2021/02/21

『「色のふしぎ」と不思議な社会――2020年代の「色覚」原論』 川端裕人 筑摩書房

んー脳内革命。
日本では先天的色覚異常が男性では5%いるという。それを「異常」としていいのか。だから日本遺伝学会では、色覚異常を「異常」とせず多型として、1%未満を変異と、概念を変えている。頻度の高いものはすでに定着しているという考え。もちろん1%には根拠はなく目安としている。
色覚異常をもっている人々への差別というのは、正直ピンとこなかった。自分自身が「正常」の範囲であるからでもあるが、かつては結婚差別まであり、現在でも職業差別がある。かつては色覚異常がある場合は理系に進むこともできなかった時代があるとは。
2014年に色覚検査の復活がなされたという。というのも、今の社会において、職業選択の際に前もって自分の色覚について知っておくことは、後で知るよりもメリットがあるからというものだ。これを日本眼科医会が推しているという。とはいえ日本眼科医会も別に差別するために色覚異常を見つけ出すことを目的にしているわけではない。あくまで個人が認知していることの重要性を説いている。
ただ、ここで問題が起きているようで、川端さんがいうように、石原表によるスクリーニングが適切なことなのかどうかということだ。
川端さんは石原表でのスクリーニングは基準を満たしていないという。
この問題は興味深くて、眼科医と色覚の研究者では、視点が異なっていることだ。

あのドットで数字を見る検査表を石原表と呼ぶとは知らなかった。しかも戦前に陸軍で作られ、世界に広まったとは。そしていまなおスクリーニングにおいて有用性があると認知されているとは。
ただし、アメリカ軍でもイギリスの民間航空会社でも、石原表ではなく、別の基準を設けて色覚検査を行い、適正を測っている。そして石原表では異常となりパイロットもしくは整備しにはなれなかったかもしれない人々が、別基準では採用がなされていく。
石原表とは何なのか。しかも感度と特異度がきちんと調査されていないという。なんだそれ。
結局、石原表でスクリーニングにひかっかても、異常ではなく正常にもなる。
問題はスクリーニングにひっかかってもその後の確定診断にいたる過程が確立されていないことだという。
ちなみに石原表には色覚異常ではないと読み取れない票があり、正常な色覚だと読めないものがあるという。もはや正常と異常が何を意味するのかがわからなくなる、そもそもアンビバレントを孕んでいるようだ。

色覚を調べるのに糞のサンプルから遺伝子のDNAを拾うというので驚く。
色覚の2型、3型などがあり、人間は3型が多数を占めるが、必ずしも3型が有利であるというわけでもない。人間がどうして2型、3型、と多様なのかもよくわかっていないようだ。
ただ2型の方が、一般的に明るさのコントラストや形状の違いに敏感で、自然界で昆虫を採取したりなどの条件では有利に働く。ただし3型は森の中で緑の背景で果実の赤を見つけ出すのが有利だったりするらしい。
ただし、こういう有利不利も経験からその差異は埋められていき均されていく。
「色の弁別」と「色の見え」は違うというのは、まったくもって納得。色覚異常であるから色の弁別ができないわけでもない。見え方が違う。ただし、それがどのように見えているかは検証する術がない。
色の見え方は、証明の明るさや波長でも異なっていく。ザ・ドレスを参照。
「色覚は健全な錯視である」
結局、異常と正常の明確な境はない。スーパーノーマルの存在が明らかなように、正常自体が人間が作り出した幻想でしかない。
色覚では、明確な線が引けない。
「軽いほど危険」というフレーズそのものに危険が潜んでいる。気づかないぐらいの色覚だと知らないうちに日常生活で不利益を被るというものだが、そもそもとして正常と異常がはっきりと区別できないことがわかっている状況で、この言説を指示できる根拠がなくなっている。

驚くべきは魚類で、多様な色覚を獲得しているようで、緑型、青型という哺乳類、霊長類がもっていない錐体オプシンをもっているとのこと。すごい。
猫を飼っているが、やつらは多様な色を見分けられないとバカにしていたが、じつはそうではなくて、猫からしてみれば色覚が2型であることで闇夜でコントラストと輪郭をはっきりさせて、生存してきたということであって、まさに多様性なのだな。


0 件のコメント:

コメントを投稿