んー素晴らしい小説だった。今の今まで読んでいなかったのが悔やまれる。
スカーレットの"tomorrow is another day"の意味が、頻繁に困難なときに登場するが、この言葉の意味がその都度変化しており、単純に面倒なことは先送りというだけでなく、たまに諦念が入ったり。
ラストでこの言葉で終わるが、決して希望のある言葉ではないし、そして決して単に困難を先送りすることを意味しているだけでなく、スカーレットの生き様がまさに最後の言葉に凝縮されていて、リアリストで気性が激しく自己中心的な人物にぴったり。
スカーレットはいつになってもスカーレットのままで、何も学ばない。メラニーが死んで、メラニーしか友達はいなかったと悟っても、アシュリーが色あせても、レットへの愛を自覚しても、スカーレットはスカーレットのまま。
レットへ愛を語っても、どこか自己中心的だし、確かにレットとの会話で怒りを抑制してレットを少し驚かせたりもするけど、なんだかんだでタラへの思いは変わらない。
アシュリーへの愛が醒めても、たんにレットに乗り換えただけでもある。
この小説では、南部は敗北後にレット以外の男たちは皆、クー・クラックス・クラウンに参加する。しかしそんなことをしていても仕方がないと少しづつだが気づき始め、小説の最後のほうではKKKは解散していることが語られる。そしてみんなめいめいが必死に一日を生き言っていることが語られる。ただし、そこでは取り残された者と時代の変化に対応した者とがいた。かつては貴族然としてものが、パイのワゴン販売やら農作業に自らの道を見いだしていく。
物語は少しづつ様相を変えていくのだが、スカーレットだけ昔のままのスカーレットなのだ。
マミーはタラに帰り、メラニーは死んでいく。レットは愛をすりへらしイギリスに行くという。
最後の最後までタラとマミーなのだ。
んー素晴らしい。
フランクが死んだときもたしかに良心に目覚める。でも、そんなことすぐに忘れてレットを結婚してしまう。
アシュリーへの愛が醒めても、レットにすぐに乗り換えるし、レットから愛想をつかされても、タラに帰れば元気になる。
ただここで一番のスカーレットにとっての痛みはメラニーの死のようで、ここで始めてスカーレットは味方が誰もいなくなるのを知る。
実際そうなのだ。アンナ・カレーニナと同様に、周りに理解者がいなくなる。
つねにスカーレットを守るメラニーの存在が輝いている。メラニーも頑固な性格で、南部精神の鑑みたいなものなのかな。
訳者あとがきで自由間接話法について語っている。なるほど。最後にマミーが地の文で自由間接話法になったりしているところも、なかなかいい。(424-425) ここは本当に素晴らしいところで、これまで主にスカーレットの心情だったが、ここで突然マミーの心の声が登場する。ボニーの葬儀のことやレットの落ち込みよう、メラニーの高潔さ、これらが重なりながら、マミーの心が吐露されていく。こんな素晴らしいことはない。
地の文では、著者の味方が書かれているかと思いきや、登場人物の考えや心理描写になっている。
映画では、このあたりの表現はできないので、小説を読み終わった後に見返してみると、なんと映画版が薄いことか。映画では絢爛豪華な描写であったり、風景の美しさがメインになっている。映像美に徹しているといっていい。しかし、小説は風景描写はあくまでタラの美しさとアトランタの喧騒と猥雑さで、スカーレットの心理を描くための素材でしかない。
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