2021/02/13

『性の歴史IV 肉の告白』 ミシェル・フーコーフ/レデリック・グロ編/慎改康之訳 新潮社

やっぱり一回だけ読んで理解できるような代物では全くなかった。けっこう難解な内容。どう整理していいかもわからない。
この『肉の告白』がどのように現代の問題と結びつくのか、結びつけられるのかがよくわからない。内容自体は興味深いものばかりで、知的好奇心は満足できるものではある。
んーだれかこの主体性やら欲望の系譜学とやらで、現代と結びつけながら論じてくれる人はいないものか。

以下はメモ。
古代ギリシアから離れ、ようやくキリスト教における欲望の系譜学を描き出す。ここでフーコーが抽出しているのは、単純な宗教的禁欲ではない。禁欲や節慾がもつ意味となる。
まず、アレクサンドリアのクレメンスによる『訓導者』を読み解いていく。
「我々が我々の訓導者から学びつつあるキリスト教徒の生は、<ロゴス>に適う行動の一式である。<ロゴス>の教えを断固として実行すること、これがまさしく我々が信仰と呼んだものである。」
クレメンスは適切な振る舞い(カテーコンタ)はロゴスから解読する。ロドスが人間行動の正しい道徳感覚を与え、救済するとなる。
初期キリスト教において、性交や結婚、それ自体は正真正銘の悪としては扱われない。人間の子作りの行為は<天地創造>の力能を関係しており、キリストの再生、受肉にも関連付けられている。

悔い改め
「悔い改めの実践と収斂的な生の務めは、「悪をなす」ことと「真を語る」こととのあいだの諸関係を組織化し、規範の厳しさの増減よりもおそらくはるかに新しくはるかに決定的な一つの様態において、自己、悪、真に対する諸関係を束ねる。実際、問題となtっているのは、主体性の形式である。自己の自己に対する務め。自己の自己による認識。調査および言説としての自己自身の構成。自己の解放と浄め。自己の奥底にまで光をもたらし、最も深いところにある秘密を贖罪のための現出の光へと導く操作を通じて得られる救済。このとき練り上げられたのが、一つの経験形態――自己への現前の様態であると同時に自己の変容の図式であるものとしての経験形態――である。そして、経験形態こそが「肉」の問題を、徐々に自らの装置の中心に据えるようになったのだ。そして、正しい生の一般的規則に統合されるものとしての、性的関係ないしアフロディシアをめぐる規定に代わって、生の全体を貫き生に課される諸規則の基盤をなすものとしての、肉の根本的関係が現れることになるのである。」(68-69)
「悔い改めは、自己の客体化よりもむしろ、自己の現出化に結びついている。」(85)
「メタノイアはこうして、心理に知王辰しようとする魂の動きであるとともに、その動きの現出化された真理でもあるような、複雑な一つの業を構成するのである。

他者の意志に服従するのは、他者が服従を欲しているから。
従順とは、他者との関係のみならず、生存の方法である。修道士が従わなければならないのは、まさに従順に達するためとなる(172)。従順とは自己との官益の一形態であり、指導は内面化し自己が自己自身の指導者へとなっていく。指導されるものは自分の意志に代えて他なる意志を際限なく受け入れる立場におかれる。「指導は、もはや欲しないようにしようとする熱意という逆説に依拠している」(175)
なかなか興味深いのが、初期キリスト教思想において、神の力添えなしに、人間の思慮分別は不可能であるとしてることだ。頼みの綱は神の恩寵であると。
自らの行為に間違いがないかどうかの検討をしても、自己自身を欺くこともある。それを払いのけることはできない。だから告白が必要となる。
「自分の心を苛むいかなる思考も偽りの羞恥によって隠されないようにすること、そうした思考がうまれたらすぐにそれを上長に現しだすこと」(カッシアヌス『共住修道制規約』/189)

なぜ告白が検証の役割を担うのか。上長の経験が優っているから助言が適格である、というのもあるが、カッシアヌスは言語による外在化に清めの効力を認める。
告白には羞恥がともなう。
自己を検証することで、「真を語る」ことと絶えず結び、神の恩寵が作動する。神は清らかな思考のみを迎えていく。
フーコーは自己に責任があると認める行為を「法陳述」ではなく、自己自身も知らない秘密に関する「真理陳述」としている。
「清らかさは逆に、自分自身のあらゆる意志の決定的な棄却」とし、「真理陳述」は自己の棄却と結びついている。
処女・童貞性の価値。禁欲や節慾が論じられながら、「個人の自分自身との関係、つまり、個人の自分の思考、自分の魂、自分の身体とのあいだに打ち立てる関係を」定義するようになる。処女・童貞性の推奨は、姦通の禁止の延長線にあるのではなく、非対称であり、異なる本性に属するという。(211)

オリュンポスのメトディオス『饗宴』
処女・童貞性には単に節慾の重要性や困難さを言っているのではなく、霊的な意味が与えられる。
結婚には肯定的な意味が与えられている。ただし、それは処女・童貞を守ることができない弱い人々に対する譲歩としてという。
清らかさは神の賜物なのである、腐敗から人間を守ってくれるという。
「永遠」「この生を超えた世界の彼方」。プラトン的。

