リョービンは結婚する前に痛悔礼儀を受ける。リョービンは神の存在を疑っている。司祭から神の存在は世界を見れば自明であることを説かれる。子供が生まれたときに子供に世界の存在をどう説明するのかとも言われる。
リョービンは兄ニコライの見舞いに行くと、すでに死期が近いことを悟る。キティも一緒についてきて、リョービンが嫌々ながら兄に紹介する。するとキティはベッドのシーツや枕などのを変えたり、病人に必要なことを指示し、行っていく。一方リョービンは何もできずに呆然とするだけ。ニコライは臭いや汚らしさを嫌がることなく接してくれるキティに感銘をうける。ニコライとリョービンは互いにある瞬間で優しい気持ちをもち手を握り合ってったりするが、ときに不機嫌になったりするニコライに対してどう接していいかもわからなくなったりもする。
てきぱきと動くキティを「賢い」とリョービンは思う。リョービンは死にゆく者を恐れていた。
キティとアガーフィアは死にゆく者に身体的な苦痛を和らげる以外の何かを求めていた。
リョービンもキティもニコライが死ぬことを確信していた。しかしニコライはなかなか死なない。面白いのはトルストイはこのあたりでニコライの早い死を誰もが望んでいることを率直に書いていることだ。キティは身体的にも精神的にも看病に参っていた。ニコライは痛みから周りに当たり散らすようになる。
リョービンは死を神秘として捉え、そしてニコライの死は同時にキティの妊娠へと繋がっていく。
アンナとヴロンスキーはイタリアへ駆け落ちをする。セリョージャを置いて、ヴロンスキーを選ぶ。
しかし欲望を満たすことが幸せであることとは違うことを悟っていく。これをトルストイは人間のよくやる過ちとしている。
アンナはいろいろとめんどくさい女になっていく。ペテルブルクで社交界に勝手に行ったにもかかわらず、ヴロンスキーに愛しているなら、なぜ止めてくれなかったのかと責めたりする。
オブロンスキーが連れてきたヴェスロフスキーという脇役が登場する。感じのいい青年で、ドリーやキティに色目を使ったような態度で接したりして、服装もどこか気取っていた。リョービンはヴェスロフスキーを感じのいい青年として認めるも、自分の感情が不安定になるというので、家から追い出す。
リョービンはオブロンスキーと労働について議論をする。ここではリョービンは素朴に暴利を貪る人間、利権にしがみつく人間を嫌う。オブロンスキーはかなり自由主義的な発送で、銀行でも鉄道でも事業を行う人間が居なければ発展がないだろうという考えをもつ。
この違いは、かなり現在でも引きづっている。リョービンの考えは簡単に反論できるものではある。事実リョービンは簡単にやりこめられてしまう。しかしそれに納得できないのがリョービン。
オブロンスキーはそんなに不平等を間違っているというならば、領地を農民にくれてやるべきではないかと言う。リョービンは言う、農地を農民たちにくれてやる権利はないし、そして先祖代々の土地を守っていく義務があると言う。リョービンはここでも言語化がうまくできずにいる。
「所詮二つに一つなんだ。現存の社会体制を正当なものと認めて、自分の権利を守ろうとするか、それともこのぼくがしているように、自分が不当な特権を教授しているのを認めながら、その特権を喜んで教授するしかないのさ」(386)
リョービンは子供が生まれることは神秘であるべきである考えていた。そんんなかキティは細々とした実用的な準備を進めている。それをリョービンは苦々しく思っている。キティの人為的な作業がそれを冒涜していると感じている。
ドリーはアンナに会い行く。アンナとヴロンスキーの生活は驕奢で、イギリス風の家具を取り揃えていたりと何かとってつけたような幸せなところがあった。ドリーは現実の子育てや子供たちの未来、苦しい家計などに直面しており、アンナたちのような贅沢はできない。
しかし、アンナたちの生活を目の当たりにして、その窮屈さや堅苦しいさががまんできなくなり、むしろ現実的な生活のほうが懐かしく思うようになる。
ヴロンスキーはドリーにアンナが離婚をするように説得してくれるように頼む。しかしアンナはドリーに、自分の不幸と、自分の置かれた立場がいかに絶望的かを叫ぶ。
理性があるのだから不幸な子供を産まない、それは理性的な回答かもしれなかったが、ドリーはそれを理解できず、嫌悪感も覚えた。
ドリーは子供が欲しいが経済的にも子供をもてない、しかしアンナは今の状況で子供が欲っしてはいけないという状況というふうにアンナは理解していた。
なかなか難しいところだ。
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