくこれもビネの仕掛けの一つ。ある種の哲学談義の空疎さを揶揄しているとも思える。実在しているものに周辺でなんのかんのと騒いでるだけっていう感じでしょうか。
石田さんのUchronieユークロニーについて指摘がおもしろい。次の著作ではインカ帝国がヨーロッパを支配したら、という話らしい。いいじゃないですか。
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