2021/03/12

『アンナ・カレーニナ』4 トルストイ/望月哲男訳 光文社古典新訳文庫

リョービンはオブロンスキーに誘われて仕方なくアンナに会いに行く。そこでリョービンはアンナの女性としての魅力に惹かれていく。そして彼女の境遇をかわしそうだと思うようになる。アンナはリョービンをわざと籠絡しているのだが、リョービンはキティに指摘されるまで気づかない。キティに指摘されリョービンはアンナの誘惑に敗けたことを自覚はするが。
「およそ人間はどんな状況にでも慣れしまえるものだが、まして周囲の人が全部そんな風に暮らしているのだとわかっている場合はなおさらである。」(98)
キティの出産がはじまる。リョービンは理性的に考えれば神を会議するものと考えていたが、そんな判断さえも出産という事件では神に呼びかけることを少しも妨げるものではなかった。
「子供は? どこから、どうして現れたのか? そしていったい何者なのか?……彼はどうしてもわからなかったし、その考えに慣れることもできなかった。子供は何かしら無駄なもの、過剰なものと思われ、長いこと子供の存在に慣れることができなかったのである。」(122)

オブロンスキーはアンナの離婚を成立させるためにカレーニンを訪れる。そこでリディア・イワーノヴナ伯爵夫人とカレーニンの関係を知り、そしてランド―と呼ばれる怪しい占師、もしくは教祖のような存在がこの二人の心を支配していることを知る。キリスト教ではあるが、狂信的な教えのようでカレーニンもリディアも彼の言いなりで、ランド―が離婚を否定した。
アンナはカレーニンを愛しているが、ヴロンスキーを信じることができなかった。ヴロンスキーを冷たい人間であると、そしてアンナの絶望や孤独は全てヴロンスキーのせいにする。そして言い争いになると、アンナは自分を「不誠実な人間よりももとお悪い、心のない人間」と言う。ヴロンスキーはそんなアンナに我慢ができなくなく。
アンナはヴロンスキーの愛を強烈に欲していく。しかしアンナはヴロンスキーには愛がないと感がている。
アンナは自分の置かれた境遇、カレーニンの恥辱、息子の恥辱、そしてヴロンスキーへの復讐をするためには、死を選ぶしかない考えるようになる。
ヴロンスキーはアンナの我儘を極力聞いてあげている。しかしアンナはどんどんと自ら絶望へと走って行く。ヴロンスキーが母のところへ行くのも、ソローキン侯爵夫人の娘に会いに行くのだと思って、彼を追いかける。
鉄道の駅に向かう前にアンナはドリーに会いに行って、すべてを話そうとするしかしそこにキティがいた。アンナは露悪的な態度でドリーとキティに接する。彼女たちはアンナをかわいそうだと思い、同情していく。このあたりですでにアンナとキティたちの立場がまったく別のものになっている。

アンナが死んだあと、リョービンの信仰について書かれていく。
ここにはリョービンが抱えもっている矛盾と調和が書かれる。
善い生き方をしているのはすべて信者であること、そして反宗教的な人は決してリョービンを納得させるようなことを言ってはくれない。
リョービンは「魂のために生きる」ことを言うようになる。
理性には理解できない、理性の外部にあるもの、しかし明確な認識、善は因果の連鎖の外にある。
理性が教えてくれるのは生存競争であり、自分の願望の成就だ。他者を愛せというのは理性からはでてこない。なぜなら不合理だから。理性は傲慢だ。(324)
リョービンはこのような認識を得て、これで自分も変われたと思ったが、実際彼は人にも腹をたてるし、議論もしてしまう。

この時代、露土戦争がおきており、ここでヴロンスキーが志願兵としてセルビアに行くことを愛国的と評価される向きがあったようだが、トルストイはリョービンとシチェルバルツキー老侯爵の口を借りて言う、いつのまにスラブ人であることを求められるようになった、けれども自分にはスラヴ人同胞に興味がなくロシアのことしか興味がわかないと言う。民衆はそれに戦争のことなんか理解していないという。民衆は意志表明をしないし、そもそも何に意思表明をしなければならないかもわかっていないと。(348)
ここでもリョービンは議論に負ける。しかし、それは重要な事ではなかった。議論は理性的な活動的しかないからだ。
キリスト教以外の宗教を信じている者たちは、キリストが教えてくれる最高の恵みを奪われているのだろうか、とリョービンは自らに問う。しかしリョービンはこのような問い自体、多種多様なことに一般的な表現を取り入れることを拒否するようになる。個人としての自分の心に理性では捉えられない知恵をはっきり示してもらっているのもかかわらず、理性と言葉を頼りにしようとしていた。(369)
「これからもおれはこれまでと同じように御者のイワンに腹を立て、同じように議論をとおして場違いなところで自分の意見を述べるだろうし、自分の胸のうちの神聖なるものと他人との間には、たとえ相手が妻であれ、壁があり続けることだろうし、相変わらず自分の恐怖感を妻への非難にすり替えては、それを後悔し、また同じくなんで自分が祈るのか理性で説明できぬまま、祈りつづけることだろう。だが今やおれの生が、おれの生活の全体が、わが身がどうなろうと関係なく、どの一分間をとっても、単にかつてのように無意味でないばかりでなく、疑いようのない善の意味をもっている。しかもその善の意味を自分の生活に付与する力が、おれにあるのだ!」(373)

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