アレクサンドリアのクレメンス曰く、結婚は過酷な試練を受けていることになるようだ。結婚は処女・童貞と同じように道徳的価値が与えられる。結婚には多くの危険がある。
処女・童貞を選ぶことは強い人々だけであり、少数の人のためのもの。結婚はみんなのためのもの。
「処女・童貞性は、天指摘生存を開くのだ。処女童貞性は、いまだ我々とともにあり続けている人々を非腐敗と不死性にまで上昇させる。」
「似た躯体的に自発的去勢者となることは、功徳がないだけではない。そのようなことをするものは、自らの魂の処女性を自分自身で確固たるものとすることを拒絶しているゆえに、つまり行為を自分にゆるさないとしても欲望には同意しているゆえに、罪びとともなされるべきである。」(287)とバシレイオスは言う。
結婚の目的は子づくりではない。というのもこの言明は夫婦と性的関係を義務としている。(355)そうではなく姦淫を避けるために、妻をもち夫をもつ。節慾のため。
子づくりは結婚の本質ではない。というのも「神の意志がなければ、結婚がそれ自身によって大地を人々で満たすことなどできないだろう。子づくりについて言えば、神は、結婚も身体の結びつきも減ることなくそれを保証することが完全にできるだろう」(356)とクリュソストモスは言う。
「産めよ、増やせよ」は身体的な生殖活動を言うのではなく、霊的な生殖を意味する。結婚は堕罪に結び付けられる。
処女・童貞性は義務ではないが、結婚は義務であり、法であるという。(361)。情欲のエコノミーにかかわる義務。

アウグスティヌスは、教会が処女・童貞を特別視していてもキリスト教共同体に帰属するための条件として、処女、結婚、節慾を求める必要がないという。(384)一つの共同体において統一される。
アウグスティヌスとって「性的関係は、堕罪の帰結でもなければその原因でもなく、創造の御業そのものによって人間の自然本性のなかに組み入れられているのだ。性的関係は、したがって、過ちからも情欲からも解き放たれいる」(397)
「結婚は<天地創造>の一部となす。。教会は結婚を保証する。なぜなら教会を構成する霊的諸形態の一部であるから。だから結婚は善なのだ。(404)
アウグスティヌスはさらに情欲に支配された、小罪を侵す人々に過度に義務をかすべきではなく、寛容さを説く。(421)
「リビドーとは、過ち、堕罪、「不従順の報い」の原理によって性行為と総合的なやり方で結びつけられた一つの要素なのだ。この要素を明確に定め、メタ歴史におけるその出現地点を決定することによってアウグスティヌスは、性行為とそれに内在する危険とが思考される際に拠り所とされていた「痙攣性のひとかたまり」を解体するための根本的条件を立てる。彼は一つの分野領野を開くのであり、そしてそれと同時に、政敵官益を回避するかそれともそれを(多少とも自らの意志にもとづく譲歩によって)受け入れるかという二者択一とは全「別の様態において振舞いを「統治」する可能性を素描するのである」(447)
アウグスティヌスとって情欲は意志に逆らう非意志的なものではなく、意志そのものに属する非意志的なもので、情欲なしでは意志は意欲しえない、しかし恩寵があれば情欲の弱点がのぞけるという。
「情欲の「自律性」、それは、主体が自分自身の意志を欲するときの主体の法であるということ。そして主体の無力、それは、情欲の法であるということ。これが、帰責性の一般的形式――というよりもむしろ、その一般的条件――なのである。」(454)
「情欲のことを人は「罪」と呼ぶが、「ある種の言葉の綾で」そう呼ぶ」(455)
「古代世界における性行為は、「発作性のひとかたまり」として、つまり個人がそこで他者との関係の快楽のなかに沈潜し、死を模倣するに至るような、痙攣性の統一体として考えられていた。そのひとかたまりについて、それを分析することは問題とならず、それを快楽と力の全般的エコノミーのなかに置き直すことが必要とされていただけであった。そのひとかたまりが、キリスト教においては、生活規則、自らを導き他者を導くための技法、検討の技法、告白の手続きによって、また、欲望、堕罪、過ちなどに関する一般的教義によって、解体されてしまった。しかしながら、もはや快楽と関係を中心としてではなく、欲望と主体を中心として、一体性が組み立て直された。その一体性は、回折がのこるようなやり方で、そしてそこで分析が可能となるようなやり方で組み立て直された。理論や思弁の形態のもとで、そしてまた他者もしくは自己自身による個別的検討という実践的形態のもとで、分析が可能となる。そしてそれらの形態のもとで、分析は、ただ単に[推奨される]だけでなく、義務とされるのだ。このようにして、発作性の快楽のエコノミーを中心とするのではなく、情欲の主体の分析論と呼びうるようなものを中心とする組み立て直しがなされた。そこでは、性、真理、法権利が、我々の文化が緩めるどころかむしろ強固な絆によって結びつけられているのである。」(474)

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